はてなキーワード: 文庫本とは
空は曇っていた。私は傘を持って
出かけるべきかと思ったのだけれど、
増えてしまうために遠慮することにした。
姫路駅まではバスを利用する必要がある。私はその日 8 時 10 分に
私の家から一番近いところにある停留所から出発するバスを待っていた。
待っていたのは私の他にもう一人、ピンク色のTシャツにジーンズが
セシルカットにしていてそれがとても良く似合っている。
彼女は耳に何かを当てて彼氏と思しき人間と喋っているようだった。
形状からしてガラケーだろうか。そう言えば最近はまたガラケーの出荷台数が
増えつつあるらしいな……そう思いながらバスを待っていた。
私とその女の子は姫路行きのバスに乗る。先にバスに乗ったのは彼女の方で、
私はすぐ後部の座席に座ったのだけど彼女はケータイを離そうとしない。
バスの中ではマナーモードに切り替えた上で通話はご遠慮下さいという
放送が流れているのにもかかわらず……。長引くなら注意しなければならない。
バスは発車した。がくんと小さくバスが揺れて、徐々にスピードを
川べりを通過すると川を挟んだ向こう側に立っている喬木が
風を受けて少し揺れているのに気がついた。曇り空のせいか
日が当たらないので黒く染まってしまったように見える喬木は、
落とした。私のところまで転がってきたのでそれを拾う。
それはサザエだった。
訝しく思う私に向かって彼女は言った。
ごめんなさい。
分かりました。
これ、彼氏専用のケータイなんです。彼氏は去年の冬に海で溺れて
死んじゃいました。これでないと彼氏と連絡が取れないんです。
そして彼女は、再び前を向いた。
泣いているように見えたが気のせいだったのかもしれない。
文庫本を何冊か買った。充実した一日だったと言えるだろう。
まずは手紙を送って下さったことに感謝します。あなたは聞き飽きた
ことでしょうが、この世の中ではたとえそれが望まない形で絶縁することに
なろうと知り合う方は限られていますし、あなたの方からこうして
不意に(前は一日に五十通もの手紙を送って下さっていたと記憶していますが)
ちなみに五十通の手紙はどれも一行しか殴り書きがしていなかったので、
後でメッセージを全部部屋に並べて繋げないと意図が分からないので
苦労しましたけれど、それも懐かしい思い出です。
ただ、相変わらず変わっていないなと呆れるのは、葉書がないからといって
適当なものに文字を殴り書きして切手を貼って送るあなたの非常識です。
団扇やスルメや読み終わった太宰治の文庫本のカヴァーに切手を貼って送って来る
なんていうのはまだまだ常識的な判断なのではないかとさえ最近は思えるようになってきました。
サンドペーパーに切手を貼って送ってくるなんてのはドゥルッティ・コラムの真似事でしょうか。
おかげであなたの手紙と一緒に配達された手紙はさぞかし傷ついただろうと私が傷つきましたよ。
それにレタスやキャベツの葉っぱ、あるいは私が大好物だからといって鮭の皮に切手を
貼って送るのも止めていただきたい。夏場は特にそうです。まだ食べ終わったばかりのスイカの皮に
殴り書きなんて嫌がらせですか。おかげで他のダイレクトメールが汁でベトベトになったので
読まずに捨てました。あなたのそういう無神経な所が嫌なのです。せめてアンデスメロンの
皮にして欲しい。以前に言い合いになったけれど、メロンの皮のほうが私にはより
さて、あなたが送って下さったサロンパスですが一体何が書いてあったのか例によって
分かりませんでした。ですので肩が凝ったのでそのサロンパスを使わせてもらっています。
今から彼女を風呂で洗ってあげなければいけない。差し当たり私の方から伝えたいのはそれだけです。
年収も仕事も特に変わったところもないし、身体だけは相変わらず丈夫でいます。
何も心配されることはないので喜んで下さい。それでは来世で会いましょう。
朝、子供と嫁が買い物に行ったのを見届けて
金夜は飲み会だったらしいので
おそらくまだ寝てるだろう。
合鍵を使って布団にもぐりこみ
イチャイチャした後、
昼過ぎまで一緒にうたた寝。
やっぱり彼女は美しいなと思いながら、
タンメンをすする。
16時には向こうの家を出た。
成城石井に寄って2000円くらいの
スパークリングワインと生ハムを買う。
文庫本の新刊を買う。
家に着くと嫁はもう帰ってきていた。
「おかえり。出かけてたんだ?」と聞かれ
と答える。
夕飯は煮込みハンバーグだった。
食後は買ってきたバーゲンの服を
娘がファッションショーのように色々と
着替えて見せてくれた。
来ているが、既読にはしない。
嫁と娘が風呂に入っている間に、
「飲み過ぎちゃ駄目だよ」と
スグに返事が来た。
その後、2~3通やり取りして、
布団の中で昼間買った本を読んで
2時ごろに寝た。
まぁパッと見は、香港やマカオや台湾とたいして変わらないような気もしたのですが、「うへぇ…やっぱりここは中国本土だな!」と思うことがあったので、思いつくままに書いてみます。
X線検査でカバンの中の書籍(本)を目ざとく見つけられ「ちょっと本を見せろ」と。
すべて日本語の本(単行本やら文庫本やらガイドブックやら)だったですが、全部全ページパラパラめくってチェックされました。政治的に反中的な本とか雑誌だったら、没収されてたんでしょうかね。やっぱり言論の自由はないみたいです。
イミグレーション(入国審査)通過したあとの税関検査なんて、だいたいどこの国もテキトーな感じでフリーパス状態だったので、中国もやる気のない税関職員が突っ立ってるだけだろうと思って余裕ぶっこいていたので、びっくりしました。なまじ中国に関係のある本を持って行かなくて良かったです。
駅からタクシーに乗ろうとしたら、ほとんどのお客さんが真っ先に助手席に座ってんですよ、1人客なら助手席、2人客なら後部座席、3人以上なら前後座席って感じで。
運転手と客1人の状況で、前と後ろに別れて乗るのは気まずいからなんだろうか。いや、知らないもの人間同士で狭い車内で隣同士っていうのも気まずいような。
んでまぁ自分もローカル・ルールにしたがって、タクシーの助手席に座ってみたんですが、別に気まずくはなかったです。むしろ地図を見せながら目的地を説明するには、便利っちゃ便利。景色もよく見えるし。日本でやったら変人扱いでしょうけど。
ホテルの部屋でwifiにつながっても、googleにはつながりません。かなりイライラします。むしろ、これほどまでに無意識のうちにgoogleに依存していたのか思い知らされます。
【4.デポジットのお金は、まさに預けたお札がそのまま戻ってくる】
博物館で日本語オーディオガイドを借りたら、デポジット(保証金)100元だっていうんで、100元札渡したんですよ。そんで預り証をくれたんですが、係員のお姉さんが「この番号を確認して、OKならサインを」とかなんとか言ってきた。
4桁の番号が書いてあるんだけど、なんだかよくわからない。「なに?なんの番号?パスポート番号??」って聞いたら、なんと保証金の100元の”お札の番号 下4ケタ”だという。デポジットとして渡したお札の番号を確かめろと。
つまり、「保証金の100元はお返しします」じゃなくて「保証金の”100元札”はお返しします」というわけ。預かったお金を偽札にすり替える詐欺でも流行ったんだろうか。そうじゃなきゃお札の番号なんて普通気にしないぞ。
いや、日本があまりに安全で偽札犯罪が少ないからそうなだけで、外国じゃそこまで疑ってかかるのが普通なのかも?とちょっと自分の常識を疑ってみたり。
http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/01/03/002312
これ、男女逆にしたらどんな感じになるんだろうってずっと考えてたし、ブコメにもそうした意見が散見されてたんだけど、たぶん違う。この不快な感じを翻訳すると、
「一流大卒の僕たちが高卒の君たちに読んでほしい、本当におもしろい文庫本。ラノベだけじゃつまらない」
だと思った。
リンク先の件、構図としては「君たちよりも本について詳しい僕たちが、それを知らないだろう女子に教えてあげる」ということになる。で、それは販促の一貫としておこなわれている。ここには二重三重のズレがあって、まず紹介する側の優位性を微塵も疑っていない点。店員は扱っている商品に関して客よりも詳しい、という前提が成立するのなら、おすすめする行為自体はまったく問題がない。問題はなぜ「男子」「女子」という概念を絡めてしまったのかということだ。
フェミニズムについてはあまり詳しくないが、現実的な効用としてめざすところは、女性が女性であることにより、あるいは男性が男性であることにより生じる不自由さ、不利益みたいなものからの解放だと思う。それゆえにフェミニストは、現実に存在する社会的制度の性差別について告発するのだと思うが、ここではひとまずそれは関係ない。仮にだが、男女の区別について、肉体的な差異以外のすべてが完全に撤廃された社会を想定する。思考、行動のあらゆる様式に違いはないとする。となると、男性向け、女性向けということにまったく意味はない。男子が女子に読んでほしいと思うことも、その逆もない。
逆に考えれば、リンク先の販促を打った人は「男女の違いに意味はある」と考えたわけだ。考えるまでもなく無意識にそう信じ込んでいた。そしてその「違い」はああいう結果となった。もしバイトがなにも考えずに作ったコーナーであろうとも、まったく効果がない、あるいは悪い結果を招くと思えばそもそもああいうかたちの販促にはならない。なんらかの効果があると考えたわけだ。本について詳しい書店員の男子が「村上春樹や東野圭吾しか読まないような女子」に読んでほしいという切り口でいけば「なら読んでみようかな」と思う人もいるだろうと、そう考えた。つまり「詳しい」男子が「無知な」女子にすすめるということ、その優劣を受け入れる「女子」とやらがいるだろうと判断したことが根深い問題点だ。実際にいるかどうかの問題ではない。男女が平等である「べき」だという建前に反しているから問題なのだ。逆にいえば、社会的総意として「女に教育はいらない」「女は文学がファッションのかたちをまとって流通している本とか読むのがせいぜい」という価値観がまかりとおっていて、どこからも疑念が発生しないような状況であれば、この販促にはなんの問題もない(個人的には問題大ありだと思うが、単なる理屈の話だ)。
さらにいえば、現実に男女が完全に平等であるなら、この販促はだれにとっても意味が不明である。「男子が女子におすすめする」という概念そのものがまったく意味をなさないからだ。しかし現実には不平等は存在する。このへんは、男性の性的欲望という暴力と、男女における非対称性を認められるかどうかがすべてで、そんなものは存在しない、あるいは男性の欲望の形式がこうである以上どうしようもない、というのであれば、不平等の根幹が見えないことになる。それらの人たちにとっては、目に見える不平等だけがすべてとなる。まあ何度も繰り返された議論だろう。この販促が議論を呼びうるという事実そのものが不平等の存在の証明だといってもいい。もっと根拠の不明瞭なもの、たとえば「O型がA型におすすめする本」だとか「蟹座がMN式血液型のMNs型の人におすすめする本」だと、もうだれにも意味はわからない。叩く叩かれるの問題ですらなくなる。
話は冒頭に戻る。
このあたりの隠微な差別の存在のしかたが、学歴の問題とわりと似ていると個人的には思った。もっとも、あるランダム選出の集団を、男女の集団に分けた場合と、学歴別に分けた場合で、読書量に統計的に有意な差が出るのは後者のほうではあるだろう。ひょっとしたら男女別の場合でもそういう傾向が出る可能性はゼロではないが、この場合、この場合、現実がどうこういう問題ではない。高卒だろうが女性だろうが、読む人は読む。また、読んでいないと決めつけて、その格差の構造をそのまま販促に活用するようなやりかたは、さしあたって、現在の日本では「まちがっている」と断言してもかまわないだろう。
言ってることがめちゃくちゃだよお。何もしかして紀伊国屋の関係者なの?
そもそも女に物を売り込むためにモテを持ち出してる時点でそれはダサピンクの変奏でしかないし(トレンドアイテムとして本を買わせようというのが既に正気の沙汰ではない)、ポップが「誰にモテるかって?もちろんボク(ら)にさ!」みたいな下心が丸出しでアホの上塗りだよお。責めるなったって褒めるとこがないよお。
少なくとも文庫本買う女は買う気無くすしSF読む男は女に飢えてて自分の好みの萌え要素を他人に押し付けることに抵抗感がないキャラに仕立てられつつあるんだけど本当にいったい誰が得するんだよお。本屋でさえツイートの二三発で炎上騒ぎで全然得してないっていうのによお。
本のチョイスが適切だ?むしろ本に対する風評被害に近いのでは?
あのフェアに愛読書並んでたらへこむわ。
5つ星のもののリストとしていますが、正確には5つ星で、レビュー数が3以上のもののリストです。
レビュー数が1件、2件で5つ星のものがあるのは除外しています。
初版、改訂版、文庫本など複数の版がある場合はなるべくレビュー数の多い物だったか、
なるべく初版に近い方だったかを基準にしたような気がしますが、
ややうろ覚えで自信はありません。
漫画、ライトノベルなどの続き物で巻数の指定のない場合は第1巻で判断しています。
同じ本を挙げている方が複数いる場合は、先にコメントされた方のコメントにリンクするようにしようと思ったのですが、
途中グチャグチャになったので多分間違っているところがあります。
1065冊確認した中で4.5以上の評価のものは429冊。ちょっとフィルタリング結果が多くなり過ぎと判断して、5つ星以上に限定しています。
評価は星の画像で判断しているので0.5星ステップ。0.1星ステップの評価がテキストで書かれているのには今日気が付きました。
星4.5と、星5の面白さに差があるとも思えないので、
星でフィルタリングせずに、単にジャンル分けだけするというのもひとつの手だったかもしれません。
1000冊以上の本の評価を確認するというのは大変ではありましたが(手動でやってます)、
普段触れる機会のないジャンルの本に触れられて楽しい経験でもありました。
中村文則は人に進められて「掏摸」を読んでから文庫本を買いあさり、出てる文庫本をこの本で全部読み切った。「楽園」は単行本で読んで失望した。
まず主人公が暗い。
大体が人間失格の葉ちゃんくらい暗い。
自分は世界の後ろ暗い部分、間違った部分、善良な人間に顔向けできない部分に属していることを自覚してうだうだ悩んでいる。
その理由はいろいろあるけれども、生まれつきだったり環境だったり衝撃的な体験の影響で、汚れたり変わってしまったり、あるいは自分は本質的に邪悪なのではないかと考えたりしているのだ。
その結果人を殺したくなったり、自分は人を殺したいのではないかと考えたり、殺したり、こんな自分は死んだほうがいいのではないかと考えたりしている。
最近の作品の傾向と思いきや、デビュー作の「銃」も警察に追い詰められていくサスペンス調の展開なのでこの作者の本来の持ち味なのだろう。
物語は常に暗い影がつきまとう陰鬱な展開のもとに進んでいくので、読んでいるとバッドエンドにたどり着くことしか考えられなくなってくる。
しかしたどり着く結末は明るい。
どちらかと言うとドブの中で前向きに進んでいこう、自分はどうしようもないクズでもそれでも生きていこう。物語はそんな終わり方をする。
(たまに破滅的でどうしようもない終わり方をするのが混じっているのでそれにあたっても文句は言わないで下さい)
「悪と仮面のルール」は話題になった掏摸の次に書かれた小説だが、
今書いた特徴全てに当てはまる、典型的な中村文則の小説といっていい。
・主人公は11才の時に頭のおかしい父親に世界に悪いことを為す存在「邪」になるように育て、14歳で地獄を見せると脅かされる。
・それ(地獄)に利用するために一緒に育てられた少女を守るために13才で父親を殺す。
・数年後、顔と身分を変えた主人公は探偵を使って現在の少女を探しだすが、大人になった彼女に対してなぜか悪の手が次々と降りかかるので父親と同じように殺す。
もちろん他にもいろいろあって、と言うか登場人物がちょっと多すぎるくらい居てそれぞれと主人公の関係性で話が展開する。
整形外科とのくだりだとかは結構好きだ。しかし人物が多すぎて少し掘り下げが散漫になっているのは間違いない。
で、何がラノベなのかというと作者が巻末にも書いている
これはまずい。
こういうやり方は人間を書く方法論じゃない。なのでこれでは文学ではない。
実際に存在しない物を物語世界に持ち込むことはこれまでもいろんな人にやられているし、それが物理法則とかであれば別に問題ない。
しかし、「人間の心に関わる法則」を「これはこういう世界ですよ」という形で物語世界に持ち込むのはレッドカードだろう。
そういうふうにすると、作者が登場人物を人間としてではなく人形として描くことになる。
それではキャラクターだ。なのでキャラクターを描くことに注力しているラノベに類似点を見出してしまった。
あと人間に関する法則を作者が作って世界観とする作品として真っ先に「ひぐらしのなく頃に」を思い出してしまったということもある。(ラノベじゃないかな)
俺的には最後まで読み終わってあとがきを読んで、「ああこれはラノベだったのか。」と腑に落ちた。
この作者は基本的に真面目な話ばかり真面目に書いているが、短編の「ゴミ屋敷」だとか「戦争日和」、あとこの「悪と仮面のルール」に出てくるテログループJLの活動みたいに、不条理なブラックユーモアを全面に出したラノベチックな長編作品が読みたい。
紙の本で小説や漫画を読むとき、紙の質感とともに物語が記憶される。
新しいジーンズで世界の座り心地がかわり、音楽を聞きながら読んだ漫画のテーマソングがその音楽で記憶されるのと同じで、ザラザラしたあるいはスベスベした紙の質感は本の思い出を強いものにしてくれる。
でもね諸君。あたしはおんなじ理由で電子書籍もすごく好きなんだ。ツルツルとしたまったく同じ触感・同じ重さのままページを繰っていくとたぶんその小説や漫画に余計な記憶を付与せずに純粋に物語として記憶できるんじゃないかって思えるからなんだ。
一方であたしは紙の本に恐怖する。あたしの家はとても狭いのだけれど本棚には本がびっしり詰まっていていつ床が抜けてもおかしくないし、地震があればお気に入りの本に頭をつぶされて死ぬと思う。人によってはその死に方は本読みとして本望だねって言うだろうけどあたしはちょっとご遠慮したい。
そしてまた一方であたしは電子書籍に恐怖する。ジーンズの尻ポケットに文庫本は1冊しか入らないけど、iPhoneならクラウド越しに数百万冊の本とつながっていられる。本を持っていられるという多幸感とともに、圧倒的な絶望も背負う。クラウドの向こうの数百万冊の本はあたしが絶対に読み切れない量の本があるってことを常に示し続ける。読んでない本があるってことをいやおうなしに感じながらこの人生を終え死んでいくってことだ。これほどつらいことはない。
親は教育熱心なひとで、物心ついたときから近所の公立図書館に連れられて育った。
一方、実質母子家庭のような家庭環境で、そこまで裕福でもなかったうえに、完璧主義者の母親であったので、自分でお小遣いをもらって好きなものを買うという環境でもなかった。
母については、わたしたちのために苦労してきたのだなと申し訳なく思うし他にも色々思うところはあるのだけれども、それは本題ではないのでここには書かない。
とにかく、娯楽のない状況だったので、図書館で本を借りるか、サンテレビの野球中継を見るかくらいしかお金のかからない趣味はなかった。友達に漫画を貸してもらったりもしたけれども。正直、そのことをさして不満にも思わなかった。
(我が家にお小遣い制度というものはなく、欲しいものがあればその都度申告して買ってもらうという方式だった。本だけは何も文句を言われなかった。ありがたいことだと思うけれども、正直この制度は欠点も多いなと思っていて、わたしは今でも本なら自分で選んで買うことができるのに、服を自分で選ぶことができない。いつかお金持ちになったら、ドンキでいいなと思った雑貨を罪悪感を抱くことなく好きなだけ買いたい)
持てる限りの記憶力をハリー・ポッターの登場人物のプロフィールと呪文の暗記に注ぎ込んだ小学時代。はやみねかおるも好きで、小学6年生のとき図書室で『踊る夜光怪人』を見つけて、この世にこんな面白い本があるんだと思った。
中学生のころに森博嗣を好きになり、京極夏彦や西尾維新を夢中になって読んだ。今思えば、お前森博嗣とか大してよくわかりもしないまま読んでただろという感じだし、今でもだいぶわかってないと思うんだけどさ。荻原規子も茅田砂胡も乙一も島田荘司も恩田陸も読んだ。辻村深月が大好きだった。とにかく、中学高校時代と、講談社ノベルスに関わりのありそうな本はたいがい手を出した。近所の公民館でパソコンスペースがあったので、時間があるときにはハリポタやダレン・シャンのイラストや考察サイトをめぐって過ごした。
高校生の頃『活字倶楽部』という雑誌をたまたま見つけ、そこで『銀河英雄伝説』という小説があることを知った。当時は絶版だったので、近所の図書館の地下書庫から出してもらって一気読みした。そのままの勢いで友人に「とにかく、最初の20ページは飛ばしてもいいから読め! 2巻までは読め!」とすすめた。銀英伝が好きすぎて、その夏にすくってきた金魚すくいの金魚たちに提督たちの名前をつけた。
「おかあさん、ヤンが死んでる!」
ちなみに銀英伝ではないが「巽」と名づけた金魚もすぐに死んでしまった。今の実家では、フリッツとオスカーとアーダルベルトだけが生きているんだけれども、どの金魚もそろそろ寿命という感じだ。
進学させてもらって、大学生になってからはもう少し色々読んだ。
際立った傑作というのはない気がするんだけれども、カポーティが一番好きだ(正直『冷血』は好きじゃないしもっと彼らしい作品があるだろうと思う。ちくまから出ている短篇集がいちばん好き)。サリンジャーも好きだし、4月に亡くなってしまったけれどアリステア・マクラウドという作家がもっと知られたら良いのにと思う。
3年ほど前、人生で読める本は限られているなということに気付いて、それからは注意深く本を選ぶことにしている。最近好きなのは皆川博子と津村記久子とコナン・ドイルだけど、だから何だというわけでもない。
そんなわたしも、四捨五入してもう30という年になってしまった。
好みのタイプは?という話題になり「本が好きで穏やかで裏表があんまない誠実なひとがいいな」と答えたら「聖☆おにいさんのブッダでいいんじゃね?」と返され、
「ルーピンは現実にいねーんだよ」と別の友人に説教され、正直今に至るまで毎日小説のことばっかり考えてて自分あたまおかしいんじゃないかなって思う。
これはただの、本を読むくらいしか趣味のなかった女の回想みたいなもので、なんのオチがあるわけでもない。
ただ、わたしは毎日ばかみたいに小説のこと――主に、その登場人物のことばかり考えながら生きている。
腐った妄想をしているわけでもなく、『白鳥異伝』の菅流かっこいいよなあ、とか考えながら生きている。
ハリー・ポッターの本命キャラが殺されたことを未だにねちねち言う。
島田荘司の作風の変化を残念に思い、既刊を全部読むのが勿体無くて法月綸太郎をちびちびと読む。
ちなみに、こんな感じの人間だったので、高校途中まではオタク仲間とつるんでいたんだけれども、一番好きなジャンルが違ったので在学中から疎遠になった。同じように本が好きな友人が1、2人いるので、彼女たちとは今でもよく話す。それは幸福なことだと思う。正直、他にも同じような本の趣味をしている同級生はいたし、当時はよくその話をした。ただ、彼女たちがわたしと同じように、未だに毎日現実かそれより重いレベルで小説の登場人物について考えているとは到底思えないので、積極的に連絡をとろうとは思わないし、話題が切り出せない。自意識過剰なんだろうけど、そんなふうに、未だに地に足を十分つけるわけでもなくふらふらしている自分をときどき怖く思う。
ジャンルを変えればどこにでもごろごろしている話なんだとはわかっている。長い上に固有名詞がだらだら出てきていやみったらしいのはわかっている。
追記:
ブコメありがとうございます。正直コメントがついたとしても「キャラ読みしかしてない腐女子」的なことしか言われないかなと思っていたので、共感してくださる方がいてびっくりしています。本当に、子どもに本ばっかり読ませても、子どもの性格によっちゃ、いつまでもこんな感じで現実に地に足つかない感じになる可能性もあるわけで、何事もほどほどが一番だと思います。黒出目金のジークフリードは早いうちに昇天し、コメットのフリッツは年をとってだいぶ動きが緩慢になってきました。
この世代のオタクの女の子には、アニメではなく講談社ノベルスや電撃、角川某レーベル系の文庫本、その他とにかく面白そうな小説を読んで、感想をお互いに共有しながら育ってきた子がいるのだということを少しでも知っていただけるとうれしいです。ミステリ界隈ではキャラ萌えだろうとよく批判されますが、みんな各々好きな読み方をして、好きな作家の新刊は未だに追いながらも、各々それなりに幅広く読んでいる感じです。今でも。すいませんだらだらと。
反論とかじゃないんだけど、たまに批判に対してだったらお前が作ってみろという反論をしているのを見ると、ちょっと残念な気分になる。
批判も称賛も批評の一形態に過ぎず、私は称賛しか受け付けませんというのはあまりにムシが良すぎる。
批判に対して「お前が~」という言を投げつけるのは、自分からすると同時に称賛に対しても投げつけることをも意味する。
批評を否定するのであれば、表現をすること自体の意味性が失われることとイコールなので、表現者としては自殺だろう、と。
同業者だけを相手にするのであれば、本来の意味での「同人誌」を刊行したほうがいい。
具体名を挙げると差し支えるので伏せるが、最近漫画が実写映画化された人が文庫本のあとがきでそのようなことを書いててぐんにょりした。
僕はいくつか空いていた優先席の1つに腰掛け、本を読んでいた。
しばらくすると、突然くぐもった男の人の大きな声で
「ペースメーカーが入っています!携帯を使わないでください!」
と聞こえ、驚いた僕は本を落としてしまった。
顔を上げると、初老の男の人が胸を押さえてハァハァと息を切らしながら、
向かいの席に座っていた青年にスマホの使用を止める様に訴えていた。
周囲の人も「え?なになに?」と顔を見合わせ、
言われたであろう青年はバツが悪そうに携帯(スマホ)をしまった。
次の駅に着く。乗り込んできた人の内、数人はスマホをいじっている。
当たり前だ。今の日本でスマホをいじっている乗客がいない電車なんてありえない。
するとまたその男性は、
「携帯を使わないでください!以前倒れたことがあります!」と、
なにやら証明書のようなカードをホラ、ホラと言わんばかりに周囲に見せていた。
僕はなんだかなぁ。と居たたまれない気持ちで、特に携帯を使っていないにも関わらず、
その席を離れた。それ以上そこにいたくなかったから。
僕は以前からこの手の話に興味があり、自分なりに調べたことがあった。
その時に得た情報に拠れば、以前の携帯電話(所謂movaなど2Gと呼ばれた携帯)で
使用されていた電波には微弱ではあるが、ペースメーカーへの影響が認められていた。
という車内アナウンスが聞かれたのもこの頃だ。
それは何故か。
現在使用されている携帯電波(3G、4GLTE)の電波、またはモバイルWifi等の電波は、
ペースメーカーへの影響が認められていないからである。これは、
現行で使用されているペースメーカーに対して行われた検証に基づく結果であり、
更に言えば、過去の実例(携帯が2G以前の時代も含む)で、携帯の電波が原因で起こった
気分が悪くなった。という例はあったものの、『倒れた』等の重大な事故もないのである。
そういったことを知っていたからこそ、僕はその初老の男性が哀れに思えて仕方がなかった。
「倒れたことがある」と言う話は恐らく作り話であるし、嘘つき、とまでは言わないが、
胸を押さえて苦しそうにするのも「先入観による勘違い」に過ぎないと思ったからだ。
一方で、彼のような人を作り出しているのは鉄道会社各社をはじめとする社会では?とも思う。
いつまでも必要以上に車内での携帯電話の使用を制限することによって、
こういった人たちに必要以上の恐怖を与えていることは、否めないんじゃないだろうか。
通話の問題は別として、今この時代に車内の携帯電話使用を制限する明確な理由はあるのだろうか。
確かに、僕自身も電車内の人が一様にスマホをいじっている光景を見て、異様に思うことはある。
しかし一昔前(今も一部の人では)はそれが、新聞や文庫本だっただけであり、それが電子機器になると
アレルギーを感じ、ヒステリーを起こすのは理に適ってないと思う。そういう人に対する、
正しい知識の提供・教育を行わずして進めている昨今の「地下鉄でも電波が入る!」等の
インフラ整備は、こういった問題を助長するだけなのではないだろうか。
時代・人・技術が変わればマナーも変わる。今やらなくてはいけないことは、
平日に休みを取ろうと思っている。何をして過ごそうかな。
午前中こそゴールデンタイムなので、ダラダラと寝坊せずいつも仕事に行く時間に起きて、
仕事に行く用意をして玄関出る直前で「あっ!今日休みだった!」と小芝居してスタートを切りたい。
そのまま通勤電車に乗り込み、平日しか食べられないパン屋のモーニングにでも行きたいな。
メニューもいくつかあるみたいなので今からどれを選ぶか考えときたいところ。
それから公園に行き、陽が高くなるまでビールを飲みながら日光浴でもしようかな。
二時間ぐらいで読める文庫本を本屋で買って日陰で読むのも良さそうだ。
そこからブラブラと買い物に行き、昼も平日しか食べれないものを探して食べよう。
15時ぐらいまで外で過ごしたらデパ地下で晩酌の惣菜などを買って帰ろう。
家に帰ったらゲームやネットをして過ごして、腹が減ったら飲んでメシを食って風呂に入ろう。
お湯をためて入り、水シャワーをして上がるんだ。そして仕上げのビール。
はー!楽しそう!
同グループの仲の良い男女同士が「1年で一番キモいやつは誰か」について話していた。なぜだかは知らない。
話があっちこっちに行ったり来たりしながらも
その中のひとりが「やっぱさ、一番キモいのは◯◯じゃね?!ww」と、いきなり大きな声で言った。
◯◯くんが同じ教室にいたの知っていたはずなのに。
他の一人が「おい聞いてんだろ、やめろよ」って制した。その顔も笑っていた。
◯◯くんは何の反応も見せずに、文庫本を読み続けていた。
いくらその背中を眺めつづけてみても、彼の心情を読み取ることはできなかった。
とにかくそういう話を嬉々としてするあいつらのことが僕は大嫌いで だがしかし正面切って「そんなこと言っちゃダメだよ」と言う勇気もなく
そこに目をつぶって彼らに迎合する気なんかは毛頭なく
「こいつらと仲良くなるのはやめとこ……」と内心思いながらあいつらをさりげなく避けながら
ちっちゃくちっちゃく、やっていくんでしょうな。だってそうすることしかできないから。
せいぜい、悪口グループの奴らが見ていないところで
「そんなこと言われても気にするなよ」って彼を慰めることが精一杯だろう。その必要があるかどうかは別として。
しかし、
アニメを見そうな風貌だと評されるのですがドラえもんやサザエさん等しか視聴した経験がありません。
いわゆる「アニメ」では、まず何を見ておけば間違いないでしょうか。
パソコンについても、文章作成ソフト、表計算ソフト、プレゼンテーションソフト等の
授業で扱われたアプリケーションソフトに関しては人並みに使用できるとは思うのですが、
隣席のクラスメイトが授業中に得意げに見せていた「プログラミング」に関して
概念は理解したつもりなのですが、実際に取り組むに至りません。
何から始めれば間違いないでしょうか。
休み時間に自分の机で独り文庫本を読んでいるクラスメイトがいるのですが、
少し検索をしてみると大変奥深い世界だということは察しました。
何から読めば間違いないでしょうか。
邦楽ですが、疎いです。
何から聴けば間違いないでしょうか。
学校の勉強は出された課題をすればよいだけなのでよっぽど楽です。
人は死んだらどうなるのでしょうか。
素人にはわからないので、理研側も早大も実態について説明すべきだ。(報道されたが俺が見てないだけかもしれないが)
大学で研究職についてた知人に聞いたが今回の話はぶったまげて笑うことさえ出来なかったという風だった。
ミスで違う画像を載せたり、記事を転用したりということが出来てしまうということが驚き以上愕然としかできない。
研究職の方にとって論文は走り書きのメモ帳のいう認識しかないのか?と思ってしまう。一般民間企業ならエビデンスも納品物の1つだ。違った画像を出したものなら下手すれば信用問題。払ってもらえるものも頂けないことになる。
チーム組んでやるなら仲間にチェックしてもらう、レビューしてもらうということはやらないのか?と思う。
六法全書のような厚みなら一気読みはできないだろうが、少し厚い文庫本を読む程度なら頼み込んででもチェックしてもらうべきではないのか?と思う。
30半ばだけど、今、小説を書いている。別に新人賞に応募するとかそういうことを考えている訳ではないのだけど、思う所あって書き始めた。ところが、これが書けない。書いているととっ散らかっちゃうし、書き上げても、自分でもつまんないなーとか思っちゃうほど。
小さい頃から本は好きでそれなりに読んでいて、高校からは本格的に文庫本にのめり込む日々だった。高校の頃も小説を書いていたけど、書き始めるとまとまらなくて、自分にはそういう才能はないんだと思っていた。それでも、人によってはおもしろがってもらえたり、大学時代には教授から小説を書けと言われていたり、その後も見識ある人から才能があると言われていたり、周囲からはそれなりに評価されていた。ただ、それでも書けない。執筆の核になるものが根本的に欠落していた。
一方、大学時代のある知人について思い出す事がある。特に仲良くしていた訳でもないけど、会えばお喋りするくらい人がいた。明るくて元気な人だったけど、彼は特に頭がいいとも、才能があるとも思っていなかった。どっちかと言えば、学業成績は酷い人で、未だに風俗に行っていた時のバカ話を思い出すくらい。どこにでもいる気に良い兄ちゃんといった人だった。
ところが、十数年経って知ったのだけど、今や演劇分野で俳優や演出家として大成功していて、その分野の人からはあこがれの人みたい。まさかあの彼が、と思ってビックリしたけど、ネットにあるインタビューとかを読んでみると、彼は彼なりに昔から演劇に熱中していて、そして今の道があるようで。
こういう地点に来て思うことは、「才能があっても書く内容がないよりは、才能がなくても書く内容のある人の方がよっぽど成功するだろう」ということです。まあ、人生なんて、そんなもの。「才能」なんて、何十年という人生では、とても小さなものだと思うのですよ。
去年の春に、ここで創作脳が治らないってエントリ書いたんです。
http://anond.hatelabo.jp/20130430134002
ここでいろんな意見をもらって、凹んだふりをしたんだけどやっぱり漫画は描かなかったのね。
そんなことをしながらモヤモヤしてる時に、某小説投稿サイトを見つけた。
んで、某サイトの独特なテンプレに初めて触れて、ハマって、俺も書けるんじゃね?って錯覚に陥った。
毎度のことながら、小説を読みながら俺ならこうするのにってネタを「やりたいことリスト」に貯めまくっていた。
iPhoneでメモった「やりたいことリスト」を盛り込みまくってテンプレをなぞりまくって、仕事サボってコツコツ書き溜めて、文庫本一冊分くらいで完結させた。
漫画と違って小説はすぐに形になるからやる気が途切れずにドンドン書けるのが良かった。
そうしたら一週間くらいで感想がポツポツ来るようになって、そのうちランキングに載ったりもしていろんな感想を貰った。
でも、誰かに言われたように妄想脳ではなかった、他人の褌で相撲はしてるし模倣脳だけど。
ただ、自分の創作物に感想を貰うのは死ぬほど気持ちいい、というのに気づけて良かったなぁって思いました。
やっぱり絵を描くのも好きだし、漫画も完成させてみたいなぁ。