はてなキーワード: メインストリームとは
26歳(95年生まれ)だけどオタク差別が社会、特に学校から衰潮していく様をリアルに体感したわ
小学校の時に電車男が大流行して、オタクという概念への認知が生まれた
そしてドラマの舞台であった秋葉原では路上でハルヒダンスを展開するオタクがニュースにもなった
秋葉原+オタク=秋葉系みたいな概念が世間に浸透していった時期だと思う
しかし、中学に上がる前にその秋葉原で秋葉原通り魔事件が起きた
宮崎努ほどではないと思うけど、この時にメディアでは「犯人の加藤はオタクだった」といった報道が展開され、世間でもオタク=危険人物みたいな風潮が強まった
でも、それは大人にとっての世間の話であり当時の小学生達にとってはあまり影響はなかったと思う
むしろ、当時の小学生の間ではおもしろフラッシュ倉庫を起点にフラッシュ動画が流行っていたのでオタク文化のイメージはこれらフラッシュ動画の方に強く影響を受けていたと思う
当時ひぐらしは既に出題編と解答編のテレビアニメは終了していたのだが、ニコ動のMAD動画経由で再びブームに火がついた
そして物語シリーズ、けいおん!、あとやっぱりハルヒも流行った
影の薄い生徒(当時は陰キャは使われてなかった)のみならずクラスの人気者でもこれらのサブカルチャーに親しむ人が増えてきた時期だった
この頃のお昼の放送は
AKB系列、ジャニーズ系列、ボーカロイド、アニソン(主にけいおん!とハルヒ)、いきものがかりその他JPOP……みたいなカオスな曲目だった
けいおん!がオリコン1位をとってMステで紹介されたのもこの頃だった記憶
高校でも相変わらずアニメは盛況でこの時期はマドまぎやSAOを筆頭に後の世まで語られる有名アニメが沢山排出された
またこの頃はスマートフォンが本格的にガラケーからの世代交代を開始した時期とも重なり、俺が高2の頃は既にクラスの過半数がスマートフォンになっていた
みんな暇があったらパズドラやってた
そしてこうしたソシャゲはアニメを見ない人達にアニメキャラへの耐性をつける役割を買ったと思われる
ソシャゲのキャラクターにはいわゆる萌え系のデザインのキャラが少なくなく、アニメを見ない人達もそうしたデザインに自然と親しむ様になった
これはパチンコ好きのヤンキーがエヴァやアクエリオンに抵抗なくなる現象に近いと思う
それを未成年の世界にも引き起こしたのがソーシャルゲームで、現代のアニオタを語る上ではこのソーシャルゲームの影響は無視できないと思ってる
こんな感じで高校までの自分の学生時代を振り返ると、アニメが若者文化のメインストリームにめちゃくちゃ接近してきた時代だったなと思う
今の10代はもっと当たり前にアニメを消費しているので、俺もその感覚を前にすると当惑を隠せなかったりする
単純にキモい奴、暗い奴、ノリが悪い奴を陰キャ、チー牛として差別するだけ
「お前が差別されるのはオタクだからではなく、お前がキモいからだ」という時代の到来は、果たして旧来のオタクが望んだ世界だったのか疑問ではあるけど
衰微と退潮がごちゃ混ぜになって衰潮と書いてしまった……恥ずかしい……
いまもjQueryをWebアプリケーションの大事なライブラリとして使っている会社は少なくないと思う。
jQueryを会社で使っていると何が問題なのかを語っていこう。独断と偏見によるものなので、jQueryを使っていても問題ない会社も当然ある。たとえばペライチのサイトを作る会社とか小規模サイトなんかでは全く問題ない。
採用困難で売り手市場になっている時代、そして「jQueryを触らなければならない環境 vs モダンフロントエンド環境」という選択肢がある中で、あえてjQueryを選ぶフロントエンドエンジニアは少ない。
また、新人はもはやjQueryを学ぶことはない。彼らはES6以降のJavaScript / TypeScriptを書く。よしんばjQueryを学ぶことになった新人がいたとしても、それはただその新人が可哀想なだけで、現役なわけではない。ラガード(遅滞者)の仲間入りをさせているだけだ。新人でもキャリアをデザインできる新人は「jQueryはオワコン」という情報には触れているので、よほど就活で失敗しない限りはjQueryのところにたどり着かなくなっている。
そもそもバックエンドエンジニアでもモダンフロントエンドを書くような環境が増えてきた中で、2世代も前のjQueryだけでアーキテクチャに関する一考もないコードをメンテしなければいけないので、「jQuery」という言葉だけでフロントエンドエンジニアでなくとも入社を避けがちだ。(jQueryでアーキテクチャがしっかりしている可能性は低い。アーキテクチャがしっかりしているならばjQueryに依存しておらず、jQueryに依存していないのであれば簡単にjQueryから脱却できるはずで、簡単にjQueryから脱却できるならもう脱却しているはずだからだ)
メインストリームの部分はほとんどリプレイスが終わっているというでもなく、すべて現役でjQueryなのであれば尚更問題で、誰もメンテしたがらないコードの出来上がりだ。「弊社はCOBOLで書いてます!」とにこやかに言うようなものだ。
(ただし、さすがにjQueryだけでフロントをやっているという会社の求人をほとんど見かけることはない。無意識のスクリーニングで落としているのかもしれない)
jQueryを使っている会社には、フロントエンドエンジニアは一人もいないと言いきってもいいかもしれない。もしくは、今まさにjQueryをやめようとしているか、たまたま入ってきたフロントエンドエンジニアが今まさに辞めようと迷っているかのどれかだ。
「jQueryを使っていました」というエンジニアは、他社からはフロントエンドスキルが0とみなされる。つまり、フロントエンドエンジニアではないという意味だ。jQueryは、jQueryを使っている会社に対してしか武器にならないのだ(逆はできる)
jQueryを書ける人口自体は増えているだろうが、労働市場からは撤退し始めている。昔jQueryを書いていた人材の人数が上限で、そこから新たに学ぶ人の絶対数が減っているため、全体としては減っている。
私もjQueryは以前業務で書いていたが、もう数年書いていない。特にメリットを感じないからだ。遊びで、生のJavaScriptを書くことはある。
jQueryで入社するのは、昔からjQueryを使っている高齢のエンジニアか、なぜかjQueryを学ぶことになってしまった新人である可能性がある。
そのため、需要と供給に応じて、昔いたようなスキルレベルの人を今の市場で見つけようとすると費用がかかってしまう。jQuery書けますという人材が高年齢化しているのだ。そして世継ぎはいない。
リプレイスはハッキリ言って難しい。モダンなフロントエンドを学習するだけでは足りなくて、それを使いこなせた上でしかもjQueryを使用したカオスイベントコードも読めて、そしてアーキテクチャを考えてリプレイスしなければいけない。
時代が下るにつれて、そうしたハイスキル人材はより高価値になっていき、レア度も単価も高くなる。今そういう人を雇うという判断をしない会社が、どうして今後もっとハイスキルの人を雇えようか。
jQueryを使ったサービスがしっかり利益を出している点もリプレイスを難しくしている。全廃もできない。かと言ってコストに見合わなければリプレイスという経営判断も難しい。経営が困難な状態ならより厳しい。
何も理由がなくjQueryを使い続けたいという奇特な人は多くないはずだ。何か理由があってそうなっているわけだ。カッコよく言うと『ナッシュ均衡』という状態だろう。今会社にいる人材もいわゆる『jQuery人材』が多いため、そこを打破するのはとても困難な道だろう。
jQueryから抜け出すには、すでにいる人材がなんとかしてリプレイスするか、外から連れてきて改革するしかない。しかし大抵の場合、既存の従業員にとってはそんな大変なことをするよりも転職したほうが楽な道だ。(もちろん、「jQueryしかなかったサービスをモダンフロントエンドにした」というのが実績としてある人材はかなり魅力的な人材で引くてあまたなことだろう。その意味ではピンチをチャンスに変えるときの『チャンス』ではある)
ReactやVue.jsに変えたいと思ったとして「じゃあお前それですぐに利益出せんのかよ?」と詰められたら、その論争をクリアしてまで変えるのはほとんど無理に近い。通常、リプレイスそれ自体は価値を生み出さない。リプレイス後に運用コストが低下したり、人材獲得がしやすくなるために利益が出るのだ。リプレイスとは長期の投資であるため、短期的には必ず損失になる。経営が困難な状態でリプレイスしようとするのは、生活困窮世帯にリボ払いをやめさせるぐらい難しい。そのため、まず自分が身銭を切ってリプレイスするしかない。そしてリターンがあるかもわからない身銭は切りにくい。そして同僚は容易に『抵抗勢力』になる。
jQueryを今も使っているということは、裏を返せば「これまでリプレイスをしてこなかった」「リプレイスしようとしたが無理だった」という実績にもなる。
jQueryを使っている会社は、昔からあるコードをもとに書いているため、今もES6以前の文法で書いている可能性がある。そうしてどんどんと情報が少なく、古く、現代で通用しにくいものになっていく。
bundlerを使っていない可能性が高いし、もしかするとCI/CDも無いかもしれない。そうすると、モダンなインフラエンジニア(もしくはモダンなインフラ知識のあるエンジニア)がいないかもしれない。SREという概念がないかもしれない。
世間一般から見ると会社の中が古いのだが、古い会社にいると「自分が古い」とはなかなか思えないものだ。太っちょの集まりの中にいたら「自分はそんなに太ってない」と思うのと同じことだ。
すべては憶測なので、実際は違うかもしれない。
さんざんdisってきたが、そもそもjQueryは何も悪くないし、大変優れたライブラリだ。ちょっとしたプロトタイプを作るときには良いものであるかもしれない。しかも今もjQuery自体はメンテされている。そのため、状態管理さえうまくできていればjQueryだろうがなんだろうが問題ない。
問題は、jQueryというライブラリを使ってきた時代からアーキテクチャが前進していない点にある。何年もずっとその状態だということだ。そこを今日に至るまで誰1人として変えられなかったということだ。特に経営陣は何の問題視もしていない可能性が極めて高い。そうした社内のしがらみが反映された結晶体、それが『使用技術: jQuery』という言葉になっているのだと思う。また、ヤバさは、jQueryのバージョンに反比例する。
jQueryを使っているアプリケーションには、jQueryが担保していなかったアーキテクチャ部分に問題があることが多い。また、どこから呼ばれているか誰もわからない複雑なイベント、SPAもクソもないページ遷移ごとのリロード、誰もどこもテストできず、HTMLにベタ書きで書かれたJavaScriptコード、その場しのぎでデタラメに書かれた関数、無視される変数のスコープ、サポートが終わったライブラリ、ドキュメントを見つけるのすら困難なよくわからないライブラリ、高齢者しか知らない伝説の機能・伝説のハック、などもある。これらはモダンフロントエンドではほとんど発生しないものだ。
そのため、一定の基準として「jQueryを使っているかどうか」で、フロントエンドエンジニアとしてのやりがいがあるかどうかを判別できる。
そうして、フロントエンドエンジニアというのはもうjQueryに見向きもしていない。書けるけど書きたくない。パラレルワールドのようなものだ。
そういうようなことを「使用技術: jQuery」という文言から感じ取ってしまうのだ。
(そしてこれは、実際の仕事の中身が違うかどうかは関係ない。jQueryとは、そういうふうなブランドと化しているのだ)
jQueryを使っている会社からしたら「そんなことはわかっている」という部分で、「じゃあどうすればいいのか?」という部分が気になるところだと思う。
そこで、後編では「どうやってjQueryを全廃すればいいのか?」「実際にどのように全廃したのかの事例」について、だいたい来週ぐらいに書くつもりだ。
お楽しみに!
もちろん戦後の天皇制の維持に関する点で出てきたように覚えている。
子どもながらに、天皇がいようといまいと、日本の土地があり、そこに日本人が住んでいて、生活をするのであれば、天皇制が続こうが続くまいが、そんなに市井の人には関係ないのではと思った気がする。
なんとも腑に落ちない国体について、京大の友人に尋ねてみた。彼女は言った。
「もし明日から強制的に東大の全職員と学生が京大に異動となり、京大の全職員と学生が東大に異動したらどうなると思う?」
「うーん、研究するのも教育するのも結局は人だから、京大は東大っぽくなるし、東大は京大っぽくなるんじゃない?」
「うーん、人が中心って言ったけど、安田講堂や赤門だったり、キャンパス周辺のお店やこれまでの歴史もいろいろ含んで東大って感じだから、京大にある東大が東大かと言われれば微妙な気がするなぁ」
「そうだね、東大にある京大っぽいものも京大とは言い切れないよね」
「今回の場合はキャンパスや建物、周辺の雰囲気が東大や京大っぽさを意味づけするものとして機能してるわけ。だから、京都にある東大はこれまでの東大とはほぼ同じなんだけど、連続的に繋がっているものか?と言われるとなかなか悩ましいね。それの国バージョンが国体。」
「あーなんかわかってきた」
「当時、大日本帝国と戦後の日本を連続的なものだとみんなが捉えられるものが必要だったわけで、そのマクガフィンが天皇制だったって考えると理解しやすい」
「なるほどなー、日本はこれまで長い間、天皇の輔弼機関が実質的な国家運営者という歴史があるし、そうすることで政府の正統性が保たれるってわけね」
「その通り。まぁ、専門家から言わせるとこんな雑な話じゃないだろうけど、異なるものを連続的に繋がっていると錯覚させるための何か、みたいな理解でいいんじゃない?京大生がわざとアホなことやるのもアホなことをやる京大生という歴史を引き継いだ我らこそ正統な京大生ですよってイキってるわけ」
「あ~東大生がやたら東大ブランドを使って本を出版したがるようなもんね。」
「そうそう、我こそは東大生なり~ってやってるわけよ。当時の日本は我こそは日本なり~ってやるための天皇制維持だったってこと。」
で、ふと思ったんだけど、お笑い第7世代とかそういうのも同じなんだな、と気づいた。
もちろん霜降り明星のせいやが冗談で言ったのが広まったというのもあるけど、
そこには我こそはお笑いメインストリームの後継者なり~っていう宣言だったわけ。
もちろんお笑いの場合は天皇制のような聖杯はないので、有吉のようなどう位置づけたらいいのかわからない人もたくさんいるし、
言ったモン勝ちなところがあって、結果として機能している。
会社でもそういうところあるな。
花とゆめは元より少女漫画のメインストリームからは外れる異色な雑誌と言われてたが、それはそれとして結構な割合のオタク女性がジャンプなどの少年漫画を愛読し新書館系のアクションとかファンタジーもある漫画が好きで「少女漫画はつまらない」って言うの、この恋愛漫画こそが少女漫画っていう読者たちのせいじゃねえかな。
私は子供の頃からりぼんとかなかよしとか大嫌いで、ぐだった恋愛ばっかの漫画でつまんないってずっと思ってた。
花とゆめはスケバン刑事とかブルーソネットとかあってよかった。ウィングスやノーラもジェンダーフリーな感じがよかった。(年寄り)
そのうちガチでジャンプやサンデー、青年漫画で面白そうなのの単行本買うようになったし、花ゆめはそのうち少女漫画っぽい漫画が増えて読まなくなった。
元記事は証拠や語録収集に寄っていて落としている悪行がかなりあるので尻馬に乗って勝手に付足し。
https://note.com/osamu_iga/n/nd17e78fe4a1b
国内で市中感染が始まった2020年2~3月の行政検査数は僅か数件~30件程度/日で帰国者以外の検査は拒否されていたので患者や掛かり付け医の検査拒否への嘆きがSNSで多く見られた。
ところが検査抑制論者のフォロワーは「検査要求=医療崩壊を企む悪人」と扇動されており、これら患者や医者を探し出しては炎上させるという事が繰り返されていた。
今では「不必要な検査の不要論だった」との誤魔化しが流行しているがだったらこれは何だったのか釈明せよ。
4月に国が「検査が少なすぎて問題」との認識を示すと彼等はバツが悪くなり「検査派が医療者を襲いそう」などと医療者を盾にしだした。
孫正義が検査難民の増加に答えて無料PCRセンターを作ると発表すると大炎上。
「検査キャパが低かったので抑制すべしと言った。検査そのものやキャパ拡大には反対していない」との誤魔化ししてる抑制派が多いが、だったらなぜキャパ拡大策に反対して炎上させたのか。釈明しろ。
「医療外部のPCRセンターじゃなくて検査会社を買収して規模を拡大、規模の経済で単価を下げるメインストリーム路線の方が良いですよ」検査キャパ拡大に賛成だが孫案に反対ならこういう提言であれば筋が通っている。だがそんな提言をする抑制派は居なかった。
PCRキャパ問題が現状でも大問題となっている為に忘れられているが、中国での流行初期は同クラスタは「新型コロナはインフルより死者が少ない」「エピカーブを緩くする感染で集団免疫を」という甘い見通しを流布していた。それで例えばはてなでもSIモデルを活用した全員感染なんていう意見が席巻していた。
だがこんな愚策が成り立つエビデンスなんて最初から全く無かった。中国の各病院は最初からその症状や死亡率、経過などを英語で発表しており関心がある医師はそれを読んでいた。何故なら英語版wikipedia等からリンクされていたから。ネットインフルエンサだけが読まなかったのだ。
各国がロックダウンするとその根拠は消え、彼らは総括なくその意見を捨て去った。だが彼らの一部は医局向けの業界誌などにも執筆しており、鵜呑みにして病院のニュースレターにコロナはただの風邪と書いてしまった医者も居る。良い赤っ恥だ。
彼らがこのただの風邪集団免疫論を捨てる直前の20年3月末に「言論カフェ」という集まりがあり、そこで三浦瑠璃、東浩紀、小林よしのりのB級インフルエンサがこのネットインフルエンサの意見を鵜呑みにして議論をした。この後に小林はSPA!上でコロナ風邪論を発表。発行部数がまあまあある雑誌なので「老人の命の為に若者が犠牲に」という扇動は影響を与えた。
直後にあった都知事選に国民主権党が出馬、ノーマスクキャンペーンなどを展開して後の反ワクチン論へを繋がっていった。
だからコロナ風邪論も反ワクチンムーブメントも元の種を撒いたのは抑制論クラスタなのである。
入院時の全数検査は重要で、市中感染での致死率は1~3%程度だが病棟でクラスターが発生すると2割を超える。戸田中央病院の例では患者148人が感染して31人が死んだ。2割強である。
これについても彼らは事前確立が低い検査は害悪として防疫反対の立場を取った。
特に悪質なのがBuzzfeedで、女子医大が医学生への全数検査を決定すると記事にしてバッシングした。メディカルディレクターの岩永がこの決定を知ったのは学生からのタレコミであろう。同誌のデマを信じた学生の歪んだ正義感がタレコミさせたと思われる。検査料が高い事を除いては妥当な決定だ。この時バッシングした大学には謝罪しなくていいのだろうか?
buzzfeedは偽陽性を根拠とする検査抑制論が間違っていた事をやっと認識すると「99%でも99.99999%でも議論は同じ」と間違いを認めない方向に舵を切った。
これに山本一郎が統計分野の人間バカにしてるのか、との動画を出す。メンツの為に防疫妨害を継続しているのが見え見えであるので当たり前だ。
するとピタッとその意見は引っ込めてしまう。古くからネットやってたら山本の炎上惹起力や面白おかしくネタにする能力は誰でも知っている。
だが批判者は誤認識やデマの流布が致命的な状況を作っているので批判していたのであって、それより炎上インフルエンサの方か怖いとはどういう倫理観なのか。
防疫の為に広く検査隔離が必要だとの意見に「逼迫した治療の必要のない者を検査しても意味がない」と、医療検査の意義で答えるというごはん論法を延々と続けている。防疫妨害の未必の故意がある。
検査は社会的隔離の為に行うが、これを検査しても隔離しないのだから意味がないと言う。こっちの方はただの児戯でしかない。
だがこれを延々と1年以上続けている。結果、家庭内感染が大量発生してしまっている。
PCR検査料が2万円であるので広域検査をする場合に2万円に回数を掛ける計算をして国費の無駄だと言う。
これはゼロ年代経済論的な考えで、10年前にネオリベが流行ったのは給与所得者の経済観を敷延して世界を説明した為だ。需要が増えると参入が増えて競争とスケールメリットで単価が下がるという観点が無い。
実際はプライマーは国産なら@1000円程度でありPCR機も直ぐに償還する。機械が500万で粗利@1000であれば5000回で償還となる。あとは利益だ。薬価が@10とか@30円である理由が判らないのだ。
タカラバイオは宝酒造の子会社だが、日本語で初心者向けPCRの解説や技師向けマニュアルを公開、製品単価も表示するなどしていて重宝するサイトを公開している。故に抑制派は「タカラバイオのサイトに書いてありますよ」とよく言われるのだが、一向に見に行かない。自分の間違いを認める為に努力するなんて出来ないのだ。職業人失格の態度だ。
更にタカラバイオの系列会社が中国にあるのを見つけて「同社は中国企業」と言い出す抑制派も現れた。
その精神も愚劣だが、製薬業界の仕組みを知らないのだ。創薬と製薬は分離されるのが製薬業の流れで、最初から全部ライセンス生産とすることで海外でも展開出来るし、途上国民も新薬の恩恵に与れる。技術も移転される。ベンチャーのモデルナがワクチンを大量に生産できるのもこのせいだし、中国で初期の治療にアビガンが使用されたのもこのせい。技術移転のおかげで世界がパンデミックにも強くなれる。
このような業界構造を知らない人間がフォロワーを沢山持ちインフルエンサーとして振舞っているのである。
まだまだまだまだまだあるのだが疲れたので誰か続き書いて。
このところ常に死にたいとうっすら考えているような感覚で生きている
楽しいことがあってもふと「そういや死にてえな」と思い返して楽しさが冷めていく感覚。
そしてそれは大体みんな同じような感覚を抱いているんだろう、死にたいと思っていない奴はむしろ相当の楽天家か馬鹿の少数だけと思っていたが、どうやらむしろ死にたいと思っている人の方が少数派らしい。
別にいじめられているとかブラック労働がとかじゃない。それなら別にそうじゃない人は死にたいと思わないだろう。理由はSNSを始めとする社会に蔓延する憎悪があまりに重苦しく苦痛だからだ。
最初に断っておくとこれから出てくる加害者たちを擁護する気は無い。
もちろん悪い事をした人が悪いのだが、ことある事に槍玉にあげてその都度完膚なきまでに叩く多数をみて「ああ嫌だな」と何となく感じた。
スキャンダルに対してその当事者がネットで槍玉に上がったことはそれまでにもいくらでもあった。
思い返せば小保方氏や野々村議員もその例だろう。ただ彼らは音MADにされたりクソコラを作られたりと、もちろん本人してはたまったもんじゃないだろうが、スキャンダルをコメディとして消化しようとするものだった。
もちろん、ひき逃げの加害者を音MADにしろという訳では無い。こちらは明確に被害者がいる以上そんなことが許されるわけが無い。
それでも、一人の人間が憎悪の対象として消費されるのを見て擁護はなくても同情はしてしまう。
あまつさえ、上級国民とかいうこれまでなかった言葉まで使って高齢者富裕層まで主語を広げて叩く日には、「フランス革命でラボアジェを処刑した国民はこういう人達だったのかな」と思った。
オリンピックの諸問題の方々、金メダルを噛んだ市長それがし、不倫した芸人なにがしや声優なにがし等々。取っかえ引っかえの回転寿司状態だ。そしてその度に地獄のようなコメントが溢れる。これを書いてる途中に声優それがしが死にかけているらしい。書いている途中に知ってめちゃくちゃ偶然だが、遅かれ早かれそういうことが起きるのは明白だっただろう。
なぜそんなことになったかといえば、これらの人達は「わかりやすい自分と関係ない悪」だからだ。
家族や上司などといといった簡単には解決できない問題、更にはウイルスなどといった実体のない敵によるストレスは人類全体に重くのしかかってくる。「正義をもって悪を誅す」というのはそのはけ口としてとてもよく働く。自分のストレスや不安から目をそらすことに精一杯な人達はますます想像力が欠如して盲目になり、ましてや、加害者の心情なんて想像しない。
要はストレス解消のために叩いてもいい大義名分を持った人が求められているのだ。
こういう人達が活動を自粛したり降板したり表舞台から退いたり、ましてや自殺したら「責任を果たせ」だとか「逃げるな」だとか言われる。
そして決まって「被害者を思うと…裏切られたファンを思うと…」とかがくっついている。その綺麗事、大義名分になんの意味があるのか。
「次の悪者が現れるまで後腐れなく叩かせ続けろ」って言え
大体そういう人たちは何を以て責任を果たしたと認めるのだろうか。謝罪しても当事者でもないのに「誠意が足りない」だの「被害者には許さない権利もある」とかいうくせに。じゃあ目に見えればいいかといえば「金で解決しようとしてる」とか「上級国民が」とか言い出すくせに。
そして死んだら「責任から逃げるな」とかいう。むしろ自分が死の遠因になったという責任から逃げているのはそっちだろう。
開会式のいじめがどうとかいうミュージシャンそれがしを集団で叩くといういじめの構図をもって成敗した気になっているのは、悪趣味すぎるコメディかと思った。
もちろん自分が知らないずっと前からこういうことはネット、リアル問わずあっただろう。でもそれはメインストリームではない。
しかし、一億総発信社会/コロナ禍となってユーザーが生成するメインコンテンツが憎悪になってしまった。
そこに需要が存在すれば当然供給も発生する。メディアも問題があった人たちが如何に極悪人であったかを強調するために過去を漁って露悪的な記事を量産する。
もう現代においてピカソやワーグナーのような人はもう出てこないんだろうな。そして悪事はバレたら社会的に抹殺されるのだからますます陰湿になるか一撃必殺になるかのどちらかだろう。
膨れ上がった憎悪は関係ない人をも蝕むようになる。こんな社会に耐えるくらいなら消えた方がいい。いわんや当事者にしては想像を絶するものだろう。
こういうことを言うと起こりそうな意見に先に返しておく
・「悪いことをしたのは向こうなのだから当然だろう」「報いは受けるべき」
別に自分は「誹謗中傷はやめよう」とか「加害者にも人権はある」とか道徳の先生みたいなことを言うつもりは無い。これは絶望の言語化であって啓蒙ではない。
そもそもそんなことずっと言われ続けているのに悪くなる一方なのだから無理なのだろう
個人的にその原因は、歴史的に人類は「罰する」と「赦す」を神に丸投げしてきたからじゃないかと思う。
シャリーアを引き合いに出すまでもなく、法とは神が定めた道徳を人間にわかりやすくしたものだ。神の代弁者・執行者として悪人は裁かれ断罪された。逆に言えば、刑期を終えるとは「神が赦したのだから私達も赦そう」という理屈だろう。私刑が許されないのは、同じ理性の範疇内の人間が人間を捌くこと自体傲慢で歯止めが聞かないからだろう。
それが現代になって神が死に、ネットによって「罰する」と「赦す」が急に個人個人の人間の与えられたら上手く使いこなせるはずがない。何を以て許せば良いのかも分からない。だからこそ憎悪はどこまでも増幅し、終わりがないのだろう。
・「確かにクソなことはあるがネットにもリアルにも善意や楽しいことだってあるだろう」
それは確かにそう。実際自分もある程度いわゆるオタクなので「次のイベントが生きる糧」だの「2期を見るまで死ねない」だの思っていた。
でも最近ふと、なぜそれらが好きか理由を考えたら、自分は死にたいという感情を麻痺させる麻薬に過ぎないと思っていたことを悟った。一回そう思ってしまったらもうその麻薬は直ぐに効き目が切れるようになった。
これも確かにそう。ジャコモ・レオパルディという人も「世間とは立派な人間たちに対抗する悪人どもの同盟、あるいは寛容な人たちに対立する卑怯者どもの集まりだということである。」とか言っている。その通りだと思う。でもネットをやめたとてこの社会に逃げ場なんてあるのか。分断と対立・不寛容が加速するこの世界でネットのような憎悪が現実にも染み出していることはキャンセルカルチャーなんかを見るまでもなく明らかだろう。情報自体から隔絶された世界で仙人のように生きればいいのか。そうしたら確かに死ななくても良いかもしれないが、憎悪を撒き散らす人達が野放図に暮らして、そうでない人が隠れていきなければいけない世界ならますますこの社会はクソだろう。
・「この恨みにまみれた投稿だって憎悪を増やしているだろうブーメランじゃないのか」
その通り。だけど今更ネットにデブリがひとつ増えたとて誤差だろう。
繰り返すがこれは現実への諦念であって啓蒙ではない。だからこそ聞きたいのは、どうやってこの憎悪の中死にたいとも思わずに生きていられるのだろう?
11年前の神戸での男子高校生殺害事件で愛知に住む男を逮捕 当時は現場周辺に居住か
https://news.yahoo.co.jp/articles/5feb8ed31d486ec494e495dd7db4924df3c0b35f
全く進展のなかった殺人事件が被疑者逮捕という形で一つの進展が見られたこと自体はとても有用なことだとは思う。ただし、現時点ではあくまで被疑者――起訴されてない状態であり、「何人(なんびと)も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」とする推定無罪の原則で言うなら、彼はまだ無罪の状態である。
coi***** | 9時間前
捕まるということは余程の確定的な証拠が見つかったということでしょうね。
捕まってよかった。
cvz***** | 8時間前
長い年月、警察の方々、ご苦労様でした
いやいやいや、警察の不祥事には「警察なんて信用できない」「警察なんていらない」がメインストリームになるYahooニュースなのに、凶悪事件の被疑者が逮捕されたってだけで「警察が捕まえるんなら犯人に違いない!」「二度と出すな」ってちょっと頭おかしすぎんか。
日本の検察が起訴をした場合はほぼほぼ負けなしだから「決まったな」って感じになるのは事実だけど、まだ逮捕されただけで警察発表でも「今後捜査を続けていく」となっている段階。「逮捕はしたけど起訴はしませんでした」って件は山ほどある。
これまで何人もの「逮捕されてそれが報道され、後に不起訴になったけど人生破壊された」例を見てきて、そういう記事が上がるたびに報道や警察の無能さを批判してきたくせに、脳みそツンツルテンなのか?
冷静になろうや。お前らが冤罪事件の二次加害者だって自覚を持とうぜ。
頼むよ。
😎「いやタモリは別枠で評価してくれ、彼はアンダーグラウンドからサブカルへつなぎ、そのためにそれらをメインストリームで観られる程度に大衆化と洗練を推し進めた傑物だぞ」
その手の露悪趣味を初めてメインストリームに持ち込んだのがビートたけし。
シェイクスピアを見てありきたりな展開の寄せ集めと言ったりするのと似てる。
そもそもの因果関係が逆なのよ。2chやtwitterがたけしの劣化コピーなわけ。
氾濫する劣化コピーを見慣れたせいで本家が古臭く見えてるだけ。
彼は賢いので、芸人として頭打ちになる前に芸術的な映画を作ってその地位を盤石にした。
ぶっちゃけて言えば、彼の役目は90年代後半くらいで終わったと思う。
今では彼自身が完全に権威化したので若者には陳腐に見えるだけ。