はてなキーワード: 金曜ロードショーとは
ニュースや報道番組で暴力映像を目にするたびに本当にしんどくなる。
近年の話題で言うとアメリカの白人警官による黒人男性への暴力やさらなる問題としてアジア人への暴力。香港やミャンマーでデモ隊を鎮圧する警察官。
日本では入管職員による外国人の人道を無視した暴力の他、理不尽なあおり運転やクレーマートラブル、録音されたパワハラ音声(これは言葉の暴力だけど)等々。
ちょっと古いけど障害者施設の職員が利用者を殴っていた映像とか運動系の部活のコーチの部員への体罰の映像もあった。
何の注意も予告も無く流れてくるので対策の仕様がないのだがニュースを見ないわけにもいかないので本当に困る。
報道する意義があると判断しているのだろうけど、辛くなる人も存在します。言いたいことはそれだけです。
ちなみに数少ない配慮の例として
震災特番で「この後津波の映像が流れます」のテロップと戦争特番で「この後残酷な映像が流れます」みたいなテロップが出ていた。どちらもNHK。
『ダークサイドミステリー』のケネディ暗殺の回では暗殺の瞬間の映像にボカシが入っていた。これもNHK。
「序」は多分「破」公開前にやってた金曜ロードショーか何かで見た。シンジ君がウジウジしててなんだこいつと思った。
(その後ネットで「中学生に突然命懸けさす奴らの方が頭がおかしい」という意見を見て確かにそうだと思い直す)
「破」は多分彼氏と映画館で見た。「破」はシンジ君が成長して見てて楽しかった覚えがある。
「Q」も多分彼氏と映画館で見た。ど、どゆこと…??と思った気がする。リリンって何??
というか、3つ全部見てるけどほぼ意味分からず見終えている。人類補完計画って何?使徒って何?な状態だし内容もほぼ覚えていない。
しかし今回復習もせずにアマプラで夫(上記のかつての彼氏)と「シン」を見たので以下感想。
パリだーてかエヴァパイロットのピチピチの格好が恥ずかしいと言及されたぞ?あれ絶対恥ずかしいと私も思ってたよ。
戦闘と同時になんかパソコンカチャカチャやってるけどなんで地べたに座ってる感じなん?腰大丈夫?何やってるんだか全然わからんけども。
え〜街赤かったのが元に戻った〜!戻るんや?てかそもそもなんで赤いんだっけ??
なんか元クラスメイトの人達大人になって子供までおるやん。なんでシンジ達は浦島太郎状態なんだっけ??前回そんな終わり方したっけ?分からん。
シンジ君相変わらずめっちゃ落ち込んでるけど。確かシンジ君のせいで世界が終わる的なことになったんだよねー、そりゃ落ち込むよ、しょうがないよ。
この人の関西弁絶対おかしい。私は関西人じゃないけどおかしいと思う。関ジャニの村上がマツコにビジネス関西弁とイジられてたのを彷彿とさせるような関西弁だなー。
つばめちゃん可愛い。赤ちゃんの描き方がちゃんと赤ちゃんの可愛さを表現できている。
綾波そっくりさん「おはようって、何?」「仕事って、何?」なんでも質問してくる幼児みたい。
シンジ君結局立ち直った、よかった。
と思ったらそっくりさんが溶けちゃったよー!せっかく楽しそうに暮らしていたのに残念だ。またシンジ君のトラウマにならない??
ピンクの髪の子がブチ切れている。今時の若者みたいなキャラだけど昔から続いてるアニメだから喋り方がなんかちょっと古い。現代の若者ではない。でもそれは仕方がない。
アスカが眼帯取って目からなんか取り出した〜!びっくりした〜!
シンジ君エヴァに乗るって言い出してまた変な関西弁と古い若者がブチ切れたけど結局乗ることに〜
父と息子で戦うけどシンジ君の心象風景を背景にお送り〜多分ファンには堪らないのでしょう、ファンサービス的な?
ゲンドウさんが解決するのは暴力じゃない?みたいなことを言い出してなんか話し合いを始める。
ゲンドウさんは孤独が好きで、知識が好きだったのに、唯と恋に落ちた。このゲンドウ君と恋仲になってゲンドウ君の世界を変えた唯すげーよ、どんな女だったんだ。
からの唯が死んじゃって、そりゃ悲しいわな、辛いわな。
からの、綾波がいっぱい!なぜ?!おかしいやろ。こんな男のどこが好きだったの?唯さんは。唯さんもおかしな女だったのかしら。
「唯はそこにいたのか」とかシンジ君を見て言うゲンドウさん。そうだよ、普通奥さんが死んじゃったら子供を頑張って育てるんだよ。普通じゃないからこんなことになっちゃったんだもんね、しょうがないね。
てか、ゲンドウさんてなんか暗いところで輪になって会議みたいなことよくやってたよね?あの人達は何が目的だったの?ゲンドウ君に騙されてたの?
てか、最愛の奥さんが死んじゃってまた会いたくて頑張っちゃうマッドサイエンティスト、みたいなやつありがちだよね?なんか話としては普通じゃない?
槍がどうのって前回から言ってるけどなんなん?意味がわからん。キリスト教的な話なの?分からん。
なんか下書きみたいなのになったーなんでか分からんけど。アニメって描くの大変そうですね〜お疲れ様です。
これまでのエヴァを振り返ってお別れみたいなシーン、ファンには堪らないんでしょうね〜
マリとシンジ君が大人になってる〜これは心象風景?実際の話?この2人いい感じなの?
なんか実写映像にすんなり変わってすげ〜 終わり
全体的によく分からなかったが、そもそも自分レベルの人間が見る作品ではないのだ。
以上、感想でした。
まあ本当にキモかったのは協賛のさっむいキャッチコピーだったのかも知れない。
でもそのキャッチコピーを本当に気持ち悪く読み上げていた実況が居なければああサムくて笑えるなで済んでた。
なんていうかね内輪ノリ全開のやつを全世界に向かって本当に気持ち悪く読み上げるんだわ。
無理やり筋肉にかけて無理やり商品を売り込む無茶苦茶なPR文をね、ものすごくねっちゃりして自分に酔いしれた言い方で読むの。
イントネーションの粘度の高さもマジでキモいし、読み上げる時にゲーム画面がそっちのけになる所も本当にキモいわけ。
まあRTA in JAPANの協賛アピールって「お前その繋げ方無理あるだろ?」ってのが割と多いんだけど、まあオモコロの「え?これのPRで?これの広告費で?広告料返納しろって言われないの?」ってなるアレの延長として楽しむことも可能ではあったんだよ。
でもあの実況が本当に必死になって顔真っ赤にしつつも心のなかではダッセー文章って思いながら読んでるのが伝わってくるとね「あーあー折角盛り上がってた気分が白けちゃったな」ってなるわけ。
もうね完全な逆コマーシャルね。
いい感じに世界最高峰のプレイと筋トレに熱中してた所に突然冷水をぶっかけてくるの。
たとえるなら金曜ロードショーが大トリの激盛り上がりジェットコースターで10分おきに車会社が作った昭和のカビが生えた理想家族像をリバイバルさせたような子供の笑いが嘘くさすぎるホームビデオを流して腰を折ってくるアレだよね。
それをね、わざわざやるのよ。
いやまあそれだって普通にゲームが好きな人がこの世界に盛り上がってほしくて読んでるって気持ちが伝わってくるなら寒くても心は温かいんだけど、「俺の実況テクを見ろ!すげ~~~だろ絶叫の天才だぜ水木一郎も泣いて逃げ出すよなあ俺様ァ!」って感じで読むのよ。
勘弁しろ。
もうねキモくて飛ばすことにしたよ。
大体10秒ぐらいで終わるからその間ミュートにしてコメント欄に無心で応援を書き込む時間として使ってた。
マジさ、アレはキモかった。
キモかっけって褒めてるやつが「その褒め方がキモいっすね^^;」って言われてるけど、俺はマジで本心からキモいと思ったよ。
ネタバレと他の人の感想で先入観を持ちたくなかったのでなるべく早く見ようと土曜日の朝一に行きました。
一番好きな作品はぼくらのウォーゲーム、次点が時かけ、その次がサマーウォーズ。
サマーウォーズは昨日の金曜ロードショーで久しぶりに見たのですが、12年前というだけあって今見ると結構キツイ部分もあって少ししょんぼりしました。
好きなシーンはいっぱいあるんですけどね。
典型的な細田監督が脚本を手がけるようになってからの作品があまり好きではない人間です。
おおかみこどもで「う〜ん」となり、バケモノの子で盛大にがっかりしました。
それはわたしが作品のターゲットから外れてしまったということなので、それ以降は少し寂しく思いながら劇場に見に行くことはありませんでした。
それなのに何故、今回劇場に足を運んだか。
一つは、描きたいと思っている作品の題材被る可能性があり、それがないかチェックしたいと思ったこと。
もう一つは、主人公のアバターであるベルのデザインをディズニーのジン・キムが手がけたという情報を目にしたからです。
細田作品でよく言われている「ヒロインへの興味の無さ」が、一部他者に委ねることで、もしかしたら今回は解消されて好きになれるかもしれないと期待したのです。
それ以外は流れてくるCMくらいで、ほぼ事前情報なしで見に行きました。
前置きが長くなりましたが、決してアンチがアラを探しに行った訳ではなく、むしろ「おもしろかった!」と思いたい気持ちで見に行きました。
がっつりネタバレしていくのでご注意ください。
仮想空間という3Dと相性のよい舞台設定もあり、2Dと3Dの違和感も少ないです。
映画の一つの見どころでもある竜の正体探しなんですが、これは細田作品今まで見てきた人はすぐわかっちゃうんじゃないでしょうか。
わたしも早々にわかってしまって、もうちょい誰なんだろうって楽しみたかったのが正直なところです。
それはさておき、主人公すずのAsの名前「ベル」からも分かる通り竜そばは美女と野獣のオマージュが多く登場します。
オマージュ自体は別にいいのですが、ただ単に竜と女の子の二人が美女と野獣っぽいから表層的になぞっただけいう印象を受けました。
同じ美女と野獣をオマージュしたシェイプ・オブ・ウォーターは、野獣がハンサムな王子にはならず最後まで野獣のまま二人が結ばれ、本家を踏襲した上で独自のストーリーになっていました。
ですが、竜そばはそれが出来ていません。
そもそも竜が作中で醜いと言われてますけどかっこよくないですか?
怖いかもしれないけど醜くはないでしょう……。
人間だらけの中なら浮くかもしれないですけどUの世界みんな色んな格好ですし。
竜の野獣である要素が薄く、本家でも言われているルッキズムの助長がむしろ強化されてしまっているようにも感じられました。
Uならまったく別の人生を生きることができると謳っているのに、アバターは生体情報から自動生成で自分の意思では自由に出来ない。
そして見た目で差別を受ける。
仮想空間は理想の世界ではなく現実の地続きで、ある意味リアリティはあるのかもしれません。
竜のあざやベルのそばかすが現実とリンクし、すずに竜の正体を気にさせ、探せるようにするために必要だっただけではないでしょうか。
細田監督はこういったシーンを描きたい!といったところからストーリーを膨らませていくタイプに見えます。
その手法は全然アリだと思うんですが、キャラクターやストーリーがそれを実現するための駒に収まってしまっています。
特に脇役はひどいです。
ルカちゃんはすずとベルとのギャップが際立つよう、現実での立ち位置を対比で表すため。
ヒロちゃんはすずをUの世界でスムーズに活躍させるための便利屋。
しのぶくんに手を握られて学校中の女子から叩かれ炎上する際のゲームのような演出も力が入っていましたが、あまり必要性を感じずやりたかっただけのように見えました。
敵役の魅力も乏しいです。
明らかな噛ませ犬だと竜の強さが伝わらず、バトルシーンにも緊張感が生まれません。
自警団とのバトルはストーリーの本筋ではないですが、アンベイルという重要な能力を持っています。
そんなキャラクターの作りが蔑ろなのはマイナスでしかありません。
何故Uの管理者でもない彼らが、キックやブロックや削除ではなくAsのオリジンを暴く能力を持っているのか。
権威がある印象をつけるためスポンサーが多数いる描写がありましたが、それでは説明になっていません。
おそらくストーリーが進めるため、ベルがすずになって歌うシーンを作るために作られたのだと思います。
それでも説得力のある設定を付随してあげればいいのですが、それがなされていません。
描きたいシーンとシーンの間をとりあえず大きな齟齬が出ないように埋めているだけのストーリー。
とりあえずでは見せ場に行く前に気持ちが躓き、せっかく力を入れて描かれたシーンが空虚に感じられてしまいます。
メインストーリーであるはずのすずの成長はこれでもかと言うほど分かりやすく描かれています。
母が死んで歌えなくなった
↓
Uの世界なら歌えるようになった
↓
↓
母のように他者を救えるようになった
他者との関わりから閉ざされていた心が開いていく王道のストーリーを美女と野獣でオマージュし、今までやってきた得意なものを詰め込んだ今回の作品。
新しい試みは何かあったのでしょうか?
でもそれ以外は既視感のあるものがほとんどで驚きがありませんでした。
唯一あるとすれば音楽へのこだわりでしょうか。
それもライブシーンに至るまでのストーリーで白けてしまうのがあまりにも勿体ない。
わたしにはケモとショタとクジラと電脳世界でのライブが描きたかったことしか分からなかったです。
結論としては前置きで書いたものと変わらず、細田監督は脚本を他者に任せるか、共同にした方がいいと言うものになってしまいました。
残念ながら今回もやはりわたしはターゲットにはなれなかったようです。
あくまでわたしのものさしがストーリーに重きを置くのでこういった評価になってしまうだけで、他の評価軸で見れば全然楽しめる作品であると思います。
まだ他の方の感想を読んでないので、どれくらい自分との感じ方どれくらい差があるのかちょっと楽しみです。
書き慣れていないので読みづらかったかと思いますが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
というよりは「自分視点での感想」をさも「考察」であるかのように語る輩が多すぎるということかな。
ネットで感想を書き続けると人間の次式は肥大化してゆくゆくは感想と考察の区別がつかなくなるのだろうか?
だがこのまま私が黙って「感想と考察の区別もつかねーのかこのカスは」と思い続けていても自体は解決しない。
どうやら私が書いてやる必要があるらしい。
「おおかみこどもの雨と雪の考察」を。
脚本の奥寺佐渡子は細田守の考えを「一般人に伝わる形かつ、一般人も楽しめる形」に落とし込むための存在であるため、作品において「なんでここがこうなったの?」に対しての答えを彼女に求めても「作劇的にその方が面白くなるから」以外の要素は出てこない。
だから考察をするのならば奥寺佐渡子の意図はあまり考えなくていい。
気をつけたいのは、「でも細田守がそういう意図を持っていたのなら、作品の質を落としてでもここはこうしたのでは?」という部分に関しては「奥寺佐渡子がうまい具合にハンドルやブレーキを操作した」と判断すべきであるということだ。
脚本に2人が名前を連ねていることが、おおかみこどもの雨と雪の考察を若干難しくする。
おおかみこどもの制作が始まる2年前、サマーウォーズの製作中に細田守は母親と祖母を無くしている。
父親の方はそれより11年前に既になくなっている。
おおかみこどものキャラクター造形において、この3名の死は深く関わることになる。
この辺については詳しくはインタビューを読んで貰ったほうが早いので手短いに言うと、細田守が自分で「作品作りにおいて影響があった」と口にしているのだ。
主人公が母親であること、父親が途中でなくなること、そういった要素についてフェミニズムだの男女平等社会だの社会派気取りだのあーだこーだと考える必要はなく、「そのときの細田守の境遇がそういった家族像を作中に描くことを求めた」で説明は終わるのである。
母親のモチーフが細田守の実母であるということは、おおかみこどものモチーフは細田守自身となるわけだ。
ちなみに細田守は幼少期に吃音症を患っており、この感覚が社会に普通の子供として上手く馴染むことが出来ない幼少期の雨と雪を形作っていくことになるのは想像に難くない。
それぞれは自分の性質や出会う人物に合わせて、人間社会と山という全く別の社会における適応を目指すことになる。
また、それぞれが目指そうとする場所は途中で交差して入れ替わる。
全く異なる2つの社会をそれぞれに目指す姿は、細田守がアニメ業界という力と才能が支配するオタクの世界と、宣伝や社会性が重視される一般的な社会という2つの世界を行き来しながら有名アニメ監督となった細田守の人生観の反映であろう。
つまり、山において師匠に野生の生き方を学ぶ雨は、アニメ業界で才能を頼りに生きることを選んだ細田守であり。
一方、現実世界で恋をして普通に生きることを選んだ雪は、細田守の妻子持ちとしてのプライベートの姿である。
才能を振り回しケモノとして生きる道と、人間らしく生きる道に対して、細田守が感じる二足のわらじの感覚が、おおかみこどもを二人にするという設定を構築しているのだ。
と思った人はバケモノの子や未来のミライを通して答え合わせをして欲しい。
おおかみこどもの雨と雪はいわば細田守考察における出題編であり、その後のバケモノの子と未来のミライによって、おおかみこどもで考えた考察が深読みだったのか、実際にそうだったのかが徐々にハッキリするという構図になっている。
バケモノの子は7月9日の金曜ロードショー、未来のミライはアマゾンプライムビデオで見ることができる。
それはおおかみこどもの雨と雪だけでやるとゲスの勘ぐりみたいになる。
バケモノの子や未来のミライで伏線回収が終わってから戻ってくるとまあ露骨にそうなんだよねって分かりはするんだけどさー。
分かると言えばサマーウォーズの家族観とかもあとから見るとなるほどねーってなるんだけど、この辺もやっぱバケモノとミライを見てからじゃないと分かりにくいんだわ。
答えから逆算すると簡単な迷路ってたまにあるけど、細田守映画の世界観もあとからだと分かるけどサマーウォーズとかの頃は上手くやってるなーって。
まあまさにこれは「奥寺佐渡子がハンドルとブレーキを上手く使ってた」ってことなんだけどさ。
凄いわあの人も。
薄い本に釣られて、もう一度見てきた。
誰かのコメントの受け売りだけど、卒業式に何度も行かないよな、という気分で正直行くのに気が重かったんだけど、結果的に大分楽しめた。
わかりやすく言うなら、金曜ロードショーでやる度に見ちゃうだろうな、という感じ。
初回は、「俺のエヴァ(青春)があと数十分で終わってしまうのに、こんな映像見させられてていいのか!?」という気持ちで、鑑賞中にそわそわしてたんだけど、今回は落ち着いて見れた。
村シーンも良い。大変に良い。
ホクホクするとか、初回は狙いすぎだろと思ったけど、何故か2回目のほうがしっくりきた。
Qも衝撃的過ぎて、最初はなんであんなもん作ったん。。。?っていうトラウマ気味だったけど金曜ロードショーでやると見ちゃうもんな。
何なんこのエヴァとの親和性。毎回エンディングだけだし、何なら序の前には「なぜ宇多田?」と思ってたんだが。
相変わらずメインシナリオの理解はできてないんだけど、エヴァの終わりは感じた。
何が終わったって、謎が謎を呼んで、きっとその答えはエヴァの中にあるはず、という構造が終わったんだよね。
意図的にメタ的な部分を見せたり、明確な答えが示されたり(カップリング含む)。逆に難しい専門用語みたいなのは、これまでの「自分の理解力が足りないから意味が分からないのかな」、と思わせる演出から、明らかに無理だろwwwってレベルの用語オンパレードになってるから、「別にこれ以上深堀りしなくていいよ」っていうメッセージを感じた。槍もその場の工夫で新しく作れちゃうし。無限考察の沼から、引き上げられた気がする。一方で、相変わらず伏線・小ネタは埋まりまくってるから、何度見ても新しい発見があるっていうね。
敵味方問わず、キャラや兵器デザインには何か意味がありそうだったけど、今回はただの庵野さんの趣味だろうなっていうのを隠してない。
あと、群れが集まるの好きよね。シンゴジラでもあったけど。
重要:勝手に勘違いしてたけど、薄い本って加持さんとカヲル君が活躍する話じゃないのね!!
空白の14年間とかの話かと思ってたわ!!
以下、上記以外に今回気になった点
下半身の震えからエネルギーが集まって、脈動とともに射精される陽電子砲
映像コンテンツの倍速視聴に関する話題を目にして、ふと思い出したことがある。以下に記すのは、個人的な昭和の思い出話である。
歳の離れた兄が買っていた『SCREEN』と云う映画雑誌が、実家の本棚に何冊も置かれていることに気づいたのは、私が小学校の高学年になった頃だった。裕福な家庭ではなかったので、我々兄弟は一つの部屋を共有して過ごしていた。だから実際には、もっと以前から、その雑誌が本棚に置かれていたことを私も知っていた。したがって、正確に言えば気づいたではなく、興味を持つようになったと言うべきであろう。
それらは70年代に発売されたもので、ちょうどSF映画、オカルト映画、パニック映画が流行した時期に該当する。だから、これらのジャンル作品のスチール写真を載せたページを眺めるだけでも、子供には十分に楽しめたものだった。
やがて、そう云うビジュアル記事を眺めるだけでは飽き足らず、活字の部分にも目を通すようになった。最初は、やはりSF、オカルト、パニック作品に関係するところから読み始めたが、それらにも限りが有る。こうして、あまり子供向けではない記事にも、当時の私は目を通すようになっていった。現代とは異なり、地方の非富裕層の家に生まれた子供には、娯楽の選択肢が極めて少なかった。従って、ほとんど已むを得ずと云う形で、元々は興味対象外だったものにも手を出すことになったと云う次第である。私と似た境遇に在った地方の名も無き小中学生も、私と大同小異の経験をしたのではなかろうか。例えば、家に置きっぱなしにされた古いジャンプ/マガジン/サンデー/チャンピオンを、何度も何度も読み返し、その結果として、元々は興味が無かった作品の魅力に気付かされたといった、そう云う経験のことである。
話を戻すと、こうして結果的に活字記事も読むようになった私は、雑誌『SCREEN』に淀川長治の連載記事が掲載されていることに気づいた。当時の子供でも、淀川長治の顔と名前は知っていた。テレビに出て「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のセリフを言うことでお馴染みの、有名なオジサンであった。その連載記事は、読者からの質問や相談に淀川長治が答えるコーナーであった。
読者から寄せられた「僕は映画監督になりたいのですが、どうすれば映画監督になれますか?」と云う質問に、淀川長治は次のような回答をしていたと私は記憶している。
「こうすれば映画監督になれると云うような、確実な方法や手段は無い。それは無いが、強いて言うならば、同じ映画を十回は観なさい」と。
馬鹿な小学生だった私は、これを読んでも何のこっちゃとしか思わなかったが、世の中には淀川長治が言わんとするところを正しく理解して、きちんと実行した人も存在したのだった。それを後に私が知ったのは、中学生になった頃、GAINAXが初の作品『オネアミスの翼』を製作・劇場公開した時のことである。
中学生になった私は「何だか凄いアニメ映画が、若手クリエイターたちによって作られて、劇場で公開されるらしい」との情報を知った。知ったは良いが、そこはド田舎に暮らす非富裕層の哀しさである。公開する映画館は近隣に無かったし、そんな映画館が有る都市部まで行く手段も無かった。当時の私に出来ることといえば、劇場公開に合わせて発売されたムック本を、少ない小遣いで買って、それに掲載された場面の絵を見て、実際のスクリーンで動いているところを想像することぐらいであった。これもまた、同じような経験を持つ人がいることだろう。なお、そのムック本には物語の最後の場面までしっかり掲載されていたので、話そのものに関しては、当時の私も知ることができた。
さて、映画の場面を載せたビジュアル記事を読み終えた私は、もちろん活字記事の部分にも目を通した。そこには、本作品で監督を務めた山賀博之氏のインタビューも掲載されており、映画監督を目指そうとした山賀氏の若き日の思い出も語られていた。その思い出話こそが、淀川長治の「同じ映画を十回は観なさい」に関する話なのである。
雑誌『SCREEN』の淀川長治の当該記事を読んだ当時の山賀博之氏は、その教えどおり、同じ映画を十回観たと語っていた。ちなみに、実際に山賀氏が十回観た作品の例として挙げていたのは、少年野球チームの少年少女とコーチの奮戦を描いた、アメリカ映画『がんばれベアーズ!』である。テイタム・オニール、かわいい。山賀博之氏が語ったことは、概ね以下のようなことであった。
「最初の2〜3回目は、普通に観客として楽しんで観ているだけ。4〜6回目辺りは、もう観たところばかりだと思って、飽きて退屈する。それが7回目頃を過ぎると今度は、場面場面で作り手が何をしようとしているのか、ココで溜めてココで盛り上げようとしているんだなとか、画の見せ方とか、そう云う作り手の意図に気づき始める。同じ映画を十回観ると云うのは、こういうことかと理解した」やはり、何かを成し遂げる人は同じ文を読んでも、凡人とは違い有益な学びを得る能力が高いということなのだろう。
ここで紹介した淀川長治氏の教えと山賀博之氏の実践エピソードは、あくまでもプロを目指す人たちに向けた話なので、我々一般人とは関わりの無い話に思えるかもしれない。また、現代はコンテンツの数量が昔よりも多い時代なので、一つの作品を繰り返し読む/観るという時間的な余裕が無い現代人が大半だろう。しかしそれでも、一つの作品を繰り返し味わうこと、そして運が良ければ、そのリピート鑑賞を通じて何かを気付く/発見することは、貴重で豊かな経験であると私は思う。倍速視聴をしてまで観る作品の数を増やすことにも、一定の理由や合理性は有るのだろうとは思うが、何かしら自分のレーダーに引っ掛かるモノを持つ作品に出会った時には、少しだけ立ち止まって、それを繰り返し味わうことも試してみるのも一興ではないだろうか。
ここまで書いた上に蛇足だが、もう少し思い出を書き残す。昔、Blu-rayやDVD、レーザーディスクはおろか、家庭用ビデオすら普及していなかった時代の思い出話である。その頃は、アニメ映画作品の音声を収録した、LPレコードやカセットテープが販売されていた。(一部では家庭用映写機で上映出来るアニメ映画作品のフィルムテープのリールも販売していたが、これを買って楽しむことが出来るのは、本当の金持ちだけだった。)私は子供の頃、この手の音声収録レコード商品の一つ『ルパン三世/カリオストロの城』を所有する人物から、兄弟のツテでカセットテープにダビングしてもらい、それを何度も何度も繰り返し聞いて、頭の中では『水曜ロードショー』で観た『カリ城』の映像を想い起こして楽しんでいた。この体験のおかげで、私は今でも『カリ城』の全セリフを暗誦できる。何の自慢にもならないが。
そして、歳月が流れた。
後に社会人となって働き始めた兄が、VHSビデオデッキを買ってくれたので、我が家もビデオを利用できるようになった。金曜ロードショーで放映された『カリ城』を録画すると、当然それも繰り返し何度も視聴した。カーチェイス場面などはコマ送り再生で作画をチェックしていたので、倍速視聴とは正反対の行為である。
ほどなく小さなレンタルビデオ屋が我が町にも出来て、兄がスプラッター映画とかゾンビ映画とか借りてきてくれて、一緒に楽しんだりもできるようになった。古い『SCREEN』の記事を読んで、勝手に凄い作品だと思い込んでいた『巨大蟻の帝国』や『スクワーム』が、実際の映像を観るとショボい作品であることも思い知った。
大人になって、現在の宮崎駿のことは反吐が出るくらい大嫌いになり、ルパン三世作品としての個人的な評価も、軍配は『vs.複製人間』の方に上げるようになった。
子供の頃には観ることはおろか、存在を知ることも叶わなかった様々な作品の数々を、今では視聴して楽しむことが出来るのだから、明らかに子供の頃よりも、現在の私は恵まれている。
それでも、熱に浮かされたように古い映画雑誌を何度も読み耽って、観たことも無い映画の内容を勝手に想像したり、何度も何度も『カリ城』のカセットテープに耳を傾けて台詞を暗誦していた子供自体の思い出は、それらが経済的な制約から生じた行為だったにも関わらず、何だか私には宝物のように思えるのである。ただのガラス玉が宝石より愛しく思えるように。
金曜ロードショーの最多放送回数によるので、ラピュタが上に来て徐々に放送されなくなったナウシカが国民的扱いを受けないのは理解できるが、俺はおっさんなのでナウシカは十分国民的アニメだと思います。
金曜ロードショーで、タイタニックを2週に渡って放送していた。
おそらく、個人的にハリウッド大作というものを初めてまともに鑑賞したのがその時だったと思う(それまではジブリ映画やクレヨンしんちゃんなどのアニメ映画や、親の趣味だった古い外国映画のVHSばかり観ていた)。
実写と区別のつかない高度なCGや、短くも情熱的な恋の切なさ、巨大客船の沈没のパニックと死の恐怖の表現のリアルさに、私は深い感銘を受けた。
周りでも大いに流行っていた。
その当時好きだった男の子と少しでも話したくて、私は休み時間か何かに「A君はタイタニック観た?」と尋ねた。
その男の子は学校の勉強がよくできる上、アニメや漫画などに詳しくて話も面白く、いわゆるイケメンという感じではなかったが清潔感があり、私にとって気になる存在だった。
その彼から返ってきた答えが「観ないよあんなクソ映画」だった。
それに対してどう返答したのか私は覚えていないが、咄嗟に「えっ、なにそれーひどーい笑」とかそんな感じで返事をしたような気もする。
話のきっかけが欲しい、もし観ていたなら感想を訊きたいという気持ちだったと思うのだけど、なんだかめちゃくちゃびっくりしてしまったという衝撃の印象だけが20年以上経った今でも心に残っている。
自分が好きだと感じたものを、観てもいないのにクソと言われたことがきっかけで、恋は急激に冷めた。
中学生の恋なんてそんなもんかもしれません。もちろん全部がそうとは思わないけど。
思い出して数日間モヤモヤしてたけど、「人が好きと言っているものに触れもしないうちから否定するのはやめよう」という、当たり前だけどうっかりやってしまいがちな失敗として胸に刻んでおきたい。
ところでテレビで久しぶりにタイタニック観て思ったけど、やっぱものすごいお金かかっててゴージャスだしまずその時点で観る価値がある程度あると感じる。
・命の価値に差があった過去に戻ってはいけない。現代でも克服したとは言い切れぬものの克服する努力を止めてはならないこと
個人的には倍速視聴の趣味はないが、批判する奴はそろいもそろって初歩的な理屈立てもできていない馬鹿ばかりなのだ。
それで映画好きを騙っているのだ。
辟易とする。最悪だと思う。
曰く、「作者の意図を棄損している」「演出や音楽の計算が狂う」だそうだ。
この理屈は単体で見れば、言わんとすることはわかる。
だが、倍速を否定してみせる奴に限って、同時に「地上波で〇〇を放送しろ」「○○放送記念!」「金曜ロードショーがふるさと」などと言っているケースが多い。あまりにも多い。
少なくとも、同じ勢いで地上波放送を否定する人間は見たことがない。
頭が悪すぎないだろうか?
本来、映画は劇場の大スクリーンや音響を想定して演出しているものだ。作者の意図を無視しているのは明白である。
日本語吹き替えは、オリジナルの音声を削除して別の音声に置き換えている。
CMの挿入に至っては、映像作品を自分たちの都合で切り刻んで編集し、別の映像を追加しているのだ。
オリジナルの棄損だリズムが崩れるだとほざいてるアホどもは、なぜ地上波のこれらの要素は無視するのだろうか。
そしてさらに、地上波放送はそれを一人の個人的な視聴ではなく、公共の電波を使って「何百万・何千万の人間に」見せているのだ。
少し頭を使えばわかる。
倍速視聴で「作者の意図が~」「演出が~」と知ったかぶる前に、真面目に考えればすぐわかる話だ。
ニワカ映画通が言うように「映画を倍速で見る個人」がそんなに「悪」なら、地上波放送なんてテレビ局が焼き討ちにあうレベルの「巨悪」のはずである。
なぜなら、奴らは「そもそも映画が別に好きではない」からだ。映画について考えたことがないのである。
奴らにとっては、映画についてあれこれ考えるよりも「安易に叩けるだれか」を攻撃する方が楽だし、好きなのである。
奴らにとって「映画」というのは、誰かを叩くツールでしかないのだ。
映画に対する知識も情熱もないけど「他人へのマウントだけは絶対に取りたいカス」だから、こんな浅はかなことを言えるのだ。
「最悪」以外の何物でもない。
これを読んだ心ある映画好きの方は、安易に倍速視聴を叩くことをやめてほしい。
もちろん、倍速視聴への是非はあると思う。
しかし、あなたが映画にはまるきっかけになったであろう「地上波放送」の方が、「よほどオリジナルを棄損した歪な映画体験」であるということは念頭に置いてほしい。
倍速視聴を否定することは、地上波放送をすべて否定することなのだ。
エヴァという作品は今やファミレス5大チェーンとコラボして、映画版を金曜ロードショーで繰り返し放送して、ランチパックのパッケージになってユニバにアトラクションができるような大衆向けエンタメ作品なの。
で、旧劇場版やテレビ版なんて見たことないやつもうじゃうじゃいるコンテンツなわけ。
お前らが選民意識丸出しでデュフデュフ言いながら見てオタク同士で考察()したりエヴァがわかる俺私カッケーと玄人ぶりながらも家でエロい同人誌で楽しめる作品じゃなくなったの。
旧劇と同じくらいかそれより尖った作品を新劇場版のエヴァでやったらキモいオタクを喜ばせちゃうわけ。選民意識刺激しちゃうからね。
庵野はそういうオタクにずーーっと拒否感丸出しどころか旧劇場版でしっかり拒絶したのにまさか気付いてないの?
人間は変わるもんなの。クリエイターとして作るものも変わるのわかる?
旧劇の焼き直しとか劣化版とか抜かしてるやつは、旧劇の実写パートをもう一回見て風立ちぬ見て監督不行届のコミックス隅々まで読んでガイナックスに関してのインタビューも読んでエヴァのコラボ検索しなよ。
魚の骨を取るのが滅茶苦茶苦手だ。
海沿いの町で育ったいわば骨取りサラブレッド(?)のはずなのに下手だ。
祖母は模型みたいな骨の取り方をする人で、認知症で私の事が認識できなくなっても私の存在を無視しつつ美しく魚を食べていた。あら、キレイ。
母も父も祖母程ではないがそこそこ上手い。兄弟もある程度はできる。
朝や職場での昼食は避けている。人と食事するときは選ばない。無言で骨取りに集中する。鮭と鰤で今更ながら練習しているがたまに刺さりかける。穴子や鱧、鰻は苦手。秋刀魚も鯛も苦手。干物の食べ方はわからない。
友人や同僚はあんなにスイスイといとも容易く骨取りできているのに…
自慢じゃないが祖母直伝の編み物という特技、切り絵、アクセサリー作りなど正直細かい作業は得意な方だと思っている。
おかしい。
こんな私も小学生まではありとあらゆる魚を食べていた。毎日ではないが、食卓に煮魚や焼き魚が並び、小テストのようにクリアしていた。あの頃は私の魚人生で一番輝いていた。
その後、喉に骨が刺さるまでは。
正直言うと小学校低学年の私は慢心していた。お皿の上のあまり見かけない魚に今までのノリで油断した結果、立派な骨が私の無防備な喉にジャストミートした。痛かった。ご飯を食べても抜けず耳鼻咽喉科送りになった。初めての挫折。
吸引チューブを突っ込まれ悶え苦しんでいる私の診察室になぜか私よりも小さい男の子がいた。意味がわからないがチューブで溺れる私を近くで眺めていた。(個人情報とは?)私を処置した医師の顔は全く思い出せない。ただ小さい子に見られてるからそんなに泣いたらダメだよ~という言葉だけははっきり覚えている。
子供はどうでもいい。こいつ、これが終わったら…!と思った。その医師の喉に骨が刺さる呪いを百万回かけたい。
その後なぜか上手く食べられなくなり今に至る。小学校の給食で骨付きは無理だと担任に涙ながらに訴えた経験は黒歴史だ。その時ちょうど教室のテレビで魔女の宅急便が流されていて、金曜ロードショーで見る度に嫌な思い出がよみがえる。
ちなみにスーパーで「骨無しです」と大きなシールが貼られた魚を飼ったこともある。食べたらしっかりした骨が残っていた。解せない。魚の骨格を覚えたら骨のある場所がわかって取りやすくなるとどこかで見て、魚類の勉強をしたこともある。魚の知識だけは増えた。
下手な自分に諦めはあるけど、やっぱり上手くなりたい。大人として恥ずかしいし、人との食事も困る。子供の頃の大人って美味しそうに大根おろしののった秋刀魚をおかずにご飯を頬張るイメージだった。今の実力で魚とご飯を一緒に食べると確実に喉に刺さる。っていうか大根おろしで骨が見えないから絶対無理。
パラサイト、序盤こそ半地下の一家が金持ちに"寄生"する様がコミカルかつタフに描かれるが、それは人として、家族としての格差に至近距離で打たれ続ける事でもあり、次第に屈辱で皆が俯いていく攻守交代構造がえげつない程に見事だった。全地下の家族登場でアッと驚かせる手際も良いしそりゃ賞取るわ…
@delta0401
これはほんとよく言いたいことを言ってくれてる表現で、「格差に至近距離で打たれ続ける」ことで滅びが生じるというのは現代SNSやネットコミュニティも一緒で、Twitterにしろ2chにしろはてなにしろYouTubeにしろ、リアルと違って言論やアクションだけで評価される場とうたって人を集めて盛り上がりを見せても、次第にリアルの格差が表面化して、打たれ続けることに耐えられなくなった人がどうしようもなくなって場を壊す行為に走るのよな