というよりは「自分視点での感想」をさも「考察」であるかのように語る輩が多すぎるということかな。
ネットで感想を書き続けると人間の次式は肥大化してゆくゆくは感想と考察の区別がつかなくなるのだろうか?
だがこのまま私が黙って「感想と考察の区別もつかねーのかこのカスは」と思い続けていても自体は解決しない。
どうやら私が書いてやる必要があるらしい。
「おおかみこどもの雨と雪の考察」を。
脚本の奥寺佐渡子は細田守の考えを「一般人に伝わる形かつ、一般人も楽しめる形」に落とし込むための存在であるため、作品において「なんでここがこうなったの?」に対しての答えを彼女に求めても「作劇的にその方が面白くなるから」以外の要素は出てこない。
だから考察をするのならば奥寺佐渡子の意図はあまり考えなくていい。
気をつけたいのは、「でも細田守がそういう意図を持っていたのなら、作品の質を落としてでもここはこうしたのでは?」という部分に関しては「奥寺佐渡子がうまい具合にハンドルやブレーキを操作した」と判断すべきであるということだ。
脚本に2人が名前を連ねていることが、おおかみこどもの雨と雪の考察を若干難しくする。
おおかみこどもの制作が始まる2年前、サマーウォーズの製作中に細田守は母親と祖母を無くしている。
父親の方はそれより11年前に既になくなっている。
おおかみこどものキャラクター造形において、この3名の死は深く関わることになる。
この辺については詳しくはインタビューを読んで貰ったほうが早いので手短いに言うと、細田守が自分で「作品作りにおいて影響があった」と口にしているのだ。
主人公が母親であること、父親が途中でなくなること、そういった要素についてフェミニズムだの男女平等社会だの社会派気取りだのあーだこーだと考える必要はなく、「そのときの細田守の境遇がそういった家族像を作中に描くことを求めた」で説明は終わるのである。
母親のモチーフが細田守の実母であるということは、おおかみこどものモチーフは細田守自身となるわけだ。
ちなみに細田守は幼少期に吃音症を患っており、この感覚が社会に普通の子供として上手く馴染むことが出来ない幼少期の雨と雪を形作っていくことになるのは想像に難くない。
それぞれは自分の性質や出会う人物に合わせて、人間社会と山という全く別の社会における適応を目指すことになる。
また、それぞれが目指そうとする場所は途中で交差して入れ替わる。
全く異なる2つの社会をそれぞれに目指す姿は、細田守がアニメ業界という力と才能が支配するオタクの世界と、宣伝や社会性が重視される一般的な社会という2つの世界を行き来しながら有名アニメ監督となった細田守の人生観の反映であろう。
つまり、山において師匠に野生の生き方を学ぶ雨は、アニメ業界で才能を頼りに生きることを選んだ細田守であり。
一方、現実世界で恋をして普通に生きることを選んだ雪は、細田守の妻子持ちとしてのプライベートの姿である。
才能を振り回しケモノとして生きる道と、人間らしく生きる道に対して、細田守が感じる二足のわらじの感覚が、おおかみこどもを二人にするという設定を構築しているのだ。
と思った人はバケモノの子や未来のミライを通して答え合わせをして欲しい。
おおかみこどもの雨と雪はいわば細田守考察における出題編であり、その後のバケモノの子と未来のミライによって、おおかみこどもで考えた考察が深読みだったのか、実際にそうだったのかが徐々にハッキリするという構図になっている。
バケモノの子は7月9日の金曜ロードショー、未来のミライはアマゾンプライムビデオで見ることができる。
それはおおかみこどもの雨と雪だけでやるとゲスの勘ぐりみたいになる。
バケモノの子や未来のミライで伏線回収が終わってから戻ってくるとまあ露骨にそうなんだよねって分かりはするんだけどさー。
分かると言えばサマーウォーズの家族観とかもあとから見るとなるほどねーってなるんだけど、この辺もやっぱバケモノとミライを見てからじゃないと分かりにくいんだわ。
答えから逆算すると簡単な迷路ってたまにあるけど、細田守映画の世界観もあとからだと分かるけどサマーウォーズとかの頃は上手くやってるなーって。
まあまさにこれは「奥寺佐渡子がハンドルとブレーキを上手く使ってた」ってことなんだけどさ。
凄いわあの人も。