はてなキーワード: 単純化とは
「なんだ認可保育園入れろよ、それが親子の最も幸せな選択じゃないか」
ってことだった。
でも初めて知ったんだが、市議会って月にせいぜい5回しか開かれないのよね。
まあ実際は陳情聞くやら調査するやら色々あるんだろうが、実際会議場に行くのはそんなもんみたいだ。
http://kumamoto-shigikai.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=8&id=399&pg=1
この時点でまず認可保育園は無い。
熊本の事情は知らないが、普通の政令指定都市ならパートタイマー以下の「保育に欠けるとは認められない状況」。
じゃあ認可外保育園か施設付きの託児所かベビーシッターって選択肢になる。
ここまでが前提。
まあこの時点で
っつってるけど、月に4、5回の出勤で・・・?っていう思いはある。
けど我慢して整理してみる。
もともとはこういう要求だったよね。
妊娠報告をして「長男が生まれたら一緒に議場に連れていきたい。
議会内に託児所を設置するか、予算が厳しいならベビーシッターの手配または部分的な補助を出してほしい」
と要望した。
一歩でも子育て世代の議員を増やすための環境整備を進めたいとお願いしたが、市は
「議員さん個人でベビーシッターを雇って、議員控室で見てもらってください」という答えだった。1、2時間話しても平行線だった」
https://mainichi.jp/articles/20171129/mog/00m/040/002000c
「議会職員、議員、傍聴人が利用できる制度を作るためにベビーシッター手配や
ってことだよね。
で、その先遣隊が自分だと。
じゃあ議員報酬月額674,000円だけど、その中から出さないのはなぜ?
条例とか作らずに公費を私的に利用しようとするのは公費の私的流用(舛添のシルクの服とか)とは違うの?
議会に関わる人が使える託児所やシッター代は、今後熊本市が出していきましょうよ、って交渉してたの?
どっち??
私も、将来的には保育所無償どころかベビーシッター代も助成してくれる世の中になればいいと思ってる。
公務員や議員があるべき世の中の提示をして、先に自分たちに対して実現していくのは結構だけど、
現状、保育料なんて自営業のための経費としても認められない。
その中でベビーシッター代を出せとか出さんとか言うのは、熊本市の予算案をどうこうしたり、条例を作ったり
「あんたのあの議題、賛成してやるからちょっとこの託児の議案そっちから出してくれん?」
とか言って偉い人に取り入ってやるんじゃないの、政治家だから。
なんでそんな鈍くさいやり方なの、ハウス・オブ・カード見ろや!
認可外保育園、平成29年6月1日現在熊本市内に50ヶ所ある。
ちょっと驚いた。
うち半数の認可外保育園23ヶ所が熊本市議会のある中央区に存在している。
それ使わないのなぜ??
私が目指すのはさまざまな子育てや働き方のスタイルを認め合うこと。
一緒にいるのは赤ちゃんにも母親にも大切。赤ちゃんの発達にも必要で、
大事な部分でもある。産休後は「預けなければいけない」ではなく、
母子を分離しない働き方もできるようにしてほしい。
https://mainichi.jp/articles/20171129/mog/00m/040/002000c
なるほど、様々な働き方のスタイル…
結局、個人的に「母子が一緒にいるのが、預けて仕事に出るより大事で幸せだと思ってるから預けなかった」ということ?
個人の感覚だからなんとも言えないけど、私は仕事のあいだだけでも、保育のプロが真摯に面倒見てくれるのが一番幸せだと思うわ。
子供にとっては。
私が自営の仕事の片手間に世話するより何倍も幸せだと確信してる。
入園してしばらくしてから保育所にお世話体験に行ったんだけど、
先生は常に歌ったり(凄まじい数のレパートリー)、絵本読んだり、リズム遊びしたり。
まだしゃべらない子の代弁をして、決して怒らず、栄養満点の食事をみんなと食べて
大きな遊具で体をいっぱい使って遊んで、外に行っては砂や落ち葉にまみれて転げ回る。
ありがたくて涙出そうだった。誇張じゃなく。
7ヶ月の活発になる段階の子供を、静粛を要求される議会に連れてきてずっと抱いて座らせておくのが、
それでも親子の幸せに寄与する。なぜなら母子が分離されないから。
って言うなら、そりゃもうこの人の考え方だし仕方ないよね。
個人的には「できると言えばできるが能率は3割減くらい」という感覚。
意外に新生児の方が楽で、6ヶ月~2歳くらいは指示が通らないけどムチャ動くので本当に過酷。
カフェで子供を抱いて座ってるのすら落ち着けないのに、議会で子連れはどうだろう。
あと、そもそも「100%の力で仕事しなくてもいいじゃない」っていう意見。
これ、実は分かる。
うちも従業員の方々には「7割くらいの力でやってくれたらええでー」と言っている。(従業員が子連れで来ることもある。)
忙しいんだよ現代人は。
ただ議員ってどうだろう。
議員にならないその他大勢に「私の代わりに頼む」って言われてその席に座ってるんだよね。
体調不良で欠席、わかる。
でも月に4~5日出てきてその席に座ってる時に、あなたが代表している市民のために100%の力を出して
集中して仕事して下さい、って言うのはそんなに非道で、子持ち議員に厳しい要求だろうか。
パフォーマンスだ。本人もそう言ってる。
https://mainichi.jp/articles/20171129/mog/00m/040/002000c
青い芝の会の事だよね。
移動の自由という基本的人権に関わる事を不退転の決意で成し遂げた「パフォーマンス」と同一視すんの、
自分を、という感じだけど。
政治家が政治的パフォーマンスをする事を悪いとは私は思わないし、テロとかいう人もいるけどそれは物事を悪意ある
単純化に貶めていると思う。
だが、
こういうやり方は限界と分かっていて、みんなが悲鳴をあげているのに、
訴え続けても何も変わらない。
声を聞いてもらうにはもう議場に我が子と座るしかない。
これが分からんのよ。
誰のどんな声を代弁してるの?
議員控室で子供を預けてもいいと言われたが、母子を分離したくないという自分の思いを快諾して貰えなかったこと?
少なくとも、職場に子供を連れて行って仕事をする事はぜったいにムリ、っていう私の声は入ってない。
子連れ出勤が世の中に広く認められるようになったら、フリーランスや経営者は認可保育園のポイント
減らされてもおかしくないけど、その悲痛な声は代弁してくれんの?
自営業になる前は上の子供を職場に連れてって、タブレットでアンパンマン見せながら必死にコード打ってたけど
あの時の私の悲痛な声は「夫はよ帰ってこいや」でしかなかった。
父親はちゃんと母親と同じように子連れで仕事する負担を(残念ながら負担なんだよなあ)負ってくれんの?
昨日もうちの子は風邪で保育所Removeだよ!助けて駒崎さん!!
一体何を訴える、誰に利益をもたらす想定のパフォーマンスだったの?
子育て世代の悲痛な声が、私のところにはたくさん聞こえています。
って語ってるけど、毎日新聞では
--いつから子連れで議場に入りたいと議会事務局に要望していましたか。
ってある。
後付けでもなんでも社会がいい方向に行くなら、って考えもあるだろうけど、
これはいい方向だろうか。
子持ちにとって、子無しにとって。
煽る系新書が嫌いだ。
いわゆる「○○が日本を滅ぼす!」系の新書見るとオエーとなる。
新興レーベルで、分かりやすく書かれてて、「○○の真実!」とか「○○は××である!」みたいなやつ。
確かにそう思えるかもしれないけど、そんな単純な話じゃないのにと思う。
色んな経緯や事情が複雑に絡み合って、そういう事態になってるのに、一部だけクローズアップして単純化してるのが嫌だ。
売れないからそうせざるをえないんだろうけど。
知識をつけたいシニア世代や、急に社会問題に目覚めた若年層にウケるんだろうけど。
それでいかにも自分は事情通だ、分かっている、この問題を憂えているみたいなのが引く。
そんな単純じゃねぇよ、単純化かつ扇動的な説しか知らないやんと思う。
出版やマスコミ業界も読んでもらって売れなきゃ意味ないし大変なんだろうけど。
でも売れればいいのかと思ってしまう。
倫理的にどうよ、なんだけどそれどころじゃないし難しいんだろうな。
なんでいつも「戦争か亡国か」の二択になるの?
単純論でこの究極の二択にされたらやはり若者ほど保守に傾くしかないというのも分かるよ。
今は戦争なんかより経済政策の方がよほど差し迫った問題だし、そこが焦点になるべきだろう。
安倍はその点で成果出してないにも関わらず、
生粋のネトウヨなのかクラウドワークスで仕事を受けた工作員なのか知らんけど、
まるでマニュアルがあるみたいに口を揃えて「それでも民主政権よりマシ」などと言って火消し、
この問題に触れられるのを避けたいみたいだ。
改憲なんてどうでもいい。するならするで、さっさとしたらいいと思ってる。
相手方をウヨだサヨだと罵り合うイデオロギーの対立の形に落とし込まれてしまう。
まあ、これはネット上に限った話じゃなくて、
だからさ、「変えない」と「この対案に変える」の二択があるでしょ。
それは違うと思う。
「変える」か「変えない」かという思考方法はゼロイチ思考で物事を単純化しすぎてると思う。
大半の穏健派の人は、「日本国憲法の基本理念等は今のままでいいと思う。ただし、現実と合わない部分は一部修正する」程度の態度だと思うが。
で、人権ガン無視、復古的な道徳、価値観の押し付け。そういうカルトが強く推している。国会議員ですら武藤、片山、西田とかひどい発言をしていて、武藤以外のうのうとしている。
そもそも「権力者を律する役割」というのがぶっ飛んでる。改憲派の憲法学者にすら見捨てられ批判され、憲法学者がほぼ全員批判している。
個人的には関心もないので調べていないが、日本会議の人も「1から人権無視の国家に使えるための憲法を立ち上げる」みたいな過激派は一部では無いのかな?
理想主義者の人も「権力者を律する役割」の憲法が欲しいなら、自分でそれに基づいて日本国憲法に変わる新しい憲法を提案していけば良いと思うしね。
そして例えば、その提案を全部飲む、というのは難しいだろうが、一部でも「この部分は良いよね」という部分があれば、取り入れてもらえるかも知れないしね。
一方、私がロンドン証券取引所に上場している企業の中間管理職の社員だとしよう。試しにカジュアル服で出勤するなんてことはいちどもなく、いつだって(ビーチでさえ)スーツとネクタイを着けている。そんな私が例の経済学者を殴ったら? 解雇歴と前科が残り、評判についた傷は一生消えないだろう。情報の反脆さの完璧な被害者になるのだ。しかし、建設作業員やタクシー運転手のように、最低賃金に近い仕事をしている人は、評判にそれほど左右されないし、好きなように意見が言える。
だが反脆い芸術家と比べれば、彼らは頑健にすぎない。住宅ローンを抱えた銀行の中間管理者は、究極に脆い。実際、そういう連中は価値体系の完全な囚人となり、芯まで腐り切ってしまう。毎年バルバドスで休暇を取るという人生に依存しているからだ。それはワシントンの公務員も同じだ。ここで、誰かの評判の独立性や頑健さを調べるのに便利なヒューリスティックをお教えしよう(繰り返しになるが、ヒューリスティックとは「単純化されたシンプルな経験則」という意味だ)。ほぼ例外なく、奇抜な服装をしている人の評判は頑健であり、場合によっては反脆い。一方、きれいに髭を剃り、スーツとネクタイばっかり着けているような連中は、情報に対して脆い。
3メガが大規模リストラへ 三菱UFJ9500人 みずほ1.9万人 (1/2ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sankeibiz.jp/business/news/171030/bse1710300500003-n1.htm
キャラクターは人間を模しているが、人間を再現してるわけではない
特徴を抽出し、単純化して、物語の都合に良いように組み替えたものである
その特徴のみで対象をラベリングして論ずることがいわゆる「萌え」である
それゆえ、キャラクターの行動に一貫性がなければ、キャラぶれなどと言われて叩かれる
キャラクターが些細なことから落ち込んで弱さを見せたりすると、誰得シリアスや監督のオナニーなどと言われて叩かれる
表層の設定や外見だけで、異なる作品のキャラクターを同一の如く捉えて囃し立てる
人間はもっと複雑で、行動に一貫性などあるわけ無くて、弱くて愚かな存在だと言うのにだ
(追記)
このように言い切ってしまうのも、また単純化でしかないな、反省
(追記ここまで)
そうすると言い方は悪いかもしれないけど、女性をある意味障害者みたいに扱うべき、ということになるよね。
車椅子の人を鉄道会社の乗務員が手助けするように、女性にも一定の配慮が必要だってことになる。(鉄道会社が車椅子の人の乗り降りを手伝ってるのは良いことだと思ってるよ)
たしかに、自らの属性によって損してる人たちを同じ場所まで引っ張り上げるべき、という意味では同じだと思う。
男女平等!って人は男女の違い(差)を認めたがらないように感じてたんだけど違うのかな。
「男女平等!」って言う人にもいろいろいて、その中でも実質的な男女の違いを認めたがらない人もいる。でもそれは間違っている。事実、そうではないから。
「女より男のほうが平均知能が高い、だから男のほうがエラい」みたいな短絡思考になるひとがめちゃくちゃ多いから、それが事実だとしてもそういうアレな方向に傾かないような慎重に言葉を選べ、ということだと思う。
単純化すると、
差別してしまうとき、人は理念上の格差と実質上の格差を混同している。
男は強い(実質上の格差)、強いものはエラい、男は女よりエラい(理念上の格差)、というように。
そしてまた、
差別に対抗しようというとき、人は理念上の平等と実質上の平等を混同する。
男女は平等だ(理念上の平等)、平等だから男と女は変わらない、男も女も強さはおんなじだ(実質上の平等)、というように。
理性的に考えればどちらも間違っていて「実質的に生まれ持った格差がある」ということと「理念上は平等でなければならない」は両立するはずなんだけど、うっかりするとどっちかに傾いちゃう。
親権者とか法的な保護義務者じゃないなら、黙って追放したらいいだけ。
そもそも殴る権限って無いでしょ。ルールに従えない人は粛々とその場から排除する。
いろんなニュースを見ていて、結構単純な結論にたどり着いて、「権限を持つにふさわしくない人に権限を与えたら、ろくなことをしない」ってことに行き着く
東芝やカネボウなんかが傾いたのは無能な人を即時解雇・追放することが出来なかったからで、地位にふさわしい能力を持ってない人が蔓延する組織はだいたい衰退するか滅ぶ。
「権限を持つにふさわしくない人」は権限濫用や逸脱行為が多いので、わりとすぐにわかる。
世の中なんでも表裏一体で、多様性を認めるほど管理する側のリスク管理のコストが上がって、排除を強めるほどディストピアだとか独裁だとか言われる。
人道支援や平等主義がちょっと強くなりすぎて、「権限を持つにふさわしくない人に権限を与えたら、ろくなことをしない」弊害が日本の日常生活から世界中の国々の幅広いところに至るまで強くなってきている。
その弊害の結果、排除の風潮が強まってきた。リスク管理をやりやすくするには、多様性を管理可能な水準まで落とすだけでいい。リソースがないときは、そうしないと自分たちまで死ぬから。
みんな殺されたくないから生きていて、宗教だ歴史だ人種だというのは後付けの理由でしかない。
絶滅危惧種を保護する活動する人だって牛丼や豚肉のしょうが焼きは食べてるんですよ。生きていくための商売として絶滅危惧種を題材に使ってるわけで牛や豚の命は割りとどうでもいいわけです。
あの人を排除する、あの会社を排除する、あの学校を排除する、あの人種を排除する、あの国を排除する。「排除する」は「死なせる(広義の意味で)」に置き換えても成り立つ。
管理する側の理屈としては、殴って言うことを聞かせるのも風評リスクが発生するだけなのだから、あのトランペッターさんは黙って子供を会場から出せばよかっただけです。
アメリカの大統領が最近日本に米軍駐留費全額負担だとか言い出したり、アメリカで白人至上主義団体が暴れだしたりしてるのは、単にカネがないから。
アメリカの人々および国が衣食足りるようになれば以前のようなアメリカに戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
アメリカがお人よし的に世界の警察やお節介やってるおかげで存続できて、自力では国家維持できない国がある。代表的なところでは日本だけど。
天然資源も石油も取れないし、近隣に核武装してる上に強固な軍隊を持っていて、領土と資源が豊富な国連常任理事国が近所に2つもあるのに日本国が存続しているのはアメリカが何らかの目的があって日本を生かしているからで、アメリカがロシアと仲良くしだす、アメリカがロシアと日本の接近を黙認するというのは日本を死なせることにしたということ。
お友達も増えるほど維持やトラブル回避するための関係管理がめんどくさい。アメリカがロシアと、あるいはアメリカと中国が仲良くなるんなら日本と朝鮮半島は不要なわけで・・・
本質は意外と単純なものかもしれない。複雑な問題は解けるレベルまで単純化すればいいだけで、これはまさしく経済学のやり方であるらしい。
うちの親父が年収大体3500万くらいだった
1日5000歩歩く、とかそういうくだらないものでも一切曲げない
最近は暑いから部屋の中を万歩計見ながらぐるぐる歩いてるが、絶対意味ない
そういうくだらないのを抜きにしても、例えば重度のチェーンスモーカーだった父は「俺は明日からでも別に禁煙なんてできる」と嘯いて全く信じていなかったが、
父の知人が肺がんと発覚した翌日から、持っているタバコを全て捨ててピタッと止めたのは今でも覚えてる
家の中を歩いても意味がない理由を私が述べても無視するが、医者に言われると信じる
もちろんものにもよるが、基本的に後から自分で答え合わせをすることに意義を感じないものは、その道の専門家の言うことを全面的に信じることで判断基準を大幅に単純化している
仕事をする上でもそうだが、判断に必要な材料が足りない、あるいはその材料を集めることに意義を感じないものについては、専門家の意見を信じるのが一番確実だと言っていた
父が家事を手伝ってほしいと言われた際、父はサイクロン掃除機と食器洗い乾燥機とななめドラム洗濯乾燥機を母に買った
父は一切の家事ができないので、手伝えと言われても何も出来ない以上、家事が楽になる道具を一通り買えばよいだろう、と言うスタンス
これも上の話に似ているが、今更努力して会得しても赤点になるようなものをこれ以上頑張る理由が無い、ということで、そういうときはお金で専門家を呼んでくるのが良い、とのこと
上記二点を行うことで時間を開けてから、仕事に関わるものの勉強をしていた
結果的に仕事以外の部分は一ミリも尊敬できない父が出来上がったのだが、まぁ、それも父の生き方なのだろうと思って眺めることにした
ちなみに最近は何を思ったのか70を超えてスイミングを始めて、しかもとりあえず全ての泳ぎ方を学びたいということでクロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの練習を始めた
結果、腰を痛めてしまったようで、最近朝起きられないと嘆いていた
「恋人がほしい」と言って詰られる漫画が最近話題、もとい炎上した。
あそこでマジレスするキャラはただのアスペとしか言う他ないが、一口に恋人が欲しい、と言うのも自分の欲望を単純化しすぎている気がする。
・知人同士(決して友人同士ではない)で張り合うための材料として恋人がほしい
等々......理由は様々ある。
そんなの浅ましいと思うかもしれない。だが、相手を定めずに恋人がほしい理由なんて、自分本位なものだろう。
理由もわからずにただただ欲求と他人からの糾弾の板挟みになるのは耐えられない。せめて自分くらいは自分の欲求をわかってあげたいではないか。
しかし、それがわかったところで、どうしようもないことは数えきれない程ある。
例えば、私の恋人がほしい理由は、「愛のあるセックスがしたい」というものである。こればかりは、漠然と相手を立てていても難しいし、友達と欲求を満たすこともできない。
以下は最近グーグル社員が社内でダイバーシティに反する差別的?文書を開示したという理由で解雇された騒動において、問題となった文書「Google’s Ideological Echo Chamber」の日本語訳です。底本は米ニュースサイトMOTHERBORDが入手したPDFを利用しています。この案件ははてなでも注目されたようですが、その反応をみるにほとんどの人が原文を読まずにコメントしているようなので参考のため翻訳してみました。訳者は別に英語を仕事にする人でも特段英語能力の高い人でもないので、この日本語訳自体を引用して何か言及するのは恥をかく可能性があるので薦めません。また誤訳の指摘は歓迎です。なお、参考リンクについてはグーグルの内部ネットワークに繋がるもの以外は全て記載しましたが、ウィキペディアにリンクしている部分は参照している記載が削除されてしまっていたりするので、この文書が作成された7月あたりの版を読む必要があります。
バイアスが多様性と社会的包摂についての私たちの考えをどのように曇らせるか
私は多様性と社会的包摂に価値を置くし、性差別の存在についても否定しない。ステレオタイプを利用することも認めない。私たちが集団における登用ギャップを解消しようとする時、必要なのは集団レベルにおける分布の違いに注目することだ。もし、このことについて誠実な議論ができないのであれば、私たちは真に問題を解決することなどできない。
心理的安全性は相互尊重と受容によってつくられるが、不幸にも私たちの恥ずべき文化と欺瞞は残響室の外にいる人間を尊重しないし、受け入れもしない。
そのような公的反応にもかかわらず、私はこれらのとても重要な問題提起に対してグーグルの同僚たちから多くの個人的賛辞をもらった。彼らはこの問題提起には同意するが私たちの恥ずべき文化と解雇の可能性のために声をあげることも擁護することもできない。このような状況は変革されるべきだ。
人は一般に善良な意図を持っている。しかし、私たちは皆自覚のないバイアスを持っている。感謝すべきことに、物事を鵜呑みにしない人々による開かれた誠実な議論は私たちに見えていない物事を照らし出し、私たちが成長するのを助けてくれる。それが私がこの文書を書いた理由だ[2]。グーグルにはいくつかのバイアスがあり、このバイアスに関する誠実な議論は支配的イデオロギーによって沈黙させられている。ここからの記述は完璧なストーリーではないが、グーグルで是が非でも語られるべき視点だ。
グーグルにおいて、私たちは人種やジェンダーに由来する無意識のバイアスについてとても多くのことを語る。しかし道徳的バイアスについて議論することはまれだ。政治的指向は実際には深層の道徳的選好の結果であって、すなわちバイアスなのだ。社会科学とメディア、それからグーグルの圧倒的多数が左派寄りであることを考慮して、私たちはこれらの偏見を批判的に吟味すべきだ。
左派バイアス | 右派バイアス |
---|---|
弱者への共感 | 強さ/権威の尊重 |
不平等は不正のせいである | 不平等は自然であり正しい |
人間は生来協力的である | 人間は生来競争的である |
変革は良い(不安定) | 変革は危険だ(安定) |
開放的 | 閉鎖的 |
理想主義的 | 実利的 |
どちらの側も100%正しくはないし、どちらの視点も機能する社会、この場合は会社に必要なものだ。極端に右派的な会社は反応が鈍いかもしれないし、あまりに階層的かもしれないし、外部を信用しないかしれない。対照的に極端に左派的な会社は継続的に変化するだろうし(愛されているサービスを非難する)、あまりに関心を多様化させるし(コアビジネスを無視するか、恥ずべきことと思う)、あまりに従業員と競争相手を信用しすぎる。
事実と理性だけがこれらのバイアスに光を当てられる。しかし、多様性と社会的包摂の話になると、グーグルの左派バイアスは恥によって反対者を沈黙に追い込むことによって固定化される政治的正しさの単一文化を作り出す。この沈黙は侵食する過激派と権威主義的ポリシーに対するあらゆる歯止めを除去する。この文章の残りで、私は社会的成果の違いは差別的取り扱いと平等な登用を作り出すために実際上の逆差別を義務付けられる権威主義的要素によるものだという極端な立場に焦点を合わせる。
グーグルにおいて、私たちはいつも黙示(無意識の)、明示のバイアスが女性を技術職と管理職から疎外していると語られる。もちろん、男性と女性はバイアスや技術や職場を異なった形で経験するし、それを私たちは認識すべきだ。しかし、それだけで全ては説明できない。
平均して、男性と女性は多くの点で生物学的に異なっている。これらの違いは社会的に構築されたものだけではない。
なぜなら:
注意:私は全ての男性が全ての女性と以下のように異なっているとは言っていないし、違いが”正しい”とも言っていない。私は単に男女の選好と能力の分布がある程度生物学的な理由により異なっており、これらの違いは技術職と管理職において平等な女性登用が見られない理由を説明するかもしれないと言っている。これらの違いの多くは小さいし、重要なことに、そこには男性と女性とで重なり合う部分がある。そうであるから、これら集団レベルでの分布から男女個人について言えることは何もない。
(チャート画像)(https://video-images.vice.com/_uncategorized/1502146696203-Screen-Shot-2017-08-07-at-65310-PM.png)
下段:人々を集団的アイデンティティに単純化し、平均が代表だと仮定することはこの重なり合いを無視する(これは悪いことであり、私はそれを認めない)
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長すぎたのか投稿できなかったので分割。
勝手に失望し、勝手に裏切られる人たち - Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20170708
この話、本当に分かる。
ちょっとキチったアニオタはこうやって怒り出す事が多いし、途端にアンチになったりする。穏やかじゃない。
ネットゲームで妙に馴れ馴れしい人はこうやってキレてトラブルを引き寄せ、周りにたしなめられる事が多い。
増田で政治やらフェミやらでマウントしあってる人らも素性もしれぬ他人の品性に期待しすぎて勝手にストレスを溜めている。
世の中は、人間は、もっと複雑で繊細なバランス感覚をもちあって社会を構成しているのに、
大人になれない人はそういう機微を汲み取れないが故に、物事や立場を単純化しすぎてしまっているように見える。
「お前も迷惑かけて生きてんだから俺が迷惑かけるのも許容しろ」なんて論法の喫煙者が昨日いたが、これも同じ類型に思える。
なぜなら「迷惑」という複雑なものを単純化しているから。単純化して、自分と同じか、違うかくらいの差しか感じ取れていないから。
迷惑の量や質や程度、時、場所、誰が相手か、何について、どんな言い方・やり方でそれが起きているのか。
それらのパラメータの複合的な組み合わせによって、何万とおりもの中から「こういうのなら許容できる」「これはダメ」
というきめ細やかな判断を誰もがしていて、そういう判断の相場も社会的にある程度は共通認識があるものだ。
けれど大人になれない人は、そういう細やかさを全部ぶっちぎって、ローラーでおしなべたような感覚で物を言い、
それが人が嫌がることを平気でできる幼稚さだとか、勝手な失望、過度な同質化(自分との同レベル化)を求める言動に繋がっていくのではと思う。
世の中のほとんどの人は、社会的に許容されるレベルの迷惑の中で生きているのに、大人になれない人は、自分が許容外のはみ出した域にある事を自覚しない。
きっと育ちなどの影響もあって、周囲も同じくらいはみ出し者の集まりだったりするせいで観察眼が養われないのかもしれないが、
とにかく自覚できないので、自分は人並みだと主張する。他人もそんなにレベルが高くないと主張する。
その上「お前が言うな」的な観念をなんにでも適用しようとして、よほど立場が上の人に注意された時以外は、注意を聞かない。
非建設的なのだ。その場ではわかったフリをしても、何度注意しても直らないし、直さない。
表面上はそう見えないこともあるが、その内面は謙虚さに欠け、他人をいつもどこかで見下そうとする人達だ。
テレビを見ながらよく否定的なケチをつける傾向もあるかもしれない。ネット上の他人に対してもテレビのヤジ感覚なのだ。
私の父親もそんな感じで、生活上のマナーや道具の使い方を何度言っても直せないのだが、プライドの高さとASD傾向が重なるとそうなるのではと思っている。
彼らはいわば「低みに導こうとする人」で、一方の勝手に失望する人たちは「高み(=自分の感覚)との差異を許せない人」と言えそうだが、
その根底は共通していて、ものごとの認識・受容についての相場感覚が著しくズレており、人間や社会の複雑さについて柔軟に想像できないということだ。
ネットでもリアルでも、こういった人に遭遇した時、しかも既にコミュニティに入り込んでいて付き合いを避けられない時、
内容はまぁまぁ。売上はとても悪かった。音楽は歌詞入り曲2曲のために買った。
大学進学と時期がかぶったせいかもしれないけどキャラデザの時点で見ないってことが増えたのはこのあたり。
LAST EXILE、攻殻機動隊SAC(2は好きじゃない)、プラネテス、十二国記、ガンダムSEED。
ガンダムは今の時代は作るの難しそうに感じるけど自分が大人だからだろうか。
キャラ萌えとか元からする人でないのもあるけどキャラ萌えとかカッコイイとかない。
でも楽しめる人は否定しない。
アニメだけじゃない話で、
情報を様々な形で大量にやり取りできる今の時代において、いい映画は生まれるのだろうかって思います。
世界で評価されたいなら単純化した作品はとても難しい気がする。
というのは思い込みなのかな。
自分は時をかける少女(細田)以来、アニメーション映画しか見てないよ。
時間もないし。
みんな秒速を見よう。君の名はもいいけど秒速。
被告は犯行当時、妻子がいたというが、自転車で追い抜きざまに小学校高学年くらいの女児の体を触るなどの犯行を30~40件繰り返していたという。
「放射能検査を装う 女児の体触った男初公判 容疑認め涙 類似の漫画作者に県警申し入れ」
http://www.sankei.com/affairs/news/170622/afr1706220026-n1.html
犯人が妻子持ちってことは、成人女性とも普通に性的関係になれる男だということだよね?
「ロリコンは幼女が相手じゃないと性的充足を得られない」という先入観を鵜呑みにして、それゆえに危険だと敵視する意見も、性的マイノリティだと擁護する意見も、どっちも的外れじゃん。
ついでに言っておくと、クジラックスの漫画で抜いているのは、ロリコンじゃねーから。
これは案外オタクじゃないと分からないことかもしれないけど、二次元でロリキャラが好きなのと、三次元の幼女が好きっていうのは、全然ちがうことだからね。
あと、クジラックスの漫画で抜くからといって、他のエロ漫画でもロリキャラが出てくるものが好きだというわけじゃない。
そのへんは個人差がある話だろうけど、あまり無茶な単純化をしてほしくない。
表現規制の論者はオタクのことを何も分かってなくて、そのセクシュアリティを一方的に決めつけていたり、とんでもない勘違いをしている感じがあるなーとは思っている。
規制するということは実際に効果を期待しているということだろう。
子どもに対する性犯罪の件数の減少という効果を期待しているということだろう。
ロリポルノ作品は社会に受け入れられない人々の受け皿となっている。
受け皿を壊したところで中に入ったものが消えて無くなることはないのである。
単にこぼれるだけだろう。
社会には様々な考えを持った人がいる。それ自体どうしようもできないことだ。
社会的な強制力を持って考えを改めさせようと迫ったところで当人の本心が変わることはないだろう。
なぜなら強制力を持って考えを改めさせようとすると当人には強制で意思を変えさせられたということがわかり、
この世界には世間で受け入れられた考えと受け入れられていない考えが存在している。
前者の考えを持つようになった人間はともかく、問題は後者の考えを持つようになった人間である。
彼の考えは社会に受け入れられない。
彼が社会に受け入れられるために必要なのは彼が思ってもいない社会に受け入れられる考えを口にすることである。
その状況は彼にとって大きなストレスとなろう。
しかし、マジョリティの支配する表面に現れた世界の他にもマイノリティの支配する隠れたコミュニティが存在している。
こうした世界では世間で受け入られていない考えが是認されている。
彼の持つ社会に受け入れられない考えを是認するコミュニティが存在するとする。
この世界の存在により彼は(限定された)社会から真に受け入れられることを可能とする。
これらのコミュニティの存在を支えているものとして表現の自由がある。
自分の考えを自由に表現したり、発表する権利がなければコミュニティは存在しえないのである。
仮に表現の自由のない世界であったとしたら世界では世間で受け入れたれた考えしか存在を許されず、それ以外のものは一切排除されるだろう。
ロリポルノ作品は社会で受け入れられていないが、それを是認するコミュニティが存在している(これは具体的な特定のコミュニティとは限らない)。
規制を行うということはこのコミュニティの存続を揺るがすということにつながる。
以上で話した通り規制によってコミュニティの参加者が考えを変えるということは考えにくい。
よってこの規制によりどのコミュニティからも自分の考えを認められることのない、社会からこぼれた人間が出て来ることになる。
この人間が性犯罪の加害者になるとまで単純化することはできないだろうが、
子どもに対する性犯罪の件数の減少という効果が得られるかどうかということに関して疑問符をつけざる負えない。
余談: