はてなキーワード: 単純化とは
私は良く言えば穏便、真実に近い表現としては闘争心のない腑抜けなのでその感覚を理解したことがなかったのですが、
悲しみからもその心境に至ることに身をもって実感したのでここに今の気持ちを記したいと思い筆を取りました。
こうなるまで気が付かなかったのですが、自分は自分が思っていたよりも、同人活動の理想があったのだと知りました。
そして今自分がいるカプの村の空気は、自分にとって生きやすい環境でなくなっていたことに気が付きました。
しばらくそのことに気が付かず、なぜカプのことは好きなのにこんなに創作活動についてネガティブになってしまうのだろうと悩んで苦しんでいました。
単純に自分がカプの村の雰囲気にそぐわない存在になっていたからなのだと理解した記録です。
私はアンソロを好みません。
二次創作の醍醐味は個人の濃密な公式の解釈を作品を通じて読み取れることだと考えているからです。
軽い言い回しを使うとアホエロ本だとしても、作者がどこまで公式の作品や人物、カプについて拗らせた結果か伝わってくるものと信じています。
Twitterで自分の好きなシチュエーションだけをいくつもツリーでつないでTLを占領することを好みません。
同じ理由で140字SSも好きではありません。
イラストと違い小説はある程度の分量を持ってこそ強みを発揮すると思うからです。
もちろん頻度の問題ですが、あまりに大量になると、意図せず他者のネタつぶしにつながると思うことも理由です。
投稿している本人はそのようなことは気にしないのかも知れませんが、既に書かれてるなら、とリスクを回避する人も少なくないと思います。
いつも同じメンバーで形成された身内感の強い企画に引いてしまいます。
自分が決してそのメンバーに選ばれないことへの嫉妬ももちろんあります。
それでも、同人活動を介して仲良し度をアピールする場になっているように見えるのは格好のいいこととは思えません。
それを外から見た時に、身内色の激しい界隈なのだと見られることも、必ずしも良いことと思えないからです。
過度のパロディを好みません。
作品が発表され時間が経ち、やることをやり尽くしたあとでしたらそういった作風への模索も納得出来ますしむしろ好きです。
ですがまだまだ現役で公式が動いていて、語り尽くされていない余白の多い作品の二次創作で
理由のない性別転換や、キャラクターの設定からかけ離れた職業設定にされた作品に胸を痛めます。
(例えばスポーツを題材にした作品で大会の優勝を核とした物語の登場人物が生粋の犯罪者に変換されているようなレベルを指します)
そして別にこれらの作品が自カプの村に存在していても、個人の同人活動には本来何ら影響を及ぼしません。
ただ、今、自分がいる(いた)村は、これらがその村のすべてになってしまった(ように見える)結果、
その村の輪の中にいられないと感じた、それだけのことです。
そうなった時、黙ってカプから離れて新たにハマれる作品やカプに活路を見出すことが健全な解決法なのでしょう。
しかしまだ作品が、カプが好きで好きで仕方ない、まだまだ作品の行く末を楽しみたい、
何よりもまだ、書き残したことがある、そう感じた時、人は村を焼くのだと思いました。
単純化出来ないことは承知の上で、同人活動には2つのタイプがあると考えます。
個人の発想を発表し、楽しそう!と共鳴した人々の間で含まらせて盛り上げていくスタイル。
アンソロや局地的非公式設定はこの共鳴が結実した結果と思います。
どちらに優劣がある理由でも、是非がある理由でも、善悪がある理由でもありません。
好き好きだと思います。
現状の村の活動は、もちろん、100%の善意で行われています。
これはとても素晴らしいことだと、本当に思います。
ただ、いつからかこの活動に馴染めず違和感を感じていたところ、底辺作家であることもあり、いつの間にかいないものとして扱われるようになっていました。
少し前に、公式に疑問を感じるようになったのは、その作品のターゲットでなくなっただけ、という議論が話題になりました。
その表現を借りれば、私はカプの村のターゲットから外れてしまっただけなのだと思います。
ここに至るまで自分も、村の雰囲気を楽しみ、Twitterでの萌え語りやコラボカフェなどのリアルイベント、即売会でのアフターに混ぜてもらったり、充実した時間を過ごして来ました。
今は日々と投下される公式からの燃料に村人と盛り上がったりすることも、もう出来ないことの喪失感に苛まれています。
私が村を追われても世界は何も失いません。
自分のためにそのことを忘れないでいたいです。
一般的な会社のビジネスモデルは、たくさん受注してたくさんこなせばいい、というレベルまで単純化されており、経営者もその認識だろう(俺の妄想)
なので、人材は使い倒してなんぼだし、安く雇えるなら安く雇えばよい。
仕事をこなせる人材のみを面接でフィルターするわけなので、それで問題はないはずだ。
正社員枠なら給料安くても入れ食い状態だし、もともとうちはそんな定年まで働けるような大した会社じゃないし、
売上が落ちたら即倒産なんだから、不景気になったら人を減らし辛いとか悩む方がアホだよな。
「みなさん!わが社は中小なのでちょっとした経済状況の変化で容易に傾いてしまいます。みなさんの頑張りだけが頼りです。一緒にこの会社を大きくしていきましょう!」
アイドルと恋人になれるとは思っていないが、アイドルに処女性と疑似恋愛的サービスを求める様は、
神の実在を心から信じているわけではないが、神の救いを求める迷える羊によく似ている。
一方でアニメオタクは対象が非実在であるので、どちらかといえば原始的な、神話への信仰に似ている。
・球場によって広さが違う。ある球場ではホームランのものが、別の球場では3ベースヒットになる。ある球場では3ベースヒットのものが、他の球場では2ベースヒットになる。は? こんな標準化されてないふざけたスポーツ他にあるか? 敢えて挙げればゴルフくらいだろ。
・タッチアウト。単純化して言うと、一塁以外はタッチしなければアウトにならない(ランナーが詰まっている場合の他の塁もタッチは不要)。競技の性質上、改善のしようがないのだろうけれど、ランナーと野手の間で鬼ごっこが始まるのが非常に見苦しい。ランナーはランナーでタッチをかわすために忍者みたいになる。それはそれでおもしろいしイチローはエンターテイナーだと思うけれど、いかんせん見苦しく、洗練されてない感がある。ホームベース上でキャッチャーに体当たりするランナーもそりゃ出てくるわ(今は反則になった)。
・忘れた頃に話題になるフォースアウト。審判に申告すればホームベースを踏んだランナーをアウトにすることができ、そのままベンチに下がってしまえば攻撃側に得点が入る。は? 曖昧すぎだろ。サッカーで申告すればオフサイドになるケースがあるか? バレーボールで申告すればタッチネットになるケースがあるか?
・キャッチャーのサインを盗み見るのはマナー違反。は? この情報化社会、情報戦時代で何言ってんの?
・故意の連続ファールは反則。何年か前の甲子園で話題になったが、バッターが意図的に連続して投球をファールにするのは反則なのだそうだ。は? 意図的だって何でわかるの? ファールにしつつ選球するのも技術であり戦略のひとつだし、ピッチャーはアウトを取りにいくのが仕事だろ。ルールで縛るなよ。
・大量リードしている中で盗塁するのはマナー違反だとか。お互いゲームセットまで本気で戦うのがプロでありスポーツマンシップなんじゃないの? 記録がかかっている選手だっているだろ。何なのその不文律。まーこういうのは他のスポーツでも存在するかもしれない。
・ということで野球っていうスポーツはあまりにも欠陥だらけで、もやっとすることが非常に多い。試合時間が決まっておらず、次の番組の放送時間がずれ込むのもいけすかない。ま、これも他のスポーツでもあるから何とも言えないけれど。私は楽天を応援しています。
まずシン・ゴジラに言えよ
役人も自衛隊も全部がステレオタイプな人型で生きてる人間がいない
戦国自衛隊で和子と叫びながら落ち武者がりの農民と戦って死んだ隊員やコイツらの兄ちゃんになると約束したんだと言って離脱する人がいなくて
全員が指導者の命令に従って機械のように動くのが気持ち悪かった
KYとか空気を重視して明文化しない土着ルールが横行する国なのにドラマでも映画でも最近の日本産の実写は人間が描かれない
おくりびとも苦悩や葛藤が美化された作られた価値観があからさまで寒々しい
アニメや漫画が物事を単純化してしかもそれが普遍の定理であるかのように宣伝して回ったせいだと思ってる
漫画村の毒に毒を持って制されてほしい
まず初めに確認しないといけないことは、実行行為性の判断は社会通念に基づいてなされる総合考慮的判断だということだ。
なので、
結果発生の危険 ≒ 元増田の行為で肥料泥棒の野菜が育たなくなる確率 ≒ ①肥料泥棒が塩入りの袋を盗む確率×②肥料泥棒がそれを自分の野菜に使用する確率
などという単純化はできない。こういう考え方を好む方もいるだろうけどね。
ただ①②の事情を実行行為性の判断に際して考慮するということはもちろん考えられるだろう。
ただ①肥料泥棒が塩入りの袋を盗む確率というのが果たしてそれほど高いのか。元増田の事例からはまったく明らかではない。
優しさや楽しさは男友達でも提供できているし、料理や掃除は自動家電が提供できているよね。
医師、テニュア持ちの研究者、士業の女でも自分より年収の高い男性としか結婚したがらない統計結果が出ているから、お金を提供するというのは、ほとんどの人に当てはまらないね。私の年収は低いので、あまり関係ない話だが。
追記
多少コメントが有ったので
私自身彼氏に喜んでもらえるエッチが出来るように努力しているから・・・・・・ですかね。実際、彼氏も喜んでくれていますし。
new3 彼氏のいる女ユーザーではないのでお答えするのが大変恐縮なのですが、彼氏彼女/夫婦というのは価値の提供/受領ではなく"価値の共有"だと思います。
共有という文脈では、時間と空間を共有するという意味で、デート(非日常)でしょうか。エッチも共有ですね。結婚(日常)もそうですし、子供もそうです。
ただ、価値の提供/受領は、恋愛や結婚では結構重視されていると思います。「恋人の条件」、「結婚相手の条件」といった言葉はよく出てきますし。「価値の共有」なら、友人関係の方がより適しているような気がします。「友人の条件」とかそういった言葉は聞きませんから。特に男性でしたら、男同士の友情(BL的文脈ではなく)でよくわかってらっしゃるのではないかと思います。
kidspong つまりその彼氏は増田の事をセックス要員でしか見てない下衆な男って事だよね。増田のその「私の価値はセックスだけ」という思いは同時に彼氏の価値も下げる事になるんだけど、そこには自覚的なのかな、とは。
セックス要員としか見做していないのなら、おそらく風俗を利用するのではないかと思います。一応、セックスだけする関係ではありませんから。ただ、ふとした時に、彼氏の周りにいる人や物で、私が提供できている価値の最もたるものが、セックス・・・・・・と、思いついただけです。
信頼
結構なるほど、と思いました。ワンピース的な仲間や絆といった文脈の「信頼」ではなく、世界の複雑性を縮減・単純化する意味合いであるニコラスルーマンの「信頼」なら、確かにその通りだと。
蛇口をひねる時に水が出るかどうか悶々としないで済む様に、疑いの余地のないシステム的な振る舞いができるようになりたいですね。
結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。
もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかわからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうよマジで。
『エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家・イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本を舞台にした中高生のラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。
『エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編のラブコメとしてはめずらしい。
1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。
つまりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。
原作は小説家が小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。
通常の小説家小説には、小説家あるある、小説への熱意・展望・愚痴、小説論、作者自身の体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつう、もっと自分の好みを推したり、もっとマニアックな作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。
以上の二点から『エロマンガ先生』は、本来的な意味で小説家小説をやる気がないとわかる。
では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。
まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説内小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。
エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説内小説」によって関係が構築されている。正宗がエルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的に正宗にアプローチをかけていく。
正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説内小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説内小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説内小説」が根っこにある。
ストーリーの起伏は「小説内小説」に依るところがとても大きい。
ふつうラブコメでは、主人公とヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。
エロマンガ先生の場合は「小説内小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい。
男女間の摩擦のない恋愛描写は批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。
ふつう、ラブコメのエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子のパンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂でヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。
『エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合はエロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。
たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗はエロマンガ先生が妹であることに気づき、配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっとも重要なシーンだ。
三話の冒頭では、となりの無人の洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生の名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。
このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割を果たしている。これに加えサービスカットも豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。
学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係、ストーリー、サービス)←―サービスを強化――エロ
【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐
↑ │
サービスを強化 │
│ │
【第一層】小説内小説(人間関係、ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ
あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品、学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。
普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だから、あなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。
とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子の象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。
でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。
智恵という幼なじみのキャラがいる。この幼なじみ、ほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗とラノベ談義に花を咲かせているだけだ。
また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。
幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域も重要ではないということだ。
「学校」「となり近所」といった公的領域は重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事で成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。
第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。
沙霧「ふつう……」
正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」
沙霧「兄さん、寂しかったの? あのときの電話、なんだかおかしかったから……」
正宗「そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるときに事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」
(花火の上がる音)
沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」
沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。
複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。
正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」
沙霧「それが兄さんの夢?」
正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりでアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」
正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりでアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージそのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたりが家族になるための第一歩目という具体的なイメージを正宗はもっていることを示している。
正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。
エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せな結婚生活のイメージを、自分と正宗が築くてあろう幸せな結婚生活のイメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せのイメージは淡い。
ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属の小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。
ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。
ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。
率直にいうと、家族をつくるのに恋愛・結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。
前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説内小説=仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛はあくまでサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。
『エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。
このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロはストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事(小説内小説)はストーリーや人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。
家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくまで金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵にあやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガやアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。
『エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽なエロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。
※追記 指摘のあった箇所を修正
大学で、「これやっとけ」ってこと | ライフハックちゃんねる弐式
けどどうせ向こうでは長文コメ読まれないだろうからこっちに残しとく。
文章がわかりにくかったらごめん。
下で使ってるポイントポイントっていうのは、大学生活で自由に使える全部の時間(1日16時間くらい)を100ポイントとして、だいたい1/2の時間(1日8時間くらい)を費やせば柱に50ポイント溜まって、1/3の時間(1日4-5時間くらい)費やせば30ポイント溜まって、3時間くらい費やせば20ポイント溜まるっていう空想のポイント制度のこと。
柱に大学に上がるより前から溜めたポイント(才能や高校までの努力)と足してどれか80ポイントになれば十分充実したライフが送れるので、全部80ポイントを目指す妥協として全部60ポイントを目指して不幸になるより、いくつか諦めて、限りある時間=ポイントを集中して費やすほうが今何も持たない凡人にとって幸せになれますよってことを伝えたかったんだけど伝わるかな。
それから単に時間を費やせば報われて幸せになれるわけじゃないのは分かった上で単純化して時間を割けと主張しているんだけど、それはまず時間を大量投入してからその中の効率のことを考えていこうということと、学生たちが卒業したらどうでもよくなること(自分の評判とか友達のゴシップとか、暇つぶしアプリとか最近の流行とか)、そういう自分の人生の柱以外の瑣末なことに時間を使いすぎなのを怪訝に思ったから、まず柱にポイントを貯める時間をどかっと投入して、それ以外のはみ出た時間を友達との時間にすればいいんじゃないかしらと思ったから。
何にもやりたいことなかったら就職と恋愛に時間を割けばいいと思う。多くの人にとってそれが人生のテーマになると思うから。
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全部努力してやろうと思わないこと
大学生活の柱を、勉強・就職・恋愛・バイト・趣味の五本柱だとする。
大学生のお前にはどれも重要でどれも充実させようと思うだろうが、それは愚策だ。
お前は100ポイントしかもっていない。それぞれの柱の最大値は100だ。
80以上を充実とし、59以下を不可とする。
お前はまず全部の柱を100にしようとするが、途中でできないと気づいたので全部80を目指し、
一つ諦め、二つ諦め、結局60が二つ、それ以下が三つ程度で充実感のないまま大学を去ることとなる。
お前の不幸は五つの柱すべてを満たそうとしたことだ。はっきり言って、一本でも充実したら
大学生活は成功だ。そして自分の柱を一本でも充実させたら、人生の柱になることにお前は気づかない。
バイトとは金の工面のことだ。親から生活に困らない仕送りがあったら、それだけで60だ。
生活の20をバイトに当てるだけで充実した生活が送れるが、別にしなくてもいい。
食うのに困る人は30-40以上の時間を割かなきゃいけいない。
もともと頭がいい人や、高校の勉強の貯蓄がある人を50として、10頑張れば単位が取れる。
30頑張れば充実した学問ライフを送れる。生活の半分を犠牲にして頑張ればトップを取れる。
もともと顔がいい人や、会話が得意な人は、ちょっと努力すればいい彼女と付き合える。
顔も悪いし付き合いの悪い人は、40の時間を割いてやっと不細工でない彼女と付き合える。
学歴もあって資格やらコミュニケーションやらに問題ない人は少しの努力で就職できる。
ない人は資格の勉強に時間を割き、自己改善に時間を割くこととなる。
そうして残った時間でやっと趣味に時間を割ける。お前が目指すのはこの道ではない。
お前には今何がある。100ポイント使う前に柱に何ポイント溜まってる。
顔が良かったら20だけ努力して他の柱を充実できる。頭が良かったら、金があったら、
とにかく100ポイントを全部60にする使い方はやめろ。一つを80にするように使え。
彼女がいて、スポーツや音楽を楽しんで、いい所に就職できる奴は、どうせ都会の金持ちの息子だ。
アドバンテージが違う。馬鹿みたいに全部に20ずつ割り振っても充実する。
お前がやることは今50あるものに1/3=30の時間を使うか、30あるものに1/2=50の時間を使うかだ。
やろうと思えばできた。その言い訳の源は他のことに時間を割いてできなかったからだ。
俺は恋愛と就職を諦め、勉強に20、バイトに30を費やし、趣味というかスキルに
大学の1/2の時間=50を費やした。もともとのポイントは40,30,20,30,30くらいだった。
時間と資金を費やせば彼女もできただろうし、いい就職もできただろうけど、しなかった。
趣味を80にしたおかげで、今趣味で食えている。趣味とバイト(仕事)がイコールになった。
お金も溜まると、身だしなみも気をつけるようになり、彼女もできた。学生時代程度には
学習もしているのでちょっとずつポイントが溜まっている。いい就職こそできなかったから、
今は70,0,70,80,80くらいだ。それもこれも学生時代に一つを80にしたからだ。
卒業後時間をかければ他のことに回す余裕が生まれる。でも全部を60にすることを選んだお前は、
60以下になることを恐れ、80の柱を建てることがこのまま一生できない。
お前がやるのは選択と集中だ。さあ、やってごらん。
マイノリティを排除することで、物事は単純化され、社会は効率的になれる。
例えば公共交通機関。
乗客を規定の横幅の座席に座れる人間に限定することで効率的な輸送が可能になった。
大柄ゆえに二人分の座席を確保しなきゃいけない人がいたり、車椅子の人の搭乗には制限があったりする。
マジョリティにとっての効率(価格も含め)を獲得するために、マイノリティが不利益を被ってると思う。
身体の性別も心の性別もグラデーションのように存在しているが、それを男女という2択に閉じ込めることでコストを削減している。
それによってマイノリティの中には不快な思いや生き辛さを感じている人もいる。
差別的発言だって、効率的なコミュニケーションのために利用されることがあるだろう。
例えば同性だけでの飲み会で異性を悪く言ったりするアレだ。
悲しいけれど、高度成長期やらバブルやらの時代に日本が急成長するためには必要なことだったのかもしれない。
「男は仕事、女は家事」という性差別により女性を排除することで企業が考えることは大きく減っただろうし、
「結婚して子どもを産んでこそ一人前だ」という独身差別は人口増加に効果があっただろう。
そして今、社会は効率的じゃない物事にも目を向ける程度には便利で余裕がある生活が送れるようになった。
マイノリティを認知し、お互いを認め合いながら共生していくこと。
それはこれまでの獲得してきた効率や利便性の一部を手放すことだ。
多少の効率を捨ててでも、他人の心に寄り添える社会。効率を捨てられるほどに高度に効率化された社会。
だから多様性を認められる国が成熟していると言われるのだと思う。
ただし実際に行動を起こすにはまだ余裕が足りない。
追記:
生活水準って意味だと余裕ないけど利便性は余裕すぎるぐらい余裕だと思って書いた。
海外に原発建てたり移民を薄給でこき使ったりするのはNGだと思う。というかどこを読んでそれをOKだと言ってると思ったのかわからなくてごめん。
実践するには余裕がたりないって書いたし、日本には差別が溢れていて俺は生き辛いのでこれは日本disの文章です。
差別を肯定する気は全くありません。むしろ今の日本にこれ以上の余裕が生まれる予感がしないので未来は暗いと思って書きました。