はてなキーワード: スムーズとは
単純な話、この世の富は有限であり、奪い合いこそが人類の基本姿勢だ。
その為、『必死に奪おうとする弱者』が、いちばん哀れで穢らわしいゴミ――いちばん性格が悪い存在に思われるのは必然である。
たとえば格闘技一つとっても、拳のサラブレッドとして、優秀な両親によるサポート――食事管理、幼少期からジムに所属させ、愛を与えて自信を付与させる……など、与えに与えられた裕福なガキほど、よく仕上がった大人になり、さらなる賞賛を得やすい。
対称的に、ブレイキングダウンに参加するような荒くれ者は、貧乏で団地育ちで、まともな教育も受けられず、治安が乱れた街には悪が渦巻いていて、いつだって心は混沌としているからこそ、「俺は今ココに生きているぞ!」とアウトサイドな生き方の中で、危なっかしく命を燃やしている。
でもって、そんな歪みきった世界にも関わらず、那須川天心や、武井壮のようなエリートが、下の下の下の世界にも出しゃばってきて、とことん雑に悪を見下してゆく。
持つ者はいいよな~?
それっぽい言葉と、神が与えた才能と、お手軽な優しさをぶちまけりゃ、なんぼでも光り輝ける人生なんだから。
畢竟、くそ喰らえな構造の中で、ガンガンと綺麗事が響き渡るとき、虚しさが悪へと切り替わってゆく。
金も地位も名声も、愛と平和も、優しさも善行も、その他ありとあらゆる可能性を、強者が根こそぎ奪ってしまうからな。
じゃあどうする?
そうやって我々は、敵意を育て、破滅主義になり、世界を憎むようになる――
とても悲しい事だが、持たざる者が努力をすると、自律神経が乱れ、情緒が不安定になり、ノルアドレナリン(闘争か逃走のホルモン)が分泌し、すごくリスキーな毎日に突入しやすい。
怒り、焦り、悲しみが噴き上がり、「何もかもが悲劇だ!」「誰も彼もが敵だ!」などと、心が荒ぶりやすくなってしまう。
そらそうで、発達障害/双極性障害/社会不安障害/不眠症/過眠症/低収入/孤独など、弱者属性を持っている人々は、社会的に弱い立場であり、そうした現状を客観視し過ぎると、惨めな気持ちにもなるってモンだ。
しかしながら、試行錯誤――破壊と再生を繰り返して、1%のチャンスでも掴み取る為には、心の痛みと戦いながら、冷たい現実を直視し、真の自分に辿り着き、最適解を模索するしかない。
そして、「変わりたい」「強くなりたい」という願望は、『今この瞬間を否定する』思考でもある為、似たような弱者たちの反感を買いやすく、ちょっとした揉め事に繋がりやすい。
一例を出すと、弱者界隈の者たちに言わせれば、『自己責任論』『努力論』は、耳にするのもおぞましいツートップのワードだろう。
ただし、歯を食いしばって勝負に打って出なければ、一生変われない……可能性の芽を摘んでしまいかねない……ってのもまた確かな話であり、『他者への配慮』『過度な優しさ』ばかりまき散らしていると、人生がでろでろに腐ってゆく。
だからこそ、ファイトクラブの名言――【ワークアウトは自慰行為だ。男なら自己破壊を】よろしく、フルスイングで開き直って、「人生は自己責任だ!」「負け犬のままで終わりたくない!」と力強く叫び、ハイリスクな一歩を踏み出すしかない。
というのも、代表的な弱者属性――鬱で貧乏などに苛まれると、余裕がなくて選択肢を増やせない中で、鬱々しさと甘えが混ぜこぜになり、ちょっとやそっとでは抜け出せない、転落の日々に陥りがちだ。
そんな絶望の境遇から、むりやり這い出る為には、「こんなところで終わらねぇからよ!」「これは俺様の復讐戦だ!」などと、躁的な攻撃性のエネルギーが必要になってくる。
寺山修司も『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、【勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる】と書いているように、どん底の寒さを思い知ったうえで、這い上がる熱量を高める事が、下の下の下の住人には求められる。
そもそも論、ただでさえ深刻な格差社会――ガチモンの弱者のみならず、中流層以上の人々にしても、「途中で足を止めたら終わる……」という、止まらない不安に追われ、みんなぎりぎりで生きている。
であるから、ハンディキャップだらけの弱者が、「もっと稼ぎたい」だとか、「もっと可愛い子を獲得したい」だとか、そういった夢を叶える為には、それなりの自己犠牲が必要になる。
いつまでも、おんおんと泣きじゃくって、お金や愛を得られるのは、それなりの性的魅力を持った女子だけだろう。
その他の者たち――大多数の男や、ノンセクシーな女は、あくまでも自分の力でもって、人生を切り開いてゆく他ない。
その過程で、脳内分泌物のバランスが崩れ、とんでもない気分屋になり、周囲に当たり散らしてしまったり……、かと思いきや、頭を抱えて自虐し始めたりと、ぐっちゃぐちゃな時間もやって来るだろう。
そして、精神的コストを使い果たして、脳も心もすっかすかになって、飢えた獣のようにピリピリとしてしまい、「なんだこの性根が腐った野郎は?」などと、周囲に呆れられ、見捨てられ、嫌われキャラになってしまったりする。
やはり、世界中のみんなが、要領が良くて、人に愛されやすくて、スムーズに人生を渡り歩ける訳じゃない。
人類社会に立ち向かって、一所懸命に努力した結果……、ひたすら空回りしてしまって、全てを失うなんて実例も、この世の中には腐るほどに存在する。
とくにこの日本社会は、ひとたび転落して、ブランクが空いてしまえば、誰でも入社可能で民度の低い、精神的に疲れる企業ばかりで、働く羽目になりがちだ。
すると、文化レベルの低い同僚に、悪口や陰口を付き合わされたり、ある日、盗難被害が発生したり、急に大量離職が起きたりと、安心とは程遠い……劣悪な環境で生きる事になる。
そんなときには大抵、ムカツキのオーラを解き放ちつつ、下剋上精神が強化されて、「こんな腐った場所から抜け出してぇ!」と、浮き足立ってしまい、半ばパニック状態である。
ワイ家族+パン食べるけど皿要らない友達とで協力して集めていっぺんに5皿分の交換に行ったことある
北海道のJR生鮮市場ってスーパーで替えてもらったけど普通にニコニコ対応してもらったよ
買い物のついでに(会計すんだ後)レジの人に言って替えてもらった
サービスカウンターあるような規模のスーパーならそっちで替えてもうらうのかもだけどレジしかないとこならレジでいいと思う
タイミングは人の途切れたときを狙ったけど台紙1枚分ならそこまで気をつかわなくてもいいと思う
あとポイント1枚でたまるなら台紙はお店に持ってって、対象商品を買ってきちんと会計すんでからならその場で貼って貰っても別にいいんじゃないか?
お皿はレジ台下の開き戸式の棚の中に置いてあったね
多分期間中はそこに置いてあって、スムーズに交換できるようにしてるのかも
別に買い物しなくても知らない店でもいいと思う
無事交換できるといいね
WEB広告やブログのアイキャッチ、ちょっとした看板やのぼり旗。
こういった用途にアニメ調のイラストを使いたいとき、正直人間の絵師に発注するって考えはほとんど湧かなくなってきている。
Twitterを見ていれば明らかだよ。
あいつら全員めんどくさい。
一利用者の観点からすれば正直絵の芸術性とかこだわりとか死ぬほどどうでもいい。
とにかくそれなりにウケが良くてそれなりにかわいいイラスト1枚が欲しいってだけの話で、やれ「著作者人格権だ」やれ「産みの苦しみだ」と喚かれるのは苦痛でしかない。
発注者の立場からすれば料金システムが明瞭でなるべく安価、かつ、やり取りがスムーズで後からギャーギャー喚かない人に依頼したいに決まってる。
「すみません、初めてでわかんないんですけど予算2万円でいい感じのイラストが欲しいんです。用途はコレでサイズはコレで……」
こんな感じで適当に依頼して適当な絵をもらってさっさとクローズしたい。それが本音。
交渉の段階で「こいつこんな値段で依頼してきやがった!」「こんな失礼な態度だった!」ってTwitterに晒されるリスクがある。
あとから「契約違反されました!」「こんなことなら仕事を受けなければ良かった!」ってTwitterで喚かれるリスクがある。
単なる意思疎通の齟齬や前提の共有不足ですぐプッツンしてすぐ晒す。すぐ被害者面。
もちろんすべての絵師がそうじゃないんだろうけど、こっちは散々Twitter上の炎上騒ぎを見ているから人間の絵師なんて信用できないんだよな。
まともな社会人だったら仕事上の具体的なやり取りをTwitterに晒してフォロワーによしよししてもらうなんて恥知らずなこと絶対にしないぞ?
それが絵師連中は余裕でやる。
余裕でやる上に少なくともTwitter上では信者によしよししてもらって絵師がかわいそう、発注者が悪いってことになる。
おまけに殿様商売気質というか、別に晒すまではいかなくても発注の段階でなんかモヤッとする言葉遣いだったりなんかイラッとくるものの言い方だったりをする絵師が非常に多い。
「お前それお客に対する態度か!?」ってなるケースを何度も体験してきた。
へりくだれとは言わないけど、絵師って社会人として対等な立場でまともにコミュニケーションしてビジネス上のやり取りを普通に失礼なく行うって意識が欠落している気がするんだよ。
よく言えば芸術家気質ってことなんだろうけど発注側からすれば社会人失格の人間に頼むなんて冗談じゃない。マジで面倒くさい。
パソコンはゴミスペックだしプロンプトだのなんだのを学ぶ気力もない。
でも世の中には「欲しいイラストを説明してくれればAIを使って近いのを生成しますよ〜」ってサービスを提供している人がいるんだよな。
もちろん絵師に頼むよりめちゃくちゃ安価。イラストをどう使おうが文句も言ってこない。
「著作権はすべて譲渡します」「著作者人格権も行使しません」なんて最初から説明欄に書いてくれている人もたくさんいる。
言葉遣いも丁寧だし、仕事用のTwitterアカウントなんてものも(たぶん)持ってない。
だからあとからトラブル化して晒されるリスクも、おそらくほとんどない。
単に何となく映えるアニメイラストが欲しいってときに人の絵師に頼む発想はもうほとんど出てこないんじゃないか?
何度でも言うが人間の絵師はめんどくさい、AIイラスト(とその提供者)はすごく優しい。
個人的な感覚だが、AIイラストのサービス提供者は社会人としてまともな人が多い気がする。
AIに反対している絵師がネット上で馬鹿にされてるのって、法律知識のなさとか過激な言動・思想とかよりも単純にこれまで散々社会性のなさを露呈して好き勝手やってきた反動なんじゃないの?って思うことがあるんだよな。
まともな社会人は仕事で嫌なことがあっても黙って耐えるしそれでお賃金をいただいて生活していくんだよ。
間違ってもTwitterに晒して正義を問う、なんて角が立つことはしない。
これまで絵師の社会性の無さが水面下でいろんな軋轢を生んでいて、AIイラストの誕生をきっかけに溜まっていた対絵師ヘイトがバーっと一気に表に出てきたって側面はないのかな。
https://president.jp/articles/-/79526
これとはてブのコメント読んで思った。なんでDINKsは増えないのだろうか?
正直ごく一部以外の独身以外は気楽に生涯過ごすのは厳しい。そういう物価だ。元記事のような自由で気楽を求めるためにDINKsになるのが一番である。次点はシェアハウスや老人ホーム
住居費等が半減し共働きのそれこそ偽装夫婦に近い生活をすれば世帯年収は1000万を超し自分の時間も持て気楽に過ごせる。将来設計も大人だけなのでスムーズだ
なのに未婚者は増えるばかり。それは離婚の時に失うお金が多すぎる。そして女性に有利すぎる。結果最高の選択肢であるDINKsが選ばれなくなっている
俺は、爺さんと親父と2人の車いすを押してきた人間として、映画館の対応で炎上している今の騒動を複雑な気持ちで見ている。
単純な話として、もし自分の働いているところにああいう車いすユーザーが来たら、表面的な対応は別としても内心では腹が立つ。これはもうしょうがない。
クソみたいなクレーマーは多いし、ちょっとこっちが仏心を出すとそこにつけこむクソ客も多い。
とりあえず言ってみて通ればめっけもん、一度通ればそっからはソコを最低ラインとしてさらに言う、対応できなきゃ文句を言う。対応する側としてはクソ客以外の何物でもない。
ただ、そういう対応する側からすると速やかにおかえり願えないかなと思うようなゴリゴリ押してくる車いすユーザーが先陣を切ってくれなければ、変わらなかっただろうな、とも思う自分が居る。
爺さんの時は、俺も車いすを押したが、主に調べたのは親父やおふくろだった。
何を調べたか?外出する際のすべてだ。
移動手段から、途中の休憩所、行く店や行きたがりそうな店、レストランや喫茶店、経路上にある公園のトイレに至るまで全部だ。
そんなん普通にしてれば良いじゃんって思うかもしれないけどそうじゃない。
車いすを押す側としては、車いすユーザーって言うのは、おおむね3つのパターンがある。
爺さんは、2番目の支えられながらなら乗り換えできる、だった。いわゆる介助が入ればベットから車いすへ、車いすから椅子へ行けるってやつだ。
それでも、爺さんのころは相当面倒だった。
今回の件で多少は周知されたようで何よりだが、車いすにとって段差は割と致命的だ。
出張で使うようなキャリーケース、無理したら行けるような段差があると思う。アレが致命的なレベル。
想像してほしいのは、女性だと両手で押して限界って感じの巨大なスーツケースだ。アレに近い。段差即詰んだって感じ。
それでも、先人のおかげで都内ならかなり自由がきいた。事前に連絡しておけばバスもJRも問題ないし、問題がある場合(エレベーターが無いとか乗り換えが面倒とか)でも教えてもらえた。
店もまあまああったし、爺さんが好きな美術品なんかも、まあ結構柔軟に対応してもらえるところは多かった。やはり大手に限られるけど、飛行機もなんとかなった。
とはいえ、気苦労は多かった。昔の人に比べたら事前準備さえすればできることは格段に多いとはいえ、家族としてはやはり一大イベントにならざるを得なかった。
これが、まあ平成後期や令和になってからの親父の時は、相当に楽になった。
例えば行きたい美術館が車いすOKって書いてあったら、特に調べず一発行ってみっかで行って詰むことはほぼ無くなった。
流石にバスやタクシーの時は事前に確認の連絡を入れたが、親父の時は車のトランクに入る折り畳みの車いすを使っていたこともあり、何だったら普通のタクシーでも捕まえれば乗れたりした。
JRなんか事前連絡なしで行っても対応してくれることが多かったように思う。爺さんの時には考えられないスムーズさで対応してもらえた。
チェーン店のレストランなんかだと、よっぽどのことが無い限り車いすでも特に問題無く食事できるようになった。ホテルのレストランだと親父の時に断られた記憶は一度もない。
店からすりゃ面倒が増えたんだろうけど、こっちが事前連絡なしでいきなりいっても対応してくれる場所や店は相当多かった。
親父は最終的には3番の、車いすからはプロに頼まないと(家族であっても)乗り換えできないようになった。
なんかゲーミングチェアーに自転車の小径車タイヤが付いた装甲車みたいなゴツイ車いすに、酸素ボンベと薬を積んで、きつかったらボタン押して薬が自動で入る、みたいな状態でも出かけた。
これは、相当に制限がかかる。移動はほぼ専門の介護タクシーを呼んでなんか自動エレベーターで後ろに積み込まれるみたいな状態でないと難しかった。
それでも、だ。
そんな折り畳み車いすの何倍もでかい状態であっても、結構な場所には行けたし、なんだったらレストランで食事もできた。
まあ流石に予約するときに車いすで結構デカめなんすけど、みたいな話はするが、サイズを伝えて問題になることはほぼなかった。
驚くなかれ、博物館や美術館だと、事前に確認さえとっときゃ普通に行けることもあった(さすがに特別展とかにはいかなかったが、常設展だと普通に行けることが多い。ただ流石にこれは個別調べてくれ)
で、こっからが本題だが。
くだんの映画館の件は、まああり得ないだろう。善意にフル乗っかりした上で、責任取れないんでムリっすって言われて逆ギレしてるようにしか見えない。
ただ、だ。
ああいう、もークソ客きたよめんどくせぇなーと俺が思うようなユーザーがいないと、商業施設なんか一ミリたりともお金出して改善する気が無いのも確かだ。
いま、都内の大手の映画館で、車いす席がないシアターは無いと思う。これは俺からすれば画期的だ。正直な話親父とも何度か映画は観に行った。普通に行けたし苦労もなかった。
(まあ、さすがに初回は調べて問い合わせは入れるし、パンフを買う時に親父にはちょっと待っててもらって俺が並んで買ってくる、みたいなのはあったけど)
そしてたぶんだけど、ああいう(もし俺が対応するとしたら内心思う)しちめんどくさい客がいないと、車いすの客が使えるようなプレミアムシートとかアップグレードシートっては、未来永劫設置されない。
ギリギリまで車いすで移動して、あとは家族が介助してなんとか歩けて椅子に座れるって状態なら、飛行機のビジネスにだって乗れるこのご時世に、映画館のプレミアムシートはやたら階段を昇った先にしかない、とかは普通にある。
(ちなみに、探すと車いすでギリギリまで移動して家族が介助すると座れるプレミアムなシートがある映画館も存在はする。主にゆったりできるって理由で階段で移動しなくて良い場所にたまたま設置されているからだが)
この辺は、車いすユーザーを通常より優遇すると悪さする奴も出てくるんで、多少難しいところはあると思う。
海外なんかだと、車いすユーザー+介助者1名だけは別ルートで入れてくれるけど、それ以外の家族は別に並べ、みたいなところは結構あった。まあこの経験は爺さんの時なんで今は違うかもしれんが。
そういう意味で、爺さんは海外では車いす特権じゃないがプレミアムな体験を親父としてたりした(なんなら家族の俺もその恩恵にあずかることもあった)が、国内では優遇されてやっと普通と同じ、という感じではある。
複雑な気持ちなんでまとめようもないんだが、まあそういうことだ。
労働者としての俺は、ああいう客が来たらほんっと勘弁してほしいと思うし、心底はよ帰ってくれんかなーと思う。
また、将来的に車いすユーザーになる可能性が高いだろう俺は、車いすに余計なヘイトをかってくれるなよ、とも思う。
ただ、わがまま放題で主張しまくりで、いわゆる健常者が出来てるプレミアムな体験を俺にも寄越せ!と叫ぶ先駆者がいてくれないと、変わんねえだろうな、とも思ってる。
まあそういう意味ではね、プレミアムな車いす置き場と介助者シートを作って、倍の値段で予約してくれれば良い体験で映画見れまっせってのは、都内ならたぶん予約途切れないと思うんスよ、どうスか?
くらいが関の山ではあるんだよね。実際、マジでめんどい客がいてくんないと世の中変わんないからなー
俺が今回の件で、自分の目の前に来たら正直クソ客帰れよと思ってしまうのと同じ心が、あんまり叩いてくれるなと強く思うのは、これって尊厳死が消極的安楽死から一歩踏み出す時にすごく怖いからなんだよな。
いるじゃん。医療の補助なしで命が繋がらないならそりゃもう寿命なんだって言うヤツ。アレ嫌いなんだよね。爺さんも親父も医療の補助無しならもっと早くに何もできずに死んでた。
間違いなく爺さんも親父も、五体満足で生きてる人に比べれば、社会のリソースに余分な負荷をかけていってみりゃ娯楽だの余生の楽しみだの、別に本人が望みさえしなきゃかけなくて良い負担を社会に強いてたわけだよ。
でもよ、いやじゃん車いすになったとたんに、趣味だった美術館巡りがさ、常設展のこの区画ならお楽しみいただけますが、車いすの方はこちらの別館はちょっと……みたいな状態はさ。
そういう時にさ、なんだよ健常者様ならプレミアムなシートで映画見られんのに我々車いすのユーザーは端っこで見ろってのか!って激昂する人が一定数いてくれるとさ、声上げてくれる人がいるとさ、助かるわけよ。
繰り返しになるけど、俺ですら目の前に来られたら嫌だよそんな客。でもさ、そういう人がいてくれるからこその、今、とも思うんだよね。複雑な気持ちよ。
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X(旧Twitter)上で、車いすユーザーの問題じゃない、いや障害者問題ですらない、彼女自身の問題だ、みたいなポストを見ちゃって流石にちょっとそれはと思ったんで記録がてら追記しに来た。
まず想像してほしいんだけど、彼女が五体満足で「プレミアムなシートで映画見まーす。イエーイ」みたいな投稿するクソ陽キャだった場合なんだけど、炎上はしないと思うんだよね。
毎回プレミアムで映画鑑賞かよクソが、と、俺は思うかもしれないけど、それぐらいなんだよね。
だからこれはまごうことなき車いすユーザーの問題なわけよ。車いすのクソビッチはプレミアムなシートで映画を見ることが出来ないという問題。車いす専用スペースはあるけどプレミアムじゃない。
ほんで、あんま主張するのが得意じゃない車いすユーザーだった俺の親父とかは、映画がスムーズに見られるだけで感動して、席次(?)に文句を言うようなことは無かったわけよ。実際ありがたかったし。
でもさあ、もしプレミアムなシートでも映画観られますよっていわれたら、そっち選んでたと思うわけよ。やっぱいい席で見て欲しいじゃん。
まあわかるのよ、まったく同じにはならんだろうってことは。俺だって普段は労働者側じゃん。身内にいて苦労した経験があったとしても俺が対応するとしたらゲェって思うわけよ。
でもこれもさ、過去「映画観るのは遊興なんだから、車いすユーザーはそこまで求めるの贅沢じゃね?」みたいなのを乗り越えてきてくれた人がいたからこそ、スムーズに親父は映画を観られたわけよ。
だってさ、不要不急かつ生存に必要なわけじゃないじゃん。代替手段として例えばいまならストリーミングサービスとかもあるわけだし。
でも、車いすユーザーが映画館で映画が見られる。どっかで引かれてたラインが、良い方に移動したわけよ。
で、こっからが重要なんだけどさ、わかるよ、正しいルートで正しい手順を踏んで、ちゃんと段階を踏んで法律とか条令とか、企業の努力に訴えかけたりメリットを訴えるって方法があるのは。
でもさ、ほんとは高校デビューしてアタシもビッチとして青春を謳歌してみたかったなみたいな、世間一般で言うところの常識的な車いすユーザーとかさ、その後ろにけっこうな数いるわけよ。いやすんごい良くなってるのよ世の中。
でも、車いすだっていうだけで、できないことがあるのは事実なのよ。正規の手順で正規のルートで訴えていくことが出来る中学生がいたとして、彼ら彼女らの青春が終わる前にプレミアムなシートで映画を体験できるようになりますか?という。
だから、俺個人としては止めて欲しい、もし自分が同じ立場だったら申し訳ないんですが車いす専用スペースで見てくださいプレミアムなシートは席のご用意が無いんですスミマセンスミマセン上に要望は上げるんで、という感じになると思うのよ。
それをぶっ飛ばして、いやプレミアムシートの下の段に自力でスロープで上がるんで、介助者連れてくるんでええやん、みたいな人が居てくれるとさ、いやーそれはどうなんだろちょっと上のものと相談しますね、みたいになると思うのよ。
それがさ、もしかすると、今回の件で、介助者がいて避難誘導時に介助者が誘導補助をするなら、通路に面したシートに普通に座っても良いですよ、となる可能性だってあるわけじゃん。
その結果、車いすユーザーを含む高校生活を楽しむグループが、横一列で映画館で映画を観ることが出来るかもしれない。そういうのがあると良いな、と思うわけよ。
あと見かけたのでは、リソースが有限だからっていう理屈。俺は嫌いだ。
健常者が普通に出来ることが、障碍者なんだから制限受けてん当然、みたいなの、俺は嫌なのよ。
災害時にリソースが足りないのはわかる。避難所では人工透析が出来ないです、インスリン注射も補給できないです、車いすユーザーは車いすを館内に入れないでください。ある程度制限がかかるのはしょうがない。
でもよう、労働者としての俺がさ、いやだってキミ英語も中国語も喋れないじゃん、リソース有限なのよわかる?英語も喋れないようじゃ家は買えないよ常識的に考えてとか不動産屋から急に言われるのとか嫌だよ。
外部環境に左右されるリソースって単語で、日常生活に制限かけられるのは、やっぱ嫌だよ。
車いすユーザーはあんまありがとうとか言わないよな、ありがとうっていうだけでそんな大変?ってのはなー
生まれ育ちや頻度にもよるから何とも言えないんだけど、五体満足である俺ら側が許容してあげる度量は持ちたい。
俺は一回爺さんに言われてやってみたことがあるんだけど、右足と左足を動かすたびに、心の中でいいから右足と左足にありがとう、助かったよみたいに声をかけてあげるの一週間やってみてくれよ。
あ、いま右足で体重支えてくれてありがとう。階段上ってくれてありがとう。止まれて助かったよ。ドア閉めてくれてありがとう、踏ん張ってくれて助かった、立ち上がってくれてありがとう、靴下はくとき位置移動してくれてありがとう、寝返り打てたよありがとう。
俺は3日でギブアップ。確かにこの頻度や感覚でありがとうを言わないといけないんだぜって言われると、それはしんどい。だからしてもらって当然と無感覚になっちゃう人がいてもしょうがないと思う。
あ、見てて気の毒なくらいありがとう、ごめんなさいねっていう人もいるよ。それはいるって。
あと、俺の書き方に配慮が無かったって話(大意)。それは申し訳ないことをしたと思う。
例えば、そもそも配給会社に言うしかないタイプの障害を持ってる人がいるのも知ってはいたけど書かなかった。
その結果、心無い言葉に触れてしまった人がいたのはほんと申し訳なかった。
視覚に障害がある人が映画を観るときに使う音声ガイドがある映画とか、
聴覚に障害がある人が映画を観るときに使う字幕メガネ貸し出しの映画館とか、
そういうのがある。
映画は何も晴眼者で健聴者であるものだけが楽しむ娯楽じゃない。でもそこが十分にフォローされてるかっていうと、たぶんされてない。
そういう意味で、車いすユーザーはある程度わがままを言っても身の危険を感じることが少ないっていうのは、確かにそうかもしれない。
最後になんだけど、俺はそういうクソ客はクソがと思うし、めんどいと思うし、俺の目の前に来たらやっぱ嫌だと思う。
あと、法律はそうなってないとか、車いすの作りがそうなってないとか、そういう対応にコストがかかるとかも、わかる。
ハイ今はそういう意味じゃないしそうなってないでーす、バーカバーカじゃなくてさ、
じゃあそれは良い方に変わったら良いね、という風に思ってはくれないだろうか。
車いすユーザーもプレミアムシートで楽しめると良いね、ただクソビッチはむかつく、という風に分けて考えてくれないだろうか。
でもたぶん分けて考えるの難しいよなあとも思って、複雑な気持ちは今も変わらない。
結婚の法的効果は相互扶助義務と相続権と日常家事代理。あとついでに貞操義務とか。嫡出推定は子を産めない夫婦には関係無いな。
ホモがよく気にするのは医療同意。本来、医療同意権は法律上の夫婦どころか後見人にも無いので法的な要請では無いものではある。ただ、医療機関等の「キーパーソン」システム(キーパーソンの同意を得ておけば本人の同意が無くても事後的に問題になりにくい、という脱法的な事業上の知恵)は、法的親族関係を他の親族への説得材料に使ってるので、法律婚していてくれればキーパーソン扱いが通りやすくなって好都合ではある。
ただ相続はわりと重要で、共同生活者の一方が急死したときに特に居住不動産まわりの処理をスムーズに回すには相続権があった方が良い。
基本無能で窓際。特に上司の前という条件付きだとさらに仕事ができないことに気づいた。
会社外の人が来たり、接客だったり、何かしらコミュニケーションを取る必要があった時。
1人の時は多少どもりながらも会話できるし、上座側に先方を譲るっていう行動もできるんだけど、ある日その場に上司が居合わせた。
そうなると急に何もできなくなるんだよね。指示されるまでだんまりで立ち尽くす。
なんでかというと、上司が何考えてどう行動するかという、頭の中読みゲームが始まるから。
上司の行動に合わせて動かなきゃなっていうことに脳内がいっぱいになって、他にやらなきゃいけないことが全部飛ぶ。
実際に上司の考え読めて行動できたらいいんだけど「読まなきゃ」で埋め尽くされて実際に読む隙間はどこにもない。
ちな、客が帰った後、いつもあんな応対してるのか?って怒られて凹んだ
あと、コロナが流行りまくってた時に上司先輩みんな休みで、バイトと下っ端の自分だけど業務を回さないといけなくなった時があった。
その時は自分にしては珍しくミスせずテキパキ仕事ができてたんだよね。
顔色伺う必要がないっていうか伺えないので、思考がスムーズに処理できる。
某論客が、独身男性45歳で狂う説を唱えていたが、まさにその年齢帯の独身男性が狂うのを実際に目の当たりにすることとなった。
折角なのでそのモンスターと化した哀れなおじさんを、貴重なサンプルとしてここに書き記しておく。晒すような真似で申し訳ないが、かなり頭にくる実害があったので怒りも込めて。
狂ったのは俺の元友人。(100㎏余裕で超えてるクソデブ。以下デブ)
同類だと思っていた俺に彼女が出来たため、羨望嫉妬から逆恨みに繋がり、自身の置かれた状況と掛け合わさって爆発したのだと思われる。
話しているうちにオタ同士だということがわかり意気投合。
ほどなくして異動で職場が離れてしまったが、自宅が近かったこともあり、なんだかんだで10年以上の付き合いとなっていた。
今思うと、お互いこどおじオタクということもあり結婚することはないだろうという安心感もあったのかもしれない。
向こうはずっと結婚したいって言ってたけど。(ただし本人は太る以外の行動を一切なにもしていない)
そんなこんなで30代後半に差し掛かったある日、俺が突如一念発起。
これが同い年だったらまだ狂わなかったかもしれないが、向こうがもう手遅れの年齢で梯子を外した形になってしまったのがよくなかったかもしれない。
とはいえ、その年齢まで何もしなかったのは本人のせいでしかないので逆恨みされてもって感じだが・・・。
その頃からデブがツイッターでたまに病んだツイートをするようになる。
趣味も食事の好みも合い、よくある婚活BBAみたいな面の皮の厚さもなく、俺の自家用車が国産大衆車でも何も気にしないような女性で、スムーズに両家顔合わせまで済み、後はついに入籍というところまで来ていた。
そんなある日、彼女から「話がある。すぐに会えないか?」と連絡がきた。
前日に電話で話したときになんとなく違和感があったので何かあったのだと思い快諾。
「今日呼び出された事に何か心当たりある?」そう言う彼女の様子は明らかにおかしい。
全く心当たりがなかった俺に、あきれながらとあるツイッターのアカウントを見せてきた。
そこには、彼女の中傷を中心に、たまに俺の中傷、そして極めつけには、俺が浮気してるというツイートがされていた。
どうやら彼女はその垢が浮気相手のものではないかと疑っているらしい。
寝耳に水ってこういうことを言うんですね。
全く身に覚えがないので(そもそもそんな甲斐性も無いし)、なんとか彼女を落ち着かせ一緒にその内容を精査。
俺と行ったと言いながら載せてる食事の写真が全部ネットで拾えるものだったり、いいね欄が男が好みそうな飯やガンダムで埋まっていたこと等、冷静に見ていくとバカなアカウントだったためあっさりと誤解は解けた。
そうなると、次は一体これは誰なんだいう話に。
お判りでしょうか?
さらに一つ一つ細かく確認していくと、俺がデブにしか話していない内容だったり、一緒に行った場所への言及がそこにはあった。
俺と会っているとき(=俺が彼女と会っていないことが確定してる時)にこっそり浮気相手を装って呟いたりもしてた。
もうねほんとアホかと。でもアホで助かった!ちなみにデブはガノタ。
ついでに彼女の親友にもアカウントを見てもらったら、「こんなのどう見ても男だろ、クソデブの」って返ってきたのはよかったな。
彼女がそのアカウントの存在に気づいたのは、デブがリプを送ってきたから。アカウント名が気になって見に行ったら明らかに自分達を指している内容のつぶやきをひたすらしていて驚いたとのこと。しかもそれは半年以上も前から行われていた。ちなみにアカウント名は俺と彼女の垢名を合体させたもの。頭狂ってますね。
デブが彼女のアカウントを知っていたのは俺の失態。彼女のことを聞かれたとき、話の流れでとある写真を一枚見せたら、その写真からアカウントを特定してた。うん、気持ち悪い。
すぐに該当のアカウントに鍵をかけたりアイコンや名前を変えたり、いろいろと涙ぐましい工作をしたのち垢消し逃亡。
まぁそれが犯人が誰かの裏付けにもなったし浮気の誤解も完全に晴れたのでヨシ!
この件で共通の敵が出来、雨降って地固まる結果となった我々は当初の予定通り無事入籍。
結婚への最後の障害がお義父さんとかではなく、いない歴年齢の40代限界独身童貞クソデブこどおじストーカーだったの面白すぎだろ。
一生この話擦ってくわ。
その後また別のアカウントで粘着しているのを観測したが、ここまでくると最早怒りよりも哀れになってくる。
これからも入れ代わり立ち代わりいろいろな垢で粘着してくるのだろうか?「またクソデブ?」で終わらされてる事も知らずに。
中年男がこそこそとネットで中傷どころか、でっち上げで別れさせようとするのは正直ホラーすぎた。性格の良し悪しを超えて、人間として終わってるレベルまで堕ちてしまった。これが異性を望んでも手に入らなかった、いない歴=年齢の限界独身中年の末路だというのか。
訓練という訓練はしてないけど中学三年の時1年間毎週欠かさず400〜1200字くらいで作文書いて学校の先生に採点してもらってた
コツ?はよく言わてる程度だけど
話の流れがおかしくないこと。
論文と小論文の細かな違いはあるけど、思考プロセスを明確にすること。特に自分の立場やそう主張する理由を明確にして、経験ありきだとなお良い。小論文の場合は経験捏造したりする。
社会人になってから会社で人の(小)論文の直しをすることがあるが、そこで自分はやってて人はあまりやってないけと思うのは、直してて要らなくなった文や、こういうこと書きたいけど上手く入らないなと言う文は消さないで別のところに残しておくこと。いらない文はまた別の直しをした時にその文を入れられる所ができたり、見直してる時に話の流れが微妙だなとなった時にその分を入れることで流れがよりスムーズになることがある。
いらなくなった文も入らなかった文も言いたいことの一つなのでいらなくなった時点で捨てるのはもったいない。
あとは同じようなこと言ってる人の文を賛成も反対も読んで、似たようなことを言いたい時に色んな人の分を集めてアレンジして使う。自分で言葉をいちからつくるのは大変なので、色んな文章をキメラして自分の文を作る。
勤め先の給料以外に副業で50万〜200万程度の雑収入があり、今まで確定申告が必要であると認識してなかったのだが、今年は一応理解して、過去5年分をまとめて申告&納付してみた。
「脱税で何らかの処分を食らうのかな」「やったことないからめんどくさいあ」と思って躊躇してたんだけど、大したことはなかったようだ。
https://www.e-tax.nta.go.jp/toiawase/qa/kanbenka/25.htm#tabs_2
なぜなら中国人は潜在的にアメリカでは敵対意識を持たれており日本人のほうがスムーズに声が通りやすいからだ。
そして日本人はなにも言わん奴らだと思われている。
だから日本が言ったとき、ちょっとアメリカはざわっとする…のを何度か見てきた。だから日本こそ声を上げるべきだ。
というのと別に実際問題としてオスカーは投票する人種の構成をここ近年変化させ、アジアの映画が入賞しやすくなっている。山崎監督チームやジブリのスタッフもいた。
そういう場で、あのような事態が起きた。
彼らにとって晴れの舞台のはずなのに目の前で行われるアジア人への差別的行為。
ミシェル・ヨーもキー・ホイ・クァンもアジア系の起用について一昨年から泣きながら声を上げていた二人だ。
彼らが何をしたと言うんだ。
『「役割語」が技術として効力を失う』ことが『創作のスムーズな消費のさまたげになる』という仮定を何の根拠もなく持ち出しているが仮定であると筆者が気付いていないため議論が不完全となっている。
ああいうので「男性の声か女性の声か無意識に決めつけるのはやめましょう」っていうの、創作に対する営業妨害だと思うんだよね。
ようはみんなにそういう意識根付かせて言葉の用い方に対する偏見を一切持たなくさせたら「役割語」が技術として効力を失い、創作のスムーズな消費のさまたげになる。
役割語というと「何の単語を用いるか」みたいなごく狭いレベルで考えがちかもしれないけど、「単語をどのように用いるか」というのも役割語の一種だろう。
たとえばいくら「俺」が男性的な一人称だとしても、主語省略可能な部分でも「俺」をぶっこんだら、これはネナベしてる女に見える。
かりに創作でネナベ女を登場させたい場合、これを応用すればセリフだけでネナベ女だと読者に推測させられるのだが、そういう文脈も一切否定するのは、どうなのかなと。
参考