はてなキーワード: 踏み込みとは
鍋に入れられたじゃが芋の皮が剥けるように。
あるいはエビの色が変わるように。
まさにあの沸騰し切ったスタンドにいた僕は
晒されていた。
ゴール裏では毎度痛いほど思い知る。
自分が何者なのか。
誰といても、何を叫んでいても、結局いつも自分自身と向き合うハメになる。
ずっと昔の話。
でもコンサドーレはどうしようもなく弱かった。
最下位も連敗も勝点の話も全部嘘じゃなくまだ心の中にある。もちんろんインターネットや本の中にも。HDDからは消した。
クラブがなくなるかもしれない。そんな話もあった。
クラブの有り様を教えてくれると同時に、号令を出した。
「みんなで強くなっていこう」
クラブを自分たちが強くしていくという思いで、まだそこに無いものに希望を持って応援して欲しい。
これが福音なのか世迷言なのか、疑う時間も許されないまま、次々と花火は上がった。
数えきれないほどの素晴らしい選手がやってきて、コンサドーレは偉大な選手たちを文脈に取り込みながら、階段を登っていった。思っていたよりもずっと速いスピードで。
「みんなで強くなっていこう」
僕らは、僕自身は強くなれたのだろうか。
同点ゴールが決まるその瞬間まで、今を含め永遠とも感じられる「負けている時間」が怖くて辛くてたまらないのだ。
それは勝ちたいと思うほど強く跳ね返り、かき消そうと声を出すほどピッチが遠い。
時計に目をやる回数も増える。
前半途中でビールはもう無い。
10.26の話。
後半、同点。
ビルドアップは狙われ、追いやられ、ピッチの半分よりこちらにボールが来ない。
また意識が遠のいていくのを感じた。
88分。
やっぱりダメか…武蔵のトラップが収まらなかった時、いやもっと前から、タイトルとはそうか、もっともっと何か…
ずっと余計なことを考えていたように思う。
最後のチャントが歌われ、リバウンドメンタリティと呼ぶものなのかスタンドの熱は上がっている。
空中にボールが出た瞬間、ポッカリとゴール前。頭ひとつ。誰か。入った。深井だ…!!
クラブの持つ長い長い文脈を辿っていくと、意味があると思えてくる点と点が見つかる。チームが苦しい時、希望を持たせてくれたユース達、怪我、決勝…
朝から視点も趣向も違う人間の様々な念が交錯していた埼玉スタジアムのスタンドで、赤黒こそが人生だと歌う集団が、その細胞からゴールを喜んでいる。
選手がかつてないほどスタンドを煽り、それに応えるように声を張り上げた時、全ての感情が自分だけのものであり、今宝物のような幸福に包まれていることを実感した。
「こんなことって無いよなぁ」
花火は上がらず、
タイトルは取れなかった。
あれから1週間。
当たり前のようにリーグ戦があり(当たり前のように勝ち!)間も無くシーズンが終わる。あれからというもの、少し騒がしい札幌と北海道、コンサドーレについて考えている。
大きな感動に感謝している。でもあの日のことじゃない。ずっと前から今日までのことに。
電車で、工事現場で、コンビニで、学校で、新川通りで、会社で、駅前で、大通り公園で、
ファイナリストとして胸を張って1週間暮らしていた人たちがいる。
そんな奴がいるなんて誰も思いもしないだろうけど。
そんな日が来るなんて思っていなかった。
あのひりついた感覚が、日灼け跡に残ってる。
もう1度感じたいし、もうあんな思いは嫌だ。
90分で終わらせたい。けど120分でもいい。
目を逸らすことはもうない。ないと思う。
今すぐ札幌ドームで、
日本ではほぼ注目されていない言論の自由論争「GabによるMastodon参入問題」がついに本格化した。
Gabはこれまで北米のオルタナ右翼の巣窟と化し、ユダヤ教礼拝所襲撃の予告へ使われた結果、AppleやGoogleのプラットフォームやWebサーバー関連企業から締め出されるという問題を起こしていた。
「言論の自由」は尊いが、極右SNS「Gab」の存続は許されない
https://wired.jp/2018/11/02/gab-offline-free-speech-alt-right/
これらの締め出しによりGabはフォークすることが自由であるコピーレフトなAGPLライセンスで提供されるMastodonへ参入を表明するという施策を打ち出す。
それへ対してMastodon創始者のEugen Rochkoは不快感を示しMastodonコミュニティーとして声明を発表した。
Statement on Gab's fork of Mastodon
https://blog.joinmastodon.org/2019/07/statement-on-gabs-fork-of-mastodon/
しかしこのEugen Rochkoによる声明は一部に誤りがある。
Most servers in the fediverse are already blocking the Gab domains
分散SNSサーバーが形成するFediberseネットワークの殆どのサーバーはGabをブロックしていないのである。
そもそもGabがMastodonをフォークすることが判明した際、まずEugen RochkoはMastodon自体へGabをブロックする機能を追加しようとした。
しかし、これはAGPLライセンスの元で提供されている自由なMastodonには相応しくない判断としてMastodonコミュニティーはEugen Rochkoの提案を棄却した。
GabをブロックするかどうかはMastodonを含んだ各々の分散SNSサーバー管理者が判断すべきことであり、既にMastodonにはドメインブロックの仕組みがあるので、各々の分散SNSサーバー管理者の判断でGabをブロックすべきだと反論されてしまったのだ。
Eugen Rochkoはこの反論を渋々了承し、今度は「MastodonクライアントアプリへGabをブロックする仕組みを導入しよう」とMastodonクライアントアプリ製作者たちへ対して提案した。
これもまた前述したAGPLの兼ね合いの反論が起きたが、一部のMastodonクライアントアプリ製作者は協調しGabをドメインブロックした。
そして実際にMastodonフォークのGabがデプロイされていることを確認したEugen RochkoがMastodonコミュニティーとして出した声明が前述の「Statement on Gab's fork of Mastodon」である。
誤りがあると指摘した部分もそうであるが、Mastodonコミュニティー全体はこの声明に同意していない。
Eugen RochkoはGabを憎むあまりAGPLとしては踏み込みすぎた発言を繰り返しており、度々非難されているのだ。
各々で違うルールが運用されている分散SNSサーバーが形成するFediverseネットワークには統一したルールはなく、当然ながら統一した意思というのも存在しない。
コピーレフトなAGPLライセンスのMastodonをフォークしたGabはFediverseネットワークへ自由に参入することが認められているし、Fediverseネットワークで(現地法令に違反しない限りは)自由な発言も認められている。
Eugen RochkoがGabへ対して不快感を示すのは非常に理解できるが、Eugen RochkoがしようとするGabへの対策がMastodonを含んだ分散SNSの自由を脅かすものになってしまっているのが問題である。
MastodonとGabの問題は「自由を守るため自由を脅かす可能性がある」というリベラリズムにとって非常に興味深い現象に発展している。
元増田です。沢山のブコメありがとうございます、ご覧になってくれた方全てに感謝申し上げます。
何名かの方が指摘をしてくれているように、書いた内容はスタートラインを揃えるような意味合いのものが多く、踏み込みが足りない!と感じる方が多いのも当然かと思いますが、まずはそのレベルの内容が共有できたことに非常な嬉しさを覚えております。
コメント全て読ませてもらってます、全レスしたいですが無理そうなので、人気コメから話題をピックアップして数点、補足という形で本稿をアップします。
これは、私が単組に関する記述に注釈をつけなかったのが悪かったかもしれません。単組もサイズ感や出自で色々と性格があり、政治活動まで手を出しているところがあると聞いています。穏当な活動をしているところについては、大組織で、自分達の労働環境維持改善をしっかりやりつつ、余力で政治活動をしているのだと理解していますし、知ってる実例はこのケースぐらいです(知見が狭い、という批判は甘んじて受けます)。
一方、革マル派などの新左翼系の組織と関係のある組織については、噂レベルでしか知りませんので、その実体について語ることができません。存在を否定するわけでは無いですが。名前が挙がってるほどの大規模単組であれば、特定思想の活動家が浸透して、政治活動に割くリソースを乗っ取ることで自分達の益とすることができるかもしれませんね。当然、それは労働運動からすると害悪でしかないかと思います。そういった単組で労働運動の維持改善など、労働者の為の活動がどうなっているか?など、むしろ知りたいので誰か書いて下さい。
ただ、大多数の単組はそんな余力がないので、浸透するだけ無駄というか、イデオロギーなんか捨てて実務しないとまわんねーよみたいな執行部の苦しさを味わうだけなんじゃないかと思います。
だいたい書きようから推察いただけたと思いますが、産別はともかく、連合については「正直もっと実のある活動して欲しいな…」と思うとこはあります。
ただ、政策や制度を作る以外に、彼等が労働運動を前進させる方法って思いつかんな、とも思うので、なかなか苦しいところです。いっそ、労働政策におけるシンクタンクを自認する勢いでがっつり政策提言をするのがいいのかもしれませんね。ただし、それができる人がたくさん集まる組織になっているのか?とか、まぁ自分が思いつく範囲のアイデアはだいたい絵に描いた餅レベル止まりかな…と諦めてます。
かといって、解体するのは本当に影響力を失ってしまうので良くないと思います。うーん、と言う感じですね。
反戦平和などの活動は、まあ正直リソース配分やアピール比率について一考の余地があると思います。あくまで、労働者のための組織なので、軸を誤解させるような見え方になってるのは是正しないと、良くないですよね。
(末端で組合員と接する立場からすると、「労組」と言う言葉に否定的な色が付くのはマジで勘弁なので、ポピュリズムに走れとは言いませんが、もう少しイメージに自覚的であって欲しいですね…)
ひとまずこれぐらいで。
上司はよく益体もない話を始め、一人でテンションを上げて冗談を言う。
もちろん、周りの反応は薄く、空気は冷え切ってる。
上司としてはコミュニケーションやら目的があっての振る舞いのようだが、その目的が達成できているようには到底思えない。
上記のような場面のとき、自分は「もっと実のあることや、相手の興味のある話をすればいいのにな」と思う。
しかし、たまにそういう話になると上司の反応はすこぶる薄くなり、全く話が展開しない。
要するに、「自分を愛してほしい。自分は愛さないけど」ということのよう。
最近は「上司が部下のプライベートに踏み込みすぎるのはよくない」みたいな言い訳もたつけどもね。
つまらないことは悪じゃないし、部下に興味を持てないのも悪じゃないと思うんだけどなあ。
みんなが凄いこと・革新的なことみたいに言ってるからチェックしてみたら完全なヤオだった。
これただの王子様やん。
衣装からも、どうしようもない野暮ったさ、振り切れない奴のダサさみたいなものしか感じられない。
単純にバランスも悪くてかっこわるいしさ。
こんなことしか出来ねえならやるなよとスタッフに説教したいレベル。
そもそももうさ、魔法少年なんて発想はとっくにあるわけじゃん。
何がキュアアンフィニだよ。「アンフィニ」って語句にも大した覚悟が感じられないし。
萌えギャグアニメの変化球にすぎないゾンビランドサガのリリィちゃんでもお前よりはちゃんとしてるわ。
なんか「プリキュアが一石を投じる」みたいな感じでこれをやるならせめてデザインを福島鉄平とかにやらせろよ。
金髪でハーフで王子様でみたいな言い訳・逃げ道を作りまくってんじゃないよ。
本当にヤオだわ。
ガチ性の欠片も無かったわ。
はてな民もこんなもんで言い争うのは時間の無駄だからやめろよ。
ていうかそうやって言い争う具にするのは過大評価だよ。
こんな振り切れてないヤオには「画期的」とか褒め称えられるのも「気持ち悪い」とか嫌悪されるのも勿体無いわ。
両陣営とも、こういうしょっぱい踏み込みしか出来ないスタッフには「この半端ものの雑魚が」という軽蔑の目線だけをくれてやるのが作法だよ。
社会情勢に沿うって言うならまずガチガチ貧困家庭のルンペン少女のプリキュアとか見せてくれよ。
多少問題抱えつつも根底はハッピーな家、みたいなのばっかなのに社会派ぶるのがすでに滑稽なんだよ。
しるかばかうどんの漫画に出てくるような女の子にプリキュアの力を与えてみろよ。
魔法少年やるならちゃんと黒髪の言い訳属性のない”普通”の男の子をナマ足出した魔法少年にするんだよ。
わかってるよ、やりたくねえしやる意味もねえよな。
「ヤオ」がどういう意味合いで使われてるのかよくわかんないや。一般的な用語なのかしら。はてなキーワードに書いてある意味合いなのかしら。
プロレス由来なんだけど、近年の用語で言う「ヤオ」「ガチ」は「ノアだけはガチ」という定型句に端を発すると見てよく、
「ノアだけはガチ」という句が生まれた時代には既にプロレスがガチ競技でないことはプロレスファンですら認めていた訳で、
そこでの「ガチ」とは「レベルが高い」「本気でやってる」「殺すぐらいの踏み込みでやってる」「覚悟がある」っていうニュアンスになり
「ヤオ」はその逆で「レベルが低い」「真剣味がない」「だらけてる」「おあそび」みたいなニュアンスになる。
ちなみにプロレスリングノアは世代交代の失敗と次第にたがが外れていった乱脈経営とに圧迫される中でただひとつの売りとなった「ガチ」なプロレスの象徴としての危険すぎる首での受身を連発していった結果社長でありエースレスラーである三沢光晴が頚椎離断・ほぼ即死というリング禍を招いた。
「ノアだけはガチ」というのはあれは総合にプロレスが押されてたころに生まれた自虐的なジョークで、四天王プロレス由来のひたすら受ける芸風を本気で賛美した言葉じゃないよ
ノアオタは本気で言ってたよ
ギャグとして回収されたのはその後
もうノアの全盛期なんか思い出せないだろうけど
毛なんか女にもあるがな
『くるみ割り人形と秘密の王国』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けであります。
すごいぞなんと150点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。なんで、なんかもっとお金出したい感じはあるんだけど、この映画の場合グッズとかサントラとかそっち方向にはいかない、いけない、やばい。
この映画を公共向けにレビューするとジャスト95点くらいなのははっきりしていて(いや辛く採点すれば80くらいか?)残りの+50くらいは何かといえば完全に性癖の話なのですよ。いつもそうだけど、今回はそれにもまして(主に後半)全く当てにならないレビューであることを告白しなければならないです。何がやばい特殊性癖なのかについて最初に語ると話が混乱するので、後ほど詳細を述べます。
物語はストームボール一家がクリスマスの準備をしているところから始まります。でも主人公でありミドルティーンの次女であるクララ(演マッケンジー・フォイ)は浮かない顔。他の一家もなんだかギクシャクしている。それも無理のない話で、どうやらストームボール一家の母親は、このクリスマスの直前に死んでしまったようなのですね。
家族を失った喪失の中でもストームボール一家は伝統であるところのクリスマスをしようとしている。ヴィクトリア朝の話だから、親族の大規模なパーティーに出ようとかあるのだけれど、母親を失った悲しみからそれらを拒否して引きこもりたい主人公のクララと、このような状況だからこそ普段通りに日常に過ごさなきゃならないと考える父親の間には、感情的な亀裂があるというところから物語は始まるわけです。
そういう意味で言えば、これは大事な家族を失った喪失から回復する話です。同じテーマを扱った今年の映画でいえば『若おかみは小学生!』なんかがあります。普遍的なものなので他にもいくつもあるでしょう。
そういう普遍的なテーマだったんで、料理の作法にも定番(セオリー)みたいなものはあるわけですが、まずそのセオリーそのものはきちんとこなしていた。そういう意味で脚本は及第点。
また、同じテーマをこなしながらも独自性のある切り口も感じられました。この項目はその独自性についての感想です。
この種の「喪失と再生」の作品において、「去ってしまった人から過去において贈られた自分に対する愛情を再認識する」というエピソードは非常に重要なセオリーポイントになります。
それは例えば前述の『若おかみは小学生!』においても「私たちは娘であるあなたを愛していたよ」「その愛は永遠だよ」というようなメッセージは存在していて、それが主人公に受け取られることで回復の契機になりました。
いってしまえばこの「親からの愛情」ってのは遺産なわけですよね。だからこのテーマは遺産継承に関するテーマだと考えることもできます。
でもこのテーマには隠された問題点もあって、それは「親子間の関係を遺産を残すもの/受け取るもの、というような一方通行の、上位者の秘密に下位者が気づくだけという、そういう物語として描いていいの?」というものです。この問題告発って自分は今まで意識したことがなくて、『くるみ割り人形と秘密の王国』で始めて気が付きました。
例えば先程から比較している『若おかみは小学生!』においてこの問題提起はないんですね。それはなぜかといえば、『若おかみは小学生!』の主人公おっこはタイトル通り小学生で、これから自分の世界を確立していく存在だからです。重要なのは遺産が(つまりは死んだ両親からの愛情が)「あった」事であって、それにさえ気づけばおっこのここから先のミッションは回復だけなわけです。
しかし『くるみ割り人形と秘密の王国』の主人公クララはミドルティーンであり、もうすでに自分なりの自意識も世界観も作り上げつつある存在です。
次女のクララには、上には憧れつつも素直に従うことができない長女がいて、下には一緒に遊んで面倒を見てやる長男(小学生低学年くらい?)がいます。弟の面倒を見ながらも、女性的な完成度と貫禄では長女に勝てない次女。おしゃれは苦手でちょっと理系(工学系)な変わり者な主人公。
彼女はそういう意味で「母親を失って狂乱するほど悲しむ幼子」ではない。悲しいし落ち込んでいるし、日常を取り繕おうとする父親に反発をするけれど、だからといってそれを破壊しようというほどのパニックにはならない。自分自身の力でこの悲しみを乗り越えようとしている、まだ若いけど自立を目指す女性なわけです。
そんな彼女は、通り一遍な意味では「死んだ母親から愛情があった」ことはわかっています。世間一般でそういう慰めの言葉はよく聞くし、自分が母に愛されていなかったという疑いはない。
でも、じゃあ、その「愛情」って具体的にはなんなんだろう? もちろん日常でのさりげないやり取りや、スキンシップや、無言での加護やら、ありとあらゆるものがその候補なわけですが、それらは要するに伝われば伝わるし伝わらないわけです。過去のシーンとしては無数にあるそれを、クララはまだ自分の中で結晶化できていない。そこにクララの戦いはあるわけです。
この物語ではその愛情を暗示するキーワードとして母親の残した「大事なものは全て中にある」という言葉があります。
クララは亡き母からのプレゼントエッグの中に残されたこの言葉を追いかけて冒険の旅に出るわけですが、この言葉の意味は最終的には「私(母)がいなくなった世界においてあなた(主人公クララ)が前を向いて生きていくための大事なものはすべてあなたの中に残してきた」です。
大事なものは、様々な教えであり、生きていく知恵でもあり、もちろんつながりや愛情や人格そのものでもあり、大げさに言うならば「母親(家族)と過ごした時間のすべて」なわけです。
そしてこのキーワードが示すのは、それだけにとどまらないんですよね。
この言葉は「nを残してきた」「nが私(母)の愛情である」という指定ではないわけです。だからこそ逆に「何が残されていたと認識するかは、娘であるクララが選んで受け取りなさい」という信頼であるわけです。
愛情は遺産なわけですが、それは決して贈る/受け取るという一方的な関係ではない。この物語における「気づき」はそういうステージのテーマとして描写されている。それはやはり一味変わった、深い踏み込みだったと思います。
一方、作中において「遺産」はもうひとつの意味でもあらわれます。クララの母は幼いころ「秘密の王国」を発見してその民に慕われた女王でもあったのです。わお。ですから、遺産は女王位。クララは本作のメインの冒険である「秘密の王国への迷い込みそこで戦うこと」をとおして、この「女王位の継承」という問題へ巻き込まれてゆきます。
でもこの問題も前述の「母の愛情をいかに受け取るか」とワンセット、同じ物語の両面なのです。
クララは「女王が去ってしまって荒廃が始まった秘密の国」で大歓迎を受けると同時に、その危機においては「お前なんかは女王の代替品にすぎない」ともいわれてしまいます。「女王の位」をうけとった娘クララは、ただ単にそれを受け取った段階では「無力な模造品」にすぎないという弾劾です。
クララの母でもあり前女王でもあるマリーが幼いころ発見して作り上げた秘密の王国とそこに住む住民たちは、マリーに生み出されて育てられたという意味では、クララと同じく「マリーの子供」でもあるわけです。表面上は老人に見えても年上に見えても異形に見えたとしても、その意味では全てクララの兄弟姉妹に等しい。その彼らが、母マリーがなくなって、道を失い、うろたえ、クララに剣を向けさえする。
その混乱はマリーの残した女王位をただ受け取るという、つまりは遺産を残す上位者、受け取る下位者というだけの状態では、収拾されないわけです。
つまり、これもまた、「継承というのは一方的な贈与関係ではない」というテーマに接続されているわけです。
作中で、母との回想シーンの中で、クララは母から「あなたは姉に憧れているけれど、あなたにはあなた独自の世界があって物事をあなただけの見方で見ることができる。そこがあなたの魅力なのよ」と励まされます。
クララはクララなりに世界を見ることができる。それは父母や周辺環境のコピーとして自意識を確立していくしかない幼子ではなく、ミドルティーンとしてすでに自分の世界があるこの物語のクララでしか描けなかった切り口です。
母からは無限の贈り物を残されたけれど、その中のどれを受け取るか――母の残した教えや愛情のうちどれを「クララという自分自身のコアとして据えるか」というのは、クララの側の自由であり、その選択によって自らの存在を定めるわけです。
その自由の幅が良かった。
この物語の中で、クララは「秘密の王国」での旅と冒険を通して、そういった自分自身の内面と出会い、悲しみを癒やすわけですけれど、でも実はこの度ってなくても良かったんですよね。作中でも途中でリタイヤして現実世界に帰る選択肢が示されるシーンが有ることからも分かる通り、それはありなわけです。途中で帰るどころか、実は、出かけなくても良い。
クララはもうすでに自分自身を確立しつつあるミドルティーンで、この作品の冒険なんかを経なくても、時間さえかければ悲しみから立ち直っていたと思います。父親との間にギクシャクした感情は少し残ったかもしれないけれど、それすらも時間の流れでおそらく解消できた。
そこがとても良かった。
幻想郷への旅が必要不可欠であり、この冒険行がなければクララが破滅していたのだとすれば、クララは神が(母が)操る遺産相続の操り人形なわけですが、そうではなくクララは旅をやめる自由がある中でそれを続行し、自分で選んだわけです。
母から与えられたすべての教えや愛情の中から、姉と同じように「おしゃれで社交的な自分」ではなく、「機械いじりが好きでとびっきりの発明家である自分」を選んで継承した。同じように「秘密の王国で歓待されるだけの女王」ではなく「みんなのために調和を取り戻そうと戦う女王」も選んだ。選ぶという行為によって、ただ与えられる下位の存在ではなく、継承というテーマにおいて贈り主である上位存在と対等の関係であることを示したのです。
この辺はもはや登録商標とも言って良い「ディズニープリンセス」というワードの「プリンセス」にたいして、一定の回答を出そうと本作が挑んだ結果でもあると思います。
王位とか王権(そして愛情を)先代から送られ継承した存在が、プリンセスである。
でもそれは逆説的に、「プリンセスとは手渡されはしたものの、その手渡されたものをまだ十全には使いこなせないし、自覚もはっきりとはできていない、運命や自分自身と戦いの最中にある存在だ」という主張でもあると思うのです。
そういう踏み込みのある本作は、テーマから見ても脚本の構造から見てもかなりの出来でした。
――まあ、もっとも、ここまで脚本を褒めては来たんですけれど、その表現としての台詞回しがどうにも垢抜けない感じで、紋切り型なところも多くて正直言えばそこは今ひとつです。取ってつけた感じがある。
てなわけで、構造面ではキラリと光る部分はあるけれど、80〜95点くらいですかね、これは。という感想になるのでした。
文字数がオーバーしたので後編 https://anond.hatelabo.jp/20181201181722 に続きます。
ヒプノシスマイクを好きな人たち、結構な割合で「推しディビ(ディビジョン)を勝たせる」って言うけど、私あの表現がめちゃくちゃ嫌い。
たしかに、ヒプノシスマイクはキャラクターの所属するディビジョン同士がhip-hopアーティストの作詞作曲したラップでバトルし、その勝敗を投票で決めるコンテンツだけど。だけどさ。
ファンがやってる事って、単にCD買ってるだけじゃんって思うんだよね。曲を作るのはアーティスト、歌うのは声優、それで「勝たせる」ってなんか烏滸がましくない?CDを「頑張って買う」っていう発想、おかしくない?って思うんだよな。
何を頑張ったんだよ。
ただCD買ってるだけなのに、物語の参加者の気分になれるの、よく考えられたコンテンツだよなって思うわけだ。
いや、意味合いとしてはわかるし、自分の好きなキャラクターに勝ってほしい気持ちもわかる。私もそう。わかる。
けど、それで「病む」とか「推しディビが勝てるか不安で泣きそう」とか、いや落ち着けよ。
頑張ってるのは、アーティストと声優なのに、なんでCD買ってるだけのお前が病んだり泣いたりするんだ。
買いたい人は買えるだけCD買ったらいいと思う。でも、沢山買えないからって「私はそんなに積めないから…」とか、そんな自分を責める必要なくないか?
作り手のアーティストも、声優も、「同じ人に沢山CD買ってほしい」なんて言ってないじゃん。hip-hopが、ダーティーな文化じゃないっていう形で、世の中に広まってほしいって言ってるじゃん。
それって、「沢山の人にちゃんと音楽を聴いてほしい」ってことじゃないの?
「沢山の人にちゃんと音楽を聴いて貰った上で」評価されて、それが投票っていう形になって、結果勝ちたいってことなんじゃないの?作り手の人が言ってる事は。
誰でもいいからとにかく沢山CD買えと思ってる人がもしいるとすれば、たぶんレコード会社の人だけだと思うよ。AKB売ってるレコード会社だからそれは仕方ない。
レコード会社に踊らされすぎじゃない?って思うわけ。(キングレコードごめん)
「勝たせる」ってさ、あまりに物語に踏み込みすぎた表現じゃない?CD買う事が義務になってない?そんな気持ちで応援するのが、めちゃくちゃ楽しいならいいと思う。
そういう戦闘民族みたいなオタクが一定数いることもわかる。でも、自分はそうじゃないのに、無理して、結果「病む」とか「泣く」とかになるなら、そんな馬鹿馬鹿しい話はない。
ここからは私の身の上話になるんだけど、数年前まで私は、結構本気(と書いてマジと読む)でとあるヴィジュアル系バンドの追っかけをやっていた。所謂バンギャだった。
本命バンドをオリコンランキングに入れたくてCDをアホみたいに買ったし(CDを買うと参加できる握手会があったのもある)、チャレンジングなキャパのライブはとにかく埋めたくて、チケットを余分に買って無料で友達に配ったりした。
本命麺が貧乏だという話を聞くたびに、服やら何やらプレゼントした。
そんな事をして、ヒプマイオタクの人たちがいうような「推しを勝たせた」気持ちになっていた。
最初のうちは、純粋にバンドに有名になってほしい、バンドマンに良い暮らしをして欲しいという気持ちでやっていた事だったけど、1年、2年とそんな事を続けているうちに段々と苦しくなっていった。
ファンの母数が増えるに従って、自分より自由に使えるお金の多い子も増えていった。そういう子たちに、買うCDの枚数で負けた、あげるプレゼントの金額で負けたと、嫉妬してる自分に気づいた時、私の中で大切な事が「バンドが有名になる事」ではなく「本命麺に使った金額で他のファンに勝つ事」にすり替わってしまっていると気付いた。
バンドが有名になる夢を叶えて貰うために使っていたお金という手段が、自分がそのバンドにどれだけお金を使えるか見せびらかす為のものになってしまっている事に気付いた時には、私はバンギャ活動がとてもつらくなってしまっていた。
誰とも戦ってなかった私ですら、こうなった。
明確に対戦相手のいるヒプノシスマイクのオタクが、対戦相手が相手の推しディビにどれだけお金を使ってるか見て、自分と比べ病んでしまう事は想像に難くない。
ヒプノシスマイクというコンテンツは、めちゃくちゃに楽しい。楽曲はかっこいいし、声優さんのラップはめざましく上達していくし、木村昴はいい奴だ。
もし、今、推しディビを「勝たせなきゃ」CDを買わなきゃって義務感で焦ってるオタクがいたら、ちょっと一息ついたらいいんじゃないかなと思う。
一息ついてもやっぱりCDを沢山「買いたい」それが楽しい!と思うならそうしたらいいし、もしそれが自分にとって苦しいならコンテンツとの関わり方を少し見つめなおしてもいいのかもねと思うよ。
あなたが持っているのと同じようにAさんも少し怒りの感情を持っていると思うよ。でもどっちも関係ないんだ。君が不愉快を感じなく鳴るまで踏み込みラインを押し戻してAさんが折れるまで技術で殴ろうね!ワークライフバランスだ!
そういう表現の反乱が嫌、か。
これは確かに非常に難しい話だと思う。
なぜなら、批判側こそ「これが嫌です」と嫌いな萌え絵を定義して提唱しなければ擁護側には具体的な話が通じないのに、批判側には萌え絵を語る語彙がない。
これは批判側の国語力が低いっていう煽りじゃなくて、オタクの間でも萌え絵の定義で揉めてるのに非オタクがそれを定義できるわけがないって意味。
でもだからと言って萌え絵の定義を非常に曖昧にしたまま「萌え絵は嫌だ」とだけ言うのは批判側の不誠実さを感じるよ。
また、ゾーニングというルール化に踏み込みたいのならばなおさらゾーニングされる表現の定義をしっかり決めなければならない。
その定義をしっかりするには、萌え絵という曖昧模糊なものの定義を決めて一括でゾーニングという話ではなく、この表現がアウトというものを具体的に決めていって個々にゾーニングしていく方が現実的だろうと思う。
萌え絵の定義を曖昧にしたままゾーニングしたいっていうのは気持ちとしてはわかるけど、非常に不誠実な態度であるということだけは自覚してほしい。
かつて日本を代表するPCメーカー、そしてシステムインテグレーターの大手6社に数えられるNEC。それを退職した今、機密に触れない程度に、特に研究所の裏事情を説明していこう。おそらく製品部門は違う苦しみを抱えているだろうが、高額なボーナスもらってるんだから耐えてくれ。
私が入社したのは、研究発表でのいわゆる一本釣りだった。釣りあげた部門も、当時の研究に比較的近かったため、給料をもらいつつ研究ができる、という不純な動機があったのは確かだ。大手特有の研修体制も魅力に感じた。
雲行きが怪しくなったのは1年目の夏である。当時研究所のトップであるE氏による、研究発表の総評の場で「まだそんな研究していたのか」という発言だった。NECのシステムインテグレーションといえば、重要な事業の柱であり、事業部からの引き合いも非常に強かった。折しも、AWSが日本国内での事業が躍進し、オンプレミスとは違う流動性の台頭に、研究テーマとしては佳境の段階であった。そこに貢献するミッションは他の研究テーマでは代用できないものである。
それをE氏は「そんな研究」と一蹴したのだ。翌年、予算はつかず、研究チームは文字通り解散となった。そしてシステムインテグレーションの研究はNECから完全に姿を消すことになった。E氏は光通信の元研究者で、正直なところなぜ偉くなったのか、今でも疑問であるが、少なくとも大のつくIT音痴であることは仲間内では有名である。それこそ当時はデータベースとは何か、すら知らなかったようである。
E氏が理解できる、できないはあったにせよ、そして価値の提供方法まで突き詰めて考えられていたかは怪しいけれど、少なくとも、なんのためにやっているのかわからない研究ではなかった。「バイオプラスチック 漆ブラック」などいった、海のものとも山のものともつかぬものより劣っていたのだろうか。カーボンナノチューブの研究すらまだ留保しているのに。
そしてE氏はNEC常務となり、CTOとなった。社内では最高級(給)のブロガーと称され、「未来について考える」だとか、「~について意識しなければならない」といった、きわめて抽象的、かつ薬にも毒にもならないビッグワードを垂れ流し、評論し、何かをいっているようで、実際には何ひとつ具体的な行動や指示を出せない人物である。そして未来創造会議というような、何ら結論の出ないものに露出するようになった。あれを見た人は、NECが何の会社なのかわからないだろうし、それは製品として何を提供するのかすら伝わらないだろう。漫画雑誌の企画会議ですらもっとマシなものだろう。
研究所といえば、技術部門の花形、と思われる人もいるかもしれない。事実、優れた技術はほぼすべて研究所発である。しかし、本当に優れた技術はNECからの広報には載らず、社外からの引き合いが先行する。なぜなら、広報はインパクトが優先され、そして広報ノルマを充足するために実施されるからだ。そして時には大きな「事故」となる。
数年前、橋梁構造物の劣化診断という技術が日経新聞に掲載された。これは固定カメラが画像を撮影し、振動による変化で構造内部の劣化をモデリングし、内部ひび割れを可視化するという画期的なものであった。事件の発端は、その研究途上であった技術に対し、研究所の理事(*2)がメディアの前で口を滑らせたことである。当然注目され、実用目途についてまで発表することになった。実際には理論検証が完了し、クリアしなければいけない項目の洗い出しの最中であったという。1年後を目途とされた研究テーマは、その後研究所から姿を消した。撮影には非常に繊細な取り扱いが要求され、撮影時の振動に弱いという欠点を克服できなかったと思われる。これは当時画像診断系の学会でも度々指摘されていたもので、研究者の間で共通認識であったが、残念ながら理事には理解できなかったようである。
ここ数年のNECでもっともインパクトがあった事象は2件の談合による指名停止であろう。煽りをくらい、全く無関係の研究所予算がまずは削減された。そして賞与が大幅に減額である。社内ですら、談合当事者やその上司の名前は完全に秘匿され、明に責任をとった人物は存在しないことになっている。おそらく、公表した場合、全社員から報復を受けることを恐れたのであろう。
すると、不透明な人事はいたるところにあることに気がつく。前期の大幅に未達だった中期計画の責任者だった遠藤元社長は会長になり、その策定の中心人物だった新野副社長は社長となった。そして次の新中期計画は1年目でとん挫したにも関わらず社長以下留任ときたもんだ。
グローバルビジネスの低迷。これからのNECの生命線とまで言われていたグローバルBU。彼らは海外売上比率を25%を目指すと宣言していた。中期計画に対して、何ひとつ貢献できずKPIを外したそのトップ、真っ先に責任を取らなければならない人物M氏は、翌年副社長となった。その自浄作用の無さもさることながら、株主や債権主の銀行は一体何を考えて、彼らの役員人事を承認しているんだろうか。株価は買値の1/10となった、もう値動きすら見たくないから早く潰れてくれ、と思っているのだろうか。
今後、NECは暗黒の時代を迎えるだろう。折しも今年は3000人のリストラを掲げ、断固と構造改革を実施する覚悟を強調する新野社長。しかし、彼にあるのは覚悟だけであり、スタッフを減らす方策すら定まっていないだろう。現状、10人が事業で仕事をし、8人が彼らの事務を担当するような人員比である。そして今回の早期退職は主に事業の主力たちが手をあげるようである。
思えば、個人の努力が何に対しても反映されず、学習性無気力に苛まれ続けたNECライフであった。管理能力に長けた上司はおおむね本社に接収され、帰ってくることはなかった。そして残ったのは、管理職不適格でありながらも、降格制度が存在しないことによる吹き溜まりである。会社に学会の仕事をしにきている主幹研究員なる人種もいれば、1時間前の記憶すらないような痴呆老人である。そんな中、近頃はカルチャー変革(*3)を謳っているようだ。NECの暗黒時代たる本質まで踏み込み、ぜひNECを再生していただければと思う。
(*1)ビジネスマナー研修や思想教育といったものから、ディスカッションなどがあったが、参加者も講師もレベルが低く、こいつら大学出てるのかすら怪しげだった。彼らが同期となって、社内キャリア形成上意味をもつ存在だと思うと、ぞっとした。さまざまな節目に集合研修は行われたが、効果を測定する様子もなく、ただそこに予算があり、研修を実施することが担当者の評価だ、というような空気であった。そしてその直感は、NECのスタッフ部門全体に共通するものであると後にわかる。
(*2)理事とは事業部長、本部長、中央研究所傘下の研究所長経験者で、様々な理由で部門が消滅したりすると発生する役職である。最近では、関西研究所CCII本部長、シンガポール研究所を歴任し、価値共創センターを立ち上げ、これらのすべてを失敗させたY氏が理事となっている。彼らは理事になると、「天下り」先を探すことがメインの仕事になる。そして彼らが天下れば、空席となった理事は別の元所長が補充される。
(*3)カルチャーは変革できても、働き方全般や違法裁量労働たるVワークの制度は変えられないだろう。また社員のモチベーションを上げるための施策は、すべて人事部門判断によって握りつぶされると思われる。総務部は人事部門の抵抗をどのように回避するのか、外様の役員の腕の見せ所だろう。
知人:
世間話が出来る
上辺だけの関係
今後一生会わなくても大丈夫
気を遣って疲れる
基本愛想笑いを浮かべている
沈黙が苦しい
とにかく丁寧語だ
時々名前を忘れる
友達:
世間話が出来る
遊びに誘うことも可
何年か会わなくても大丈夫
ふとした瞬間に「あいつどうしてるかな」って思う
愛想笑いはたまにする
ケンカせずに仲良く居ようとする
とりあえず友達の話にあわせたりする
気を遣って少し疲れる
沈黙が怖い
親友:
気軽にLINEをする
よく遊びに行く
異性だったら恋人になっていただろう
価値観、好きなもの、悩み事、嫌いなもの、やりたいことなどが合う
くだらないことで笑いあい、泣くこともある
テンションが一緒(盛り上がるのも落ち着くのも一緒)
年に何回か会いたいと思う
一緒に居て苦痛を一切感じない
何を言っても受け入れてくれそうな安心感がある
上記項目全て[お互いに]思いあっている
さぁ、どうかな?