はてなキーワード: 沈黙とは
文章を書くことがリハビリにいいと言ったので、ひとつ書いてみることにした。
スクールから家までの道のりは近くもなく遠くもなく、徒歩で10分、自転車だと10分といったところだ。
だが、ゴールまで半分といったところで、落とし物にしていることに気がついた。
どうやら機内に置いたままだったらしく、それに今ごろ気づく自分も優しいものだ。
腹いせにそこらへんを走っている車を念力で爆破しようとするのが、私の処世術だ。
ここの講師は融通が利いて頼りになる。
きっと分かってもらえる。
滞りなく授業は終わった。
では、少し早いが次の用事を済ませよう。
次の用事は妻の頼みごとで、地図とコンパスを買ってくるよう言われた。
コンビニに置いてあるような陳腐なものではなく、百貨店にあるような高級なものが欲しいとのことだった。
「何の地図か」という肝心の部分を聞き忘れたが、とりあえず世界地図を買ってくれば文句は言われないだろう。コンパスも同じだ。
では電車に乗って百貨店に……、財布は水着の中に入れていたのだ。
仕方なく徒歩で百貨店を目指すことにした。
「トホホ」
思わず出てしまった言葉だったが、その短絡さに自ら呆れ、咄嗟に口を両手両足で覆った。
途中、妻の幻影に「あと3時間はかかる」と言われて辟易したが、どこか私の足は軽やかだった。
さすがに徒歩で帰る力は今の私には残っておらず、電車がダメなのでバスで帰ることにした。
しかし今日の私はどうも間が悪いようで、途中で尿意に目覚めた。
オムツをしているので最悪漏らしても大丈夫だが、できれば尊厳を保ちたい。
何とか漏らさず家路に着いた。
妻にコンパスを買い忘れたことを責められた。
今の私はそれどころではなく、「コンパスなら君がいるじゃないか」と嗜め、急いでトイレに駆け込んだ。
一息ついたところで、妻に詰め寄られて「申し訳がないか」と聞かれた。
あるかないかでいえばあるのだが、私がコンパスを買い忘れたことは事実だし、思いつく限りの案で妻を納得させる自信がないのも確かだ。
「ない」というしかなかった。
妻はそれを聞いて数分の沈黙の後、「そうか」とだけ漏らして去っていった。
明らかに彼女は不機嫌で、妻はこういうときひたすら寝て過ごす。
こうなったら、私がどうしようと明日になるまで妻は起きない。
実のところ内心では安堵していた。
なにせ今日の夕飯はカレーで、妻の作るモノはお世辞にも美味しくないからだ。
だが、カレーを食べたかったのも確かで、一人で食べたくないのも確かだ。
私は暇な友達を誘って、夕飯を済ませることにした。
私はカワチと落ち合うと、さっそく吉野家でカレーを食べようと持ちかけた。
彼もカレーを食べることには賛成してくれたが、カレーは松屋で食べようと言って来たのだ。
「あのほっといてくれる雰囲気が好きなんだ」
彼らしい意見だ。
のだが、カワチは吉野家へ行こうといった私の言葉を予想以上に重く受け止めていたらしい。
「それでいい」といった私に遠慮し、そこからは「どうぞ」合戦だ。
数分後、埒があかないと感じてココイチで食べることに決まったが、カワチも私もこういうことにはどうも不器用だ。
カワチはサラダ、私はカレーを食べながら、お互いの身内の話を始めた。
「お前んところの奥さん。どうだよ」
「まあ、相変わらず。でも、ありがたくもある。喧嘩をしてもすぐ仲直りできる子供同士みたいな関係で」
「俺のところは、最近ちょっと不気味にさえ思ってきた。絶対に思うところはあるだろうに、やたらといい夫として扱ってくれるしさ」
「実際そうなんだろう」
「どうかね。あいつが好きだったタバコを吸わなくなったのは俺と結婚してからだ。いや、妊娠が発覚してからだったか?」
「私に聞かないでくれはははははははは」
こうして、何気ない会話をして別れ、家路に着く。
いつもとさして変わらない休日。
妻の機嫌は思いのほか早く直っていた。
昔さ、Yahoo!チャットって場所があったんだよ。お前は知らないかもしれないがな。
当時はみんなホームページってやつを持っててな、誰が読むんだかしらねえ自己紹介とか何番目の訪問者です!ってのやっててな、ひどいとこになると熊のアイコンみたいなのがビュンビュンとカーソルを追いかけてくんだ。ありゃ恐怖だったね。
誰が興味あるんだかしらねえ、使用パソコンのスペック書くヤツまでいてな、「CPU: PentiumII、350MHz」とかドヤ顔で書いてたんだよ。タワー型のパソコンの写真まで載せてな。なんのため?しらねえよ、本人に聞け。
でな、そういうところには必ず掲示板ってやつがあってな。BBSとか言ってたな。山陰放送じゃねえぞ。で、キリバン踏んだらBBSに報告することが義務付けられてて、しなかったら末代まで祟られて呪詛にかけられるんだけど、熱心なヤツになるとチャットっていう、リアルタイムに文字でお喋りできるやつまで設置してたんだ。
BBSもチャットもCGIっていう技術使っててな、パーミッションの設定だかなんだかしらねえけど設置するのは結構難しかったんだよ。掲示板もチャットも自前のやつ設置してるヤツはけっこうできるヤツ、そう見られてたんだ。
でもな、誰がパソコンのスペックとか見に来るよ。誰がタダシのFM-Vの写真みにくるよ。誰もこねえよ。熊のアイコン追いかけてくるしな。だからこれらのBBSやチャットは軒並み廃墟になってたんだ。チャットなんて「森ぞーが入室しました」「森ぞーが退室しました」が何行も表示されてるだけよ。寂しさの象徴、それでしかなかったね。
だけどな、天下のYahoo!様がチャットを設置したとなれば話は別よ。集客力抜群。色々なジャンルのチャットルームが設置され、そりゃあ賑わっていたいたもんよ。全然覚えてないけど「エンターテイメント」とか「地域」みたいなカテゴリがあって、その中でユーザーが部屋を立てられるようになってたんだ。みんなこぞって趣味が合うやつとチャットしたもんさ。
ちょっとすぐには見つからないんだけど、「出会い」って分類の中に「アダルト」ってカテゴリーがあってな、事実上、そこが18禁のエロカテゴリーとして使われてたんだよ。信じられねえだろ、Yahoo!公式エロよ。そこで色々と、人間の煩悩をJavaアプレットにしたみたいなエロい部屋が数多く立てられててな、当時の俺は狂ったように通ったもんよ。
その中でも、一番すごかったのが「オナニー部屋」ってやつで、そこにはオナニーしたい女が集まってくるってテーマがあったんだ。そう、チャットでオナニーだ。でもな、文字で「んっんっ」とか「いくー」とか「ゆーか!ゆーかちゃん!」とか書くわけじゃねーぞ。
当時としては最先端のボイスチャット機能、これがYahoo!チャットには搭載されていたんだ。これはすげーぞ、声で女のオナニーが聞けるってえ代物だ。
興奮度がマックスになってしまうのはもちろんだがな、別の側面としての利点もあったんだ。それが「今オナニーしているのは絶対に女である」という点だ。こりゃあすごかったね、ブレイクスルーだったね。
当時は今みたいに誰もがネットしてる時代じゃねえんだ。みんなチェックのシャツ着てバンダナ巻いてテレホタイムよ。女が圧倒的に少なかった。文字だけのオナニー部屋なんてやろうものなら1000%の確率で、女のふりしたオッサンがあんあん文字打ってるだけよ。ネカマっていうんだけどな。男のオナニー文字を男が見て興奮する、そんな殺伐とした時代よ。
でも声ならごまかしきかねえんだ。絶対に女である、そういった保証があった。年金より確実な保証がそこにはあった。おりゃあインターネットやっててよかったと思ったよ。Yahooチャットばんざーいとも言いたくなるよ。
でもな、やっぱ女は少ねえんだよ。その絶対数が少ないし、Yahooチャットに流れ着いてアダルトに行ってオナニー部屋に辿りつく。こりゃあ天文学的確率よ。さらにマイクを所持していて、みんなにオナニー聴かれてもいい、なんてなるとほぼ不可能に近い確率だってわかるだろ。でもな、そこそこいたんだよ。そりゃ入れ食いとまではいかねえよ。でも、ジッと待ってると本当に来たんだ。女が来たんだ。
オナニー部屋はスピード、タイミングそしてチームワークが重要だ。これらが完全にマッチしないと女のオナニーにはありつけねえ。生きるか死ぬかの勝負がそこにはあった。
オナニー部屋に入ると10人ぐらいのサムライがいるわけよ。全部男だ。そこで女が到来してくるのを待つわけだ。気配を殺してジッと待つ。追い込み漁みたいな感覚だ。そこに会話はねえ。肉食獣みてえに研ぎ澄まされた連中だ。
「mina」とか「kana」とか明らかに女くせえアカウント名が入室してきたら勝負開始よ。釣りで言うところの魚が餌をツンツンしてるところだ。まだひいちゃいけねえ、焦っちゃいけねえ。がっついてサムライどもが襲い掛かったら女は逃げちゃうからな。
ここで俺たちは黙って見守っているんだ。何をって?オナニー指導員の誘導を見守ってんだよ。女が部屋に入ってきて、いきなりマイク繋いであんあん言い出してみろ、結構そんな女、嫌だぜ。そりゃあ女だってオナニー部屋に来るくらいだ、オナニーする気満々よ、聴いてほしいんだよ。でもいきなりやられたらお互いに興醒めよ。そこにはちゃんと予定調和ってやつがあんだ。
そこで優しくオナニーするオナニー指導員の登場だ。こいつはマイクを所持してて、優しい声してんだ。男前な声してんだ。
「いらっしゃい、ミナ、今日の気分はどうかな?」
まるでベイFMのDJよ。俺が女ならイチコロだね。
「マイク持ってる?」「え、あるんだ、繋いでみる?お話しようよ」「カワイイ声だ」オナニー指導員はこんな感じで誘導していくわけよ。ここで初めて俺たちガヤの出番だ。チャット画面に「カワイイ声」「キュートな声」「澄みきった清流のような声だね」心にもないことを書きまくっておだてる。
そうこうしてくると、どんどん男どもが入室してくる。オナニーの気配を感じ取ると、すごい勢いで入ってくる。スピード勝負って書いたのはこれで、実はYahoo!チャットは一つの部屋の定員が100名だ。オナニーが始まりそうになるとすぐにこの定員は歴戦の猛者どもで満たされる。
そうすると自動的に「オナニー部屋_2」みたいな部屋が作成されて、以後の入室者はそこに飛ばされるようになる。でも、そこにはオナニーしたい女もオナニー指導員もいねえんだ。オナニー聴きたい猛り狂った男が100名いるだけだ。こんな悲しいチャットルームはインターネットの歴史の中でそうそうないぜ。
話を戻すと、オナニー部屋では選ばれし98名が指導員と女の会話を聴いている。ここで俺たちはジッとまってねえといけねえ、全部指導員に任せるんだ。俺たちは指導員に全幅の信頼寄せている。伝説的指導員「シャドウウィザード265」さんを信頼しきってる。
「じゃあちょっと触ってみようか」
「はい」
こうしてオナニーが始まる。俺たちが目指していた場所、約束の地だ。オナニーが始まったら指導員の声は邪魔だから無視ボタンを押す。いらん。女の声だけを聞く。こうして女のオナニーにありつけるってわけだ。
女は聴いて欲しかったオナニーを聴いてもらえる。指導員も俺が誘導してオナニーさせたと自尊心を満足させる。俺たちも興奮する。誰も敗者がいないシステムだった。強いて言うならば「オナニー部屋_2」に押し込められた屈強な100人の男たちが敗者か。
そんなある日、いつものようにオナニー部屋で待機していると、女がやってきた。「ラビアンローズ」とかそんな名前だったと思う。なかなか高貴そうな名前だ。
その日はブラッディレイン0721さんがオナニー指導員だった。甘い声と穏やかな口調、しかしひとたびオナニーが始まると女に対して「脱がなきゃダメじゃないか、ふざけてるのか」と厳しい一面も見せる人気のあるオナニー指導員だった。
いつもの流れで挨拶をし、マイクを接続させる。するとラビアンローズの声に俺らサムライは驚いた。こんな品があってキュートで高貴な声があるだろうか、そんなレベルだった。声から良い香りがしてきそうな勢いだった。
手に汗握った。別なものも握った。こんな高貴な女が今からオナニーをする。小学校の時に高校生の兄貴がいるクラスのエロ博士が兄貴のエロ本を盗んできた時くらいの緊張が俺を襲った。
それは指導員のブラッディレイン0721さんも同じようだった。誘導にいつものキレがない。上玉の登場に緊張しているのだろう。それでもそこはブラッディレイン0721さん、数多くの修羅場(オナニー誘導)をくぐってきただけあって、静かに上玉をオナニーに誘導していく。
チャット定員は既にパンパンだ。「オナニー部屋_5」くらいまで作られたのを確認した。そんな中、本当に精鋭だけがこの部屋にいて上玉を見守っている。
「ちょっと、こういってはなんですが、その、少し、エッチな気分になりまして、恥ずかしながら、きて、しまいました」
その場にいた全員がパンパンに空気入れすぎたタイヤみたいになっていたはずだ。今日が僕らのYahoo!チャット記念日だ。こんな上玉に出会える日なんてもう来ないだろう。心臓が破裂しそうだった。Yahooチャットバンザーイ!
「じゃあちょっとだけ触ってみようか」
一番の勝負どころだ。俺的にはまだ早いんじゃないかと思ったが、ブラッディレインは一気にぶっこんできた。彼も勝負を焦ったのだろう。この「触ってみようか」のタイミングを間違うと全ては水泡に帰す。早すぎては逃げられる、遅すぎても、女のテンションが下がる。一番難しい判断だ。誰も彼を責めることはできない。
沈黙の時が流れる。誰もが女の返答を持った。ブラッディレインも喋らない。女も喋らない。チャットも動かない。時間の概念が覆りそうなほど、何も動かない時が過ぎた。張り詰めた緊迫感をこの場にいる全ての人間が共有していた。
静止した時の中で俺は耐えられなくなっていた。この緊迫感、緊張感、沈黙、頭がおかしくなりそうだった。何かチャットに書き込んでブラッディレインを援護したほうがいいのか、それとも静観していたほうがいいのか。俺たちのルールではこの瞬間は余計なことは書き込まないことになっていた。でもそうは言ってられない。何が正義で何が悪なのか分からなくなっていた。
何をトチ狂ったのか、気がつくと「Ctrl」と「v」を押し、エンターキーを押していた。まだ自分の気持ちも決まっていないのに、何かしなきゃと気ばかり焦り、コピーしていた文字列をチャットに投下していた。
ええい、ままよ!投下してしまったものは仕方がない。問題はその内容だ。確か、俺の記憶が確かならばいつもの定型文、「ああ、カワイイ声だなあ。田舎を思い出すような安心感のある声」っていう意味不明なやつがコピーされていたはず、それを貼り付けた。それなら沈黙を破ってまで投下する価値はないとは言え、援護書き込みになる。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。
祈るような気持ちでチャット画面を見る。頼む、援護書き込みがコピーされていてくれ!頼む!恐る恐る自分の発言に視線を移した。画面には衝撃的文字列が並んでいた。
「カマキリ」
なんで俺はこんなもんコピーしてんだ。いつだ、いつだよ。いつコピーした。それよりなにより、これ四文字じゃねえか、コピーしてんじゃねえよ。打ち込めよ。
勝負所の静寂の中、耐え切れないほどの緊張感の中、チャット画面に燦然と輝くカマキリの文字。先程とは別の意味で全ての時間が止まった。
沈黙を破ったのは女だった。
「カマキリってなんですか? 私がカマキリみたいな声ってことですか?失礼な人ですね。気持ち悪い」
無慈悲なシステムメッセージが少し薄いグレーの文字で表示される。オナニー寸前だった高貴な女が怒って帰ってしまったことを指し示していた。
これに怒ったのはブラッディレインと97名のガヤたちだ。
「死ね」
「お前マジで殺すぞ」
「ここまで頑張ったブラッディレインに謝れ」
「代わりにお前がオナニーしろよ!いやするな!気持ち悪いわ!やっぱしね!」
俺はこれまでの人生でここまで叩かれまくったことは4回くらいしかない。とにかく半泣きになりながら謝りまくった。
「なんでカマキリとか書き込んでんだよ!」
キレてるブラッディレインの問いに何故か知らないけど
「すいません、パソコンのスペックが低くて誤作動しました。変な文字がペーストされました。本当は援護するつもりだったんです」
「はあ、スペックが低くて誤作動?あるわけねーだろ、スペック書いてみろ」
「じゅうぶんじゃねーか、俺なんかPentium133だぞ」
こんな心温まるやりとりがあったんだ。ここからはみんなオナニーのこと忘れてパソコンのスペック申告大会よ。みんなスペックを書きたがったんだ。そういう時代だった。いい時代だった。今よりちょっと昔の、全てが煌めいていた時代のお話さ。お前が今インターネットの何に夢中になってるのかしらねえ。でも、数年後にこうやって思い出話にできるといいな。そうなるように祈ってるよ。
http://www.amazon.co.jp/ユーザーイリュージョン―意識という幻想-トール-ノーレットランダーシュ/dp/4314009241
科学的に「人間」というマシーンを観察すると、理解が深まるかもしれません。
http://www.amazon.co.jp/神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡-ジュリアン-ジェインズ/dp/4314009780
こちらもオススメです。
これは友達に審査されていると感じているわけではなくて、自ら問題を急いで解いている気持ちになるということだ。
自分は話す事が苦手なので、人といるときは常に相手の出方を伺っている。
世間の流行には疎いし、他の友人の噂話とかどうでもいいし、頭が悪いので常識的なことを知らないし、話題なんてほんとにひとつも出てこない。まして、その人はどういう話が好きなのかが分からない。
合わない話題を振って気まずい沈黙になるより、相手の話を聞いてそれに失礼のないように反応する方がいい。相手に合わせることだけで精一杯。
たまに沈黙になりそうな時は、共通の空間についての話を独り言のようにつぶやいてみる。天気の話とか暑いとか寒いとか冷房効きすぎとかこのインテリアいいよねとかだ。
すると大抵はノって返してくれるので、話しが途切れないように続けて質問をしてみたりする。あまり踏み込んだ質問はNGだ。失礼のないように慎重に。
こういうことをずっと頭の中でぐるぐる考えているので、とても疲れる。相手の話のオチに、大げさに笑ってみせたりして、頷いたり笑ったりびっくりしたりしなければならない。
努力の甲斐もあって、相手は楽しそうに話してくれた。約3時間のカフェの戦を終えて帰路につく。
家に帰って独りでPCをつける。それとともに出るため息。疲れた。
なんのために友達関係を維持するのかというと、ぼっちになりたくないからだ。つまり、変に嫌われたくない。自分が最も恐れているのは相手に失礼のないようにということで、体裁を最優先に生きている。
こういうときに猫なんかがいてくれたら癒されるのにな、と思う。人間はコミュニケーションが面倒くさい。
これは友達に審査されていると感じているわけではなくて、自ら問題を急いで解いている気持ちになるということだ。
自分は沈黙が嫌いなので、人といるときは常に話題を考えている。個々のニーズにあった情報をまずなんとなく捉えてから、その分野におけるニュースが無かったか脳内で検索する。そしてニュースがあれば話題として提供する。
また、そういった話題がない時は、その人の変化を感じとる。髪を切ったとか、おしゃれなアクセサリーとか、服のブランドとかだ。もしくは共通の友人の話でもいい。
さらにそういう話題もない時は、共通の空間について話題にする。天気の話とか暑いとか寒いとか冷房効きすぎとかテレビの芸能人がかっこいいとかこのインテリアいいよねとかだ。
こういうことをずっと頭の中でぐるぐる考えているので、とても疲れる。更にはそれぞれの話題に笑いを入れたいという自分のこだわりもあるので、無理やりオチも考えないといけない。しかし相手はこっちが必死に話題を提供しているのもお構いなしにこっちの話題に流されるまま頷いたり笑ったりしているだけである。
努力の甲斐もあって話題の尽きることなく約3時間のカフェの戦を終えて帰路につく。
家に帰ると猫が待っているのでじゃれて遊ぶ。それとともに出るため息。疲れた。
なんのために友達関係を維持するのかというと、ぼっちになりたくないからだ。つまり、変に目立ちたくない。自分が最も恐れているのは世間の陰口であり、体裁を最優先に生きている。
猫はいい。話題を考えなくていいから。全てが楽にコミュニケーションが成立する。それでいて癒しをくれるから、依存症になっているのかもしれない。
「どんなに盛り上がっても、好きとか愛してるとは、言わないようにしてるんです。」
ほら、とくに最中なんかにはね、と年下の愛人は嘲笑うように続けた。
彼の横顔は、なんというか天使だ。くるくるの髪の毛にすべすべの肌。細身の体躯は夫とは正反対である。
いつものようにベッドでじゃれている時、ふとこんな天使みたいな子が、わたしみたいな只のオバサンと無邪気に会ってくれるとか、収入のないわたしに都度ご馳走してくれるとか、全身をマッサージした後に更に手やら口やらで愛撫を加えてはいたずらっぽく笑ったり、そんな全ての事象に感謝したくて多幸感が満ち溢れてきて。
しまった、とは思わなかった。最初から返事なんて期待していなかった。
息を飲む音が聞こえた。よく喋る彼には不似合いな沈黙に、その音が響いた。
「僕も、増田さんのこと好きです。」
今度こそ思った。
「しまった。」と。こんなに固い表情の彼を見るのは初めてだった。
多分取り返しのつかないことをしてしまったんだろう。
彼に「好き」だと言わせてしまうなんて。
ぼんやりとした感じでその日の逢瀬を終えた。やはり、踏み越えてはいけないところを越えてしまった感じがあった。何度も寝てるのに可笑しいものである。
私は夫とは別れない。
それはそれ、これはこれ、ええと、次はなんだっけ?ファックはファック?
なので彼に大好きだのいってしまったのはやはり間違いだった。と、今となっては思う。
ま、後悔はしてませんが。
縄を編むようにカルマを君と編んでいきましょう。
こんなとこでしかきっともう言えないけど。大好きだよ。
中学生のときすごく仲がいい奴でアキラってのがいて、放課後は毎日のようにそいつの家に遊びに行っていた。
毎日お邪魔してたから、アキラの母親ともかなり打ち解けてて、おやつはカントリーマアムをリクエストしたり生意気も言える関係だった。
二人で漫画読んだりゲームしたりギター競い合ったり、ありふれたことをして遊んでたんだけど、そのくらいの年頃って当然エロ的なものにも興味が芽生えてくるもので、しだいにクラスのあいつがエロいとか男子学生らしいバカなこともくっちゃべっていた。
いつのことだったかアキラが「おれは井田のこと気になるかな」と照れながらも打ち明けてくれた。
自分はアキラとはクラスが別だったが、井田という女子は自分と同じクラスのマドンナ的存在だった。
彼女はやはり抜群にルックスがよくなんとなく色気があって、彼女に思いを寄せている男子は多かったと思う。
幸運なことに自分が思いを寄せているのは別の人だったので、素直にアキラの恋を応援すると話した。
するとアキラは「だから、井田でオナニーとかやめろよな」と言ってきた。
もちろんそれは冗談めいたニュアンスで言った言葉で、彼なりの照れ隠しに聞こえなくもなかった。
けれどその一言で自分は少し動揺した。照れ隠しにしてはちょっとぶっとんでいる。
「しないよ。だいいち井田じゃ抜けないよ」
そんなことはないくらいに彼女は魅力的なのだが、思わず口から出てしまった。
「へえ。じゃ誰なら抜けるんだよ」
互いにひくにひけなくなったおれたちは、わけのわからないプライドに突き動かされていたのだが、ノリで無茶苦茶なことをやるのもなんだか単純に楽しかったような気がする。
そういうわけで、自分はアキラの家のトイレで自慰行為をすることになった。
人の家でちんぽをしごくという興奮だけで、オナネタなんて正直どうでもよかったのを覚えている。
今覚えば露出モノの背徳感が好きという自分の性癖は、ここが原点だったのかもしれない。
「マジばかだな」
「うるせーよ」
その後でアキラの母さんが手作りのパウンドケーキを持ってきたときは、たいそうドキドキした。
実は自分は、化粧のいい香りのするアキラの若い母親に少し憧れていた。恋愛感情というにはまだ届かないくらいであったように思うが。
いつもは気軽に冗談を言い合える関係なのに、その日は妙に意識してしまって受け答えがぎこちなくなってしまった。
しかしその日はいつも以上にアキラと仲良くなれた気がした。下ネタを通してより男の友情が深まったような気がしたのだ。
結局その日はそのままアキラの家に泊めてもらうことになった。
夜になってアキラの部屋でふたりでテレビを見ていたとき、アキラは昼間の猥談を蒸し返した。
「なあおまえさ誰でも抜けるって言ったじゃん」
「またその話かよ」
「ほんとバカだよなおまえは」
「うるせーな、案外そういうもんだろ」
「井田では無理なのに?」
「だから井田をそういう目では」
「じゃあさじゃあさ」
「なんだよ、また抜けとかいうのかよ」
「あのさ」
「うん」
「おれで抜いてくれよ」
見たことのない真剣な面持ちだった。
沈黙。
どうするべきかわからず、自分は思わず言葉を濁して部屋を出た。
扉を開けると、そこにはアキラの母さんが飲み物を持って立っていた。
顔には明らかに戸惑いの色があった。
脇を抜けようと足を進めると、
「トイレで」
予想外の大きな声に思わず立ち止まった。
「トイレで、何をするの!」
店をたたんでから3年弱たち、ほとぼりも覚めたので(ネットに残っている情報もほぼなくなり身ばれリスクもなくなったので)、綴ってみる。
俺はこのフレーズが妙に気に入っており、このフレーズのおかげでラーメンに興味をもち、修行すること3年、地方都市でラーメン屋を営むに至ったわけだ。
そこそこ戦略的に、つけ麺がまだ珍しがられたような地区に出店したおかげか、2年経過して、俺も調子に乗ってしまった。
祝3年目の創業祭的なキャンペーンで俺は、あるサービスを思い付いた。普段、置いていない高菜を食べ放題にするのに加え、
ま、正直、うちの客は地方の大飯ぐらいを基本客層にしていたから、新規は3割もおらず客層は固定されていた。
この安心感が命とりだった。この高菜サービスをやるにあたって友人かつ客に相談し、そいつらも伝説になるとか言い出して、
何かあっても全力でフォローするからとか言っていて、保険もあるとか思った俺が馬鹿だった。
実際に昼の営業の1時間前までは、このサービスはそこそこ好評だったわけだ。
常連はそもそも高菜が置いてあるところに驚くし、新規も冗談が分かる奴らばっかりだった。
こうして、俺は、昼の閉店も間際に、若干小太りの地方では少し浮くようなちょっとイケている感じを出している客にこう接客してしまったんだ。
そのあと起こったことは、俺とそいつしかいない店内に流れた気まずい沈黙と、帰り際に渡された名刺一枚だった。
どうも、彼は、地元グルメ誌の編集長兼ラーメン・コンサルタントで、最悪ですねという言葉を残して店を去っていた。
そこから起こったことは、想像がつくことだと思う(俺はその時、想像つかなかったけど笑)
俺の店は、そのグルメ誌に目をつけられたどころか、色々なレビューサイトで痛罵されるようになった(たぶんそいつとそのコンサルタント受けてるとかいうやつらだ)。
さらには、俺の店よりもうまくて安くて量も多いつけ麺屋も出来上がって、俺の店はそのあと1年は粘ったがあえなくつぶれた。
どうやら、「高菜、食べてしまったんですか!!!!???」の発祥の店では、AKBとかには言わないらしいし、
柔軟にやればよかったのかもしれない。そもそも、なんであんな企画を思いついたのかも今となっては詳細は不明だ。
結局、俺はまた別の地でラーメン屋を開き、味もかなり改良した結果、そこそこ成功している。
そして、この店も2年経ち、3年目の創業祭を行おうかと企画している。
自分は人と話すのが嫌いな方ではないと思う。それでも、なんだか最近は人と話すのが面倒くさくなってきてしまったような気もする。自分の中に相手と共通の話題がなければ楽しい会話が成り立たないのはわかっている。生産的な話も、そうでない話も、楽しいものだということも理解している。
それでも、目に前にいる相手と、コーヒーを片手にたばこをふかしながら、ただただ沈黙を楽しみたいと思うことが増えてきた。
沈黙を共有するのは難しい。つまらない話を聞いているよりもはるかに難しいと感じる。自らなにも話さないというのは相応の覚悟が必要だ。この沈黙に対して、相手は退屈に思っているのではないか。自分と一緒の時間を過ごすのは苦痛なのではないか。黙っていると、そんな思考が頭のなかをめぐる。
それでも、相手とふたり、ただ流れる時を感じるだけの時間が欲しいと思う。そのことを理解して、共に黙っていてくれる相手というのは、人生の中でも出会うことはなかなかに難しいだろう。
普段は肩が凝る体質ではないのだが、今日は肩が凝って寝られない。寝られないので書く。
連休が始まった土日、誰もいないオフィスで深夜まで仕事してた。
連休の予定はまったくなく、今年も何もイベントもなく過ぎてしまうのかと諦めていた。
あとは帰って寝るだけだ。3日間ずっとだらだらとすごすのか。
一人で映画に行き、一人でレストランに行って、ツイッターに画像あげて、誰からも反応もなく、家に帰って寝る。いつもの休日か。
諦めんなよ。
頭の中の修造が言った。
でも誰もいないし。いまから誘ってもみんな予定あるにきまってるし。
諦めんなよ! 声かけてみろよ!!
いやでも・・・
そうだ! 声かけてみろ!!
「5/5に映画見に行きませんか」
以前告白して振られた同僚の女の子にメッセしてみた。これが深夜テンションのちからか。
そうだ!!できるじゃないか!!!
帰ってその日は泥のように寝た。
昼過ぎに目が覚めた。返信はなかった。
まあ、そんなもんだよな。世の中そううまくいくわけがない。
コンビニ行って飯でも買ってくるか。
メッセの着信音がなった。
都合がいいときだけ反応するんだな。
5月5日。気合いれすぎて30分も早く待ち合わせ場所についてしまった。適当にぶらぶらするかと思ったとたんメッセがなる。
「早くつきすぎちゃいました」
時間に余裕があったのでウィンドウショッピングして時間をつぶしたのち、レストランに行ってランチを食べた。
2人で食べるランチはうまかった。
「なんでいきなり誘ってきたんですか」
「2日も休日出勤してやっと仕事が片付いたけど、連休に何も予定ないし、がんばった自分にご褒美がほしいじゃん?」
彼女は笑っていた。
思い切って聞いてみた。
「じゃあ、手、つなごっか」
「いいですよ」
彼女は戸惑いながらも手を出してくれた。女の子の手は小さく柔らかかった。
身長差があるので中途半端な位置をキープしないといけないので、自然に手がつなげない。
ソシアルダンスで相手をリードしているみたいな体制になってしまう。
映画館について座席に座る。映画が始まる前、彼女の目の前で手をひらひらさせてみた。
手をつかむと、ああそういうこと、と苦笑。
映画の展開もあり、緊張していて手がこわばり、痛くなってきた。でも離したくなかった。
映画を見た後に感想を言い合うことができる相手がいることが新鮮だった。
その後、いろいろ買いたいものがあるというので彼女の買い物につきあう。
最近一人暮らしを始めたという彼女は、お皿やキッチン用品などを探しているようだった。
そのあいだずっと手をつないでいた。
夕方、名残惜しみつつも別れて、一人で家に帰った。
お礼のメッセを送る。「今日はありがとう。楽しかった。またデートしてほしい」
相手からもすぐ、今日は楽しかったと返信があった。社交辞令だとしてもうれしい。
次があるかはわからない。
でも、恋人同士にはなれなくても、休日に手をつないでデートできる相手がいるのは素敵なことじゃないか。
手をずっと繋いでいたら、肩が凝るんだな。寝られないくらい。
普段使わない筋肉を使うと、そういうことが起きると、身を持って理解した。
時々は使っていけるようになりたい。
私も増田と同じような考え方で、
かつ同じく自戒もしていた。
というカテゴリで言うと、
それを許容していない自分も同類だと考えるようになって考えを改めるようになった。
改まった振る舞いとしては3つある。
距離を置く相手を決める、あるいは、どのような時間を長く確保するかを決める。
これをすることでポジティブに自己の振る舞いを適切に決めることができる。
時に、1:のような人との交流は、自分一人で過ごす時間に劣る事も多くなると思う。
次に注目した点として、
これは器と表現できると思う。
こころの器を広くする。
そして、他者に対して上手な返しを身に付ける事。
否定された時に、自身のこころが傷む振る舞いしか取れないのは、
ある種の無能だ。
こころを平穏に、かつ、自身の美学に沿った返しを身に付けることが重要だと思う。
偉い人ってこれらがうまいように感じる。
・器を広く、こころに余裕を
・他人とのコミュニケーション力を向上させる(他の価値観との向き合い方を体得する
ブラウザで閲覧できないは、結局PCを持っていない人間のことを無視している
フェアでないという言い分はそこが弱い
これは「ネット上でフェアであるか、そうでないか」というのが論点だろう?
「名前や会社名などで検索した時に、その人の過去の情報(特に悪事)が引っかかるべき」という考え方の人がいましてな…。
(この考え方も「犯罪者がのうのうと暮らしているのは許せないので未来永劫晒し上げろ」だとか
「市民の安全のために悪さした人の情報は正確に残しておくべき」だとか幾つか理由のパターンがある)
サービス残業が好きだ
泊まり込みが好きだ
休出が好きだ
早出が好きだ
社訓が好きだ
上司が好きだ
自宅で カフェで
出張先で 客先で
閑職で 派閥で
コピペ提案が競合他社を退けるのが好きだ
悲鳴を上げて明かりの消えないビルから飛び出していった中間管理職を
懲戒処分した時など胸がすくような気持ちだった
恐慌状態の新卒が、既に息絶えた同期を何度も何度も横目で見る様など感動すら覚える
哀れな遵法者達が雇用契約書を手に健気にも立ち上がってきたのを
モンスタークレーマーに滅茶苦茶にされるのが好きだ
必死に守るはずだった案件がご破産になり、責任者が降格人事の憂き目に遭うのはとてもとても悲しいものだ
新興企業に追いまわされ、斜陽産業の様に地べたを這い回るのは屈辱の極みだ
君達は一体 何を望んでいる?
更なる仕事を望むか?
情け容赦のない、糞の様な仕事を望むか?
法令違反の限りを尽くし、中央線が敗北主義者を殺す、嵐の様な仕事を望むか?
よろしい。ならば裁量労働制だ。
前回、兵庫県芦屋市における小学校建設の問題についての増田を書きました
http://anond.hatelabo.jp/20150401074440
これの続報です。
以前は、小学校の是非について問うものとなっていましたが、事態は変わりました。
まず、私の意見を先に述べておきますと、最終的な市の決定には従うより他ありませんので
今回小学校が建設中止となってしまったことに関しては、納得しています。
ですので、小学校建設が必要か、そうでないかは今回の議論の対象ではありません。
しかし、「教育」が「政治」のための道具として扱われていることが明白となり
その点に関して怒りを隠せません。
別に今に始まったようなことではないでしょうし、色々な所で往々にして行われている
ことではあるのでしょうが、黙って泣き寝入りするわけにもいきません。
以下、経緯を記載します。
http://www.city.ashiya.lg.jp/kanri/documents/ikenkoukankaihaifusiryou.pdf
これまでの経過、に記載があります。
平成8年1月 兵庫県企業庁が『南芦屋浜地区土地利用基本計画』を策定
・合計 約 27,000 ㎡を確保することについて記載
平成10年~ 10 年~陽光町,15 年~海洋町,16 年~南浜町,18 年~涼風町入居開始
平成20年 潮見地区と南芦屋浜地区の児童数がほぼ同数となる。(各約 240 人)
平成23年4月 南芦屋浜地区の児童数(316 人)が12学級規模に達する。
平成26年4月 建設公営企業常任委員会所管事務調査において,南芦屋浜地区の教育施
平成26年8月
~11月
『南芦屋浜地区教育施設用地幼稚園・小学校建設検討委員会』を設置
(8回開催)
件の小学校建設予定地は、兵庫県企業庁の所有になっており、開発時点で
芦屋市は、企業庁からはいつ学校を作るのか、という問いに対して、それに見合う児童数が
確保できたら、と回答を出しています。
上の経過のように、おそらくは企業庁から、当初言っていた児童数にとっくに達しているのに
去年の8月に急遽、学校設立委員会を芦屋市が立ち上げています。
市の教育委員会で議論が交わされ、学校を新設する方向で市長へ依頼報告が上がってきたようです。
そして、去年の12月の定例議会において、市長が学校建設を行う方針を発表します。
非常に急転直下な話です。
山中芦屋市長は元々、小学校建設を願っていたそうなので、渡りに船ではあったのでしょう。
その後、今年の2月に「地域住民意見交換会」という名の説明会が催されます。
http://www.city.ashiya.lg.jp/kanri/ikenkoukankai2.html
これには私も参加し、その際の発言も記載されていますが、ここでは市は学校建設は行う、と明言しています。
この時点では、いくつかの反対意見もあることが議事録から伺えます。
しかし、反対意見があろうが、市としては「建設する意思」は覆らないという回答がされています。
そして、今年の3月26日に芦屋市議会議員の3分2を占める、14人の議員による「嘆願書」が市長に対して提出されます。
それにより、翌日の3月27日に、山中市長は急遽、小学校建設の白紙撤回を表明します。
(なんとその同日に、前回もURLを貼り付けましたが消えてしまったようで
ビラが各地にまかれています。
http://i.imgur.com/xY8EpUk.jpg
これは嘆願書を提出して建設を辞めさせた議員が、建設を辞めさせた議員たちと、それに賛同しなかった議員という形で
名前を連ねて、地域にばらまいたものです。明らかに選挙を意識した動きであるのは明白です。
しかし、市長が翌日にすぐに白紙撤回するのがわかっていたかのような根回しのよさですね。
ビラはこの議員だけではなく、他の議員からも色々なものがまかれたそうです)
そして、昨日、4月6日に、今回の件に関する説明会が開催されました。
これが今までの経緯です。
そこに参加をしてきて、ボイスレコーダーで議事を録音してきましたので、必要であればYoutubeにでもアップすることは可能です。
ですが、おそらく市から今回の説明会の議事録が提出されるであろうのでそれまでは保留としておきます。
さて、同日に都合2回開催された説明会ですが、内容としては最初に市長から2分程度の謝罪の言葉があり
後は市民の皆様からの意見を頂戴します、と。ただ市民の愚痴を聞いて発散させて、事なきを得ようという
目論見丸出しの会でした。
この会で、多くの疑問が新たに湧く結果となったのです。
まず、山中市長が小学校建設を白紙撤回させた理由について言及した所
・市議会の3分の2を越える議員からの嘆願書が提出されたことを非常に重く捉えている
との回答でした。
我々が選出した市長と議員の総意が民意であることは理解のうちなのですが、
非公式な場での嘆願書により行われ、議論もすることなく議決を得ることもなく
「決定」に至ったことです。
しかもなぜこの時期に、選挙を目前にしたこのタイミングにそれが行われたのでしょうか。
これは、昨日の説明会に参加をした木野下議員もブログにて言及をしておられます。
http://blogs.yahoo.co.jp/urukino07/68394659.html
今回の14名の議員による白紙撤回を求める申し入れ書について、「議決に準じる。印鑑を押してあり、大変重い」と述べたことです。
じゃあこれから、議案を出す前に、この申し入れ方式をとれば、議会なんか開かなくても済むケースが山ほど出てくるのではないでしょうか?
予め、議員には議案を示し、賛成派・反対派がそれぞれ署名捺印合戦をして、多数を占めたほうが、「申し入れを作り、そこに署名捺印をする」。市長は、その申し入れ書を見て、反対が過半数を占めていたら、議会での論議をする前に撤回してしまう。
ある市民の方が、「議会で論議をしてほしかった」と発言されていましたが、まさに今回は、議会での議論をすることなく、市民的な大きな課題が市長の独断で決められ、議員14名の申し入れ書という形をとって白紙にされたということです。
それともう一つ。
山中市長はしきりに「行政は議会の決定に従うしか無い」と訴えていたのですが、
木野下議員の言うように、今後もそうやって嘆願していけば、決定されてしまうのであれば
Youtubeにもアップしている方がおられるようでした。
https://www.youtube.com/watch?v=aKCjcM63AUA
また、次の疑問はこのようなものです。
教育委員会は浜風幼稚園廃園決定の際、単学級が複数年にわたることを理由にしていました。南芦屋浜においても、小学校を新設しても10年後には単学級になる見込みであり、また、既存小学校の学級数、児童数減少を招くことも明白です。市長は、統廃合はしないと言われるが、教育委員会のこれまでの単学級に対する考え方からすると現実的に統廃合検討の対象となります。
以上のとおり、巨額の建設費を投じた上、毎年多額の維持費をかけることとなる小学校は、建設後10年でその必要性を問われることが明確であり、その必要とする理由にも説得力が感じられません。南芦屋浜地区の住民からも反対の声が大きい小学校建設で、これまで市長が3期12年の間、道筋をつけてこられた行財政運営に対する市民からの信頼を損なうことのないよう、英断をもって、計画の白紙撤回をされることを強く申し入れます。
これは大きく分けると
という2点に集約されることになります。
1つ目の単学級化に関しては確かに問題です。
これから単学級になる学校を新たに敷設するのかという点には非常に納得はできます。
しかし、単学級化はここだけの問題ではありませんし、今日本全国で起きている問題です。
長い時間をかけて取り組んでいかないといけない課題でありますし、教育の観点で考えなければ
それに単学級を防ぐために、学校を市に1つにして家の近い児童も、遠い児童も全員に通わせるような
ことは現実的に難しいでしょう。児童の通学にどれだけの影響が及ぶかという点が置き去りにされています。
これは上でもビラを巻いている議員がいると伝えたように、口をそろえて「70億円」の無駄な公共事業
と言っています。
これは30億円の土地費用と、40億円の学校建設費用と言われています。
しかし、実際には兵庫県の他市の事例でも明らかなように、学校用地の土地を使うことは
兵庫県の企業庁のプランでありますので、定価である30億円で用地を売るということは考えにくいのです。
これは過去に山中市長も明言されており、実際には4億や5億くらいで土地を取得できると算段されていました。
学校建設費用の40億円もどんだけ豪華な学校を建てる見積なのかはわかりませんが、
単学級を見込んで小規模な小学校を立ち上げるのであれば、いくらでも縮小化が可能です。
しかしこれらの事実を無視して、反対派の議員は「70億円かかる」と言い切り、当該地域ではない
市民にそれを伝え反対票を集めているのです。
では今からでも、見積をやり直して学校を建設するかどうかの議論を再開できるのではないか、
との問いには「それはできない」の1点ばり。
これはもうなにかの力が働いているとしか思えません。
山中市長は、3月の時点で14名の議員から嘆願書が出ているので、
しかし、議員達は70億円かかると言い続けているわけですし、実際には
それだけの費用はかからないと知っても、本当に議会の決定は変わらないのでしょうか。
その点を重点的に多くの方が意見をしたのですが、山中市長は「無理」としか言わない。
このような決定には納得ができませんし、なにより市議と行政への不信しか残りません。
そして、この事実は多くの芦屋市民が「知らない」まま、4月26日に統一地方選挙が行われます。
3月に、対立候補として出てきた人がいるのですが、その人は政策に「小学校建設反対」を表明していました。
おそらくは、この市長選で山中市長が「小学校建設推進派」だと、この対立候補との戦いになるので
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201503/0007830055.shtml
70億円かからないのにです。
行政と市議が正常に作動していない状況で、市民が振り回されています。
特に昨日参加をした住民の多くの人は「兵庫県」と「芦屋市」と「不動産屋」がそれぞれ口をそろえて
「学校を作る」と明言したため、家を購入した、移り住んできたという人だったようです。
それは詐欺行為にも等しいのではないかと。
そして、参加した私の感想ですと、山中市長はとにかく「謝らされている」感じがしました。
トカゲの尻尾きりで責任だけ取らされているような感触を受けました。
一方、それ以外の議員は、一体何が起こっているのか、どうなっているのかと
闇を感じますね。
瞑想とは何か・・・。上座部仏教徒にとって、瞑想とはなにかというテキスト的な役割を果たすのは清浄道論です。しかしながら、より実践的な瞑想の方法を学ぶためには他の仏典が参照されることもあります。今回は清浄道論でない仏典を参考にしつつ、より具体的に、瞑想とはどんなことをすればいいのかを見てみましょう。
さて、ヴィパッサナー瞑想の詳しい紹介に入る前に・・・そもそも、ヴィパッサナー瞑想はなぜ行われるのでしょうか。それに関して、例えば古代の仏典であるMaha-satipatthana Sutta(大念住経)にお釈迦様の言葉があります。
・比丘たちよ、ここに一つの道がある。その道とは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である。
・この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである。
・努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)受であると絶え間なく知覚して住むことである。
・努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むことである。
・努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むことである。
すなわち、ヴィパッサナー瞑想をすることによって、知恵(insight あるいは understanding)が強まり、「自身」という存在をより正しく知ることができるのです。そして、その道を極めることによって、最終的には悟りすら得られる瞑想です。
それでは、ヴィパッサナー瞑想とはどんな瞑想なのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想・・・といったときに、もっとも有名なのが呼吸を対象とする瞑想です。この呼吸瞑想はどこで紹介されているのかというと、やはり古代の仏典である、ānāpāna-sati(アーナパーナ・サティ)に記されています。このānāpāna-satiは、日本では安那般那念という名前で知られています。
wikipedia - 安那般那念
Anapanasati Sutta(Thanissaro Bhikkhuによる英訳版)
さて、安那般那念の該当部分を見てみましょう。ここにはこう書いてあります。(以下はwikipediaからの抜粋)
Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'
長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら(paṭisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。
これは呼吸瞑想を紹介する部分です。
しかし、瞑想について具体的に紹介しているのはānāpāna-satiだけではありません。Maha-satipatthana Sutta(大念住経)にも瞑想方法が紹介されています。ここには呼吸瞑想以外の瞑想方法が紹介されています。それを引用してみましょう。以下は英訳版Maha-satipatthana Suttaからの引用と、私による(英文の)和訳です。
"And how does a monk remain focused on the body in & of itself?
では、比丘たちよ、比丘はどのようにして、体そのものに気づきを保ち続けるのでしょうか?
"There is the case where a monk — having gone to the wilderness, to the shade of a tree, or to an empty building — sits down folding his legs crosswise, holding his body erect and setting mindfulness to the fore [lit: the front of the chest]. Always mindful, he breathes in; mindful he breathes out.
ここにある比丘がいます — 彼は森へ行き、木の陰へ行き、あるいは空家に行き — 腰を下ろして足を組みます。背をまっすぐに伸ばし、そして気づきを(胸の)前部へと向けます。そして、常に気づきをもって、彼は入息します。気づきをもって、出息します。
"Breathing in long, he discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long.' Or breathing in short, he discerns, 'I am breathing in short'; or breathing out short, he discerns, 'I am breathing out short.' He trains himself, 'I will breathe in sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe out sensitive to the entire body.' He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.' Just as a skilled turner or his apprentice, when making a long turn, discerns, 'I am making a long turn,' or when making a short turn discerns, 'I am making a short turn'; in the same way the monk, when breathing in long, discerns, 'I am breathing in long'; or breathing out long, he discerns, 'I am breathing out long' ... He trains himself, 'I will breathe in calming bodily fabrication.' He trains himself, 'I will breathe out calming bodily fabrication.'
長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知ります。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練します。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練します。あたかも熟練したろくろ工、あるいはその弟子が、ろくろの紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知るように。これと同じように、比丘が長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知ります。・・・「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練します。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練します。
"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or externally on the body in & of itself, or both internally & externally on the body in & of itself. Or he remains focused on the phenomenon of origination with regard to the body, on the phenomenon of passing away with regard to the body, or on the phenomenon of origination & passing away with regard to the body. Or his mindfulness that 'There is a body' is maintained to the extent of knowledge & remembrance. And he remains independent, unsustained by (not clinging to) anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.
このように、比丘は内部から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、外部から体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、内部・外部両方から、体そのものに対して気づきを保ちます。あるいは、比丘は体に関する現象の発生に気づきを保ちます。体に関する現象の消滅に気づきを保ちます。あるいは、体に関する現象の発生と消滅に気づきを保ちます。あるいは、比丘の「体が存在する」という気づきは知識と想起(注1)の範囲で保たれます。そして比丘は独立を保ち、世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに気づきを保つ方法です。
"Furthermore, when walking, the monk discerns, 'I am walking.' When standing, he discerns, 'I am standing.' When sitting, he discerns, 'I am sitting.' When lying down, he discerns, 'I am lying down.' Or however his body is disposed, that is how he discerns it.
さらに加えて、比丘が歩いているとき、この比丘は「私は歩いている」とはっきりと知ります。立っているとき、この比丘は「私は立っている」とはっきり知ります。座っているときには、「私は座っている」とはっきりと知ります。横たわっているときには、「私は横たわっている」とはっきりと知ります。あるいは、体がどのような状態になるのであれ、はっきりとその状態を知ります。
"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.
これが比丘が体そのものを内部から、あるいは外部から、あるいはその両方から気づきを保つ方法です。そして・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに気づきを保つ方法です。
"Furthermore, when going forward & returning, he makes himself fully alert; when looking toward & looking away... when bending & extending his limbs... when carrying his outer cloak, his upper robe & his bowl... when eating, drinking, chewing, & savoring... when urinating & defecating... when walking, standing, sitting, falling asleep, waking up, talking, & remaining silent, he makes himself fully alert.
さらに加えて、比丘が前に進むとき・戻ってくるとき、この比丘は自身に完全に注意を払います。何かに目を向けるとき・目をそむけるときも同様に・・・手足を伸ばすとき・曲げるときも同様に・・・自分の外套(コートなど)を運ぶとき、自分の上着・お椀を運ぶときも同様に・・・食べるとき、飲むときに、噛むとき・味わうときも同様に・・・排尿するとき・排便するときも同様に・・・歩くとき、立つとき、座るとき、眠りに落ちる時、起きるとき、話すとき・沈黙するとき、比丘は自身に完全な注意を払います。
"In this way he remains focused internally on the body in & of itself, or focused externally... unsustained by anything in the world. This is how a monk remains focused on the body in & of itself.
これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。あるいは体そのものを外部から・・・世界の何物にも執着しません。これが比丘が体そのものに対して気づきを保つ方法です。
基本的には上記がヴィパッサナー瞑想だと考えればよいでしょう。このヴィパッサナー瞑想は近代の指導者たちに、さまざまに解釈されています。
原爆なんて、原発なんて、最初からなかった—全体主義に怯える西洋の知識世界が総力を挙げて案出した虚妄の世界から脱出し、全人類を解放せよ!!
2015/4/25追記:ネタですた。詳細はぶくまこめ参照