はてなキーワード: 少女マンガとは
なお女です。ごめんね、なんか謝っておく。
金髪のあたりはちょっと自信ないけど、海外の美少女だったと思う。
不思議な事に一人称ではなく、ゲームのTPSみたいな視点で、金髪美少女は後姿しか見えない。後姿しか見えないがあれは美少女だ。間違いない。
ふわふわの簡素なドレス…かネグリジェを着てて、年のころは13~14くらいか。華奢。
どうやら好きな人がいるらしい、けど、親からは快く思われていないらしく、見つかったら怒られる。
どうやらとある部屋でその人を待っていたようだ。
その人が部屋に顔を出した瞬間、すごく嬉しくなって、相手も喜んでいるのがわかってさらに嬉しくなって
結果として押し倒し、強引に唇を奪っていた。
相手は驚いたようだけど嫌な顔はしていないようだ。
その後色々あり、突然どこからともなく現れたベッドに入るわけだが、本当にただ入っただけで、雑誌を読んでた気がする。
少女マンガとかもう15年以上読んでないので
なんでこんな設定の夢を見たのかわからないんだけど
他人のことを好きだと思って、他人からもそう思われているというのは幸せな事なんだなと
彼氏いない歴=年齢のブスは初めて知りました。
ま、夢だけど。
27歳なんだけど、俺の歳になって、青春モノを作れるように思えない。
ホトンドの人が普通の生活してるわけで、イケメンと美女出して「普通の青春です」ってそれを書く気になれない。
あれなんなんだろうね。
ああいうのにダマサレテ、高校や大学、社会人の数年、いやモットずっとコジラせてる奴は多い。
当然、作り手って意図して嘘を書いている。まあフィクションだけどさ。
そういうのが売れるんだろー?って、ネットCMでも作るレベルで作る。そして、騙された人から金を取る。
これさあ。スンゲーうざい。悪い奴らだなーって感じてしまう。
もちろん、嘘を嘘って分かるならいいんだけどさ。分からない奴を騙しに行ってるわけじゃん明らかに。
それどうなの。
エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーはエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである。
しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアム・フレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為をエロと称するのであれば、その意味で泣きゲーがエロゲの一ジャンルであることは間違いない。
泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったかの技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。
2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。
だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。
ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。
そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。
その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからである。エロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。
例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーはエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である。
人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」の構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ、少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性は友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。
男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。
『DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。
さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲーの元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。
努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇をきっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。
「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。
難病物は概ね、主人公とヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したものを涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一『ノベルゲームのシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福な日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである。
この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。
前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2の桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公の勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。
1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチのシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。
おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。
そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴的である。もし泣かすという意思で作られたものを泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初の泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。
MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。
とはいえエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである。
ToHeartで泣かせる物語構造が確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.のスタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインのルートで導入された。
当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。
本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独でジャンルを成立させられることを示していた。
今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。
6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。
特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチをKanonは泣かすという目的で採っている。
Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代の泣きゲーの金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物である。リアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。
――一方で、ToHeartもONEもKanonも加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴である。ハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である。
興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。
知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故で幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。
そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。
しかし、彼女が無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。
もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔で幸福な記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。
悲劇の象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。
ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。
MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである(個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。
そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。
男女関係の修羅場をシリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公が修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。
誰を切り捨てるかは、プレイヤーに選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。
さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である。
家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である。加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。
襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。
なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである。
……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である。
例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇的シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である。
また、集団間の絆も広く扱われていく。
『うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である。
ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決とはいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。
これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である。
ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。
そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤーに凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。
そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。
泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要な位置に少女の悲劇と愛が配置されている。
そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である。
としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。
そう捉えるならば泣きゲーの歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。
いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である。
例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢を最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くものが2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。
また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトルは以下略)。
昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやすい泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである。
リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後の若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲーの元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。
かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解の一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。
というか、マッタク楽しくない。
合コンだの、友達たくさんだの、週に何回も飲み会だの、バーベキューだの旅行だの。
あれ?と言う感じ。
というのも、俺が持っていた「スクールカースト的?」な劣等感なんてなかった。
スクールカーストはあって、俺はそれが『うらやましいもの』と思い込んでたけど。
俺は多分、「なれない」んじゃなくて、「ならなかった」側だったんだわ。
勉強ばっかりしてたから。将来研究医になることしか興味なかったから、そもそも周りに興味なかった。
よく、ドラマとかで王子キャラが、「セバスチャン」的なノリで出てくるけど、あれがリアルだと思う奴はいない。
少女マンガの白馬の王子なんてのも、流石にリアルでいたらアホ。
なぜ信じてしまったのか。
それは、見た目がクソブサメンのチビデブハゲふけ顔だったから。
でもさ、関係ないんだよ。
女からしても男ってそういう動物園の動物なんだよなあ、リア充世界では。
漫画やドラマで見るような、「ウフフ、オホホ」なことは一切無い。
小学生がカードゲームや家でゲームやってる時のほうがよっぽどリア充。
キモオタがコミケで集団で同人買い占めてるけど、あっちのほうがよっぽどリア充。
カースト上位のリア充集団なんて、女は金持ちのペット、男はパズドラ並のクソゲーをやってる気分。
これは、せいぜいパズドラ程度しか楽しめない層のための、ゴミゲーなんだわ。
一方で、キモオタ集団やカードゲーマー、ラブライバーみたいなのが本当の面白さ。
こっちのほうがよっぽどリア充。
なんで、キモオタが馬鹿にされるって、結局女とやれるやれないの差だけ。
女は、結婚とか恋愛で脳みそが馬鹿になってるってか、カワイイとか雰囲気いいみたいなノリじゃないと楽しめないからパズドラばっかりやってるわけ。
女は、『ワンピース』みたいな、まったく戦略もしっかりしてないのにノリや仲間感で敵を倒せたりみたいな、ドキュンノリのファンタジー的なカワイイ系のりしかわからない。カワイイ系ノリで問題解決するわけがないんだけど、『ワンピース』では、カワイイ系ノリの絵で雰囲気だけで話が成立している。
リア充ってのは、そういうワンピースノリそのもの。馬鹿らしい。
一方で、キモオタはスグ文学に走る。文学なんて、学校の図書館でホコリまみれだったでしょ。誰も読まないけど、クッソ面白い。
結局、この程度のものなんだけど。
キモオタは文学的に考えちゃうから、「キモオタ視点のエロ漫画」とかになると、すぐリア充を『勝者、人生楽しんでる』と設定したがる。
二次元絵でメン球やおっぱいを巨大にかいてしまったり、体重を30キロ台に設定してしまうような、極端な抽象化をしてしまう。
ドストエフスキーが『地下室の手記』で劣等感まみれの男を書いたり、『賭博者』ってので女に貢ぐ男を書いたりと煽られたのもある。
とにかく、文学が言うんだし、エロ漫画も読みまくって刺激受けまくって。
「これぞ真実だろう、死ねよリア充。堕胎やいじめを産んでるクソ文化死ね。他人を犠牲にしてリア充とか本当に人間性ねーなバーカ」
と本気で思ってた。
しかし、当のリア充は、「精神的に貧困」な人達ばかりだ。特に女。こんなクソゲーに女はガチでやんないとだめなんだなとアホらしい。
男はこんなんを降りても余裕でキモオタ文化で楽しめるわけで、むしろキモオタ文化のほうが高度なわけだし。
う~ん。劣等感消えましたなあ。
キモオタ文化の抽象化された「リア充うらみ」をそのままトレースして遊んでいたんだなあ俺は。
好きだったアイドルがAV落ちしたときに泣きながらオナニーしてる奴がうらやましくって、そのアイドルがアイドルしてたときの動画を必死に漁りまくってファンだった設定で泣きながらオナニーしてるようなもの。
そして、その、最初の、「アイドルがAV落ちして悲しんでいるオタク」ってのを抽象化して、二次元キャラみたいに物凄い劣等感を抱かせて神格化して。そういう神格化された非実在キモオタをトレースして気持ちよくなってたんだなあ俺は。
初めは「アラサー女子」とか「婚活女性」とか「結婚できない女たち」のリアルを描いたマンガだと思って読み始めた。
ところがどっこい。
だって、白馬の王子様も出てくるし、偶然にイケメンとも知り合うし、3人ともちゃんとセックスしている。(主人公にいたっては2人も!)
タラレバちゃんたちのセリフがアラサー婚活女性にぐさっとくるだけで、話の展開はきっかりバーチャル。
特に4巻は、主人公が仕事に目覚めるあたりから涙が止まらなかった。(こういう感動展開も少女マンガだと感じる所以だ)
「もっとリアルな設定じゃないと」とか「こんなのありえない」とかときどき評価を下げられているのが解せん。
だって普通の少女マンガなんだ。女性の夢や憧れの詰まった話なんだもんこれ。
年下男とどうなるのか楽しみだわー。
詳しいレビューは優秀なレビュアーさんたちにお任せするとして。
さて、私は主人公と同じ年に生まれ、現在2人の子持ちワーママ。
それこそ不倫で結婚の望みもない男とばっかり付き合う人や、適齢期に婚約破棄して次が見つからずに婚期を逃した人もいる。
共通しているのは「婚活」じゃなくて「恋活」ばかりしているところだろう。
嫌いじゃなければそれでいい。キスできる相手ならなんとかなる。
それくらいのある意味「余裕」を持って男性を見ることができていない。
好きになる人と結婚したい・・・そんなこと言ってられるのはせいぜい20代まで。
アラサーどころかアラフォーになるというのに、なぜ「恋」を優先するのか。
結局本当に結婚したいんじゃないんだろう。いつまでも恋愛していたいんだろう。
そういえば、先月は番茶でアニメを殆ど見てないことを思い出しておそ松さんの続きを見始めたら、ローション会だった。
1クール目のおそ松さんは好きだったんだけど、2クール目は女子向けに突き抜けすぎて、ちょい食あたりやなぁ〜。
16話って女性の業の深さが見えて、「逆恋愛工学」みたいになってて、一周回ってホラーにしか見えないんだが…。
ここで言う逆とは「恋愛工学めいた【利己的な遺伝子】的発想を女性側が自分達が干からびてでも受け入れる」という意味での逆。恋愛工学…つまり、正位置では振りかざしてたことをね
2クール目のおそまつさんは見ないほうが良かったのかな…特に16話は最初っから最後まで媚び媚びすぎて、しんどい…。
なんだろう…こうじゃないんだよ。
どっちかというと、少年マンガとかロボットアニメの1シーンからヤオイ的なものを拾っていくのが好きな感覚を「腐」として認識するわけで
少女マンガはあの独特のテンプレのシュールさを楽しむ、バカエロ系AVとか、テンプレート的なライトノベルの女版文化だと思ってみてました。ごめんなさいw(たまにすげーいいのはあるけど、典型的な奴は本当にシュールっす)
妹にハルヒとかおおふりのキャラソンをかたっぱしから聞かされた時のことをおそ松さんのエンディングの入りで、思い出す。
地獄の16話終わったと思ったら、17話は十四松まつりかよ…マラソンで見ようと思ったら、タフネスが要求されるなぁ〜。これ。
16話でなんか、最近の嫌なことを色々思い出して、思考がこじれたから寝るけど
恋愛カテゴリに手を出して、女性向けアニメ見るとなんか精神の平穏を保ちながら見るのがすげーしんどい。
ゲスな女の恋バナと、部分的に一致していくのを見ると「あーオタクでも女の子はやっぱりそっちノリなのか?」みたいな気持ちになる(実際そうなのかはサンプル不足で謎だから気持ちの問題)
自分の語彙力不足と経験不足で、ゲスな恋愛論を言う人間と、女性向けのオタク的な色恋ものをきっちりと切り離せない。
これが、男性向けだと「ねーよ」とか「うぶすぎてかわいい」ってのが全部仮想的であると同時に安心するんだけど…。そして、ないと思っても意外と初な女性っているからねぇ…うん
前に、とれいC(@sakenomitracy )さんから「他の記事はいいのに、青二才さんの恋愛論だけはなんか違う」って言われたのは本当に的を射てると思う。
というのも、恋愛論をかじってから、人間の見え方が変わっちゃって、不信感とアウェー感で押しつぶされかけてるのよね…うん。
正直言って、恋愛のコツは2つしかない。「足るを知ること」と「自分がモテたいタイプの人のいるところに行く」ことの2つ。
で、恋愛論の多くは「ミスマッチを他人のせいではなく、大半は自分の鏡でしかない」と気づいてないだけ。
結局のところ、なんで恋愛論が存在するかというと、結論よりも共感を大事する女と、そこにうまく頷くとヤれること・モテることを知ってる男が「男ってホント馬鹿ね」「あいつがモテないのはキモいからっしょ」といいあうという地獄。
リア充版駄サイクル
頭の悪いやつのために補足しておくけど、ヘイトでもミソジニーでもないです。
この人のレベルまで来ると、『チキタ★GuGu』も読んでるだろうし、『ぼくらのよあけ』も読んでるだろうし、あっ『ぼくと未来屋の夏(マンガの方ね)』はどうかしら?……とお付き合いを目的とせず語り合いたい、あるいは教えを請いたいレベルよね。
婚活を目的とした場だと「相手に引かれちゃいけない」という前提があるから、マニアックな作品は出しにくいし、また男性って上から目線になりがちなので、増田の気持ちはよく分かるが、仕方ないよなとも思う。
そんなあなたに(もう行ったかもしれないけど)京都国際マンガミュージアムおすすめ。
貴重な過去作品を気軽に手にとって読める。自分はそこで読んだ巴里夫先生のマンガがたいへんショッキング(ご自身で復刊されてるので、買ってJ君さんに献本しようかと悩んだレベルで)だったり、とても楽しかった。この人は辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』でも少女マンガの名手として名前が出てくるのに、あまりに名前が残ってないのにビックリ(24年組以前の少女マンガって辿りにくいよね)。中庭で寝転びながら、そういう作品が読める楽園でした。
男は、とっくにイケメンやできる奴が主人公の漫画から、できないブサメンや非リアの劣等感みたいな漫画が多勢をしめている。
いまだにイケメンやってるのって、特殊な職業モノとかのいわばドラクエ並みのシュミレーション系だけ。
だが、女は百年一昔のイケメンが見初めて系に終始している。
『わたしがモテないのは~』とか、喪女みたいな、なんつーかジョーク系はあるみたいだけどさ。
そういうんじゃなくて、マジで終わってる感じの。
それこそバンドマンの子供産んだシングルマザーがキツイキツイいいながら風俗嬢とかくらいか?男のに並列すると。
あるいは新興宗教にハマって夫に離婚された頭おかしい女とかさ。そういうのが主人公になってこないとイマイチ面白くないんじゃねーの。そろそろ。
同年代の男と結婚すると言い出すが、同年代の男は収入も少なく、結婚適齢期には結婚できません。
そうすると、大学や就職の前におっさんと結婚して子供産みましょうってのが最適解になる。
しかし、女はこれを認めない。
男から見ると、女って、18くらいから成長は無い。むしろ劣化の一方。
容姿の劣化を精神の成長で補えるという信仰がなぜかあるみたいだが。女は精神的な成長なんてしない。18で完成。(これでも相当さっぴいてる。せいぜい15くらいだろうか完成ってのは)
これは悪口でもなんでもなく、実際そんなもん。男はそれ以降もハードルあるから成長するけどさ。
そうなると、18以降は劣化の一途なんだから、さっさと利益確定させて結婚させてしまうのが合理的。
だけど、なぜかそれを認めず、成長だの、遊びだのを言い出す。
女を走らせるものってなんなんだ。
あとさ。
イケメンとかリア充とかドキュンと付き合うために、そういう若さを売りに恋愛してるみたいだけど。
その後の妊娠の辛さも年齢が上がれば跳ね上がるし、体力無いまま子育てくるし。そもそも、不妊治療とかで年間300マンとか飛ぶ。
イケメンに遊ばれる喜びで捨ててしまうものは、年間800万くらいじゃないかなと思う。
女はこれが楽しいらしい。
少女マンガの洗脳って罪深いね。人間がこうやって人生捨ててるのやべーよなあって思うけどさ。
答えが出てても、それを実行するメンタルが無い。
女って馬鹿だね。
受験勉強して医学部入れば生涯年収で億レベルで変わるなら、普通勉強するよね。しない奴は年棒数億の仕事蹴ってるのと同じだから。
医学部入れるのに、努力を惜しんで、「若い思春期の間に遊びたい!」とかで医学部入れない奴いたら、普通にクソ馬鹿だなって思うでしょ。
女を見ると、まさにそれと同じ。
『ダメな私に恋してください』
29歳の主人公が医大生の彼氏の財布にされてて。借金して貢いで。捨てられて。仕事もやめる。
で、イケメン上司を好きになったから、その人と結婚したい。でも冷たくされる。相手されてない。
家族からは見合いを何回もさせられるも、医大彼氏に振られたなどの愚痴を見合い相手に言うなどクッソ失礼な感じ。親も紹介してくれた先に頭下げる。
これ最初見たときに、なんじゃこれは。って思ったんだけど。これが女は好きなんかーってビビッタ。
頭が弱いというか。なんというか。29歳ってリアルさを出していくはずなのに、少女マンガ展開にしちゃってるのが頭が弱い。
ノーチャンスもいいところだろ普通。普通にダメな29歳は、普通にダメ。それを描かないで。
なぜ見合いで愚痴るという社会的に死んだだけでなく、人間性も終わってる描写に出るのか。
この描写は、単にうまく行かない29歳というだけでなく、恋愛は見合いなんかよりいいんだと持ち上げておくなら、ホストに貢なみに人生終われってのを最初に提示している。それなのに、恋愛まだやるんですか。
そういうのって、29歳どころか、20歳くらいに終えてないとだめなんじゃないの。バンギャあがるなり、ソープ落ちして苦しむなりして、金が足りなくなって23歳くらいでってのがパターンで、それを横目に普通の人は、バンドマンとかホストやサークル幹事みたいなチャラ男イケメンは怖いんだなって普通の男と付き合いたがるみたいな。
だってさ。年齢とともに市場価値はドンドン落ちていくわけで。そこに乗るために努力する人が多いなかで。29歳で貢んだ。とか。知的障害見てるみたいで辛すぎて読めなかった。
よくある、マドマギみたいな、怖い話を御伽噺風のタッチで描く系の漫画に見えて怖い。
33歳の彼氏いたことない処女の地味なオバサン。大学生の新歓のときに先輩とラブホに誘われたのに断ったことを後悔している。
バイトに来ている大学生と誕生日に飲んで、記憶なくしているうちにセックス。付き合うことに。
次の日バイトの大学生のいる大学に行くと、大学生のリア充友達がきて、
これも、え?ってなった。
普通、詐欺漫画の序盤だよねこれ。初デートもどきでバーで飲ませてセックスするって展開もまんまキャッチや風俗斡旋のそれ。
そういうものにしか見えないのに、美談にしてるところが気持ち悪さっていうか。あれだ。怖い話なのに御伽噺風にする手法あるじゃん。そういうものを感じた。
なんだろ。『バキ』に通じるものがある。多分作者はマジメにやってるんだけど、ギャグになってるみたいな。
たぶん作者はマジメに「白馬に乗った王子様×アラサー女」っていう設定でやってるんだろうけど。読むほうとしては、現実との整合性がなさ過ぎて、詐欺漫画にしか見えない。怖い。
今度の年末年始は、一緒に地元に帰って友達に紹介したいって言われた。
彼氏の親には何度も会ってるが、友だちへの紹介は幾度となく断ってきた。
ブスだから。
いやなんだ。恥かかせたくないし、傷つきたくない。
会った後「なんで付き合ってんの?」とか言われたらショックでしぬ。
お前から告白して6年も続くなんてよっぽど美人な彼女なんだろう」
って友だち連中に言われるらしい。
ハードル上げてんじゃねえ。
ブスなんだよ。
美人と付き合ってるやつは勝ち組みたいな風潮、男の中では強いじゃん。
彼氏はのん気に、友だちが連れてくる彼女も交えてWデェエエエトみたいなことしたいらしい。
8頭身の美人なギャルっぽい感じの彼女(写真みた)と並ばせたら最後、
さすがに彼氏も気づいちゃう。あれ、こいつブスじゃんゃんって。
回避できませんかね?
正論も多いんだろ。女のクソな部分を正当に語ったものも多かったはず。
なんで、行き過ぎたものだけを咎めるだけでなく、女叩き全体を咎めたつもりなのか理解できない。
女は頭悪いってこういう部分で言われるんだぞ。
あとさ、「男から好意を寄せられるのが嫌だ」とか言ってるけどさ。
女がよく言ってるだろ「好きな男以外からの好意が嫌だ、キモチ悪い」とか。
女じしんがナチュラルに男差別してるのが本能なんだから、増田個人の主張みたいに言うのやめろよ。
女の本能的な差別意識を直視すると、男がやってる女叩きが正論になってしまうから、いやですってことだろ。
男のせいにするのはやめろ。女の醜さそのものを増田が嫌いになってるってだけだ。男は悪くない。
逆に言えば、増田自身が女叩きしてるのに近い。女である自分が嫌いなんだろw
最後に。
この手のクソフェミにまみれた女って、『少女マンガの読みすぎ。少女マンガの世界を基準に現実否定してるだけの迷惑な人達』で結論でてる。
嘘だと思うなら、ガールズチャンネルあたりのフェミトピ見ればいい。
経済学的にも社会学的にも、「クソフェミは、上位の女が下位の女を搾取するためのワガママ」ってのが結論でてる。
キチガイフェミに染まるんじゃなく、男に対して行った理不尽を女が謝罪するべきなんだよ。
男への差別行動を慎めば、男も女への行き過ぎた女叩きはしない。
女のだめなところは正当に主張し続けるが、被害が無ければちゃんと「本能だからしかたないよね」って無視するよ。男はそのくらいは論理的な生物だから。
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男でも、中二っていうかな。片目を隠すなりしだすけど。
アニメや漫画の綺麗なオサレな世界観が正解で、この世は汚いとか思っている。
で、その妄想を満たしたいから、キモオタを差別して、リア充を持ち上げるんだと思う。
あるいは日本のように恵まれてない世界では、日々の生活に追われてそういう王子様的な夢とかは10歳くらいでは消し飛ぶだろう。
現実でのキモオタ弁護士だのブサメン医者だのを見てるわけで、妄想消えるだろう。
しかし、現代は女を甘やかしている。『リア充』という何の価値があるのか不明なものを持ち上げる、乙女ゲーに準拠するような整形ジャニーズを売る。
するとますます現実がクソだ、ジャニーズくらいじゃないと嫌だと言い出す。
女は甘やかすとつけあがる。
男はちゃんと中二を脱出して大人になる。
おんなはそういう能力に欠けていると思う。
女が言う、「キモイ」という『感情論』によって、何の罪も無いブサメンが差別される構造、不愉快なんだよね。
女はマジメなブサメンにとって、本当に邪魔だから、男女差別されててほしいわ。
姫系といったら通じるかは分からないが、19歳なのに、お姫様みたいな格好してる感じ。
で、マイメロが好き。
マイメロって、子供がほら、サンリオとか行くだろ、そのキャラクターなんだけど。後で知ったんだが、マイメロ好きはメンヘラが多い。
で、そのメンヘラとセックスしてたんだけど。どうやら俺をサンリオのキャラとして扱ってるらしい。
デブなので、熊っぽい感じ。
メンヘラ「やだ!可愛くないのはだめ!」
で、これって、アレに似てるっての思い出した。
『飛影はそんなこと言わない』ってやつ。
AVにでた処女のフジョシが、ユウユウ白書のキャラクターの鞍馬になりきって、AV男優がしかたなく飛影として振舞ったけど、コピペのせりふ言われてEDになった。みたいな。
一般人にはまったくフジョシなんて知られていない時代だったから、衝撃的でコピペになったみたいな。
女の気持ち悪さが出てるんだよな。
少女マンガ読みすぎなのか知らないけど、メンヘラ女にとっては現実はクソみたいな。
アレだ、中二の奴が大人は汚いって言うのの、女バージョン。
セックスで心を通わせようとしてるのに、妄想たたきつけられてキモチが萎えてしまうんだね。この女ダメだなって。
あれだな。
俺はブサメンなんだけど。その俺に対して、「お前は綺麗な世界にいちゃいけない人物だぞ」ってセックス相手から言われた気分なんだわ。
一番いやなタイミングで、一番いやなこと言われてる気分なんだよなあ。