はてなキーワード: ネガティヴとは
日本で嫌独感情が強まっているそうな。中央日報はそう報じていたし、ドイツ関係記事のはてなブックマークコメントを見ても厳しい意見が目立つようになっているのは確かだ。
中央日報はこれはメルケルが日韓問題に介入したことから来る、右傾化の現れと言っていたがそう言う面がまったくないとは言えないとしても、それだけじゃないと思う。
それ以前から次第にドイツ人へのあたりは厳しくなっていっていたからだ。
これはインターネットを通して多くのドイツ人に普通の日本人が接する機会が増えたからじゃないかと思う。ドイツ人の「嫌な奴」率の高さは異常だからだ。
1.ドイツ文学者やドイツ語学者などのドイツ学プロパーの人たち。
のおおむね二種類だったが、日本でのドイツのイメージは主に第一クラスタから発信されていた。
こういうプロパーの人たちは、おおむねその国への関心が自分たちの飯のタネに直結するため、実像よりも美化して、好意的に解釈してその国を捉えがちだ。明らかにマイナス要因になるようなこと、たとえばアメリカでの警察官による黒人殺害などでも、「理想へ向けて苦難の道を模索するアメリカ」みたいに、好意的に解釈して描こうとする。
悪意だけで解釈するのが間違っているように、善意だけで解釈するのも実はその実像は歪められている。
こういうプロパーの人たちがいつもいつも対象を好意的に解釈しているわけではなくて、要は周囲の関心が高まるのが目的であるから、実態以上に悪意をもって描かれる場合もある。ロシアなんかはその好例で、実際には何とかして没落せぬよう踏みとどまっている人口1億4000万程度の国に過ぎないのに、冷戦時代の遺物のソ連研究クラスタたちの人たちの声が大きいせいでアメリカ外交政策を歪めている(代表例はブレジンスキー。あの男ほどアメリカにとって害悪を成した人はいない)。
とにかくプロパー研究者が描き出す姿には注意をしなければならないという話である。
日本でのドイツのイメージはプロパーのせいで異常に美化されていたが、実際にドイツ人と関わる一般人、第2クラスタの間では以前からドイツ人の評判は最悪だった。
私の友人は海外視察をコーディネートする、逆に日本に海外からの視察をコーディネートする仕事をしているが、ドイツ人が問題を起こす比率の高さは図抜けているという。こういう話はごろごろあって、それぞれに癖はあっても、アメリカ人やフランス人、中国人、ベトナム人などを友好的に受け入れている組織団体でも、ドイツ人だけは勘弁してという処が多い。
こういう場所でのドイツ人の評判が悪いのは、彼らの性格が単に悪いからだ。それも、そういう人もいる、レベルではなくてそういう人ばかりというレベルでだ。自己中心的なことで知られるフランス人でさえ、ここまで評判は悪くない。
フランス人の自己中心性はあくまで利益レベルでの話であり、そもそも視察に来ているのであれば何かを学ぶのが自分の利益である。
イギリス人は皮肉屋ではあるが、こういうことでは我を張らないし、皮肉は自分自身に向けても行われている。
ドイツ人の自己中心性は、現象を尽く悪意で解釈する、他人を貶めて自分を持ち上げようとする思考態度に由来している。解釈はネガティヴにもポジティヴにもできるのだが、事後の報告書などではほとんど捏造レベルのことも書かれていて、それを発見できた俺は偉い、ドイツは世界一、というような態度が顕著に見られる。
第2クラスタの人たちからすれば、今まで日本にあったドイツへの好感などは幻想そのものだったのだが、ネットで次第次第にこういう実情が知られてきた結果の嫌独感情なのではないか。中央日報も、ドイツで韓国と言えばことごとく悪意を持って解釈されている事実を見れば、考えを改めるのではないだろうか。
リスクをスケジュールに織り込む。ってのはもう大昔から言われているのに、相変わらず失敗しない前提(ゼロリスク前提)のプロジェクトをたくさん見かける理由をちょっと考えてみた。
リスクをスケジュールに織り込むためには、組織のナレッジメントやマネージャの論理的な思考が必要なんだけど、カンと経験、嗅覚なんかも重要だと思う。
気が付くか/気が付かないかがまずあって、気が付かないとそこでアウト。気付きはナレッジ、カン、嗅覚、注意力が大事なんだろうなあと思う。
その気付きを時間(スケジュール)に適切に反映させるのは経験や論理的な思考なのかなと。
そして、それを関係者に周知していくのにガッツが必要になるんじゃないかと最近思った。
「こういうリスクがあります。なのでこれだけ時間を確保します。」といった不確実な未来の話(しかもネガティヴな)を上司や顧客に納得してもらえるように説明し続けるのはかなり消耗度の高い仕事で、これをやり切れる人はガッツがあると言っていいのではないかと。
ガッツの無い人間はそうした説明をやり切れないので、リスクをスケジュールに織り込むことができず、失敗しない前提のスケジュールが出来上がってしまう。その結果は。。みなさんご存じのとおり。
増田に書くときはそれ専用のアカウントを作って、それを使ったほうがいいな。
増田に入り浸ってる人は気づいてるかもしれんけど、ちょくちょくホットエントリ入りしてる有名(?)某ブロガーが、神経質にエゴサーチしてるみたいで、その人の話題の書き込みはザクザク削除されてる。
おれもその人をネガティヴに評価してる書き込みの何気にトラバして「だよねー」みたいな同意してたら、削除依頼がきて元の書き込みもろとも削除されたわ。
で、次に特に肯定も否定もしてない(つもりの)の書き込みをしたら、それも問答無用で削除。
まあ、運営としては、ザコ増田より人気ブロガーを優先するのは正しいと思う。いちいち裁定する人的資源ももったいないし、増田は機械的に削除で。
でも、だれかブロガーの話題をここでしてたとえ悪意がなくても、ブロガー側が「これはダメ。削除」って言ったらアウトだから、念のためにアカウントは分けておいたほうが安全だと思う。
もともと増田で星やブクマを稼げても本アカウントの手柄にはならないし、万が一個人情報流出とか事故があったら増田の書き込みなんて恥ずかしすぎるから、最初から分けておくべきだったんだよな。
バイトを始めた日を復帰日として、今日で1年半が経とうとしている
間も無く正社員として働くことが決まっているので、いろいろと慌ただしい毎日だが、
最近かなり疲れてきた
心が休まる日がない
少しでもポジティヴに、前向きにとやってきたつもりだが、
いい加減心が根をあげはじめたようだ
何をしても楽しくない
特に目立ったスキルもなく、大した学歴でもない俺は給料の安い中小企業にしか入れなかった
これからもプライベートを削ってスキルアップを計っていかなくてはならないだろう
まだまだしんどい道のりは続きそうだ
彼女も友達もおらず挙動不審でコミュ障マックスだった状態から、
何人かとは連絡先交換まではできた
が、プライベートで遊ぶ人はまったくいない
誰かに泣き言とか言えたら、多少楽になるのかなと思うが、
趣味でやってたことも何にも充実感がなく虚しい。時間を無駄にしたなって感覚だけがあるが、
有意義に思えるような勉強とかやったらそれはそれで心が休まらない
平日も休日もすでに疲労感でいっぱいだが、
支えてくれる人は誰もいない状況で、ここから更に負担が増したら、俺は耐えられるだろうか
いつまで続くんだろ、こんな状態
はじめに言わせて欲しい。
映画化ドラマ化舞台化ミュージカル化海外版までウェルカムである。
大抵のコンテンツには前向きな意見を優先、ネガティヴな意見は隠れて主張しろっていうのが
実写化が元から嫌いなのに、どうしてわざわざテレビを見てまでこき下ろす必要があるのか理解に苦しむ。
そもそも実写化は原作ファンのためにするわけではないと考える。
原作者のため、新規ファンを取り込むためにあると思うので、原作ファンはメインターゲットではないだろう。
現状興味を持っていない層にアピールするためには原作そのままでは響かない。
それなら、設定をターゲット好みに変えてみましょうか、というのはとても自然な流れである。
もし、その設定の変更が原作のコンセプトが崩壊するような設定だったり、元設定が演者NGだった、
となればそれは大いに叩かれても仕方のないことだろう。
しかし、商業的成功のため正当な理由での設定、ストーリー変更はメディアミックスをする上で
受け入れなければならない側面であると考える。
何故設定を変えたのか?という理由を考えもせずすぐに原作レイプだ、と口にする人は少し考え直してみてほしい。
長々語ったが、漫画、小説、アニメ、映画、ミュージカル、ドラマと
表現が難しい題材なのに超多岐にメディアミックスできるデスノートって最高に素晴らしいものだから
メディアによる、監督による表現の違いを多方面で色んな層が楽しんでデスノートすごい!って
色んな人が思えたら良いと思います!
パクリとかパクリじゃないとか著作権とかにネガティヴな感情が強くて執拗に気にしてしまうのは、
小学生の頃に友達の絵の描き方をパクったって言われて責められた後遺症かもしれないなとふと思った。
例えるなら少年漫画を読んでた奴が少女漫画も読み始めて、影響を受けて目が大きくなってまつげとハイライトがちょっと増えたとか、
そういう絵柄の変化を「クラスの絵が上手い子の目の描き方をパクった!!」ってめちゃめちゃ糾弾された。
別にクラスメイトの絵柄を意識したりなんかしてなかったので衝撃だった。下手だから似せたって似るわけないし、自分では似てるとも思えなかった。
交換ノート(絵と文章)してる時も「この字自分で書いたの?」とか言われてたし、パクりそうな子だと思われていたのかも。
鈍感だったから全然気付けてなかったけど多分嫌われてた。交換ノートではぶられなかったのもヲチ対象だったからなんだろうな。
「こういう描き方なら大丈夫?」って 自分の描ける範囲で色々変えた絵柄を提示したんだけど結局どう解決したかは憶えてない。
「もういいよ死ねよ、余計なことするなよ」みたいな感じになったあとうやむやになったような気はする。
虫歯が辛い。虫歯になりにくい人にはわからない苦しみだと思う。
小さい頃から甘いもの好きで、歯磨きはちゃんとしてたけど、虫歯になりやすい性質になってしまった。中学生で奥歯が銀歯になり、年々増えってって今じゃ神経ない歯だらけ。1本抜歯してブリッジしてる。
まともなの10本ぐらい。そのうち3本は歯間から虫歯になってたぶん神経とることになるだろう。まだ20代なのに。
ここ2年ぐらい忙しくて歯医者行けてなかった。そしたら歯根嚢胞が一気に3箇所もできた。どれも3年経ってないクラウンばかり。ほんといやになる。1個の歯を治すのに大体6回は通わないといけない。全部またきれいに治すのに何カ月かかるんだろう。この前全て治療したときは1年近くかかった。金も計算したら10万とんでた。保険治療でだ。もううんざりしたはずだったのに。これからはちゃんと三ヶ月、空いても六カ月ごとに検診に行こうっておもってたのに。
なんでもそう。どうしようもなくなってからあたふたし始めて絶望する。だましだまし、短期的にはポジティブで長期的にはネガティヴ。
口内環境って本当にその人の人となりをあらわしてると思う。虫歯だらけの人間はそれなりの人間ってことだ。
今度神経とる歯は前から見たら見える歯だから、自費のセラミックにしなきゃならない。今度は10万どころじゃない金が吹っ飛ぶんだろう。憂鬱になる。歯根嚢胞の銀歯はもしかしたら抜歯かも。まだ20代なのに2本も歯がないってなんなんだろう。自業自得でしかないんだけど。
昔から目と歯は大事にしなさいって大人は言うけれど、教訓として伝えてくれるけれど、その大人たちも取り返しがつかなくなってる人がたくさんいるんだろうか。
まあ目は眼鏡があるからちょっとぐらい悪くなっていいかなと思う。
でも歯だけは本当に大切にしないと。虫歯になりにくい人でも歯周病で一気にだめになる人がいる。まじで定期検診はいっといたほうがいい。1年に一回は。
神経とった歯の寿命は大体10年ぐらいらしい。だからなるべく神経温存してくれる歯医者を探していくといい。
あと横向きに生えてる親知らずはちょっとでも虫歯になったらすぐ抜け。隣の歯をだめにするから。
仕事しながら甘いコーヒーとか、お菓子とか糖分だらだら摂取してる人たちは、悪いことは言わないから半年に一回、出来れば3ヶ月に一回は行った方がいいよ。
私はいつも何か探してる。
何か満たされない。ここ数年心が満たされた思い出がない。
常に何か足りなかったので、私はひたすらSNSや2chまとめを
見ていたが、何か足りない。わからない。何かを探している気がするのだけど、
それが何かわからない。
褒められたい、自分を見て欲しいのかな?と思ってたけど
Twitterなどで交流して人と話したりしてもその時は楽しくても
やっぱり後ですごく寂しくなる。
そしてものすごく私は人を選り好みする。
話が合う人がとても少なくて、合わないと思ったら
すぐに相手から離れる。それでやっぱり寂しくなる。本当に自分勝手だと思う。
何か満たされなくて、いつも何か探して、いつも私は疲れている。
気が休まったのはいつだろう。
何にもわからない。ネガティヴな感情は隠すものだと思ってたけど
発散しないといよいよ自分のことがわからなくなったから、今回書き込みにきた。
みんなもそうなんだろうか。
私はとにかく満たされたい。人から褒められたいようなでも、褒められたところで
やっぱり足りなくなるのは目に見えている。
そんな父が本当に羨ましい。
私も同じようになりたいのだけど、彼と同じように起きれず、同じように行動できず
悲しくなるくらい元気がない。
私の中の足りない何かがわかれば元気が取り戻せる気がしてる。
多分なんとなくそれを知っていて、私は自分を肯定したいんだと思う。
これでいいんだよって心の底から思いたいけど、
それをくれる他人を探していて、でももちろんそんな都合のいい人はいないので、
常に満たされないんだろうと思う。
べこべこに凹んで元気もなくダラダラとしていた自分は
なかなか褒められない。
どうしようもない私だけどここに書き込むことでそれが
少し吐き出せてすっきりした。
あと絵が描きたいなあ。
絵だけ描いて過ごしたい。だらだらと。
小説家だとバラードに一番影響を受けた。現実の見え方が変わった。
意志力は筋肉のようなもので、使うと疲れるし、鍛えることができる。という本。
俺はこれ読むまで努力ができないし、我慢もできないし、自制心のない人間で、もうこれはずっと続くと思ってたんだよね。
でも、これ読んで少しづつ自己コントロールができるようになってきた。
嫌いな説教臭い体育会系的な根性論じゃなくて、心理学の実験を踏まえた、科学的な内容なのですんなり受け入れられた。
今もうまくはないけど、この本を読んだら少しはマシになって、職場とかで雑談できるぐらいにはなった。
ウォーホルのカラっとした、ポップな世界観が自分とまったく真逆で衝撃を受けた。
これを読んで、落ち込んだら世の中の全ては取るにたらないしょーもない出来事なのだ。と少し考えられるようになった。
ずっと経済学というのは後付けの屁理屈で何の役にも立たないしょーもない学問だと思っていたが、
ネガティヴ?なにそれ美味しいの?って感じの人。
そういう人はいい。大好き。
嫌いなのは、本当はポジティヴじゃないのに、ポジティヴポジティブ!って他人に強制し、
そして、ネガティヴを否定する人。
ネガティヴってそんな悪いことでもないと思うんだよ。
後ろ向き、後ろ向きって、いうけどさ、後ろ見ないとダメなときってあるじゃん?
で、どうするか決める。進む方向を決める。作戦を立てる。
それを後も見ずにとにかく前へ進め!っていう人たちが、ポジティヴ信仰。
まあ、後しか見ずに前に進まない人も同じくらいダメな気もするけど。
一番いいのは、後を見て的確な判断をして、進む方向や早さを考えて前に進む人。
ネガティヴもポジティヴもそれぞれ良いところも悪いところもある。
ネガティヴを否定し、前しか見ない人というのは、つまるところは弱虫だ。
後を見るのが怖いだけなんだ。
要は俺が馬鹿って話なんだけどさ
例えばネットで注目されるとか、具体的な例で言うとニコニコで注目されるとかって、あれは元々下積みやら勉強やら色々やってきて、本来そこにいてもおかしくない人にも席が用意されたんですよ、って話であって、ちょっと興味を出してやってみた素人が注目される場所ではないんですよって話
ブログでニートがとか引きこもりがとか非モテがとか非コミュがとかキモヲタがとか、そういうタイトルで注目集めている人がいるけど、それも大嘘で、ただ「素人」って書くだけじゃ弱いから、さらにネガティヴな表現で持ってこうとしてるじゃん。やめてほしい
マイナス属性の人間でもワンチャンあるとか夢見ちゃうからやめてくれよ
おまえらは、ちゃんと努力してきた人で、色々苦労したから注目されてるんだよって、正直に言って欲しい
俺だってやればできるんだとか、そういう事を思い続けてもう人生の折り返しは過ぎた
ちがう
ネットは何も解決しない
ちやほやされる夢、見飽きたい。届かない憧れがつらい
いわゆる「ぼっち」ほど世に埋もれている存在は無いのではないか。
集団のなかで浮き、誰からも相手にされない私たちぼっちが、世間にさえも忘れ去られている情けなさ。
ぼっちの中にも小中高生ぼっち 会社ぼっち 年寄ぼっち等々いろいろな種類があろうが、ここでは学生ぼっちの生態について、自分の経験をもとに明らかにしたいと思う。
朝。
家の中に誰もいなくなったことを確認してからゆっくりと起床する。
窓から見える青空はこんなに清々しいのに、自分の心身はどっしりと重たい。
味気ない一日がまたやってくると思うと、学校へ行く気も失せて、このまま家で2ちゃんかハテナでもやろうかと考えるけれども、授業をサボっては学費を出してくれる親に申し訳ないし、単位を取れずに留年したらいよいよ先が真っ暗になる。
だから今朝も重い腰を上げるのだ。ただ、いつもと少し違うのは、今日が俺の誕生日であるということ。周りにだれもいない誕生日。
はぁーっとため息をついて、やや遅めの朝ごはんを食べながらテレビをつけると国会中継がやっている。
この人たちは、ぼっちの自分とは天と地ほどの差があり、お金も地位もこれ以上ないほど恵まれている。その境遇ゆえか時には図に乗って、不祥事を起こしたり失言したりして世間の人々から非難をあびるけれど、意地悪な質問に対しても根気よく答える仕事ぶりをみていると、ぶらぶらと安逸な生活をおくる自分などよりは、よほど真面目に努力しているじゃないか、と思ってまた自己嫌悪に陥る。
ほんとうは鈍行で行きたかったのに寝転んでいたら遅くなったので、しかたなく急行に乗ることにして駅へ走る。
おい、なにネガティヴになってるんだ、きょうも気楽な時間をすごせるのだ、自分は恵まれている、寂しくなんかない、寂しくなんかない、さびしくなんかないんだ。全身をなでる爽やかな風が気持ちを前向きにしてくれた。
電車の中はあまり人が多くなかった。サラリーマンはもうとっくに会社で仕事をしているのだろう。
昼。
席に座り、授業がはじまるまで本を読む、ふりをする。
「おれさー、けさ、抜いちゃったんだよねw」
「おまえ、汚いってw」
「そんなこと言うお前だって、まじめな顔して、実はエロそうだよなw」
「たしかにw こいつ、『授業レポート』とか適当な名前のフォルダつくって、その中にエロ画像とか入れてそうww」
「wwwww」
男子学生のくだらない会話を聞いておもわず吹き出しそうになるが、ぐっとこらえる。
「あっ、○○ちゃん、おつかれー」
「てか、きのうバイトでさー」
「じつは、きょうね、この下、あったかパンツなんだよねー あはは」
たわいのないお喋りをひそかに聞いて、若い女のうつくしい声に心酔してから、俺はなにげなくトイレへ行くふりをして席を立ち、楽しそうにする女子学生たちの姿をちらと拝見する。
ほんのりと染めた茶色や正統派の黒色ヘア、ワンピースからスーツまで十人十色の女の子ファッション、胸の大きさもまな板から爆弾まで多様だけれども、一生に一度の若さだけは共通しているので、匂やかな乙女の香りはだれの身体からも漂っている。
授業が始まると、先生が、「たまには出席とっておかないとねー。今日は出席カードを配ります。」と朗らかな声で言う。
今日も頑張って登校してよかった。先生からの出席カードが誕生日プレゼントだと思った。
昼下がり。
学校近くのだれもいない公園で、けさ自分でつくったサンドイッチを口に運ぶ。
いつもはそばにいるスズメも今日は忙しいのかどこにも見当たらない。
水色に澄みわたった空の下、かすかな風に揺れる木々の梢のどこかに、いつものスズメの巣があるのだろうと思いながら枝のあたりを観察していると、サンドイッチの具がぽろりと下に落ちてしまったので、スズメさんがあとで食べられるように、人の踏まないところへそっと置いておく。
ああ、きょう一日、まだ誰とも喋ってないなぁ。
バイトもサークルも何にもやっていない自分は、この生活をみずから選択したのだから、文句を言う資格はない、いや、願ったり叶ったりの生活を享受している分、俺はむしろ幸せ者なのだ。
人とかかわるのが苦手な為にえらんだ孤独道は、やがてやってくる就職という二文字をじわりじわりと重たいものにするけれども、今が安楽なかぎりは変化の意欲が沸くわけもなく、ただただ現状に甘んじ横着している。
しかしこの体たらくのままで社会へ飛び出たら、スキルも協調性も何もない俺は組織の中であぶれるか潰されるかしてしまうだろう。
社会に出るのは軍隊に入るのと同じこと。ああ、こわい、こわい、死にたくないよ。
余計なことを考えて思い余った俺は、次の授業までの時間がまだ残っているので図書館へ向かう。
手にとった数冊の本を机に置き、帰路につく学生を窓の内からじっと眺める。
心なしかその表情は嬉しそうにみえる。あたたかい家庭が待っているのか、バイトに楽しみなことでもあるのか、友達と遊びに行くのか、それとも、デートだろうか。
夜。
この日最後の授業がようやく終わり、いったんは帰ろうとするものの、電車内でトイレへ行きたくなったら困るから一応いまの内に、とおもう。
夜まで授業を受けている学生はあまり多くはないので、トイレの中には誰もいなかった。
しーんとしている。
まぶしすぎるほどの明かりがいっそう静けさを増すようだ。
俺はおもむろに個室の中に入った。
外ではできない性格だけど、今日は誕生日だし、まあいいか、と思ってズボンを下ろす。
スマホでアイドルの画像を探して、ふーっと深呼吸して、それから一気に動かした。
このアイドルは、俺と大して年齢が違わないのに、すでに社会に出て、一生懸命仕事をして、いっぱいお金を稼いで、多くの人から認められて、愛情で包まれて、前向きに生きているけれど、ここで彼女に世話になっている俺は、誰からも認められずひたすら孤独に苛まれ不安で満たされながら何の役にもたたない暮らしをしている。
なんなんだ、この差は、彼女と俺とは何でこんなにも違うんだ、不公平だ、不平等だ、不合理だ、不条理だ、ああもうどうにでもなれ、俺は知らない、俺は知らない、ままよどうにでもなっちまえばいいんだ、このやろう、このやろう、あああああぁぁぁ
常になく疲労がたまった帰り道はひとしお寂しく感じた。涙さえあふれてきた。街灯の光がその滴を反射させそうだったが、俺は人目もはばからずに哀しんだ。寂しい。寂しい。ほんとうは、さびしいんだ。
ここに書いた例は自分の体験に基づくが、むろん潤色しているところはあるし、これらがすべて同日に起きたのではない。種々の出来事を一日分に集約した。
自分の経験など足元にも及ばぬ凄絶なぼっちストーリーも世界のどこかにはあるかも知れない。
そういうぼっちに密着して、『THE BOCCHI』とか適当に名前をつけて映画化すれば反響を呼ばずにはおかないと思う。
ぼっち学生の就活以後の末路にまでスポットを当てればいよいよ涙を誘うことまちがいなしであろう。
まさかこんなに長くなるとは思わなかった。あまり知られていないぼっちの日常をテキトーに書こうかなぁくらいに思っていたら図らずも愚痴っぽくなり、しかも下手な小説みたいな形になってしまった。
休み中のまして孤独な今の時期に、文章にして吐き出したら心が落ちついた気がする。
何故これを読むとモヤモヤするのかを考えました。
昨晩110番を利用してしまった。帰宅途中20時くらいに住宅街で結構小さい子(小1~2年くらい)が泣きながら一人で歩いていた。迷子か何かかと思って声を掛けようと思ったが「声かけ事案」とか言われても困るので声を掛けられなかった。かといって放置するのも困るので仕方なく110番した。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
『昨晩110番を利用してしまった』だけなら違和感のないこの文章、最後まで読むと、溶けきれずに残った被害者意識が浮かび上がりまくりです。このツイートの主張は「俺は子供を助けようと思ったけど『声かけ事案』のせいでできなかった。俺の良心は困っている。俺はすごく苦しみ抜いた挙げ句、苦渋の選択の果てに110番した」と言うことです。言い換えると「俺はこれだけの犠牲を払って正義を行ったんだ」と言う主張です。そこまで困るなら誰も頼まないと思うのに、良心を理由にして、非常に自分にとって気持ち良い形で傷ついています。
つまり、別に頼んでもない自己犠牲を行ったあと、自分が傷ついた理由を気持ちよく演出してるわけです。以下のツイートは「迷子の子が救われないことで心を痛めている俺はなんて可愛そうなんだ」「心配が理解されない俺ってなんて可愛そうなんだ」って思いしか感じられません。
110番は緊急通報で「警察への電話窓口」ではないが、場合によっては事件に巻き込まれかねない時間帯だし問題ないだろうということで通報したがOPに「最寄りの交番まで連れてこられませんか?」と言われた。それはムリだ。「事案」とか言われるのが怖くて声かけられないから通報したんだし。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
その旨伝えると、大丈夫だからといわれたが、そりゃOP(女性)の視点ではそうかもしれないが男が声を掛けると何言われるかわからない世の中。例え通報を証拠として「不審者ではない」と言ったとしても「通報しておいて正常者のフリ」とか言われかねないし実名報道されたあとでは後の祭りである。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
人生を一瞬で棒に振りかねないそのリスクは到底負えない。その時子供から20mくらい離れた位置で立ち止まってチラチラ子供見ながら電話している事すら、すでに何言われるかわからないリスクだ。はやく通報終わらせて立ち去りたかったが、OPがいろいろいうのでなかなか話が終わらなく困った。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
最終的には「最寄りの交番から警察官を行かせるので、せめてそれまで近くで見守っていてあげてくれませんか」と言われた。わかってないなあ。近くに立ち止まって子供を見ているのなんてそれこそ「不審者通報」だよ。当然断るしかない。OPは女性だからその恐怖がわからないんだろうなあ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
最後は「一分でも早く警察官に保護させてください」と押し切ってその場を立ち去った。10年前なら間違いなく声をかけて交番に連れて行ってあげたが、今は男がそんな事をしたら何を言われるかわからない。残念で気がかりではあるがその場を立ち去って帰宅。その子がその後どうなったかは、知らない。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
その場を立ち去ったのは自分の身が心配だからでしかありません。わざわざ『残念で気がかりではあるがその場を立ち去って帰宅。その子がその後どうなったかは、知らない』と書いたのもまた「俺の良心が可愛そう」アピールでしかありません。
そして被害者根性や弱者アピールに続きます。もちろん、それは自分が気持ちよく傷つくための発言です。
子供自体も、親から何を言われているかわからない、という面がある。「事案」を警戒しているがゆえに、子供に「知らない男性から声をかけられたらすぐに大声を上げなさい/緊急ブザーのヒモを引きなさい」とかいわれ、男性への恐怖心をすり込まれている可能性だって充分ある。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
「人が通る道に戻って通りすがりの女性に対応をお願いする」という手もあったが、これすら「見ず知らずの男に急に声をかけられる」ということにどういう反応をされるかわからない。何しろ証拠がなくても女性が「痴漢された」と言ったらそれだけで成立してしまう世の中だからねえ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
理想論を言えば「自分が犯罪者にされるリスクを冒してでも小さな子を守ってあげるべきだった」という事になるのはわかるが、現実問題そんなリスクを冒す事はできない。道交法違反だとか、たすけるために他人のものを無断で使用した、という性質の罪とは違うわけだし。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
これらの発言は「こんなリスクが考えられるんだ!」という主張ではありません。と言うかこの人はリスクではなく確定で被ることだと思って書いてます。冷静にリスク分析をするのであればポジティヴな考えも挙がってくるものですが、ここまで一切ネガティヴな意見しか述べていません。最初からダメな方向しか考える気がなく、それは何故かというと、それだけ自分が社会で虐げられているのだという弱者アピールによる快感を得たいのが目的になっているからです。
OPの対応も「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気が伝わってきた。今の日本社会、男の人生や命って安いんだよね。男女平等とか笑い話だよなあ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
「現代日本で傷ついている男の俺ってこんなに可愛そう!!」と主張するネタとして、やたら主語のでかい主張がしたかっただけです。迷子の子供はその主張を行うためのダシにされたわけです。憂いながら傷ついてる風のこのツイートはさぞ気持ちよかっただろうと推測されます。年齢から察するに、全盛期の2chでは男女板の住人だったのでしょう。
また、ここまでつらつらと自分にとって都合の良い具体例を挙げていたにもかかわらず、オペレータさんの対応については『「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気が伝わってきた』としか記述していないのが不自然です。ここは「OPの口調もだんだん投げやりになってきて」みたいな例を挙げて『「あんたの人生なんかどうなっても良いからその子助けてあげなさいよ」的な雰囲気』がどのように伝わってきたかの説明が入るべきですが、具体的にどのような感じであったのかの描写がありません。なぜなら「今の日本社会、男の人生や命って安いんだよね。男女平等とか笑い話だよなあ」と言いたかっただけだからです。
これって「自分が溺れるかもしれないけれど川に飛び込んで溺れた子を救助してあげる」ってのとは違うんだよね。そっちならやったかもしれない。けれど迷子を助けようとして「声かけ事案」とか「不審者」扱いされ、子供にも親にすり込まれた男性=不審者の教育で過剰反応して泣き叫ばれたらかなわん。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
これは大げさな話ではなく、実際に某ブログで、子供に「知らない男に声を掛けられたらすぐに警報のヒモ引いて鳴らせと教えている」という記載があったんだよね。それが誤解だったとしても、子供が犯罪に巻き込まれるよりはマシだから、という記載で、相手の男性への被害は全く考慮されていなかった。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
ここも別のモヤモヤポイントで、この人にとって「某ブログ」がそのまま世界の常識全体の真実になっています。これは単に自分にとって都合の良い事象だけを選んでいるに過ぎません。
たぶんこの手の女性視点では「間違いなら警察で説明して誤解が解ければそれでいいじゃない」くらいにしか考えていないんだろうね。その時点で実名報道されたり警察に連れて行かれる事によるストレスや仕事を休んだりする社会生活への影響は考慮されていない。男側の被害なんてどうでも良いのだろう。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
そしてこのシメは大嘘です。
というわけで、非常に後味の悪い対応になってしまったが、そういう世の中だからなあ。もうどうにもならんよ。せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 8
余談だが、昨日の迷子、管轄の警察署から電話あった。無事保護されて親の元に戻れたらしい。どうも本来子供がいるはずだった場所とかなり離れたところで発見されたらしく、無事見つかって親は凄く喜んでいてお礼の電話したいので電番教えていいかと言われたが断った。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
子供の発見場所も、僕が通報した場所から結構離れていて、再度ロストしてもおかしくなかったようだ。そして付き添ってあげなかった事を疑問視されている空気がある。感謝といいつつ本当は半分不審に思っているのでは無いかと邪推してしまうほどだ。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
いずれにしても、お礼だったとしても、もうあまり関わりたくないと思った。この件ははやく忘れたい。再度同じような子を見かけても、もう通報する勇気は無いかもしれない。子供が泣いているのをたすけるという単純な行為がこんなに大変なものだとは思わなかった。— たーさま (@JA1DHJ) 2014, 1月 9
「祈っていたことの結果」が「余談」になっています。やはり本題は「子供の安否」ではなく「社会的弱者である男の俺は可愛そう」という所です。
あるいは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」であれば「あの子は親の元に戻れて良かった」のようなツイートが見受けられても良いのですが一切ありません。それは「せめてあの子供が無事に保護され、家族の元に帰れた事を祈るばかりだ」が飾りであり、結論は「そういう世の中だからなあ。もうどうにもならんよ」であるからです。そして「そういう世の中で生きてる男の俺は良心が発揮できずに可愛そう」という主張を改めて行っているわけです。
とまぁ、長々と書いて再認識したのですが、俺にとってのモヤモヤの原因は「迷子の子を交番に連れて行くのにはこんなにリスクがある!」の皮を被った「現代の男性は虐げられている! 俺は可愛そうだ! 俺は良心があったのに社会のせいでそれを実現できずに困っている俺は超可愛そうだ!」と言う気持ちが透けて見えるあたりなのかな、と思いました。
痴漢冤罪のように、ある種の誤解や悪意が男性にとって著しく不利である事は事実です。また、冷静な判断のできない警察や頭のおかしい人の親が世に存在するのも事実です。ですが、本件についてはそれを恐れたフリをして、ただ単に男性が弱者であるという主張をしたいだけだった、という匂いを消せなかったのがまずいと思いました。
また、リスクという言葉を便利ワードにして、何も信用しないのが良くないです。リスクという言葉を使うのであれば、それを回避する方策も含めて、どうすればよりよい方向に事態を打開していくのかを考えるべきで、本件においてはリスクと言いながら「痴漢冤罪」と「声かけ事案」の悪いところ取りをしたケースを勝手に確定で想定してるだけに過ぎませんでした。
正解としては「迷子の子を見かけたけど警察に連れてくと面倒なことになりそうだから通報だけしといた」で終わらせるのがベターであり。ベストなのは心の中にしまっておくことです。
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117
2013年9月でテレビアニメ『ガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。
さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解を一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本的ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプのヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人達から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通り次元の異った高度な秩序である。社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球のガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。
だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会い、ベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプのヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカルな社会秩序=ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカルな社会の変化を知りその実感を得るのである。自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分の能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。
はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代や職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴな連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心と加虐性を無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴな連帯を象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカルな連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅の種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味でヒーロー的活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネットと現実を接続させ、物語はクライマックスを迎える…
正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーローの入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志で翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川を防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルはグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーとゲームの参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けだけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。
ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーションが世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデート」なのだ。
『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば
『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界のメタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり。私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。
名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。
ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版『キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実でヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化に立脚したヒーローを解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲームの動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲームが暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界をアップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?
Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックス』から始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガー&バニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本のアニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダーや戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である。特にローカルなヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本のヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。
「週刊文春」(2013年10月17日号)でCHAGE&ASKAのASKAは「シャブアス」騒動の顛末について語っている。
私がこれから書きたいことは、これまでの騒動の経過も含めて、この一連の騒動について客観的にどう理解すればよいのか、ということ一点に絞られている。それゆえ、既存の情報以上のハナシは一切存在しない。
まずはことの経過をまとめよう。
事件の前哨をなったのは、7月24日の「東スポ」であった。「超大物シンガー深刻な薬物中毒」という見出しをつけ、「超大物シンガーXの名前を公表すれば、日本中が大ショックを受ける」というスクープを掲載したことであった。そこには、そのシンガーのものと思われるシルエットも載せられ、2ちゃんねるをはじめとし、麻薬中毒とされた「超大物シンガーX」とは誰か、とおおいに波紋を呼んだ。しかし、宇宙人やツチノコの存在までも「発見」し、「スクープ」にしてしまうこの三流紙には、誰かを犠牲者にして盛り上がりたいという品性のものや、冷やかし半分の野次馬根性の持ち主しか、まともには反応しなかったであろう。
事件が大きく進展したのは、8月1日発売の「週刊文春」(2013年8月8日号)によってである。「シャブ&飛鳥の衝撃 飛鳥涼は「覚せい剤吸引ビデオ」で暴力団に脅されていた!」というあまりに衝撃的な見出しとともに、ASKAが暴力団から覚醒剤を手に入れ、それに完全に依存し、またその吸っている姿が盗撮され、その盗撮ビデオをもとに脅迫をうけているといった話が、圧倒的なリアリティをもって、書かれた。そこではまた、文春記者のインタビューに答えるASKAもあたかも中毒によって精神不安定であるかのように、揶揄的に誇張された姿で描写されていた。その記事は「Yahoo!Japan」や「MSN」のトップニュースにも載せられ、日本全国に「シャブ&飛鳥」というイメージが伝播された。
CHAGE&ASKAの事務所は、即日、その記事について、「事実に反しており、大変遺憾です。弊社としてはこれらの報道に対し、厳重に抗議いたします((なお、2013/10/9現在この事務所コメントは削除されている。))」と、これを否定した。
後追い記事もでた。東スポ((8月2日・3日・4日・5日・6日))やフラッシュ((「FLASH」(8/20・27号)・8/6(火)発売))がそれだが、それについてはまともに相手にする人は少なく((後者に関しては内容がそれ自体としてあまりに齟齬のあるオソマツなものであった。))、それは今のところは脇に置いておこう。
むしろファンたちに打撃を与えたのは当の事務所コメントであった。というのも、完全に事実に反しているのであれば、名誉棄損で訴えてもよいレベルの記事を書かれているのに、「厳重に抗議」だけで済まそうとしているからだった。さらに、ASKAが直接メディアに姿をあわらし、たとえば記者会見などをするなど、本人からの釈明がないことが、結果的にはさらなる不信感を募らせ、疑惑を深めることになった。
そこにあらわれたのがASKAの友人であるNAOMIのブログである。NAOMIは、ASKAとメールや電話などでコンタクトをとれる状態にあること、さらに「北海道時代に反社会的な友人など一人もいない」とASKAが述べ、ASKA自身はいたって普通の生活を送っていることを発信した。ファンクラブからまず発信されないことに憤りを感じるファンも少なからずいただろうが、しかしNAOMIの言葉はASKAが無実であることを信じるファンにとっては喜ばしいものであっただろう。
8月7月発売の「週刊文春」(2013年8月15日・22日 夏の特大号)では、スクープの第二弾を読んだものの、新しい情報や決定的な情報はほとんど存在しない、いわば前回のスクープの焼き増しのような内容であった。唯一見るべき内容といえば、チャゲアスサイドは事務所コメントに反して「抗議」などを全く行っていなかった、ということだった。
チャゲアスサイドのあまりに弱腰な対応に、ファンたちは、ASKAの無実を信じたい気持ちを持ちたいと思っただろう。「信じたい気持ちを持ちたいと思った」というこの言い回しは、しかしながら、維持されるべきものであるとおもう。ファンたちもまた心から何の疑惑ももつことなしに信じることが難しくなっていたのである。
膠着状態は長く続いた。twitterやblogを頻繁に更新していたChageも、ぱったりと更新をやめてしまっていた((しかし、8月25日にはBlogを更新した。鳩の飛ぶ様子を写したその写真は、ASKAの歌った「廃墟の鳩」をあらわし、「人は誰も悪いことを覚えすぎた」という冒頭の歌詞を示唆している、と推測する記事も出たが、むしろこれは「飛ぶ鳥=飛鳥」ということで、ASKAのことを暗示しているに過ぎないのではないか?))。8月中ごろから9月下旬まで、決定的な証拠がでてくることもなく、また無実の証明((だが、それにしても、なべて、無実の証明などどのようにして可能なのだろう!))になるものもなく、疑惑のみが独り歩きをしていた。
ASKAからの直接の否定コメントがでたのは、9月27日のことである。そこで語られたことは、「記事にあるような、違法なことは一切やっていない」ということ、「音楽関係者といって近づいてきた人」と金銭トラブルに巻き込まれていたこと、これが最も大きなものである。
9月27日に発表したのは、ファンクラブ会報発行の時期に併せてのことであろうが、この対応の遅さに「シャブ抜き」をしていたのではないかと訝しむものもあり、後味のわるい終結ではあるものの、これで、一応事件は終結するもののように思われた。しかし、10月9日発売の「週刊文春」(2013年10月17日号)で、事件の全貌についてASKAは告白することになる。
「週刊文春」(2013年10月17日号)によれば、文春記者を呼んだのはASKAだった、「男と男の話し合いをしたい」。
・「覚せい剤を売ってた」とされる山本が北海道時代の同級生というのは間違い。山本は北海道で仲間と飲んでる時に知り合った人。
・覚せい剤をふくめ、非合法とされる薬物を使用したことは生涯を通じて一度もない。
・ある時、寝起きが悪いASKAに山本がお土産として「アンナカ((正式名称は「安息香酸ナトリウムカフェイン」。ねむけ、倦怠感などに通常用いられ、医院で処方される薬である。))」を融通したことがあり、山本が薬事法違反に抵触する((「薬事法」第24条第1項および第84条がそれに該当するものである。なお、ここで違法とされるのは「買った側」ではなく、「売った側」すなわち山本である))
・盗撮ビデオは存在するが、それはガラスパイプなどを準備してきて、これを使えば少量の「アンナカ」で済むと言った山本に従ってガラスパイプを使って一度吸引したところを盗撮されたものである
・その盗撮ビデオをもとに、五千万円を貸してくれ、と言われていた((「貸してくれ」だからASKAは脅迫だとは思わなかったとあるが、盗撮ビデオをばらまくと言われ、金を貸してくれと言ってくる行為は立派な脅迫であり無理がある))
・今までこの事実を言わなかったのは、弁護士など身の回りにいる人々と相談した結果である
といったことである。
これらのことをASKAが「週刊文春」から告白したことは今現在、ファンも含めてネガティヴに大きな波紋を呼んでいる。次にそれらに対して答えよう。
Q.1)ASKAは覚せい剤をやっていたにも関わらず、今さら覚せい剤ではなく「アンナカ」だと嘘を言うのは白々しいのではないか?
A.1)やっていたという確証はどこにあるのか? やっていない確証をだすことはほとんど不可能に近いけれども、やっていたという確証は掴めるものである。また、疑惑だけで人を貶めることは私は正義だとは思わない。本人が「やっていない」と言うのだから、それに対して反論を唱える者は、まず、やっている証拠をださなければならない。
Q.2)ASKAは嘘をついていた!
A.2)「嘘」の具体的な内容とは具体的に何を指すのか? 「週刊文春」(2013年10月17日号)で語られたASKAの言葉が正しいのであれば、私見の限りでは、嘘は一切存在しない。ASKA本人は、事務所コメントに書いてあった通り、何一つとして違法なことをしていない。
Q.3)ASKAにはやはり「黒い交際」があったから、芸能界から追放されるべきではないのか?
A.3)そうではない。たしかに、山本は客観的には暴力団関係者であったけれども、それをASKAには話していなかった。それゆえ、その時、ASKAの主観的には山本は暴力団ではなかった。その時に客観的に知ることができないのであれば、それを客観的に知ることを要求することは人間の能力を超えており、神しか成し遂げることのできないことだ。それゆえ、暴力団と知りつつ交際している別の例との比較は成り立たない。また、ASKAはこの事件のうちで、主観的に悪をなしたことはほとんどなく、ASKAは誠実な態度を保っていると評価するべきであろう。唯一あるとすれば、それは山本の薬事法違反を容認していたことであり、もちろんそれについては反省をしなければならないであろうけれども。
Q.4)事件が収束したかに見えたのに、よりによって「週刊文春」に独断でインタビューを受けて、文春記事について一部認めるのは、よりイメージがわるくなるのではないか?
A.4)そのとおりであるように思う。もし記事にされることを承知の上でインタビューを受けていたのであれば、事務所などイメージ回復に努めようとしている周りの人びとに対しての配慮に欠けていて、またイメージ回復のための戦略的部分に関して致命的に悪い対応をとっている。戦略的部分においては、行為の動機ではなく行為の結果のみが通用する((「週刊文春」は今回の記事によって、事実上、前回の記事への自己否定をおこなっている。「週刊文春」は謝罪記事を乗せることなく、事実訂正に成功している。これを戦略的勝利とよぶのである))。それゆえ、ASKAは事務所などに対して謝罪をする必要があるように思われる。もし記事にしないことを条件にしてインタビューを受けたのであれば、あまりに人を誠実に信じてしまった「善人」である。イメージ回復という「戦略的部分」でしかない領域から見れば、やはりASKAは配慮に欠けていたと言わざるを得ない。しかしながら、人を誠実に信じる者と、誠実でない者の、どちらが「悪人」なのであろうか?
ほぼ同意。
「政治に対する発言権を自ら放棄しているに等しい」とか言われたりするのだろうけれども。
果たして「よりマシ」程度の考えで票を入れるべきなのだろうか。
それならば行かずして投票率を少しでも下げた方が「意見の反映」になるんじゃないだろうか。
(無効票がもっと大々的に取り上げられるのならそっちのが良いが)
結果として、反対派の抵抗がむしろプラスに働くのではないだろうか。
反対派が投票しなかったらもっと酷いマンセーになりかねないけど。