はてなキーワード: ネガティヴとは
真面目なナヨナヨしてるセックスレス男性に相談を受けたが、明らかに体格的にも女々しい奴で、
普通の社会生活なら別に女々しくてもいいけど、根本的な家庭、夫婦の問題でレスなら
まず筋肉つけろ、自分を鍛えろと一緒にジムいって日焼けさせたら、なんか3か月くらいで
セックスレス解消してたわ。そういうパターンも一般的かどうかはしらんがある。
さすがに同僚だったからなんとなくの詳細くらいしか聞いてないけど、鍛えて体が締まることによって
見る目が変わり、扱いも変わったとか。
夫婦関係で無理が生じてるんだから、そのままの自分ではなく、自分も無理して変えて
私はおそらく元増田の妻です。
セックスレスについては夫婦でこれまで何度も話し合いました。「したい」と「したくない」では「したくない」を優先すべきだけど「したくないからしょうがない」で終わらずにしたくなるように私も努力は必要、というのが毎回お決まりの話し合いの結論です。
お風呂は毎日一緒に入っていますし、ハグやキスといったスキンシップは毎日しています。
ただ、セックスだけは出来ないのです。どうしてもしたいと思えないのです。
どのようにすればセックスをしたいと思えるのか、本当に分からないのです。
付き合っていたときは頻繁にセックスをしました。当時は気持ちいいと思いましたし、性欲もありました。
2人で分担してしますが、子育ても仕事も家事もあって、心も体も疲れて余裕がないのが原因かもしれません。
旦那にそういうと、その割にはインターネットする時間はあるんだね、なんて言われてしまいますが。
また、もともと性に対してネガティヴなイメージを持ってたのも原因かもしれません。10代の頃は気持ち悪くてそういった話は一切受け付けることが出来ませんでした。
さらに、性欲が湧かなくなってからしばらくは無理やりセックスをしていたので、痛くてどんどん嫌になったというのもあります。
旦那のことは愛していますし、人としても夫としても父親としても尊敬しています。
それが悪いことだとは僕は思わないよ。自分も「芸術家タイプ」だといわれて今は結局冷や飯食ってる身だし。
有能な人間は自制が効いているというような話はよく聞くけど、
実は自分の意思や好みすら自分の手で操作できないのが人間なんだと僕は思う。
有能で要領がいい人は、何かに執着したり拘ったりして物事を推し進める上で均衡を崩すことがないだけだ。
強烈な体験を通じて目標にしていることから気がそれて外れていったりしないようになっているだけで、
資質としては彼らと僕らに違いなんてないはずなんだ。
要はさ、当人にプラスに働くような出来事がたまたま上手く積み上がっていったときに人は評価されて地位を築くんだと思うよ。
結局僕らが出来るのはネガティヴなことはなるべく黙殺して幸福の糧になりそうなことを模索することだけだね。
そのためには自分に素直じゃなきゃいけないと思う。だから普通に働きたくない「芸術家タイプ」であるということを卑下しなくてもいい。
自分から高らかにマイナス面(遅刻しといて朝弱いからさーとか)を免罪的に宣言する人は俺はお前のためになんの努力もしないからなじゃあのって意味になるし失礼だから気をつけろよなみたいな話が話題になって、何人かがちらほら「他人のために変わるなんてちゃんちゃらおかしくね?」みたいにいっててははーんって思ったけど、そういう人って本当にロマンチストだよね。
おそらくそういう人の中で人間関係というのは、貝合わせみたいに、幾多の人間性と自分の人間性を重ねてぴったり合ったら友達、恋人という考え方なのだろう。
ロマンに溢れる。
現実的には、人付き合いにはコストがかかる。これを理解しない人はネガティヴな人でもポジティブな人でも怖い。もちろんそれが、流行を全てチェックしてどんな話題にも対応できるようにする(たとえ個性を失うことになっても)ことと人もいるだろうが、もっと単純な話だ。時間がうるさいやつと遊ぶ時はそいつの時だけでもなんとかするようにする。あるいは自分が時間のうるさいやつなのであれば時間を守ってほしいなら、守ってもらえるか守らなくてもいいようにするかのどちらか。理想主義者は手強い。「そこが符合しなければ付き合わなくて良い」となるから。それがたとえ1だろうが100だろうが。それで我々の貝が擦り合わないならそれまでとなってしまう。
人間関係に支払うコストは絶対に自分のキャパシティを超えてはいけない、なので、支払えばいいというものでもない。大事なのは支払われているという自覚。姫がわかってサークルをクラッシュするのか、わからないでサークルをクラッシュするのかでは天と地の差がある。
まあ、つまり、そういう理想主義者が時間に遅れてくるのを見越してこっちは色々やってるんだよねー……ってことなんだけど。ただ理想主義者は手強いのでやりたくないのであればやめれば?私はそうする。と言ってくるわけだ。つよい。
ババ抜きで勝ちたい時、そういうルールがなくて相手に怒られないなら、僕は相手の手札を覗くだろう。ただ自分は覗かれたくない。だから覗くほうを我慢する。人間関係に払うコストも同じことだ。自分は勝ちたくて勝ちたくて仕方がなくてもずるしない、でも相手は執拗に覗いてくる。そんなんじゃゲームにならない。同じことだ。
多様性を理解するのはエネルギーがいる。だからこそ人類は今まで多様性を捨ててきた。共通のルールを抱えてる人間が多い方が安全だからだ。人を殺してはいけないというルールの中で生きてる人間が多いから、私たちは殺される恐怖に晒されながら生きる必要がない。20代で結婚するものと思ってれば周りがさせてくれる。みんな高校に行ってるから親もぼんやり高校に進学させてくれる。……多様性を認めるというのは、別なルールで生きている人間と触れ合い、存在することを認知するということだ。合わせる貝が合うかどうかわからない、無理矢理合わそうとして壊れてしまうかもしれない世界。そこで壊れてしまう前に引き剝がしたり、少しの工夫で合うかもしれないという可能性を探している。多様性のある世界の、現実的な生き方だ。つかれる。しかし疲れない手段を取ってもどこにも行き着かないとわかっているからする。僕が一つも気を遣わないで、地の果てまで共に行ける運命の人が一体どこにいるというのだろう。それも何人も。地球にいるかさえも怪しい。しかし孤独は現実的にそこに存在しているのだ。架空の人間を待ってはいられない。
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
俺らもどんどん斎藤にすり変わっていって
「日本しね!斎藤しね!」のコールアンドレスポンスしながら
「保育園落ちたの斎藤だ」デモとかがニュースで取り上げられたり
週間文春に「ゲス斎藤の経歴詐称疑惑」という見出しがおどったり
そのうち「『安心してください!斎藤さんだぞ』とかいう芸人いたよね?」とか
女子高生の格好した斎藤子Aが友達の斎藤B作にくっちゃべってたりするような世の中になったりして
斉藤斎藤齋藤齊藤斉藤斎藤齋藤齊藤西東・・・(変換しても出ない異字体多し)どこ見ても斎藤の世界で
斎藤が斎藤から聞いた話としてこっそり斎藤に「斎藤のくせに、同じ斎藤のくせに俺よりいい暮らしして、
そのくせ『自分も斎藤なんだ。斎藤であるお前と同じように辛いんだ。』って顔しやがって・・・」と愚痴をこぼし
斎藤はそれぞれ斎藤なりにフラストレーションをどんどん溜めていって「もう斎藤なら誰でもいいから死んでしまえ」と
リアル鬼ごっこともバトルロワイアルともつかない斎藤の斎藤による斎藤をターゲットにした「斎藤さん狩り」に発展して
もうオリンピックどころではないというか、斎藤パンデミックというか、種目を「斎藤さん狩り」一つに絞った斎藤五輪が開催されて、
アート集団名乗って仲間内だけでああいうことやって記録映像を公開する、とか
演劇という体で事前に注意喚起と内容を口外しないという誓約書を書かせてからパフォーマンスを行う、
っていうようなやり方ならまだ反応は違ったかな、、、?
でも「ブスを守る会」(だったっけ)みたいな前例もあるし
何も知らない外部の人間をいきなり巻き込むような真似(しかもネガティヴな心象を感じさせるような)を
安易に提案してきたその姿勢を見るにプロジェクトを成功させるために
そういうアプローチを行うリスクにちゃんと向き合っていたのかどうか疑問が湧いてくる
既にブコメにもトラバにもあるけど、医師免許をとってから技術職に転向するのが良いと思う。
それは経済的な安定もあるけど、それ以上に技術者としての強みになるから。二足のわらじ大事。
自分は薬学部だけど似たような状況から3年の後期に中退して技術職に転向した。
良かったと思う所は20代の貴重な時間を好きな仕事に費やせたこと。
中退して進路変更というガッツを買ってくれる人がいたということ。
逆に、後悔はしていないけど免許をとっておいて損はなかったなと今は思ってる。
それは免許を持っていることで取れる案件・信頼してもらえる案件・広げられた案件があったということ。
また、中退に対してネガティヴなイメージを持つ人も多く、だいたいの人は「薬剤師にならないなんてもったいない」と言ってくるのでその対応が少し面倒臭い。
増田は医師になりたくないというよりも、「親に押し付けられた医療職から逃げたい」という気持ちが強いんじゃないかな。
免許を取ったら今までと同じように病院で働くことを押し付けてくるのがわかってるから、0か100かの考えになっているように感じた。
だから夢を諦めるか諦めないかより、まず親との距離を置いて自分の人生を自分で選択していける心のゆとりを取り戻すことが大事。
○ 性的指向とは、恋愛・性愛対象として「どの性別の人を好きになるか/ならないか」という根本的な傾向のこと。性的指向が他者から「感染」することはない。
○ 異性の人しか好きにならない人は「異性愛者」、同性の人しか好きにならない人は「同性愛者」、異性の人を好きになることも同性の人を好きになることもある人は「両性愛者」と呼ばれる。
○ 「生物学的に異常」という表現がそもそも成り立ち得ない。近代以降の生物学はダーウィンの進化論を原理とするが、進化論は「環境に適応した動物が生き残る」という事実判断を示しているのであって、種や個体の在り方について「正しい/誤り」「正常/異常」などという価値判断を示しているわけではない。
○ ナチスドイツのように「優秀な遺伝子」の繁殖を至上命題とする「優生学(優生思想)」ならば事情は異なるが、生物学は「子孫繁栄」を種の目的として掲げているわけでもない。
○ 「性行為が生殖に結び付かないのに性欲がある」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者だけではなく、不妊症の男女もまた「異常」ということになる。「生殖に結びつく能力を持たない」個体を「異常」とみなすならば、同性愛者一般ではなく、不妊症の男女(性的指向は問わない)のみが「異常」ということになる。
○ 生物学と異なり、医学では「正常/異常」という表現を使用し得る。
○ 1974年にアメリカ精神医学会は『DSM(精神障害の分類と診断の手引)』第3版で同性愛を治療対象から除外し、1993年にはWHO(世界保健機関)も『ICD(国際疾病分類)』改訂第10版で「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」と結論した。
○ 日本でも1994年に厚生省(現:厚生労働省)が『ICD』を公式基準として採用し、1995年には日本精神神経医学会が『ICD』を尊重するとの見解を示した。
○ 性的指向に「正常」も「異常」もないというのが現代医学の「常識」である。この「常識」を覆そうとするのは自由だが、同性愛が治療対象(医学的に「異常」)であることを証明するのは難度の高い試みだろう。
○ 「アブノーマル(異常)」が「ノーマル(正常・まとも)」の対義語であることを踏まえれば、仮に発言者に悪意がないとしても、「同性愛は異常」という主張は必然的にネガティヴな表現として理解される。
○ 同性愛には「異常(アブノーマル)」として排斥されてきた歴史もある。不特定多数を「誤解」させたいわけでもなければ、同性愛者が少数派であることを強調したい場合には最初から「少数派」や「マイノリティ」という単語を使用する必要がある。
○ 既述したように、「同性愛は生物学的に異常」という主張は「私が信じるところの『生物』の在り方として同性愛は異常」という思想的メッセージにすぎず、「同性愛は医学的に異常」という主張は事実に反している。現代の社会において「同性愛は異常」という主張は差別的発言として理解される。
○ 法務省人権擁護局の『主な人権課題』に基づけば、特定の人種や性別、性的指向を理由とする差別的発言は人権侵害にあたると考えられる。
○ 同性愛者や両性愛者は、誰もが自分の性的指向をカミングアウトしているわけではないし、誰に対してもカミングアウトしているわけでもない。実のところ、それは異性愛者も同様である。異性と交際・結婚していることは異性愛者である証とはならない。
○ 「同性愛は異常」という主張は、自分の周囲に同性愛者はいないと思い込んでいる人ほど発しやすい。しかし、実際には同性愛者や両性愛者はごくありふれた存在で、複数の調査によれば人口比3〜6%程度は存在するとされる。
○ 目の前に同性愛者がいる可能性を考慮せずに「同性愛は異常/気持ち悪い」と発言することは、実は目の前にX県出身者がいるのに「X県出身者は異常/気持ち悪い」と発言するのと同様、他者を侮蔑する行為である。偶然、その場に同性愛者やX県出身者がいなかったとしても、目の前にいる人の家族や友人が同性愛者やX県出身者かもしれない。
○ 日本の同性愛者や両性愛者の男性の中には、異性愛者の男性の約6倍もの自殺未遂経験者がいる。
○ 誰も他人の心の内を透視できないので、内心で何かを思う分には誰からも何も問題視されようがない。ただし、「同性愛は異常/気持ち悪い」という発想が「黄色人種は異常/気持ち悪い」「男性は異常/気持ち悪い」などの発想と同様の差別的思想であることはそろそろ理解されるべきだろう。
○ 自分が同性の人を愛せないことと、「同性愛は異常/気持ち悪い」と思うことは異なる。性的指向の合致しない人に恋愛・性愛の感情を抱かないのは自然だが、自分と異なる性的指向を嫌悪することは差別的思想によるものである。
○ 「同性愛は異常」と主張する人は、以下のいずれか、または複数の誤謬を自然なものと信じ込んでいる。
○ 実際には、生物の目的は生物学では説明されないし、同性愛は障害でも病気でもないし、同性愛者を気持ち悪いと思うことは自然な感情ではなく主観的な偏見である。これらの事実を示されたとき、事実を受け入れるか、それとも受け入れるのを拒んで「差別主義者」として生きるかは各自に委ねられている。
そんな日々の中、なんとなく絵描きには「四種類」いるように感じられました。
この四種類です。
SNS上ではポジティブな方が人気です。実力は「あったほうが良い」程度にすぎません。
「本当にとてつもない実力」であればこの四種類の例にはあてはまりませんが。
同人誌のイベントなどでは器用な方が人気です。実力が無い人が調子にのると大変なことに。
プロになる可能性が高いのは、どちらかといえばネガティヴな方でしょう。この点に関しては一概には言い難いですので「大まかに見て」となりますが。
この4種類の人間においてポジティブな器用とネガティブな不器用は相互理解がなされない限り徹底的に相いれません。
また、ポジティブな不器用とネガティブな不器用は、ネガティブな不器用の方から忌み嫌う事が多いでしょう。
と、ここまで言うとただただネガティブな不器用の絵描きが性質の悪い存在となりますが
「器用な絵描き」とは、いわば「才能のある人」であり、多くの人間が「才能はない」ために、どうしても「不器用」な絵描きとして生きていかなければならなくなります。
そんな人々の感情を器用な人々は「理解できない」ため、本人にその気はなくとも、他者を傷つけることがあります。
一昔前であれば、そんな「ポジティブな器用」の人はだいたいリア充だったりするので、
学生生活の内の栄光、昔取った杵柄のようにして、いつの間にかやめているのですが、
昨今オタクのイメージ変化に伴い「ポジティブな器用」の人間にとって、絵を描くことは容易に承認欲求を満たせるツールと化しました。
そのため趣味を成人の後も続ける人間が増え、それによってネガティブな人が変に刺激されることが増えているのが現状でしょう。
こうして「承認欲求のみの器用絵描き」ばかりが跋扈していますが、この先どうなるのか。
そうした承認欲求に飽き、大量に絵描きが消失する時代がくるのではないでしょうか。
それがいつになるかわからない以上、悠長に構えていい問題ではあります。
ただ、事実として4種類の絵描きがいること、そして大多数がネガティブで不器用であるということを我々は意識すべきなのではないか。
以前、「街で見かけたJK」の絵をツイッターに載せていた人が炎上したことがあった。作者が街で見かけた(らしい)女子の絵が性的なタッチで描かれており、そこに矢印で作者の「汗だくでスケスケ!」と言った性的な視線のコメントが書き込まれているものだ。私も、これは批判されて当然だろうなあ、と思った。
で、その騒動のとき、私がツイッターでフォローしているエロ漫画家が「街で見かけたブラックホール」という体のネタ絵を描いてツイートしていた。その絵では街中にブラックホールが(なぜか)出現しており、そこに矢印で「時空の歪みが丸見え!」といったコメントが書き込まれたものである。明らかに「街で見かけたJK」絵のパロディである。
そのちょっと後のこと、「(街で見かけたJK絵への)批判すらネタにするのがオタクにとっての表現の自由なのか」という、オタク批判ツイートを見かけた。そのツイートには、ツイッッターで絵描きがアップロードした画像が4つ添えられており、うち3つは「街で見かけたJK」と同様の体で非実在女性を性的に描いたパロディ。で、残り1つが「街で見かけたブラックホール」の絵であった。
私は驚いた。他3つの絵は別として、「街で見かけたブラックホール」の絵は、寧ろ「街で見かけたJK」の絵を皮肉っているものだと私は感じていたためである。なぜか街中にブラックホールがあり、そこに「時空の歪みが丸見え!」といった意味不明な細かな注釈をつける。そういう奇妙さが「やたら細かな注釈をつける行為」のグロテスクさを浮き上がらせており、元の絵の異常性をも際立たせている。わたしはそのように感じた。語彙力がないのでうまく表現できないし、ここまで書いたことには私の主観が多分に入り込んでいるであろう(リンクを貼らないのは本記事が無粋なマジレスめいており作者に申し訳ないからである)けど、しかし少なくとも、ブラックホールの絵が「ネタにして」いるのは「街で見かけたJK」絵に対する批判というよりは、「街で見かけたJK」絵(あるいはその作者)そのものではないか?何にせよ、「JK絵批判をネタにしている」と決めつけるのは偏見に過ぎる。
その「批判をネタにするのがオタクにとっての表現の自由なのか」ツイートに賛同するツイートをいくつか見たが、「ブラックホールの絵は別」と指摘している人は誰もいなくて驚いた。しかしさらに驚いたことには、「批判をネタにするのが〜」のツイートをした人に「これらの絵はお前らみたいな(街で見かけたJK絵に文句をつける)繊細チンピラに対する揶揄だ」と食ってかかっているバカがいたことだ。両方の派閥から「批判をネタにしている」と決めつけられているブラックホール絵の作者が、私は気の毒でならなかった。
ときどき、「オタク差別」という言葉が話題になりますね。そのたびにこれはオタク差別だ、いや違う、だとか、オタク差別など存在しない、いやする、みたいな議論が巻き起こります。最近だと、とらのあなにヘイト本が置かれていた件のとき、ヘイト本を置かれていたことを指摘するツイートに「死ねよオタク」という文言があったことで、そういう議論が巻き起こりました。
この件では、「オタク差別ではない」とする側の中に、死ねよオタク、というのはヘイト本を買うようなオタクに対して向けられた言葉であって、あなたがオタクであるからといって「死ねよ」という言葉が自分に向けられているかのように思うのはおかしい、という趣旨のものがありました。このロジックが適切かどうかは、ここでは論じません。ただ、私自身についていえば確かに、ある種のオタクではあるけれども、普段から「オタクは○○(何かネガティヴな意味の形容詞)」だとか、「死ねよオタク」といった類の文言を見ても、別に自分のことではないと思うようにしています(あくまで私個人の生き方として)。はてなっぽく言えば、「自意識の当たり判定を小さくしている」ということになるでしょうか。(あとついでに言っておくと、それはそれとしてオタクでヘイト本愛好者がいることは嫌ですし、とらのあなも本件でなるべく使いたくなくなりました。)
そんな私ですが、ブラックホール絵の人が批判された件に限って言えば、「オタク差別」と呼べるのではないかと思っています。というのも、「街で見かけたJK絵(の作者)をネタにしている」という解釈が可能な絵を見て、「街で見かけたJK作者批判をネタにしている」という正反対の解釈に確信を持ってしまうのは、「この人はオタクなんだから、同じくオタクである街で見かけたJK作者を擁護しているのだろう」という決めつけによるものだと思うからです。だから「オタクにとっての表現の自由って〜」という言い回しをしているのでしょう。(なお、じゃあオタク側で「繊細チンピラに対する揶揄」と主張していたバカは何なんだ、という話になりそうですが、この人は見たところ左翼やフェミニスト憎しが行き過ぎた人だったので、それで解釈を誤ったのでしょう……。)さきほど書いた通り、「オタクは○○である」といった言説については、少なくとも「当たり判定を小さくしている」私にとっては別に気にならないのですが、それがこのように「お前はオタクだから○○なはずだ」という個人攻撃になってしまうと、当たり判定の問題ではなく、もはやどうしようもありません。
「オタク差別」という単語は、時には濫用されることもあります。たとえば、あらゆる「性的消費」を批判しているフェミニストが二次元美少女にまつわる何かを批判したとき、調べもせず「このフェミニストは(他の性的コンテンツは批判せずに)オタク差別をしている」などと主張しだす人が時々いますが、こういうのは「オタク差別」概念の濫用ですし、こうした濫用は当然、(フェミニストの主張に同意する人もしない人も)どんどん批判していくべきだと思います。しかしそうであればこそ、そういった濫用とは別に「オタク差別」という表現が適正な事例もあることを記録しておきたいと思い、こんな文章を書いた次第です。
モテはたしかに容姿による部分が大きいが、イケメンでもモテないやつはモテない。
あらゆるモテ人を見てきましたが(容姿に関わらず)、モテ人に共通しているのは皆さん「自分が好きなものを上手に語る人」が多いです。
好きなものって、映画、漫画、フィギュア、食事、旅行、家族、、、とか趣味でもなんでもいいです。
それがなぜ好きかってのをうまく表現できる人は、ほんとにモテる人に多い。
なぜか考えてみたんですけど、なぜ「好き」かってのは、表現するのがけっこう難しいです。
感性によるところが大きいから、言語化しにくいからやと思いますが、それをうまく語れる人は人として魅力的。
好きなことを語ってる時ってブサイクでも輝いてるしね。
あと好きなことに対する感性は、共感できると好意に変わりやすいし。
好きに対して、嫌いなことは理由がはっきりしているので語るのが簡単。
嫌いな理由を他人と共有して得られる有益なものはゼロに等しい。「私も嫌い〜」といったネガティヴ集団を形成するのみ。
嫌いの共感から好感はほぼ得られないし、むしろ、この人とは合わないと嫌われる可能性の方が高い。
SEALDsとかいう学生団体が国会前のデモのイメージを刷新させたのは事実である。
夏休み、実家である賃貸マンションの一室から歩いて30分の国会前まで歩いてみたが今までデモにいた人間とは違った。
「綺麗」なのだ。
高校三年生、とてつもなく受験が絶望的だった時に早稲田大学卒の自分には比較的冷たいデブだが肌は綺麗な現代文教師が集団的自衛権行使容認の閣議決定への反対のデモに行った感想を授業中に喋った。
可愛い顔をして慶応大学に受かった女の子二人はこの発言で笑っていた。
確かに、参加者は老人とモテナイこじらせた若者たちが中心だった。自分も覗きにいったからこのことはよくわかった。
自分の容姿はとても汚いから、覗きにいった時に汚いデモの一構成員になっていたのかもしれない。
ついでに、現代文教師がデモの感想を発言していた授業中に解いた早稲田大学の国語の問題はクラスで最下位の点数だった気がする。
今までと違って明るいと。こういうのがやはりうまくいくし、別に彼らの就職活動は問題ないとも言っていた。
これで分かるのはSEALDsへの世間からの良い評価というのはデモを「綺麗」にしたということである。
メイクをした目の大きな、肌が綺麗な、鼻が通った、スタイルも悪くない女子大生がデモに参加しているのは世間的にプラスに働いた。
もちろん、批判なのかよくわからないがSEALDsへネガティヴなコメントもある。
この話をまとめるとSEALDsへの評価の一つというのは容姿がいいということであり、批判は大学の偏差値が低いということだ。
SEALDsに対して皆が言うことは自分の生きていることへの批判になるのだ。
また、安倍の熱狂的支持者のツイッターを見ると、報ステのインタビューに答えた集団的自衛権行使容認へのデモに参加していた女子大生への悪口が、「本当にこいつ大学生か?40歳以上のババアに見えるぞ」というような内容だったので、自分が何を言ってもこの汚い容姿は批判の材料になるし、偏差値が低いゴミ大学の映像学部ということも否定の材料になるのである。
あぁ、容姿よく生まれてこんなSEALDsも何も悪い頭で考えずに、ただ楽しくセックスできる偏差値の高い大学に通う人間に生まれたかった。
朝には久しぶりの大学だ。つらいが行かなければならない。