はてなキーワード: はさみとは
多分もう歳なのかなって思うけどそれだけじゃない気がする
あの頃の自分はさみんなで集まってワイワイしてたしキャラの成長とかにワクワクしてたのに今はなんかもうしんどいだけ
なんかプレイしてる時に全然集中できなくなったしストーリーに感情移入もできなくなった気がする
昔は家族と一緒にゲームしてたんだよお母さんとお父さんが俺の横で見守ってくれてて
でも今は何かが変わった気がする
一緒にやってても心がついてこないんだよね誰かが「このボス倒せたー!」って言ってもへーって感じでそれすらもう嬉しくない
お母さんは夜遅くまで働いててお父さんも俺がゲームしてる時にずっと電話してるし
それに最近じゃ周りも忙しすぎて一緒に遊べる人もいなくなったし
今はその世界すら遠く感じる
なんでこんなに心が空っぽなんだろうって思うことが増えてきた
主役の錦木千束ちゃんの「誰かの期待に応えるために悲しくなるなんてつまんないよ!!」ってセリフが本当に刺さって、あーそうだよな。わたしさー老親ふたりの期待に応えるために無理をきいて自分の時間を消費してそれでも相手は満たされる事がなくて愛のたまらぬ穴の開いたバケツに金と時間をそそぐ感情労働してるんだけどさ、いやあ千束のいう通りだよやりたい事最優先でいかななあって思った。泣いた。でもその後リコリコのラジオ聞いて同じようにこのセリフに救われたって言ってた千束役の安済知佳さんの「だって、私達(声優)って常に誰かの期待に応えなきゃいけない(職業)じゃない?」ってたのがもう一番刺さったしなんか、こたえた…。そうだよ、私は決して期待に応えるだけの、がわの、人ではないじゃん??こうやって誰かにさ、知佳さんにさ、期待するがわじゃん?加害というと言葉が強いけど、期待して期待に応えてくれないっていって悲しくさせる側でもあるじゃん??安済知佳さんに悪い意味で今までと同じような感情で好きになってしまう前にこのラジオを、安済知佳さんのこの話を聴けてよかった。ラジオ全部聞いた後、安済知佳さんのyoutubeチャンネル最近のやつ(15周年のお礼みたいなの)見て、安済さんがその15周年の会で役はしんどいの多いから、こんな時くらいは楽しい気持ちで笑って帰って欲しい(というような感じの事?を)って言ってて、あと、最後の方に「皆さんにもそれぞれの人生があると思うんですけれどもそのこれからの人生の中で何か楽しい時間をね楽しい作品であったりそういうきっかけになれるように頑張りますので気が向いた時にこれからも一緒に楽しい時間を過ごして下さい(私も頑張りますんで~みたいな)」って言ってたの聞いて、この突き放すわけでもないけどちゃんと線を引いててでも背中も押してくれてんのがゆるーくて、そんで楽しい気持ちで送り出してくれるのがとてもありがたかった。前のめりにならないようにちゃんと話してくれる感じがよかった。次の配信も楽しみにしてます。なによりリコリス・リコイルの続編!!映画なのか1クールあるのかわからんけど楽しみ!!!!詩音ちゃんがなんかめっちゃ出世して個人的にはさみしいけど(マジで奇跡だよ、小島監督…)たきなにも会いたい!!千束にも会いたい!!リコリコのみんなに会いたーい!!!見るまで死ねん!!
ASKAのソロコンサートに参戦した。結論から言えば、素晴らしい時間だった。懐かしい歌、これまでのライブでは聴けなかった歌が、たくさん。
歌を聴くとその歌を聴いていた当時を思い出す。You are freeでは、プロモーションビデオの映像が目に浮かんだ。薄暗い部屋でアスカとチャゲが歌うプロモーションビデオ。あれはクリスマスの頃にマキシシングルとして発売されたんだっけ。史上最大のメリークリスマスっていう2時間の特番もあったよね。
チャゲアス曲を聴くとやっぱりチャゲが足りないと感じてしまう。YAH YAH YAHは最後のサビでチャゲさんに「ラストー!」という声がけをしてほしい。GUYSもBROTHERもチャゲさんのパートがあるし、いないのはさみしい。
アスカのブログをチェックすると、このコンサートの前にチャゲに声をかけたという。でも、「陰謀論や反ワクに染まっている奴とは一緒仕事できない」というようなことを言われて断られたらしい。
確かに、わかる。超わかる。私もASKAの歌は大好きだが、反ワクと陰謀論は大嫌いだ。
ただ、アスカは昔から超常現象とかオカルトが好きで、ファンクラブの会報にもよくそんな話が載っていた。だから、アスカがそこから抜け出すのは正直難しいと思う。
昔のように、ファンクラブの広報誌で特定の人たちだけに影響を与えるのと、今とでは、やっぱり違うのだ。誰でも繋がれるSNSがあって、ある程度フォロワーもいてインフルエンス力をもっていると、一般の人を悪い方向へ導いてしまう力も絶大だから。
ああ、SNSがなかったらいいのに。
アスカがSNSをやめてくれたら・・・チャゲは陰謀論ごとアスカを包んで抱きしめてくれたら・・
こんなファンの戯言なんて聞く必要もないのだけど、チャゲアスを復活させる落とし所はここぐらいではないだろうか。
いつか、チャゲとアスカが2m10cmの距離で歌っている姿が観たい。ASKAとCHAGEの声が重なる瞬間をもう一度観たい。ASKAのコンサートを見てますますそう思った。
ASKAのソロコンサートに参戦した。結論から言えば、素晴らしい時間だった。懐かしい歌、これまでのライブでは聴けなかった歌が、たくさん。
歌を聴くとその歌を聴いていた当時を思い出す。You are freeでは、プロモーションビデオの映像が目に浮かんだ。薄暗い部屋でアスカとチャゲが歌うプロモーションビデオ。あれはクリスマスの頃にマキシシングルとして発売されたんだっけ。史上最大のメリークリスマスっていう2時間の特番もあったよね。
チャゲアス曲を聴くとやっぱりチャゲが足りないと感じてしまう。YAH YAH YAHは最後のサビでチャゲさんに「ラストー!」という声がけをしてほしい。GUYSもBROTHERもチャゲさんのパートがあるし、いないのはさみしい。
アスカのブログをチェックすると、このコンサートの前にチャゲに声をかけたという。でも、「陰謀論や反ワクに染まっている奴とは一緒仕事できない」というようなことを言われて断られたらしい。
確かに、わかる。超わかる。私もASKAの歌は大好きだが、反ワクと陰謀論は大嫌いだ。
ただ、アスカは昔から超常現象とかオカルトが好きで、ファンクラブの会報にもよくそんな話が載っていた。だから、アスカがそこから抜け出すのは正直難しいと思う。
昔のように、ファンクラブの広報誌で特定の人たちだけに影響を与えるのと、今とでは、やっぱり違うのだ。誰でも繋がれるSNSがあって、ある程度フォロワーもいてインフルエンス力をもっていると、一般の人を悪い方向へ導いてしまう力も絶大だから。
ああ、SNSがなかったらいいのに。
アスカがSNSをやめてくれたら・・・チャゲは陰謀論ごとアスカを包んで抱きしめてくれたら・・
こんなファンの戯言なんて聞く必要もないのだけど、チャゲアスを復活させる落とし所はここぐらいではないだろうか。
いつか、チャゲとアスカが2m10cmの距離で歌っている姿が観たい。ASKAとCHAGEの声が重なる瞬間をもう一度観たい。ASKAのコンサートを見てますますそう思った。
anond:20241012181121週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選
↑を書いた増田です 適当に書いた増田がしばらく見ないうちにブクマ数めっちゃ伸びてて派生増田もめちゃくちゃ出ててビビった。ただのおじさんの与太話にいろいろ意見をくれてありがとう
みんなのコメントの中には恥ずかしながら読んでなかった作品もあったくらいで、今週はネカフェやKindleの50%還元セールでいろいろ読み返してました
選考基準について少し補足すると、ジャンプという雑誌の在り方への影響度がとにかく重要だと考えてます。売上とか人気とか社会的影響は考慮はしてますが、あくまで付随する要素に過ぎません。
ブコメやXで結構言及されてたのを見て思ったのは、選評を雑に書きすぎて自分の考える重要性が伝わってないところが多かったのと、20選だとさすがに網羅出来てないなということ。もともと個人的なメモ書き程度に書いたものだったのですが、色々な意見を取り入れた25選にして、一人一作縛りもなくして、選評ももうちょい見栄えするようリライトしてみました。これが現時点でのベストだと考えているので、もう異論は取り入れません。
月2回刊で始まった少年ジャンプの創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。その9年前のサンデー創刊号が30万部、マガジン創刊号が20万5000部だったことを考えると、その始まりが実に静かなものだったことがわかる。
そんな中、大家・永井豪が描いたこの作品の絶大な人気がジャンプの売上に大きく貢献したことは言うまでもないが、それ以上に重要なのは、この時点で「読者が面白いと思うことなら何だってやる」という編集部の方針は明確であったことである。
過剰ともいえる性描写、教職への徹底的な批判からなる本作は、当時の基準でも極めてラディカルで挑発的な作風であり、批判に晒され続けた。しかし、競争原理に基づき、常に読者の方を向いた雑誌を作るという編集部の意向が、この作品を存続させた。後に「アンケート至上主義」という形で現代まで続くことになるジャンプの強固なアイデンティティは、本作の成功とともに形をなしたのである。
頭文字Dや湾岸ミッドナイトのようなクルマ系のマンガが下火になったのは、若者が誰もスポーツカーに乗らなくなったことが原因のひとつであるという。頷けるところもあるが、じゃあ不良、ヤンキー、番長と称されるような若者なんてもっと絶滅危惧種なのにどうして彼らをカッコいいものとして描くマンガは何作も出続けているんだ?東リべのような大ヒットも未だに出ているのに。
思うに、我々の脳には義理と人情、泥臭さ、そして熱さを欲する部位が生まれつき備わっているのだ。そしてこうした要素を最も効果的に表現しうる分野が不良漫画であると見抜いたのは本宮ひろ志が最初であった。
ストーリーは完全にご都合主義で、キャラクターの一貫性もまるでない本作は、しかし「男の強さ」を描くという一点のみにおいて全くブレることはなかった。どんなに反社会的な人間でも、腕っぷしと強靭な精神と仲間への思いやりさえあればクールに映るという価値観は、フィクションにおいての(もはや誰も意識すらしなくなった)お約束として今なお残り続けている。
ジャンプが国民的マンガ雑誌とみなされる要因はどこにあるだろうか?40年間一度も休載することなく駆け抜けた秋本治のデビュー作は間違いなくその一つであろう。
当初は型破りな警察官・両津勘吉のドタバタを描くコメディとして始まった本作は、その時代のサブカルチャーや政治経済情勢を積極的に取り込むことで、高度経済成長期以降の近代化していく日本の風景を余すことなく取り込んだ作品となった。
浮世絵が江戸の庶民たちの風俗を映し出す史料であるように、こち亀が織りなす物語は昭和から平成にかけての日本人の最大公約数的な心象風景を巧みに映し出した。いまや日本から失われつつある中流の庶民の日常を、我々は全200巻からなる亀有の小さな派出所の日常にしみじみと感じ取るのだ。
もともと硬派なボクシングマンガとして始まった本作は仁義や兄弟愛をベースにした極めて現実的な作風で、決して圧倒的な人気作とは言えなかった。しかし、あしたのジョーの下位互換になるくらいなら無茶苦茶やってやる、という判断のもと路線変更し、過剰さと大袈裟さを極めたことで人気を博し、史上初の最終回巻頭カラーとして、ジャンプ史にその名を刻むこととなる
───という、教科書的な本作の功績だけが、本リストに入る理由ではない。重要なのは本作が男一匹ガキ大将(=根性と漢気)、侍ジャイアンツ(=超人的能力)の要素を意識的に再生産していることである。車田正美を源流として、ジャンプ的な文脈を後世の作品が重ね合わせることでより濃くしていく流れが明確になる。我々の知るジャンプは全て車田正美以後なのだ。
同時代の作家に比べ、寺沢武一のデビュー作の視座は群を抜いて高かった。スペースオペラの世界観から引用した本格的なSFのアイデアの数々。高い等身で描かれ、まるで映画のようなポージングやセリフ回しで魅せるセクシーな男女たち。幾度もの休載をはさみつつも、本作はユーモアとカッコよさと強さをコブラという一人の男の中に共存させるという偉業を成し遂げた。
登場人物も読者も無垢な10代の少年でなくてはならないという近視眼的な幻想と、ジャンプ作家は絶対にコンスタントに週刊連載をしなければならないという既成観念を、葉巻を加えた気障な宇宙海賊のサイコガン──精神力をエネルギーに変えるアイデアも寺沢が生み出したものだ──は易々と破壊したのである。
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。いわゆる「友情・努力・勝利」という実際にはジャンプ編集部の誰も公言したことのないらしいパブリックイメージを単独で築き上げた。にもかかわらず、本作は国民的作品とはみなされておらず、犯罪的なまでの過小評価に甘んじていると言わざるを得ない。マジでなんで?絵が下手だから?嶋田のSNSの使い方が下手だから?
キン肉マンはマンガとしてではなく文化的に重要なのだと主張する類いの人間がいるが、そいつらの目と脳にはクソしか詰まっていない。ゆでたまごは絵の巧拙がクオリティに関係しないことを証明し、あらゆる世代の男たちにマンガに熱狂する勇気を与え、信じがたいほど面白い作品を描いた。この作品を嫌う人たちもまず冷静になり、理解しようと試みるべきだ。
鳥山明の訃報を聞いた日、Kindleで買ったまま放置していたDr.スランプの1巻を読んでみた。久しぶりに読む本作はきっと悲しいほど古く感じるだろうと思っていたが、実際のところiPadの画面に映るペンギン村の住人達は今も新鮮味をもって感じられた。
本作は後にDBやドラクエで知られることになる鳥山明がその才能の枝葉を伸ばし始めた作品である───と書けたらどれほど楽だったろう。枝葉どころかこの時点で大樹の幹である。
言語以前の本能の領域に鋭く迫り来る現実味を携えた絵は存在するが、そうした絵を毎週16ページのマンガで成立させる人間は鳥山明以外には存在しなかった。頭の中にBlenderが入っているかのような立体的なデフォルメは、我々の住む現実世界とは違うところにもリアリティというものは存在しうることを示し、「マンガのための絵」であった劇画調を衰退させる最大の要因となった。
Jリーグ創立の流れを生み出したともされる本作がサッカーマンガ界に残した遺産はなにか?もしかしたらこのような問いの設定自体が誤っているようにも思える。高すぎるキャラクターの頭身、大真面目に繰り出される荒唐無稽な技の数々が目をくらますかもしれないが、高橋陽一が一貫して表現したかったのはひたむきな少年たちが織りなす爽やかな青春であって、こうした要素は他作品にも見られるものだ。彼がサッカーという題材を選んだのは単に「野球マンガはありふれているから」という理由だ。本作は期せずしてサッカーマンガというジャンルの中心に祭り上げられたに過ぎないのだろう。
それでも、我々はこの巨星に感謝するほかない。この作品が無ければサッカーを始めていなかったであろう日本中、いや世界中の少年たちが、みな大空翼という一つのアイコンに夢中になっていたのだ。マイナースポーツのひとつに過ぎなかったサッカーをメジャークラスに引き上げ、軍国主義に基づく根性論を相対化し、ひたむきにボールを追いかける楽しさを私たちに初めて教えてくれたのはこの作品だったのだ。
元増田を書いたとき、ブコメ欄は「ぼくのはじめてのジャンプ」にまつわる涙なしでは語れない思い出たちで溢れかえったわけだが、はてブに入り浸る層の平均年齢を考えれば当然のことである。
自分のようなおじさんにとって涙なしでは語れない系マンガの筆頭に位置するのが北斗の拳である。1980年代中盤というのは、親しみやすいポップ路線と男臭い劇画路線がちょうどクロスオーバーする時期であった。今のメインストリームがどっちかは言うまでもないが、自分にとっては線が太くてむさ苦しい絵柄こそが少年ジャンプの原風景だった。
強くてカッコいい大人の男が弱肉強食の戦場で己の命を懸け闘う...そんなジャンプ初期から続く系統の最高到達点かつ袋小路が本作である。このようなマンガが流行る時代は二度と来ないとわかっているからこそ、特別な輝きを放ち続けるのだ。
かわいい女の子を見るためにマンガを読む者と、そうでない者がいる。どちらがいい悪いということはないが、少なくとも創刊してしばらくのジャンプは前者に見向きもしない雑誌であったのは確かだ。うちには高橋留美子はいないんだよ、といった具合に。
きまぐれオレンジ☆ロードは申し訳程度の超能力要素を除けば、一貫して思春期男女の甘酸っぱい三角関係に焦点を合わせ、かわいい女の子の日常が描かれているだけだ。それのなにがすごいのか?別にすごくはない。ただ、エロくもなく大したギャグもなく荒唐無稽な展開もないふつうの男女の日常に需要があることに、誰も気づいてない時代があったのだ。
まつもと泉は早くに体調を崩したこともあり、これ以降影響力ある作品を生み出すことはできないままこの世を去った。それでも、彼の鮮やかなトーン使い、歯が浮くようなセリフ回し、そして"かわいい女の子"以外に形容する言葉が見つからない鮎川まどかのキャラデザを見返すたび、これをジャンプでやってくれてありがとう、と思わずにはいられない。
鳥山明が死してなおこの先何度も繰り返される問いだろうが、ドラゴンボールよりもワンピやナルトの方がどれほど優れているのだろうか?そしてその答えを誰もが知っているのは何故だろう?これらの問いに対してどんな議論がなされようともすべて的外れで無意味である。それはこの作品が頂点だからだ。
鳥嶋和彦の意向により、本作はバカげた後付けの設定や引き伸ばしをせざるを得なかった。それでも、マンガを金銭を生み出す道具と見做す人間たちのあらゆる商業的な意図を超えて、本作はそれ以前、以降に掲載されたあらゆる作品を軽々と凌駕する金字塔となった。
11年に渡る孫悟空の冒険をもって、鳥山明は日本のマンガ文化が世界最高のものであるという事実を叩きつけ、自身が手塚治虫、赤塚不二夫、つげ義春、萩尾望都、藤子F不二雄、高橋留美子と並び立つ歴史上最高のマンガ家の一人であることを証明したのである。
車田正美はリンかけで過去のジャンプ作品の再生産を初めて試みたと述べたが、それを自分自身の作品でやった人間も車田が最初であった。自身のやりたいことを詰め込んだ男坂が衝撃的なまでの不人気に終わった反省から、彼は自身の原点に立ち返りつつもよりスケールを拡大した再生産をやることを決めた。
彼はギリシャ神話と宇宙、子供向けと大人の女性向け、劇画とプラモデルといった要素を交互に行き来しながら、自身が積み上げた様式美の世界を前人未踏の領域まで押し上げた。聖闘士に同じ技は二度通用しないが、我々読者は何度でもこのパターンを欲してしまうのだ。
ある一定の世代の人間からは、ジョジョという作品はいつも巻末に掲載されている時代遅れな絵柄のつまらん作品という評価が下されることがあり、そこには50%の事実と、50%の誤った認識が含まれている。
荒木飛呂彦の絵柄が彼の見た目と同様あまり本質的な変化がないことについてはその通りだ。だがいくら彼より本誌での掲載順が上であろうと、革新性・才能・実験精神という点で彼より優れた人間が果たして何人いただろう?
幽波紋と、理不尽な能力値のインフレを伴わないバトル描写は、彼が残した功績の中で最大のものである。キャラクターが持つ能力を、作者の演出の道具として使うのではなく、自律したキャラクター同士の駆け引きの領域に落とし込むことに成功したのだ。
我々はフィクションの中での整合性を厳しくジャッジすることに慣れっこになっているが、それに耐えうるものを初めて生み出したのは荒木だった。彼以降、マンガを読む行為は絵と吹き出しで表現された作者の脳内世界をくみ取る作業ではなく、自律したキャラクターたちと同次元に立ちその思考を辿るものとなった。荒木は真の意味で我々をマンガの世界に誘ったのである。
体質的に髭が薄くて3日に1回くらいしか剃らんでよくて、たいして困ってない人と、髭剃りから半日経つと青髭になってくるほど濃い人いるでしょ
あと髭が濃いのとアトピーやニキビ体質などなど肌トラブル体質との合併でえらい苦労している人もいるでしょ
そんで20万円か30万円くらいかけて髭脱毛完了して「楽になったよ。金積めば解決するんだから、さっさとやればいいじゃん」ってなってる人もいるでしょ
(そして金に余裕がない人や、永久脱毛は美容整形だから…等の思想信条?の理由で、とにかく脱毛をやりたくない人がキレ始める)
ニキビ体質でボコボコの顎に髭が猛烈生えてきて、髭剃りすると血だらけになる人が「髭剃りしない男は清潔感が無いといって面接で落とすのは差別だ」とキレていて、
そこに髭が薄いし肌悩みもゼロの人が「髭剃りくらいすればいいだろ」と口をはさみ、脱毛済みの男が「俺は永久脱毛済みなので一切の髭苦労から解放されました」と口をはさむ、
そして延々と内輪もめする、それが生理の界隈で起きてることって感じ
それぞれが好き勝手に自分の喋りたい事を喋り、話題がコロコロと変わり、アニメやゲームの台詞の引用を頻繁にはさみこむオタク話法全開で家族の会話が成り立っています。
話題が流れても気にしないし(新しい話題に引っ張られて過去の話題は全員が忘れる)、喋りたい事がまだあったら強引に「で、さっきのハナシだけどさぁ」と巻き戻しも頻繁にする。
「あれ、なんでこんな話題になったんだっけ?」と、たまに反省会もはさむ。
コレが成り立っているのは全員が家族への愛情と関心を持っているからだと思う。
「あなたの話す事なら何でも聞きたいし、自分の事も同じ様に思ってくれているはず」
という思いだ。
家族以外の人に対しても、自分が興味があって面白い話題なら相手が幾ら喋ってもあまり気にしない。前述の通りそれまでの話題は直ぐに忘れるし、私はよく知らない他人に自分の情報を開示するのは嫌(何故なら自分の感性や興味が一般とズレてる事を認識しているから)なので、相手が勝手に喋ってくれるなら寧ろ楽が出来ていいとさえ思っている。
話題にも相手にも興味がなければ「へえ」「面白いですね!」と適当に相槌を打ちつつ同時進行で他の事を考えるのであまり傷つきません。
最低クッキング
0.セリアのグレイの蓋のシェイカー買ってくる。200ml水道水いれて水位にマステはっておく。
マスキングテープは水では剥がれないぞ。もともとそういう役目のものなので。マジックで線入れるより強固だ。これ豆な。)
1.プロテインは自分はULTRAしか飲めないぞ。ステビア以外の甘味料無理だから。パッケージが無駄にキレイ。イチゴとチョコ半々とかもうまそう。甘いのスキだからステビア足そうかとおもってる。これのスプーンを取り出して、後端をちょっとカッターでけずって、割り箸一膳で割らずにはさみこんで、針金巻いて固定する。つまり柄を延長してやるのだ。
2.氷4つシェイカーに入れる。水道水を浄水にして(湯なんだが?)マステの水位線までつぎたす。延長スプーンで2杯の粉をシェイカーに入れる。
4.シェイカーはさっさと水でゆすいでおかないと香料臭くなる。あと、延長スプーンは袋にもどさずコップとかに立てとけ。
ここからようやく皿あらったりできる体力がでてくる。
では麻婆にしよう。
0.半日前くらいに豆腐のパックの角をちょっとあけて水を全部すててパックを冷蔵庫に戻す(うかつに外で水切りすると室温で腐る)
1.冷凍庫からショウガ・ニンニク・長ネギを取り出して刻んでフライパンにいれる。ホアジャオ入り豆板醤(リキンキとかなんとか紀とかのでいい。甘い匂いがして食べ物とは思えないが、夏にはそれがいい)を一さじも入れて、サラダ油も大さじ1。
2.合い挽きで腹をこわすので豚バラ肉を包丁で刻んでフライパンに入れる。
3.水を1カップ入れ、換気扇を中にあげてから着火して炒めはじめる。水は挽肉風にほぐすためのほぐし水だ。
4.冷蔵庫から豆腐二丁をとりだしてたまった水を改めて捨ててから切る。まず厚みを2~3回へぐ。次に長手に半分に割って3つずつに切り分け6列にする。あとは横に切ってさいの目。肉が白くなってきたらフライパンにどぼん。
5.適当に調味料入れる。日本酒、しょうゆ、鶏ガラスープ粉末は大さじ1ずつかな。味噌大さじ2以上、まあ好きなだけ入れろ。甘みはステビアでもよかったけど今回は安眠アミノ酸「グリシン」さっさか振りいれた。ちなみにトウチは最初のやつに入ってる。最初のやつもっといれたいときはここで足してよし。
6.ここでよく煮込まないとtofuがアジしないのでどうしても10分弱火で煮る。その間に水溶き片栗粉を用意。
7.弱火でようやく10分似た(室内気温で死にそうになるからクーラーつけて弱火。強火?死にたいのか)ら、火を止め、できればとなりのつかってないコンロにフライパンをうつして泡がたたなくなるのをみとどけてから、直前によくまぜた水溶き片栗粉をまぜまぜ。
元のコンロにもどして3分くらいは煮る(あついからやだけど我慢)。最後にごま油をひとまわしする。
添え物は水洗いしてチンしたモヤし。一晩放置してひやした上に冷蔵庫にいれてあったやつ。
ご飯も保温などせず炊けたらすぐ電源切って徐々に冷ます。冷たいご飯を前にするとわりと夏バテしてなかったんだなとかで24時間以内に食べきるからまあスパイク加熱がなくてもいいか。
突然のご無礼失礼します。しかし、残念ながらおっぱい ≠ 胸です。
みなさんがおっぱいと聞いて思い浮かべるものはなんでしょうか。
あの神聖なる球体です。
その証拠に、男の胸はほとんどおっぱいと呼ばれません。男のおっぱいというと大きく違うイメージになりますね?
おっぱいは乳房でもありません。乳房ならば、房さえあればいいのです。
しかも乳房はかなりフォーマルな場で使われます。したがって意味も限定されます。エロすらない。
みなさま、すでに混乱してきたと思います。「おっぱい」とはなんなのか。わかりますか。説明できますか。
巨乳。
実は巨乳というのは男性がよく使う言葉です。女性でも使いますが、エロが含まれているのが巨乳です。
その証拠に「おっぱいが大きい」と「巨乳」でGoogle画像検索をして違いを比べてみてください。全然違います。
それに男性が「おっぱい大きい」と言うのは変態に聞こえます。なかなか他人の胸を指して「おっぱい」とは言いにくいのでないでしょうか。
それよりも「巨乳」と客観的に評価しないでしょうか。どちらも卑猥で下品ですが、「巨乳」の方が一線引いている印象があります。「おっぱい大きい」は距離感がだいぶ異常です。
話がそれました。
ともかく「巨乳」には「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」という意味が入っているのです。これが重要です。
胸が小さい人と話すときとおっぱいが大きい人と話すときで、例の部分についての話をしたときに気付いたことがあります。
おっぱいが大きい人は自分の例の部分について「おっぱい」と自信を持って言うのです。「私のおっぱい」「おっぱいが張って痛い」「おっぱいのせいで肩が凝る」「おっぱいいらん」など。
しかし胸が小さい人は「おっぱい」ではなく「胸」と言います。「私の胸」「胸が張って痛い」「胸がない」「おっぱいがほしい」「おっぱいがない」など。
これは衝撃です。胸には膨らみがないとどうやら「おっぱい」として認定されないような価値観が醸成されているように思えます。
とりわけ、Aカップ以下の人にとってはこれはかなり深刻な問題です。おっぱいが小さいだけで、まるで「おっぱいが無い」というふうに自己を規定されるわけです。
笑い事ではなくなってきました。おっぱいのイデアとは深刻な問題なのです。
また、先程「巨乳」には「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」という意味が入っていると言いました。
胸が小さい人に対しては「貧乳」とか「微乳」とかそういった言葉で「自分ではない女性が持つおっぱいに向けたエロ」を表現するようです。
ちなみに貧乳も微乳も、男目線の言葉です。ググるとエロばかり出てきます。
それから「おっぱいが小さい」でググると「胸が小さい」ばかりヒットします。もちろん、「おっぱいが大きい」でも「胸が大きい」もヒットしますが。
この「⊃」は数学で部分集合の関係を表す記号です。おっぱいではありません。たまたまです。
おっぱいとは巨乳と胸の間にある存在だということです。はさみうちの定理のようなものですね。
巨乳には間違いなくおっぱいがあるとされます。そして一般的な男の胸には間違いなくおっぱいはありません。
その間のどこかにおっぱいの境界線がある、という価値観が現状の価値観になっていると思います。
「おっぱい」と名乗るために、一定の大きさが必要となる資格が設けられているように見えます。
みなさま、そうではありませんか?違いますか?
だとしたら、ひどくないですか?
太った男が、ギャグで「おっぱいww」などといって、自分の胸を持ち上げたりします。その男本人でなくても「おっぱいじゃん」と言ったりします。
この笑いこそが、胸が小さい人の自尊心を傷付けているのです。「それぐらい大きくなければおっぱいではない」とされるそのさまは異常ではないでしょうか。
だからわれわれは、こうしたとき「いや、それはおっぱいじゃなくてただ太っているだけですよね」と冷静にならなければなりません。
また男性でも、偽性女性化乳房といって胸が大きくなっている人がいます。そういう人に向けて「おっぱいがある」と言うことは男性の尊厳を傷付けることにも繋がりかねません。
「巨乳」なら言ってもいいと思います。でも、おっぱいはダメだ。
一方で、男性の胸はただの胸です。おっぱいはありません。どれだけ大きくても、どれだけ巨乳で、どれだけ乳房に似ていたとしても、それは男性の胸です。おっぱいはありません。
「私にはおっぱいが無い」は、間違っています。おっぱいが男に奪われているのです。
正しくは「おっぱいが小さい」です。自信を持っておっぱいと言ってほしいです。
おお、その話ですか、キュウリのサンドイッチの話でしたら拙者にお任せくだされ(早口)。
そもそもキュウリというのはインド周辺を原産とする植物でしてな、大航海時代に香料と一緒に西洋に広まりました。
日本にはシルクロードを通って陸路で伝わっておりましてな、途中に「胡」の国がかつてありまして、そのルートを通って入ってきたものには「胡」の漢字を充てるのです。
胡瓜(きゅうり)、胡椒(こしょう)、胡豆(そらまめ)、胡桃(くるみ)、胡麻(ごま)、などですな。
当時の西洋の貴族では自宅に植物園・菜園を所有しているのが当たり前でして、ま、ま、当初は観賞用植物として広まったようですが。
キュウリのサンドイッチはそのような菜園を所有している貴族の最大限のおもてなしだったのです。
当然、そのレシピとしては午後のティータイムに合わせたシンプルなものです。
キュウリはできるだけ薄切り、パンのほうにマヨネーズを塗ってはさみ、手で持って食べられるサイズに切れば完成です。
現代でも、当時の雰囲気を味わいたければ、マリアージュ・フレールなどで注文できます。
2階建てアパートの2階(緑多め、日が入りやすい)に女主人公と男2人が暮らしてた
多分家族
.
そこで男2人が「おれたちは戦う、お前は家でかくれてろ」と女主人公に言い、玄関から出ていった
.
一緒に暮らしていた男たちの影はない
急に男女複数人が家に入ってきて、我が物顔で寛ぎ始める
事態が飲み込めなかった女主人公はその人たちに何しに来たか問う
すると「証明書がある。ここは自分たちもいる権利がある」と全員が持ってる紙を見せてきた
紙は白いA4用紙に赤ペンでサインが書いてあるものだったが、全員バラバラのサインで紙の向きもバラバラでデタラメなことは一目瞭然だった
だが、戦いに負けた女主人公は文句も言えず、そう、と返すだけだった
.
場面が変わり、冬ではない夏の晴れた日に女主人公は一人でスキーにでかけた
コースを滑っていると、かつて惹かれていた中高の同級生が話しかけてきた
海外にいるはずの同級生に驚きながらも再会を喜んだ彼女は嬉しそうに会話していた
次の瞬間、昔家を包囲してきた組織?が周りを取り囲んでいた
同級生が自分の弱みであると組織にばれ、同級生が組織に取り込まれたことに失望し、また同級生が純粋に会いにきてくれたのではないことにダメージを負った
それでも同級生のことは諦められなかった
.
会社勤めのシーンにかわり、同じ部署ではないながらも同級生が同じ会社勤めなことは監視?抑制?されてる身のため当然のことと思えた
廊下に出ると必ず会う彼
組織ではないけど彼の上司が通りかかったときも礼儀正しくしていたし、困らせる問いかけ(なんでこんなことしているのかとか)はしなかった
しかし、第三者グループと思わしき男性が彼に、相談することがあるため彼の上司の名前を教えてほしいと言ってきた
彼はちょうどその上司の名刺を手元に持っていたが、相手に見せないよう伏せていた
だが、ごく自然な流れでふとした拍子に相手がかがみ、上司の名刺の表側を見てしまった
女主人公はその場面を隣で見ていたが時すでに遅しだった
自分がこの街に残ると彼がこのようなトラブルに巻き込まれると思った彼女は街を出ることにした
.
街の出口はラグビー会場の観客席の上の方だった
ひしめく観客の隙間を通りながら彼女は出口に向かった
上の方に向かうにつれ、観客席はラグビーの地域企業スポンサーばかりになった
偉そうなおじさんがお金に関わる自慢(時計とか株の儲けとか使い道とか)をし合って、大きな声で笑っている
会話の中にはパワハラ・セクハラもあり、聞いてはいけなさそうなものばかりだった
その横を通りたい彼女は小さくなって通ろうとしたが、ぶつかってしまった
オジサマのラグビー選手のように身体が大きくて魅力的でぶつかってしまったと謎理論を繰り返すことで、解放された
解放されたあと、同じ方向に向かっているおじいさんを見つけた
彼女に一緒に休憩しようと誘ってきた
おじいさんはどちらかというとホームレス寄りだったが、ポンサーから少し遠い上の席で一緒に休憩することにした
話してみるとおじいさんは彼女のことを知っていた
一緒に暮らしていた男の知り合いだった
おじいさん曰く、男はこの街をめちゃくちゃにしたから追放されたのだと言っていた
全く知らなかった情報に詳しく尋ねると、元々この街は賭け事も八百長もない健全なラグビーがある街だった。しかし、男が来たことで一変してしまった。地域企業スポンサーと手を組み、賭け事などの悪いことを中心となって行い、もう街は元のきれいな精神に戻れないところまで来てしまった。賭け事のおかげで、観光客は増え、観客も増えたが、マイナスなことが大きすぎた
そんな悪事をしているとは全く知らなかったが、組織に捕まって拷問されているとかではないことに彼女は安堵した
この街は人を殺すこともよくある街だったが、男はおじいさんに「人は殺すな」「彼女をよろしく頼む」と常々伝えていた男により、人を殺すことはなかった
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電車では30前後の同い年くらいのカップルと向かい合わせの同席になった
移動時間は長く、その席でレストランのように食事を取れるとのことで、意気投合したカップルと食事を取ることにした
カップルの女性がウェイターの男性に注文をし、その流れでこの電車で女主人公と意気投合したことを話した
愛想よくしていたウェイターに「彼女、口臭が全くないのよ!すごいわよね!あなた、今度彼女とデートしてらっしゃいよ」とカップルの女性が声をかけた
女主人公は急な展開に驚いたが、ウェイターが快くOKしてくれたため安堵した
ウェイターと握手し、ハグした次の瞬間、ウェイターがあの同級生であると急に確信をもった
また再会できたことにうれしくて、でも全く違う外見になってしまったことがかなしくて、でもふたりとも自由な身になれたことがうれしくて、抱きしめたまま号泣してしまった
ウェイターも抱きしめ返してくれたまま動かない
カップルが驚いている
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ところで目が覚めた
映画チックな夢は初めて見たので書いてみた