はてなキーワード: 資質とは
http://anond.hatelabo.jp/20130510210114
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lost312
こーゆー人が「わかってる人」ってやつか。どこで情報得てるのやら。アニメーターの担当箇所なんて、一般雑誌に載ってないよね?ww2013/05/10
ざっとケースを挙げると
①過去の仕事で目立つ作画をしていた人、有名な人だったら、EDの原画クレジットに名前があるのを見越して推測は可能。
②インタビュー等で本人が言った。
③人づてに聞いた。
①は作画オタの教養主義たる所以です。
過去の仕事ぶりからそのアニメーターの作画上のクセ・タッチ・影響元を脳裏にインプットしておき、すぐさまそれを思い起こして目の前の気になる作画とすり合わせる事が出来るか、にあります。
例えば「この作画はかなりA氏っぽいがA氏の名前はクレジットされていない、その代わりA氏に影響を受けたとされるB氏の名前が載っているので、おそらくこのカットはB氏の原画だ」とこんな感じで"推理"するのです。
絵そのものは作画監督に完璧に修正されてても、動きのタイミングはその人の個性が残ってる場合が多いので、そこから推測や考察が出来ます。
諸事情でノンクレジット(名前が載ってない)って場合でもある程度は判別は出来るでしょう。例えばダイターン3の2話とか12話とか22話には金田伊功の名前はEDクレジットに一切無いけど、見りゃ解るでしょ。知らんって?
ただ「限りなくこの作品やってるに違いない」くても「確実にやった」かどうかまではわからないので、確定するまでは「かもしれない」「(推測)」などの言い回しをしてお茶を濁しておきます。(作画wikiなどの編集時において)
当然外す事も多いです。
WEBアニメスタイルの「アニメの作画を語ろう」(http://www.style.fm/as/01_talk/01_talk_top.shtml)などは情報源の宝庫です。
インタビュー受けてる自身の仕事の他に、「あそこは◯◯さんがやった」とポロッと漏らしてくれるので、情報は集めやすいのです。
雑誌に載ってないよねと言いますが意外と結構載ってるもんなんですよこういうの。
稀にノンクレジットやペンネーム仕事もバラしてくれるのでありがたいです。
例えば『Sci-Fi HARRY』のOPスタッフは「絵コンテ・演出・作画監督:原田慎之介 原画:原田組」という謎の人物及び団体ですが、原田慎之介なる人物が大平晋也である事は作画オタなら誰でも知ってますし、原田組なるチームも橋本晋治や小西賢一らである事は本人達が自分から喋っています。立場上名前を出しちゃいけないから隠すはずなのですけどね。(共通項として、みんな同時期にジブリの某作品にメインで関わってた人たちという)
そんなわけで②は確実なソースの根拠になる・・・と思いきや、本人の記憶違いもたまに有ったります。その場合、間違ってる事に気が付かないと作画オタは情報をいつまでも鵜呑みに信じるしかないですが、訂正情報があった場合はすぐに検証してデータを更新しなければなりません。(出来れば、の話ですが)
それらに比べたら③はあまり無いですが、アニメーター界隈がいかにタコ壺状態であるか皆さんの想像する10倍以上は狭いものなので結果的に共有情報が多い→そこから意外な情報が流出する、という事も多々あります。
若いころアニメーターさんと知り合いだったっていうようなロートルオタクがブログやツイッター等で思い出話的に「実は・・・」と話してくれる事も多いです。
後は作画オタ系のブログや作画@wikiと、2chの作画を語るスレですかね。前述したように作画オタの基本は教養主義なので、腐っても鯛と言わんばかりにコミュニティが崩壊してても割りと語る時は語れるし情報は転がっているものですよ。よく分かってないフリして(ここ重要)「◯◯って□□だよね?」などとわざと間違った情報を出して聞いてみると「ちげえよXXに決まってんだろそんな事も知らないのかこれだからニワカは・・・」「ちなみに□□は△△だしXXは●●なんだぞそれぐらい調べとけカス」と鬼の首取ったかの勢いで色々教えてくれます。
で、そこを上澄みだけすくい取って知った気になっていれば、id:TM2501みたいな作画オタぶって他のオタ連中から一歩リードしてるつもりになってその実ニワカ以下のモノ知らず一丁出来上がりってわけです。
こんな感じで、作画オタクの世界ってものすごくアナクロなんですよね。
超能力か何かで誰の仕事か当ててるなんて事はまったく無いんですよ。
創業時からの熟成ソースを継ぎ足し継ぎ足しで現代まで受け継いでいるような存在。そこに義務感や使命感、そして優越感を持ってる厄介なヤツら、それが作画オタクです。
最近ブクマを荒稼ぎした寒天プールの人(http://sajiya.blog89.fc2.com/blog-entry-312.html)も、そういった作画的教養主義の荒波に揉まれてきたからこそこういう記事が書けるんですよ。id:TM2501と違って。
この人、「自分は作画オタじゃない」と言ってますけど、作画オタ間での同族嫌悪は全然珍しいものではありません。こいつらなんか一緒にされたくないと思ってる作画オタ同士は多いですよ、本当に。
追記:
■関連記事
http://anond.hatelabo.jp/20130520105912
■作画崩壊厨と『鉄腕バーディーDECODE』の思い出
愚かな人たちが目の前にいたとして、どうしてその人たちがそんな愚かな言動をしているのか、自分もまかり間違えばそうなっていたのではないのか、そんな想像力すらないんだもの。
生活保護を受けざるを得ない境遇に陥った人を「自己責任」と嘲笑している人たちと何も精神性が変わらないと思うんだよね。
実際、リンク先のまとめの人の発言見たら、たとえば被災地差別してるようなトンデモ系反原発とか、その類の人も大勢いるじゃない。
英語はしゃべれないし、外国人の友達もいなければ、海外に行ったこともないし、興味もさほどない。
頭でっかちのわりに、リテラシーや論理性とは無縁で教養もない。流されやすい。
逆に、そういう属性を持ち出してネトウヨを批判した気になってる奴が偽物だってことでしょ。違いますか。
謙遜も含まれてるだろうというのを敢えて無視して語るけど、それってあなたの生まれた資質とか環境とか、あなたの力でどうにもならなかったことも多いよね。
だいたい、被差別者って社会階層的にも下に追い込まれてるから、そういう「属性」を持ち合わせていることが多いんだよね。
アメリカの黒人の犯罪率が高いって聞いたことあるでしょ。あなたの場合人種差別より障害者差別とか持ち出した方がわかりやすいかもしれないけど。
それはつまるところ「貧すれば鈍す」って話じゃない。教育や機会に恵まれないからそういうところに追い込まれる。
ネトウヨは刑法的な犯罪ではないかもしれないけど、道徳的な悪という意味で、それと全く同じこと。
そんなこともわからない人たちの話を真に受けて「負い目」なんて感じちゃったらだめだよ。
まあ、それはネトウヨの暴言を目にして心を痛めてる在日の人に「気にする方が悪い」というぐらい無責任な言いぐさだってのはわかってるけどさ。
でも、あなたのような人の味方になれない「左派」なんて「左派」でもなんでもないよ。そう思っている人が一人でもいるということだけは伝えておきたかったんだ。
イケダハヤト氏について。
もし彼が奥さんに見捨てられて、子供も失い、その事について自己正当化をしたようなエントリーを書いて酷い炎上の仕方をして、更に追い詰められて自暴自棄になって絶叫する様な文章をもし書いたのだとしたら、それはきっと文学的な良い文章になるのではないか、という予感がしています。彼が何者であるかについては「シビアな利害対立の現場に晒されたことがない、ただのガキ」と言えるわけですが、そうした自分を防御するために様々な殻のようなものをそのたびごとに手製で拵える技術には実に長けており、その殻そのものはそう簡単には壊れないでしょう。その殻を壊すものがあるとしたならば、それは現実的な生活というものであり、その時の悲鳴を純粋に文学的興味から聞いてみたい。普通、この様な事例では「そのままの状態」で炎上しつづけることはあまりないため、そこまでは到達できない場合が多いと思うのですが、イケダハヤト氏に関してはそれが可能です。ヲチ的な興味からではなく、一つの類型が破滅する時の絶叫を聞いてみたい。その時、人は、本来の文学的資質と無関係に、ある種類の輝きを放つと思うのです。現在の状況が持続すればするほど、破滅の時の光芒はより眩くなります。それを見てみたい。
http://1024.hatenablog.com/entry/2013/03/26/195249
うちの親父も癌になった。発覚時ステージ3で、手術からそろそろ五年経つがいまのところ再発はなし。まぁとりあえず一安心というところか。
最初に見つかったのは歯肉癌。本人気づいていなくてなんか痒いな、腫れてるなということで歯医者に行き、歯医者も炎症起こしてる程度だと思って大きめな病院を紹介しただけだった。その後ふた月くらいは全く危機感がなかったのでほったらかしてた。昔親知らずで異様に腫れたことがあったのでそんなもんだろうと思っていたらしい。で、気づいたときはステージ3。リンパにも転移していた。会社の定期診断では大腸への転移の疑いありとも出ていたが、それはシロだった。
この時親父は59歳、3月生まれなので翌年に定年退職の予定だった。
癌だっつーことで速やかに休職。すぐ手術するのかとおもいきや、意外に検査に時間がかかるのね。保険がガンガンきいたのと、でかい企業だたので病気での休職などの制度もしっかりしてて、子どもはまだみんな学生だったけどとりあえず困らなかった。
別に嫌な親父だったわけではないが、自分と一番下の妹以外は何故か見舞いに行かず、いろいろ日頃の関係が出るなぁと思ったりしていた。自分はこの時躁うつの治療中&大学院生だったので割と暇ではあった、というのもあるが、手術の立ち会いも自分がいった。母はなぜか切れていてろくに見舞いに行かなかった。病気になるのは本人が悪いらしい…基地外である。
手術と治療は東京歯科大でやった。総合病院じゃないのに手術とか(リンパの切除もあったし)大丈夫なんだろうかと個人的にはちょっと思っていたが、口腔がんセンターになっているだけに治療はスムーズで、特に不安に感じることもなかった。病床少ないので静かでいいし、がん患者が少なく、入院患者もだいたい元気に退院していく(親知らずとかだからね)ので、逆に本人にとってはよかったようだ。病院としてもアレルギーなし、他の病気もなし(昔胃にポリープが出来たくらい)、なんでも食べるしとくに落ち込むこともない親父は割と扱い易かったもよう。
こちらとしては切除した顎やリンパを見せられるのは勘弁していただきたかった。医療系じゃないんだから免疫ないんです。ここが患部だとか言われてもハイそうですか、としか…
なお家族の絆とやらはうまれなかった。なのでそんなに感動的な話はない。
一ついい事といえば悲劇のヒロインになったつもりの母親が、親父が最初にかかった歯医者の女医さんに「きっとうつになっちゃったのよ!」などと言われ、病院に連れて行かれて今もなおうつ病だとおもっていることだ。もともとボーダーなんだが、薬を飲んでるとみんなちやほやしてくれるのを学習したようで時々貧血が…とか動けないの…などと病弱なふりをしつつもちゃんと薬を飲んでくれている。出ている薬にリーマスが混じっているので、医者はたぶんボーダーであることを把握していると思われる。薬が効いてるおかげか昔より性格が穏やかになった。相変わらず人の悪口は多いが、まぁいじわるばあさん程度だ。
癌は不治の病というイメージがあったが、どちらかと言えば母親のほうが不治の病にかかっているような気がしてならない。
ま、母親は置いといて、当人はそんなに深刻な感じではなかったが、同時期にやはり癌(ただ部位は異なる)になった同僚がいて、その人が焼身自殺した直後だったので、どちらかというと現実逃避をしていたっぽい。えんぴつでなぞる徒然日記とかイラストロジックの差し入れを喜んでいた。なんにも考えたくなかったんじゃないかなーと今になると思う。病院暇だしね。
手術直後は気力がなくなったのか、気にしない振りをしていてもやっぱり怖いのか、ボケっぽい症状があらわれて鉛筆でろくになぞれなくなっていたりした。あと算数どころか一から百まで数えるのができなくなった。
会社も休職後には元の業務に戻さず新人の教育とか、後方支援とかなんとか名目を付けてあまり重要な業務はさせなかったようだ。それでも置いてくれているだけましだと思うくらい、ぼけた。幸い今はボランティアにいける程度には回復している。
あのボケ方をしていたにもかかわらず、定年まで退職勧告をしなかった会社には感謝をしている。ずっと夜勤のある仕事だったが配置転換で夜勤をなしにしてその代わり日勤と早朝勤+出勤をタクシーにしてくれたのもありがたい(事故があると困るからだろうが)。退職金も一割減だったけど出たのでその後の治療も心配せずにすんだ。でかい企業だったので労組から見舞金もかなり出た。親父が退職したその次の年の年度末に会社更生法を申請しているのでかなり余裕が無い時期だったに違いないが、そういう対応をしていただいたことには本当に感謝している。あの会社のおかげで自分も病気持ちだが大学院まで出ることができたし。色々悪く言われているし、問題もあったことは知っているが、でもやっぱり職を奪わず金を払ってくれる存在があるというのはありがたいことだ。
癌は不治の病というイメージがあるし、昔はそれこそ家を潰して治療費にあてなければならないほど治療にはお金がかかったらしいが、実際にすぎてみると「あれ、そんなもんか」という程度ですんだような気がする。しかしこれはうちの親父がでかい企業に勤めてて、その企業が先回りして色々と保険をかけてくれてたりとかしたからだ。これはたぶん幸運なことだったのだろう。幸運ではないかもしれない俺やあるいは俺と同じ世代の人々は、癌になったらまず経済的なところで問題がないかをおさえるべきだと思った。
あと思ってたよりずっと医療は進んでて、患者にはそれほど負担がかからないように医者も日夜研究をしてくれてるんだなぁと思った。一番ネックになるのはたぶん本人の恐怖心だと思う。これは個人の資質にもよるので本当にどうすりゃよいかはわからん。恐死の恐怖は肩代わりできないしね。
もしかすると恐ろしさのあまりにボケるかもしれない。変な宗教にハマるかもしれない。騙されて医療を拒むかもしれない。そういうところに点け言ってくる奴はたぶん必ずいて、それに利用されることは大いに有り得る。出来る限り完治後も継続して安定した生活が送れるように変な情報はシャットアウトして、本人の逃避の方向を問題ない方向性に向けてやるしか、周りで見てる人間にはできないんだろうなぁ、なんてことを思った。そゆう意味でも親父は手のかからないひとだった。ありがたい。
体罰は絶対に肯定されてはいけないが、こうした「体罰を行った個人」の人格や教師としての資質を問う論法がメインウェポンになってるうちは問題の根本解決にならん気がする。
ちげぇよ。
「体罰を絶対に肯定できない」のならば、自分が有利な事を知っている子供を、どうやって制御・矯正するかって話をしなくちゃならないんだ。
まさか、世の中の子供は全部話して解決できる良い子ちゃんだとか、世の中の教師たるものは言葉だけで千差万別の子供を制御できなければならない、
なんてアホみたいなこと言わないよな?
偏差値40前後の馬鹿ばっかりいる高校とか、周囲にDQN連中しかいない地域の公立中学とか行ってみろ、酷いもんだぞ。
ここで、故意に反抗的な子供に対して、強制執行での「隔離」が出てくるなら、暴力を振うのが、教師からなんらかの権利を与えられた人員に変わるだけ。
俺は警察に類する暴力機関が学校へ介在することを許すなら、教師から一切の暴力行為を剥奪するのに賛成だが、結局子供が暴力にさらされるのは変わらんからな。
体罰は絶対に肯定されてはいけないが、こうした「体罰を行った個人」の人格や教師としての資質を問う論法がメインウェポンになってるうちは問題の根本解決にならん気がする。
例えば、言葉ではどうにもならなくてついうっかり手が出てしまう、ということもあるかもしれない。教師自身のキャパを越えてしまい暴力以外の方法が見えなくなってしまうこともあるかもしれない。別に教師に限った話でもなく、誰でもありうることだろ。これを「ありえない」と本気で言ってる人間はちょっと他人の気持ちを想像する力に欠けていて怖えよ。キャパオーバーした時に真っ先に暴力振るうタイプじゃねぇかなと思う。
もちろん、「だから体罰は一部肯定されるべきだ」とは全く思わない。すべての体罰は否定されるべきだ。
ただ一方でやっぱすべての教師は「体罰教師」になるかもしれないリスクを抱えてるんじゃねーかなと思う。交通事故起こそうと思って起こす奴はいないのと一緒。
この事実すっ飛ばしていつまでも教師だけは聖人でいとけって考え方がある限りは体罰ってなくならないと思うんだけどな。そもそも教師は子供をちゃんと管理できて当たり前って前提があるから暴力使ってでも管理しなくちゃならんって発想になるのもあると思うし。
新卒一括採用が歪んでるっていうのはさ、あんたみたいに、就職も学力試験みたいに一定の基準で点数つけて並べて高い方から取ってくもんだ、って思う人がたくさん出るからだよ。
だから受からないと全面的に否定されたように思っちゃうんだろ。
もちろん今の新卒採用に学力試験みたいな面があるのは否定しない。採用する方だってどういう人間が欲しいかピンポイントで知らないんだから (何しろまともなjob descriptionもない)、一般的な点数で判断するしかない。そんで「点数の高い方を取っとけばアタリが多いだろう」ってなもんだ。採用側だって盲打ちなんだよ。
仕事ってのはさ、「手が足りない、金出すから誰か手伝って」って言ってるところに「俺の手で良ければ貨すよ」って人がはまることだろ。ポジションごとに求められる資質なんて全然違う。それに偶然も大きい。いちいち「あいつは受かって俺が落ちたのはどこが違ったんだろう」なんて考えるのは無駄無駄無駄。違いがなさそうに見えるなら、運だよ運。採用側にとってもね。(あと、内定たくさん取ってる人間のことは参考にするな。どうせ働けるのは一時に一ヶ所だ。本当にはまるポジションを一つ見つけることが重要なんだ。)
とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
http://anond.hatelabo.jp/20130224175755
学歴ロンダが行われる理由はたくさんあると思います。東大卒、ってゆー箔であったり、プライドであったり、社会的な地位であったりします。
で、詳しくは上記のURLから飛んでもらうとして、このエントリーでは二種類の東大院生が登場します。
学部から(中高時代から)しっかりと知識を育み、学部の継続で修士に進み、毎日うんうん唸りながら一生懸命に「研究」をし、ポスター発表やペーパー投稿も積極的に行い、晴れて修論発表会で発表して修士号を得る
誰でも入れるような大学(学部)から、誰でも入れる東大院の研究科(研究室)に入って、東大学部生のレポート程度の修論を書いて修了し、自尊心を満たす
後者がロンダなのは見ての通りなんですが、僕がひねくれてるのか、後者のほうが前者に比べてスマートに見えるんですよね。
だって、どうせ使わない学問(種類に依りますけど…)のためにうんうん唸りながら研究するのであれば、その分ほかのことに時間を使ったほうが有意義な気がするんですよね。これだけだとザル法を肯定することになるのでなんとも言えないですけど。
もちろんこれは個々人(っていうか僕と前者)の正義の違いであって、前者から見たら後者はズルいわけです。
経歴は東大生だけど中身はちゃんと学業は修めてないんだから、まー許され難いことであります。
何が問題かって、悪いのは学歴ロンダ野郎じゃなくて、学歴ロンダができる環境にしたお偉い人でもなくて(原因の一つではあるけど)、学生をそこまで学歴に執着させるこの日本社会だと思うのです。
まー、ほとんど知らないって事実を鵜呑みにするわけではないですけど、こういった無知は歴然としてあります。確かに。
こういった社会構成、もっというと頭のカタいオッサンをなんとかしないと学歴ロンダなんて無くなりそうもないけど、難しい問題ではあります。十年後どうなってるかはわかりませんが。
でも、「俺頑張ったのに学歴ロンダ野郎も同じ東大卒って見られててズルい!」っていう意見は学歴至上主義的、もっというと学歴ロンダ野郎と同じ土俵に立ってる感じがしますね。
学問修めて身に付けた能力(勉強力とかじゃないよ)を活かして学歴ロンダ野郎を蹴飛ばして初めて東大生でイキっていいんじゃないでしょうか。
それくらいの気概は持ってて欲しいなと思いました。
※「全部が全部そうじゃないが」「ごく一部のことではあるが」等の文言を逐一入れるのは面倒くさいのと冗長になるのとで入れてないだけです。断定調の方が論旨がはっきりするからです。
知っている人からすれば当たり前のことなんですが、「大学院」において「学校名」というのはその院生のレベルを知るためには全く意味をなしません。東大の大学院?学士の資格等必要だろうけど、入試なんてザルです。実際に問題を見たことありますか?普通に勉強した人なら通ります。実質定員割れ(=合格者数が定員より多い)もあります。入試問題が基本的に研究科別になっていることが一つの要因だとは思います。
この「大学院で学校名を基準に資質を判断するのは無意味」という事実、企業の人事の方もほとんど知らないんですよね。「東京大学大学院、修士2年の○○です」ってだけで、「おー、東大生かー」って思っちゃう。確かに「東大生」なんでしょうけど、東大大学院の学生に「東大生」とは名乗って欲しくないですし、一般的にそういう認識を持って欲しくないですね。
なぜか。
そう、「ロンダ」が横行しているからです。ことさら「東大生」を強調するような東大の院生ほど、いわゆる「ロンダ」の確率が非常に高い印象です。
東大の大学院に入り最終学歴をそこにすることで、「東大卒です」と主張する(正確には「修了」だが)。在学中は「東大生」を誇り高そうに周囲に流布する。誰でも入れるような大学(学部)から、誰でも入れる東大院の研究科(研究室)に入って、東大学部生のレポート程度の修論を書いて修了し、自尊心を満たす。そんな人に「東大生」を名乗って欲しくないです。
ロンダは知っている人が見れば(現状、少ないと言わざるを得ないが)すぐにバレますし、恥ずかしいは自分だと思うんですが、世の中、医者じゃない「医学博士」が医者みたいに思われている現状もありますので、実際は「東大生」「東大卒」で通ってしまうのでしょうけれども。
現代日本において、未だに「学校名」にこだわっているの時点で苦笑してしまうのですが、それは置いておきます。そのためか、今は嘘か誠か、中学高校の学歴を見て人物を判断されることもあるようですね。いわゆる「地頭」というやつだと聞いています。この基準も確かなものではないでしょうけれど(10年も経てばその人は変わるでしょう)、「ロンダ」を見抜くためにはあってもおかしくないかなとは思います。
話が逸れました。繰り返します。「大学院」は「研究室」に所属するものであって、そこに「学校名」は関係ありません(専門職大学院等除く)。「たまたま」その研究室がその大学院にあった、というだけのことです。確かに東大・京大・東工大等にはレベルの高い研究室が存在する「確率」は高いですが、一般論として、「東大」という名前が神聖視されすぎです。
「ロンダ」の人たち(表面的にそういう経歴の人たち)全てを貶す訳ではありませんが、一部の「ロンダ」組は本当に徹底しています。絶対に学部の名前を自ら進んで言いません。自己紹介でも言いません。聞くとものすごく嫌な顔をされます。笑ってしまうぐらいに。
彼(彼女)らは何のために大学院に来たのでしょう。「東大卒」の肩書きを獲得し、就職やこれからの人生に有利になればいい、と思っているのでしょうか。真剣に研究をしたくて進学してきた他の学生に対して失礼ではないでしょうか。もちろん同様のことは学部についても言えますが、学部は「入学試験」が適切なフィルタになっているため、そのような「肩書き」目的の進学でもそれが目的的に働いていると思います。学部は「勉強」をする(受動的)場である側面が大きいのも、「肩書き」目的で入ってきても容認される理由の一つでしょう。
一方、(東大の)大学院は前述のように入学は容易です。そして一度入ってしまえば、研究科毎の違いはあれども、修了それ自体は最低ラインを超えることはそこまで難しいことではありません。大学院の責務の一つである、「研究」らしい研究が行われないまま、「学歴」のみを取得して修了することができます。
研究科別では、理学系・工学系・情報理工学系にはさすがにこのような例は少ないと思います。しかしそれ以外の研究科では、特に文系と理系を融合したような研究科ではそれはひどい有様です。文系でも理系でも中途半端な人材が集まります。ロンダ目的の学生のいいターゲットです。入試も、文理双方に配慮するので、問題のレベルが下がります。
先生方も授業が学部よりレベルが低くて苦労しているようです。よく聞くのが統計(数学)の話です。バックグラウンドが違いすぎるので、結局、「確率」の話から(極端な話、高校教科書のレベルから)始めないといけません。「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」という理想を実現する環境とはほど遠いです。たいてい、研究テーマだけは壮大ですが、その実質は適当に「アンケート」を取って「統計処理」をして「有意差」をむりやりひねり出すという、学部3年生のレポートみたいな修士論文ができ上がります。それでも修了できてしまう。そうしないと、みんな修了できないから。
学部から(中高時代から)しっかりと知識を育み、学部の継続で修士に進み、毎日うんうん唸りながら一生懸命に「研究」をし、ポスター発表やペーパー投稿も積極的に行い、晴れて修論発表会で発表して修士号を得る。こういう「東大生」であった僕(や周囲)にとって、「ロンダ」組には眉をひそめるしかありません。
何だ何だ釣りか?
バカで弱くて守ってもらえなきゃ捕食されるばかりで庇護ちらつかせられたら何でも従わなきゃならない究極の弱者だぞ。生き方として超リスキーだよ。何でそんなもんで居たがるんだ?
「子供なので性的な目で見られない」?それは単にラッキーと保護者の努力の実りが重なってただけですよ?
大体話が意味不明だよね。何で女が消費されるばっかりなの?
女の胸がボインになるのはあかんぼに飲ますためだっちゅーの。お父ちゃんのもんと違うのんやで。
何つーか、単に自分に主体性がなくていろんな価値観で測られたときに抗うだけの力がないことを性別に起因させてぐだぐだしてるだけなんじゃないの?
「かわいいね = 僕は君と寝ることができる」に対して「あらそう、どうも = 私はアンタそんなに趣味じゃないけどね」って言えないっていう増田のごく個人的な資質を女一般に無理矢理当てはめようとしてるだけっていうか。
実際女性性のジェンダー的なあり方から生じる悩みなのかも知れないけど、「女として見られる」の異和感があるというのは同性として日々リアルに感じるところであるけれども、圧倒的に「女として見られる=消費財として見られる」っていう発想こそが気持ち悪いよ。
一体誰が何をどう吹きこんだらそんな認識に至るわけ?
本とか普段どんなの読むの?
叫ばせてください。
「研究者」として生きていくのは、いい。自分の好きなことだからがんばれるし、ほぼ実力主義の世界だから男女差別もあまり感じることはない。いわゆるガラスの天井の問題も研究の世界では少なくなってきていると思う。でもそれは常に競争の中を生き残っていかなければならないということでもある。
ここで研究者の人生についてもう一度考えてみたい。高校卒業後、大学進学、研究室に入って学部卒。ここで22歳としよう。まだぺーぺーだ。修士課程の二年間で研究者としての資質を見極められ、認められた場合は博士課程へ。ここで24歳。そしてそれから短くて3年間、文系だと大体5~6年かけて博士号取得。ここには3年で博士号をとれる理系はポスドクで留学、文系は留学してから博士号、という違いがありそうだけれど、いずれにせよ博士号取得&留学で通算5~6年かかるという計算だ。つまりなんとかして研究者の「免許」をとったところで、だいたい三十路前後。
三十路にさしかかった研究者の卵はこれから数年間で、バイトなりポスドクなりしながら、研究の業績を積み、非常勤講師をしながら教育の実績を上げ、一年に一回あればラッキーなアカデミックポストの募集に応募を続けることになる。もちろんその募集には他の優秀な研究者たちが100人単位で応募してくるし選考の条件もさまざまなので、最終的には実力だけじゃなくて運だ。2、3年でアカデミックポストにつけた人は超ラッキー。5,6年以内に常勤の職を見つけられればいいな~というところ。そうすうると30代半ばになる。100人単位の応募者蹴落としてやっと大学の講師になれました。大学側も教員のポスト減らされて困っている時に待望の若手の登場です。雑用、教育、研究に八面六臂の活躍を期待されるわけね。
そうやって仕事がんばって数年がすぎたときふと気づけば、出産のリミットを超えてしまっている。
ものすごく頑張ればこの人生の中でも出産ってできると思う。でも、周りを見てると同年代か少し上で結婚・出産に至っている人は、博士課程かポスドクの時点でキャリアから降りてる。もっと上の世代になると「結婚すべし」「出産すべし」っていう価値観というか社会的プレッシャーがあったから、女性研究者でも子供をもっている人は多い。でもね、話を聞くと壮絶なのね。「女」ということで表立って差別はしないかわりに「母親」ということで差別する。出産したことそのものを隠し通した人もいたとか。
そうやって上の世代ががんばってきたから、我々の世代が男女間のギャップを感じないで研究に打ち込めるっていうのはわかっている。だから研究を口実に結婚出産をしないということに申し訳ない気持ちにもなる。ただ一方で言えることは、上の世代は今よりずっと就職しやすかったということだ。昔は博士号もとらないでよかったし、キャリアが若干出産で遅れても、十分アカデミックポストを見つけることができた。あるいは定職についてもまだ若かったから、仕事が落ち着いてから出産することも可能だった。でも今はそうじゃない。博士号とって研究業績の本数(質じゃなくて)を積み上げないと、スタートラインにすら立てない。言ってみれば「研究者の修業期間」が昔と比べ物にならないくらい長くなっている。それを普通にこなしているだけで、出産リミットはオーバーだ。
博士課程からポスドクにかけてはいろいろな意味で不安定だ。金銭的な面でもそうだし、明日どこで何をしているかもわからない。ポストがあればどこにでもいく、というスタンスでないと就職は難しい。僻地の、小さな大学の任期付講師の職にすら、応募者が殺到する時代だ。「定職ありません」「どこに住むことになるか分かりません」「いつ就職できるかもわかりません」この状態で結婚できるだろうか。いや、できまい。結婚どころか恋人をつくるのも難しい。ただでさえ高学歴(学校歴のほう)で敬遠されるのに。
それでも男性はいいなと思う。30歳代なかばから40歳代にかけてアカポスについたころに結婚して子供持っていいパパになれる。産休とる必要ないしね。出産の予定があるとか、小さな子供がいるということが採用の妨げになることもないし。
でも女性は? まず20歳代後半から30歳代前半にかけての「産みどき」にワープア状態になる。このときに結婚していまどきめずらしい専業主婦しながら研究続ける、といっても実際この激しい競争のなかでそういう人はふるい落とされて消えていく。じゃあアカデミックポストについたときに出産できるかっていったら、それも普通の心臓のひとには難しい。上にも書いたみたいに、待望の若手として研究室の期待と雑務を一身に背負っているのに、就職して1-2年で「じゃあ、産休、育休とりますんでよろしく♪」と言えるだろうか。(言える人もいるらしいよ。そしてそのせいで、その後のアカポス募集のときに女性応募者が敬遠されることに… 大学講師の採用面接で「出産の予定は?」と聞くとかアカハラも甚だしいんだけど、それだけ大学側も厳しい状況にあるということのあらわれでもある)
まとめ
1.「私、研究するから職に就くまで養ってね♡収入ないけど忙しいから、家事育児協力してね。遠距離別居婚になるかもだけど我慢してね」と夫に言える
2.アカポスについた時点ですぐに仕事投げ出して産休とって出産できる
このどちらかができるくらい心臓に毛が生えてないと、女性研究者が結婚というか出産するのは難しい。
なんとか出産に辿りつけたとしてもただでさえ忙しい仕事こなしながら子育てしていくのは難しそうだな~と思う。子供は大好きだし本当に欲しかったけど、自分はたぶん無理だ。それは研究がそれだけ大事だ、ということなので単に自分のわがままなんだと思う。私は研究を犠牲にしてまで子供を持つことはできないということだ。研究者仲間の男性がその両方をやすやすと手に入れていくのをみると、少し悔しいというか悲しい気持ちになるけど。
出産、育児して社会に貢献できなくてごめんなさい。そのかわり一生研究がんばります、教育もがんばります。そういう形で社会に貢献していこうと思うので、子供産めなくても許してください。一応の「研究者」になるまでにどれだけの支援を大学や国や諸々の機関から受けてきたかということを考えると、自分が研究を捨てて家庭を持つということはモラルとして許されない気もするのです……
以上、女性高学歴ワープアの苦悩をお伝えしました。そんなこと言ってないでとっとと論文書けよ、明日の飯もおぼつかないぞ、という悪魔だか天使だかの声が聞こえてきたのでここで筆を置かせていただきます。
ラジオを主戦場にしてる伊集院光が孤軍奮闘してる話。それを複雑な気持ちで応援し批判する。
良くも悪くも。
自分を批判する人の顔色を伺いながらトークするようになった。
密室感が感じられる。
信頼出来るうちわの3,4人だけの世界に没頭し夢中になってトークしてる伊集院光。
もともと大人数での立ち振舞は苦手で、大人数の番組でも他の人との絡みでは笑いを取りに行くタイプではない。基本的に自分一人で何とかするタイプ。
伊集院光のばらえてぃばんぐみというDVDを見たけど、ラジオでは笑える偏執 的なところが、伊集院光の企画、仕切り、売れてない後輩芸人たちとの絡みでは笑えない。
やっぱりラジオが一番向いてる人だと思う。本人がラジオだけでは不満だとしても。
これからはラジオ、音声だけのメディアには可能性が十分にあるはずなのでラジオに集中して欲しい。
最近のラジオのつまらなさは伊集院光が視聴者に叩きつける感じがないからだと思う。
しかし伊集院光の気持ちもわかる。(ただのリスナーであるわたしからそうぞうつくだけのはんいだが)
なぜ叩きつける感じがなくなったのか?
理由
昔の伊集院光が想定するリスナーというか、放送の反応が帰ってくるリスナーは基本的にメールかはがきという方法だけだったと思う。
分類すると
1 ライトなファン
2 熱心なファン
3 異常な熱を持ったアンチ
それくらいだったと思う。
2chまとめがネット市民の総意であるような錯覚が起きている2013年では、
4 かなりクールなリスナー (まとめサイト的な価値観のネット民)
2chだけの時代では、閲覧のしにくさからアングラ感があったがいまではまとめサイトによりポップになり
ネットの中でのまとめ的な価値観の声が大きくなってきたと思う。
日本の不況によってみんな余裕が無いことも大いに関係あると思う。
わたしも絶賛ニート・・・・・・・いや無職、失業中だ。 20代だが。
4の層に伊集院光は気を使っていることは明らかな気がする。
2013年1月21日の放送で、まとめサイトのネタにする芸能人の代表格である斎藤佑樹投手に対する言及をした伊集院光。
この放送をした伊集院光の気持ちは「ネット民の斜めから見た意地悪な視点がこれ以上一般化すると表現する側としてはやりにくくてしょうがない」ということだと思う。
また 1、ライトなファンも4の真似をする危険性がある。そうなったらやりにくくてしょうがないだろう。
そうなると味方は2だけだが、それでは閉じたコミュニティになってしまい、狭いラジオになってしまう。
だからその流れを少しでも止めるために斎藤佑樹投手に対するフォロー≠まとめサイト的な価値観に抵抗。をしているんだと思う。
この伊集院光のラジオの傾向は2012年から顕著だ。ネット民にネットまとめが定着しきったのもそれくらいだと思う。
しかしその方向性(4の層に伊集院光は気を使っていること)は間違っているとは言えないのが歯がゆい。
(ネットに疎く、炎上の怖さを知らない田村淳とは違う。ここはファン層の違いかも)
4の層に気を遣う伊集院光だが、それによる弊害としては
1 トークの暴走、爆発力の低下
が大きな要因だと思う。
1 本人
2 構成作家
3 ディレクター
この三人の空気感 アイコンタクトみたいなものによっていたんだと思う。
しかしいまの伊集院光は本人による自主規制が多すぎてトークが爆発しない。
トークを爆発させた果てにある4の層の反応を気にしてる。
結論? ないっす。おれが考えることじゃない。
眠れなかったんです。・・・・・・・・・・・・・後悔はしてない。
2 河野はつまらない。芸人には向いてない。 ヒットマンはボケとツッコミが逆だった。それに気づけない時点で。。。。
3 つまらん河野を鍛えているのは伊集院光の優しさだと思うが、リスナーは求めてない。あと後輩との絡みが下手。それは伊集院光の
異常に発達した細かさ(論理的には正しかったとしても)、人に対するこころの開かなさを後輩が知ってて、ビビってるのが見ててわかるから。
???
いや私の書いたことにかすりもしないレスをされると
不安になるんだけど。
「なんで全然別の話をしてるのか」
「なんでそれを私に聞いてるのか」
が分からない。
そうなの?
とうぜん、そうやって育った子どもたちは、コミュニケーション能力どころか、会話そのものを拒否すると思うけど
ん?
・まずこの質問は、
実際の学校教育についての話なのか、
どっち?
・前者であれば
・後者であれば
そもそもそういう教育方針があるという話を私は聞いた事がないし信じられない。
どんなダーク教育委員会ですかっていう。
教師がイジメに参加してるとすれば、その当人の資質の問題じゃないかと思う。
こんな答でどうでしょう。
なぜ求める人材像に
「仕事に対するやる気と素質があり、学習能力をもちあわせ、仕事仲間と取引相手とうまくやれる人」
と書かないのだろう、と思ってしまった。
就職活動をしている。
ここ一ヶ月で世の中にあふれるたくさんの企業の新卒採用ページで「求める人材像」を読んだところ、
「グローバルマインドがある」「志に向って突き進める気概がある」「チャレンジ精神を持っている」「覚悟がみなぎっている」「時代を作りたい」「世の中を変えたい」
このような思いや、もしくは資質を持っている人を多くの企業は求めているようだ。あとは協調性・行動力・責任感・好奇心・企画力…といったものが多く見受けられる。
要するに「上昇志向で、社会に対する問題意識を強く持ち、チームで成果を出せる人」を求めているのだな、と読み取ったのだが、
この人材像、ごく平凡な普通の学生にとってはハードルが高いように思う。現状幸せで楽しければいいや、と思っている学生はたくさんいると思うので。
企業がそういう現状主義・平凡主義・言われた仕事しかしないような人間を雇いたくないということはわかるし、
大学生の意識の低さももちろん問題ではあると思うのだが、これは現状の教育システムではなかなか解決できないと思うので置いておく。
大半の企業は、「仕事をまっとうにでき、企業に貢献できる人材」を求めているのではないのだろうか?
求める人材像に美辞麗句を尽くす弊害は、本当は意識が高くない学生が意識の高いふりをすることだ。
民主党のなにがまずかったって、マニュフェストを守れなかったことだよ。
財政状況からすると、3年前たとえ自民党が政権をとっていたって、やっぱり増税のオンパレードだったと思う。
マニュフェストを比べる気も起きなくなるのも当然。
ないところから予算を捻り出すとか、プライマリーバランスをプラスにするとか、そういうのは大変だけど、数に任せて法案通せばいいんだもん。
当面は自民党に幻滅はしないよ。
リーマンショック級の経済危機や、東日本大震災級の天変地異が起きない限り、政権があたふたすることはない。
次の参議院選までおとなしくして、衆参両方で過半数を取れば、任期満了までボーナスステージだよ。
まあ、なにが起きても大丈夫だよ。
中国の経済のハードランディングの煽りを受けて株価急落したり、ユーロ危機の煽りを受けたりして超円高になったり、公共事業乱発で2000兆くらいまで国の借金を膨らませたり、にっちもさっちも行かなくなってお腹が痛くなって辞任、なんてことはこんだけボーナスステージなら有り得ない。
自分の意志の弱さをナマポ問題にすり替えてるだけだろ、これって。ナマポ問題はそれはネット叩きの格好の材料の呼び水になるんだけど、この医師も決して一人の力で医者になれた訳じゃないんだから、それはそれで周囲の人々がこの医師に今までつぎ込んできた有形無形の資本はどうやって取り返すの?って問題もある。この医師に投下されて来た資本はもちろん公的なもの、公的補助を受けたものもあるはずだ。別にこの医師個人一人を責めたって解決するわけではないが、はてさてナマポ問題がこの問題の要因なのか、医師個人の資質の問題なのかは、慎重に弁別を要するだろね。