はてなキーワード: 資質とは
と、いうのは何年か人間をやってみてつくづく実感した事だ。
小学生の頃は漠然と、「まあ、大人になればなりたいものになれているだろう」と考えていた。
そんな私が、思い描いていた己の夢に対して、何かしらの努力を積み重ねたかというと、そりゃあ多少は頑張った事もあるが、現実はほぼゼロに近い。
ギャグ漫画家になりたいと考えていた。
でも、私は「ギャグ」がどういうものかなんて一度も研究した事が無い。落語もお笑いも今一つ興味を持てないで大人になった。
そもそも、漫画の描き方を勉強した経験もないし、絵の練習をまともにやった事すら無い。
子供の頃はよくアホ面で絵を描いていた。算数と社会の授業が嫌いだったから、ノートや教科書の隙間によく下手糞な落書きをして、先生に見つかっては呆れ顔で注意されていたっけな。
中学校に入っても絵を描く意欲は持っていた。とても上手な先輩が居て、彼女の絵を見るのが好きだった。自分もこういう絵を描けるようになりたいと思った。
美術部に入って、真面目に勉強しようとは考えていた。でも、身体の弱い私を心配した家族が担任と相談して決めた結果、強制的にサッカー部に入部させられる事になった。怒られるのが嫌いだったから、部活動には真面目に励んだ。いくら頑張っても運動音痴なままだったけど、卒業式の帰りに、顧問の先生に引き留められて、抱き締められながら「よく頑張ったな」と言われた時は、なんだか報われた気がして、泣きそうになった。
いつの間にか絵を描かなくなった。自然に。多分、部活動に夢中で、余裕が無かったから。
高校生になって、独創的で可愛くポップな絵を描く少女に出会った。彼女は私のことが嫌いみたいで、近寄ると冷たい対応をされたけど、私は彼女の事が嫌いじゃなかった――というより、私は彼女の絵が好きだった。
影響されて、久し振りに絵を描いた。でも、描いても描いても納得が行かなかった。絵を描こうとするたびに、絵を描くのがつまらなくなって行った。
彼女みたいな絵を描きたい。それだけだったのに。
私は絵を描くのをやめた。
物語の世界に浸るのはとても好きだ。だから、アニメも見るし、漫画もよく読む。ゲームも頻繁にやる。
私は眼があまり良くないし、集中力も人より低いと自認している。だから、映画だけは、本当に琴線に触れたときしか見ない。
閑話休題。
中学校で一度だけ、鬱病になって引き籠っていた時期がある。復学したときに、クラスの担任が新任の若い先生になっていた。
彼は私と仲良くしたかったみたいで、よく趣味や好きなものを聞かれていた。でも、特に思いつかなかった。その時期は本当に、何にも没頭できず、打ち込むことすらできず、死んだ魚の目でぼうっと生きていた。好奇心すら砂塵ほども存在しなかった。
さて、新任の先生は本と映画がとても大好きな人で、私にもそういう自分の趣味を勧めて来た。はじめて渡された本は、有川浩の「海の底」、「フリーター、家を買う」、「シアター!」の三冊。
「気が向いたときに呼んで欲しい」――そう言われた私は、放課後の自室で、ベッドの上に横たわりながらぱらっと本をゆっくり捲りながら、「海の底」を読み進めて行った。
とても、面白かった。ただの文字列が鮮明な映像に変わって行く感覚は、台詞のひとつひとつが声をとして再生されて行く感覚は、とても奇妙奇天烈だけど楽しくて、己の感性に訴えかけてくる何かが、確かに私の胸を惹き付けて堪らなかった。だから、私は次々と本を読み進めて行った。
それから、私と先生の奇妙な関係は卒業まで続いた。おすすめの本を貸して貰って、私も自分で買った本を先生に貸して、読み終わったあとにお互いの感想を交換する。
自然と、私の読書量は増えて行った。教科書を読むのは嫌いだったけど、小説を読むのは難の苦も無く出来ていた。
高校に入ってからは幾何か落ち着いたけど、それでも本を買って読む習慣は、いつまでも続いて行った。
本を読み耽る趣味が出来て、私も何かしらの物語を書きたいという欲が出て来た。
見様見真似で文章を書いて、それをインターネットにいくつか上げた。
はじめは、酷評もアドバイスも素直に受け止められていた。だけど、自分の文章に自分なりの拘りが出来て行くたび、評価が怖くて誰にも見せられなくなって行った。
ランキング上位に来ている小説を読んで、なんでこんなものが? と考えるたび、自分の才能や資質を疑うようになる。
そして、何の努力もせず、単に良い評価だけを得たかった己を自覚して、恥じ入って、とても死にたくなった。
もしかしたら、あの駄文は、とても拘ったシナリオ構築のうえで成り立つ、とても凄い小説なのかもしれない。
あるいは、このサイトの客層やニーズを考え、需要のある設定とキャラクターを考えて作られた、評価されるべくして評価される小説なのかもしれない。
私には、とてもそんな事はできない。私は自分の好きなものしか書けない。書きたくも無い文章を書くのは、苦痛でしかないし、文章を書くという行為は多大な体力を消費する重労働だ。
案ならいくつでも浮かぶ――だけど、推敲する度に、これで良いのかという疑念が湧いて来る。読み返す度、自分の文章がつまらなく感じて行く。ジレンマの中で、私は筆を折った。
今でもたまに、何かしらの物語を書きたくなる時がある。
そのたびに、得るものが欲しくて小説を読み始める。義務的にはじめた読書は、とても苦痛に感じてつまらない。読みたくて買った本を棚にしまって、現実逃避をはじめてしまう。心の中に生まれたどろっとした何かが、気分を悪くする。
ギャグ漫画家になりたいと、今でも考えている。
絵が下手でもいいから、ギャグのセンスが大衆受けしなくてもいいから、何かしらの何かを遺したいと思っている。
努力を継続するのには、才能が要ると思う――そんなのはただの言い訳だ。そんなことは、分かってる。
ただの怠惰な人間の言い訳だ。無産の人間が尤もらしくほざいたところで、現実は何も変わらない。
でも、言い訳をしていないと、自己正当化をしないと苦しくて何もできない自分も居る。
どうすればいいのだろうか。もう、何も分からない。
取り敢えず、気が向いたら絵を描こう。そう思った。
正直に言うと私は夢見りあむのことが嫌いだ。大嫌いだ。なんで嫌いなのかはっきりさせるために夢見りあむの嫌いなところを書き出して分析したメモなんかも残っている。真剣に嫌いだ。
全部は書ききれないので省くが、アイドルという職業をなめているのか? とか、生まれ持った資質(胸がデカい、顔がカワイイ、実家が太い)のおかげで今まで自分が享受してきた「得」を過小評価して、マイナスの側面にだけスポットを当ててぬるく生きていそうだ、とか、夢見りあむが登場してからしばらくずっとそういう(おそらく嫉妬込みの)負の感情がぐるぐるしていた。
しかし同時に、夢見りあむが好きな人もたくさんいるだろうなとも思っていた。
こういう言い方だと語弊があるかもしれないが、「たかがフィクションのキャラクター」である夢見りあむにここまでの強い感情を持ったという事実、私の「夢見りあむが嫌い」という感情が、むしろ夢見りあむというキャラクターの持つ「力」を私自身に証明することとなった。
私のTwitterにも「夢見りあむ」という新人アイドルを愛し、楽しんでいる人たちがたくさん流れてきたし、そういう空気に水を差すのは本意ではなかったから、夢見りあむについて積極的に言及することは避けてきた。
だが、今回の選挙の夢見りあむ周りの動向を見ていて、夢見りあむ(とその周囲)に対する感情が爆発したのでここに書いている。
人気投票や選挙というのは、(大規模なものであればあるほど)「空気を作ったものが勝ち」という形になりがちだと思う。だから、界隈の空気を見ている中で、素朴に「今回の総選挙は夢見りあむが上位になりそうだな」「下手したらCGになるかもしれないな」という予感はあり、今のところその予想は当たっていて、それについて特に衝撃というものはなかった。なかったはずだった。
それなのに、夢見りあむが上位にいることが、なぜかとても悲しく思えた。
まず、夢見りあむというアイドルに対する雑感を述べる。
夢見りあむは、表面的には現代の世相を強く反映したアイドルであると思う。所謂「メンヘラ(もどき)」や「サブカル」を全面に押し出したアイドル。髪色や服のデザイン、ドルオタ設定など、絶妙なリアリティバランスの上に成り立っていて、それゆえに彼女と共通項を持つ人間の感情やらなんやらを仮託されやすい。「夢見りあむ〇〇してそう」みたいなオタクの意見には彼ら彼女らの実体験が多分に含まれているように見える。そういうことを狙ったキャラ造形であると思うし、その試みは上手くいっていると思う。
彼女はアイドルの持つ「使い捨ての消耗品」としての面を認識したうえで、それでもアイドルになろうとした人物だと思う。
「アイドルは使い捨ての消耗品」という夢見りあむの発言は悪い意味でよく取り沙汰されるが、これも「アイドル」というものが確かに持っている側面には違いない。そしてこれは、夢見りあむが「こうなりたい!」という強い憧れからでなしに、完全なる消費者、客の目線でアイドルを見ていた時代があるからこその発言であると思う。
そりゃ若さゆえの見通しの甘さもあっただろうし、「ちやほやされたい」という、「なめ腐った」と言われてもおかしくないような動機、恵まれているのにつらいだのやむだのほざく甘ったれた態度に、嫌悪や憎悪を抱く気持ちは痛いほどわかる。私もそうだから。しかし、そんななめ腐った動機で、負の側面を認識しながら、そのうえでアイドルとなった夢見りあむには、その覚悟に見合った輝きが備わっているとも思う。私は大嫌いだけど。
ここで総選挙に話を戻す。
Twitterなどにおける夢見りあむの扱いを見ていると、総選挙で夢見りあむが上位に食い込んだことに、某五条さんや某コイルやの騒動のときのような大衆心理が全く影響しなかったとは、残念ながら思えない。
勿論、夢見りあむに投票した人が全員愉快犯的な感情でそれをしたわけではないだろうと思う。真剣に夢見りあむを愛して夢見りあむに票を投じた人だってたくさんいるはずだ。
しかし、愉快犯の浮動票が流れなければ、夢見りあむがここまで上位に食い込むことなどなかったに違いないという確信はある。
そして、浮動票を投じた層の大半は、きっと一年も経てば夢見りあむのことなんて忘れて別の楽しいコンテンツで遊んでいるのだろうなと思う。
今回夢見りあむに投じられた浮動票は、多くの人々から夢見りあむが「使い捨ての消耗品」として扱われていることの証左であると思うのだ。
「アイドルは使い捨ての消耗品」と口に出した夢見りあむがまさしく「使い捨ての消耗品」として利用されていることに、痛快な皮肉を感じている人もいるだろう。
私は夢見りあむが大嫌いだが、夢見りあむのこの皮肉な動向に対しては苦しさを覚える。
夢見りあむの一連の発言を見るに、彼女は確かにクズで意識が低くて甘ったれたクソ女ではあるが、オタクの目線や心理に対する主観的な理解と、アイドルという仕事に対する客観的な理解を持った新しいアイドルであるとも思う。
「オタクちょろい」と言いながら、そのちょろさが飽きやすさの裏返しであることを彼女は理解しているはずだ。理解しながら、それでもその一過性のちやほやを喜ぶ。夢見りあむにはそういうところがある。
「炎上でもいい!目立ちたい!」は紛れもなく彼女の本心だろう。様々な事情のもと歪んだ承認欲求の正直な発露だろう。しかしそれは、一時的に満たされてもそこから先に繋がることはなく、また新たな飢餓を生む「欲」でしかなくて、「何に代えても実現したい夢」ではないはずだ。「炎上『でも』いい」ということは、炎上でない方法で目立つ方が嬉しいということなのだから。
だからこういう「その場のノリ」みたいなもので唐突に上位になってすぐ飽きられるネタ枠でいるうちは、夢見りあむ本人は永遠に満たされない、穴の開いたコップのままのように思えて、それが悲しかったのだと思う。
「炎上アイドル属性」とか、「アンチの行動が全部りあむの燃料になる」とか言って夢見りあむを持ち上げてる連中は、夢見りあむについて真剣に考えたことがあるのか? 夢見りあむが何を考えているのかとか、夢見りあむが何を望んでいるのかとか、そういうことに欠片でも興味を持ったか? 夢見りあむのことなんて流行りのネットのおもちゃぐらいにしか思ってないんだろ? シコれる野獣先輩程度にしか思ってないだろ?
どうせお前ら一年後には夢見りあむのことなんてすっかりさっぱり忘れてるだろ。私もきっと忘れてる。私は「嫌い」というところからそれなりに真剣に誠実に夢見りあむに向き合ったつもりではあるけれど、それでもやっぱり一年後には忘れていると思う。
でも、たぶん年に一度くらい、命日にふと故人を思い出すように夢見りあむを思い出すんだろうなという予感もある。悲しい。
元増田ちゃんの言ってることはわかるわ。その手の説教って嫌だものね。やる気がないなら帰りなさい!→帰る→怒られる。おおジーザス!
でも今回の件、それとはちょっと違うと思うのよね。たぶんもっとずっとシンプルよ。
まず"自分の目論見が外れたのにシームレスに説教に移行する人間"が登場人物にいないこと。togetterのまとめを読んでも、参加者のだれも腹筋男に説教してないわよね。内心ドン引きはしてるけど。
次に、元増田ちゃんはブコメを対象にいろいろ言ってるみたいだけど、そこに"自分の目論見が外れた"人が多分いないこと。全員外野よ。
ブコメでの説教乱舞はね、単純に腹筋男がムカついたからぶっ叩いてるだけなのよ(個人の感想です)。
彼の言動は「妊婦とか大変でもなんでもないじゃん(笑)」みたいな意味にとられちゃったってわけ。まあ実際にそうだったのかもしれないけど。
つまり、何か(ここでは妊婦)をディスってる男がいて、そしてそいつが批判なり非難なりされてるという、シンプルでありふれた構図なの。
あと、元増田ちゃんの書き方では"妊婦体験の企画者/実行者"と"はてなブックマークでコメントしてる人"を同一視してるみたいに読めちゃうわ。わかってると思うけれど別人よ(たぶん)。
たとえば↓
「うわああああ辛い!動きづらい!」
「そうでしょうそうでしょう、妊婦は6カ月ぐらいはこんな感じなんですよ(フフン)」
て展開を想定してたわけじゃん?
わからせられなかったんだよ。
なら単に準備不足の失敗じゃん
そこで
「お前は想像力が無い!」って話に移行するのずるいだろ。
そっちにいくなら体験講習要らないじゃん。
その展開を予想していた(かもしれない)人も、わからせられなかった人も、単に準備不足で失敗した人も"妊婦体験の企画者/実行者"なの。
そして「お前は想像力が無い!」って話をしたのは"はてなブックマークでコメントしてる人"なの。
別人なの。
移行してないの。
あとは↓もかしら。
はなから相手の想像力を見下して体験でねじふせるイベントなのにそこでも失敗しました、ってだけじゃん。
第三者としてもガキっぽい父親を非難する前にイベント側に反省と再考を求めるしかない所だろ。
ガキっぽいからって父親への非難を第一にするのは筋としておかしいわ。
この一件で悪いのはイベント側。
イベント側が悪い。反省するべき。というのはイベント側がこの父親に説教したという認識でなければ、なかなか出てこないように思うのよん。
だって、満足な妊婦体験をご提供できませんでしたってのは別に悪いことじゃないでしょう?想像力を含む個人の資質に左右されず妊婦の大変さを誰しもが体験できる方法なんてないんだから。
それともVRかなんかで開発すればいいのかしら。これが後の大ヒットタイトル"妊婦オンライン"開発のきっかけであった……
元増田ちゃんがかつて、ひどい指導法の教師にあたってしまったということには深く同情するわ。
でも説教の類型として、あなたがそのクソ教師から受けたものと、今回の件においてブックマークコメントで見られたものは、概ね違うものだと私は思うの。
確かに博士課程3年間、学振落ち続けた人間(人文系専攻。当時は合格率15%とかそんなもんだった)としては、そんだけわかりやすい実績上げててなんで??感すごいある。
彼女だけの話でもなく、受賞経験とかはないけど、ポスドクで非常勤講師やりながら、論文や本書いて、研究会主宰とかもやって、ちょっと話せば教育者としても優れてる人だなってわかるような人が、すぐテニュア決まるだろって思ってたのにずーっと決まらないまま50代突入とかしてたんで、ほんとこの世界はわからん。怖い。
研究に向いてそうな学生いても、大学院行ってみたらとか絶対言えない。
留学生はそもそも院進前提で来てる人多いんで、日本の人文系大学院は留学生だらけになってる。残念ながら当然としか言いようがない。
それにしても、史学系って、ガチ公募どれくらいあるんだろうね。
院生&非常勤講師時代はいまいちよくわかってなかったけど、教員側の立場になってあれやこれや見聞きしていると、大学院によって、植民地(若手研究者を送り込める枠がある大学)があるとことないとこあって、ついでに同じ大学院でも専攻や師匠によって、コネ回せるとこと回さない(回せない)とことある、らしい*。
コネ回すことができるとこでも、空きがなければどうしようもないので、全員に回せるわけではなく、優秀な人、貢献してくれた人からということになるわけなんだけど。
どれだけ実績があっても、(1)専門領域でのガチ公募が極端に少ない(朝日新聞の記述で、履歴書読んだ跡がそもそもなかったこともあったってあったけど、既に採用者決まってるアリバイ公募ってことだよね)(2)出身大学院または師匠がコネ回さない、が重なれば普通に詰むよね。
あとは研究会とかで自力で人脈広げて、呼んでくれる人を作るかどうかくらい?
いうて、コネで押し込めるのって学部長級以上とかだし、そのへんの人らは学務忙しくて研究会とかそんな出てくる暇なさげな気もするけど。
あとは退職する教員が後任推薦することもなきにしもあらずだからそのへん? 後任推薦NGのところも普通にあるんでなんだけど…
専門によっても違うし地域や大学によっても事情は違うと思うけど、ガチ公募をもっと増やして、とりあえず「研究業績ある」「学生の面倒がみれる」「最低限学務もこなせる」「コンプラ守れる」あたりが揃っていれば就職できるチャンスを増やすことが、優秀な研究者育てる鍵になる予感がする。
ちなみに出身地の国立大で、自分の専攻の公募出ないかなーと10年以上ガン見してましたが、一度も公募出ませんでした!!
※自分はガチ公募で勝つしかなかった。年数件くらい出る自分の専門領域とかぶる公募に20回以上応募して、面接まで行ったのが3回、4回目に呼ばれたところに決まった。ちなみに面接では研究者としての資質もそうだけど「一緒に仕事してうまく仕事回せていけるか」が見られるという印象。あとで聞いたら、実は自分より優れた業績もってる候補者もいたんだけど、そちらが面接で引っかかるところがあって、結局自分になったらしい。(久々に書いたらはてな記法の脚注の付け方がわからんくなってた…)
https://221b.jp/h/sign-01.html から引用:
シャーロックホームズはマントルピースの角から瓶を取り、しゃれたモロッコ革のケースから皮下注射器を取りだした。彼は細く白い神経質な指で繊細な針を調整し、左手のシャツの袖口を捲り上げた。しばらくの間、彼は無数の刺し傷で穴だらけになった筋張った前腕と手首を考え込むように眺めていた。遂に、彼は注射器を突き刺して、小さなピストンを押し下げ、満足げな長い溜息と共にビロードで縁取られた安楽椅子に沈み込んだ。
何ヶ月もの間、私はこの行為を一日に三度目撃していた。しかし私は、何度見ても納得できなかった。それどころか、日が経つにつれて、この光景を見るとさらにイライラするようになっていた。そして夜が来ると、私は自分に抗議する勇気がないと考え、良心の呵責がつのってきた。私は、この件に対して意見するべきだと、何度も決意を固めていた。しかしホームズには、冷たく平然とした雰囲気があり、あえて意見を言うのはかなり難しかった。彼の素晴らしい能力、見事な手法、私が見てきた驚くべき資質の数々、これらすべてが、私の気持ちを臆病にし、彼に介入するのを思いとどまらせていた。
しかしその午後、私が昼食の時に飲んだボーヌのせいか、彼の極端な緩慢さによって、いつにも増して怒りが大きくなったせいか、私は突然、これ以上我慢できない気になった。
「コカインだ」彼は言った。「七パーセントの水溶液だ。やってみるか?」
「絶対やらん」私はぶっきらぼうに答えた。「私の体はまだアフガン戦争の衰弱から回復していない。これ以上の負担には耐えられん」
彼は私が激しく怒っているのに、笑顔を見せた。「多分君は正しい、ワトソン」彼は言った。「この効果は肉体的には悪いと思う。しかし、精神が活気付いて明瞭になるので、副作用は小さなことだと判断している」
「しかしよく考えろ!」私は必死に訴えた。「どれだけの損失を受けていることか!君が言うように、頭脳は覚醒し、興奮するかもしれない。しかしその病理学的に不健全な作用は、細胞を大きく変質させる。良くても、不可逆の萎縮が残る可能性があるのだ。それに、どれほど不快な反動が来るかも知っているだろう。これは全く割に合わない行為だ。なぜ君は単に快楽を貪るために、自分に授けられた凄い能力を失う危険を冒すのか。いいか、僕は一人の同僚として言っているだけではなく、医者として、その健康に一定の責任がある人間に対して言っているんだ」
彼は感情を害したようには見えなかった。それどころか、彼は両手の指先を合わせ、会話を楽しむかのように椅子の肘掛に置いた肘によりかかった。
ただ、資質のないIT関係の会社が上手く行かず、とにかく儲かるということでゲームに興味が無くても手を出す例は、特にサイバーエージェント系周りにうじゃうじゃある。
自分は28歳の男性。出会いは6年前で同じ趣味の飲み会で一目惚れだった。
社会人なりたての自分なんて無理だと思ったが、猛アタックの末に付き合うことに。2年後には同棲もはじめた。年齢のこともあるし、早めの結婚も考えていた
同棲と同時に彼女の病気、発達障害を知った。それまで彼女は実家ぐらしだったので、彼女のプライベートを知らなかった。
部屋は汚れ、時間にルーズ、スケジュール管理もめちゃくちゃ、基本何でも後回しで、金銭感覚は崩壊していて、気分屋で凝り性で飽きっぽい。今となっては『こんなクズがなんで生きているんだ?』って感想。
一番堪えたのは『感謝の無さ』だった。発達障害の人は感謝を表さない。やってもらって当然みたいな面をする。自分もサプライズとか嫌いだが、ちょっと前に興味持って盛り上がった物を1週間後にプレゼントしたら、素っ気ない態度。すっかり飽きていた。盛り上がっている時に即座に行動に起こさなきゃ喜ばない。ただただ疲れて、その割に大して喜んでくれない。部屋の汚れとか生活態度以上にキツかった。一緒に喜びを共有出来ず一方だけが空回りするのは想像以上に堪えた
彼女自身も同棲から1年くらいから「冷めたから分かれたい」→「やっぱ好き」を半年~1年周期で言うようになり、関係も曖昧に。趣味はころころ変わり、その都度のめり込み、いつの間にかそんな彼女のカバン持ちみたいになった自分。いくら気を回しても正解は無く、大して感謝もされない日々。
半年前、彼女は職場の再編で職を失うことになった。過集中と一芸特化でスキルはあるのだが、如何せん社会人としての資質は無いので、職場としては体のいい厄介払いになったのだろう。(職場の役員受けは良いようだけど、直属の上司等、現場の受けは最悪)
ちょうどいい機会なので、自分も別れた。彼女は大して文句も言わず実家に戻った。荷物は送ってあげた。未だに転職先は決まってない。
見た目は良いので今後も恋人は出来るだろうが、結婚は多分無いだろう。残りの人生、一生暖簾に腕押しで生きていける人間は多くない。世間は発達障害擁護ムードだけど、症状の大小あれど自分は無理だった。カサンドラ症候群にならなかっただけ運が良かった。今後も助けたいとは思わない。どうせ助けたって相手が自分で良くなろうと思わないし。
広告の変遷を見るとよくわかる
バレンタインなんかと同じ
前に「子供欲しいと思わない」みたいな増田読んでふと思ったから書くぞ。
まず私は今子猫を飼っている。すごく可愛い。成猫の方が好きだから健康に育ってほしい。
でも「子猫飼ったよ」と言うと「子猫は可愛いよね」って人がたまにいる。私はよくわからないので調べたら、子猫や子犬の時しか飼わないで捨てる人は結構いた。ペットショップも大きくなったら売れないから処分のところもあるらしい。(大きい時からだとなつかないとかあるからかもしれないけど)
何が言いたいかと言うと、子猫や子犬しか愛せない人はいる。そしてその人はペットを飼う資格がない。飼った以上ペットを死ぬまでお世話するのは義務だからだ。(どうしようもないこともある)
そしてその子猫や子犬しか愛せない人がいるなら、子供しか愛せない人がいるんじゃないか?と安直に思った。実際子供を育てていると「そのぐらいが一番可愛いよね」とかよく言われるらしいし。
子供が可愛いと思え続ける時期はいつからいつまでっていうのは人によって違うだろうけど、「可愛いから欲しい」って言ってる人の子供がオッサンオバサン手前までいっても親としての愛情は持続しているのだろうか。
自分の子供を虐待する親も虐待する為に子供をもうけたわけではないだろうし、親としての資質みたいなものって子供産まれる前にわかんないのかな。
◎書いた人の背景
・待ち合わせ時間は守る方。
・周囲は遅刻癖のある人間が多いが、付き合いが長いやつに関しては諦めている。
・子供の頃は3分早く友人宅に着いてもその場で待ち、申告した時間丁度にインターホンを鳴らすことに愉悦を感じていた。
・とはいえ自らも時折遅刻する。結婚式でも危なかったことがある。
◎案件
日中、Twitterで遅刻常習犯からの言い分が炎上していた。
個人叩きや感情論につなげたくは無いのでリンクは貼らないが、下記のようになる。
""
・+30分はデフォなので許してほしい
・あと何分で着くか聞かれるけどとりあえず100%到着するのは確実なので安心してほしい
・最終的には時間じゃなくて「到着したか否か」で評価してほしい
""
これを受けて私のTLでもあれこれ言われていたが、基本的に感情論に根差しているように見えたのと、「遅刻常習犯は何故繰り返すのか」について冷静な分析が行われていなかったので個人の見識でここに書く。
なお、なるべく感情論を抜いて書いたつもりだが、タイトルにある通り比較的遅刻しない側なので、どうしてもバイアスがかかってしまうことをお断りしたい。
また、文面から友人関係かそれに準ずるフランクな関係と判断したので、「じゃあ退勤時刻も守れよ」という遅刻派閥の言い分は労働問題としてよそでやっていただきたい。
まずこの点を押さえておきたい。
対面でなら口頭で、LINEなどのメッセージサービスなら既読が付くかメッセージを送ることで相互に了解したことになるだろう。
これは形式的には口約束だが、民法上は口約束も契約に含まれる。
(参考:http://www.shinginza.com/keywords/kuchiyakusoku.htm)
書面が無いと言った言わない論争になるので重大な案件に関しては書面に残すというだけの話だ。
定義としては「当事者の合意によって結ばれる法律的行為」とのことだが、日常的には「互いの行為のやり取り」といった具合になる。
「作業の分担を依頼する」「店で金銭を支払って商品を受け取る」「所定の手続きを踏んで認可や証明書を得る」など、「ある行為に対して一定の行為で返す」といった営みが日々繰り返されている。
代金を支払ったのに商品が渡されない、代金を払わずに商品を持っていく、というのはどちらも社会的に問題視されるが、これは当人が無意識であっても契約違反だからだ。
我々は意図せず、契約が履行されることを前提として行動している。
この観点からすると遅刻は契約不履行ということになり、社会一般的には悪とみなされるだろう。
「社会一般的には」と但し書きしたのは、互いに遅刻を咎めないコミュニティに生きる分には問題ないからである。
ただ、本案件は異なる文明の衝突によって生じた炎上であり、広く認知された以上は社会一般的な見地から分析するのが妥当だろうという話である。
なお、「そもそも集合時間を了承していない」と述べる人物も想定されるが、LINEで既読をつけるなどした上でこう主張する輩は真正のクズなのでもうかかわらない方がいいと個人的には思う。
◎遅刻の原因はどこにあるのか
今回の件で個人的に最も気になったのはこの点だ。
遅刻という結果には必ず原因がある。
遅刻しない人間がいるということは、遅刻する人間には何か違う行動をしているはずだ。
私のTLや当該ツイートのリプライ欄にはあまりここに言及したものが無かったので、私個人の遅刻経験談を元に分析してみる。
様々な原因が挙げられたが、これを3つに大別することができると考える。
A:不注意
集合時刻を勘違いしていた、電車の到着時刻を勘違いしていた、集合場所をよく確認しないで赴いたら思いほか遠かった、などが該当する。
個人的にはこれが最も頻度として高い。
B:準備不足
着る予定だった服が見つからない、持っていくつもりのアイテムが見当たらない、財布や鍵が見つからない、などが該当する。
C:過小評価
バス停や駅まで案外時間がかかった、荷物の準備や身だしなみに予想外に時間をもっていかれた、などが該当する。
もう少し早く辿り着けるつもりだった、準備できるつもりだった、という想定の甘さは、「自分ならこれくらいでできるだろう」という自己評価の不用意な高さと表裏一体だ。
これは後述する人物的背景の考察に深く関わってくるが一旦置く。
遅刻する際、ABCそれぞれの要因が複雑に、かつ多段階的に関与することで約束に間に合わなくなると考えた。
待ち合わせまでのルートも様々だが、今回は公共交通機関を利用して目的地へ至るモデルを考えたい。
具体的には「自宅⇒最寄りのバス停⇒最寄りの駅⇒電車の乗り換え1回⇒目的の駅」というルートだ。
このモデルは待ち合わせパターンの最低限な多様性を含んでいるので、目的地が遠ければ乗り換え回数を増やせば対応できる。なんなら電車の乗り換えも無くてよいくらいだ。
徒歩圏内や自転車・自家用車での移動はシンプルなので、上記モデルで検証する問題点で対応できる。
ではこのモデルを詳細に分解してみる。煩雑になるがご容赦願いたい。一部は順不同になる。
・起きる
・着替える
・歯を磨く、髪形を整える
・鞄に物品をつめる
・トイレを済ませる
・家を出て鍵をかける
・バス停に向かう
・バスに乗り、最寄りの駅に着く
・電車に乗り、乗り換え駅に着く
・乗り換えを行い、目的の駅に着く
・目的地に着く
列記してみて今分かったことだが、私が想定する行動プロセスは過半数が家を出るまでのものになった。
一つ一つのプロセスについて、上記のABCで落とし穴を想定すると下のようになる。
・起きる
⇒AC:前日夜更かしする、起きられるつもりで起きられない、アラームセット忘れ
・着替える
⇒BC:服を用意していない、当日何とかなるつもりでいざ当日に悩む
・歯を磨く、髪形を整える
⇒C:もっと早く終わるつもりでいる
・鞄に物品をつめる
・トイレを済ませる
・家を出て鍵をかける
⇒BC:思ったより便の出が悪い、トイレでスマホを使っていつの間にか、持ったつもりの鍵がない
・バス停に向かう
・バスに乗り、最寄りの駅に着く
・電車に乗り、乗り換え駅に着く
・乗り換えを行い、目的の駅に着く
・目的地に着く
⇒ABC:バス停までの歩行時間を過小評価する、事前に交通機関の時刻を調べない、乗り換え時間を甘く見積もる
現実にはもっと多種多様な段階を経る人がいると思われるが、段階が増えるほどリスクも増える。
そして、このシンプルなモデルでも私が想定できていない落とし穴がもっとあると思う。
遅刻する原因は、上記の落とし穴のどれかに嵌まり、時間をとられることで発生すると考えられる。
従って、遅刻しないためにはこれらを逐一つぶしていく(もしくはすっ飛ばす)必要がある。
どのように改善するかは個人の資質と、対人関係に依存するので一般的に論じることは難しそうだ。
ただし、遅刻が本質的に契約不履行であることを考えると、契約履行のために改善コストを支払う気がないという人物像は見えてくる。
前述の落とし穴箇条書きを見ると、Cが多いことに気づくだろう。
このことから、かかるコストの過小評価、裏を返せば自分の能力に対する過大評価をしがちな人物が遅刻の常習犯になりやすいのではないか、という推測が湧いてくる。
より穿った表現をすれば、「自分なら何とかなる」「自分が正しい」というやや傲慢で事項中心的な人物ではないだろうか。
ここで元のツイートを再掲する。
""
・+30分はデフォなので許してほしい
・あと何分で着くか聞かれるけどとりあえず100%到着するのは確実なので安心してほしい
・最終的には時間じゃなくて「到着したか否か」で評価してほしい
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待ち時間を適当に過ごしてくれという主張は、相手に時間をロスさせているという想像力が欠如している。
実際リプライ欄を見ると、「遅刻する人は趣味など自分の時間を大切にする人」というリプライにいくらか賛同がなされているが、相手にも「大切な自分の時間」があることを忘れて「適当に過ごして」などと表現している辺りが根深い。
最終的には時間じゃなくて到着云々は、そう主張するならそもそも約束する時点でそのような契約内容にして同意を得るべきだ。
ちなみにリプライ欄の他の意見としては「時間に余裕を持っても結局アレコレ始めて遅刻する。相手は待っていてくれるから大丈夫。」「時間守るくらいでマウント取れていい身分ですね」などがあった。
邪推に邪推を重ねるが、恐らく実際に何か秀でた部分があって自己評価が高かったり、一目置かれているおかげで黙認されるなど「何とかなってきた」という経験がこういった人格を醸成するのではなかろうか。
リプライ欄を見る限りでは強ち間違っていない気もするが、わざわざ炎上案件に飛び込む人物にはそういうバイアスがかかっているだろう。
◎ではどうすればいいのか?
この浮世の地獄を脱出するのに最も良いのは互いに関わらないことだが、残念なことにそれは現実的ではなく、だからこそ地獄の様相を呈している。
よくある案としては「1人だけ30分前を伝える」というものがあるが、これは30分前を提示した人間が30分前に現れない場合やはり契約不履行なのでお勧めしない。
「こっちが15分前に来てるんだからお前もそうしろよ!」などとキレている定刻派もいたが、それは契約内容に含まれない。重要なのは約束した時刻にその場にいるというその一点のみだ。
・ものごとには原因があること。
これらを前提として、後はそれぞれの関係性の中で落としどころを模索するしかないだろう。
とくやりてむ。
しばらくはKKおばさんなんていない戦略をとる。
自己管理能力、公共心、コミュニケーション能力などに乏しい男性と異なり、女性でKKのような情けない状況に陥る者はいないという論法だ。
ニート論の場合、女性無業者には家事手伝いの枠を用意した上で定義から除外し、戯画的なニート像を男性によって表現してきた。
では、いよいよ無視できないほどにKKおばさんが増加したらどうするか。
この現実を突きつけられると、KKに男性しかいないと見るのはステレオタイプ戦略をとる。
女性にも悲惨で救済の必要なKKがたくさんいるのに、性的ステレオタイプによって清純な女性像が一人歩きし、KKおばさんは存在しないことにされてしまった。
ニート論の場合も、女性ニート人口が無視できないほどいると指摘されるようになると、議論の方向性が転換した。
女性が必ず結婚するという前提で家事手伝いカテゴリーに押し込め、支援の対象外としてきたのは差別、という議論になった。
ある性を、リベラル的に望ましい資質を備えていない情けない存在として描くことも、より可哀想で優先して救済すべき対象として強調することも、論法の工夫次第で可能だ。
ジャーナリストや中学生についてはいろんな意見があるだろう。彼ら個人の資質として反発を買ってしまう要素が多いのも理解できる。
でも「外国に行った国民一人ひとりの安全を保証するのが全体の義務」(左翼のみの問題ではなく、右にもなぜかこういう時だけ左の意見を取り入れて発言してしまう人が多い)なる言葉が一人歩きし過ぎてないだろうか。(本来は大使館に駆け込んだ自国民を無視したり、現地警察の横暴による不当逮捕に目を瞑ったりしてはいけない程度の義務だと考えられる)
その論理を使うと、最近の日本人は「危険だから」という理由でアフリカや中南米の数十カ国が渡航禁止になっても何の文句も言わない気がする。
物心ついた頃から、精神疾患の名前がつくもののいくつかに乗っ取られ、それを必死でひた隠しにし、自分を騙し、なんとか生き延びてきた。
病気はすべて私の妄想が産んだ被害者意識で、なんらかのメリットがあるから治らないのだと頭で分かっていても、今でも発作的に昔のトラウマが蘇り、みるみるうちに身体が支配されてしまう。
自分を理解できていないから、当然まわりのだれにも理解してもらえなかった。
傷つくことが怖すぎるから、
人との関わりが怖すぎて社会の中で生きられなかった。
誰も信じられないのに、承認欲求が暴れていた。
私は自分が嫌いだった。
そして他人も皆嫌いだった。
またとないチャンスだと思い、勇気を出して自分から抱きついてセックスした。
少しだけ、自分が好きになれた。
容姿端麗で、才能も資質も人とは違う、目を惹くものを持っていた。
光に虫が集まるように、彼のまわりにはいつも人が集まっていた。
女に囲まれるのは当たり前で、経験人数なんてとっくに数えることをやめていて、
しつこく聞いたら、ちゃんと答えてくれた。
ヤリチンは、まさに私が喉から手が出るほど欲しい「承認」を受け続けてきた人だった。
青春時代がすっぽり抜け落ち、恋愛もコミュニケーションも失敗し続けた私は、ダイレクトにコンプレックスを刺激され、嫉妬心がグラグラ煮えた。
これは彼の女性関係に対してではなく、彼自身に向けられた羨ましさだ。
「みんな君のことが好きだよ」と友達に言われていた、というエピソードを聞いた時、私は、劣等感からくる彼への憎しみで頭がおかしくなりそうになった。
こんな人生があったのか!と。出来れば知りたくなかったと思った。(今でもたまに思う。)
ただ驚いたのは、私たちは似ているところがあったということだ。
一際目立ったり好かれたりすることで、
たくさんのひとの、勝手な理想や期待を押し付けられてきたんだろうと思う。
たくさんの人が彼に恋愛感情を抱いていたとしても、彼自身を守り安心感をくれるものではなかったのではないだろうか。
そして彼も、誰も幸せにしてこなかったのだろうと思った。
ヤリチンは心を閉ざしていた。
自分の気持ちは伝わらないし、そんなことはどうでもいいと思って生きてきたようだった。
自分でない自分でいる状態を強いられ、求めるものと求められるものが食い違い続けるの状態は、とても不安定で、心が満たされないことだと思う。
それを不特定多数とのセックスで埋められるなら、私からしたらこの上なく羨ましいのだけれど、本当は欲しいものが手に入らない飢餓感が続くだけだし、彼自身も女性たちの気持ちを無碍にしたことを悔いており、幸せなことではないのだな、と自分を納得させるように考えた。
彼もまた、自分が嫌いだったのだろう。
私のように、他人を嫌う気持ちがあるのかはわからないけれど、人を信じることに恐怖心があるようには感じた。
真逆の人生を歩んできた私たちは、少しお互いのことが理解できたように思えた。
正確には、私は傷つくことを恐れすぎて、時間が経つほどに自分の劣等感を通してでしか彼を見られなくなり、彼の意図や感情を無視した。
彼はそのことを悲しんでいたのだろうけど、それも口に出さず、私に気を遣い、心を閉ざしたままだった。
私が弱さを振りかざしたせいで、自分だってつらい、という気持ちを我慢させてしまったことには後悔がある。
すごく感謝したし、大げさに言うと、彼に対しては生まれてきてくれてありがとう、という気持ちが生まれ、自然にそれを自分に対しても与えることができた。
損得勘定や条件のない関係性の中で、お互いが強く関心を持ち、認め受け入れられるという安心感は、
私が欲しいものだったし、今まで感じていた寂しさの正体を明確にした。
一緒にいるときは、お互いに影響を受けまくった。
私のようなタイプは人と自分の感覚と同一視しがちで、他人の思考に侵食されていく自覚はあったが、
意外にも、信念を貫いているように見える彼もまた、受け取りやすい体質だった。
皆、不安で揺らいでいるのだな、と思った。
愛があるとかないとかどうでもいい。
相手はヤリチンなんだから、私なんてただ流れては消えていく、女の一人で構わないと、今では思う。
人として、女として生きていてもいいと、自分を認めることができた。
勇気を出して、自分から抱きついてセックスしたことのご褒美だ。
物理的に離れることになり、会わなくなってようやく、自分がいかにセックスに溺れていたかに気づいた。
それが、承認されている感覚を助長させ、必要とされている実感を何割増しにもさせていたということも、それにしがみついていたということも。
最近、身体の繋がりがなくなったことへの不安感が、ようやく抜けた。
同時に、自分と彼との間に境界線を引くことができるようになり、自分と比較せず彼の人生を俯瞰的に考えられるようになり、気持ちがとても楽だ。