しばらくはKKおばさんなんていない戦略をとる。
自己管理能力、公共心、コミュニケーション能力などに乏しい男性と異なり、女性でKKのような情けない状況に陥る者はいないという論法だ。
ニート論の場合、女性無業者には家事手伝いの枠を用意した上で定義から除外し、戯画的なニート像を男性によって表現してきた。
では、いよいよ無視できないほどにKKおばさんが増加したらどうするか。
この現実を突きつけられると、KKに男性しかいないと見るのはステレオタイプ戦略をとる。
女性にも悲惨で救済の必要なKKがたくさんいるのに、性的ステレオタイプによって清純な女性像が一人歩きし、KKおばさんは存在しないことにされてしまった。
ニート論の場合も、女性ニート人口が無視できないほどいると指摘されるようになると、議論の方向性が転換した。
女性が必ず結婚するという前提で家事手伝いカテゴリーに押し込め、支援の対象外としてきたのは差別、という議論になった。
ある性を、リベラル的に望ましい資質を備えていない情けない存在として描くことも、より可哀想で優先して救済すべき対象として強調することも、論法の工夫次第で可能だ。
専業主婦をニート呼ばわりしちゃいけない風潮にも繋がるね 悲惨なまんこちゃん達は腐る程いるのにイデオロギーの都合でいないことにされてる