はてなキーワード: 福原とは
テレ東のプロデューサーに事前連絡があり、権利についての言及で「同人です」で済ませられている。
http://ch.nicovideo.jp/rgrey-siga/blomaga/ar1237533
細谷Pは福原Pから「たつきがなんかやりたいらしいよ」とは聞いていたが内容までは聞いておらず当日まで知らなくて「せいぜいGIF画像かなんかちょろっとアップするぐらいだろ〜」って思ってたら12.1話がアップされて本気でひっくり返った模様
ここから、たつき個人の同人活動については版権素材を利用した創作が認められる契約・約束があった上で、製作委員会には詳細は知らされないまま12.1話が公開されたものと想像できる。
権利について12.1話が事後承諾であった場合、その後の一枚絵についても少なくとも2枚目以降は投稿されることはなかっただろう。
よって、そのあたりの事情はパズプラスのこちらの記事のほうが正確ではないかと思う。
http://buzz-plus.com/article/2017/09/29/kemono-freins-basuteki/
KFPA側は権利を侵害されているように感じるのもわかるが、この線で行くならば、12.1話や一枚絵の公開などはたつき監督が権利を行使しただけにすぎない。
ただちょっと関係各所をびっくりさせすぎて、権利の穴が大きいことが今更ではあるが問題視されたため、8月の交渉決裂に多大な影響を与えたのは間違いないが。
「各所」がKADOKAWAだとは書かれてないことに気をつけなきゃいけない。
嘘は言ってないにせよ、声優事務所なりを指しているにすぎないのではという感じ。
12.1話の投稿がニコニコチャンネルからでなく、irodoriからされていること、
この話が出るとき何度もテレ東Pとのインタビューが貼られてるんだけど
http://otapol.jp/2017/05/post-10509_2.html
福原 詳細は本人があまり語りたがっていないので伏せますが……もちろん放送中にはああいったものを配信することができませんから、放送後にたつき監督から相談されて、各所に相談して、という感じです。
「正しい知識もないくせに」はお前の方だろ
こういう書き方になってしまったのですが、
そんな表現では正しく伝わらないよ、という指摘を数多くの方から頂きました。
不快にさせてしまった方々、申し訳ありませんでした。今後同じ間違いをしないようにします。
https://anond.hatelabo.jp/20171002002200
これをそのまま修正するのはずるいので、この元記事は残しておきます。申し訳ありませんでした。
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長いので2本立てです。(1)は基本知識編、
(2)では業界文化に触れながらの経緯の「想像」を書いてますが、
趣旨は「KADOKAWAを現状出ている情報だけで叩くのはやめよう」です。
(2)→https://anond.hatelabo.jp/20170930051452
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アニメの版権ビジネスに携わっている人間からの解説がないと感じるので書く。
仮に真実と違っていたとしても、価値のある内容になると思ったからだ。
けもフレ製作委員会からのプレスリリースの内容が真実だとすれば
(仮にあれが真実でないとしたら訴訟モノだし、ヤオヨロズも真実だから黙っているのでは)、
今回の話は8割方、ヤオヨロズ社側に非がある話に思える。
同時に、あの製作委員会からのリリースは、外から見えている事実の経緯と矛盾していない。
正しい知識もないくせに、KADOKAWAを叩くのはやめよう。
つい先月まで、アニメ版権を使った、タイアップ販促キャンペーンの企画を担当していた。
今もファミマでけもフレのチャームがもらえるキャンペーンをやっているが、
そのため、今回の問題に言及するにあたって、平均以上の知識がある。
製作委員会というのは、幹事会社と、そのアニメへの出資企業で構成される組織だ。
この方式には、出資側から見れば、失敗のリスクを最小限に抑えながら、
会社のカネになる権利をとりに行くことができるメリットがある。
(幹事会社から見れば、リスクを抑えながら、製作の資本を集められるメリットがある)
というのも、すべての商業アニメには、作品に付随する権利が発生している。
映像に関する権利、音楽に関する権利、出版に関する権利、グッズに関する権利など様々なものだ。
作る物に応じた権利を持っている会社しか、そのコンテンツの公式制作物は作れない。
(知っての通り、個人の二次創作同人誌は、その辺りグレーゾーンだ)
誰かに期間を設けて「貸す」(=許諾する)ことでもお金になる。
ただし元手のお金がなければ、権利以前に、作品を作ることすらできない。
だから、中心になって製作委員会を立ち上げる「幹事会社」は、作品の企画書を作ってばらまく。
出資する側の会社は、それを読んで「この作品は当たる」と感じたら、ヒットを祈りながら出資をする。
これが、作品が当たれば、ゆくゆくは大きなカネになるというわけだ。
具体的に言えば、サーバルとかばんのドラマCDを出すために音楽周りの権利が要るし、
フェネックのフィギュアを出すためには、商品化(グッズ化)周りの権利が必要だろう。
あるいは、アライさんオンリーのアンソロジーコミックを出したい会社からお金をとるために、
けもフレに関しては、KADOKAWAが委員会窓口であり、幹事会社であるように見えるので、
以後の文章もその前提に立って書く。
(10/01ブコメ指摘有:KADOKAWAはヤオヨロズとの窓口ではあっても、幹事会社ではないそうです。
申し訳ありませんでした)
ともかく、以上のようなギャンブラー的な前提があって、商業アニメは生まれている。
余談だが、出資がなかなか集まらず苦しむ場合がほとんどで、アニメ化自体が立ち消える作品も多い。
※おそ松さんのように、どの会社も出資に見向きもしなかった作品が、大当たりした事例もある。
これは様々なツイートでも指摘されているが、
ヤオヨロズは作品の持ち主である製作委員会側から発注を受けて、
言い換えると、
ヤオヨロズは製作委員会には入っていないため(作品に対する出資のリスクをとっていないため)、
一般的に、アニメのような制作物を納品する際には、委員会に対する(二次利用を含めた)著作権の譲渡と、
著作者人格権をの不行使を含めた契約を結ぶことがほとんどであり、
おそらく、現状ヤオヨロズ社に残っている権利はほとんどないと言っていいだろう。
私がここではっきりさせておきたいのは、「けもフレのアニメは、ヤオヨロズの作品ではない」点だ。
つまり、製作委員会への確認と、その結果としての許諾がない限り、
好きに内容を作ったり、コンテンツに関する情報を発信することはできない。
なぜならそこには、「発注される→アニメを納品する」関係しか存在しないから。
この辺りを曖昧にせず、前段も踏まえて、契約上明確にNGであることをしっかり理解すべきである。
製作委員会からの許諾なく、「12.1話」を勝手に作り、発信した点。
さらには、それが「公式」の制作物であるかのような受け止められ方をしてしまった点だ。
※もっと細かい部分では、恐らく各社への確認に回していないであろう、
キャラクターの立ち絵とセリフが入った1枚画像投稿行為などもあるが、これはまあ相対的には重要でないだろう。
コピーライトとは、それが権利者の確認と正式な許諾を受けて公開されたものであることを示すサインだ。
けもフレの場合は、「けものフレンズプロジェクトA」、簡略化した短縮表記で「KFPA」のようだ。
けもフレTwitter公式アカウントの画像欄などを確認すればひと目で分かる通り、
けもフレアニメにまつわる全ての制作物は製作委員会の確認と監修を受け、
コピーライトが入っていなくてはならない。
しかしながら、
http://www.nicovideo.jp/watch/sm30968065
これで12.1話は、「たつき氏が製作委員会に許可をとらず、勝手に作った」制作物なのだと分かる。
ところがファン側には当然知識がないので、こうした制作物を「公式が出した物」だと思って視聴する。
では、たつき氏が12.1話を公開したことで、どんな問題が起こった(と想像できる)のだろうか?
・このアニメのせいで、進行していた企画が「公式なのに二番煎じ」になってしまい、内容の修正が必要になった
・以降のマーケ戦略、露出のスケジュール組みを検討し直さなくてはならなくなった
・主幹事のKADOKAWAから事前の確認依頼ができなかった件で、製作委員会所属企業への説明&謝罪対応に追われた
(10/01ブコメ指摘有:KADOKAWAはヤオヨロズとの窓口ではあっても、幹事会社ではないそうです)
例えばこうしたトラブルがKADOKAWA側に起こっていた可能性は、容易に想像がつく。
KADOKAWA側から見た際の、最も大きな事件はこの12.1話の公開だっただろうし、
今後はやめてくださいね、というヤオヨロズへの警告には、れっきとした正当性がある。
たつき氏が自分のお金持ち出しでつくったとか、だから何?やめてね。って話なのである。
この業界には、適切なタイミングで、適切な内容の情報(イラスト、動画なども含む)を解禁し、
意図した形での盛り上がりの山を作るために、日夜、検討に検討を重ねている人々がいる。
たつき氏は、ヤオヨロズは、アニメ業界の人間でありながら、本当にそういったことに想像が及ばなかったのだろうか?
こうした販促タイアップキャンペーンの進行について解説しながら書く。
この2本の企画に関しては、
日本中央競馬会(クライアント) - 代理店(キャンペーン企画) - KADOKAWA(委員会窓口)
日清食品(クライアント) - 代理店(キャンペーン企画) - KADOKAWA(委員会窓口)
こうした企画に代理店を挟む理由は、当事者同士で進めるとケンカになって基本うまくいかないのと、
単純に調整事項が多すぎて面倒くさいからだ。
通常のスケジュールとしては、もちろん規模感にもよるが、6ヶ月~4ヶ月前くらいに、
委員会の窓口企業に対し、コンテンツの期間使用に関して、代理店から打診をする。
打診というのは、
「お金を払うので、一定期間、競合企業にそのコンテンツを使わせないでもらうことはできますか?」
という相談だと思ってもらえればいい。
たとえば日清食品は、今回のけもフレとのコラボ映像を作って公開するためにお金を払い、
コンテンツの期間使用契約を、企画をした代理店越しに、委員会窓口であるKADOKAWAと結んでいるだろうが、
この契約を結ぶことで、東洋水産とか、マルちゃんとかは、けもフレとコラボができないことになる。
(だから、マリオとかポケモンとかの強いコンテンツは毎年、高額での激しい取り合いになる。)
打診に対して、委員会窓口から「OKです、提案していいですよ」の返事があれば、
代理店は、そのコンテンツを使った企画をクライアントに提案する。
もちろん不採用になることの方が圧倒的に多いが、採用になれば、その旨を委員会窓口に連絡し、
今回、日清食品の企画開始は2017年6月だと明記されているので、
おそらく4月末くらいに日清から代理店にオリエン、代理店からKADOKAWAに打診、5月頭にOKの返事が出、
5月初旬くらいに代理店から日清への企画提案があって、2~3週間くらいで社長OKが出て実施が正式決定、
6月頭から、表記の通り「委員会と連携しながら」企画をかためていった、というような流れだったのだろう。
スケジュール的には、十分な余裕があるかはさておき、本当のことを言っているだろうな、という感じだ。
6月段階では「8月に入っての、ヤオヨロズからの辞退の申し出」は知り得ないし、
どこの制作会社を使うのかは製作委員会が決めることなので、まさしく「関与できる立場にない」。
そもそも、これまで述べてきたような製作委員会の仕組みを知っていれば、
日清食品に問い合わせをするのが無駄で迷惑な行為でしかないことがわかる。
なのでやめようね。
(というのを、KADOKAWAもヤオヨロズもたつき氏も発信すべきだったのでクソ)
「8月に入ってヤオヨロズは制作を辞退したはずなのに、ヤオヨロズ制作の映像が9月に世に出ている」
指摘に関しては、これもヤオヨロズがイチ制作会社にすぎないことを踏まえて考えれば、
2期制作に関しては辞退の申し出をしつつも、すでに発注を受けてしまった進行中のタイアップ案件に関しては、
【ヤオヨロズ→KADOKAWA】、【KADOKAWA→日清】の、2つもの契約不履行の状況が生まれてしまうので、
お互いケンカしながらも、まぁ納品までは最後まで一緒にやった、というだけの話だろう。
(2)に続く
https://anond.hatelabo.jp/20170930051452
今回私が記事を書いた目的は「アニメにまつわる基本的な知識を持ってほしい」と思ったこと、
またその上で、「ヤオヨロズからのリリースが出るまでは、必ずしもKADOKAWAが悪い話ではないから脊髄反射で叩くな」
だからその「リスペクト」が無いなんて、どこ見て言ってるの?っつー話。
製作委員会からのリリースには、「発信内容の事前確認」で済まそうとしたと言ってる。
あんまりないですよ。「内容」そのものを縛ろうとするのじゃなくて、「事前確認」の方向性で収めようとするなんて。
何度も書いてるけど、KADOKAWAだって基本的にはクリエイターへのリスペクトは忘れない会社ですよ。
君らは何を根拠にKADOKAWAの体質をバッシングしてるんだよって。
「切り倒した」のは、本当にKADOKAWAですか?
あのさ、KADOKAWAが、たつき人気で盛り上がってきたコンテンツであることが分からない程度の会社だと思ってます?
だとしたら何を根拠に???結局なんの根拠もなく、周りに流されて叩いてるだけでしょって言ってんですよ。
私は現状、悪いのはヤオヨロズだと思ってますよ。製作委員会からのリリースには、「ヤオヨロズから辞退の申し出があった」と書いてありますよね。
未だになんの声明も出さない部分まで含めてどうなのかなと思いますよ。
たつきが悪いと言ってるんじゃないんです。手綱をしっかりとる責任を果たさなかったヤオヨロズが悪いと言ってるんです。
なぜならKADOKAWAとたつきが直接交渉してるとは考えられないから。その理由は(2)にも書きましたけど、
たつきには制作作業に集中してもらって、ヤオヨロズの窓口が(製作委員会窓口としての)KADOKAWAと交渉していたはずだから。
たつきからの暴露ツイートが発信されないようコントロールするところまで含めてKADOKAWAの責任だったって?
あんま無茶言わないでください。
これは仰るとおりだと思いますよ。
だから私はこの記事を、製作委員会とは何か、の超基本的な部分から書きました。
福原P「あーもー折り合いつかないならヤオヨロズ降りるわーうちが降りるとたつき監督も降りちゃうんだけどなー(チラッ)」
角川「そっか分かった仕方ないね」
福原P(やべーよ伝えづらい…そうだ!角川に降ろされたことにしとこ!)
福原P「いや~角川に降ろされちゃったよメンゴメンゴ」
角川の「ヤオヨロズ側から申し出があった」と、たつきの「角川側に降ろされたみたい」という両社の言い分の矛盾がなくなるシナリオ
私は、業界人だ。
http://kemono-friends.jp/archives/category/news/
“「けものフレンズ」の映像化プロジェクトに関するご報告”と題された文に、大きな嘘はない。
http://dailynewsonline.jp/article/1359354/
あまり信頼できないサイトに掲載された上記の記事も、自分が知っている内容から大きくは乖離していない。
なので、これらの記事を補足する形で、自分が複数の知人から聞いた話をもとにした、「ぼくがかんがえるたつき監督降板騒動のしんじつ」を書こうと思う。当然、直接関係者から聞いた情報ではないので、「マックで女子高生が話していた」程度の信ぴょう性(すなわち創作実話)だと思ってもらってかまわない。
さて、後者の記事に「吉崎さんがたつき監督への嫉妬を爆発させてしまった」とある。だが、正しくは「嫉妬」ではなく「恐怖心」が原因だ。
ヤオヨロズは、制作当時シリーズ構成として会議にも参加していた田辺茂範を放送後にクレジットから外した(これはヤオヨロズ福原が強く提案したという)前例があり、また「けもフレ」キャラを利用した作品が「事後承諾」で相次いで公開されたこともあって、「次は自分も外されるのでは?」という危惧が吉崎の中にはくすぶっていた。
「さすがに吉崎先生を外すことはないですよ」となだめる関係者。だが、別のベクトルの「嫉妬」が引き起こした事態が、吉崎にさらなる恐怖心を与えることとなる。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/050100735/
そもそも「けものフレンズ」は、上記記事で「仕掛け人」と呼ばれている梶井が所属するコミック&キャラクター局が立ち上げた企画で、いわゆる「KADOKAWAアニメ」を生み出している映像事業局はいっさい関与していなかった。だが、想定外の大ヒットを見て、映像事業局が嫉妬。結果的に梶井はプロジェクトから完全に外され、今後は映像事業局主導で企画を進めることが決定する。梶井は泣いた。
作品への貢献度を吉崎も評価していた人物を追放、取材では「ほぼすべて自分たちの手柄」としか取れない発言をし、事前の相談もなく作品を利用するヤオヨロズ。立ち上げ時から二人三脚で作品を動かしてきた人物を追放したKADOKAWA。「味方がいない」……吉崎の恐怖心が爆発するのも無理はなかろう。
「先生もイヤがってるし、何かやるならせめて事前に共有してよ」
「いやいや今までどおり事後報告でいいでしょウチが盛り上げたんだし。それがダメなら抜けますわ」
↓↓↓
「条件のめないならプロジェクト抜けろと言われたので抜けることにしたよ。すまんねたつき君」
「わかりました。一方的に悪者にされる前に先手打ってTwitterに書きます」
さて、自分は冒頭に「大きな嘘はない」と書いた。だが、小さな嘘はいくつかある。それは……と続けようと思ったが、その話はさすがにソースがバレそうなので、ここで筆をおかせてもらう。
まず9月10日放映のアニカル部で、製作委員会によれば8月の時点でヤオヨロズ側は二期の制作を辞退しているはずなのに
https://aniculbu.jp/archives/27%e6%99%82%e9%99%90%e7%9b%ae-%ef%bc%882017-9-10%e6%97%a5%ef%bc%89/
たとえ収録が8月中だったとしても今後のプロジェクトへの参加がわからなくなっている段階で
二期に確実に参加するような物言いは嘘をついていると言われても仕方がない。
たつき監督の例のツイート以後福原Pの行動はさらにおかしくなっていく。
9月27日の「つづきみ」というアニメイベントに福原Pは参加する予定だったというのに
https://animeanime.jp/article/2017/09/26/35443.html
twitterの反応を見る限り当日に急遽キャンセルし参加していなかったという。
福原Pが企画しているラブ米の二期が告知されていたにも関わらずだ。
極めつけは10月21~22日に開催される「がたふぇす」にも当初は参加する予定だったという事実。
http://kemono-friendsch.com/archives/38918
8月に二期の参加を辞退していたはずだったのになぜ10月のイベントに参加する予定だったのだろうか?
もしたつきがあのツイートをせず二期辞退の件を公から隠し通せたとして
当日の会場で二期の意気込みについて聞かれたらどう答えるつもりだったのだろうか?
福原 慶匡(ふくはら よしただ、1980年6月18日 - )は、アニメプロデューサー、音楽プロデューサー、実業家。
株式会社エスターセブン代表取締役社長、株式会社8million代表取締役社長、株式会社つばさエンタテインメント取締役、ヤオヨロズ株式会社取締役、株式会社アイエヌジー取締役、株式会社ジャストプロ社外取締役、株式会社DMM.futureworks執行役員。
アニメ、音楽のプロデューサーです。 アニメ制作会社ヤオヨロズ、声優芸能事務所ジャストプロ、レコード会社つばさプラス、DMM.futureworksとかの取締役。けものフレンズ、ラブ米、てさぐれ!部活もの、川嶋あい、水曜日のカンパネラ、井上苑子、BiSなど
きな臭さの擬人化みたいな人だな
大体の人はわかってると思うけどこの記事はやまもといちろう(山本一郎)氏が執筆した可能性が極めて高い。
文末を見れば
と入っており署名記事ではない。
しかしこのデイリーニュースの記者一覧にはやまもといちろうの名前がある。
http://dailynewsonline.jp/about.html
内容を見ればわかるように自称関係者の証言が羅列されるなか吉崎観音氏のみ実名で書かれており
吉崎観音が諸悪の根源とのたまう名誉毀損で訴えられてもおかしくない内容であるからして
なぜやまもといちろうか断定するのかというと直近のツイッターでけもフレ監督降板騒動になんでも食いつくダボハゼらしく
一連のツイートを便乗してかましているがその中で吉崎観音氏に噛み付いている。
https://twitter.com/kirik/status/912817842440986625
山本一郎(やまもといちろう@告知用) @kirik 9月26日
https://twitter.com/kirik/status/912906613094322177
やまもといちろう氏は皆さんご存知の通り何も知らないくせに訳知り顔でフィクサー気取りするかわいそうな人なのだが
吉崎観音氏は一連のメディア取材による声明やいままでの活動からして他人の嫉妬に狂うような人間ではない。
何も知らないからこそ原案者をすべての悪にするという単純なストーリーを流し込んで記事を書けるのだ。
そうなるとなぜこんな記事を書いたのか?という疑問が出てくるが
私にはどれもあり得るようにみえるので3つの答を掲示しておく。
けものフレンズの監督降板騒動はネットでは一大ニュースになっており
与太話でも今は誰もがとりあえず目を通すような状態になっており単純にアクセス稼ぎを行った。
DMMがはちま起稿を買収していたことが明るみに出た事件を覚えているだろうか?
激しい炎上が起きていたその時やまもといちろうはまるで提灯持ちのようになぜか様々なメディアをごぼう抜きして
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamotoichiro/20161230-00066087/
今回カドカワはたつき監督の降板の主犯として名指しされその結果とてつもない炎上が発生
ヤオヨロズに責任転嫁を図ろうとするもファンによるスポンサーへの問い合わせが殺到するなど窮地に陥っている。
ニコニコニュースのランキング操作を行ったことから火消しとしてやまもといちろうに依頼し
吉崎観音を生贄にすることで自体の収集を図ろうとした可能性は捨てきれない。
ヤオヨロズのプロデューサーとして福原慶匡の名前はファンなら当然覚えているだろう
彼はヤオヨロズの取締役であると同時に声優プロダクションのジャストプロの社外取締役である。
ジャストプロ及びヤオヨロズは今まさに騒動の渦中にある存在だ。
そんな彼はDMM.futureworksの社外取締役である。
そしてデイリーニュースは元はDMMニュースという名前でありDMM.futureworksと同じビルに入居している。
そして彼はツイッターにおいてなんとやまもといちろうとやり取りをする程度の知り合いではある。
https://twitter.com/fukuhara_ystd/status/643778430811508737
@fukuhara_ystd
もしもジャストプロサイドに表に出ない何らかの瑕疵があった場合カドカワへ少しでも打撃になる記事を出しておこうと考えてもおかしくはない。
ジャストプロはこの際けものフレンズを諦めても身内であるたつきは守ろうとするだろう。
その時面識がありある程度のネット拡散力を期待できる人間への伝手があるならあなたならどうするだろうか?
私にはどれも有り得そうであり判断がつかない。この先どんな展開があるかは分からないがこのネット総会屋が裏で動いているのは確かなようだ。
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
出演自体はめでたいけれど、何故どうぶつビスケッツ×PPPが出演できたのだろうか?アニメ系だとしたら紅白出場前のμ'sだとか、LiSAだとか、活動休止した藍井エイルだとか、UNISON SQUARE GARDENなど枚挙に暇はない。また見た目キッズ系コンテンツなので、そういるものが流行っているのを紹介する趣旨も理解できる。
ただそれでも唐突な印象が拭えないので、仮説により疑問を解消したいと思う。
(仮説1)
『ようこそジャパリパークへ』は作詞、作曲、編曲、歌唱ディレクションまで、オーイシマサヨシ氏が担当している。オーイシマサヨシ氏はバンド出身で、近年『ダイヤのA』を皮切りに『月刊少女野崎くん』から、Tom-H@ck氏とのユニットの「OxT」などでも活躍している。
アニメ作品のヒットは、版権元の角川たつき監督や製作委員会によるところが大きく、音楽については製作委員会立ち上げ時からの深い関与があるにしても、実際の曲づくりについては音楽プロデューサーと作編曲者に委ねられている。
名言とされる「けものはいてものけものはいない」、ブルージーなコード進行も、アコースティックを得意とするオーイシ氏の才能によるところに大きく、どうぶつビスケッツ×PPPはのメンバーは他の人でも代替可能である。インタビューによると懇意にしていたビクターのディレクターからのオファーであり、どうぶつビスケッツ×PPPは、先月はビクターのロックフェスティバルにも参加している。現在は複数レーベルから作品をリリースしている彼だが、アレンジャーとしてのオーイシマサヨシ氏を評価させる良い機会だと、プッシュしたのではないか。
(仮説2)
角川が主体となったマルチIP企画だった『けものフレンズ』のアニメ本編のプロデューサーは福原慶匡氏である。アニメーション制作会社のヤオヨロズの取締役であり、『直球表題ロボットアニメ』『てさぐれ!部活もの』などの制作実績がある。
たつき監督が表舞台に出る機会が限られている中、福原Pは『けものフレンズ』では、キャストだけでは物足りない人に対して、スタッフ側フロントマンとして顔出し含めてインタビューで対応していた。かつて盟友だった石ダテコー太郎監督とは喧嘩別れをしたという話が聴こえてくるが、この作品を通しては、少しファンキーな髪型と煽りツイートをするくらいしかその片鱗を見せなかった。
そんな福原Pのもうひとつ顔が、つばさプラスの代表取締役という顔だ。元々福原Pは、川嶋あいのマネージャとして、キャリアをスタートした人である。アニメプロデューサとして知られた後になっても、手掛ける番組に川嶋あいに歌ってもらうという企画をやっていた。他につばさ関連でMステ出演で想いだすのは、水曜日のカンパネラだろうか。BiSは出てない気がする。基本的に体制からはアウトサイダー寄りであるものの、伝がないわけでもないので、そのあたり人脈ではないか。
(仮説3)
どうぶつビスケッツ×PPPのキャストは以下の3事務所の8人で非常に偏っている。アニメ本編はかばん×サーバルのロードムービーで、各回ゲストはアプリ版で主要な役どころだった青ニ事務所のメンバー中心が起用されていた。そのためサーバル以外はサイドストーリー的な扱いだった。
響:尾崎由香,佐々木未来,相羽あいな ジャストプロ:本宮佳奈,小野早稀,田村響華 ミレニアムプロ:根本流風,築田行子
ジャストプロはアニメ制作会社に近いプロダクションだが、ミレニアムプロもそうだろう。W主演の一角を占めるサーバル役を取ったことも、響の影響力が窺える。3人も出演しているバンドリは武道館が決定しているが、昨年異業種から移籍してきた相羽あいなが、歌手デビューしたかと思ったらロゼリアでボーカル担当しているし、SUPER★GiRLS卒業したばかりの前島亜美もアプリ版のパステルパレットでボーカル担当している。そもそも昨年武道館やった三森すずこも、他の業界から移ってきた人である。μ'sのMステ出演したこともあり、そのあたりの縁じゃないか。
http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY201209250736.html
それを知って発表後入学前に取消を指示したことも問題視されてるのはなぜ?
”県は「入学者選抜は校長の権限だが、一旦合格としたのを不合格にするのは適当ではない」としている。”とあったり。
”「もっと早く説明するなどより適切な対応が取れたはず」と責任を認めた”ということなので、合格取消自体は正しいと考えてるのかもしれない。)
今回の事件で受験生側(おじいちゃん含め?)は事情を知らなかったらしいから
合格→取消はかわいそうではあるんだけど、
そのかわいそさを償う方法として「点数足りないけど入学みとめる」って方法は、違うきがする。
不正入試の問題は、他の受験生との間の不公平の問題でもあるのに
合格取り消さなかったら、不公平なままやん。
あと、「第三者委員会」の「第三者」ってこんなもんでいいの?
中大理事会が第三者委員会(委員長・宗像紀夫弁護士)を設置して…とあるんだけど
宗像紀夫弁護士ってググったら今年の3月まで中大大学院の教授だったらしい。
中大理事長の不祥事について、中大理事会が、事件当時中大大学院教授だった人を委員長に任命した委員会が
「第三者」っていえるんかしら…。
ヨメとのセックスがなくなってしまったこと。
もはやオレに分け与える愛情はほとんど残っていないらしい。
子供にこの国の教育を受けさせることに大いに満足しているヨメだが、
オレが万が一にも今の職を失えば、直ちにこの国での在留資格を失うことをわかっていないのか、
壊れかけているオレの精神状態を気遣う余裕はないようだ。
目の前に、かつてはオレの目に奔放な姿をさらけ出したこともあるオンナがいるのに、
今では、何ヶ月も何年も、セックスどころかスキンシップすら拒まれる。
それでいて、住宅事情の関係で、今でも同じ寝室、同じベッドで夜を過ごす。
正直言って気が狂いそうだ。
かといって浮気をしようにも、通常付きあうのは現地の人間ばかり、
彼女らを口説けるほどの言語レベルには、とても到達していない。
それに、意外と倫理的なこの国の女たちは、
同国人の妻子ありと公言している日本人にコナすらかけようともしない。
この国の売春婦はまだ試していない。どうもあのシステムがオレにはまだ難しい。
玄関口まではアプローチしたことはあるが、毎回何度も引き返している。
まだそれを突破するほどまでは、気が狂っていないのだろう。
そんなオレのささやかな愉しみは、日本に仕事で出張した時の、ソープ遊び。
吉原、大宮、金津、福原。出張地に応じて、これまでいろいろなところに行った。
そんな中、とあるマスメディア系ウェブの連載コラムでたまたま知った、「新地」という遊び場。
オレには勝手な思い込みがあったようだ、昔のような遊郭は日本からはすっかり姿を消していたと。
本番が必ずできる風俗はソープ以外には存在しないと、勝手に思い込んでいたオレにとって、
関西に何カ所か点在する、いわゆる「新地」という存在は、実に新鮮というか、驚くべき事実であった。
しかも、かつて大阪で育ち、その後奈良を本拠として生活していたにも関わらず。
まさに、灯台もと暗し、と言おうか。
ネットで「新地」の情報を読み漁ったオレは、生駒の宝山寺に行こう、と心に決めた。
日本のオンナとの率直な会話に飢えていたオレにとっては、2時間ゆっくりできる生駒が合っている。
ソープから風俗遊びに入ったオレにとっては、ゆっくり風呂に入れるのも魅力だ。
かつて何も知らずに、宝山寺を純粋な参拝客として訪れていたこともある(苦笑、しかも両親やヨメと)。
これは行かねば、と、強く心に思った。
***
職場で唯一の日本人ということもあり、日本滞在中の行動は、けっこう自由である。
出張中の平日の一日を、早々と宝山寺突撃のためにリザーブした。
予約なしでいい子に会うためには、平日の昼間に行けとの情報があったこともある。
女将に紹介された子は、オレより一回り以上若く、背もやや低めだった。
化粧っけはないものの、愛嬌のある顔で、何より肌がキレイだった。
ソープとは違う作法に少し戸惑ったが、とても充実したセックスを愉しむことができた。
オレもそれなりにカノジョの期待に沿うことができたようで、とても満足だった。
そのあと、カノジョに、オレの悩みを聞いてもらった。そう、ヨメとセックスがないこと。
カノジョは励ましてくれた。オレが正しく行動すれば、セックスレスは直せるはず、と。
女の立場から、どんな風に接すればいいか、いろいろなアドバイスをしてくれた。
ついさっきまでオレと激しくセックスをしていたコが、
今度はヨメとの関係改善について、親身になって話に付き合ってくれる。
なんて、ヤサしいコなんだろう。しかも、お互い何も着てないのに(笑)。
そうして2時間はあっという間に過ぎていった。
その後仕事のアポイントがあったこともあり、2回目はやらなかった。
でも、次回行ったときには、同じカノジョともう1回、いやもう2回やりたい。
それまでに、ヨメとのセックスレス解消に向けて、カノジョに言われたように、
一歩でも二歩でも努力を重ねよう。
***
誰かに聞いてもらいたいけど、誰にも打ち明けられないし、
しかも海外ドメイン規制がかかっていて2chにも書き込めないので、増田に書いた。
長いのにここまで読んでくれてありがとう。
フランス:「フランス人とは何か」サルコジ政権が問い ゆがむ論議、広がる反発
<世の中ナビ ワイド NEWS NAVIGATOR 国際>
◇「崇高な運動」か「移民・イスラム排斥」か
「フランス人とは何か」。そんな根源的な国民論議がフランスで続いている。国民の10人に1人が移民(不法移民も含む)であるという現実を前に、保守派のサルコジ政権が「フランス人を定義し、国民の誇りを再確認しよう」と呼び掛けた。フランス語を話す、国歌を歌える、伝統的な政教分離主義を守る、などさまざまな意見が出る一方で「こうした論議自体、移民やイスラム教徒の排斥につながる」との反発も強くなっている。【パリ福原直樹】
◇国歌斉唱は義務?
政府が昨年10月、国民に求めた論議のテーマは「仏国民とは何か」「フランスや仏国民のアイデンティティー(価値観など)を移民がどう共有するか」の2点。移民省は全国約450カ所で討論集会を開く一方、インターネットの公設サイトでも意見を求めている。2月にも政府報告を行う予定だ。
サイトには既に5万人が意見を寄せた。それによると仏国民の定義として、▽フランスを愛し国是の自由・平等・博愛の精神を信奉する▽(政教分離などを記載した)憲法を順守する▽キリスト教の伝統を受け入れる……などが出された。
政府はその一方で、「若者に年1回、国歌の斉唱を義務付ける」「仏語や共和国の精神を学ぶ機会を設ける」などの政策を提案した。移民らがフランスの価値観を理解する一助にしたいという。
◇保守派からも批判
だが、論議開始以降「反移民感情をあおるだけだ」との批判が、野党第1党・社会党や知識人、移民の間に広がった。フランスの移民は「外国で生まれた外国人で市民権取得などを目指して永続的にフランスに居住する者」との定義があり、仏国籍を取得した者も含まれる。
人口約6100万のフランスには、不法移民を除くこうした移民が約500万人居住し、イスラム教徒も約600万人(移民との重複あり)いて、同化政策は仏社会で大きな問題となってきた。
こうしたことから論議のテーマの設定自体が「移民やイスラム教徒にフランスの価値観を押し付けるものだ」との批判を呼んだ。社会党のオブリ第1書記は「(移民排斥の論議につなげることで)政府は移民に(失業などの)社会問題の責任を押し付けようとしている」と指摘した。
保守派からも批判が出た。ジュペ元首相は「論議は国内の対立、特にイスラム教徒への反感をあおった」と発言。ドビルパン前首相も「こんな重大なテーマを経済危機で団結すべき時に持ち出すべきではない」と異を唱えた。
一方、全仏組織の「イスラム教徒会議」幹部は「論議は(イスラム批判という)本末転倒の方向に向かう」と懸念を表明。「サルコジ大統領は3月の地方選を前に(ナショナリズムをあおり)移民排斥を求める極右票の取り込みを狙った」(野党・緑の党など)との指摘もあり、世論調査でも72%が「地方選を念頭にした論議」と見なした。
◇相次ぐ問題発言
これらの懸念は当を得ていたとも言えそうだ。国民論議の集会で、政府の家族問題担当長官は「フランスの若いイスラム教徒に望むのは職を見つけ、俗語を使わず、帽子を逆向きにかぶらないことだ」と発言した。「イスラム教との共存の可能性」を問う質問への回答だったが、これは「イスラム教徒への中傷であり、国民論議はイスラム(排除)が目的だ」(社会党など)と厳しい批判を招いた。
また仏東北部での集会では、与党「国民運動連合」の地方幹部が「(移民は)何もせず金だけもらっている」「国民論議は必要であり(移民に)反撃する時だ」と述べた。一方、与党幹部は「仏国内のモスク(イスラム礼拝所)と、キリスト教聖堂の数が等しくなれば、この国はもうフランスではなくなる」と語ったと報じられた。
「フランスのアイデンティティー確立」は、07年大統領選でのサルコジ大統領の公約で、大統領は国民論議を「フランスとは何かを知る崇高な運動」と強調している。だが当初、論議を支持した中立系のルモンド紙は、最近の社説で「論議は悪い方向に向かっている」と主張。社会党同様、論議の中止を求める立場に転換している。
山口登(やまぐち のぼる)。明治35年(1902年)、兵庫県神戸市兵庫区で生まれた。父は、初代山口組・山口春吉組長だった。山口組事務所は、神戸市兵庫区西出町にあった。大正14年(1925年)、山口春吉の引退により、山口組二代目を継承した。この時、山口組はまだ、大島組・大島秀吉組長の系列組織だった。同年、神戸市須磨の料亭で、山口組二代目相続披露宴が行われた。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。披露宴には、大島秀吉、大島組幹部・川端勝次、大島組幹部・本多仁介、その他の大島組幹部、大島秀吉の舎弟、大島秀吉の若衆、兵庫県県議会議員、神戸市市議会議員などが出席した。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。難波島之助は、山口登の舎弟となり、参謀格となった。その後、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発した。山口登は、大島組組員との喧嘩を諌めることはしなかった。昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に年賀に行った。大島秀吉は、山口登に、山口組組員と大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。山口登が詫びを入れると、川端勝次が山口登に本心で詫びを入れているのかを詰問した。山口登は激怒した。本多仁介が、川端勝次と山口登をなだめた。昭和3年(1928年)3月、金融恐慌が発生した。山口組は、神戸市兵庫区古湊通りの鮮魚・塩干物の朝市を縄張りとし、仲買人の魚を小売店に運搬する利権を独占していた。そのため、経済的な打撃が限定的だった。同年、山口登は大島組への上納金をやめた。昭和4年(1929年)1月、山口登は、大島組への上納金をやめたために、大島秀吉から破門された。昭和5年(1930年)3月、神戸市は、失業者対策として、兵庫区浜新町に神戸中央卸売市場の建設を計画した。新浜町は、大島組の縄張りだった。この利権を巡り、山口組は大島組と対立した。同年7月、神戸市新開地で、山口登の若衆・田尻春吉が川端勝次を射殺した。同年8月6日夜、山口登は、山口組組員に拳銃や日本刀を持たせて、5台の荷馬車に、神戸市兵庫区西出町の山口組事務所の家財道具全部を載せて、山口組事務所を出発し、同区切戸町に向かった。一部の山口組組員は、切戸町の新しい山口組事務所で待機していた。他の山口組組員は、大島組本家を監視していた。同年8月7日午前3時、山口登は山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、神戸市中央卸売市場建設予定地の近所だった。同年8月7日、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まった。山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。同年10月、、田岡一雄(通称はクマ。後の山口組三代目)が、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。
溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称はトラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡は古川の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡に行儀を仕込んだ」となっている。昭和6年(1931年)1月、須磨の料亭で、宴会を開き、馴染みの花隈の芸妓・ぽん太を呼んだ。その後、月に2、3度、ぽん太と逢引した。昭和7年(1932年)5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。同年7月7日、須磨の待合で、山口登はぽん太と会った。同日午後10時すぎ、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登は待合から逃げた。同年7月8日、守屋謙造は、山口登殺害に失敗したため、大島組を去った。その後、本多仁介は、「日本が軍国調になっていくときに、抗争事件を起こすのはまずい」と大島秀吉に進言した。大島秀吉は、本多仁介の進言を容れて、大島組から山口組への殴り込みを禁止した。それから、山口登は、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名は森田良吉。父・山口春吉の兄弟分)を紹介された。同年7月、山口登は四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。興行は赤字だった。庄村吉之助(通称はホラ吉)が、松風軒栄楽のマネージャーだった。山口登は、庄村吉之助を引き抜き、山口組興行部を作って、庄村を山口組興行部支配人に据えた。また、庄村吉之助の側に、山口登の若衆・笠種次を付けた。同年12月、神戸中央卸売市場が開業した。山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、市場に賭場を開いた。同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、山口登は田岡一雄を若衆とした。昭和8年(1933年)4月、山口組興行部は、神戸市湊川神社前の「八千代座」で、鼈甲斎虎丸、東家楽燕、初代天中軒雲月らによる浪曲大会を開いた。昭和9年(1934年)4月、山口組興行部は、八千代座で、ディック・ミネ、美ち奴、楠繁夫、東海林太郎らによる興行を行った。同年 8月、海員争議が起こり、会社側から山口登に、紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。西田と田尻は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と、田岡の親友・岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡一雄 は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。同年9月3日夜、山口登は、庄村吉之助と笠種次を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。同年10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、広沢虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。昭和10年(1935年)、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした。同年10月、田岡一雄は神戸刑務所から出所した。昭和11年(1936年)1月20日、もしくは昭和7年(1932年)[3]、山口登は田岡一雄を若衆とした。同年2月、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本の要望をはねつけていた。山口登は、岡本の依頼を引き受けた。同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。その後、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した。同年7月、田岡は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益は全て、山口登に上納された。同月、田岡一雄が口答えをしたために、怒った。田岡は山口の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、ピストン堀口とジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われ、山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡は警官に取り押さえられ、拘留された。同年2月、玉錦のとりなしで、田岡を許した。田岡は神戸市に戻った。同年2月25日、大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、山口春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。同日、田岡は警察に自首した。同年2月27日、田岡は懲役8年の実刑判決を受け、服役した。同年、神戸市の荷役業者の鶴井組・広田寿太郎組長、酒井組・酒井新太郎組長、藤原組・藤原光次郎組長が兄弟分の盃を交わし、「鶴酒藤」を結成した。昭和13年(1938年)、山口登の舎弟・新居利治は、徳島県小松島市で、小天竜組を結成した。まもなく、大長一雄は山口組を去った。昭和15年(1940年)、山口登は、広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎と兄弟分の盃を交わした。広田寿太郎、酒井新太郎、藤原光次郎が拠点を横浜港に移すと、山口登は鶴酒藤神戸支部長となった。同年7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組(組長は保良浅之助)の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。翌日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。同年8月2日、山口登は東京・浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、ボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。山口登は「広沢虎造を籠寅組には貸さない」と云う旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島武雄が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、この傷がもとで、死亡した。享年、41。