はてなキーワード: 生き甲斐とは
※本文には「コードギアス 復活のルルーシュ」のネタバレを含む。
10年前のR2放送時物語が終盤に差し掛かり最終回というものを意識した時、本当に比喩ではなく毎週の楽しみであり、
生き甲斐だったコードギアスが終わるという切なさを感じつつ、その分素晴らしいものをみれるのではないか
という期待感もあった。
この素晴らしい物語が終わってほしくないという気持ちが重なる、そんな期間だった。
ルルーシュがスザクと行った本当のゼロレクイエム、ナナリーがフレイヤでやろうとしていたこと
この二つの類似性に打ち震え、あの悲しい最後のシーンはルルーシュ・スザク・ナナリーの物語を終わらせるにふさわしい、
素晴らしいもので、それまで見てきたどんな作品の最終回よりも美しいと思った。
それまでの話数は放送後何度も見返したが、
私にとって不可逆で不可侵の素晴らしい思い出だった。
最終回放送から8年後、西暦2016年にそのコードギアスが、ルルーシュが復活するとの特報が出る。
思い返せば亡国のアキトシリーズの放映や、パチンコ化などのメディアミックスの情報は、
アニメ放送後も途切れることはなく、コードギアスは死なないコンテンツになったのだと気付くべきだったのかもしれない。
情報は少しずつ鮮明になり、総集編としての劇場版3部作が放映されたのちに
与える変更点を加えつつ次々と公開していく。
そしてルルーシュが死んでから10年がったった昨日、西暦2019年2月9日、平成最後の冬に
ルルーシュは死んだのに。
美しく、そして気高く世界から憎しみを無くすために文字通り命をかけた主人公は
もういないはずで、それでも世界は続いていたのに。
復活
肉体が蘇るわけではないよ。
ルルーシュがいない世界で必死に、彼が求めた願いを実現するために
それでもよかったのではないかと考えた。
だがし復活したのだ、
策を練り、有無を言わせぬ迫力で味方を鼓舞し、指示を出す。
あれがルルーシュだということに異論を唱えるファンはいないだろう。
それほどまでに素晴らしくルルーシュだった。
詰め込まれており、それでいて色褪せない、新鮮さも感じることのできる、素晴らしいストーリだった。
完結した作品であるはずという思いが強い人が多いのではないか。
感情を抱いていた。
だけれども、観て、楽しんでしまうのだ。
どんなに抗おうとしていたとしても、
観終わった後に私がどんな感想を抱こうが、
それは全くもって否定できない。
観ないわけにはいかない。
すぐに決めることはできなかった。
少しでもこの胸のつかえがとれないかと
監督のインタビューのタイトルに「批判を覚悟で制作に踏み切った」とあった。
冷静になってみればそれはそうだろうという感想だ。
物語を美しく終わらせるのではなく、
解釈する私の様な人間から批判が出るのは覚悟していただかなくてはならないだろう。
とらえている人が多いように感じる。
また、劇場でも終幕後に涙を流し、
良かったと感想を漏らす人も多くいた。
どんなに賛否両論の意見が出たとしても、「賛」の意見が出続ける限り
今後も興行収入を伸ばし続けるであろう。
向けられる覚悟がないといけない。
「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけ」だ。
しかし、「復活」でルルーシュはこのセリフを否定するかのような言動を行う。
C.C.と同じ、撃たれてもその命を失うことがない
L.L.にはその覚悟がない。
人とは違う理で生きている。その悲しさを物語っているのかもしれない。
円盤を購入するという行為に我々は「支援」という意識を持って行っていたと思う。
我々の支援なしには生き続けることができないと、
その支援が乏しく、延命や繁栄をすることができずに死んでいったコンテンツを
観ていたからこそ、そうした感情が行動させていたのではないか。
私が「復活」を劇場で鑑賞した際に
本作でも重要な役割を担う「玉城真一郎」のクレジットを見た時だ。
ご存知の方もいると思うが、「玉城真一郎」をTVシリーズで演じていた、
もちろん総集編の劇場版で「玉城真一郎」を演じた演者の方の演技は
素晴らしく、引けをとっているだとか、優劣があるといいたいのではない。
その悲しさは、当然のことながら亡くなった人はもう「復活」しない
実際私もそうだった。こんなことを書くと現実とフィクションを理解していないと
否定されそうではあるのだが、私が10年前に愛した「コードギアス」には
壮大で近未来的なSFとしての要素もありながら、リアリティがあったのだ。
死にゆく人間を救うことはできない。そんな現実を突きつけられるような、悲しい物語だったのだ。
だからこそ私たちは最終話でゼロの剣に貫かれたルルーシュを見たとき、
そこにリアリティを、死んだ人間は蘇らないという現実をフィクションの
私は10年前の最終話でルルーシュの死によって完結した素晴らしい物語を
味わうことができたこと。
デザートのような続編を味わえたと、いうところだろうか。
何とか消化吸収に努めないといけないのだろうか。
吐き出したところで、何にもならないのだから。
同じく「死なない」コンテンツに「復活」した。
私は卒業を控えている大学四年生だ。卒論、就活を終え、時間を持て余している。
平日は1日通しでアルバイトをしており、そこそこ充実している。アルバイト先は土日祝が定休日なため、土日祝に働くことはない。いわば、一般的な社会人と同じような週休2日制だ。
趣味はラーメンを食べること、漫画を読むこと、飲酒。アルバイトの予定を入れてしまうとラーメンを食べることは出来ないし漫画も一気読みをしたいので時間をとらず、休日に後回しにしてしまう。平日の楽しみは酒だけだ。また、洗濯や掃除、やらなければいけないことも基本休日にやればいいと思い放置している。しかし、実際に休日になると、何もやる気になれないのだ。
私の休日は大体11時ごろに目を覚ますことから始まる。目覚ましをかけずに自然に起きる時間が大体この時間だ。特に予定はないので二度寝する。二度寝をして起きたら大体14時をすぎる。先ほど書いたように、私は基本平日はアルバイト。ランチに行く機会が休日しかないため、前日まではラーメンでも昼に食べに行こうかしらなど考えていても14時過ぎに起きたら手遅れだ。
ランチ営業時間内に食べに行くことを諦め近所で通し営業をしているお店に行こうかと考える。しかし布団から出ることができない。歯を磨くことも、テレビをつけることも、趣味の漫画を読むこともできない。ずっと布団の中でぼーっとしているかネットをしているかだ。そうしていくうちに食事も億劫になる。もちろん部屋の電気もつけられないので、部屋はだんだん暗くなっていき、もはや昼ご飯を食べる必要がないことに気づく。
しかしいい加減夕方にもなると空腹にはなる。そこでやっとこさ布団から出て部屋の明かりをつけ、タバコを吸い空腹を紛らわす。歯を磨き、もう一度布団の中に入る。ここまでで大体17時、遅くて19時だ。ここまでくると外出自体が面倒になり、ラーメンを食べに行こうという思考が0になる。そして家事もやらねばと思いつつやる気にならない。
タバコを何度か吸い、布団に戻るの繰り返し。いい加減酒が飲みたくなり、コンビニに行き、カップ麺やらお惣菜やらと、発泡酒を23時ごろに買いに行き、ちゃっちゃと飲み食いしてシャワーに入って1日が終わる。ほぼ布団から出ていない1日の完成だ。
外出するのが嫌いなわけでもないし人と会うのが嫌いなわけでもない。もちろん、予定が入っている休日もあり、ちゃんとおめかしして外出する。しかし、アルバイトにしてもそうなのだが、外に出る必要性がない限り、外出する気にならないのだ。例えば、私には近所に住む彼氏がいる。遊びにおいで、ご飯を食べようなどラインが来るが外に出る気にならないので断ってしまう。決して彼氏といて退屈なわけではないが、近場の彼氏の家に行くやる気すら起きない。
趣味すら何もやる気にならないのはどういうことなんだろうとずっと考えている。どれも好きなことなはずなのにおかしいとも思う。結局のところ、どれも生き甲斐ではないからかなと結論に至った。
好きな気持ちよりめんどくささが勝ってしまう。これが私の人生だ。
私は別に明日死んでも構わないと思っている。死にたいわけではないが、生きたいわけでもない。どうすれば充実した休日を過ごせるのだろうか。
よくお前は「プロ意識がない」とか世間では言われる。だが「お前が言うな」って話なのよ。実際は。
アホ上司から言われる「プロ意識」とやらを持って仕事をしたからといって、自分の給料がドカン!と上がるわけではない。大体、日本企業の場合「自分の行った仕事で、どれだけ会社に利益があったか?」などという情報は一切知らされない。つまり、アンタが頑張った大部分は「全部会社が吸い取る」だけなのよ。
そして昇給やボーナスアップなどという「雀の涙金」を与えて「〇〇君!今季は本当によく頑張ったな!」などと言われてしまう。
はっきり言えば日本のサラリーマンぐらいバカバカしい働き方は無く、このサラリーマンが「プロ意識教」に乗せられて仕事をする事ぐらい、バカバカしい話はない。
プロ意識というのは「プロ意識が持てる環境に働く人間」が「大いなる利益」を目論んで始めるからこそ、本当のプロ意識になる。
逆に言えば「キッチリとした明確な利益」が手に入るという「前提」が無ければ、プロ意識などは持ちようがなく「持つ必要もない」のである。
で、今日の本題だけど、日本のリーマン諸君は本業では一切「本気出す必要なんか無い」むしろ手を抜けるだけ抜いて、思考力や体力をできるだけ温存し、自分で探し出した生き甲斐や趣味、得意なことを通じて、何らかの副業を持つべきだ。
その副業を磨き上げて徐々に利益を出し、その利益を積み上げ「大いなる利益」に繋げることにこそ、プロ意識を持つべきだろう。
また実際、ここまでネットが普及してるのにこれを使わない手はない。単純にワードプレスを少し齧って、ブログを始めるだけでも「何らかの広告収入」は得られるだろう。趣味や得意な事を発展させたサイトでも良い。可能性は無限にあるはずで、企業に就職してそこから収入を得るという働き方自体が、もはや「時代遅れ」だと考えろ。
なんか前にも似たような記事何回書いたら気が済むんだろうって思う
昔は依存からの脱却を目指していた時期もあったけどそれも停滞しているしね
・ショックで虚無になる生活
って感じで・・・でも人であれ物であれ依存は何事も良くないよね・・・自分をダメにする
そんなわけで一時期は意識していたけどいつの間にかジャンルに戻っていた
とはならなかった
いや楽しくはあるけども、また新展開が地雷な可能性ができてたのだ
公式から出るものならなんでも受け入れられるタイプでもないので、もし本当にダメだったら
そう決めてはいるけどじゃあその後は・・・・・・・?と考えると目の前が真っ暗になる
私はなにを楽しみに生きていけばいいんだろう・・・
コンテンツが終わって、緩やかに終えるならいい卒業だなと思えるけど、逆燃料かつ唐突に終わりを迎えるのは全然違う
またあの虚無が戻ってくるのかと思うと怖くて仕方がない
じゃあ別ジャンル探せば?って話だけど中々ハマれないタイプなのでそれも難しい
ここまで書いてなんてアニメ以外生き甲斐のない中身のない悲しい女だろうって自分で思った
周囲を見てると割とあっさりした反応だし(実際の心の内は分からないけど)自分だけ異様に怯えて執着して
すごく恥ずかしい
ほかの人は他にも好きなアニメ・・・に限らず好きなものや人、生活があるのに自分は何をやっているんだろうって思う
厳密には自分にも他に好きなことがないわけじゃないけど、やっぱり比重はジャンルに寄ってしまうのは否めない
そういう状況を見ると自分って何もないんだなぁと虚無感を覚える
依存やべえって気づいてからはこの虚無を頻繁に感じるようになってきた
絵を描いてても、周りは今こうしてる間も現実に生きてるんだよなと思う、これしかやってない自分が恥ずかしい
こうやって周囲を気にしすぎるから自分ってもんがないのかもしれあい
結婚と同人について語ってる人がいたけど、流石にあそこまでは出来ないものの部分的には共感した
こうなると逆に地雷踏み抜かれて爆破されたほうが自分のためにはいいのかもしれない
脱却してもまともな人間にはなれそうもないけど
だけど人間いつか冷める生き物だから、出来れば熱が落ち着いていつの間にかやめていた
で終わりたいや
知人が中学校教諭をしているんだけど、土日の部活動のせいで休みがなく、休めないせいで恋人との関係がギクシャクし、休みを入れようとすると生徒の親から「やる気がないのでは?」「他の中学校は休んでないですよ?」と言われるし、手当は雀の涙ほどだし、ほんとうにつらい、部活動なんか撤廃してほしい、こっちだってやりたくてやってるわけじゃない(なんて言おうものなら生徒の親から学校に電話がかかってくるから言えない)、やりたきゃ地域のクラブチームなりなんなりで勝手にやってほしいと話していた。
その一方で、恋人もおらず結婚もせず独身貴族を謳歌している教諭にとっては、部活動こそ自分の生きる道みたいなところがあって、部活動を撤廃してしまうと生き甲斐をなくしてしまうらしい。知人はそんなんしったこっちゃねえ、と話していた。私もそんなんしったこっちゃねえと思う。
サブカルとオタクの「自尊心の供給源」(2018-09-16)
https://anond.hatelabo.jp/20180916165915
「オタク≒男」、「サブカル≒女」といえる。男らしさ、ダンディズムを追求する男は「オタク」とは
呼ばれないが、【自分好みのフィクションを「自尊心の供給源」にする】という意味では、
正しく「オタク」である。「男らしさ」「ダンディズム」も「(無自覚な)フィクション」の一種だから。
車や酒、煙草、釣り、賭け事などの趣味にこだわり、生き甲斐を求める男は、「オタク」っぽくないだけで、オタク。
一般的に言う「オタク」のイメージは、非モテの男、いじめられっ子の男、だろう。
『女』が「サブカル」に多い理由は、「平均的(≒模範的)な女性像」を強固に内面化して育つからだろう。
「平均より劣る(=ブサイク、デブ)」、「アウトサイダー(仲間外れ、常識外れ)」にはなりたくない、なってはならない、
という恐怖心・警戒心を常に感じているからだろう。その必然的な裏返し、反動が「サブカル化した女(腐女子?)」だろう。
女性もジャニーズとかイケメンの裸をエロく撮った女性向け雑誌でキャーキャー騒いでるよね。
あれは性的搾取ではないのだろうか。それとも男性の裸は性的でないとでも言うのだろうか。
女性誌に書かれているフェラの仕方やらセックスのいろはなどは最早なんなのか。
確かに女性の裸の方が禁忌的な感じはするが、それは水着で上半身を隠すか隠さないかという価値観が根付いているからだろう。
いや、私も女だから別に女性側だけが悪いと言いたい訳ではないんだけどさ。
女性は男性アイドルに、男性は女性アイドルに、それぞれそこで楽しんで生き甲斐を得ているのだからいいのではないか。
キモオタの二次元どうこうだって、立ち返ってみれば男二人をホモにして見てウフフと笑っているのだって相当だ。
男性同士は崇高で女性のエロ及びNLなどは汚らわしいとかいってる自称潔癖ウーマンは黙っててくれ。そういう話じゃない。
しかも最近のBL、男性向けエロを参考にした汁濁アヘアヘ系が増えている。穴と棒の数がちょっと違うだけで実質一緒じゃん。
ただちょっと疑問に思ったのだ。
女性地下アイドルが男性ファンと接触近いファンサービスをしていて、そのファンサービスの為に多量の金を注ぎ込む。
一方で、バンギャはぱっとしないバンドのボーカルやギターを取り巻いて時には寝技に持ち込み、他の女性ファンにマウントを取る。
形はちょっと違うけども、結局は人間の下卑た欲望を貪っているに過ぎない事だ。
結局、差別だ搾取だ、って騒いでいる人ってその人が一番それらを差別及び搾取してるよね。
何が言いたいかよくわからないしこれが初めての投稿だからどうなるかなんざ全くわからないが、慎みのある日本人像ってのはもうこの平成で絶滅した気がする。
中学生からおっかけになって、かれこれ15年くらい何らかのヲタクをやって生きている。ジャニーズ、お笑い、女子アイドル…いろいろなものを追い掛けて、応援しているのが生き甲斐だった。逆を返すとそれ以外生き甲斐のない人間だ。だから自分の持ちうる時間もお金も全力で注ぐのは苦痛じゃない。幸い、今まで好きになった人たちは上昇志向が強く、明確な目標があって、ファンの応援を必要としている人ばかりだった。はてブロやtwitterなどで良さを広める、チケットを買う、CDを買う、友達を連れて行く、感想の手紙を送る。奢りかもしれないけど、上昇志向の強い芸能人を応援する上で、自分のヲタクのやり方が間違ってはいなかったと思う。
晩夏、新しい人を好きになった。誰かを好きになるのは理屈じゃなくて一瞬だ。それは恋愛だって、追っかけの対象だって同じなのだ。
新しく好きになった人は劇団の俳優さんだった。いま、私はどうやってその人の応援をすれば良いか分からない。
多分、現状に満足していてこの状態が続けば良いと思っている。劇団の仕事以外はほぼ仕事がない。けれど上昇志向はない。大きな劇団の中堅の俳優さんなので首になることはまずないだろう。特に自分個人へのファンは求めていない感じがする。劇団へのファンは歓迎の節だが、自分のファン、というものに対しては反応が薄い。
彼の舞台を見るのは楽しい。胸が高鳴るし、同じ演目でも何度だって見たい。
なのに、やっぱり何故か満たされない。とてもショックだ。けれど、それは満たされないことに対してではない。求められたくてヲタクをしているわけではない、と思っていたのに、私はやはりどこか求めてほしかった、ということに気付いてしまったからだ。自分のしたことを喜んでもらえる、目に見えて反応がもらえるということの甘美さに私はちっとも気付いていなかった。すごく、すごく、恥ずかしい。
書いていても何を言いたいか分からないんだけど、とりあえずいま、どういう風に応援したら良いか分からない。いや、ファンなんだから普通に見に行けばいいんだけど。だけど反応がないとどうしても悪い考えがよぎる。ファンレターも迷惑かもしれないし、多ステも気持ち悪いと思われてるかもしれない。逆に、じゃがいもみたいに何とも思われてないかもしれない。私は気持ちが悪いことにそのどちらも嫌なのだ。個としての認知はいらないが、ファンの塊として「いつもありがとう。応援してもらえて嬉しい」とは思ってほしい。気持ちが悪いけど、どうしてもその欲を捨てられない。
友人みんなから「あなたに合ってない推しだね」と言われる。私もそう思う。応援されるのが好きで、褒められるのが好きで、愛されるのが好きな人を応援する方が私は幸せだと思う。でも、好きなのだ。舞台の上で一瞬で分かるその声が、情けない役ほど似合う困り顔が、日替わりで繰り出す小ボケが、キメるときはキメる姿が、とにかく大好きなのだ。いつか、この気持ちも笑い話に出来るかもしれない。
自分の例が成功例だとは思わないが、悩んで思い詰めている人の参考にもなるかと思い、書いておく。
私は社会科学系の博士課程に進んでいたが、研究成果が全く上がらない、やる気もないダメ院生だった。査読付きの論文なんか一編もないし、当然学振もなかった(申し込んですらいなかった)。家族のこともあり、いよいよ食い詰めた10年前には29になっていた。どうにもこうにもならず、就職することにした。
と言ってもどうやって就職したらよいのかもわからないので、リクナビとかがやっている新卒や第二新卒向けのイベントに行った。出展していた会社に片っ端からエントリーした。30社くらいエントリーした。
自分の中でカッコいいと思ってたコンサルとか金融とかSIerとかは軒並み落とされたが、全く興味のない業種の3社から内定をもらった。その中で、相対的にまともに思えたのが前職の会社。5年間働いて同じ業種で転職したのが今の会社。
就職するときに心配していたのは、再スタートするには遅すぎるのではないか、ということだった。確かに就職して2年ぐらいは年取った新人なのでへんな感じだが、部署異動をしてからは誰も細かいことを気にしない。さらに言えば、転職をしてしまえば、その人が二十代に何をやっていたかなんて事は他の人にとってどうでもよいことになる。つまりは、どこかの会社に入ってしまえば、後は職歴ロンダリングで、院生として過ごした日々はどうとでもなってしまう。
自分はダメ院生だったから一社目の就職は思ったようなところに行けなかったが、理系で、プログラミングや数学なんかができる人は就職の口はそれなりにあるのではないか。ガチ文系は知らん。学習塾とかに入社して転職するのがいいのではないか。
私のような人間ですら、就職によって失ってしまったものがあると感じるのだから、研究でそれなりの成果を上げている人であれば諦めるのは辛いとは思う。とはいえ、毎月給料が振り込まれること、毎年、翌年の心配をしなくていいのは、精神的にすごく楽だ。年金も払っている。健康保険にも入っている。結婚した。子供も生まれた。どれも、あのままのダメな私であれば得られなかったものだ。
もらった給料で好きなように暮らすのは、かつて思い描いた人類全体への知的貢献から得られる生き甲斐とは全く違うが、これはこれで幸福である。思い詰めて死までも考えているのなら少し考えてみてほしい。
酒を飲んでしまって鬱々としているから、生き甲斐がないなんて考えてしまっているんだろう。
ここ最近は食べることと飲むことくらいしか楽しみがない、つまらない人間になってしまった。
とはいっても、最近体重も恐ろしいくらい増加しているので食べることや飲むことも抑えなきゃいけない。
そう思うと憂鬱になる。私は生きていけるのだろうか。
来月はライブが控えているし、休みの日は漫画を読んだりアニメを見たり、音楽を聴いたりして充実している。
充実しているはずなのだ。充実しているはずなのに、楽しくない。つまらない。
そりゃ、ライブに行けば楽しい。けれど、楽しいのは一瞬だけで、翌日からはつまらない日常が待っているのだ。
アニメや漫画の名作はあらかた読んでしまって真新しさがないし、映画だって古い映画の好きなジャンルはほとんど観てしまった。
世界が広いことはわかっている。
今から全く観たことがない新しいジャンルのものを観る気力が起きないのだ。
気力がなくてもできることは飯を食うことや酒を飲むことくらいしかなくて。
異性交際で付き合うとしても友達として交流するにしても、常に人は裏切る可能性を秘めてる。現に何度も裏切られた。裏切られるくらいなら誰とも交流したくない。
唯一動物は信用できる。知人が飼えなくなった小動物を引き取って世話をしているが、唯一の生き甲斐と言っても過言ではない。
でも、正直もしこの子が無くなったら私には生きる意味がなくなる。新しいペットを飼おうと思うほどのエゴもない。
何もかもがめんどくさい。消えてなくなりたい。生きるだけでお金かかるからある程度はお金を稼がなきゃいけないし、でもそれで消耗して疲れてより生きる意味が分からなくなるし、私は疲れたよ。
草になりたい。光合成して必要に応じて自家受粉して、水不足が起きたら静かに枯れる、せめて生きるならそんな風に静かに淡々と生きたい。
でも人間だとそうできないから、例えば私みたいな人を安楽死させてその臓器を生きたいと願っている人に提供ができたらいいのに。もう人間として生きたくなんてないよ。
まず、エリート女性を目指すことが困難なのは自分の偏差値を見れば分かる。もし専門職に就けても、仕事ゆえに家庭を持たないのは淋し過ぎる、仕事と家庭を両立させるために疲れ果てるのはいやだ、経済的自立のために生き甲斐も意味も見出しえない仕事をするのは耐えられない。これら不快な条件を全部排除してくれるのが、第四のコースなのだ。
夫は経済のために必要だ。子どもは夫よりなお重要だ。出産と育児は体験価値のあるイベントであり、女性なら一度は体験してみたい。そして、保育園に預けて子どもに淋しい思いをさせたくはない。
大衆は、フェミニストの「啓蒙」するところには行かなかった。娘は、母親の期待するところにも行かなかった。
結婚が女性に保証してくれる三大特典――保証された年収・達成義務からの解放・豊富な余暇時間――は、決して手放さず、その上に立って、社会から認められ、仲間に羨ましがられる仕事に就きたい。子どもがいても、生活臭のない、社会と繋がった仕事をしていたい。生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように意義ある仕事を優雅にしていたい……。
アラフォーやらロスジェネやら私の世代を表現する言葉はたくさんあるけど、これに加えて私は結婚できていないので、なんのために生きてるのかなと最近思うようになった。
周りは結婚して子供もいて家族で楽しそうにしていたり、つらい仕事も子供のためにとがんばる。
私は?
自分のために趣味のためにがんばればいいだろうと言われるが、趣味なんてないしもう無気力すぎてお金を使いたいことがない。結婚が全てではないというのは分かっているが、それは趣味や仕事やら生き甲斐がある人に当てはまる言葉だと思う。
こんな私にも恋人はいたが、婚約し引越直前で破局した。入籍してなかっただけましである。所得から私が契約者になっており、色々かかったお金は全て私が払った。ただ金が減っただけだ。
これが数ヶ月前の話で、さすがにこの年でもう生きる気力がなくなってしまった。この先なんのために生きていけばいいのか。何か楽しいことがあるのだろうか。
桃とプラムは食べれる!!いまの気分なら天ぷらも行けそう。ご飯食べるのが生き甲斐なのに美味しくご飯たべれなくてつらい!!!
多分どうしようもない奴が既にいると思うので、提案というか疑問
借金して事業をしないのは何でか?勿論既にその信用すらない人は除外。どうせセーフティネットが充実してるこの日本なのだから、一発破産覚悟で頑張ってみては?
それができないのは何で?→自分の場合は低リスクで収入を得られる状態にある為
最後に大きなストレス発散をして福利厚生抜群の刑務所に入る。まぁ国籍取れるくらい頑張れる人は、こんな選択肢に至る必要はないか。現在進行形で書いていてないなぁと思った笑
3.ディグニタスで死ぬ
これはある程度の収入水準があるが自己実現、自己確立、生き甲斐が失してしまった人向け。要はこれ以上生きていたくないけど死ぬのが怖い人
スイスにディグニタスという安楽死を支援する団体がある大体渡航費含め300万くらいで死ねるらしい。勿論現地の医者の診断がいるし、健康体は診断が認可されないばかりか