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はてなキーワード: ミニコンとは

2024-03-21

anond:20240321113411

松本人志は圧倒的にいじめられっ子いじめっ子として生きてきてるで。

大体苛められっ子が、虐めといじりの境界線を、笑えたらいじりで笑えなかったら虐めとか言うと思うか?

幼稚園や低学年の頃いじめられっ子

オレは幼いころ、何を隠そう、イジメられっ子だった。幼稚園ときプール時間自分の水鉄砲をとられても、ただ泣いてるだけ。先生に泣いている理由を聞かれても答えられないほどの気の弱い子供であった。

松本人志遺書

小学校に上がってもそれは変わらず、男の友達などまったくいなくて、女の子とばっかり遊んでいた。

松本人志遺書

小学時代障害者虐め

小学生の時。岡田って奴が居てね。足が悪くてね。片足引きずるように歩くの。オレ何度かイジメた事が有ってね。でも子供って気まぐれで。いちど家に遊びにいったの。友達でもないくせに。。。そろそろ帰ろかなって思ってたら岡田のお母さんがパートから帰ってきてね。。。

2013.06.12 00:43

https://twitter.com/matsu_bouzu/status/344479996892565505

松本人志@matsu_bouzu

。。。クラスメイト岡田が連れてきたの初めてやったんやろうね。お母さんが凄い嬉しそうで。オレにやさしくて。ありがとうね。仲良くしてあげてね。って何度も言われて。。。オレ罪悪感でたまらんようになってね。。。おばちゃんオレ岡田のことイジメたこと有るって。言えなくてね。。。

2013.06.12 00:44

https://twitter.com/matsu_bouzu/status/344480235489746944

松本人志@matsu_bouzu

。。。なにより。岡田がお母さんの前でオレと親友のふりしたのが切なくて。辛くて。。。オレ心の中で。岡田と。お母さんと。いろんなもんに何度もゴメンなさいって思って。。。

でも岡田とはその後も友達ってわけでもなかったな。。。

なんとなくの昔話。。。

おわり。

高校時代ミニコン感覚被害者遺書を書き停学になるレベルの虐め

同級生に飛び蹴りをくらわしたり、頭をポカンとどついたり、まるでおもちゃのように扱っていた。

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

こんなこともあった。授業中、突然立ち上がり、スーツと前へ歩いていったかと思うとみんながよくいじめていた同級生の頭をパカンとどつく。どついた後、表情一つ変えないで、いつものあのムスっとした顔で、スーッとまた席に戻る。

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

いつもいじめていた同級生が、ある日遺書を書いて、自殺をほめのかした。その遺書の内容は、「僕はいつも学校に行っていじめられています特に松本は、僕をいつもトイレに連れ込んで、雨あられのようなパンチを振るいます。これ以上学校に行ってもおもしろいこと何もありませんから、僕はこの世からいなくなってしまったほうがいいと思っています

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

「俺らは何回も停学くらってたから、あのときは無期だったんかな。松つんは初めてだったから、確か二週間か一ヶ月ぐらいだったと思うわ。担任先生学年主任職員室に呼び出され、停学の宣告を受けたの覚えとるわ」

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

松本高校の時無期停学になった時の話があってね。ほんまにな五人ぐらいでな、遊んでてん。いわゆるほたいてたんやな。で、あの一人ちっちゃい奴がおってんけど、そいつを何かこうみんなでミニコント的な感じで、こう膝蹴りみたいのを…もう全然入れてないで。

放送室 第233回 2006年03月18日

松本ヘッドロックう~やったりとかしてたわけよ。でも、確かに若干いじめられっぽい感じの奴やったけど、少なくともその場は遊んでやってたわけよ。俺らにしたらもう普通にミニコント、遊んでるだけやったんけど、次の日に原稿用紙5枚ぐらいに、そいつがあのー「集団リンチを受けた」みたいな。

放送室 第233回 2006年03月18日

松本:あの~誰々君にヘッドロックをされ、その後松本君が膝蹴りを数発僕の腹部に…みたいなことをバーッと書かれて、ほいで全員無期停学になったのな。で、そん時は「いやいやいやいやー、ありえへんなー」って。

放送室 第233回 2006年03月18日

松本:ほいでみんな他の5人も全員みんな「いや、もうあいつ頭おかしいんかい」という話やんか。いやねんけど、まあまあ今になって考えると、彼にしたらそんな感じやったんやろなあ。

放送室 第233回 2006年03月18日

2024-01-09

松本人志高校時代イジメの話

松本人志

高校の時、無期停学になった時の話があってね。ほんまにな、五人ぐらいでな、遊んでてん。いわゆる、ほたいてたんやな。で、あの一人ちっちゃい奴がおってんけど、そいつを何かこう、みんなでミニコント的な感じで、こう膝蹴りみたいのを…もう全然入れてないで」

ヘッドロックう?やったりとかしてたわけよ。でも、確かに若干、いじめられっぽい感じの奴やったけど、少なくともその場は、遊んでやってたわけよ。俺らにしたら、もう普通にミニコント、遊んでるだけやったんけど、次の日に原稿用紙5枚ぐらいに、そいつがあのー『集団リンチを受けた』みたいな」

「あの『誰々君にヘッドロックをされ、その後、松本君が膝蹴りを数発僕の腹部に…』みたいなことをバーッと書かれて、ほいで全員無期停学になったのな。で、そん時は『いやいやいやいやー、ありえへんなー』って」

「ほいで、みんな他の5人も全員みんな『いや、もうあいつ頭おかしいんかい』という話やんか。いやねんけど、まあまあ今になって考えると、彼にしたらそんな感じやったんやろなあ」

放送室』第233回:2006年03月18日

2024-01-08

anond:20240107145636

小学時代は足の悪い同級生いじめたと自分で言ってる

高校時代は小さい同級生自殺未遂に追い込んだといじめ仲間も言ってるし自分でも虐めていたと言っている

ワイドナショーでも松本は笑いが生まれたらイジリで、笑わなかったら虐めって言ってたじゃん。

松本の笑いは徹底して弱者をいじって笑いを取る笑いなんだよ。

同級生に飛び蹴りをくらわしたり、頭をポカンとどついたり、まるでおもちゃのように扱っていた。

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

こんなこともあった。授業中、突然立ち上がり、スーツと前へ歩いていったかと思うとみんながよくいじめていた同級生の頭をパカンとどつく。どついた後、表情一つ変えないで、いつものあのムスっとした顔で、スーッとまた席に戻る。

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

いつもいじめていた同級生が、ある日遺書を書いて、自殺をほめのかした。その遺書の内容は、「僕はいつも学校に行っていじめられています特に松本は、僕をいつもトイレに連れ込んで、雨あられのようなパンチを振るいます。これ以上学校に行ってもおもしろいこと何もありませんから、僕はこの世からいなくなってしまったほうがいいと思っています

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

「俺らは何回も停学くらってたから、あのときは無期だったんかな。松つんは初めてだったから、確か二週間か一ヶ月ぐらいだったと思うわ。担任先生学年主任職員室に呼び出され、停学の宣告を受けたの覚えとるわ」

鹿砦社ダウンタウン浜ちゃん松ちゃんごっつええ話」

松本高校の時無期停学になった時の話があってね。ほんまにな五人ぐらいでな、遊んでてん。いわゆるほたいてたんやな。で、あの一人ちっちゃい奴がおってんけど、そいつを何かこうみんなでミニコント的な感じで、こう膝蹴りみたいのを…もう全然入れてないで。

放送室 第233回 2006年03月18日

松本ヘッドロックう~やったりとかしてたわけよ。でも、確かに若干いじめられっぽい感じの奴やったけど、少なくともその場は遊んでやってたわけよ。俺らにしたらもう普通にミニコント、遊んでるだけやったんけど、次の日に原稿用紙5枚ぐらいに、そいつがあのー「集団リンチを受けた」みたいな。

放送室 第233回 2006年03月18日

松本:ほいでみんな他の5人も全員みんな「いや、もうあいつ頭おかしいんかい」という話やんか。いやねんけど、まあまあ今になって考えると、彼にしたらそんな感じやったんやろなあ。

放送室 第233回 2006年03月18日

2023-12-07

anond:20231205211140

場所がないか

流通センターでは、地区別のミニコンテナに積荷を仕分けしておいて、

プールトラックが来たらクレーンで乗せれば一瞬で済むんじゃない

港湾方式

2023-06-04

地の鼓動~あなた方はご存知ないお話します~

これは地の鼓動

https://twitter.com/komugiyama/status/1660214020425781248?s=20

こむぎやま💙💜

@komugiyama

あなた方はご存知ないお話しま

私は阪神・淡路大震災被災者です

J-Friendsという団体から多額のご寄付あやかった者です

カウコンと呼ばれているもの2003年まで阪神・淡路大震災チャリティーコンでした

時を経て私は嵐担となり、東日本大震災後にチャリティーに協力する側になりました

引用ツイート

PENLIGHT(ペンライトジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会

@Penlight0412

5月21日

報道番組独立性を損なう働きかけと受け取られかねません。このような事がまかり通るのであればタレントニュースキャスターを務めること自体不適切と言わざるを得ません。

どうかジャニーズ事務所企業として誠実な対応をしていただきたいです。

このスレッドを表示

午後6:20 · 2023年5月21日

こむぎやま💙💜

@komugiyama

5月21日

更に時を経てSmile Up!Projectが発足し、私の勤め先にもそのロゴが描かれたダンボールが届きました

コロナ予防衣です

Twenty★TwentyのCDを買った上でそれが届いた時、口には出しませんでしたがとても面映ゆい気持ちになりました

こむぎやま💙💜

@komugiyama

5月21日

クワ学校宮城コンサート東北各地のミニコンサート、24時間TV世間では偽善だなんだと言われます偽善と呼ばれてもやったほうがマシです

何もせず安全なところから自分正義を振りかざし批判するのはさぞかし気分のいいことでしょうね

こむぎやま💙💜

@komugiyama

5月21日

あなた方PENLIGHTはその何にも協力したこともないのでしょう

K-POP好きなあなた方は聞いたことも見たこともないでしょう

TOKIOが今なお福島振興していることも他人事なのでしょう

私は当時のジャニヲタに助けてもらい、東北へ行くことで今度は助け、最終的に自分自分を助けました

こむぎやま💙💜

@komugiyama

5月21日

それは私の誇りです

誰にもそれを汚すことはできない筈です

謝罪したら謝罪したで非難し、報道したら報道したで非難し、コメントしたらコメントしたで非難する

それ誰かの役に立ってます

自分自分が虚しくなりませんか?

隣の国の音楽が好きならそれはそれでいい

でも私達の邪魔はしないでほしい

こむぎやま💙💜

@komugiyama

5月21日

あなた方が「ニュースキャスターを務めること自体不適切と言わざるを得ません」という人物が「何かしたい」と言って始まったのがワクワ学校です

何も知らない人達に何か言われる筋合いはありません

不適切かどうかを決めるのはあなた方ではない

ジャニヲタを騙るのは本当にいい加減にしてほしい

さんふら

@sunf_log_lol

ジャニーズ性犯罪最高裁で認められている」と言う人に読んで欲しい

裁判結果を持ち出すなら、刑事裁判民事裁判システム意味合いの違い、実際の裁判の経緯や内容など最低限のことは理解してからにして欲しい、と法律オタクとして強く思う

引用ツイート

Luna

@lunaticbluerose

5月21日

ジャニーズが文春を相手に起こした名誉毀損裁判について、とても分かりやす説明してくださってます

ジャニーズと文春の裁判とは~「認定」という言葉に騙されるな』

#アメブロ https://ameblo.jp/noripyan3104/entry-12803811656.html

午前5:31 · 2023年5月22日

2023-04-15

CDプレイヤーが家にない

つのまにやら無くなってる。

CD結構あるのに

どうやって聞けば良いのやら

まだ売ってるのかな。

CDラジカセとかミニコンボとか

高校に受かったら絶対買ってよ!約束からね!

みたいなやり取りはもう無いんだろうな。

雨の日は家で暇だわ

2022-08-20

OSSWeb系のはしり

オープンソースソフトウェア(OSS)は、ソフトウェア開発でも長い歴史を持ち、なおかつかなり個性的な特徴がある。

ざっと挙げるなら

こうしたコミュニティからまれてきたソフトを最も多用しているのは、他ならぬWeb系だろう。

サーバサイドプログラミングが中心になることからLinuxを触る機会も他の開発系に比べて格段に多いだろうし。

結果、「UNIX哲学」とかGNU歴史とか全く意識せずとも、こうした活動を通じていつの間にかOSSエッセンスを身に着けた人が、Web系には少なからずいそう。

その意味では、OSSがどういうわけか今のWeb系の礎になってしまったという意味で、タイトルに書いた通りになっているのかなーと。

2022-07-18

PCが強かった今までとこれから

読者諸兄にDECという名前会社を覚えている人はいるだろうか。

ミニコンの名機と言われたVAXを世に出し、結局のところそれが理由で潰れた(正確には買収された)メーカーだ。

要は

という経営判断が致命的ミスだったと。

その後しばらくしてWindows95の登場と、それをPCで十二分に動かすことを可能にしたPentiumプロセッサが、それまでの状況を決定的に塗り替える結果となった。

そしてカトラーMicrosoftに引き抜かれてWindowsNTを開発し、後にこれがWindowsOSメインストリームになったと。

この流れの背景には、MicrosoftIntelによる革命的なパラダイムシフトが大きいと思う。

すなわち、従来のコンピュータにおいてソフトは「ハードのおまけ」でしかなかった。

それをビル・ゲイツ

「将来のコンピュータソフトの出来不出来こそが最も売上を左右する。ハードは優れたソフト動作させるための部品しかない」

予測し、PCプロセッサを作っていた「マイコン屋」Intelもこれに賛同したと。

そして賭けに勝った。

親友だったジョブズの影に隠れがちとはいえビル・ゲイツもまたこの一点だけ取っても恐るべき慧眼であり、偉大な人物だと思う。

ジョブズといえば「完璧で美しいけど高い」Macintoshの売上がさっぱりだったことを踏まえ、Windowsは「そこそこの値段でそこそこの性能」を落とし所にしたのも巧い。

とはいえMSIntelに何も不安がないといえば嘘だろう。

MSモバイル分野では今なお見る影もない。ぶっちゃけPCが廃れたらヤバくない?という。

IntelIntelで64bitアーキテクチャの主導権とZenアーキテクチャの大ヒットにより、少なくとも過去2回AMDに敗れている。

既にコモディティ化している「Wintel」のPCが今後どうなるか、注視したい。

UNIX 哲学」についていくつか

名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita

この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である

参考文献

初期の UNIX歴史について興味がある向きには次の書籍お薦めする。

Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)

和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。

また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。

哲学

記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。

https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date

ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。

もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。

この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDFOCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX論文なのだ。もちろん論文性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイ哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白いUNIX開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然時代だったことは間違いない。

UNIX認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイ論文に影響を受けた布教のためのああい説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本最初期の UNIX 解説本のひとつである村井純井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。

オペレーティングシステムは,コンピュータを使うものにとっての環境形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIXオペレーティングシステムとしての個性ではないだろうか。

 

    プロフェッショナル UNIX村井純井上尚司・砂原秀樹,1986,アスキー)p 3.

「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能コマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである

そしてじつは UNIX場合布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。

UNIX の利用環境

UNIXPDP というミニコンピュータミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校コンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器コンピュータではなくコンピュータ接続するための端末装置ターミナル)だ。端末装置キーボードで打った文字コンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 UnixOSCLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置エミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。

さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっとコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥CPU でそっちの洗濯機ハードディスク,あの机に置かれているタイプライタ管理コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代お話だ。

端末装置それぞれからUSB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。

結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。

自由不安定OS

当時の UNIX評価一言で表すと〝自由不安定OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由さらに他のメインフレームミニコンOS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロOS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番ディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。

こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイ1986年11月から1988年10月掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器1980年ごろから UNIX サイトスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。

CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU実質的に停めてしまうことが UNIXはいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンド10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに viカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているとき勝手をやられると非常に困るのである当人仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。

ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイル自由に作ることができる。したがって,自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソールタイプライターにエラーメッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソールタイプライターが一晩中エラーメッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図完璧に打ち砕かれてしまうのである

 

    root から / へのメッセージ高野豊,1991,アスキー)pp16-17.

そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンド10個くらい同時に走らせ」たり「自分プロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイト利用者全員に UNIX設計基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX伝道がより苛烈だった理由ひとつがここにあるのだ。

ミニコン UNIX終焉

ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代UNIX は Research UNIXCSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIXライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。

もっともそういう70年代風味の牧歌的風景ミニコン世界限定の話であった。BSDのものミニコンのものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSDUnixAT&T推し進める System V などがワークステーション市場舞台80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PCUnix であるマイクロソフトXENIX も当然参戦した。ミニコン世界牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争あくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&TBSDUnixSun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。

こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unixのもの文化にも変化をもたらした。まず激しい競争Unix の高機能化を加速した。商品として判りやす惹句が「あれもできます,これもできますなのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者自由制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix現在UnixOS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unixシステム管理入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空ソフトウェアハウス(開発会社)を舞台新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。

UNIX 哲学背骨

当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイ論文結論部分に書かれたそれは,1973年出版されたイギリス経済学者エルンストシューマッハー著作題名で,中学生英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。

Small is beautiful.

マキルロイは『人月神話』を引いて一定留保をつけてはいものの,これが UNIX 哲学背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•csアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?

ひるがえって現在UnixOS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX仮想敵とした OSのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。

2021-12-20

AliExpressのDMみてたら

こちらもお気に入りかもしれません」とかいアイテムの中に

ミニショベル2.6トン 144万円

ミニコンクリートミキサー 185万円

とかあって笑っちゃった

買う人おるの?

2021-11-15

都心部埼玉イオンとは圧倒的に文化度が違った

から20分くらいで浅草に行ける場所引っ越し

浅草、お高くない飲食店が数ヶ月程度じゃ回りきれないくらいあるし

スカイツリーまで行けば水族館博物館もあって

ソラマチの中はなんかキラキラした食べ物が、趣向を凝らした展示で売ってるの。

広場みたいなところでは楽器演奏する人たちが無料ミニコンサートやってるし

なんか文化度の圧倒的格差を感じた。

とりあえずすみだ水族館年間パスポート取った。

2021-11-06

anond:20211106224834

VAXという超有名なミニコンOSを作った実績というだけで、もう十分に「華々しい」。

当時だったら間違いなくスタープログラマだと思うぞ。

2021-07-25

松本人志高校時代イジメの話

松本人志

高校の時、無期停学になった時の話があってね。ほんまにな、五人ぐらいでな、遊んでてん。いわゆる、ほたいてたんやな。で、あの一人ちっちゃい奴がおってんけど、そいつを何かこう、みんなでミニコント的な感じで、こう膝蹴りみたいのを…もう全然入れてないで」

ヘッドロックう?やったりとかしてたわけよ。でも、確かに若干、いじめられっぽい感じの奴やったけど、少なくともその場は、遊んでやってたわけよ。俺らにしたら、もう普通にミニコント、遊んでるだけやったんけど、次の日に原稿用紙5枚ぐらいに、そいつがあのー『集団リンチを受けた』みたいな」

「あの『誰々君にヘッドロックをされ、その後、松本君が膝蹴りを数発僕の腹部に…』みたいなことをバーッと書かれて、ほいで全員無期停学になったのな。で、そん時は『いやいやいやいやー、ありえへんなー』って」

「ほいで、みんな他の5人も全員みんな『いや、もうあいつ頭おかしいんかい』という話やんか。いやねんけど、まあまあ今になって考えると、彼にしたらそんな感じやったんやろなあ」

放送室』第233回:2006年03月18日

2021-04-23

7人のオタクで思い出したんだけど

あんまり売れてないアイドルミニコンサートの会場で

コンサート見に来てるファン相手アイドル電話番号とか売ろうとするやつが普通に出てきてた(別にメインの話に関わるわけでもなく日常のワンシーン的な感じで)

そういうのよくあったの?

教えて昭和生まれ増田

2020-11-18

電源コードを変えると音が変わるのはピュア界では常識です。

私は発電所から専用線我が家まで電力を引っ張り込んでいます

電線の材質は無酸素銅が最高ですよ。

おかげで、ウチはミニコンですが、ハイエンドよりいい音がしますよ。

ちなみに電力会社の違いでも味付けにサがでるよ。

東京電力:バランス:モッサリ:遅い:C

中部電力:低域量感:低域強すぎ:A+

関西電力:高域ヌケ:特徴薄い:B

中国電力:透明感:低域薄い:B+

北陸電力:ウェットな艶:低域薄い:A-

東北電力:密度とSN:低域薄い:A+

四国電力:色彩感と温度:低域薄い:A

九州電力:バランス:距離感:C

北海道電力:低域品質:音場狭い:B-

沖縄電力:中高域:モッサリ遅い:A

2019-11-23

ミニガンとかミニコンとか

めっちゃ大きいのに、歴史的経緯とか何かしらの背景があって小さいという修飾詞がついてるものって面白いと思うんだけど、他になんかある?

2019-06-18

anond:20190618102647

電源コードを変えると音が変わるのはピュア界では常識です。

私は発電所から専用線我が家まで電力を引っ張り込んでいます

電線の材質は無酸素銅が最高ですよ。

おかげで、ウチはミニコンですが、ハイエンドよりいい音がしますよ。

ちなみに電力会社の違いでも味付けにサがでるよ。

電力会社長所短所お奨め
東京電力バランスモッサリ遅いC
中部電力低域量感低域強すぎA+
関西電力高域ヌケ特徴薄いB
中国電力透明感低域薄いB+
北陸電力ウエットな艶低域薄いA-
東北電力密度とSN低域薄いA+
四国電力色彩感と温度低域薄いA
九州電力バランス距離感C
北海道電力低域品質音場狭いB-
沖縄電力中高域艶モッサリ遅いA


で、上は発電所から5km地点での特徴。

それより自宅〜発電所間の距離が長いと上記特徴+マイルドの味付け

短いと上記特徴+刺激的な味付けが加わるよ。

2019-02-25

昔、学校教科書かなにかで読んだ小説

様々な場所を巡行し演奏をする二人組(もしくは三人組)。確かバイオリンとかチェロとか、そんな弦楽器だったと思う。

病院に呼ばれてミニコンサートを開いていた。かつてはフルート奏者だったが、事故で重い後遺症が残った患者が出てきたはず。(他の患者ほとんど意思疎通が出来ないような重い症状だった記憶。というか病院自体がそういう人を受け入れる場所だったかも)

タイトルが思い出せない。読んだことのある人いない?

2017-12-19

ウーマンラッシュアワーのどこが「面白くない」か

ウーマンラッシュアワー漫才賛否両論話題になって大変結構なことだ。

政治ネタ、際どいネタがたくさん入って刺激的だったのは良いが、一方で面白くは無かった、という声も多く聞かれる。

なぜ面白くなかったのか、いくつか理由はあるが、おもに漫才構成観点から指摘したい。

序盤は良かった。軽い吉本批判芸人批判から自虐。緊張と緩和、高慢さと滑稽さの落差が大きく笑いの量も多かった。

続いての原発ネタも同様に社会批判的でありつつ、福井で夜間に電気がついておらず電気必要ないという発電量とのコントラスト。背景に発電地と消費地がなぜ違うのかという社会問題はありつつ、それが気にならないほどの落とし方。ここが一番笑いの量が多かった。

その後は、そこに住みたい人はその地に対する愛情を示せ、そうでなければ住ませない、というやり取りのミニコントが繰り返される。ここからがややこしい。

始めは福井新幹線かがやき福井に来る30年後には福井高齢者は星になって輝いている、というかなりブラックオチブラックであることもだが、これを言うことが福井愛を示していることになっているのかわかりにくい。「輝いている」と言うことを肯定的に捉え、褒めている、と言うことなのだろう。まずここで少しつまづく。が、それほどは気にならない。話芸の達者さと勢いで笑える。

次に、東京都民ファースト自分ファーストになっている、と言う都知事批判オチ。これも東京愛になっているのか非常にわかりにくい。都知事東京のためになっていない、それを指摘することが東京愛になっている、と解釈するのか。かなり好意的解釈をすればそうなる。この辺りからほとんど勢いだけで進む。

沖縄熊本に関しては、最も社会派発言として評価されている部分かもしれない。ここは構造的に地方への配慮を訴えることが地域愛に繋がり先述の戸惑いはほとんどない。その代わり、正論になってしまい笑いの量もあまり多くない。とはいえ、ここは次の展開へのネタ振りパートとも言えるので勢いで押し切れば十分と考えて良いだろう。

ここから地域の飛び方自体が笑いとなる。

突然のアメリカ。これ自体は話の飛躍があり面白いしかし、日本アメリカにとって都合の良い国、と表明することがオチだが、これもアメリカ愛なのか疑問。

次に北朝鮮。ここも地域のチョイスは面白いしかし、キム総書記の「単なる太った動物」という悪口自分のことだろう、というオチは、それこそただの悪口北朝鮮愛になっていない。体制に反対している北朝鮮国民目線、ということかもしれないが、説明なしでその設定はかなり無理がある。

最後日本。この展開は綺麗で良い。ここもこれまで同様だが、ニュースの内容が悪いのは国民意識が低いから、というオチ。もはや愛でもなんでもない。

後半は当初のコント構造ほとんど崩壊しており、メインは二人で社会批判を勢いよく言い切る、ということだけが目的化されている。そこを面白さと捉えるなら面白いが、それにしては社会問題の切り取り方に偏りもあり、真面目すぎるようにも見える。この場合意見に対する賛否や見る側の個々の問題に対する距離感面白いかどうかはかなり変わる。

そして一番最後に村本が、「お前たちのことだ」と観客に指をさしながら批判して去っていく。ここでそこそこ大きな笑いが起きる。

これが笑いになるということは、つまりこれまでの社会批判は芯を食っていない、ということを示している。早口でまくし立てていること自体がやりすぎであり、ある種の道化となっているわけだ。視聴者には、このような少しぶっ飛んだ人に少々批判されても笑えるという余裕が生まれている。一段低いところからわあわあ言っている人。そのようなポジションを村本は意識的に作り出している。だからこそ、社会批判が全体として笑いに変わっているわけだ。

これは逆に言えば、社会批判が軽くなってしまう、ということでもある。

上述のように、笑いの構成として整合性にやや無理がある。それはおそらく、強引に社会批判ねじ込んでいるからだろう。その強引さ自体が笑いでもある。

まり社会批判の強さ、正しさと笑いの量は相反するものとなっている。

そうなると、一部で熱狂されているような、よくぞ言ってくれた、という賞賛は笑いの量の少なさ、つまり面白くない、ということの象徴とも言える。

とは言え、これも含めて計算通りなのだろう。笑いの量を減らしても話題性、あるいは自分の言いたいことを言う、と言うネタなのだ。その意味では、大いに成功していると言える。一方で笑いが多少犠牲になってしまたことも否めない。

今後、同じようなスタイルは難しいだろう。今回は話題性としては非常に良かったが、この先同じようなことを繰り返せば、笑いの量が減っていくか、道化として批判インパクトが失われるか、どちらかに収斂して行かざるをえない。同じ社会批判道化には爆笑問題太田がいる。彼はかなり道化よりだ。

まあ、もともと村本も同じことを繰り返す気もないだろうから要らぬ心配なのだが、一部の賞賛者が期待するような、お笑いに変革が起きて社会風刺が増える、というような形には良くも悪くもならないと思われる。

2017-09-05

僕の好きだった上司

上司は前を歩いてるキレイな後ろ姿の女性がいたら顔をチェックせずにいられない性分だ。

からくそこでミニコントをはじめる。

増田くん、僕、ちょっと用があるから先を急ぐよ」

と大きめの声でいったあと、小走りで行く。

女性を抜かしたくらいで、「あ、忘れてた」って振り返り

そのタイミングで顔をチェックしてまた小走りでおれのところに戻ってきて

適当な用件をおれに話しつつ小声で「ブスだったよ」という。

久しぶりに思い出したけど4回くらいやってて「美人だった」といったのは1回もなかった。

イマイチ」が最高評価だったのかな。

んー、だからおまえ40過ぎても彼女いない歴年齢の素人童貞なんだなと今にしては思う。

でも、上司大好きだった。すっかり不義理で縁遠いままだけど、今、なにをされておられるのだろう。

2014-04-07

笑っててもいいかな?

 フィナーレに関する目に留まったいくつかの……多くの記事と多くの部分におよそ三十年分の記憶との齟齬があり、明石家さんを軸に百字で収まらぬあれこれを書き留めておこうと。

笑っていいとも!最終回スペシャルで、明石家さんまはこう考えていた~エムカクさんによる文字起こし - Togetterまとめ http://togetter.com/li/651874

 文字起こしではなくライブ関西ローカルラジオを全国の明石家さんファンが聴けば、おそらくその数は激減すると思う。伊集院ラジオを聴きスタッフ馬鹿笑いにたちまち拒否反応を起こす関西人よりも多かろうと。

笑っていいとも!」へのたけし乱入はたいした事件ではなかった。登場でいきなり出演者の首を締め上げるのは当時からお約束。たけしが人選を間違えて変になった。「お笑い論を偉そうにぶっていた康夫にカチンときた」といった経緯もない。そもそも初期のいいともアングラ芸人タモリを始めとする監督芸術家作家アナウンサー文化人が時事風俗を斬る、社会風刺を主とする番組であったのだ(田中裕子回必見の安産祈願を巡る宗教団体の抗議等々により、観覧客だけでなく視聴者にもタモリは恐怖感を抱いてしまい、ゆるいお笑い路線となった。最終週の後説で安産祈願ネタタモリがややムキになって話していたのが感慨深い)。ほぼ初対面で髪をぐしゃぐしゃにされた康夫がむくれたのはたけしのミス。後のインタビューで「あそこで俺の首を締めかえしたら成立したのに、これだから作家ダメ」とたけしが語っていたが、芸人矜持を偉そうに語るなら当時毒づいていたタモリに(大橋巨泉なぞに認められる奴はそろって贋物だとか)いけよと思った。たけしオタクを自負する太田ならこのインタビューも当然読んでいたはずだが、フィナーレでは反撃を恐れて放りっぱなしで逃走、康夫は仕方なく傍の田中裕二に組み付いたが本気で抵抗され、諦めて壇上を降りる康夫の背中に裕二は蹴りをかます(当たってはいないが)。「あいつは、テレビの前の皆様に向けてじゃないんですよ。あれは俺に向けてやりよったんですよ」は明石屋さんの自意識過剰だと思われ。あと、いいとも降板は選手権で笑いを取ったことを責められせいではなく、制限時間オーバーで失格と裁定されたのが気に入らなかったため。

 鶴瓶ヤンタンも聴いたが、同じく最初に読み上げられたリスナーハガキが「師匠の引き際に感嘆した、素晴らしい」だったのが象徴的。共演NGが本人よりも外野スタッフ死活問題に帰するという見解は正しいのではと考える。さんま毒舌というより真正から他者批判を聞いていれば、共演を避けるよう周囲が動くのも仕方ないなと。さんまはNGが多いタレントという印象。徳光とのNGは徳光側の意向もあるのだろうが、「次番組に呼んだら俺は降板する」とからくりTVのスタッフに伝えた野村克也のケースは異例だろう。ひょうきん族とんねるずが出演した際、石橋に今後の相談を受けたさんまは、お前らなぞ眼中にないとばかり、そのままでええんちゃうと軽くいなしてやったと得意げにラジオで語っていた(のりお石橋はともかく木梨なんて竜介レベル、すぐに消えると言っていた)。石橋関西芸人敵視になったのも仕方ない。夕ニャンが終了した際は「フジテレビとしてはとんねるずよりおニャン子が惜しい、大事」と素人の私も首を傾げる業界事情を報告していた。松本に関してはさんまのまんま登場時の松本へのスカシや、最近も「すべらない話」なんて掲げる自体お笑い失格、恥ずかしいと語っていたが、吉本芸人同士、両者に重なるスタッフもいてあからさまな共演NGとはならなかったのだろう。後輩の松本配慮していたというのもある(まんま出演後は自らの失敗と反省していたし、「まだまだ売れるわー」の連呼もそう)。浜田に関しては先輩である寛平の頭を叩く行為に怒っているという噂も聞いたが、フィナーレでミニコントしたり、太田への浜田の苛立ちを腕を抑えて笑いにしたりと決して険悪な関係ではないのだろう。

 長々になってしまったので他の関係は駆け足で。

 太田談志後継者らしく政治的に動く人という印象(談志と揉めた後、業界の偉いさんらに悪口言い触らされたとたかじんがぼやいていた)。タモリさんま石橋があの芸風を好んで許容しているのかはなはだ疑問。ファンには「プロレスをせず、真剣で戦っている唯一の芸人なのだろうが、もしも浜田ツッコミを振り切り、例の客席、視聴者へのつまらぬアピールをやったら、浜田は加減なしでケツを蹴り上げる。今田東野宮迫もその覚悟を持ち共演しているが、怪我でもしたら社長吉本に大人の申し入れをしそうでなんとも。土下座事件は噂の真相事実のように書かれていたがこちらもはなはだ疑わしい話。たけし後継に勝手に名乗りを上げるなとプロレス好きの弟子水道橋が乗っかっただけのように思われる。太田が著書で松本批判をしたのは確かなので、ライバルとしてではなく、何が面白いのかわからぬ後輩の売れっ子がこっちにからんでくるなと、俺らウンナンとは違うからなという程度だろうと(太田は「笑いの殿堂」でメインのウンナンの悪口陰口を石塚英彦と一緒にくっちゃべっていた)。

 たけしに「男気」を感じたことは一度もない。その類のエピソードが語られるたびに、正月フジヒットパレードでの松村との初顔合わせのVTR、どこかに残ってないかと思う。最終回いいともの辞もありきたりのベタ。「似非インテリ集団」に担がれたが自虐ネタになってないのは辛かった(山下赤塚浅井慎平高平哲郎に比べ高田文夫テリー高信太郎はいかにも山師っぽい。筒井康隆タモリ小説に登場させたほどだが、たけしについては俺の毒舌二番煎じ、ぐらいに考えていた節がある)。

 ナイナイも当初は太田批判をANNなどで話していた。とんねるず世代で、舞台漫才ではなく、あくまでもテレビに出たい人。芸人ダメだしするなと中居批判、下駄を履いたジャニーズ批判もやっていて、めちゃイケ共演までははっきりと敵視していた。いいともへのレギュラーが決まった際は「見つかってもうた」と嘆き(有吉のバカに見つかっちゃったの先行事例)、その「タモリ愛」もジャングルTVから始まったものだといえる。ちなみに東野のツボ芸人は「さんまスポーツするぞ」で会話に割っていけず泣きくれたナイナイ矢部いいとも後期の森脇健児、どSの中川礼二現在爆笑太田

 鶴瓶はやはり怖いという印象。関西時代はたけしの何が面白いのかわからないと問うていた(問われた相手は爆笑こそしないがニヤリとはすると答え、そんなん笑いなら爆笑させんとと)。たけしのANN開始前に鶴瓶ラジオを参考にしていたと聞き、さらに「東京進出失敗」もあり「たけし兄さん」と呼ぶように。メインではなくサブに回るのには抵抗もあったはずだが、タモリに諭されいいとも出演を続けた。タモリとは深い親交を結んだが、さらに古いさだまさしとの親交は話さなかったらしくジャングルTVゲスト出演の際の交友フリップを見て初めて知ったタモリが「え、あんた友達だったの?」と仰天していた。いいとも出演よりもさんまの「覚えてるでえ」が東京での起爆剤になったと思う。

 タイトルにした香取慎吾スピーチは印象に残った。それぞれ良かったのではないか(石橋の発言は馬鹿にしたものじゃなく本心だと思うので、タモリの反応は可哀相だった)。これ以上の盛り上がりはない、スピーチは余計という声もあるが、芸人祭りで締めればそれこそ「バラエティーのフジテレビの終わり」で終了してしまう。

 

駆け足が長くなった。ここでおわり。

2013-06-12

http://anond.hatelabo.jp/20130612233039

中学は手書きじゃないか

うん、外枠は印刷したもので内容だけ手書きだったな。

でも、その頃は80年代初頭か70年代だったから、そもそも実用的なPCすら無かった時代だったしなぁ。銀行オンラインですら、今より遥かに未熟だった時代だしw

高校は工業系だったけど、ミニコンで動いてる成績管理システムがあったし(後に32ビットPC98数台で稼働するようになったみたいだが。流石に今はどうなってるかは知らんが)、それが普通だと思ってたよ。

高専でも同じようなもんじゃないの?

2011-01-26

お嬢様大学の子と合コンしたんだけど面白かった

聞けば誰でも知ってるようなお嬢様大学の子と2対2で合コンしたんだけど持ってる一発芸が全然お嬢様じゃなかった

清水ミチコの声真似(かなり似てた)でAKB48「会いたかった」を歌う芸を持っていた

しかも曲の合間合間で、清水ミチコ秋元康にあたしもAKBにいれてよと頼むミニコントまでセットになっている

秋元康役はもう一人の子が絶妙のタイミングで曲に割り込んで歌とコントが展開していく

曲が終われば間髪入れずに二曲目に突入して「ポニーテールとシュシュ」を清水ミチコで歌いあげる

やはり合間合間にミニコントがセットになっていた

今度はAKBに入れてあげるから一発やらせてよと秋元康清水ミチコを口説き落とそうとするコントだった

まさか一曲目と二曲目が繋がっているとは・・・

結局、コントの中の秋元康清水ミチコに振られた挙句裁判まで起こされた

素晴らしい完成度だった

脚本は二人で書き上げたそうだ

ちなみに秋元康役の子は、ワハハ本舗梅垣義明たいに鼻に枝豆詰めて飛ばすという芸を持っていた

テーブルの端に置かれた空のグラス3つそれぞれに鼻から枝豆を飛ばして入れてた

あれはそうとうやり慣れてる感じだった

この二人は最終的に俺の連れをベロベロに酔わせてお持ち帰りしていった

俺は一人しっかりとした足取りで帰路についた

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