はてなキーワード: 計算機とは
・自分:創作メイン、絵師未満くらいの人間。1ヶ月に2枚くらい描いて満足している。漫画は描かない。実は仕事でAIを使っている。
・友人:二次創作メイン絵師。きちんと計画的に動ける人。ちょっと真面目すぎるきらいがある。毎回二次創作オンリーイベントの度に50Pくらいの漫画本を出していて凄い。どんなXアカウントを作ってもフォロワーが5000人以上行く(流行ジャンルだと1万人以上行く)。生成AI反対派。
上記の友人とは学生の頃に知り合い、もう10年以上の仲になる。
昨今「生成AIアンチの絵師」が騒いでいる様がよく見られるが、友人もそのひとりだ。
反・生成AIの絵師たちへの想いを綴ったエントリーは他にもあるから、
自分はそれ以外の部分も含めて考えていること、を綴ろうと思う。
昨日、Xのあらゆるアカウントのメディア欄にある画像・動画をすべて削除したらしい。
自分と一緒に行ったコラボカフェでの写真やリクエストして描いてもらった絵なんかも、すべて。
思い出の中にはあっても、友人のXアカウントの記録の中には無くなってしまったらしい。
自分もたまに絵を描くし、トレパクしたものを自分が考えて描いたものとして世に出す人にはマイナスの感情を抱いている。
(トレースした、と明記するのはOKだと思う。長く美術部だったため、見て描く、トレースして描く、みたいなことは練習や実践問わず沢山やってきたからそれ自体には嫌悪感が全く無い。)
画像生成AIは他のAIと異なり「補助ツール」ではなく「完成品を出力するツール」といった扱いになってしまっていることから、トレパクのようなものだと捉え、嫌悪感を抱いている者も沢山いるのだろう。
特に二次創作絵師であれば「自分たちがグレーな範囲内の同人誌・無償ファンアートでスルーしてもらっているデータが、商用で使われたり、悪用されたりするかもしれない」と考え、それはマズイと感じ、そして最近の反AI活動に繋がってしまっている、という流れも理解はできる。
ただ、自分はもう出力されたものに関しては、「生成AIを使った人」自体に委ねるほかないと思っている。
ナイフだって、「果物を切る便利な道具」として使えば問題ないのだ。それを「人を無差別に切りつける道具」として使ってしまえば、一気に凶器になる。
人間は、全員が全員「いわゆる善」の行動だけをする機械にはなり得ない。だから、私は法の整備だとか、そっちのほうに考えをシフトしていったほうがよいと考えている。
そして上記の友人だが、もうAI自体に対してのアレルギーが凄い。
「神絵師と繋がったけど、翻訳アプリ(Papago)を使って韓国土産の翻訳をしている写真を載せてたからミュートした」
「(ChatGPTで会社の会議内容の要点をまとめた、と呟いていた別の友人に対してのリプライで)ChatGPTもAIだよ? なるべく使わないで?」
「よく考えたらCLIP STUDIO PAINTの補正機能もAIじゃね? と思ってOFFにした。不便だけど実力アップのためと思って頑張る」←もうアナログで描けば?と思ってしまった
などなど、もうリア垢のほうで連日そういったヘイトツイートをしている。ほとほと疲れた。
私は反応しないようにしている。友人がそういった呟きで浮上をしているとき、自分は他の人へのいいねだけはするが、呟かない。
そして別に今日からXの情報収集がなされるようになったのではなく、あくまで規約にも追加されただけだというのに、
今日の時点で画像を削除してない人は云々、なんて言い始めたので自分は今日何も呟けていない。
海外の広告系の仕事をしているのだが、まず翻訳の時点で会社が導入した翻訳AIを一次翻訳として活用し、ネイティブスピーカーがそれを整える形で文章を作っている。
広告の画像でも、レタッチやらトリミングやらをするのだが、その際にPhotoshopの自動生成機能を使うことがある。
あくまで補助ツールとして、道具として「人の生活を便利にするために」使えばいいとも思っている。
きっとこの話を友人にしたら、嫌悪感を抱かれるのだろう、ということはわかっている。
だから、何も言わない。
友人はXのアカウントもどうするか決めあぐねているらしい。
削除してしまうのだろうか。
メディア欄にはもう無いが、DM欄には「自分が疲れていたときや、誕生日に描いてくれた絵」などがまだ残っている。
友人がアカウントを消したら、そのやり取りも消えてしまうのだろう。
綴っていたら涙が出てきた。
素性を知らない絵師なら「残念だな……」くらいで終わるけれど、本当に大切な時間を過ごした人だから、涙が止まらない。
自分がアップロードした画像は、インターネット上に数多ある画像のうちの宇宙の塵にも等しいと思っているし、今更すぎるので消す気は全くないけれど、
昨今の流れによってきっと色んな人の「思い出」が記録上から消えてしまうのだろうね。
それがすごく悲しい。自分は自分の塵のような画像を消去することより、友人たちとの楽しかった日々を記録に残したい派だから。
それにしても、画像生成AI以外にも言及し始めてそれを活用している人に噛みつく友人を、どうすればいいのだろう。
どうしようもできないのはわかっているけれど。
そんなことを言ったら、インターネットの検索機能、計算機、車の自動運転や前の車との距離を測ってくれる検知機能、アレクサのような音声アシスタント、補正しながら撮ってくれるカメラアプリ、無人レジ、などなどあらゆるものを拒絶することになると思うのだが……
もう、山にこもって自給自足生活したらいいんじゃないかな、とすら思えてしまう。
なお友人には、数ヶ月後にある同人イベントで手伝いをしてくれない?(遠方なので宿泊込み)とも誘われた。
たまたま行きたいアーティストのライブと被っているため断ったが、宿泊をするくらいのイベントに誘われるくらいには、自分のことは好きだと思ってくれているのだろう。
だからこそ、自分が一方的に悲しんでいる、というのがまた悲しい。
以上。
【追記】
間に合っとる、っちゅーたのに「お前の理解が足りないせい」って言いたいのねー。
あと、私も先輩も(先輩の息子も)文系じゃないです。
私が本屋で読んだのは次の2冊。
デジタルネイチャー: 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 | 落合陽一 | 工学 | Kindleストア | Amazon
【追記終わり】
会社の先輩の、高校生になる息子が「将来は落合陽一みたいになりたい」と言っているらしい。
ふーんと思って聞いていたが、落合陽一さんは名前くらいしか知らない。
ちょっと気になって本屋で本を読んでみたが、ほとんど意味が分からない。
書いてあるのは日本語だけど、理解できないというか、「読者に理解させようと書かれていない」という印象を受けた。
(「私の知力が足りないせい」とかそういう意見は間に合ってますぞー)
こういう、専門用語とかを多用して他人をけむに巻くような人は自分は苦手だと思ったけど、なんか世の中にデカい貢献をした人なんやろか?
計算機を使う人が良い人か悪い人かだけじゃねえかな…
学がなければ地頭もない。常識もないし体力もない。そんな私は、人の話を聞いてそれを文章にしてお金をいただいて生きている。職業ライターだ。
特に何か学んで就労したわけではない。未経験から応募できたアルバイトがきっかけ。やり始めたからずっと続けてる感じ。大手広告代理店とかにいるようなキラキラコピーライター とは比べもんにならん。学生時代の成績表はずっと3とか4。国語も社会も数学も苦手。専門学校は誰でも入れるような学科でぽやんと過ごしてた。
そんな私だが、何故かライターとしてはそこそこ高評価。それなりにキャリアも積んできた現在、恐らく相場よりは随分と高い値段で取引させていただいており、尚且つここ何年かは私宛の依頼が途切れない。人生やり直したって入れないような大手企業さんとやりとりしたり、リピートをいただいたりしている。なぜだ。
わたしゃほんとに学がない。IoTとか物流とかの言葉の意味もよくわからないし、昔々はBtoBがなにを示してるのかすらわからなかった。パーセントの割引は計算機じゃなくてネットのパーセント計算機!みたいなのじゃないと確信持って計算できない。
ぶっちゃけ、言葉も文法もよく知らない。体言止めしかわからん状態で始めて、最近形容詞がわかるようになった。
どの仕事もほぼ毎回「ぴえん、明日の取材の資料何書いてるか全然わからないよう」ってなりながら臨む。相手から話聞いてもなんもよーわからん。
あまりにわからないので、わかるまで話を聞いたり、わかるように調べたり、わからなかった言葉は自分がわかるような言葉に置き換えて仕事してたら次第に書いたものが「わかりやすい」「伝わりやすい」と評価してもらえるようになった。
まあそりゃそうか?私みたいなんがわかるように書いてるんだからわかりやすいだろうよ。
しかし、やればやるほど仕事の難易度も上がっていく。年齢も重ねるし。やってもやっても、いつまで経ってもぴえんが止まらない。
株主向けの資料なんてまるでわからん。車の部品の会社なんてもっとわからん。何ミクロンの何を作ってるって???純利益って何よ。買収したら何が起きるのよ。インフラのシステム構築…(宇宙猫)そーゆーのにぶち当たるたびに、試しに株買って株主になってみたり、工場見学に行ってみたり…
こんな私の書いたものを、たくさんの優秀な方が褒めてくれる。ほんまに??ほんまにこれでええんか?
クライアントのみなさんの言ってることは相変わらずよくわからない。でも、根気よく向き合って、なんとか人並みのふりして生きている。
さあ来週はグローバルでご活躍されてる大手企業の方への取材だ。ぴえん。事前にいただいたPDFは5%くらいしか理解できない。まじで何これ。ぴえん。ディスイズアピエン。
さー、ええもん書くぞー!わっしょいわっしょい!
Fラン大で「応用数学1」っていう名前の半期授業を持っているんだけど、期末レポートは「9800円の31%引きは何円か」みたいなのが10問程度
真面目に授業を受けた人は頑張って電卓を弾いて正解してくれるんだけど、これって本当に計算方法がわかったといえるのか疑問だ
多分うちのクラスは電卓の使い方は分かっていても、小数の掛け算の意味を理解している人はほとんどいない
打ち間違えて検算しなかった人はさっきの問題で5桁の数字を書いて平気な顔をしている
優秀なゲーマーは物心ついたころからPCを弄ってゲームもPC上でやってチートなんかも自分で調べて自然とできるようになるもんだ
Steamのセールであさましくもゴミ価格まで下がった話題作を買い漁ったりもするかもしれないが
流行りのモバイルゲームをPCやらハイエンドスマホやらに詰め込んで結構課金しちゃったりする金払いの良さと雑食さも持ち合わせてるのが
攻略ブログとか動画とかを作ったり、ステータス計算機を自作して公開したりできるのもそういうゲーマーだ
一方で、コンシューマーゲーム機の動向をいつもキョロキョロ見ている人間ってのは正直ゲーマーではない
凡人のまさにコンシューマー
そういう凡人ほど古いモノや在り方に執着したり偏見が激しく露骨にレイトマジョリティ気質なんだ
ゲームというカルチャーに特別の思い入れもなく際限なく値踏みしてくるような、みんながやってるからやってるだけの暇つぶしのオモチャとしてのゲームの愛好者にすぎん
Ω = (X, τ)
O : Ω → Ω'
S : Ω → ℝ
S[ω] = -∫ f(ω(x)) dx
S[O(ω)] ≤ S[ω]
dω/dt = F[ω] + G[ω, O]
g_ij(ω) = ∂²S[ω] / (∂ω_i ∂ω_j)
Q : Ω → H
Φ[ω] = min_π I[ω : π(ω)]
ω_new = ω_old + η ∇_g L[ω, O]
ここで∇_gは情報計量gに関する勾配、Lは適切な損失汎関数である。
G = (V, E)
このモデルは、意識の特性についての仮説である。「観測能力」と「エントロピー減少」を一般化された形で捉えている。具体的な実装や解釈は、この抽象モデルの特殊化として導出可能。
課題としては、このモデルの具体化、実験可能な予測の導出、そして計算機上での効率的な実装が挙げられる。さらに、この枠組みを用いて、意識の創発、自己意識、クオリアなどの問題にも着手できる。
とっ散らかった思い出話?で失礼します。
当時はLLMなんて影も形もなく、人工知能といえばなんかちょっと賢いくらいのアルゴリズムをさしていて、
理論的にはニューラルネットワークもSVMもあったものの機械学習が注目されるちょっと前の時代。
(ちなみに設定上はマルチはニューラルネットワークではなく、ニューロネットという似た何か)
今のような計算機もないし、理論的な話もフレーム問題みたいなやる気のない議論しか無く。
とりあえずプログラミングは勉強したものの、なんかちょっと賢いアルゴリズムくらいしか学ぶものがなかった。
機械学習(SVM)が流行ったのが大学に入った頃でこれはと思って飛びついたものの、まぁ大したことはできず。
対話ボットとしてでも再現できればと思っても、まともな生成は夢のまた夢だった。せめて対話の分析ができればと思っても、言葉の意味とか全然扱えない状態で、
対話の分析なんかしても、定型文に近いパターンが扱えるかどうか。当時のペースだと100年経ってもマルチどころか、
イカリヤ(ハンドメイドメイ)も厳しい状況で、よく博士課程なんか進んだな。この当時から、こつこつ対話の研究を
続けていた方々には、本当に頭が下がります。で、対話は難しすぎるので、目先を変えたタスクで博士課程を取る。
このころには、長瀬源五郎になれないということには気が付いてきてはいたものの、誕生に関わる可能性のある
博士とった後くらいで、 Mikolov がLLMの遠い祖先といってもよいRNNLM とみんな大好き word2vecを作った。
この時点ではまだ、言葉の意味をベクトルで表せるって程度で、その後のBERTくらいまではまだ性能があがってすごいくらいで、
まだマルチっぽいものも作れないしまだまだ遠いな、とちょっと高を括っていた。そろそろ対話を研究する時期じゃないかとは思いつつも、手は動かず。
そして気が付いたら、GPT-2 が簡単なコードを書けるようになっていた。この時点で、なぜ他のものは投げ捨てて飛びつけなかったか、
今でもちょっと考える。その時点ではチェリーピッキング的なものでも、精度の問題ならいずれ勝手に解決されることは分かっていたのになぁ。
で、結局今はLLMのプロンプトエンジニア。これはこれで面白いのだけど・・・、マルチが作りたかったはずなのに、随分離れたとこに流れ着いてしまった。
今となってはマルチ風に会話できる対話ボットぐらいすぐに作れるんだが・・・、なんかもうそういうことじゃないんだよな。。。
例えOpenAIに転職してたとしても、マルチに近づけるわけではないんだが。なんか、大作の構想練り続けてうん十年みたいだなー。
とある高名な環境建築家(YouTubeに動画も上げている)が省エネ建築の経済的・社会福祉的合理性を説明するときに、「ちゃんと計算すれば小学生でもわかる(のに、相応の地位にいる人がいい加減なことを言うのはけしからん)」という言い回しを多用する。
いや、実際のところ、自分にとってそれは余りにも耳慣れたフレーズのため、特に気に留めるほどのものとも思っていなかったのだが、ある動画に「小学生だとか人を馬鹿にするような言い方はやめろ」とクレームがついていて驚いたのだ。
それなりに整った環境で理系教育を受けたものにならわかると思うが、「研究発表は『頭のいい小学生にならわかる』ようにせよ」というのは誰がいつ言い出したかもわからないくらいあまりにもそこら中で聞く言葉で、これを特に何かを見下したとか馬鹿にした言い方だと思う奴はいない。
何故ならば、ここで言う『頭のいい小学生』は『特に専門知識はないが理解力は深い人』を意味するのであり、具体的には『専門分野の違う他ゼミの教授陣』のことを指すからだ。
これが「人を馬鹿にした言い方」だと思う時点で驚き、非アカデミックなキャリアを詰んだ人々との文化の壁をまずは思わざるを得なかったが、よく考えるとこれこそがつまり『理系』という知性の特殊性と汎用性を表す側面なのだと思うに至った。
『小学生』と比較されると、普通の人は怒るらしい。何故か。小学生を劣った存在だと思っているからだ。
この人たちにとって『小学生』と呼ばれることは『頭が悪い』とか『未熟』とかを意味するのだろう。
しかし、理系の認識においてはそんな意味合いはほとんどないと言って良い。
理系は思考力の学問なので、「知識がなくてもわかる奴には説明すればわかる」「わからない奴、考えようとしない奴はどれだけ本を読んでもわからない」という認識が当たり前だからだ。
これらの競技が若いうちに才能を発揮できなければ辛いと言われるように、数学や物理の仕事も若いうちにできなければその後もあまり希望はない。
若さは可能性ではあってもなんら見下す要素ではないのが理系の世界だ。
さらに考えを深めてみよう。
将棋や囲碁は、ルールはシンプルだが組み合わせが複雑で、知識より思考力がいるものだというのは誰にでもわかる。
しかし数学や物理は難しい数式や抽象的な概念を覚えなければいけないから、小学生に難しい問題は理解できないはずだ。と、考える人も多いかも知れない。
だが実のところそれ自体、そんなことはないと証明されているのだ。
チューリングマシンという概念がある。イギリスの数学者アラン・チューリングの考えた計算モデルで、現在のコンピュータの元になっている。
さて、ではなぜチューリングマシンは「コンピュータの元」たりうるのか? 言い換えれば、「チューリングマシンには何ができることが保証されているのか」?
この答えが、まさに「理系の議論に『小学生にもわかる』説明を義務づけることができる理由」である。
チューリングマシンは、本来ただの計算機のアイデアではない。それは『数学自体の定義』である。
『計算とは何か』『計算できるとはどういうことか』この答えを探した結果チューリングが得たのが、『計算とはチューリングマシンで解ける問題のことである(意訳)』という、現代ではもはや計算の定義、数学の定義として認められている回答である。
計算とはチューリングマシンで解けるもののことなので、どのような数学的問題もコンピュータのプログラムとして書き、計算することができる。
コンピュータのプログラムとは、ifとgotoを伴った算数レベルの計算の連続のことなのだから、これはつまりどのような数学的問題も、深い思考力さえあれば『算数』レベルの説明に落としこんで理解できることを意味する。(方程式がなくても鶴亀算が解けるように。)
ここで必要なのは、純粋に算数程度の知識と、それを深く複雑に組み合わせる思考力だけである。
従って、理系の説明、数学的に表される定量的な議論というものは、説明者にきちんとした理解があれば必ず算数レベルの話に落とし込める。
最近は、ネットの声の大きいマナー講師たちによって「専門的なことを誰にでもわかるように説明することなんてできない」という言い訳を聞くことが多いが、少なくとも理系の問題において、定量的な議論をする限りは、『数学』は『算数』の複雑化、抽象化に過ぎないのであり、必ず噛み砕いて説明することは可能だ。
ただし、ここで聞き手に求められるのは、何をおいても『算数レベルでならしっかり理解できる知能』ということになる。
つまり『頭のいい小学生』には必ず理解させられても、算数すら苦手な『馬鹿な大人』に希望はないということである。
『小学生でもわかる』は、小学生を劣ったものと考えている言葉では決してない。しかし、それ故にこそ、小学生レベルの算数も覚束ない大多数の大人が、劣ってるどころではない論外の存在であることを突きつけてしまう厳しい言葉なのだ。使い方には気をつけなければいけない。と思った。
振動の強度を10段階に設定し、円周率の計算機から送信されてきた0~9の数字に合わせて変化する刺激を楽しむオナニー。
ランダムな振動が果てしなく連続して訪れるため、強い快感に翻弄されたい人向け。
ネガティブな語群(戦争や犯罪に関するもの、不安な感情に関するもの、ヘイトなど)や、反対にポジティブな語群を送信側に設定し、
SNSを自動巡回、検索に引っかかった場合に振動へと変換するオナニー。
基本的に、世間のムードと設定した語群のトーンとが一致した場合に振動する頻度が上がるが(暗い世相とネガティブなワード、明るい世相とポジティブなワード)、
通になると、あえて食い違った設定にすることで、表層的な自我を超えた神秘的な共感が人類のどこかで生じ、それを快感として楽しむことを期待する。
セルフプレジャーにコミュニケーション要素とスピリチュアルを取り入れたい人向け。
いわゆる微弱地震が発生したときに振動することで、疑似的に地球と交歓するオナニー。
マグニチュード3未満の地震は、日本の国土に限っても1時間に数回起こっている(https://www.data.jma.go.jp/eew/data/hypo/)。
何十秒、何分間も連続して生じるものではないため、絶頂を目指すというよりは、不規則な快感を媒介にして大地の存在を感じたい、
地球に思いを馳せたい人向け。
電波望遠鏡等、宇宙からの電波を受信できる施設と提携して行うオナニー。
1977年、オハイオ州の電波望遠鏡で受信された宇宙からの信号は、その強度、発信された時間の長さ、あえてそのように設定した知性を
感じさせる周波数など、知的生命体による可能性が議論されており、観測した人物が残したメモ書きから取って「WOW!信号」と名付けられた。
WOW!信号と同じ、もしくはそれに近い信号のみを振動条件に設定することで、いつかやってくる銀河の果てからの通信を待ち望みつつ、
ファーストコンタクトを心だけでなく下半身でも感じたい人向け。
当時、当該プロジェクトの予算執行を正当化する立場から説明していた文科省のメンバーは以下の3人。
磯田文雄も倉持隆雄も内丸幸喜も、叩き上げの文科省エリート官僚で、HPCの研究者でも何でもないよ。経歴を調べてみればわかる。
この事業仕分けメンバーの中で一番HPCのことをわかってるエキスパートは、評価者の金田康正氏。んで、読めばわかる通り、文科省側の説明の適当さや誤魔化しの部分に対して、一番厳しい評価をしていたのも金田氏。蓮舫は金田氏のツッコミに対し、文科省側に助け船を出すという立場だった。
なお名前が出ていない「説明者((独)理化学研究所) 」は、平尾公彦とされている。この人は専門が理論化学・計算化学なので立派に研究者ではあるが、当時すでに63歳の大御所で、論文も何年も前からlast authorとして関わるものばかりになっていた。
2009年当時は東大理事・副学長(普通の副学長より2ランク上)から転じて理化学研究所特任顧問・副本部長と東大名誉教授に就任。2010年には理化学研究所計算科学研究機構機構長に就任している。つまり、増田が言うところの
あの場には事業側の人を呼ばなくちゃだめだったんだよ。
という想定に最もフィットしていた(はずの)人間だと言える。本人もHPCwire Japanというサイト(https://www.hpcwire.jp/archives/16547)で
東大を定年退官する際に、ある私立大学から声を掛けて頂いていたのですが、契約書にサインをする直前に、理研から新たにスパコンのセンターを立ち上げるので、来てくれませんかと話が来ました。私自身は計算機を専門にやっているわけではなく、計算機を使って様々なサイエンスを展開する、計算科学の人間でしたので、果たして私に務まるのかと躊躇しました。
私は以前、AGIへの短期的なタイムラインには懐疑的だった。その理由のひとつは、この10年を優遇し、AGI確率の質量を集中させるのは不合理に思えたからである(「我々は特別だ」と考えるのは古典的な誤謬のように思えた)。私は、AGIを手に入れるために何が必要なのかについて不確実であるべきであり、その結果、AGIを手に入れる可能性のある時期について、もっと「しみじみとした」確率分布になるはずだと考えた。
しかし、私は考えを変えました。決定的に重要なのは、AGIを得るために何が必要かという不確実性は、年単位ではなく、OOM(有効計算量)単位であるべきだということです。
私たちはこの10年でOOMsを駆け抜けようとしている。かつての全盛期でさえ、ムーアの法則は1~1.5OOM/10年に過ぎなかった。私の予想では、4年で~5OOM、10年で~10OOMを超えるだろう。
https://situational-awareness.ai/wp-content/uploads/2024/06/this_decade_or_bust-1200x925.png
要するに、私たちはこの10年で1回限りの利益を得るための大規模なスケールアップの真っ只中にいるのであり、OOMsを通過する進歩はその後何倍も遅くなるだろう。もしこのスケールアップが今後5~10年でAGIに到達できなければ、AGIはまだまだ先の話になるかもしれない。
つまり、今後10年間で、その後数十年間よりも多くのOOMを経験することになる。それで十分かもしれないし、すぐにAGIが実現するかもしれない。AGIを達成するのがどれほど難しいかによって、AGI達成までの時間の中央値について、あなたと私の意見が食い違うのは当然です。しかし、私たちが今どのようにOOMを駆け抜けているかを考えると、あなたのAGI達成のモーダル・イヤーは、この10年かそこらの後半になるはずです。
マシュー・バーネット(Matthew Barnett)氏は、計算機と生物学的境界だけを考慮した、これに関連する素晴らしい視覚化を行っている。
米国や中国の二足歩行ロボットとか四足とか、単に見栄えがするだけの玩具だ、日本の地味な研究や成果の方が社会のニーズに即している、みたいな話で失笑した
(もしくは単に日系の記者が英語や中国語を話せないから、取材ができないだけではないだろうか…
30年前ならそう言えたんだよ
中国製の二足歩行ロボットが250万円で買えるとか、四足が30万円以下で買えるとか、そんなの夢物語のレベルだったから
万能なロボットを作るより、ニーズに直結した単機能のロボットを作る方が合理的だし、短期的に金になるわけで
ニーズが先行して、それに限定した単機能のメカトロで解決しようとするのは、もう考えとして古いのである
コンピューターだって、ニーズが計算だけであれば卓上の計算機でいい
じゃあ、パソコンなんていらないよね
そういう古い考え方の人は今になってもいる
でも、逆に卓上計算機レベルにしか使ってないのに、汎用的な機械であるパソコンを持っている人は今の時代では普通である
考えてみれば、マルチコプターのドローンも積層式や光硬化式の3Dプリンターも、日本の企業は、中国が作っているものは玩具、とバカにして参入しようともしなかった
バカにしておきながら、どう考えても、日本の企業には中国製の3Dプリンターが導入されていたり、マルチコプターのドローンを業務で普通に使ってたりする
政治的な意味合いでも危険だから、中国製ドローンは使わない、という方針になったにも関わらず、今でも公務で使われていたりする
情けなくなってくる
単機能の卓上計算機やゲームウォッチが汎用のパソコンになったように、AIは汎用のAIになるし、ロボットも汎用のロボットになりつつある
そういう時代の境目にいるという認識が日経新聞のような新聞でも意識が低いということに、流石に亡国を感じずにはいられない
単機能の機器が汎用性のある機器に置き換わる主な要因は、大幅な価格の低下だ
ちなみにDJIが軍需企業だというのも間違っていないだろう
IBM PCやDOS/V、Windowsに時代が変わるとき、かたくなにNECのパソコンを応援するような、そんな場違いな感じが否めない
台湾に半導体で負けて、韓国に中国に太陽光パネルで負けて、クルマのシェアだけで誇っているような気がするが、その牙城もいつか崩れ去る気さえしてきた…
正確に言うとプライベートモードにしたただけで、使うのはやめていない。
誰にも読まれることのないコメントを、いかにも☆が付くことを狙って書いてしまう自分に驚いているが、さすがに一時的な状態だと思う。
距離を置いてみるとブクマカたちの異常性が良く分かる。Twitterのようにクラスタ分けがされるわけでもない、表舞台しか存在しないプラットフォームが、よくぞこんな長い期間維持されてきたものだ。
普通にブレイクしたWebサービスなら、ユーザ数の桁が増えてクラスタリングなしでは使いものにならなくなっていただろう。といって閑古鳥というわけでもない、中途半端な状態を延々長引かせている。変なサービスだ。いくら計算機コストが低くともサポートコストで赤が出そうなものだが。
このまま卒業できると良いんだが……
脳や肝臓など(現時点の理解では)大体不可能や一部の臓器を除いて体内の器官を人工化し悪性新生物のリスクを下げ、人類の寿命を飛躍的に伸ばすことを目標としていた。
最終的に肝臓含めた全ての臓器や器官を人工的なものに置き換えることができれば寿命は飛躍的に伸びる。
脳すら人工物に置き換え、記憶や思考のバックアップに成功すれば我々は死の恐怖を克服することができる。
人生の時間が長くなれば、それだけ人生で体験する幸福の総量は上がる。
加えて、基礎医学、臨床医学、分子生物学、計算機工学、ナノサイエンス…
あらゆる分野の研究者による共同研究が前提となっている新しいテーマであり、学問研究の場の閉鎖性や権威とは縁遠いものであった。
当初は治療と並行しながら研究を続けていたが、治療の負担が大きくなったことから研究を辞めた。
研究に専念できない自分がポストに座り続けることに自分自身で納得できなかった。
虚しい。
100年、200年。
いや、500年でも1000年でも生きたい。