はてなキーワード: ファシズムとは
無駄に喧嘩腰であったから読んでいなかったが、今読んだので一応反論しておく。
私自身は厳密なプロライフではない。その意味で、大多数、と書いた。ほとんどの人は、厳密なプロライフでもなければ厳密なプロチョイスでもないからである。
プロチョイスの人でも二度三度四度と蓋然性が高い対策をせずに中絶を繰り返す女性には批判的であろうし、「障害を理由としての堕胎」については全面的なプロチョイスを肯定する人は少ないだろう。
私は強姦による妊娠を母体保護法の心身の危険に含めているだけである。
どうもこういう反論にもならない反論をする人が多くて困るが、この際それらも指摘しておく。
胎児を個人扱いすれば胎児に責任が問われるか。問われない。当たり前だろう。乳幼児以前の存在にいかなる法的責任が生じるのか。よほど法に疎いのか、キチガイなのかと思ったくらいである。もし損害賠償などが発生する場合であってもその責任は親である妊婦に帰せられる。男は関係ない。この対立関係は妊婦と胎児の間で発生しているからである。妊婦は、セックス相手である男性に対して補償を求め得るが、それは胎児には何の関係も無い話である。無関係の第三者に重篤な被害を及ぼしても「この私」の権益は守られなければならないとする、フェミニズムにありがちな女権優先の発想自体がファシズムなのだ。それはそれ、これはこれと切り分けられない雑な発想は、女権の名の下に下駄を履かされてきた(甘やかされて来た)からである。そのような自己中心性の高い人たちが人権の制約について語ること自体が危険だ。
ドイツでは、障碍者保護のためにダウン症検診後の中絶禁止はわざわざ後で特に加えられたのだが、ドイツでも経済条項の拡大解釈が行われ、障碍者胎児が意図的に殺されていると言う実状はある。
日本での現状についても正確に言おう。現状の中絶の99.9999%は文学的な意味ではなく本来の法的な意味においても犯罪である。母体保護法で定められた女性の心身の危機に基づくものでもなく、経済的な理由からでの中絶にも該当しないからである。私が主張するように、胎児は人間であると見なした場合、まごうことなくそれは殺人である。
どう揶揄をされようが、セックスをしなければ妊娠をしないのは事実であるし、避妊をすればかなり例外的なケース以外は妊娠を防げるのも事実である。中絶と言う人殺しをせずに済むように、最大限の努力をプロチョイス派がしていないから、より強力なカウンターが現状生じているだけである。
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
アメリカテキサス州で、実質、人工中絶が不可能になる州法が成立したらしい。
まず、これに関するリアクションのうち、それは間違っているよ、と言う諸々を指摘する。まず、この州法が違憲、あるいは脱法的であると言う見解について。
そもそも合衆国憲法で、中絶権の規定は無い。今日の妊娠中絶合法化は連邦議会レヴェルでの立法措置も経ておらず、1972年のロー判決を根拠としている。レンクイストとホワイトは、ロー判決に関しては、「司法による立法措置」であることを理由として、ロー判決に反対している。
つまりそこにあるのは、司法解釈であって、法律や明確な憲法規定ではないわけだ。だからそもそも「違憲」になりようがないし、脱法的にもなりようがない。そして司法解釈に過ぎないから、司法解釈で変更され得る。現在の最高裁に今回のテキサス州法の案件が回れば、ほぼ確実にロー判決の司法解釈は棄却される。
「違憲だ」「違法だ」と言うけど、保守派は法廷闘争を待ち望んでいるのだ。法廷闘争になれば、負けるのはリベラル派であり、そうなれば「違憲だ」「違法だ」と指をさされるようになるのはリベラル派の人たちであり、人工中絶した女性はめでたく犯罪者だ。
ここ40年、おおむね最高裁は保守派優位で推移してきたけども、ロー判決を廃棄できる機会が何度かありながら、それが出来なかったのは、レーガンに指名されたオコナー、ケネディ、スーターの3判事が、最高裁陪席判事になってから、スタンスを保守派からリベラル派に変えてしまったせいだ。そもそも合衆国憲法自体がリベラルなので、ごりごりの保守派とみなされていたスカリアでさえ、憲法原理主義的な解釈をする人なので、判決としてはリベラルになることもあった。
それの前例も踏まえて、今の保守派判事たちは、かなり強固な保守派が選ばれているので、最高裁長官の職務にあるロバーツが職責上、敢えて中立的なスタンスをとることもあるのを除けば、リベラル寄りの判決を出すことはまずあり得ない。今は最高裁は6対3で保守派が優勢なのだ。
保守派にしてみれば、法廷闘争ばっちこい、と言う感じである。とはいえ、その6対3の保守派優勢の最高裁が、トランプが要求したオバマケア違法化にはNOを突き付けたように、100%党派的な思考をとるわけではないが、中絶は、命の問題だから、そうそう簡単に妥協する余地も無いのだ。
中絶に関する議論で、男女平等と言う観点から、もっと言えば「男も逮捕しろよ!」的な意見から立論する人もいるが、根本的にその人たちの論理が間違っているのは、これが公共の福祉の調整案件だと言うことを認識していない点にある。胎児の人権と女性の間での公共福祉の調整案件が発生しているのであって、そこには男性の権利と調整しなければならない必然性は全く無いのである。
これは言うなれば、過去の徴兵制における男女不平等が、「機能的な軍隊を必要とする政府の必要」と「徴兵されることによって著しい負荷がかかる男性の諸権利」との間に発生したものであって、それは男女不平等ではなく、「女性は関係がない」案件であったのと同じことである。ロジカルにはそうでもあるし、歴史的に言えば、徴兵制のように女性には他人の命を犠牲にして、法益を享受してきたと言う「実績」もある。
言ってみれば中絶禁止は、「女にとっての徴兵制」であって、徴兵制の名のもとに、徴兵された男性たちの「戦死」を見守って来た女性たちには、「女にとっての徴兵制」自体を批判するロジカルな資格は無いのである。
そして、中絶に関して言えば、どこからがヒトとみなすかと言う難しい問題はあるにしても、1月1日13:00に新生児が誕生するとして、13:01に新生児を殺せば殺人で、12:59に”胎児”を殺せば器物破損に過ぎないと言うのは、機能的にも倫理的にもかなり無理がある。自然着床した受精卵にヒトと同等の、あるいはそれに準じる人権を想定するのは、最も無理が無い解釈だろう。放っておけばいずれヒトに至るのだから。
そして胎児や受精卵はDNAが違うので、女性の一部ではないし、女性の付属物でもない。他人の命を女性に無条件に与えていいのかと言う問題でもある。
胎児の人権(生存権)と女性の身体自由権を比較した場合、どちらが重篤な損害を被るのかと言えばそれはもう生存権であるのは間違いないので、人権を重視すれば重視するほど、中絶は違法化する以外には考えられない。この袋小路を女性が逃れ得るとすれば、「胎児はヒトではない」とするか、より根源的な人権思想ではなく、単なる女権思想を至上としてその上に立脚して「女性に損害をもたらすから中絶禁止こそが違法である」とするしかないのである。
どちらもナチス的なファシズムに陥っている。つまり機能的には既に自立しているような胎児に対しても、ヒトではないと規定し得ると言うことは、障碍者、LGBTQ、ユダヤ人などをヒトではない、少なくとも生存が許され得るヒトではないと規定出来る権能を、政府社会に与えると言うことである。人権思想の上に女権思想を置くことは、ナチズムそのものである。
宗教保守から中絶禁止の動きが一方的に起きているわけではなく、リベラルの内部においても、人権思想の観点から中絶には批判がなされていることには留意すべきである。
とはいえ、強姦の結果としての妊娠出産まで強制するのはプロライフ派の大多数にとっても本意ではない。それは、性的被害の記憶と結果が多大な負担と共に長期化し、心身ともに女性を生存レベルで危険に追い込むことに他ならないからである。この場合は「緊急避難」が想定されるだろう。誰も他人の命を救うために、死や死に等しい損失を甘受する義務はないのだ(徴兵制はこの意味でも、最も過酷で最も非人間的な強制であった。そして女性はそれを放置していた)。しかし現実の中絶案件のほとんど、かなり緩く見積もっても95%以上は、強姦案件ではない。性行為をしなければ防げるものであるし、避妊器具を用いれば防げるものであるし、ピルを飲んでいれば防げるものであるし、アフターピルを用いれば防げるものである。数多くのルート回避の方法があるにも関わらず、それらの回避をしなかった結果の妊娠中絶である。当然、胎児の生存権を上回る法益性がそこにあるとは考えにくい。
私は、強姦案件での中絶は合法、それ以外は違法、とするのが妥当だと思うが、その妥当な落としどころが「女性の身体権の絶対性」主張派とは築くことが出来なかったがために、より人権原理的な立法措置が、アメリカやヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識である。
「プリキュア」「ワンピース」など、東映アニメーション4作品の通常放送再開が発表 「お待たせをして申し訳ございません」
https://animeanime.jp/article/2022/04/06/68680.html
約十年前、曇りだったあの日。新卒で入った会社で人材営業をする日々に疲弊していた頃、新宿駅構内で、あるエンタメ企業の求人ポスターを見かけた。
アニメを作る仕事をしたことはなかったが、興味を感じて応募したところ、あれよあれよという間に内定をいただいた。役員面接はパスだった。
それからの私は、『アニメを作る仕事』に邁進する日々を過ごすことになる。長い時間だった。毎日が修業だった。
数年前、無理がたたって病院送りになった。心も体も限界だったのだ。大したレベルではないが後遺症も残った。退院後も結局、心身の調子は回復しなかった。
それで、退職を申し出て、東京から遠く離れた田舎に帰った(のんのんびよりの聖地が近くにある)。今はお堅い仕事に就いている。
十分な時間が過ぎた。そろそろ、当時を振り返ってもよいのではないか。あの日々への整理を付けられるはずだ。今から、エンタメ企業のアニメ部門で○年の時を過ごした男の話をする。
この記事で述べたいのは、シンプルに2点(5/4 以前はシンプリーでした。ブクマでご指摘いただきありがとうございます)。エンターテイメント業界で働いて面白かったことと、つまらなかったことだ。直情的に言うと、『心と体の奥底から感動できたこと』と、『エンタメ業界のほの暗いところ(要するに、こいつらマジでクソだなと思ったこと)』だ。どちらもけっこうな数がある。
それでは、さっそく説明していく。
子どもの頃はアニメが好きだった。一番ハマったのは、『魔法陣グルグル』だった気がする。衛星放送では『白鯨伝説』やCLAMP作品を見ていた。
だが、小学校生活の終わり頃から学習塾に通うようになり、夕方以降にやっているアニメを見れなくなった。中学で勉強漬けの日々を過ごしていた私は、いつの間にやらアニメのことを一切忘れてしまった。
いや、違う。大学の時は、深夜にやっているアニメをたまに見ていた。「コードギアス」「DARKER THAN BLACK -黒の契約者-」「蟲師」「夏目友人帳」あたりは確実に見ていた。
人材営業の会社で働くようになってからは、金曜日の深夜に自宅に帰った時、疲れ切った頭でテレビを点けて「こんなアニメあったっけ」と、ボンヤリした気分で視聴することがあった。
私はたぶん、アニメが好きだったんだろう。なぜ見なくなったのかと言えば、十分楽しめるだけの精神的余裕がなかったからだ。ならばいっそ、見ない方がいい。中途半端に楽しむのは嫌だ。中学生になった時も、そんな動機でアニメを一切見なくなったのだ。きっと。
そんな私が、アニメーション作品などを作る会社(以下「弊社」という。)に入社した後は、これまたどっぷりと『世界』に浸かることになった。入社から退職まで人事異動はなく、ずっとアニメ製作部門だった。
最初の頃は、アニメ雑誌のインタビュー記事に出るようなプロデューサーその他の足もとで働いた。雑用はもちろんのこと、小さい企画を考案したり、経理その他の事務や、各関係者とのスケジュール調整などを担っていた。ホワイトカラーに毛が生えたような業務内容だ。
ところで、人生で一番最初に携わったアニメは、某少女コミックでそこそこ人気を博した作品だった。タイトルは言わないが、雰囲気は『隣の怪物くん』に似ている。私が入社する半年前から企画が始まっており、当初の担当者から引継ぎを受けた。携わったといっても、スタッフロールに名前が載るわけでもない端役としてだが。実際、大したことはしなかった。やはりホワイトカラーの枠内に納まる仕事だ。
しかし、これは実際に私の世界を拡げてくれた。方々の兵が集まる企画会議に、必要とあらば関係各所を訪問して説得交渉にあたり、お金の雲行きが怪しくなればどうにかやり繰りをする(ダメなら追加出資か企画削減)。ごく稀に、スタジオ等の収録現場では声優の本気と、半面その悲哀を目の当たりにし(ここらへんは後述)、成功した作品の打ち上げ会では、自分達が作った数字を眺めて溜飲を下げる。
長い月日が経って、エンタメ業界に慣れてきた頃だと、新作の立ち上げに、利害関係者間の調整(交渉)に、プロジェクト全体の損益見通しの皮算用に、イベントの企画運営に、ホームページの管理に……とにかく、アニメを見ない日はなかった。
面白かったのは、いろんな業界の人に会えることだ。クリエイターには当然会えるし、経営者にも会えるし、事務屋とも話をするし、現場労働で身を焦がす人も間近で観られる。特に印象に残っているのは、漫画家と声優だ。アニメーターとは、あまり交流の機会がなかった……。
とあるアニメの原作者が一番印象に残っている。つまりは作品の神だ。例の人と呼ばせていただく。
例の人は、ほかの漫画家とは一線を画していた。私がいっぱしに携わったと公言できるアニメは計20本近くになるのだが、その半数は漫画原作である。私達は、最低でも一度は彼ら彼女ら(作品の神)の姿を拝むことになる。機会は少ないが。
原作とシナリオを変える時には事前に伺いを立てるし(ex.某鬼狩りアニメの敵役の台詞である「禍福は糾える縄の如しだろ~」は改変が検討されたらしい。彼が難しい言葉を知っている境遇ではないため)、重要な放送回だと制作現場に来てもらうし、打ち上げその他のパーティーがあれば楽しんでもらえるように最大限配慮する。
自作がアニメ化されるレベルの漫画家や小説家というのは、揃いも揃って個性派だ。めちゃくちゃに大騒ぎをする人もいれば、ひたすら黙って沈思黙考の人もいれば、なんかもう色々とはっちゃける人もいれば、欲望丸出しで悪い意味で子どもみたいな人もいれば、一般企業でも通用しそうな思考や行動の持ち主もいる。
例の人は、漫画家として優れているだけでなく、人格も見識も申し分なかった。落ち着いた性格で、人柄がよくて、教養もあった。話のやり取りすべてが学びに繋がり、励みになった。初めて会った時の吾峠呼世晴さんは、とにかく、これまで出会った数多の創造者の中で抜きん出ていた。
普通、ラスボスの人格の根底を太平洋戦争末期の日本の政治指導者(所謂ファシスト)に置くなど、誰が考えつくだろうか。私は、鬼舞辻無惨の例の粛清の場面を読んだ時、丸山真男の「現代政治の思想と行動」が真っ先に頭に浮かんだ。あの時、脳に痺れを感じたのを覚えている。
この類の書物を読んで、無惨様のキャラクターを作ったのは間違いないのだ。自らを善とするためであれば、どんな言辞をも取り入れ、どんな諫言も亡きものにする。
例として、あの粛清の時に魘夢が助かったのは、「無惨様を肯定したから」だ。「下弦の鬼を解体する」というトップが決めた戦略方針が、たったの一言で撤回された――常なる無謬性がファシズムの基本である。
あの時、「無惨様のキャラ付けは旧日本軍を意識したのですか」と聞いておけばよかった。残りの人生で聞くことができる機会は二度とない。無念だ。
しかも彼等はみな、何物か見えざる力に駆り立てられ、失敗の恐しさにわななきながら目をつぶって突き進んだのである。彼等は戦争を欲したかといえば然りであり、彼等は戦争を避けようとしたかといえばこれまた然りということになる。戦争を欲したにも拘らず戦争を避けようとし、戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだのが事の実相であった。政治権力のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らずそれはまぎれもなく戦争へと方向づけられていた。
この業界で働いていて、「この感じ、苦手だな」「マジでクソだな」と感じたことは当然ある。字数の関係もあるが、何点かに分けて述べていく。声優の悲哀とか、人間の嫉妬やねたみの話になる。
TVアニメ「CUE!」 [Amazon prime video]
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まだ新人だった頃、先輩(兼上司)に連れられて現場を見ることがあった。現場というのは、アニメ制作会社とか、編集スタジオとか、音声の収録現場などだ。
そのためだけに現場に行くのではなく、何かの機会のついでに現場作業の見学を申し出るのだ。それで、不思議に思って聞いたことがある。
「(私達は)技術的なことはわからないのに、どうして現場に行くんですか?」
と。それに対して、彼はこう言っていたはずだ。
「確かに分からない。仮に、目の前で手抜きをされたとしても見抜けないだろう。でも、企画側である俺達が現場に行くことで、『あなたの仕事を見ている』というメッセージを伝えることができる。俺達はこの作品に熱をもっていて、いいコンテンツを作れる未来を目指してる。そういう想いを行動で伝えるんだ」
みたいな回答だった。
これは今の私が大事にしていることでもある。要は、発注側が受注側の実仕事をどこまで見るべきかという話だ。今現在の私は、受注側の失敗が社会的に許されない類の仕事をしている。転職後に大きな失敗をしでかさなかったのは、あの先輩のお陰だ。
さて。私が二十代後半の頃だ。例の先輩と一緒に、声優がいる収録現場に初めて音連れたのは。スタジオに入ってしばらく進むと、小ホールみたいな広い空間(座椅子が並んでいる待合スペース。十数人はいた。ほぼ声優+マネージャー)に出た。その奥に、マイクが並んでいる部屋が映った。木目調で温もりを感じる、しっとりとした空間なのだが、当時の私に予想できるはずもなく。カラオケみたいだなー、とテキトーに想念していた。
私と先輩が小ホールに入るなり、セミフォーマルな恰好の何人かが寄ってきて、隣にいる先輩に挨拶していた。私も混ぜてもらい、名刺を交換した。
雑談が終わって斜め後ろを振り向くと、女の子と淑女が1人ずつ、あとは男の子が1人、まごつくように並んで私を見ていた――人生で初めて見た声優だった。後で知ったが、攻めのある挨拶活動で知られる声優事務所だった。
ひとりずつ私達の前に出てきて、「~~と申します。(簡単な自己紹介)よろしくお願いいたします!」と、ハキハキした声でアピールをやってのけた。そのうちの淑女は、私の着ていた衣服(お気に入りのやつ)と指輪を褒めるとともに、香水をつけていることを見抜いた(やるな……と感じた)。男の子は謎の一発ギャグを仕掛けてきたのを覚えている。
※かなり昔のことだが、内容は一応伏せる。当日記では、声優個人の名前を出すことはない。
私も「よろしくお願いします」と返したものの、微妙な気分になった。たとえ私がどれだけ昇進しようと、彼女たちのキャスティングに関わる可能性は皆無だからだ。まったくゼロではないが……。
例えば、アナウンサーになりたい女子大生は、いろんなイベントにコンパニオンとして参加することで武者修行をするわけだろう。それらのイベントでは、今後関わり合いになる人だろうと、これっきりの人だろうと、あの子達は全力で挨拶活動をしていた。熱意は感じるのだが、やはり私には引っかかるものがある。
こんなことを思っている時点で、私はそういう職業には縁がないのかもしれない。今、私は『効率』という観点で物を考えた。あの声優の子が私に挨拶をしても報われる可能性はないのに、と考えた。夢中になっている人間は効率のことは考えない。やれることをすべてやる。それだけだ。
何かに心をとらえられ、たちまち熱中してしまうのは、謎にみちた不思議なことだが、それは子どももおとなと変わらない。そういう情熱のとりこになってしまった者にはどうしてなのか説明することができないし、そういう経験をしたことのない者には理解することができない。山の頂を征服することに命を賭ける者がいるが、なぜそんなことをするのか、だれ一人、その当人さえもほんとうに説明することはできないものだ。
はてしない物語(1982) 上田 真而子 (翻訳), 佐藤 真理子 (翻訳), Michael Ende (原著) P.17
あの子達は本気だった。報われようが報われまいが、声優として活躍すると決めたからには、生き残るために何でもやる。上でURLを貼ったアマゾンのレビューにもあるが、声優は堅気の仕事ではない。勝った負けたで全部決まる。精一杯頑張っても生き残れる保証はない。選ばれた者だけが生き残る――余談だが、あの時の淑女と男の子は今でも活躍している。女の子はだめだった。
さて。淑女と男の子は、実力があるうえに、礼儀正しく、サービス精神も豊富だった。それが生き残った理由だ。しかし、声優全般が行う営業活動には後ろ暗いものも当然ある。5ちゃんねるとかで、たまにアニメ業界の出身者がスレッドを立てて降臨することがあるだろう。
それで、やり取りの中で、誰かが「枕営業ってあるの?」と質問をする。スレ主は「そんなのないよ」「聞いたことない」と応えるのが定番だ。
これは、私個人の日記だ。この際だからはっきり言う。枕営業をしている声優はいるし、やらさせている声優もいる。重要なフォローをさせてもらうが、芸能界の表舞台――ひとつの契約で何百万もの金が動く――に比べれば圧倒的に数は少ない。声優関係のギャラというのは、例えば女性タレントが出るCM撮影や、青年誌のグラビアや、全国各所での公演活動と比べても相当に廉価だ。1回の収録につき数万円以内で呼べてしまう。表舞台に比べると利権は少ない。
それでも、そういうことはある。パターンは簡単に分けて2つ。いっぱしの声優になりたい、もしくは声優であり続けたい者が、キャスティング権がありそうな人に近づいて配役を得ようとする。
スタジオでの雑談や、小さい贈り物や、二人きりでの食事くらいで留めておけばいいものを、一線を超えてしまう場合もある。私が30才を過ぎた頃、例の収録現場で、声優に「よかったらご飯行きましょう」などと声をかけられたことがある(最終的な内訳:男性が2人、女性が5人)。
その際、はっきりと「ごめんね。私にキャスティング権はないんだ」と答えた場合、彼ら彼女らを傷つけてしまう可能性が高い。いや、はっきりいって『侮辱』である。なので断り方が難しかった。「帰って社内会議があるので」みたいな返答をしていた。
これはまだいい。声優個人or事務所の意思の問題だ。「あの役がほしい」とどうしても思っていて、そのためなら何でもやるという覚悟と責任さえあれば、枕営業は罪ではないと私個人は感じる。「この業界は堅気じゃない」とはそういうことだ。
(追記)正直に言うと、私の妻が声優だった頃に食事に行ったことがある。私から誘ったので上の内訳には入れていない。
以上、「この感じ、苦手だな」と思ったことを述べた。以下に語るのは「マジでクソだな」と思ったことになる。すなわち、個人が望んでいる保証のない枕営業のことだ。アニメ業界に限ったことではなく、エンタメ業界には先日話題になった映画監督のような『畜生』が何人もいる。結果を出している人間の一部がやりたい放題やっているのだ。
まだエンタメ業界にいた頃、そんな人間に捕まったと思われる(主に女性)声優の話を聞くたびに胸が痛くなった。このような話題が、どうして私などの塵芥の耳に届いているのか……? そう考えると、さらに心が抉られる思いがした。
おそらくは、やった本人または関係者が面白がって吹聴している。私のところまで噂が届くということは、そういうことだ。いろんな声優の姿が脳裏をよぎった。「あの子は大丈夫だろうか」といらぬ心配をしてしまうほど、当時の私には『噂』がグッサリと刺さった。
さて。エンタメ業界に恩があるのも事実だ。下種な話題はこれくらいに留めておこう。気が付けば字数がない。前後に分けることにする。
【後編】
当時の日本で最もファシストに近かった連中は多分軍部にいたと思うが、基本的に当時の日本は官僚主義的帝国主義の軍国主義国家になっていたから、ファシストが席巻できるような状況ではなかった。
敢えて言えば帝国主義者ではあったろう。遅れて来た帝国主義者とでも言うべきか。ドイツで言えば第一次世界大戦時のヴィルヘルム2世のような立場? 一応は立憲君主であり、世襲の君主であり、かつ帝国主義者であって、ファシストとは言い難い。
そもそも第二次大戦時の日本は軍国主義・帝国主義・官僚主義の君主国であって、ファシズムを毛嫌いする側であったのだから。(あの岸信介も、日本ではファシズムは絶対に容認できないと言明している)
ファシズムはドイツでもイタリアでもスペインでも君主制を押しのけてのさばって行ったし、スペインでは君主制の復活がファシズムの終焉と民主政の復活をともなった。
さもそういう主張が真っ当で正しいことみたいに信じてる人がいるみたいだけど、そういう人ってとことんウクライナ戦争に関して他人事なんだなって思ってげんなりする
その隣国の暴挙を目の当たりにし、さらに核保有国相手では簡単にアメリカもヨーロッパも味方になって一緒に戦ってくれることはないというのが明らかになっている
そんな中で日本が自分の国を守っていくには、軍事だけでなく、国際社会のあらゆる場面で存在感を発揮し、自分たちは西側、自由主義国であることをアピールする必要がある
要するに、日本がどの陣営の所属でどんな考え方を持つか主張し続けることで、正面から敵対するのは得策ではないと共産主義国に思わせなきゃいけない
ウクライナはロシアとヨーロッパの緩衝地帯だから、という意識もあるのだろうし、東アジアでは北朝鮮が緩衝地帯という意識なのだろうけど、現実は日本韓国北朝鮮の三か国が緩衝地帯だ
アメリカからすると三国すべて失うのは安全保障上問題だから日本をバックアップするだろうと思われるとはいえ、最終的には防波堤という意識しかなかろう
中国も核を持ちアメリカと友好ではない以上、日本でいつ何が起こってもおかしくはない
そんな状況を本気で自分事と考えたら、ファシズムの動画に日本の天皇が入っているのはまずい
日本は今でもその子孫を象徴として掲げているので、過去と決別し歴史修正をせず直視する、というなら天皇家を滅さなくては辻褄が合わない
現実それはできないのだから、歴史修正と言われようが当時の政治家の責任であり天皇家はかかわりがないとしなくては今の日本の不利益になる
感謝を求めるのも同じこと
いくら武器弾薬供与国への感謝だから日本は関係ない、とは言え、ことあるごとにウクライナ自身に日本の貢献を発信してもらうことが、有事の際の日本防衛につながる
ウクライナを日本が支援するのは、可哀そうだからではなくて、助け合いをしっかりしとかないと日本も助けてもらえないからだ
だからこそ、感謝を求めるのは当然だし、それがないのなら支援など国益につながらないことになってしまう
天皇がいたほうが国民をまとめて戦後復興させるのが楽だったからだろう。
イタリア王国の国王はファシズムを支持したから信頼を失って共和制に移行したが、日本がそうならなかったのは謎。
独裁者とはなにかって話かな。
とりあえず辞書を参考。
https://kotobank.jp/word/%E7%8B%AC%E8%A3%81%E8%80%85-675598
独裁政治とは、「少数者が国家権力を独占し、恣意しい的に行う政治」
どの要件を満たしていたら、より独裁者ぽいのかの定義はよくわからなかった。
この世には、選挙があっても、国名に民主主義が入っていても、民主主義とは呼べない、朝鮮民主主義人民共和国とかあるから、なかなか難しい所だな。
ファシズムみたいに、反議会、反共、侵略政策、秘密警察での弾圧などの要件がわかればいいのだが。
https://apeman.hatenablog.com/entry/2022/04/26/150727
何かこの件については左翼の側のレッテル貼りが酷くてそっちに対して反論したくなるな
誰が国家の代表者として語られるべきかというのはあくまで解釈の問題であって
南京大虐殺否定論や従軍慰安婦否定論のように、事実そのものを否定したがる歴史修正主義とは全然違うでしょう
私は戦前の大日本帝国は紛れもなく帝国主義の侵略国家でファシズム国家だったと思うし、大日本帝国という国をナチスドイツやファシストイタリアと並べる事には何ら不満はない
でもその場合昭和天皇の位置はムッソリーニではなくイタリア国王だろうと言っているだけ
そして天皇制は廃止すべきだと思っているがそれはあくまで今後憲法改正して実現すべき事であって、過去を変える事は出来ないでしょう
東京裁判史観の元で昭和天皇が無罪とされて象徴天皇にそのままスライドしたという過去を否定してヒトラーやムッソリーニと並べる事の方がよっぽど歴史修正主義的だと思う
昭和天皇の方の写真はウクライナの方も下げたんだし、向こうにとってもそれが正しい認識だって事でいいじゃんとしか思わないんだが。
ただファシズム、ナチズムだったとしても否定論出てるしそもそもナチ、ファシズムって連合国側としてはただの悪口とか侮蔑用語としても使ってるんや。(実際ドナルド・トランプはファシストとか呼ばれてるけど政治的視点におけるファシズムとは全く違う)
結局この場合だと「わざわざ支援を行ってる国の象徴だった人間につばはきかけてる」とも取れるし、「国の象徴を戦争犯罪者と同列に扱っている」ことにもつながるから結局文化的な背景として「日本の大事なもんを侮辱した」ってとられるやで
佐藤正久@SatoMasahisa
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青識亜論(せいしき・あろん)@BlauerSeelowe
批判している方もいらっしゃいますが、私はこれは妥当だと思いますよ。「昭和」の時代はなにも戦争だけではなく、「平和憲法」のもと、諸外国と協調しながら発展してきた時代がその倍ほどもあったわけで、昭和天皇とヒトラーを等置する表現は、そういう戦後日本の歩みにもあわせて泥を塗ってしまう。
https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1518430556786401280
青識亜論(せいしき・あろん)@BlauerSeelowe
そもそも論として、昭和天皇を「ファシズムの象徴」と見る考え方に私は反対ですが、まあ、そこは見方の違いでしょうね。日本としての歴史観を率直に伝えて、ウクライナ側が迅速に修正したのはクレバーだったと思いますよ。
https://twitter.com/BlauerSeelowe/status/1518438043384188928
青識亜論(せいしき・あろん)
@BlauerSeelowe
ネット論客。表現の自由戦士。フェミニストにしてアンチフェミ。寛容と対話の力が、私たちの社会に残る分断と断絶を乗り越えられると信じて、今日も論じます。