はてなキーワード: ファシズムとは
ヒトラームッソリーニの隣に昭和天皇を並べるのも自由だし、それに抗議するのも自由なので特に問題は感じない。
ウクライナの撤回と謝罪が日本の言い分を認めたのか厄介ごとを恐れたのかしらんけど。
そもそもそあの投稿の趣旨としてはファシズムと戦うって内容で、ファシズム国家の例として日独伊の元首を挙げてたわけで、天皇を糾弾したりする内容じゃないんだよな。
独代表ヒンデンブルク(早く死んじゃったけど、大統領内閣としてヒトラー任命しちゃったのがギルティということで)、伊代表ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、日代表昭和天皇だったらなにも問題なかったので世界史は大事。
列強に対抗するために列強と同じことをしただけとはいえ周辺諸国を侵略したのは確かなんだし戦前の日本はファシズムって言われても仕方ないと思う
たしかに日本よりもっとひどい侵略行為・戦争犯罪を犯しておきながらなんの誹りも受けてない国々が圧倒的に多いとはいえ、
たとえヒトラーと並べられてもぐっと堪えて「でも今の日本は違うよ」って自信をもって言える度量の広さを我々日本人が率先して見せていかなければ世界から戦争なんてなくならない
水掛け論に躍起になって「昭和天皇は関係ない、軍部が暴走しただけ」とか「日本は列強からアジアを解放しようとしただけ」なんていう戦争の正当化までし始めたらこの70余年は全くの無意味だ
ウクライナの公式ツイッターアカウントが昭和天皇をヒトラー、ムッソリーニと並べてファシズムの象徴にした動画をアップしたとかで随分と炎上している。
これについてはやはり保守層から相当の反発が出ているが、一方で海外における平均的昭和天皇像というのはやはり「枢軸国の三人の指導者のひとり」というものだ。
「ウクライナ人はそんな反日的な認識なのか」とか言っている人がかなりいたんだけども、これについてはどの国でもそうだよ。よその国に行ってそこの博物館で二次大戦のパートを見てみれば、たいていはヒトラームッソリーニヒロヒトと仲良く並んでる。
・大日本帝国はまあ控えめに言っても軍国主義、ファシズムの国家だった
・日本の首相は当時からコロコロ変わる一方で昭和天皇はずっと在位していたのでシンボルにピッタリだった
問題となるのは3つ目のポイントで、当時の日本からしてヒトラーやムッソリーニと昭和天皇を並べたポスターやらを作ったりしているし、「帝国日本の指導者の天皇」というビジョンをプロパガンダで演出し続けたのは他ならない日本である。
そりゃ現実的に昭和天皇がどれくらい戦争指導に関与したか?についてはすでに相当研究があり、「基本的にはそこまでの影響力はなく、せいぜい戦争「幇助」くらいの影響力」とみるのが妥当なところだろうが、そんなことを海外が斟酌してくれるわけないわな。
向こうからしてみれば「お前ら戦後日本は大日本帝国とは違う国だよってさんざんアピールして今までやってきたんじゃん。なんでキレてんの……?」みたいな感じだろう。
河瀬さんが訳の分からんことを言って左右を超えて四面楚歌になってる件、当然はてブでも叩かれていた。
[B! ロシア] 東大で入学式 来賓の河瀬直美氏 「ロシアを悪者にすることは簡単」:朝日新聞デジタル
問題になったのはこの部分なわけだが…。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
このうちの「悪者にすることは簡単」の部分がタイトルになって特に叩かれた部分なのでそこを中心にこの増田を書くとしよう。
これ、ネットで一時期流行ってた類の陳腐な正義の暴走論じゃないの?実際にこの祝辞を抽象化してみようか。
(2) 正義と正義がぶつかり合っていると考え両者の意見をよく聞いてみることが必要ではないだろうか。
(3) 悪と断じて切り離すよりも自分事として自省することが大事だ。
この(1)(2)は正義の暴走論における典型パターンだ。まあ正義の暴走論でなくても一方的に悪のレッテルを貼り糾弾することはよくないことだという論法はよくある。
悪と認定することについて例を出せば、ナチスについて「絶対悪」だと論じた記事にも「世の中に『絶対悪』などと言うものが存在するという考え方も十分危険」「絶対悪とか言い出す人って、時代が違えばホロコーストやってた方なんじゃないかと思う」というコメントがついた。あのナチスですら、だ。
[B! 歴史] 新書の役割――「ナチスは良いこともした」と主張したがる人たち(田野 大輔)
それとも「世の中に『絶対悪』などと言うものが存在するという考え方も十分危険」と「誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」には大きな差があるだろうか。「絶対悪」と「悪」は違うということなの?
「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」という文章があると意味が変わるとか?それならこの部分を叩くべきなのでは?
まあ、そもそもきっと恐らく同じ人が書いているわけではないだろう(両はてブで誰がどんなコメントをしているか比べるつもりはない)から、一方が優勢なら他方は黙って他方が優勢なら一方を黙って様子を窺っているだけで意見が変動したように見えるだけだとも言えるかもしれない。
ただ、正義の暴走論って例えば「何かを悪だと決めつけるのは危険だ。ファシズムだって正義の暴走から始まった」って議論が数年前ツイッターとかで起こったらしいけど、こんな感じである意味将来惨禍を起こさないようにする謙抑的な目的を持った思想でもあったはずなんだよね。個人的にはこういった論は期せずして矮小化や擁護に繋がってしまいがちではと危惧するし悪しき価値相対主義に陥りそうで不安になるんだが、一方で自省的な側面に意義があるとも思ってたわけです。
つまりこういう時どう考えても悪(いや侵略行為はどう考えても「悪」でしょ?何か時代によって価値観は変わるからって言う人もいるけどそういう話ではなく)だと考えられる行為を行っているものが悪認定されてボコボコに言われていれば言われているほどこういう論が出てこないとその意義は達せられないよなと思うとこもあって…。いや言い出しにくいよ。現にナチスがユダヤを虐殺している最中に「絶対悪が存在するのと考えるのは危険」なんて言ってみ?最悪だよね。人格を疑われて当然だと思う。でも誰もが悪だと考えている時に異議申し立てしてこそという話になるのでは感はある。
でもそれができずに過去の出来事に適用して話をするだけなら意味もなく矮小化しかねないリスクを伴うだけでどうしようもない論法じゃね?まあくだらないことで炎上した人を過剰な叩きから庇うことには使えてるからいいのかな?中途半端な理解で口を出して火に油になるパターンもあるけどそれは使い方が悪いということで。
子供のころ、自分の小遣いで岡田あーみんの漫画を買ったんだ。多分漫画本買うの初めてだったんじゃないかな。
そんで、ある日気づいたらその漫画が無くなっていて、親曰く、気持ち悪かったから捨てた、だと。
あまりのことに当時何も言えなかったけど、今となっても気持ち悪いを出されたら何も言えない。
>「キモい」は反証不能で批判ではなく対話の拒否の表明。社会運動の中でこの言葉使っちゃダメだと思う。
なおこれ
>言葉狩りや表現規制を忌み嫌う人達が、「キモい」は率先して狩ろうとする。「お気持ち」で。
対話を拒否して罵倒します、という自由について、寛容であるためには不寛容に対しても寛容であるべきか、味がある。
自分は寛容でありたいと思うので、禁止したり法に訴えたりとかはよくないと思うけど、人間はできていないのでフェミは敵!
ちなみに、内心である「気持ち悪い」が出たら終わり、と思っているけど、それで終わりにならないほうがもっとヤバいとも思う。
方や、萌え絵フォビアを治療すべきみたいなのとか、もう方や、オタクは治療すべき病気(RRD氏ぐらいと思うけど…)みたいの。
たぶんフェミズムは制度的差別から内心の差別にフォーカスを移したときに一度立ち止まるべきだったんだけど、ただ暴走してファシズムになった。
これでええやろ。
ナチズムは、民族を軸に国民を統合しようとする国民主義と、マルクス主義や階級意識を克服して国民を束ねる共同体主義を融合したものである。なお、ヒトラーは、前者と後者は同一であると主張していた。国民主義と共同体主義という意味での社会主義の融合であることを示すために「国民社会主義」と称していた。別の定義では、国家主義・民族主義的な政権によって社会を全面的に統制しようとする思想・運動とされる。結束主義(ファシズム)や全体主義の一種で、特徴としては反社会主義、反共産主義、反マルクス主義、反民主主義、反自由主義、反個人主義、反議会主義などを持っている。
プーチンが言う「ウクライナのナチ化」というのは要するに「反共産主義(反ロシア)」と「外国人排斥(ロシア人の虐殺)」やろ。
の3分の2が 「世 界 にお け る現 在 の ロ シアの地 位 は
屈 辱 的 だ」 と感 じて い る と い う。超 大 国の 地 位 、
数百 年 にわ たって 併合 して きた領土 を失 い 、 こ こ
に は1920年 代 の ドイツの よ うに強 い民族 主義 的 な
憤 慨 の感 情 が充 満 してい る。 今 日、 ロ シ アに
は約90の 極 右組 織 が存 在 して い る。
140の フ ァシス ト、準 フ ァ シス ト新 聞 が刊 行 され 、
モ スクワだ けで も36の フ ァシス ト機 関紙 が合 法 的 に発
刊 され て い る と い う。
こ う し た極 右 運 動 は 、80年 代半 ば か ら多様 な形 態 で ロ シア に姿 を現 して
い る。
それ に は、 ア レクサ ン ドル ・ヤ コブ レフによれ ば、KGBも 関与 して い た。
「パ ー ミャチ」 とい えば 、 も とは歴 史文 化財 保存 協 会 モ スク ワ支 部
か ら始 まり、1970年 末 に設 立 され た、高 尚 な 目的
を もつ組 織 で あ っ た。 と ころ が 、KGBが その 成
員 の 一 人 ド ミ トリー ・ワ シー リエ フ を送 り込 んで
以 来 、彼 らは シオ ニズ ムに対 す る闘 争 に関与 し始
めた 、 とヤ コブ レフは証 言す る。 それ以降 「パ ー
ミャチ」 を母体 と して他 の極 右 集団 が 出現 し始 め
て い る。
1999年 に 出版 され た、 ロ シ アの過 激主 義 運動 に関 す る研究 書 では 、 およ そ80の 過
激派 組織 が リス トア ップ され た。
持 とい う1つ の理 念 しか な い」 とい う世 論 調 査 の
設問 に 賛成 す る人 は83%に 達 す る
「ロ シア は ロ シア人 と ロシア住民 の単 一国 家 で なけれ ば な らない。 ロシア
人 の 名の も とで理 解 され る ロ シア国 民 の代 表 は 、
三位 一体 の ロ シア民 族 か ら成 る。 す なわ ち 、大 ロ
シア人 、小 ロ シア人(ウ ク ライナ 人) 、 ベ ラル ー
シ人 で あ る。」
ロ シア 人の 人 口増 加
率 が 、他 の ロシア先住 民の それ を上 回 って いな け
れ ば な らな い と して い る。(29)この ロ シア人 中心
主 義 は 、現代 ロシアの社 会意 識 にお いて優 勢 で あ
る。1998年8月 に実施 され たあ る世 論 調査 で 、「ロ
シ アは ロシ ア人 が支 配す るよ うになれ ば問題 はな
い」 と思 うか につ い て聞 い た と ころ 、「賛 成 」 は
65%に 達 した
「将来 にけ る国 民国 家の 課題 はひ とつ に 、 ロシア国 民の健
康 と遺伝 学 的 な純 粋 さを守 るこ とで ある。優 生学
の 発展 は国家 計画 の性 格 を帯 び て いな けれ ばな ら
な い。 …… ロ シア民 族 の遺伝 子 プ ール を純 粋 に保
つ こ とは、国家 に よ って道義 的 に も物 質 的 に も奨
励 され るで あろ う。」
西欧 、基本 的 に アメ リカの すべ ての政治 的 、経済 的 、革 命 的勢 力 は ロシア に対 して投
入 され た。 『西欧 文 明 』 とい うその 意志 を実 際 に
押 し付 け、 その意 志 を全世 界 に押 し付 け よ うと し
て い る西欧 世 界 の リー ダ ーは アメ リカ で あ る。」
(34)こ うした反 ユ ダヤ主義 、 アメ リカ合衆 国 に対
す る嫌 悪の 感情 も、い まの ロ シア社会 を覆 う もの
で ある。
陥 ってい る。現 代文 明 には2つ の セ ン ターが あ り、
1つ は ア メ リカ合 衆国 、 イギ リス、 フ ラ ンス な ど
の工 業先 進 国 か らな る西 の セ ンタ ー。 もう1つ は
中国 、 イ ン ド、 日本 な どか らな る東の セ ンターで
あ る。 これ ら2つ の セ ン ター は、 い ま深 刻 な危機
に直面 してお り、 と もに物質 的 な方面 で の解決 を
模 索 して い る。西の セ ン ターは 、発展 途上 国 か ら
の 資源 の搾 取 に よ りこの 危機 を脱 出 しよ うと して
い る。東 の セ ンターは 、領土 の拡張 とい う道 を選
ぶ で あろ う。 この現代 の 危機 の 中心 にい るの が ロ
シアで あ る。
「ロ シア は なに か しら偉 大
な使 命 を担 って い る、 ロシア は世 界 に比類 の な い
特 別 な国 で あ る、 とい う予 感 が遥 か昔 か ら存 在 し
た。 ロシアの 国民 思想 は 、自 らが神 に よって選 ば
れ た もの で あ り、神 を担 う国民 で あ るとい う感覚
に よって養 わ れて きたの だ。 これ はモ スク ワが第
三 の ローマで あ る とい う思 想 に始 ま り、ス ラブ派
を経 て ドス トエ フスキ ー 、 ウ ラ ジー ミル ・ソ ロヴ
ィ ヨー フ、 さらに現 代 の ネ オ ・ス ラブ主 義 者 た ち
に受 け継 がれ て い る。」
ロシアにしろ中国にしろ日本にしろ、基本的に戦争って「上級国民だけが得をする(下級国民はめっちゃ苦しむけど)」ってパターンのときにだけ起こってない?
戦争の歴史についてのお勉強だと「国民感情がファシズムに向かって~~~」「民族間の差別感情が~~~」みたいな感じで戦争が説明されがちだけど、ぶっちゃけそれって紛争レベルでしょ。
本当に戦争が起きるときって上級国民が得できるパターン(マイナスの大部分は下級国民に押し付けられるパターンとも言える)に持ち込まれた場合なんじゃねえかなって。
となった場合ってことね。
これと真逆で上級国民はめっちゃ損するけど下級国民的には美味しいですよってパターンで始まった戦争って歴史上存在するのかね?
革命やらなんやらだとそういうのあるけど、あれは革命であってまた戦争とは違うってことで。
一見上級国民にメリットなさそうな戦争に見えても、「国内にある不満感情をコントロールして、与党議員が次の選挙に勝つため」だったりするのばっかな気が済んだよな。
まあそりゃそうか。
自分が損するならやらん。
自分以外の奴が損する場合は始めない理由としては勘定されない。
そんだけよな
ウクライナの歴史について語っている「赤い大公」という名前の本を読んだ。
てっきりスターリンの話かと思ったら全然違って、本書の主人公の名はヴィルヘルム・フォン・ハプスブルクという。
彼はウクライナ王になろうとして策謀を巡らしたり、ナチスへの接近と寝返り、そしてソ連に捕らえられ獄死するという壮絶な人生をたどった。
彼は中欧に長らく存在したハプスブルク君主国の皇族の一人にして、ヒトラーとスターリンのはざまでウクライナ国家建設を目指した数奇な生涯を送った人物である。
ハプスブルク家の皇族の中には帝国内諸民族の民族自決を進めつつ、そこをハプスブルク皇族をおくりこんで君主として支配するという事を考えている者もいた。
その流れの中でヴィルヘルムは帝国領内最貧民族とされていたウクライナ人の自由と独立を支援することを選ぶ。
彼はやがて自らの名もウクライナ語で「ヴァシル・ヴィシヴァニ」と名乗り、ウクライナの民族国家を作らせ自らをウクライナ王とする国家の建設を目指していく。
そして、第一次世界大戦ではハプスブルク君主国の陸軍将校として参戦し、その時にウクライナ陸軍兵士に国家建設のための指導を行っていく。
WWⅠ後はウクライナを独立させようとして策謀を巡らせるも失敗し、パリへと逃亡。
しかし野望は大きくとも実務能力に乏しいヴィルヘルムはパリで自堕落な生活を送り続けたあげく、詐欺事件に連座してパリから逃亡するという体たらく。
そんなヴィルヘルムはソ連を排除してウクライナに独立国家を打ち立てようと考え、ナチスへ急接近していく。
しかし結局ナチスからも離反していき、今度はイギリスの情報部でスパイ活動をするようになり
第二次世界大戦期にはドイツ、戦後にはソ連の情報を提供するようになっていく。
スパイとなったヴィルヘルムはソ連から逃れることはできず、戦後ウィーンでソ連軍に逮捕された。
ここでネット民なら「なるほど、シベリア送りだ」となると思うかもしれないがスターリンはより残虐だった。
1948年、ヴィルヘルムは彼が王となろうとしたウクライナのキエフの獄舎で結核のために死去するという数奇な生涯を送った。
民族自決と君主政を同居させるというアイデアを抱き、独立したウクライナ国家の建設を目指しつつ
民族主義や全体主義が高揚するヨーロッパの中で右往左往し続け、ファシズムにまで接近したり
その過程で突如反ユダヤ主義になってみたりしたヴィルヘルムの生涯はかなり面白い。
ヴィルヘルムがかつて進めていこうとした「ウクライナ化」は
その後のソ連の苛烈なウクライナへの制裁にもつながっている一方で
私は大嫌いなんですよ。
でも読んでみてって言われたからまた読んでみたけどやっぱり嫌いなんですよ。
なんでこんなものが好きな大人がいるんだろうって泣きそうになる。
自分が権威で殴られるのは大嫌いだけど、人を権威で殴るのは大好きっていうみっともない人達が多すぎるんですよ。
権威なんてどうでもいいでしょくだらないって態度なら分かるんです。
権威って凄いよやっぱり人間は権威に従うべきって態度も理解は出来なくはないです。
自分を殴ってきた権威は気に食わないから否定して、自分が他人を殴る時に使う権威は素晴らしいものだと認めさせるっていう態度はおかしくないですか?
おかしいって思えないんでしょうね。
有る種のファシズムの究極に染まっているんでしょうね。
自分の味方であるものは正しくてキレイで素晴らしく、自分と敵対したものは穢らわしくて間違っているって本気で思ってるんでしょうね。
敵か味方しかない世界で暮らしすぎてこの世界のありとあらゆるものをそれ基準に決めるんでしょうね。
どこかの料理漫画でそれまで美味しい美味しいって食べていたものが自分に恥をかかせていたと感じた途端にこんなの美味しくないって言い出すキャラクターがいたんですがまさにそうなのでしょう。
自分に恥をかかせる食べ物は自分たちの敵であってつまりは穢らわしくて間違っているから美味しくないのでしょう。
なんでこんな人達でこの国は溢れているんでしょうか。
悲しくなります。