はてなキーワード: ビリヤードとは
割とSNSや私の職場の人達の話を時々見かけるに(そう、親しい友人が居ないので時々聞くくらいしか話の入手元が無いのだ)、どうも多くの人は自身の属する集団(学校、職場、教室、サークルなど)の人々と段々仲良くなっていく傾向があり、それ以外での友人関係の比率は低いように思える。まぁそりゃ当然である。
そこでふと私自身をふりかえって考えてみると、今は職場と家が主に所属している集団だ。ここで、家には自分以外には同居する恋人しかおらず、もちろん親しいが友人には通常区分しないであろうから除外する。すると、所属集団経由で私と友人になりうるのは残るは職場のみとなる。実際、職場の人々は良く業務時間外でも交流を互いに持っているようだ。キャンプやビリヤード、サッカーを休日に共に行っている話が時々休憩スペースの会話から聞こえる。
しかし、私はアウトドアやスポーツが苦手なため、誘いを受けることがない。いや、何度かは受けたが、自身が苦手であることを再確認するだけであった。苦手な上に楽しくないのである。そのため、滅多に同じ職場の人々と業務外で交流することがない。集団の多くの人が興味を持ち、行っていることを、私は興味が無く、行っていないので、会話もあまり楽しめない。一言で表すと、職場の人々と友人になるほど交流する機会が無い。
そうなると、恐らく友人になる可能性が一番高いであろう、自身が所属する集団経由という手段が、私には無いわけだ。そりゃ親しい友人が居ないわけである。
土曜だった。もともと適度に仲の良い男の子と、ふたりで日本酒をしこたま飲んだ。
ダーツに行き、レッドブルウォッカを飲んで、ビリヤードに移動して、気づいたら、休憩用の椅子で駅弁みたいな体制になっていた。
だめだめ、と思いながらキスをされた。
実は彼は1つ歳下だ。
歳下とするのは初めてだった。
あと、身長が高いだけあって立派であった。
まだまだラブだ。でも飽きてきたのは否めない。
5ヶ月半、浮気せずにがんばったのになあ。
タガがはずれてしまった。
同期くんには付き合って4年の彼女がいる。
わたしも同期くんも、お互いのことを恋人にしたいわけではないが、また食事に行ってセックスをするだろう。
わたしはなにがしたいんだろう。
ただの独白だよ。
やっぱ社会人は辛い。出来ることなら働きたくない。働かずに行きていく術を週に一度はググってる。ニートのphaやイケダハヤトやらのブログ読んだり不労所得について考えたり。でも実現できそうにないや。結局のところ働かないといけないんだなと。いかにして働くかとかどう仕事を楽にするかとかそっちを考えないといけないんだろうな。幸いなことに彼女がいて将来的に結婚したいと思ってる。彼女は自分のこういう働きたくないってところを良しとしていない。彼女と結婚したいならちゃんと働かないとならない。
そういったことを踏まえて今後の人生設計を立てようと思った。その一つの手段として自分が人生でやりたいことを列挙することにした。
自分が本当にやりたいことは分からないのでお金の心配をする必要がないというルールを設けた。
・海外旅行に行く
・図書館に通い詰める
・いろんな女と遊ぶ
・風俗に行く
・市議会議員になる
・ブログを書く
・おいしい物を食べる
・いい車に乗る
・都内に住む
・大学に通う
・いろんな友達と飲む
・ジムに通う
・隠居する
・結婚する
・子供は男女欲しい
・ダラダラしたい
ようは俺はダラダラしたい※孤独は嫌 といったところだと思う
前者は働きたくないということ、後者は結婚したい・世間体を良くしたいというところか。後者は働かないと難しいし、この二つを同時に満たすのは無理。
人生設計立てるとして毎日孤独にダラダラするか、人並みに働いて人並みに社会と関わるかなら後者だよなー。結局働かないとならない。でも働くって辛い。出来ることなら働きたくない。働かずに行きていく術を週に一度はググってる。(以下無限ループ
東京⇔地方を繰り返してきた自分の販売業、特に服飾系に対する雑感。
イ〇ンに比べて小売りはやっぱり厳しくて、そこで買い物するような人は本当に少ない。そんなことをつらつらと書く。
第一に、若者が少ない。団塊とその上のおじいちゃんおばあちゃんばっかり。
あの人達の保守的な思想は半端じゃない。強固で、染み付いて、それこそ白い服についたシミみたいに、ゆっくりゆっくり時間をかけて出来上がったそれはもう消えない。
第二に、みんなブランドや大手のものが好き。それ以外で買い物をする理由が特にない。
ここで挙がるのはSLPやLV、Loeweじゃなくて、Hareや大手セレクト、ニトリ、スターバックスとか。
一番のブランドはテレビの中の東京なんだな、とあらためて感じる。
第三に、小売りで買い物をするような人も、都内で見るようなセンスがいい一般人、今風にいうとCity boyみたいな、なんて皆無。
ほとんどがコミュニティの中での存在価値を買っているような人たち。
店側も本当はお客さんを選びたいんだろうけど分母が少なすぎる。少し無理をしてでも、コミュニティを作って、売り上げ、生活していく。お店に行っても内輪で会話をしているから自分のような新規はじろじろ見られて終わり。
(誤解がありそうだから先に書いておくけど逆恨みでこれを書いてるわけじゃない。むしろしょうがないと思ってる)
でも「地元」ではそれが売り上げだったり、信用につながるようだからもう抜け出すすべがない。どんどん店としての格や雰囲気はないがしろになっていく。
東京だとお客さんを店がふるいにかけるようなところがむしろ大事だと思っていた。良い言い方をするとターゲットを絞るということだけど、そういう人・力はもう地方にはない。
That's sell out
最後に、買った服を着ていくところがない。これが決定的だと思う。
若い子たちがデートに行く先はカラオケやボーリング、飲みに行くくらいしか選択肢がない。どこも車でしか行けないようなところばかりで、別に着飾って気分を上げてまで行くようなところはない。
地元の大学生の会話はパチンコ、麻雀、競馬、女、カラオケやビリヤードくらいしかない。
だらだらと書いたけど、客の服装を意識させるような良いお店・場所なんか田舎にはない。結局買った服を買ったところに着ていくことくらいしかない、上の話に戻る。
じゃあどうすればいいのかってすごく難しいと思うんだけど、自分は地元にも面白いお店あるじゃん、って言いたい。
若い街だと老舗とかそういったお店も少ないけれど頑張ってるお店は見つけようと思えば、ある。
★★★☆☆
萌はお嬢様。
昔両親を殺したけど心神耗弱で釈放された天才科学者真賀田四季が世間で話題。
所長のオッサンも殺害される。
もともと原作も気になってはいたけど、実際に手が伸びるところまではいかなかった。
アニメ化するってきいて、ちょうどいいと思って見た。
原作の膨大なテキストを適度に取捨選択してバランスよくまとまってた感じ。
直近で見たノイタミナがガリレイドンナだったり残響のテロルだったりしたせいで、12話で過不足なく構成されていたということだけで普通以上の評価をしてしまうくらいには、ノイタミナへの期待度は下がってる。
各話ごとだと書きづらい感じしたから全部まとめて書こうと思ったけどそれはそれで難しい・・・
1.6倍速で見たのもあるけど、結局真賀田四季が両親を殺した理由とオッサンを殺した理由がよくわかんなかった。
愛の形はいろいろあるからって感じの会話を犀川はやってたけど特別な理由はないってことなのかなあ・・・
なんか釈然としない。
これに浅野いにおのキャラデザが割り当てられた意味がよくわかった。
スカした気だるげな空気とか意識高い系が好きそうな会話だらけで、
浅野いにおっぽさがムンムンしてた。
でも実際のアニメで動いてる絵は、いい意味で浅野いにおっぽさがなかったからよかった。
原作とか漫画版はしらんけど、浅野いにおのスカしたキャラデザはどうも好きになれないから。
カメラワークによっては作画が大変になるところとか、物理演算的な無機物にCGをうまく使えば、アニメ制作のコストも下がるし視聴者も違和感を持たないからウィンウィンだね。
もともと、原作の一番最初のページに書かれている文字だけ見てオチがわかったとか豪語してるヤツがネットにいたんだけど、自分で文字を見てもそれがわからなくて悔しかったから読んでなかった。
今考えたらそんなことありえなくて、それは書き込んだ人間のただのハッタリ、自分を賢く見せようとする幼稚で見栄っ張りなプライドの現れでしかなかったけど、それを見抜くことができるほど自分も大人ではなかった。
なんつって。
西尾維新読んだあとに影響されるのと一緒で、作中のやりとりに影響されてこんな文章書いてしまいたくなる。
うーんしかし長台詞は、半現実とでも言えるアニメに持ってくると、不自然極まりないな・・・
大きな展開やアクションなどの派手なシーンがないから、記憶に残りにくい。
毎週見てたら先週の話を忘れてて見る気なくなってたと思う。
テンポも遅いし。
イッキ見で正解だった。
つーか劇場版にすればよかったのに。
あと印象的だったのは英語ネイティブのキャラ(真賀田四季の妹)がちゃんと英語で話してたところ。字幕つきで。
ジョジョで多国籍のメンバーがみんな日本語話してるのおかしくね?っていうはてな人力検索があったけど、このアニメはそういう現実に即したところはちゃんと気を遣ってるんだなと感じた。
これメフィスト賞第一作なのかー
クビキリサイクルでの天才をテーマにするところとか、孤島をテーマにしたところとか、サイコロジカルでの密室研究棟での殺人事件とか、最後のネタばらしの仕方とか、至るところにオマージュがあったんだな・・・
なんで今さらこんな古いのをと思ったけど。
確かにアニメより実写向きだわな。
犀川が考えこむとなんか内面世界みたいな描写になるけど、そこに何の意味もなかったのがいただけなかった。
本人も再三言っていた、その人物にしか見えない世界っていうのを表現したのかもしれないけど、あんなの見せられても結局何の意味もなかった。
変な鳥っぽいのやら黒い苦しんでるような人が地獄っぽいところにいるような描写やら。
アニメならではのトリップ表現といえば聞こえはいいけど、ぶっちゃけ見せ方は空振ってたと思う。
途中までは割とまともに推理してやるーって思ってたけど、これが出てきてから諦めた。
原作ではどういう表現になってて、それをなんでこういう表現にしたのかが非常に気になる。
密室に入る時点で真賀田四季は妊娠しており、密室内には二人存在していた。
そんで本当は殺害されていたのは真賀田四季の娘で、真賀田四季は逃げおおせる。
子どもがいるっていうネタバレは後から考えてみるとちょっとあんまりな気がするな・・・
追記
ネタバレ部分は移動させました
http://anond.hatelabo.jp/20151109230301を踏まえて考えると、
ゴール系。相手のゴールに入れれば得点。サッカー、バスケ、ホッケーなど。
ラリー系。相手がボールを返せなければ得点。テニス、卓球、バレーなど。
コントロール系。操作の精度が求められるような課題を達成すれば得点。ゴルフ、ビリヤード、ボウリングなど。
に加えて、
ラン系。自分がボールを保持しているあいだ、あるいは相手がボールを保持していないあいだに、決められた距離を走れば得点。野球、クリケット、ラグビーなど。
を設ければ説明ができそうだ。
もちろん、サッカーにだってラン要素はあるし、ラグビーにもゴール要素はあるが。
また、野球において「手でボールを操作する」のが認められているのは守備側のみであって、そこだけを見て「野球は自由」と言うのは間違っている。
都民じゃないけど、都心まで1時間以内の隣接県に生まれそだったもうすぐ34歳。
以下、人に言えないが行ったことがない場所。
別に行きたいと思わなかったのと、たまたま行く用事がなかったからってだけなんだけど。
各所とも、30歳までに行きたいと思ったが、冷静に考えると別に行きたいというわけでもなく、今になるまで行けてない。
遊ぶ金が金が全くないというほど貧乏なわけでもなく、むしろ裕福な家に生まれたし、自分自身も平均よりちょい上の給料だと思う。
いや、ホント、たまたま行く機会に恵まれなかったというだけで、行きたくないとか、嫌いとかじゃないんだけどね。
確かに、この暑い中並ぶとかどうかしてるだろって思う。
原宿で降りたことはある。竹下通りというところに入ったことがない。
これについては、本当に興味と用事がなかったからだと思う。
豊洲なら行ったことがある。
ゆりかもめは乗ったことがない。
モノレールということなら、多摩モノレールなら乗ったことがあるが。
格闘技イベントなのに18時には全試合終了って普通に暮らしてたら無理だわ。
あと、席がすげー高い。
東京関係ないけど、行ってみたいなと思いつつ、この歳になった。
展望台には登ってないけど。
年に数回行く。
ライブを見た
3回ほどハイキングした
5箇所くらい行った
職場で、なんとなく、私に好意を持ってくれているのかなーという人がいる。
ちょこちょこ、タイミングを見計らって、気楽に頷けるような誘い方で色々な場所や遊びに誘ってくれる。
例えば、ビリヤードやったことないから誘ってくれる、とか。会社のイベントでボーリングがあるから練習に連れていってくれる、とか。
で、今度の土曜日、今までとちょっと違って、ストレートに食事に誘われた。
私の自意識過剰である可能性は勿論あるけれど、おつきあいのお誘いをしてくれるのかなー?となんとなく思っている。
で、思った。私はこの人好きだろうか。というか、26にもなってアレだけど、好きってなんだっけ。
「セックスしてもいい」ということが好きだっけ?それなら好きだ。というか、正直性欲はそれなりにある方なので、肉体的な意味で
けどそれもなんか違う気がする。
好きってなんだっけ?
神童だと言われて育った。2歳で平仮名を全部覚え、3歳になる頃には、保育園で他の子達に絵本を読み聞かせていた。保育士の間で変な子がいると噂になり、近所の教育大で知能検査を受けることになった。その後、両親が大学に呼び出され、しばらくして算数の教科書と問題集を持って帰宅した。それを読んで勉強するようにと言われ、試しに読んでみると、何を言っているかが大体理解できた。分からないところは親に聞きつつ、小学校に入る頃に分数の勉強を終え、小4の途中で高校の微積分を終えた。
学校は楽しくなかった。あらゆる授業で、5分で済む話に1時間以上をかけていると感じた。全部の質問に手を挙げていたら、1週間もしないうちに、もう手を挙げるのは止めろと教師に言われた。漫画やゲームをしていると取り上げられた。教師ももてあましていたのだろう、途中から、図書室で借りた本なら、授業中に読んでいても何も言われなくなった。ただ、小4の途中で、読みたい本は大体読んでしまった。同級生からは面倒な存在として扱われていた。
地元には目立った進学校はなかった。親戚の家から通うかと言われたが、某有名校の中学受験の問題集に目を通したところ、代数は使わず鶴亀算で問題を解けと書いてあるのを見て、これは意味がないと感じた。まがりなりにも、三角関数も虚数も指数関数も勉強してきて、それでもxもyも使わずに鶴亀算で解答しないといけないのかと思うと、情けなくなった。教師や親戚など、事情を知っている周囲の大人からは、〇〇くんは特別だから、と言われた。でも、特別でいいことなんて、何も思いつかなかった。
その直後、小6で反抗期が訪れた。もう勉強は止める、と親に宣言し、地元の中高でそのとおりに6年間を過ごした。授業は聞かず、ノートはとらず、教科書も学校以外では開かなかった。それでも成績は概ね上位だった。別に天才だったからではない。必要な勉強の大半を、小学生の頃に済ませてしまっていたからだ。運動部に入り、服に気をつかいはじめ、カラオケやビリヤードに行くようになった。「特別」な子はもう卒業だった。孤独な努力を続けるのは、もう飽き飽きだった。
その後は平凡な人生だ。大学4年間を引き続き遊んで過ごし、それなり以上の会社に潜り込んだ。同僚からは、理屈よりもむしろ調整能力で評価されている。運よく社費で留学することになったとき、壮行会で、〇〇が留学とはな、きちんと勉強してこいよ、と何人かに言われた。こう見えても昔は神童だったんですよ、と冗談めかして返事すると、その場の皆が笑った。僕も笑った。
「幸せか、と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない。」村上春樹の小説のうち、この台詞だけは、今でも折に触れて思い出す。
今、この日本全体で、かつての僕のように、指数関数や三角関数を学習したのに小学校で分数の足し算をさせられている子供が、一学年に少なくとも数人はいるだろうと思う。そのほぼ全てが、最近報道であったようなカナダやアメリカでの飛び級のチャンスには恵まれず、中学受験のために鶴亀算をやるのだろう。又は、その選択肢を見限って、自分の知的好奇心よりも、同年代の子に溶け込むことを優先するのだろう。もし、それを少しでも、日本にとって人的資源の無駄だと思うなら、飛び級制度の抜本的な拡大をぜひ支援してほしいと思う。
他の主張を落としめることで自分の主張を際立たせるやり方がスマートでないのは承知の上で、あえて言えば、
総務省の「和製ジョブズ」発掘プロジェクトよりも、飛び級の抜本的拡大の方が、絶対に将来の日本を変えるチャンスを秘めていると思う。
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追記:
「ガチの神童ではない」のはおっしゃるとおりというか、少なくともガチの天才ではないと思います。SPIやGMATのような類の試験では、今でも苦労せず高得点が出ますが、単に事務処理能力が高いだけで、何かを考え抜いて新しいものを生み出す資質とは違うのでしょう。「二十歳を超えれば只の人」というのは、自分でも折に触れて実感するところです。元神童の典型例のひとつとして読んでいただければと思います。
今の境遇には満足しています。過去に後悔があるわけでもありません。ただ、昔の自分を幼かったなと感じるだけです。
そういえば、授業を集中して聞けない癖は今でも抜けておらず、留学先では苦労しています。自分の意思の弱さの問題だと言われればそのとおりですが、この点については、幼い頃の境遇に原因を求めたくなる気持ちもないではありません。幸い、今は周囲が競争して手を挙げる環境なので、自分も積極駅に参加することで乗り越えようとしています。
鶴亀算に対する思い違いについては以下のとおりです。僕は面白がって取り組むタイプではありませんでした。パズルとして楽しむよりも効率を求めてしまうのだと思います。http://anond.hatelabo.jp/20140722211051
天才のまま、知の最前線を走り続けている人がどれだけいるのかについては、僕自身も知りたいところです。そのような人達をみて、飛び級がなくても問題はないというか、飛び級があればもっと早くその才能が世に出た筈だというかは、ひとつの判断でしょう。
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追記2:
引き続きコメントありがとうございます。
>「本当の天才」でないとしても、学習意欲・知的好奇心のある早熟な子供に既知の退屈な授業をする必要はないと思う。飛び級というのは「本当の天才」だけを特別扱いする制度ではない。
まさに我が意を得たりという思いです。ありがとうございます。
>そこで頓挫したなら、ただ早熟なだけだろ。その壁が越えられない自称天才達なんて掃いて捨てるほどいる。
そういう「自称天才」の子達が、小学校の頃に互いに出会えたらよいのではというのが、この日記で主張したかったことの一つでした。競い合う環境は能力の啓発を促します。それで「本当の天才」が生まれなくとも、何人か何十人かの「秀才」の知的好奇心が満たされ、かつ能力が底上げされるなら、充分に価値があるのではと思います。
あと念のためですが、僕は自分を神童だったと言ってはいるものの、天才だとは言っていません。この点分かり辛かったとしたら失礼しました。はてなは高学歴が多い印象だったので、元神童や現役の天才達が自分達の経験を語る流れがメインになるかと思っていましたが、僕が天才に該当するか否かの議論に焦点が当たってしまったのは残念なところです。今からでもぜひ!もっと!
ちなみに、天才でないという指摘はそのとおりだと思っているので気になりませんでしたが、「賢い人が書いた文章ではないように感じる」というご指摘には地味に凹みました。論理的な文章を書けることが重視される職業なので。。まだまだ至らない身だと胸に刻み、精進してゆきたいと思います。そのせいもあってか、釣りか否かの論議が続いているのは哀しいところですが、増田で書く以上は仕方ないのでしょうね。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
死とは何であろうか、という根源的な問いに対して答えようとした哲学者は多数いる。
例えばハイデガーがそうである。私はハイデガーの著作を簡単に理解できるほどの頭を持った人間ではないが、ハイデガーは人間存在をして、"Sein zum Tode"、つまり「“死”へと向かう存在」であるとして捉えている。
死は我々にとってあまりにも大きな存在であり、時に我々の在り方は“死”そのものによって規定される。
無論、そういう言い方はあまりにも“死”というものを大きく捉えすぎている、という反論もあるだろう。“死”というものはあくまで実体を把握できない彼岸にある存在で、我々にとって死とは多くの現象の一つに過ぎないか、あるいは文化として我々の前にあるものの一つに過ぎないと言うこともできるだろう。
その中で、村上春樹は“死”というものを「万物がその内側に抱え込み、育てているもの」とした。
彼はその存在について「何かぼんやりとした空気のかたまり」と称してもいる。
空気、というのは一つのキーワードでもある。スピリット、という言葉の語源は“空気”という言葉と根を共にしている。というのは、聖書の上で泥の人形だった我々に魂を注いだのは、まさしく神の息吹だったからである。
“死”とは一体何であろうか。
我々とって死とは、村上春樹の言う通り、「内側で腫れていく存在」と言えるのであろうか。
結論から言ってしまおう、それは、“死”というものの一側面に過ぎないのではないだろうか。
“死”とは確かに我々の内側にも存在している。しかし、それは同時に彼岸にも存在するものでもある。
彼岸に存在する死は、常々我々から遠ざけられている。日常において“死”を意識する瞬間はほとんどない。あるいは、葬儀などの機会に出くわしたとしても、その存在を具体的にはっきりと捉えることはないのである。
しかし、それでも我々は死に常々触れている。“死”は彼岸にありながら、確かに我々のすぐ傍に寄り添っているものでもある。
我々が様々なものを認識するときにもまた、死は我々のすぐ近くに存在している。
例えば、我々が何かに触れようとする時、その皮膚と対象との間のすぐ近くに、死は存在している。
我々は、例えば人の手に触れる。その時に、我々にとって相手のてのひらと自身のてのひらとの間に、死は存在しているのである。
死とは、我々のすぐ傍にあり、そして我々との間に境界線を形作るものでもある。死は、我々が何かと触れ合おうとする度に、その介添人として、我々の手を取り、そしてその対象と我々を結びつけるものなのである。
これがどういうことかお分かりであろうか。つまり、死は常に我々と触れ合っており、その死と我々との間にできた境界線と呼ぶべきものが、我々の触れている一切のものとの間にできた境界線に関わっているのである。
フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスは次のように言っている。
しかし、私はそうは思わない。死は我々のすぐ傍にある。だからこそ、我々の存在、そして我々を縁取っている境界線と呼ぶべきものは、はっきりとした形で我々の認識に晒されるのだ、と。
確かに、我々は死を内側に含んでいる。
それはまるで胎児のように、あるいは生命の萌芽のようにして含まれている。そして我々はその死を育み、時にその死を拒もうとするものである。
しかし、時にその死こそが我々の境界線を規定している。死こそが、我々とその外部の世界とを結びつけ、我々と世界の間に境界を生み出し、そして我々のうつろいゆく認識というものの介添人となっているのである。
死とは、彼岸にあるものでもある。それは、我々の内側で腫れていき、今ぞ誕生の時を願っているところの(あるいは死産の恐怖に怯えるところの)胎児の存在にも喩えられる。
しかし、死とはそれと同時に、我々と世界との間に、あるいは、我々の手のひらと手のひらとの間に、芽生え、我々の関係を取り持ち、我々と世界の全てとの変化を結びつける介添人でもあるのである。
基本的な戦法は、「同じ文字で攻め続ける」です。始まる言葉が少なく、終わる言葉が多い「ル」攻めが基本ですが濁点が有効なら「ズ」の方が効果的です。
それで攻め続けるだけで、だいたいは勝てるはずです。
しかし、逆に自分が「ズ」攻めを食らったときのために「ズ」で始まる言葉を羅列しておくです。
そして取っておきの「ズ」で始まって「ズ」で終わる言葉
相手が中級以上のしりとリストならば「ズ」攻めを使ってくるかも知れません。「ズ」攻めを食らい続けて散々つぶした後に「ズ」返しをする戦法が最強です。
心底チラ裏なんだけど、どこかに吐き出したくて、ここで。
自慢ばかりしてきて、うざったい奴が、ほんとに嫌い。
たぶんここまでは多数の人が共感できるかと思うし、
「そんなの受け流せばいいだけじゃん。」
といった処世術も身につけてると思う。
↓例えばこんな話しぶり
A「おれの地元のサッカー場に、はっきり言って世界一のプレイヤーが、おれの地元に世界一の人がきましたよ。」
B「あぁ~写真ではわからないけど、実際見るとすごく背が高い人でしょ?」
A「いや実際見てないからわかんないけど。」
これが↓だとイラつかない。
A「近所のビリヤード場に、なんか世界一って言われてる人が来たらしいです。」
B「あぁ~写真ではわからないけど、実際見るとすごく背が高い人でしょ?」
A「実際見てないんでわかんないですけど、へ~そうなんすね。」
敏感すぎるよね。わかってる。
わかってるんだけど、ちっさい顕示欲に反応して、自分の脳は勝手にセリフを吐いてしまう。
(しょっぱ…)
(どうでもいいわ…)
(っていうか実際見てないんかい…)
静止するまもなく瞬時に脳内で呟いている。
そうなるともうAの話す言葉は、素直に浸透しなくなる。
(なんでちょいちょいタメ口になるんだよ…)
たとえ有益なことを話していても、
肺腑にフィルターが掛かったように息苦しく、言葉が浸透しない。
そんな脳みそを抑えるのにすごく苦労する。
議論中にそのようなものが見えると最悪だ。
本当は建設的な話がしたいのに、
そのちいさな顕示欲を踏み潰したくなり、実際そういう発言をしてしまう。
「関係ないでしょ」
これでは、人に対して寛容だとは言えない。
広い心を持って人を許せるようになりたいのに、
いつまでたっても脳みその罵詈は止まない。
すごく困っている。
以前からメディアを騒がしている橋下さんの数々の政策、事業方針ですが、良いと思うものもあれば、ちょっと眉をひそめるものもあります。例えば、最近で言えば
ランチタイムも今年から橋下流? 庁内放送は音楽中止、意識改革スローガンに - MSN産経west
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130101/waf13010111520001-n1.htm
や
などです。理由はあとで述べますが、とりあえず、一度落ち着いて、これらを考え直してみませんか?
僕は大阪市民ではないですが、橋下さんについては、一定の尊敬の念を抱いています。元はと言えば一介の弁護士だった方が、テレビを経由して、若くして大阪府知事、大阪市長という重職を勤めていることは、とてもすごいことだと思います。僕もいい年なのですが、もし明日から市長をやれと言われたらとてもじゃないですが震えて表に出れません。そうした仕事を精力的にこなされる橋下さんについては、嘘偽り無く尊敬しております。
また、そうした仕事の際にもいろいろな政策を考え、中には実行していることは、とても大変なことだと思います。僕も自分で計画を立てて実行しようとして、様々な理由で頓挫した経験があるので、権限があるとはいえ、思いを形にするだけでも一苦労なのは承知しているつもりです。
ただ、橋下さんが、上記のように行政を事業、サービス業として考えるあまり、非常に抑圧的な策を取ろうとすることについては、疑問があります。「前例がないを禁句とする」というのは、市の職員に創造性を発揮することを求めるものだと思いますが、一般に創造性と抑圧はトレードオフの関係にあると考えられています。
例えば、米グーグル社や、橋下さんのお好きなツイッター社などは、社内にビリヤード場があったり無料のレストランがあったり、とてもリラックスできる環境を作っています。実際にグーグルの社内が豪華なことはとても有名で、働きがいのある企業として選出もされています( http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1201/20/news066.html )。このように、著名な各社は従業員が気分良く働ける環境を用意することで、創造性を発揮して、前例のないサービスを作ることに成功しています。
こうしたことを鑑みるに付け、橋下さんの「音楽を中止してスローガンを流す」という案は、創造的なサービス開発とは正反対のやり方であると考えられます。橋下さんは良く「民間では当たり前」といいますが、こうしたことこそ民間では行われていないことだと言っても言い過ぎではありません。なので、動物園の件なども含めて、職員を働かせるのではなく、職員が働きたくなる環境を作る方こそが、本来実行されてしかるべきことなのだと思います。
長い行政の歴史を考慮すれば「そんな悠長なことは言ってられない」と言うかもしれませんが、そういうところだからこそ、丁寧にモチベーション向上策を考えることが必要なのではないでしょうか。部下を働かせるのではなく、部下が働きたくなる仕事をしてこそ、優れた上司であると僕は思います。
政治家にも影響力のある、とある偉い先生は橋下さんについて「沈思黙考せよ」と言っていました。僕は橋下さんが十分様々なことを行いうる人だと思うので、適切に熟慮する余裕をもってこそ、橋下さんの能力が最大限発揮されるのだと思います。だから、今一度、こうした抑圧的な策を取りやめ、職員に取って何が出来るのかを考え直してみませんか。
あともうひとつ。職員に「前例がない」を禁句にするなら、橋下さんの「民間では当たり前」も禁止しましょうよ。僕には、これこそが橋下さんのいい訳に聞こえてなりません。
・久しぶりに友人と遊ぶことになり、本当に久しぶりにゲーセンへ行った。
私はダサい若者なのでゲーセンやカラオケといった喧しい場所が好きではない。
カラオケは流行の曲を知っている訳でもなければ、湘南の風やエグザイルのような歌が歌えるわけでもなく、
あまり楽しむことが出来ないからだ。まったく知らない曲を勝手に歌われてもリアクションに困ってしまう。
さらにあちら側で修正が利いてしまうとまるで漫画のような目になってしまうからだ。
だけれどもそんな私がなかなか面白いと思ってしまうものがあった、ダーツだ。
友人に誘われて嫌々ながらやってみたら、なかなかこれが面白い。いい遊びを教えてもらった友人には感謝をしないといけない。
加えて、この年までこういう遊びを知らなかった私はとても自分が恥ずかしい。
・情けない趣味としてフィギュア収集をしているけれど、何故だか毎回毎回ガンプラはゴミ箱行きというかばらばらになってしまう。
捨てるに忍びないし、とっておいてもみっともない。
しかし、作りたい意欲はある。うーん。機材一式を揃えないまま始めてしまうから、満足のいくガンプラが出来ずに結果、プラスチックごみを量産してしまうのだろうか・・・。
この先考えなくては・・・。
S ネットゲーム アダルトゲーム 同人誌 フィギュア SF 三国志 軍事 声優 風俗 オカルト
A アイドル アニメ サバイバルゲーム アマチュア無線 鉄道 競馬 切手 腕時計 パチ○コ
B 漫画 バイク カメラ ライトノベル 特撮 民族学 自作PC 女子アナウンサー 麻雀 オーディオ機器
C 携帯電話 ラーメン 深夜ラジオ 映画 サブカル 自動車 ファッション テレビドラマ 熱帯魚 釣り
D ビリヤード ワイン 自転車 ダーツ テニス サーフィン ギター 純文学 クラシック音楽 アウトドア
私女だけど、Bまでなら許す
それより上はさすがに…
昔2ちゃんのどっかで見かけた男の趣味ランクのテンプレだが、このうちどうしても理解できなかったのが、
でも実際ネトゲをやってみて、Sランクはものすごく妥当だと思った。
正確にはネトゲ廃人に対する評価として妥当という感じ。
というか男の趣味に貴賎をつけるとしたら、あいつらはエロゲオタを差し置いて
間違いなく最下層と言わざるを得ない。
「大っぴらではなく影でこそこそやれ」とは思うけど、個人的には
そんなにキモいと感じない。
そもそもネトゲ、特にMMOは↓の記事にあるように「自己顕示システム」として強烈な麻薬性がある。
http://lovelove.rabi-en-rose.net/blog.php?n=227
廃人はこのシステムに取り憑かれ、自己顕示欲に溺れてしまった人達と言える。
欲望の赴くままに俺TUEEEEE俺SUGEEEEEを貪る。
その姿がどうしようもなく嫌らしく、気持ち悪い。
そして俺TUEEEEE俺SUGEEEEEは他者との関係無しには成り立たない充足感なので、
周りをあまねく不快にさせる。
しかしよく訓練された廃人だと、そうして周りからウザがられても
「なーんかまたザコが負け惜しみ言っちゃってるよーでも実際俺超かっけーから仕方ねーわ、
あー嫉妬されるマジつれーわw」
まさしく「ギルド一番の誇り高き戦士」の面目躍如といったところか。
特に10代からいくつもいろんなネトゲやってるみたいな、MMO経験が長い人ほど要注意だ。
文字通り頭狂ってる奴が結構いる。
もちろん初心者のうちから廃人傾向の言動する奴もいるけど(リア充のダークサイドとも言えるか)。
こういう奴らに比べたら、こんな所でヘイトスピーチまがいのクズ日記書き捨ててる
自分のほうがまだマシだと心底思う。