はてなキーワード: 行使とは
https://anond.hatelabo.jp/20191029132449 の補記
このまとめが私の言いたかったことに非常に近い。私自身が4ページ目で「線引き」という言葉を安易に使ったのは失敗であった。後述するが、線引きは必ずしも必要ない。
- id:Yagokoro バッカじゃねえのか。それこそ赤十字社が判断すればいい話。
まさしくそのとおりである。これは1ページ目に書いたとおり、赤十字には表現の自由があり、何を表現するかは赤十字が判断をすればいい。最終的には、赤十字にとってのコストパフォーマンスにより決定されるであろうと考えている。
- id:racebyrace 線引なんて出来ません。最終的には、違法かどうかしか無いのです。
- id:tomoya_edw 規制しようとしている側が規制の根拠を示せ。何かをやめさせようとするのに、無限に出てくる性嫌悪者のために配慮してとりやめるのかって話だよ。やるなら法のラインで全然いい。規制と反規制の落としどころなどない
- id:jun_cham その線引きはすでに終わっていて、法律で猥褻物という定義がすでにある。猥褻物にあたらないのであれば、公共の場で目にすることはあるものとして、正しく対処できるよう生きていくべき
- id:arrack 猥褻の基準はある(局部露出の有無等)けど、それを超えて過度に性的だの言ってるから、(どういう基準でそう言っているのかと)叩いているわけで。ゼロベースではないのに、増田含めて勝手にゼロベースに戻すな。
- id:ite 日本において猥褻の基準はしっかりとあって、裁判でも判例が積み重ねられている。それらを無視して思いつきで一方的に規制したがるやつらが馬鹿。
- id:meganeya3 「ポリティカルコレクトネス」ならきちんと法律にしろ。自主規制ってのはムラの掟なんだよ。そんなものを押し付けるな。説明は真摯でも結論がそんなところに着地されては困る
私は、表現の自主規制を行う上で、法律上の「わいせつ性」を基準とすることは不適切であると考えている。
世の中にはいわゆる「成人指定」あるいは「R-18指定」という仕組みがあるが、これらの規制は自主的に行われている。法的な「わいせつ物」はそもそも流通が不可能であり、一般に流通している「成人向け」コンテンツはすべて法的に「わいせつ物」ではない。では、どのようにして成人向けコンテンツのレーティングが行われているかというと、業界団体による自主規制ルールによる。もちろん、各都道府県系には青少年健全育成条例のようなものがあり、レーティングとゾーニングの実施を要求している。しかし、レーティングの主体は、あくまでも表現者である業界団体側に委ねられている。言い換えると、現在の日本においては、法的にわいせつ物であるかどうかを基準とした運用は、成人向けコンテンツに対してすら行われていない。
以上の理由より、私は、法律をベースラインと置く言説には説得力が乏しいと考えている。もちろん、「法律で認められているものはOK」と強弁すること自体は可能であるが、周囲の同意が得られるかどうかは別である。私自身はむしろ、件のポスターを擁護する上では、このような極端な言説を用いるのは悪手であると考えている。
- id:hanyan0401 R18以外で実際に運用されている基準なら、CEROのレイティングがあります。CERO-A(全年齢)の一つ上がCERO-B(12歳以上)で、ソフトの一例はこちらです。http://bit.ly/2JyAgbx 件のポスターってこのレベルで「性的」なんですか?
- id:yas-mal 過去の議論を無視してゼロから議論するのもアホらしいので、「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」あたりを前提にすれば良いんじゃ無いでしょうか。日本赤十字社はどの程度公的広報に準ずるべきかも含めて。
- id:kumaponta 新しい価値観を提示したいなら何らかの基準を示さなければならないのは変化を求める側。具体的にはホワイトリストとブラックリストを併用したR12に近いレーティングを批判側が用意し検討の要望を出すのが筋だろうね。
これらのコメントは、現実的な自主規制ルールについての言及である。
「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」は、多くの機関にとって最低限満たすべき基準となるであろうが、一方で、非常に概念的な内容にとどまっており、個別の表現に対する評価には使いづらいように思われる。そういう意味では、CEROのレイティングは、個別の表現を評価する上では、より有用かもしれない。ここで重要となるのが、CERO(や映論やビデ論など)のレーティング基準は、これまでの議論や社会的な情勢を踏まえて策定されており、ある程度の社会通念上の合意が得られたものとして運用されているということである。コメントには「落とし所など無い」という意見が散見されたが、多くのコンテンツは、すでに「落とし所」すなわちレーティングに基づいて運用されている。そして、想像ではあるが、このようなレーティング基準の背後では、規制強化派と規制緩和派の綱引きが常に行われているのではないだろうか。
赤十字がどのようなレーティング基準を採用するかは、赤十字の自由である。しかし、「法的にわいせつ物でなければOK」といった基準を採用しないであろうことは、かなりの確度をもって確実だと言えるであろう。
後半の指摘に注目されたい。いわゆる「レーティング基準」というほど明確なものではなくても、赤十字が内部的に表現基準を作ることは十分に有り得る(むしろ、すでにあるのではないかと思う)。このような内部基準は、過去の事例へのフィードバックを基に更新されていくであろうし、性的要素以外にも、ブランディングや多様性への配慮なども含めて運用されていくだろう。そして、内部の表現基準は曖昧に定義されることも予想できる。「各要素を勘案して、不要に性的に映らないようにすること」といった基準は、組織内部では問題なく運用される。担当部署で感覚が共有されていればよいだけなので、肌の露出割合といった、客観的な基準は必要とされない。言ってしまえば、まさに「ムラの掟」ならぬ「日赤広報部の掟」があれば十分である。
繰り返しになるが、このような内部基準は、表現の自由の問題とは直接的に関係がない。赤十字には、当然ながら表現の自由が存在する。しかし、赤十字が実際にどのような表現基準をつくり、どのような表現を外部に対して行うかは、赤十字の裁量に委ねられている。表現の自由を前提として、それをどのように行使するかの話である。
前述のような前提に立つ場合、この問題は「ポスター批判派 v.s.ポスター擁護派」の構図ではない。この問題は、「ポスター批判派 v.s. 赤十字」と「ポスター擁護派 v.s. 赤十字」という、個別の2つの問題である。両陣営とも、赤十字が自分の好みに合う表現基準を設定するように、赤十字にロビイングをするだけである。ここで赤十字に対して「あなたには表現の自由がある」と言ったところで、赤十字からすればそのようなことは既に自明であろう。赤十字にとっては、自由を前提として、どのような配慮を行うべきかこそが課題であり、「表現の自由」や「法的なわいせつ物」の話を引き合いに出されたとしても、あまり参考にはなりそうもない。また、ポスター批判派の言論を「お気持ち」と揶揄したとしても、赤十字が「我々はなるべく多くの人の気持に寄り添いたい」と方針付ければそこまでである(そして、赤十字の役割を考えれば、そうなる可能性はかなり高い)。「批判派は明確な基準を示せ」という意見も、赤十字には届かないであろう。赤十字の立場は、「皆さんの意見を参考にして、基準は自分たちで作ります」でしかないと予想されるからだ。
私自身は、ポスター擁護派である。しかし、一方で、ポスター擁護派の言論が非常に脆弱であるという危機感を持っている。わいせつ性の有無や表現の自由を銀の弾丸扱いしたり、「お気持ち」を軽んじる方向性は、現実世界において他者に響くであろうか。私にはあまりそう思えない。むしろ、そのような極端とも取られかねない言動は、単に無視されるか、悪印象とすらならないだろうか。もしも、わいせつ性の有無や表現の自由が議論において有効な武器であり、「お気持ち」を簡単に潰せるほどの威力があるのならば、ビールのポスターから水着の女性が消えたり、レーティングによる自主規制が行われているのは何故だろうか。私が、敬意をもって落とし所を(なるべく自分の好みになるように)模索するべきだと考えているのは、そういう理由である。銀の弾丸を持たない以上、100%自分の思い通りにはならないだろうが、「お気持ち案件」などと言って対話を打ち切ってしまえば、最終的にこちらが譲歩する度合いはさらに大きくなるであろう。
繰り返すが、件のポスターの是非において、表現の自由はあまり関係がない。もし仮に、ポスター批判派の要求が、政府による規制を求めることを主体としているのであれば、話は別である。しかし、今回の議論に置いて、そのような意見はポスター批判派からもほとんど出ていないように観測される。
この視点はとても参考になった。確かに、公共の場で公的、あるいは公的に準ずる機関が二次元キャラクターを用いるようになったのは最近のことである。漫画やアニメに馴染みのない人にとっては、自分が知っている世界が、なにか別のものに侵食されていると感じられるのかもしれない。とはいえ、表現の自由を前提にすると、そのような状況を拒絶することは難しいように思われる。「あの手の絵」に過度に性的な要素が含まれていない場合、二次元キャラクターであるというだけで拒絶することは難しいであろう。この部分は、なんとかして各自が折り合いをつける必要がありそうに思われる。
残酷ではあるが、あえて言うならば現時点で「声が集まっている」のはあなたの周囲だけなのかもしれない。実際に、私の妻に今回の件の感想を聞いてみたところ「別にこれぐらいいいのでは」というものであった。女性であっても、人によってはこのような反応である。他の人から見ると、あなた(達)の声は、まだ小さいのかもしれない。
しかし、どうか絶望しないで欲しい。私は、あなたの立場を完全に理解することはできないし、今時点であなたのために提示できるものもない。それでも私は、あなたにとって、今回の件が重大な問題であることは理解するし、それを馬鹿にしようとは思わない。私にはあなたを助けることはできないかもしれないが、あなたが声を上げ続けることは尊重するし、あなたの仲間がどんどん増えてあなたの声が多くの人に届くといいなと思っている。もちろん、声を上げ続けること自体が容易でないし、辛いこともあると思う。大変ですが、お互いがんばりましょう。
- id:viperbjpn 人それぞれっていうと、多分ほぼいろんな表現はできない
- id:chintaro3 そうなんだよな。溜まってる時は女性の手を見ただけで勃起するもんな。
- id:kloud 黒タイツでもドキドキする人がいるんだぞ!
一部はふざけているようにも見えるが、重要な指摘である。性癖というのは個々人でバラバラであり、実際に私からすると極端に感じる性癖を持つ人もいるであろう。では、個々人で性癖がバラバラであるから、手も黒タイツも、あれもこれも表現として認められない世界になるかというと、少なくとも現在の日本においては、そうはならないであろう。これは単純に、社会通念上の合意が簡単には得られないからである。これらのコメントは、「だれかの気持ちのために1つでも譲歩したら、結局はあれもこれも譲歩することになる」という危機感を述べているのだと考える。1ページ目で述べたとおり、このような危機感には一定の妥当性がある。一方で、現在の日本において、そのような自体が実際に発生するかというと、そのようなことも無さそうである。実際に、既に存在している様々な自主規制ルールは、多かれ少なかれ問題はあるにせよ、先鋭化することもなく、案外まともに運用されている。ルールを正常に保つためには、各陣営の不断の努力が求められるだろうが、極端に悲観する必要は無いと考えている。
補記が続くのかよ
めんどくさいけど「オタク」の定義の話からしなきゃならんのかな。
結局のところ「オタク」の定義なんてものは「そう自認しているかどうか」でしかないのだろうけど、それはいくつものマイノリティを内包するアンブレラタームとしても機能している。「オタク」を属性として一括りにする時点で間違っているのだが、一方で「差別に対して一丸となる」こともできる。
現実の犯罪・セクハラは現実の犯罪・セクハラを犯す奴が悪いんだよ。一方で事実としては、様々な社会的要因がそれらを誘引することもあるだろう。
ではなぜ、「シスヘテロ男女が往来で自由恋愛を楽しむ」ことは、「セクハラを誘引する」などとジャッジされないのか?誰もが二次元にしか興味がなくなれば、実存の人間に性的興味を失えば、セクハラなんて問題はなくなるのに。
それは偏に「彼らがセクシャル・マジョリティだから」でしかないだろう。彼らは「それを禁止されたら困る」し、「それを侮辱されれば嫌な気分になる」からだ。「二次元を性的対象とする」セクシャリティは、どこまでいってもマイノリティなんだよ。「実存人物を性的対象とする」セクシャリティの、「付属品」または「おまけ」くらいにしか見ていない人が多い。ぶっちゃけ「オタク」の内部ですらね。
だからみんなそれを最初に「切ろう」とする。トカゲの尻尾みたいにね。だって「みんな」は困らないから。しかしその「みんな」にある種の人間は含まれない。マイノリティだからね。「いい歳して漫画ごときにムキになるな」と説教をすれば済む。「それよりもっと大事なものがあるだろう?」と。
今オタクが怒ってるのはそういうところだと思うよ。それこそ「正義」を行使してるんだよ。権力側の義務としてね。例えばLGBTのうちLが侮辱されれば、残りのGBTだって黙ってはいないだろう。LGBTを全て合わせたらそれなりの数になるかもしれないが、本質的に「マイノリティ」であることは変わりない。「オタク」という言葉が指すのはそういうもの。
勉強が目的で上手くなれるような人は勉強の天才なのでとっくに上手くなっている。
我々殆どの凡人にとっては描きたいという気持ち→描けないでも描きたい→わからないのを調べる→結果的に勉強してたという順序の方が楽。
画力ある場合ならともかくあまりない状態で知識だけ入れてもすぐに効果はない。Fakerの動画みたらすぐに彼のように動けるのか?そんなわけない。なんで絵ならそうじゃないと思った?
目指すイメージは大事だからこうなりたいという作家の配信をみたり作品見るのは意味ある。必要な時にあんな技術があったなと思い出せるから知識も無駄にならない。でも実際に手を動かさないとそれを生かし発揮できる時はやってこない。
基礎画力がついてくると実際にテクニックを行使できるので知識が即効性を持つ。
序盤だと即効性を持つ知識とそうでない知識がある。人にもよるので断言はできないが多くの人にとって即効性があると先人が集めてきたものが基礎というやつだ。
見ないで描けるのはマニアと言えるほどよほどそれに詳しくてさらにそれを描くのに習熟している場合だけ。そうでないものは例え絵がある程度描けるようになっても資料は見る。
なんも見ないで人体かこうとして何が変だけどうまくならない〜当たり前だろふざけてんのか?
突然なんか閃いて画力が降ってくるなんて我々凡人にはない。題材をステップアップしていかないといつまでたっても同じレベルなのはあたりまえ。
大抵上手くなるときって、上手くなりたいからこれこれに挑戦しようというケースよりも、どうしてもこれかきたい!でもかけない!どうして!戦う戦う戦う倒した!上手くなった!みたいな感じ。そういう題材を抱えてるときはチャンスだから諦めずに戦え。その分確実に上手くなる。
これは上手くならない理由というよりめんどくさいというか、損してるやつ。
例えばデジタルよりアナログが偉いとか、3Dはズルとかそういうの。そういうの全部手段にしか過ぎない。結局手段を扱う画力と観察力と引き出しがものをいう。絵を描ける人が3Dモデル作るの初めてでもうまいのみてたらわかるだろ。
何も見ないですらすらかけるのが理想だから何も見ないで練習するみたいな信仰もただの縛りプレイなので上手くなりたいなら捨てた方がいい。
多分だけど、早く枚数描いた方が伸びるタイプと、じっくり難しい題材をやり遂げるのに時間かけた方が伸びるタイプといる。伸びるというか伸びやすいステータスが違うというか。
どちらのタイプももう片方のやり方も上手くなるには必要だけどメインとしてどう取り組むか。
巷のどうすれば上手くなるというのは自分はこれで伸びましただから、必ずしも自分とタイプが一致しているわけではない。
だから、配分の限度はあれ絶対にものすごい枚数かかないといけないとか逆に大作かかないと伸びないなんてことはない。
30秒なんとかみたいの元々瞬発力タイプの人ならあれでステータスが伸びて成功体験を得られるだろうが、持久力タイプの人はあまり成功体験を得られなくて続かないのではないか。
ある程度描けるようになると苦手も伸ばさないと描きたいものに届かない時がくるが本当に今がその時だろうか。
絵こそやった分だけ上手くなると思う。
しいていうなら絵の才能というより上手くなる才能とか楽しむ才能というのはあると思うがこれは伸ばせるものだし。だから才能ってよりステータス?スキル?
ただ、上手くなる才能って仕事やスポーツやゲームやプログラミングや音楽やなんでも全てに関わってくるから、上手くなるスキルが低い人は全てにおいてやりにくいとは思う。雑に言えば要領の悪い人になってしまう。逆に言えばこれを伸ばすと生きやすくなる。
なるよな。
俺もそうなる。
それでも何もしなかったらこれほど描けるようにはなってないから、描いた俺が強さなんだ。誰がなんだろうが。結局年齢幾つだろうが恵まれてない環境だろうがなんだろうが止まったらそこまでなので止まらないだけ得なんだ。殆どの奴、とまっちまうもん。止まらないだけでそこそこなところまでは行ける。その上で、もっと若い時からやってたらなぁってなるのもある。あるけど、死ぬ前になったら改めて考えようと思う。それまでは止まらない価値があるから。
いやもうさあ……いちおうこれまで何lか献血で抜いてるわけだけどさぁ、ほんと何なの最近の献血ポスターバッシング……
医療や血が関係ない作品とのコラボは控えろとか、よく言うよね……世の中そうそう医療や血をテーマにした人気作品が転がってるわけでもないし、医療とも血とも関係ないって理由で俺の好きな作品とのコラボが批判されてたら俺もう献血行く気なくすわ……
別に献血してるから偉いとは思ってない。9割くらい自分のためだし(ルームで無料で長編漫画読める3割コラボグッズもらえたりお菓子食べ放題ジュース飲み放題だったりする1割献血に行くという大義名分で秋葉原に行ける1割社会の役に立ってる気がして自己肯定感がアップする4割)。純粋な善意は1割くらい。
でもまあその純粋な、ささやかな善意もオタク向け作品とのコラボを理由にこうやって踏み躙られるんだね、って思うとなんかもう心折れる。
しかも叩いてる連中はろくに献血行ってない層だというね。それで献血ルーム凸とかほんと生きてて恥ずかしくないのかな。
分断を煽るポスターはいけないとか言ってる人がコラボむっちゃ批判して分断煽りまくっているという地獄。
誰かの未来のためだという1割くらいの善意で献血してきてたけど、なんかもうつらい。やめたい。
これまでのフェミ関係の炎上、憤りはありつつもどこか他人事感あったんだけど、まさか献血を叩きに来るとは思わなかったので動揺している。自分の善意が叩かれるとは思わなかったので衝撃を受けている。
お前の善意は叩いてないって? 同じ口でオタク向けコラボは控えろとか言ってんだから同じだよクソが。オタクは見返りがないと献血に来ないのか? とか煽ってるやつもいてクソオブクソ。
どうせ最初から見返り目的が9割で献血やってるんだから俺が嫌になったらいつでもやめられるしやめていいんだよクソが。お気持ちを根拠に自分の身体への自己決定権を行使しているだけなんだからそれに文句は言わせないぞお気持ちを根拠に他人に文句をつけまくってるクソフェミども。
まあでも赤十字はちゃんとセクハラじゃないって突っぱねてくれたからまた献血行こうかな。赤十字は俺らを歓迎してくれるみたいだし、きっとなんかのアニメのポスター貼って漫画もお菓子も取り揃えて快適な空間作って待っててくれるんだろうし。これまでの炎上と違って赤十字が毅然としてくれてたのはよく行く者としては嬉しかった。炎上事案はみんなこういう対応であってほしい。コラボ第二弾期待してますね。
教育上の人種差別を撤廃する制度に反対法案を提出してる過去もある。
これってバイデンが典型的な白人至上主義の人種差別者であることを示唆してるよ。
ウクライナ疑惑にしてもバイデンが副大統領時代に、自分の息子が役員を勤めていたウクライナのガス会社を捜査対象に加えた当時のウクライナの検事総長に解任要求をしたとこまでは揺るぎのない事実じゃん。
仮に百歩譲って息子を庇う意図が無かったとして権力を行使する立場にいる人間としての責任意識に著しく欠けてる。
トランプが政敵のバイデンを落とす為にバイデンの疑惑調査とウクライナへの軍事的支援をセットにしてウクライナに迫ったのは恐らくマジっぽくて、よってトランプはとんでもない公私混同のクズ野郎なんだけど、バイデンだってクズ野郎じゃん。
アメリカの有権者はなんでどっちもクズ野郎じゃねーか!って思わないんだろう?
どっちかを選ぶ必要ないでしょ。
どっちもクズだよ。
表現の自由が、誰かを害することがない限りという前提のもとであると考えます。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。」
胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。
自由ってなんだ??
割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念を提唱している。
詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに
の違いね(cf. anond:20191017201230)。
現代の自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要な自由とされている。
これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。
というのは積極的自由に属する。
その環境を増田が個人の努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者の消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。
積極的自由と消極的自由ならば、基本的に後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由に後者を制約すべきではない。そして、増田が子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。
(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかからず健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府に強制されたくない」という消極的自由が対立する局面を考えてみよう)
ところで、
思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本は天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。
その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人の自由に口を出すなと言われるわけで。
なので、
思春期前の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?
「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人が自分の敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者の消極的自由を侵害してよい理由にはならない、という話になる。
何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。
「多様性を見たくない人も多様性に勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義を破壊しようと主張する政党を民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者の消極的自由を損なわないという前提のもとで。
なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティが存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュのコミュニティとかと同じで。
ところで、私たちが暮らすこの日本はゲーテッドコミュニティではありません。
人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人を誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。
既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本が無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?
私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!
はい、それもあなたの自由ですね。宇崎ちゃんのポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。
これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスターを批判する自由もある。要望を無視したり批判に反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明になっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう。
消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加の自由」とか「健康で文化的な生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。
いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為が消極的自由か積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由の保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権は国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味で夜警国家やリバタリアニズムは支持できない。
ポスター非難派の言い分はとどのつまり「他者の消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者に優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味
上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。
じゃあ「山間部の過疎地に政府が十分なインフラを整備していない」と「政府が過疎地の住民を強制移住させる」だったらどうよ。
前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。
言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由の侵害で後者が消極的自由の侵害です。消極的自由が積極的自由よりも重要な自由であるのは当然ですね?
(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)
わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。
レーガン大統領はカリフォルニア州知事時代にそういう理由でバイクのヘルメット義務化法案に拒否権行使してますね。
個人的には、子供には自己の生命・安全を危険にさらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人がシートベルトやヘルメットをつけるもつけないも個人の自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカがシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売の自由。
概ね同意だけど、最後のシートベルト義務化の話、日本では車対車の事故で死亡事故だと相手の運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由を制限する合理的理由があると俺は思うね
相手がシートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合は情状酌量で減刑すればよいのでは……。
シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費、障害、家族の貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。
ここでは合理性の話ではなくて、自由と自己決定権の話をしているので……。
そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義の優越」というのがある。
何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。
大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人の自由を侵害しないかぎり、自分の道徳を追求する自由と権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。
だから私は一貫して、最初の増田がどんな性教育を子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供の権利を侵害しない限りにおいて自由なので。
でも、それを口実にして他者の自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。
そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇の写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由に作品を撤去させたりしてはいけない。右翼やフェミニストが雑誌やブログに「この表現がいかに許しがたいか」みたいな文章を掲載する分にはどうぞご自由に)。
オタクって自由主義者が多いと自分基準で勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的な認識を示したり、自分に興味がないイシュー(博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ物頒布罪と同様に単純賭博罪は廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博を合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女のイラストをお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。
しかし例えばリアルな死体や糞尿の画像をレストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニングの問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?
私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物の屠殺写真を展示するのは表現の自由だと思うよ。
肉フェスのときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現の自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。
当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間を自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。
刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。
なんで「他人の自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。
自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることなく公衆浴場に入る権利」よりも「刺青を理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場の光景が自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間に自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かに望まれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要。
刺青も少女像も巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由を制限しようとしたがるんですか?
ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品はネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。
もちろんあなたのフォロワーにはネタバレを理由にあなたをリムる自由がある。
100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田。原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう。
ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現の自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的な施設は抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツの強制もヒールの強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制派からあいトリの天皇アートも日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。
最近いくつかハリウッドアクション系映画見たんだけどほぼ下記のようなパターンだった。
主人公(アラフォー男性)はとある分野において優秀な仕事人だったが、同僚に陥れられ/不当に権力を行使する上司を糾弾し/誰もが否定する新説を推し続け、失脚。職を失い妻子とも別れ、今は田舎に引っ込み場末のバーで飲んだくれている。そんな折かつての同僚が主人公を探しにくる。聞けば昔の職場でとあるトラブルが起き、それを解決できるのは主人公だけだという。
「ハッ、いまさら俺になんのようだ?」
同僚(または上司)に裏切られ妻にも捨てられ、すっかり人間不信になった主人公は皮肉たっぷりにこう答え、一度は拒否する。だが同僚の説得によりかつての仕事に対する情熱を思い出し、トラブルに着手するのだが…。
というやつ。
「かつて妻子がいた」というのは妻子を持てる程度の立派な男であったこと(アメリカ価値観的に)、でもそれが「かつて」であるのは新しいヒロインとの恋愛のフラグなのだと思われる。実は妻は見限ったわけではなく、妻子と復活エンドもある。妻と新ヒロインのダブルヒロインみたいな場合もある。
男たちの夢という点でハリウッド版なろうはこういう感じなんだろうなと思う。ちなみに見た映画は、メグザモンスター、ジオストーム、あとなんかあったけど忘れてしまった。たくさんあると思う。特にいったん失脚しバーで飲んだくれる描写はめちゃくちゃ既視感ある。また、子どもがいる場合ほとんど女の子だった。「かつてのかっこいいパパに戻って」というような役割で登場する。
----------------------------------------------------------------
■わかんねーといわれたので補足
あるあるだぞ!とえらそうに言ったけど、実際部分一致が多いのかもな。
①かつての職場を本人は悪くないなんらかの理由によって追われた
というキャラクターは少なくともあるあるじゃない?なんとなく憧れを感じる設定だからだと思うけど。
日本の青年漫画にも多い気がする。①や③はブラックジャックとかギャラリーフェイクとかそっち系。
ほかにもあったら教えてください。
自分に対して自分に問えば必ず答えが返ってくるのと同じように、他人に対して問えば必ず答えが返るものと思っている
自分には質問の自由があるが、自分がそれを行使すれば他人は必ず答える義務があるものと、疑問なく思い込んでいる
他人の答える自由は認めない、そもそもない、自分の問いには答えるのが他人の義務と思っている
このことについて指摘を受けるとキレ散らかしてパニックになる
◆こどもおばさん
子供に対するような態度と同じ態度で接することを求めてくる
このことについて指摘を受けるとキレ散らかしてパニックになる
◆その場しのぎ
その瞬間瞬間に注意を受けたり意見されたり叱られたりしなければ(自分が嫌な気持ちにならなければ)良いので、言動に一貫性や整合性がない
その時さえ良ければ良い行動を取るという意味ではブレがなく一貫性あり
後先考えて行動できない
このことについて指摘を受けるとキレ散らかしてパニックになる
……と、今なら言えるのだ。あれが感情のレイプだったこと、人はそんな出来事を受け入れてしまった時、誰を憎んだりすることも出来ず静かに絶望すること、感情の爪痕は永遠に残って人生を縛ること。
何のことはない
小学4~5年の頃にされた、どこにでもありそうな「いじめ」の一コマである
「担任」と「クラス」という閉鎖的環境に置かれ30人の子供達にとって、ごくごく「順当」な行動であった
こんなことは「起こり得た」でもなく「起こり得る」でもなく、「起こっている」現象だ
人の衣服を集団で剥ぎ、手足を拘束し、生殖器を蹴り(これが痛いんだ、本当に)
挙句の果ては異性の前にそのまま蹴り出す
こんなことは、今現在でも然程珍しくもないのだろう
救い難い事に、そうされた自分自身が成人になった今、形を変えて無自覚にも類似の行動を他者に行っているのだろうという事
どれだけ気を付けていても、人間というのはそこにいるだけで他者へ有形力を行使し続けている
「人の嫌がることをするな」は、気付いていようが気付いてなかろうが不可能だ
人は成り行きで他者を傷付ける
しかし、この広い世界はそんな事とは無関係に今日も一切の綻びなく営まれていく
"通例では、多国籍企業が国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを表す。" wikipediaに寄付金を!
これだけでは資本主義社会の拡大でしかなく、国民を無視しておりグローバリズムとは言えない
人の移動が自由化され、国家が再定義されて初めてグローバリズムは実現するのだ
さいていげんひつようなもの
食べ物、住むところ、着るもの、現物でも金でもいいから保障してね、主食がイモだけ?移住しよ
2 国は住む人が移動しやすいように努めましょう
移動には手間と時間がかかるので、お金くらいはタダにならないと
3 国は住む人が好きなところで過ごせるようにしましょう
国籍が選べない?変えるのが難しい?二つ三つなんてケチ臭い、100も0も可能にしよう
国家運営は、権力を行使して富を集め、拡大や保全に充てるのが目的。
ともすれば、国民をギリギリまで虐げて搾取することで、運営に有利になる。
そこで、国が国民を資産として保全する動機付けが必要になるが、司法が独立しなければ憲法だけでは不十分で、市場経済の概念を導入する必要がある。
つまり、人々にとってより良い国への移動を自由化しグローバリズムを実現することで、国家を抑制し、世界中の虐げられる国民がいなくなるのだ。
EU「それな」