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八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故(はちおうじししかいしフッかすいそさんごとふじこ)とは、1982年(昭和57年)に東京都八王子市で発生した医療事故である。歯科治療用のフッ化ナトリウム(NaF)と間違えて、歯科技工用かつ毒物のフッ化水素酸(HF)を歯に塗布された女児が死亡した。
1982年(昭和57年)3月19日、八王子市内にある歯科医院の院長である歯科医師X(当時69歳)は、虫歯予防薬が少なくなったため、助手である妻Y(当時59歳)に注文するように依頼した[1]。Yは、虫歯予防用のフッ化ナトリウムのつもりで「フッ素」と市内の歯科材料会社に注文したが、注文を受けた社員は歯科技工に用いるフッ化水素酸と解釈してその日に同院へ配達した[1][2]。その際、毒物及び劇物取締法に基づいて受領書への押印を求められたが(フッ化ナトリウムであれば不要の手続きである)、Yはその違いに気付かず印鑑を押して瓶を受け取り、その瓶を診療室の薬棚に入れた[1][2]。Xも、従来使用していたものとは瓶の大きさやラベルが違うことに気付いたが(容器の外側には「フッ化水素酸」等と表示されていた)、前年の暮に取引を始めた新しい業者から納入されたもののため、違うメーカーのフッ化ナトリウムが届けられたと判断し、使用しやすいように従来使用していたフッ化ナトリウムの瓶に移し替えた[3][4]。
4月20日午後3時40分頃、市内に住む女児(当時3歳)とその母親(当時33歳)が、虫歯予防のためのフッ化ナトリウムを塗布してもらうために、同院に訪れた[5][6]。Xは、「八王子ではフッ素の塗布が義務付けられている」といい、フッ化ナトリウムと勘違いしたフッ化水素酸を脱脂綿にしみこませ女児の歯に塗布した[5][6]。その直後、女児は口から白煙のようなものと臙脂色の唾液を出し、「からい」と訴えて仰け反った(フッ化ナトリウムは本来無味無臭である)[5][6]。Xの指示で、女児の母親と同院の助手の女性が女児の体を押さえつけ、再び液体を塗布したが、女児は悲鳴を上げて暴れだし、診察台から転がり落ちた[6]。腹痛を訴え床を転げ回る女児を母親が抱き上げると、口の周りが真っ赤にただれていた[6]。Xは、初めての反応に対して特殊体質によるものだと判断し、強心剤を注射した上で119番通報した[6]。女児は救急車で近所の病院に搬送されたものの、症状が重篤であるため東京医科大学八王子医療センターに転送されたが、同日午後6時過ぎに死亡した[6]。
Xが女児に付き添い医療センターに向かっている間にYは違和感を持ち、女児の歯に塗布した薬品を自分の歯につけたところ、強い刺激を感じ歯茎が荒れたため、うがいをして吐き出し、薬を間違えたと判断して、Xに無断で容器などを洗い自宅の焼却炉で焼却処分した[1]。同日に、八王子警察署が業務上過失致死の疑いで家宅捜索に入り、診療室内の薬品や焼却炉内の灰を押収した[1][7]。
4月21日、司法解剖により口の周りの皮膚がただれているなどの急性毒物中毒と考えられる特徴が確認された[6]。同日午後9時頃、女児の通夜の席で遺族から詰め寄られたXは、高血圧性脳症を起こし倒れた[4][5]。
4月23日、警視庁科学捜査研究所が治療時の容器などを分析した結果、フッ化水素酸が検出された[1][7]。
9月28日、東京地方検察庁八王子支部はXを業務上過失致死で起訴した[8]。
1983年(昭和58年)2月8日、Xが治療ミスを全面的に認め、3850万円の慰謝料を支払うことで遺族との示談が成立した[9]。
2月24日、Xは東京地方裁判所八王子支部で業務上過失致死罪により、禁錮1年6ヶ月、執行猶予4年の有罪判決を受け、この第一審判決が確定した[10][11][12]。
自分のスタンスを明示していなかったけど、各論としては選択的夫婦別姓に反対はしてない。細かい制度設計で気になる点はあるけど。
元増田の文意は、「リベラルってこれでいいの?」という疑問にあって、個別の制度自体の是非についてはあまり議論のモチベはない。
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
別姓制度を単体でみたときに、メリデメを合理的に考えればそうなる、という点で同意。
ただ、「文化伝統の維持」という主張に対する反論としては、議論のずれというか噛み合わなさを感じる。
そもそも保守思想というのは、人の考えうる「合理性」などたかが知れている、というスタンスであり、それゆえに伝統(現状維持)を志向するんだと思ってる。
確かに各論でみれば選択的夫婦別姓に反対する理由はないんだけど、そういった部分最適を積み重ねた結果、本当にみんなが幸せな未来(自由の侵害が最小化された世界)が来るのか、あるいはなんらかの予測しえなかった機序が働いて、もっと深刻な差別が発生するかもしれない、という懐疑論なのね。
そうすると、懐疑だけじゃなくて根拠をデータで示せよ、お気持ちじゃねーかよ、ってリベラルは主張するわけだけど、保守からすれば、そもそも人間がデータ化して認知し予測できる世界なんてまだまだ不十分だ、というのが基本スタンスなわけ。
実際に現代の科学でも株価も天気も予想できないじゃん。なら歴史に学んだ方が「合理的」だ、と。
なんで、「自由の侵害」を各論レベルでしか考えない反論、というのは、保守的な問題意識とは噛み合わんなーと思うわけです。「文化や伝統」というのは総論だから。
まあ保守側も「伝統を損なう」みたいなふわっとしたこと言うから、なかなかまともな議論にならんのですけどね。これは現状維持バイアスこそが保守みたいなとこあるんでしゃーない。
でもそこで、「保守を”ただの不合理なお気持ちバカ”とみなすような言説」がリベラル(?)に目立つんで、それはちょっと相手を見くびりすぎだし、多様性と相互理解を標榜するリベラルとしてどうなん?ということが言いたかったのでした。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
うーん。まあ前段はそうなんですが、私は保守派の理念をそこまで悪意的なものと解釈していません。はてなの左派言論において、保守思想に対する悪意的解釈が多くみられるように感じているので、それを指摘したい、というのが私の意図ではありました。
保守の言いたいこと汲み切れてないんじゃない?保守の主張が「一面的に他者の自由を損ねることをよしとする言説」に読めるのは、読解が足りないかバイアスかかってるんちゃう?ってことをリベラルに言いたい。
呉座問題には興味ないが、選択的夫婦別姓は認めるべきと思ってる個人だが。
俺がリベラルかどうかはさておき、確かにそう思ってる。(というか社会運営上の基本理念の様に思う)
選択的夫婦別姓について言えば、現状別姓は認められておらず、『夫婦で別々の名字を名乗る』自由が侵害されている状態だと考えてる。
その上で
『文化や伝統』を守りたいというのは個人の自由だし、そこはマイノリティであろうがマジョリティだろうが尊重するつもりだよ。ただそれは、あくまで他者の自由を阻害しない範囲でやってもらいたい。
『文化や伝統を守る自由』ってのは本当に『別々の姓を名乗る自由』の侵害無しには成り立たないのか? 選択的夫婦別姓制度が(極端な例だが、"人を殺す自由"を認めた場合の様に)社会に著しい害をもたらすというなら否定するのもわかるし、考えるべきだと思う。だが少なくとも『損なう可能性』や具体的でない『デメリット』のみでは納得感が薄い様に思える。
『理解を示して妥協点を探るべき』という考え方には個人的には共感するし、リベラルが先鋭化しているというのは多分そうなんだろうけどな。
ただ、『選択的夫婦別姓』という考えを『バッサリシャットアウト』しているのは『文化や伝統』を重んじる層ではないのか? この辺卵が先か鶏が先かの水掛け論になりそうではあるが…。
というか保守派は『文化や伝統』に基づけば他者の自由を侵害することもやむ無しと考えているのか? だとすればそれは先に挙がった『リベラルの基本理念』と根本的な部分で相容れない様に俺には思える。『他者の自由を阻害しない範囲』を越えた『自由』だからだ。
君の言い分をまとめれば、「リベラルは『他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべし』という理念を守ってないんじゃね?だって保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリ斬り捨ててるし。理念に基づいて妥協点を探るべきだろ」となる。(合ってるよね?)
実際には保守派の理念は『他者の自由を阻害しない範囲』を越えて自由に振る舞うことをよしとするものだった。当然リベラルにとってそれは自らの理念に外れるから、受け入れられない。理念に外れるものを尊重する必要はない。となり、過激な叩きが横行するんだろう。俺の想像だが。
だとすれば(叩きの是非はともかく)リベラルは自らの理念にどこまでも忠実である。とすら言えそう。
という結論にひとまず到ったんだけど、どう思う?
無知や知ろうとしないことが差別だーとか言って、勉強を無理強いしそうな元増田教授先生でいらっしゃるね
パンピーが多少読書したり調べたりフィールドワークしたところで何もわかりはしないのだから、要は、そのジャンルの研究者の意見に全面的に賛同しろと同義だよねえ
選択的夫婦別姓や「呉座先生事件」関連のエントリ・ブックマークコメントをみつつ連想したこと。
呉座先生の個別の失言は、まあ擁護は難しいしするつもりもないが、リベラルを自称する界隈の先鋭化が気になってしょうがない昨今。
最も気になるのは、保守派の主張を全面的に不合理なものとしてバッサリいく態度。
一見不合理かもしれんけど、保守思想というのはそもそも現状維持が基本姿勢で、その背景は「経験と歴史の尊重」「人間理性に対する懐疑」にあると思ってる。
これ自体はリベラルの根底にある理性の信奉と根っこでは矛盾しないはずで、「歴史に耐えた制度にはなんらかの合理性があるはず」と考える態度は、科学的に見ても「合理的」でしょうに。
まあ政治思想の理念的な背景は明るくないのでこれくらいにしとく。
リベラル勢に聞いてみたいのは、
例えば選択的夫婦別姓が成った後に、一族や天皇制といった概念が希薄化し、日本の民族性や文化を愛する人々が少数派になったとき、彼らをどう扱うつもりなのか、ということ。
他者の自由を阻害しない範囲で思想信条の自由は尊重されるべしというのが、リベラルの基本理念だと思うんだけど、マイノリティになってから初めて尊重します、っておかしくね?
現状において支配的な思想信条が、女性や性的少数者の自由を侵害しているという主張はわかるし、それを解消すべく制度設計を行いましょうというのもわかる。
でも、「現状の戸籍や姓・婚姻制度にも機能と利益があるはずで、性急な改革は伝統と文化を損なう可能性がある」という反論をバッサリシャットアウトするのはダメだ。
現状の被害者と同レベルとまではいかずとも、理解を示して妥協点を探るべきでしょう。
少なくともその伝統を拠り所にしている人々がいて、あなたがたは、かれらを「少数派」にしうる政策を支持しようとしているんだから。
想定問答をあげておくと、
「選択的なんだから問題ないだろう」というのがまず返ってくる反応だろうけど、保守派は「文化や伝統」を問題にしているのであって、選択肢が発生すること自体に対するデメリットを危惧している訳だから、
「姓が別になった程度で文化は損なわれない」という反論もありえる。ここは保守側の仮定なので一定妥当である。「文化」の定義がカバーする範囲が広すぎるので合理的な説明が難しい。
でも、自分の祖父祖母世代とのコミュニケーションから、保守派の心情を勝手に代弁するなら、もう彼らは相当に妥協しているし戦線を後退している。
「日本文化は米国文化に塗りつぶされ、最後の一点で耐えている」という世界観を現代の高齢者世代は持っている。
(親父がネトウヨにいつのまにか傾倒していたなんて話がよくあるが、それもこの流れの一旦だと思うし、呉座先生も高齢者ではないが歴史学者としてこういう流れに影響を受けていそうな気がしている)
彼らの世界観からすれば、今も米国文化によるマイルドな同化政策は続いているし、それは一面では事実でもあるだろう。
かれらの青春時代にはリベラルなんて影も形も無かっただろうし、「家を継ぐことが至高命題」として育てられた彼らが、生きているうちにここまで世界が変わるなんて思いもしなかっただろう。
それは同情すべきこと・尊重すべきことではないのか?
「日本の文化もできるだけ維持し継承します、そのうえでみんなが活躍できる社会にしていこうとしてるんです」と、言い方だけでも寄り添ってあげようよ、という主張は、トーンポリシングとして糾弾されるべきことなのか?
自分自身は、ムラ社会の嫌な面を経験してきているので、家を継ぐべしというような思想は消えていいと思っている。
一方で、ムラ社会の最後の世代になるであろうジジババが寂し気に「私は親にそう教育され家を守ってきたしそれを誇りに思ってきた、子に受け継ぎ家を守りたかったがもうあきらめている」と語るのを聞くにつけ、かれらに「わきまえたマイノリティ」の像を重ねることもある。
(まあかれら自身は保守政党に投票するだろうが、世代が変わればいずれムラ社会は解体されるだろう)
ムラ社会は総論として害が大きいと思っているが、それでも私の原風景は「田舎のばーちゃんちでジジババに載せてもらったトラクターからみた風景」であり、自分はそれを享受しながら、自分の子世代にそれを残せないことの寂しさや後ろめたさも感じている。
なんというか、そういう対抗派閥に対する共感・配慮なしに、一方的に断罪する論調は、先鋭化が行き過ぎているし、リベラルが根底に置く理念と矛盾していると思う次第。
端的に言うと「質問したのに相手が長々と言い訳をしだしたように聞こえて希望の粒度で回答を得られない場合、質問を変えるべき」
ええとなあ、最初の話が「技術的には可能です」を言うシチュエーションとその理由という話だった。返答に「ワイ『無理です』と即答して営業に怒られたことあるぞ」って来てるけどこれが全面的に正しい。純真な子供のように言うなら「無理です」がピッタリの状況だが、言えないということ。
「光の速度」とか「商業的に扱える最も強靭な鋼鉄の強度」とか「人類が現時点で保有している純金の量」とかが制約になって無理な場合、「技術的に無理ですね」と切って捨てられるし、食い下がったところで「じゃあ光の速度を上方修正してきてくださいよ私じゃなくても世界中の誰でも不可能です」なんて言えば済む。エンジニアが自分の責任じゃないポイントで防衛可能という最強な無理回答可能状況である。どうあっても無理と言わせないことができないわけ。
ところが、たとえば競合他社とか類似業界が実現しちゃってるとする。ルネサスの半導体製造現場に行って「5nmプロセスでCPU製造開始しろ!TSMCはできてるじゃないか!できないのはなんでだ!」と叫ぶとかね。そこで「先方が達成している通り技術的には可能です。ただ当社の装置は残念ながら~」とか「現在の当ラインの主力はアナログ半導体で~」って長々と説明が始まっちゃう。「無理です」「あっTSMCに頼んでくださいね」というクソ度胸のある人ばっかりじゃないのよ。
建築っぽい人が急にITの見積もりのことを尋ねたのでITの見積もりの話が回答されちゃってるけど、これは質問が悪かった。めちゃめちゃ悪かった。だってITの見積もりそれだけで死ぬほど本が出版されてて何も解決してない、まるで長寿健康法状態のところに心構えなく鼻突っ込んでるわけで。ITの見積もりが簡単ならみずほ銀行あんなことになってないっつうね。
そもそも建築の人の想像力が足りてなくて、ITの人は工数で断ろうとしてるけどこれは無茶振りしてる相手との共通言語を少しでも模索しようとしているだけなのね。正確に工数算定ができて相手を納得させられるなら楽なのになあ、っていう願望なの。ITの現場で無茶振りしてくるそういう人、大体お金の話なら通じるから。「私の見積もりだとこの金額と納期ならできると思います」っていうのは「それを値切ろうとするぐらいなら他へご相談くださいね」で「無理です」を責任もって根拠付きで言えるってことだからね。
工数金額を見積もれる建築の人が自分自身「技術的には可能です」っていうとき、本当はどういう理由で断りたいのか、そしてそれが言えないのかを考えてみるべきだったのよ。多分「法的な理由」とか「支払いサイト」とか「口座」とか「管轄」とか「人間関係上の理由」とか「人種差別問題」とか「絶滅危惧種が絶滅しちゃう」とかのうち自分の職掌にないものが出てくるよ。「アホほど面倒くさい」とかかもしれないけど。
なにかいいことだとおもったりおもしろいことだと自分がおもってることをする人ってなにをどう注意してもダメだとおもうんだよね
冷蔵庫に入ったらダメっていったら冷凍庫ならいいのかとかおでんのスープならいいのかとかそういうのがダメだっていってんのわかんないのかなってとこあるよね
というかむしろしてないこととかダメなことをしてもいいんじゃないかって思考になってそう
そういうのを斬新なアイデアとかおもっちゃってるとこってまともなことをどこまでも教え続けてもそのたびに「そうじゃなかったらオモシロイんじゃない?」とかいいだすよね
それをほんとうにボーダーこえたところだけダメだって折檻してもそれはそれってまた違うところでやらかしそうなのは想像に難くないよね
極端な話だけどさ
手足をもいで五感をうばってもたぶんそういう気持ちってなくならないんじゃないのかなっておもうんだよね
そういうのって人権とかいうものって感じするけどその人権そのものから迷惑行為が発生してるってこともいえなくもなくないよね
人権があるとか人であることがそういう創造的な行動をしてるみたいな
大義名分としては文字として聞こえはいいけどひどく迷惑な話だよね
実際に手足をもぐとか物理的に攻撃とかあからさまにダメージをうける部分を狙っての攻撃とかそういうのは無理筋だよね
だときれいな言葉でダサいとか受け入れられないとかいいとおもったかもしれないけど私たち一般としては全面的に受け入れられない否定するしかない最低の考えだったとか間接的にこっちが突っぱねるのがいいよね
五体が満足でも心が折れたらその人権のなんとかみたいな行動がなにもできなくなるよね
その迷惑行為をやめさせたいっていもってるその目的はきれいに達成できるんじゃないのかな
そうじゃなかったらほっとくと絶対またどこかで迷惑行為するでしょ
そうなるの見逃せってそうなったらそうなったで被害者が発生したらそのとき考えようってそれストーカー規制法ができる前の警察の対処じゃんね
実際に物理的な被害が発生してからはじめて調査をしましょうっていうのよい文化だったか考えたいよね
いまもその文化を残して継承していこうってなってるか考えてみたいよね
再犯するのが放置されてるのってもう教師による未成年者への変態行為くらいだよね
あれも実際に子供が被害届だしてないと人権とか問題なしなんだからいいっていうならいいとおもうんだけどそうなのか考えたいよね
それをやめさせるのに手足がなくてもあきらめないっていうのはもう実際にそういう人がいるのでわかるよね
じゃあそうできる体があるのにしない人やできない人がいないのかっていったらいるよね
そういう人になってもらいたいからそうなるように攻撃するんじゃないのかな
攻撃がダメだって言うならそういう迷惑な行為をする人に首輪をつけて監視をする人をつけてくれるのかな
その人が再犯する前にとめてくれる人が常についててくれるなら今回はしょうがないって次回はその監視役の人に責任をとってもらうってことでもいいかもしれないね
いまのところやっぱり被害者を減らすためにはそういう根本的に歪んでる人をまっすぐできないなら折ってしまわないとほかの人たちが折られていくのを容認してるのと同じことになるんじゃないのかな
実際そういうことだとおもうよ
クリエイターのクリエイト心って、クリエイティブなところからだけ出てくるの?
そのクリエイトが失敗したら、クリエイト心のコアだけダメ出しして「そういうゴミみたいなクリエイトやめてもらえます?」って言えば出なくなる?
なにかを見たり聞いたり、話したり触れたり、すれ違ったり関わったり、日常のあらゆるなにかからクリエイションとかでてくるんじゃないの?
じゃあそのクリエイトを止めるにはどうしたらいいの?クリエイト心だけ閉鎖したらクリエイトしなくなる?
関係ないところからそのセンスでなにかしらをクリエイトするよね
じゃあそれを禁止するためには委縮させないとだめだよね
その行動をクリエイションされるであろうだいたいの範囲にむけて禁止させるために委縮を目的とした傷痍攻撃を行うとしたらやっぱり全面にならない?
攻撃をする側からすればどこからかでてくる隙間は全部うめたいし巣があればそれを破壊したいと思うんじゃないのかな
だとすると、攻撃される側は全面的に飽和攻撃をくらうまえに「その部分についてだけ謝罪しそれがもう追随して出ないこと」を宣言したほうが被害が小さくならない?
なにが悪いのかわからんとか、悪いわけではないはずだとか、話せばわかるとかおもって攻撃側のこころゆくまでの追加攻撃をまっていたらどこまでも延焼して全部だめになるんじゃないのかな
やられたくないならやられる場所を見限って生贄に差し出して「グエーやられたンゴ」ってしとくのが得策なわけで
「やくならマグカップも」という女子高生たちが陶芸部で活動する日常系アニメが4月から開始する。
アニメ化が決まった時、原作知らなかったけど俺の出身地の多治見が舞台になるのか〜とワクワクしたしアドレナリンも上がった。
とりあえず、原作はWebサイトに公開されているみたいだがら10話まで読んだ。
だが、2,3月ごろになって「後半は実写が15分」「市長が痛車を作って日常的に運転している」ってニュースを見て...????ってなった。
そして、dアニメの先行上映会で1話を通してみたが、もうあらゆるものが込み上げて放送しないで欲しいって思った。
※自分の率直な意見なのでこの作品が好きだ!って人や期待している人は見ないでください。批判する人もいるだろうけど承知の上で衝動になって書いています。
なぜそんな風に思ったのか、以下の通り
アニメ化が決まった時はたいして気にならなかったけど、2,3月になってニュースやアニメの公式サイトをみたら
「<やくならマグカップも>“聖地”多治見が「やくも」一色に 話題の“痛公用車” トラックも」
「アニメ「やくならマグカップも」オリジナルデザイン公用車登場 多治見市」
「<やくならマグカップも>多治見市でコラボ続々 ロケ地マップ キャラが案内」
「陶芸の町、多治見を舞台に繰り広げられるほんわか青春ろくろアニメ」
もうね、多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見多治見
とそればかり連呼して「ここが聖地の多治見だ!」「多治見に必ずこいよ!」的なアニオタから金儲けと目立ちたがりの典型的Youtuberな感じで見るたびに痛々しくなった。
勝手に多治見市を聖地にして押し出しているけど、聖地って最初から全面的に街を押し出すのではなくてアニメの中で見ていて場所と魅力が伝わるから聖地になると思うんだよね。
ゾンビランドサガは舞台が佐賀だと知らないで見たけど、作中に出てきたドライブイン鳥やガタリンピック回が面白く一度は行ってみたいと思った。
ゆるキャンのキャンプ場やログハウスの魅力も伝わったし、実際にアニメで出た場所に行って見た人の動画も調べて見るほどだった。
だが、このアニメは放送開始前から聖地ゴリ押しでコロナ禍だからか一攫千金狙おうという感じがしてアニメを見る前からゲンナリしちゃったんだよね。
アニメ化は地元で暮らしていた?日本アニメーションの社員さんが企画して始まったものらしい。
当然アニメ化のための原作は多治見市とプラネットにあるから打ち合わせとかするんだろうけど、アニメ会社からしたら30分のアニメにしたかったんだろなあって思う。
このアニメは後半15分が声優さんたちの実写パートって本当に限られた声優ファンとかなら嬉しいかもしれないが、一番メリットあるのは多治見市側でしかないんだよなあ。
これも多治見市側の利権と大人の都合としか思えないし、アニメ放送開始前からやらかしているなあっていうのと嫌な裏が見えてしまって...としか思えない。
一番可哀想なのは、見ている視聴者よりも日本アニメーションかもしれないわ
自分たちのやりたいようにやれず、アニメ会社にはお金が入らず、広告屋や多治見市やプラネットにお金を吸われちゃうのかあと考えるとマジで可哀想
大した理由じゃないけど、陶芸って多治見だけじゃないんだよね。
陶芸の美濃焼が題材だけど、多治見じゃなくても土岐、瑞浪、可児とそれが伝統の街は周りにもあるんだよ。
美濃焼だったら生産量1位でTOTOの工業もある土岐市が舞台で相応しいかなあという気はするし、多治見=美濃焼のイメージにはしないでほしいとは思う。
■地元の人はそこまでこのコンテンツに応援している人は少ないのでは?
2010年からこのコンテンツが始まって、2012年に原作となる漫画が始まったようだ。
俺が多治見市を2018年に去ってから3年程度経つけど、この原作をマジで知らない。
何十年も多治見で暮らす父親はよく地元のスポーツ大会で優勝した時や街中で気になったものを見つけたら、家族のLINEに報告することが多い。
俺のことはオタクとして見られているからアニメやコンピュータの話題を尋ねられることが多いけど、「やくならマグカップも」について振られたことが本当にない。
父親だけじゃなく母親も兄も親戚のおじさんも地元の同級生も知らないみたいだった。
そこまで地元向けに展開していて地元の人が知らないまたは興味が薄いって状態なのに、「地元の期待を寄せて...」みたいなニュースになるのが嫌で嫌で仕方ない
市長が痛車を運転しているってニュースの通り、なんか地元が可笑しな方向に進んでいるなあという感じがしてなんか盛り上げさせられているっていう...
dアニメの先行上映会で見たが、情報通り前半はアニメで後半は実写だった。
前半のアニメパートはギリギリ許容範囲程度で普通という印象だった。
陶芸でろくろ回すシーンはそれなりに手触り感の効果音や作画は良いとは思うが、全体的にそこまでキャラの動きを描写せず背景だけを写してごまかす感じの印象があった。
原作と展開は厳守しているが、オリジナルの演出や展開とかはなかなかよかったかなって思った。
でも予算足りてないのかな...と感じる部分はどうしてもあった。
突然実写パートが始まるからアニメの事前情報ない人なら「!?!?」って感じになるだろうし
実写パートで成瀬家のモデルはこれ!みたいなこと言っていたけど、アニメだったらほんの一瞬だから「おおっ」「へぇー」みたいにはならなかった。
多治見観光じゃなく、声優4人の家族の話がなんやかんや始まって、この話いる?って思ってしまった。
このままアニメだけを続けたほうがよかったのでは!?という感想。
このアニメもぶったぎって酷評するとなると、個人的に嫌になってくる。
色々と汚い部分(手が陶芸で汚くなる方ではない)が見えて、それを補えるほどのアニメの内容が良いって訳でもない。
このアニメに税金をかけるくらいなら、市民のコロナ禍に対する給付金や補償金などそういうところを注力して欲しい...(今のゴリ押しGOTOや五輪を進める政治家と似ている...)
結局フェミにしろ馬主サイゲにしろ「オタクがエロ心をうまく自制できてれば基準などもうけるまでもない」んだし目的は一致してる
「このくらいならイイはずだ」「だめなら基準を設けてくれ(そうしたらそれをかいくぐってエロ心を表現するから)」っていうのは詭弁にすぎなかったしそれが今回全面的に表面化しただけ
就労支援施設で新しくできたメイクアップの単発授業がでて、担当スタッフも勧めてるしメイクに興味あったから受けたら、ひどかった。
いつもおしゃれしている(資格を取っているのか不明な)女性生徒に授業任せて、
メイク内容より相手に対しての敬意の表れであり最低限のマナーですって、化粧は絶対ですみたいな言い方の方が強かった。
その場で指摘しないと許容した扱いにすると前に言われたから、面談で発表の仕方に文句言って怒ったら担当スタッフがカンカンに怒って
「発表会の前に目を通してこれでいいと思いました、みんなそう思っています」って、全面的に文句言った方が悪いみたいな対応。挨拶無視してガン飛ばしてきて最悪。
2021年なんだからもっとアサーション教えているくせに棘のない言い方を考えないのかな。
人に教える授業だからちゃんとしようとか考えてないのが、ひどい。
適当すぎ、授業生徒に任せるとか超手抜きだし、怒ったら怒り返してきて女性担当スタッフとか、この就労支援施設、最悪。
メイクで一時の容姿気にしてもそれで昇進するわけでもなくただ肌とお金と時間に消費されるだけなのに、同性だけはそういう目で見ているとか普通に仕事できなくなるやん。
男の髭と化粧が同レベル扱いなの腹立つ。
解決を拒否し過ぎは同意
『センスメイキング理論』ガーとかいうのもあるけどアレも結論は
センスメイキング理論に関係する諸研究は、組織の構成員をどう納得させるか、説得するかを探究する。それは、それぞれが客観的に状況を理解し、合理的に判断してもらうことを必ずしも期待するものではない。重要なのは、組織の構成員が行動することである。目標に資する行動がとられるのであれば、論理的、合理的な理解は必ずしも必要ではない。
なんだよね、とりあえず動いて貰うところまでしか期待していない
マッキンゼーの『非合理な職場 ―あなたのロジカルシンキングはなぜ役に立たないのか』ってのもあってこちらは未読だけれど
『本物のリーダーは引っ張らない チームをつくる4つの感情スイッチ』(こちらも未読)みたいな結論じゃないかなって思う
イケてるアニキ/アネゴになって『うん、そうだね』の共感をしようが説かれているのだと思う
『なぜ人と組織は変われないのか――ハーバード流 自己変革の理論と実践』はなんか面白そうではある
どんなエリート集団にもアガリ型(ポジションを手に入れたら成長と変化を放棄する)の人たちはいるが
ポジションを得るまでは主体的に動いてきたというのは大きな違いではないか?って気がするよ
そういう人らにも適用できるかどうか
めんどくさいし
女も男もそれぞれ辛いでいいじゃん
家事育児を全面的に責任負わなければならない、仕事もユルくてもいいから多少はして社会貢献しなければクズ扱いされるのが女
仕事で出世レースに乗りバリバリ稼がなくてはならない、家事育児も多少アピールできるくらいして家庭貢献しなければクズ扱いされるのが男
なるほど
コンビニのエロ雑誌なんかも無くなったしね。そういうのがあるってのは分かる。(全面的に賛同するわけじゃないけど)
アニメ(は例示かもしれないけど)に関して言えば、テレビ放映されてるものは深夜にやってるとかはあるけど、レーティングは無い様なもの(アマプラなんかで見ると表示される)なのでそういうのに当たってしまうと不快な思いをするってわけだね。
ちょっと恐縮ながら男性向けエロの話をするけど、男性向け18禁エロの中にもレーティングみたいなものがあって、NTRとかスカトロとかふたなりなんかは苦手な人もいるからってことで、割と事前申告が主流だったりするんだよね。義務ではないけど、不意討ちを喰らわせたりすると『地雷』とか呼ばれる。
だから一般アニメなんかでも、そういう指標みたいなものが示されると『地雷』を避けやすくなるかもね。
ただそういうのは得てしてネタバレにも繋がりかねないし、僕個人は不意討ちのNTRとか最高だな!って思う部分もあるので善し悪しではある。
あと『性とは無関係の作品で女性性を強調する』とあるけど、無関係かどうかは作者が何を表現したいかに依存することなので、受け手が簡単に切り分けるのは難しい。
とはいえセクハラも(程度によるが)今では多くの男性が明確に問題だと認識するようになったんだから、今後は淘汰、というか住み分けされるようになっていくかも知れない。
分かった。モヤモヤの正体が。
絶賛バズり中の安原健太さんの記事( https://note.com/yasuharakenta/n/ne19f1e86e899 )を読んで、どうもモヤモヤした感情が拭いきれず、僕はそれを簡単には言語化できないでいた。
あれから何度か読み返してみて、少しだけ整理できてきたことがあるので、ここに書き残しておきたい。
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僕がこの文章に感じた違和感は、次の一文に象徴されていると思う。
”結局、無理して飲まなくていいからね、気にしなくていいからねと言った俺が一番信頼を集めていた。”
そう、彼もまた、他の多くの男性と同じように、女性からの”信頼”を勝ち取るゲームに参加しているんだ。目的はなんであれ。
だから、偶然彼に女兄弟がいて、おそらく彼自身の容姿も平均以上で、青年期に女性から蔑まれた経験などもなかったがゆえに、自信をもって女性と対等に接する機会を得、何度も繰り返し接触をすることで、ほかの人よりも少し、戦略が研ぎ澄まされているというだけで、結局見ているものには大差がないように感じるんだよ。
文中にところどころ、非モテ男性にマウントをとるような表現が差し挟まれていたり、なんだか極端に被害女性の立場に寄り添う演出が見て取れたり、彼自身の自意識が漏れ出るような部分があったり、
本来は最後の2行で言いたいことは完結しているはずなのに、余計な飾りつけが多すぎるんだ。これは同じ男性だからこそ持ちうる違和感なのかもしれない。少なくとも僕にはそう感じた。
彼が、ゲームの参加者であることをひた隠しにしてゲームに参加していること、そして、おそらくこれを読んだ女性の多くがそれに気づかず、むしろ筆者に信頼や感謝の気持ちを寄せること。その逆転現象も含めて違和感を強く感じたんだ。
ただの僻みだと取られるかもしれないけれど、取られたらそれはそれで構わない。
女性に寄り添うふりをして、「どうした?話聞くよ?」と言って近づいて、自宅に上がり込んでスキを狙うような男は自分の友達の中にもいる。そしてそいつはモテるし、そいつのことを嫌いな女子もたくさんいる。
そんな生々しい事例を、同性の側からよく見てきたからこそ、言っていることの内容の正しさに、素直に共感できないのかもしれない。そして、文章の端々に、そんな彼の中にも存在する「シタゴコロ」とやらを敏感に感じ取ってしまうのだろう。
だから、この文章が、より安全にモテるための恋愛工学としてしか読めなかった。
女性を尊重する安原さんの言動はとても立派だし、良い部分は真似をして、僕も努力をしていきたいと思う。
けれどただ単に、文章の全体から僕がそう感じてたというだけの話だ。あくまでも個人的に。
程度の差はあれど、この文章を読んで、どこか言いようのない違和感を持つ男性はいるのではないかなと思う。
ただしそれは、セクハラを肯定したり、セクハラ被害者に自己責任を押し付けるような態度では決してない。
かの文章でも、tiktokや痴漢のくだりなんかは、全面的に同意だし、僕もそういう行為は本当に許せないと思う。でもどこか、そういう行為をする人の背景(あえて気持ちとは言わない)を分かってしまう自分もいる。
分かる自分もいるからこそ、安原さんのように断言口調で、セクハラ一歩手前の言動さえも含めて、全否定するような気分にはなれないのかもしれない。自分の内面に手をあてれば、きっと自分も同罪だから。
思うことと、それを口に出すことには雲泥の差があるとは思う。
けれど、個人の哲学の問題として捉えてしまえば、セクハラ的な感情を抱くことは、それはもう自分にとっては罪に近いものなんだ。
女性を容姿で判断したり、胸の大きさや足の長さに惹かれたこともある。
一方で、容姿だけでなく、性格や話しぶりも総合して、この人本当に素敵な人だなと思って、自分本意で、かわいいですね、素敵ですねと声を掛けてしまったこともある。
女性に対する信頼や愛情と、シタゴコロとの境はとても曖昧で、僕はいつもはっきりとした区別をつけられずにいる。
自分を差別主義者と認めたら、逆にお前がどんな理由で差別され排斥を受けても文句を言えなくなるぞ。
誰かが訴えてくる差別の基準に対してその基準はおかしいと心から思えるならそれは差別じゃないとこちらも訴え返すしかない。
現代の過激化したポリコレ勢力が力ずくで引いた差別の線引きが全面的に正しいとは俺も思わないけど、それならそれで「じゃあ悪で良いよ」と開き直るのではなく、自分の信じる正しさで以てぶつかり合っていかなければいけない。
全部ぜんっぜん効かねえんだよ俺にはよ
助けてくれ
これに関して俺の答えはひとつ
「いい」
健常者は障害者になりうるし、若者は老人になりうるし、マジョリティはマイノリティになりうるが、人間は動物になりえない
「動物に優しくしておかないと、そのうち人間にも冷たい態度がとられるようになってしまう」ってのはさすがにメチャクチャだろう
だいたい、動物に優しい人が人にチョー厳しいことって結構あるしな 関係ないっすよ
動物をいくら酷く扱っても、それは人間同士の倫理にはそう影響してこないと思う
だいたい、畜産の場で何やってるかなんて普通にしてると見えないしな
魂も死後の世界も存在しないんだし、動物がせいぜい数年苦しんだから何だというのか
俺はそれより食材の幅をとりたい
子供いねえから残したい未来とかないし、俺自身長生きもしたくねえし、人類が栄えていくべきだとも思わないし、人類以外の生物が栄えるべきだとも思わない
温室効果ガス!地球温暖化!つったって明日突然気温が100度になって全員焼け死ぬってことはない
まあ夏が暑くなるのは嫌だし、水害にやられたら悲しいけども、許せる範疇
だいたい肉食わなかったら豪雨が来ないってこともなかろうし、世の中何がどうなって何が起こるかわからん
つか、環境が悪くなっていくのはむしろちょっと面白くもあるんだよな
この2本が、俺の人生における長期的な変化要素として存在してくれている
毎夏だいたい同じような気候じゃあ実際つまらんと思う 20年後の夏は50度とかになってくると、変化があって面白い
期待しています
ンなわけなくない?と思う
野菜ばっか食う食生活のほうが全面的に優れてるなら、さすがに現代に至るまでに人類全体のヴィーガン度がもうちょっと高まってそう
「野菜も食った方がいい」「たくさん野菜を食え」は全然わかるが、「野菜しか食わないほうがいい」ってことはなかろう
今、大学という仕組みは崩壊しつつある。その一因は少子高齢化だろう。学費を払う子どもは減り、高齢化で国家の予算は社会保障費に回され研究費は枯渇する。高いスキルを持つ筈の教授達は雑用に研究時間を失い、論文の被引用数は減り続ける……。日本の大学の未来は暗い。今の大学に持続可能性はない。
しかし、大学は必要だ。高等教育を受けた大量の人材が日本の科学技術を、国際競争を支える力となるはずだ。国力は教育から。
そのために、大学の在り方は変わるべきだ。
そこで私は、『大学は働きながら通う形態にシフトすべきだ』と主張したい。
社会人が働きながら自分の稼ぎで通えるような場所にシフトチェンジする事で、教育格差を是正し、少子化時代においても幅広い年齢層から学費を集めて、子供を産む親の学費負担を軽減することで少子化を解消し、持続可能性を高めることができるはずだ。
そして、国が音頭をとって、大企業に「大学に通いながら働ける雇用形態」で高卒を雇う枠を作らせるべきだ。(障害者雇用のように一定の雇用率に対して給付金を出すといいかもしれない)
国や企業からの一部学費の補助などもあったほうがいい。初めは高卒の20代30代を対象として、徐々に17〜18歳を対象にすることを考えると、受験と就活が被らないようにギャップイヤーを長く設けることなどが必要かもしれない。
ともかく国が全面的に支援して、新しい形の大学と大学生、そして働き方を作り出していくべきだ。
もちろんこれは増田の考えた一意見に過ぎない。現状の大学のあり方に疑問を持つ大学職員が沢山いるはずだ。大学の在り方の議論がもっと活発化すれば、より良い意見が出てくるはずだ。大学には是非、日本の未来を明るくして照らして欲しい。