はてなキーワード: 一神教とは
考えても無駄だがこの世の仮設を立てることにした。
この世がどういう成り立ちや状態なのかを考える。
1.宗教
とにかく、
脳機能が神を信じる器官を備えていることに納得がいく。
色々な宗派があるのはそれぞれの文化形態によって解釈が異なったからと考察する。
つまり一定数の聖書にかかれたことは実際に現実に起きたことと解釈する。
この世は神の支配下にあるとする仮説。
2.影の政府
極めて即物的なこの世の解釈。
霊的な現象も現代科学がそれを観測するだけの領域に到達していないのが原因とする。
陰謀が渦巻いており、
この世の支配者は地球における最大の権力と財閥を持つ人間であるとする仮説。
目的においてある特定の宗派をなぞっていると言われているが、真偽は定かではない。
3.宇宙人と地底
実際は太陽系内の惑星それぞれに宇宙人が住んでいるという仮説。
他の惑星で奇妙な建築物やUFOや地表にあいた奇妙な穴はこれで説明がつく。
人間が知覚できないような電波やホログラム技術が発達しているので、
地球に住む宇宙人も地底に住んでいて火山や南極から出入りしている。
また宗教の神が土地によって違うのも接触した宇宙人の種類によって派生したと考える。
この場合、宇宙起源については謎だが、人類の始祖としての捉え方をする。
地球人類が倫理的・道徳的・種族として進化しないため技術提供ができない、もしくは制限されている。
NASAは隠ぺいと同時にオカルトを自作自演することで情報を混乱させている。
4.仮想空間
知覚できない物的証明ができない情報として最初から設定されているからである。
では今まさに感じている自分という個体が感じる霊的存在についてはどうなるのかという問いが残るが、
現実世界に限りなく近い仮想空間において魂が発生しないという証明も反証もするだけの材料がないため不明。
神や天使、幽霊なども仮想空間上におけるバグや残留データだと解釈する。
5.自分が神
いわば涼宮ハルヒのような話だが、この場合、文章を読んでいるあなたの宇宙と、
1つの宇宙に存在する人間は、私・あなた・彼・彼女だけであり、宇宙は無数に近い数ある。
会話や対話する人間は霊的存在のない哲学的ゾンビのようなもの。
全能の神が暇を持て余した結果の遊びのようなもの。
その答えは、「キャラデザがヤマハのシンセサイザー・DX7をモチーフ」にしているからである。
以上、終わり。
ではなく、「ではなぜここまで初音ミクが受け入れられたのか?」という理由に「青緑色の頭髪」という点がないかと思う。
初音ミクが出てくるまでは、緑色系の髪のキャラクターといえば、「うる星やつら」のラムであった。
もちろん、「うる星やつら」は80年代のアニメであるから、そこから考えても大量に緑色系の髪色のアニメ風キャラクターは登場したが、「時代を象徴するキャラクター」のような大きな存在は無かった。
というか、どちらかと言うと「地味目のサブキャラ」的な扱いの立ち位置が多かった。
(今ググったが、例外的に人気があるのは、よつばと!のよつば、To Heartのマルチくらいか?次あたりにコードギアスのC.C.がつける印象)
話を戻すと、Wikipediaで「うる星やつら」のラムのページを見ると、以下のような記述がある。
また髪の色は、原作ではレーザーディスクやDVDの光彩のような虹色(構造色)をしていて、見る角度によって様々に変色する。アニメでは常に緑色で変色はしない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A0_(%E3%81%86%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%82%84%E3%81%A4%E3%82%89)
つまり、原作のラムの髪の色は「万色にして無色、変幻自在の向こう側の存在(アイドル)」を象徴していたとも言えるし、アニメではその色が使えないため、代わりに緑色を当てたアニメ制作者のセンスも素晴らしかった、とも言える。
初音ミクの場合は、ベースは「青緑色の頭髪」であったが、そこから「万色にして無色、変幻自在の色」に変化していったとも言える。
万人が個々に感情移入するためのツール(アイドル)としては確かに最強クラスであろう。
さらに言えば、すでにアイドル論の主流は変化していて、大人数アイドルの方へ流れている。
これは、一神教から多神教へ、という流れで捉えるべきなのかも知れない(ボーカロイドシリーズの派生とその限界という意味でも)。
ただし、現在でも頑なに一神教を守り通す人もいる、と言った所が現状のように見える。
(ところで、アイドル系の音ゲーと言えばガチャだが、初音ミクはどうなのかな?とググった所、「魔法使いと黒猫のウィズ」などでもコラボした時があるようだ。個人的には、曲をガチャにした初音ミクの音ゲーがあっても良いかもね、と思ったのだが。Pにも一部還元する(テキトーに言ってます))
私は「ゲーム・アニメなどを主食としている、主に女性向け二次創作も嗜むオタク」だ。主に、なだけであって男性向けも読むこともままある。
さらに言えば、萌えればBLだろうが百合だろうがノマカプだろうが種族を超えていようがクロスオーバーしてようが夢小説だろうが何でもいいスーパー雑食だ。
様々な原作を様々な媒体で摂取し、自分の琴線に何かしら触れたらネットの海にダイブする。
そこには同じオタクたちが素晴らしい二次創作を生み出しているのだから。
私は腐女子でもある訳だが、そんな腐女子がよく言う「固定」「雑食」「地雷」という概念に関しては、尽きることのない議論がある。
「固定」は自分が信じる絶対的な組み合わせ以外受け付けないということ。
「地雷」は自分が受け付けないもののこと。これがキャラクター(カップリング)の組み合わせなのか、シチュエーションなのかは人による。
固定でもリバを受け付けるかどうか…などもっと細かい分類もできるが、便宜上「固定」と「雑食」を中心に語りたい。
固定と雑食は根本的に分かり合えない。一神教信者と多神教信者のようなものだ。
自分が信じる何か以外はあり得ないと思っている固定は、雑草どころかその辺の土を食べているような雑食が理解できないだろう。
絶対的に信じるものが一つだけということは、信じられないものが世にはびこっているということだ。
Twitter等でよく刃物の絵文字を並べたり、ゴリラになって他者を威嚇したりする腐女子は、ほとんど苦しみのあまり武装するしかなくなった固定の人たちだろう。
では私のような、CPの組み合わせに限らずあらゆるものを食べるスーパー雑食は、何でも食べられるから苦しみはないのだろうか。
それは断じて違う。
組み合わせという食材に関してのこだわりは薄いが、シチュエーションという味付けの好みはあるからだ。
さらに困ったことに、自分ですら何がいけて何がいけないのかが分からなかったり、いざ苦手要素を並べるとクソ面倒なことになったりなどする。
プロフに「地雷は自衛するのでお気遣いなく」と書く雑食も多いが、「地雷とか苦手を書かないことがいいことだとでも思ってるの?」と苦言を呈される。
たとえば苦手を書くとどうなるか。(※あくまで個人の意見です)
・元々女々しいキャラや女の子のような見た目でないのに受けが女々しくなる
・女体化、男性の妊娠出産。オメガバースは話を振られても話せません。
・AとBをくっつけるためにAと親しいCのキャラを改変して悪人にするのも苦手です。
・パロは別人感が強まる他の要素と重なると地雷です。(例:現パロ→○、現パロ女体化オメガバース→×)
・百合と書いてあるのに蓋を開けるとふたなりになること。マジでやめてくれ。百合は百合でふたはふたで愛したい。
・百合と書いてあるのに蓋を開けると女体化なこと。女体化は女体化で百合は百合だ。やめてくれ。
etc...
後半は腐女子という観念から離れているが、我ながら面倒くさい。
こんなのがプロフにずらっと書いてあったら「お前の細かすぎる苦手意識なんて知るかよ」とならないだろうか。
こういう時は固定派の「AB以外地雷です! その他は見たくないのでブロックします!」くらいに割り切ってすっぱり言えるのが羨ましく感じてしまう。
こんな面倒くさいことを書きたくも説明したくもないので、「地雷は自衛します」と濁している人は他にもいると信じたい。
さらに雑食は固定の作品を読めるが、固定は雑食の作品を読めないことがあるので、そこに交流が生まれないというデメリットもある。
「ABは苦手だけど○○さんのABなら読めます!」という言葉もあるが、それは他のAB好きを傷つける諸刃の剣だ。
雑食であってもホイホイ気軽に誰とでも繋がれることはない。もちろん、固定同士も解釈が違ったら受け付けないだろうし、誰でも同じことだろう。
また、組み合わせよりもこうしたシチュエーションや要素が苦手・地雷なことが多いと、多くの場合「作品を読むまで分からない」という欠点がある。
R18なものは「無理やり」とか「女装攻め」とかシチュに応じたタグをつける作者も多いが、全年齢のものは多くの場合タグがついていない。注意書きにも書かれない些細な要素がじわじわと苦しめてくる。
「地雷」や「注意書き」という概念が強く根付いているのは女性向け、特に女性向けの中でもBLが中心だと当社比で感じられるため、BL以外のもので被弾することが多い。
好きなキャラの夢小説をウキウキで読んでいたら、2番目に好きなキャラが当て馬としてがっつりフラれるシーンつきで登場したり。
未知なる世界を求めたクロスオーバーに手を出したら一方がもう一方を説教する展開ばかりで萎えたり。
人外×人間だ!と異種間交流に心を躍らせていたら不思議パワーであっさり人間になってしまったり。
雑草や土塊も口に入れるけれども、味が合わないとそっと残していく。人知れず被弾してうへえと落ち込んでいるのだ。
組み合わせのみならず、シチュエーション苦手も一切ないウルトラハイパー雑食の方がいたらただただ崇めたい。
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
この増田の死ぬって肉体死(老衰死)だろうとおもうが、他にも死が有る。
犯罪などを犯して世間からクズ扱いされ愚痴や憎悪のはけ口にされる社会的死。
痛みがある肉体的死や病気。
脳死、
認知症による知性の死、
逆に知性があっても気力が失せて一時的に生きるのが辛くて死にたくてしょうがない鬱状態(気力の死)などある。
そうして考えていくと実は不幸だが肉体死が訪れなないまま生き続けなければならないのも
死ぬより怖い。
となると結局は「みんな元気で死なないのがいい」。
それは単なる半径5mの幸福で達成できる。
熱中症にかかると救急車で運ばれて5万円かかるし下手すると死ぬ。
じゃあ1人1人が工夫して自分や半径5m内の人が熱中症にかからないようにすることで、病院のベッドを1つ開けて、他人が生き残るチャンスをつくれる。
丹波哲郎さんの死後世界の説明が(宗教がない人にも)かなり受け入れやすいので調べてみよう。
追記
宗教でいえば、アイドルに全てを託して、アイドルに会えたり握手できたらその日死んでもいい、悩み苦しみもアイドルの一番好きな芝居してるときの写真にむかって告白してればなんか解消できちゃう。がキリスト教その他一神教。
逆に徹底的草食系になって、宇宙とか意識して好き嫌いの感情を常にフラットに保つことで死もこわくない。アカシックレコードの一部として生きるのが仏教。多神教というか、無神教。
どちらにもそれなりの救いはある。
どちらにもハマれず急に本当に辛くなったら、そのときはメンタルのお医者さんにかけこんだらいいよ。
元増田です。ややこしい話なので追記ではなくこちらで応答します。
これ、正直、悩ましいところなんですよ。というのは、これを厳密に適用すると、一般書が死ぬからです。
講談社選書メチエとか筑摩選書とかああいう選書系は詳細な注をつけることもありますが、新書とかだと紙幅の関係上細かな典拠がつけられない場合があります。たとえば話題になっている中公新書の『応仁の乱』ですが、色んな史料を引用してきているし史料の名前も示しているのに、具体的にどの巻のどのページに書かれてるかまで書いてあるわけじゃないですよね。岩波新書の『多神教と一神教』だと、史料からの引用にそもそも典拠が書かれていません(参考文献リストに使った史料一覧が並んでるだけ)。でもそれをいちいち書いてたら新書サイズにならないわけです。
一人の研究者が、新書のような一般書と分厚い研究書の両方を書くことはよくあります。そして、後者において引用部分に典拠を記さないのは論外ですが、前者だと紙幅の都合上きちんと典拠を書けないことが起こり得るわけで、それは現状どうなのかと言われたら「良いことではないが、研究倫理に反する大問題というわけではない」と見做されているんじゃないかと思います。少なくとも、「ここは引用ですよ」というのがきちんとわかる(=自分の文章であるかのように装っていない)のなら、許されているんじゃないかな。引用元の文献リストがあって、地の文とちゃんと区別されている以上、この中のどれかから引用した、とわかるようになっているわけですし。
そしてもう1つネックになるのが、これが予稿だということです。「レジュメみたいなものだから、厳密な典拠表示はサボったけど、フルペーパーとして投稿するときにはきちんと典拠表示をつけるつもりでした」と言われたら、「そうか、まあでも本来、レジュメでも典拠をつけることが望ましいんだ。次からは気をつけてね?」と言うのが精一杯ではないでしょうか。これが剽窃みたいなケースなら研究室でこんこんとお説教して取り下げろと指導する必要がありますが、引用元の文献をきちんとリストアップしていて(著者名・URL・タイトルがきちんと書かれているのでまあ問題ないでしょう。逆にそういうきちんとしたリストだからこそ今回燃えてるというのが皮肉ですが)、どこからどこまでが引用か明示的に示されているのなら、そこまで大問題でもないような(この程度の不備でこっぴどく学生を叱りつけるとしたらそっちの方がハラスメントです)。
もちろん、それでも厳密に言えば著作権法違反にあたるわけだから、違法だ、告発すべきだ、という主張も可能です。何? 新書業界が死ぬ? 知ったことか、そんなムラの慣習が法に優先するわけないだろう、法は法だ、たとえ学生が書いて5,000人規模の学会の内部で報告する予定の正式な論文ではない予稿とはいえ、違法なんだから許されない――はい、これ、どうなるかおわかりですね。この論点で攻めるというなら私は止めません。が、その場合、例の朝日の記者さんが示唆したことをやられても文句は言えないんじゃないですかね……(刀剣乱舞は二次創作が許諾されてるといっても、じゃあハリー・○ッターや銀河英○伝説やデ○ズニーの二次創作はどうなの? ちょっとこれから著作権元に確認取って大丈夫? って話になっちゃうので……)
あと、twitterとかで、私が書いた増田から文章を長々と抜き出してそのあとに一言二言感想をつける方がそれなりにいらっしゃいます。賛成の立場や中立の立場でいらっしゃる方なら、きちんと読んでくれてありがとう、と思うのですが、「pixiv論文はけしからん!」とか主張してる人がそれやってるの見ると笑っちゃいます。お前のそれ、適正な引用の条件である文章の主従関係満たせてないから! 無断転載だから! っていう。なんで自分たちがネットでやることは許されてると思ってるんでしょうね。
これは私もうっかりしていました。機械分析にかけるのは適法な引用じゃない! と主張する人がいたのでこういう項目を立てたのですが、冷静に考えたら手作業で分析してたな、とあとになって気づきました。ただ、機械分析だから引用じゃない、と主張する人がいる以上、47条の7は提示しておく必要があるだろうと思います。
さて、47条の7は、次のような条文です。強調は引用者によります。
第四十七条の七 著作物は、電子計算機による情報解析(多数の著作物その他の大量の情報から、当該情報を構成する言語、音、影像その他の要素に係る情報を抽出し、比較、分類その他の統計的な解析を行うことをいう。以下この条において同じ。)を行うことを目的とする場合には、必要と認められる限度において、記録媒体への記録又は翻案(これにより創作した二次的著作物の記録を含む。)を行うことができる。ただし、情報解析を行う者の用に供するために作成されたデータベースの著作物については、この限りでない。
今回の予稿は、電子計算機による解析の前段階として、手作業による分類を行っています。ということは、「目的とする場合」に該当するのでは? と思いますが、いかがでしょうか。最終的にはコンピュータで分析する予定だけど、その準備を手でやるよ、ってことですよね(もしこれが法律の解釈として問題があるのでしたら教えてください)。
ところで、この条文は、「著作物をまるまるコピーしてきて、それをコンピュータに読み込ませ、解析する場合」を想定したものです(違ったらごめんなさい)。しかし今回のように、もともとネット上に転がっていた文章を分析の素材にして、しかもそれが手作業である以上、
「pixivを見ながら手で数えました。コピー? 引用に必要な部分しかやってませんよ」
と言われたらそもそも著作権法上の問題はなんら発生しませんし(わたしたちがインターネットを見てるのと同じですからね)、大学の共用のパソコンとかなら別になるのかもしれませんが、自室でプライベートなパソコンを使ってコピーして、そのパソコンの中だけで分析を完結させていれば、30条で認められている「私的複製」にあたるので、やっぱり著作権法上の問題は存在しないのでは?(この辺、事実誤認等があったら教えていただきたいです)
https://togetter.com/li/1090802
高橋源一郎の現代語訳教育勅語を読んで、娘が通っていた幼稚園を思い出した。
それはカトリック系の幼稚園で、地元ではイイトコのご子息ご令嬢が通う幼稚園だ。
元々は別の幼稚園に行かせていたんだが、俺の仕事の都合で転居することになって、そのタイミングから探したらそこしか年中から入れるところがなかったんだ。
当然といえば当然だ。
幼い声で、調子をそろえて、「父なる神のっ! 御心にっ!」とか、「我ら罪深きっ!」とか言わされるわけだ。
ちょっと待てと。
俺の娘はいつどんな罪を犯したというんだ、と思ったね。誰の僕でもないし。
カトリックってのはそういうもんだと分かっていなかったわけではないけど、実際に我が娘の口からこんな言葉が聞こえてきて初めて、カトリック系の幼稚園に通うというのがどういうことなのかに気づいたんだ。
半ば馬鹿だったと思うし、仕方なかったとも思うし、いい経験をしたとも思う。今は。
で、教育勅語の話に戻るけど、こんな内容を、実際には幼稚園児には理解できない言い回しで言わされていた彼の幼稚園の子供らと、聖句を叫んでいたこの子らとが、まぁほぼ同じに見えるわけだ。
奴隷根性を植え付けられているとね。
結局何が言いたいかというと、戦前の天皇というのは本当に神だったんだなと。
そしてもうひとつは、彼の幼稚園の気持ち悪さは、俺の娘が通っていた幼稚園にもあった。どちらかが気持ち悪くて、どちらかは平気ということは、原理的にはありえない、ということだ。
「生活が良くならないのは、日本のシステムがよくないから。良くなるように活動したら」
というコメントにも読める。
なので、リベラルとかそういう問題じゃないと思うけど、どうだろう。
少なくとも、敵視やdisといったものは、ない可能性もある。(もちろん、ある可能性も充分ある)
ただそれは、考え方がおかしいからちゃんと考えられるように教えてあげる、という方向なことが多く、上から目線という反感を買った上に、教える≒洗脳≒ネトウヨ思想の死、なので、まあ結局のところ、死ね、なんだと思う。
なので、「面白いもんで」とつけるまでもなく、右も左も保守もリベラルも宗教です。
一神教と書く必要はないと思うけど、、、キリスト教、さらに言うなら、十字軍の横暴イメージでしょうか。
他の思想があることを認めながらも、自分と敵対するものは洗脳して思想的死を望む、まさに横暴ですね。
でも、相手の思想を尊重して救済するのは、インターネット越しでは不可能。
おのずと、不幸にならないと思われる思想の獲得≒現在の思想の死を提案、、、か。
ま、距離をおくしかない(≒救済しない)というところでしょうか。
反ムスリム運動の中心となったのが、僧侶のウィラトゥー師である。
彼は「仏教徒テロリスト」として、米国のニュース雑誌「タイム」の表紙を飾った。急進派の仏教僧侶たちは「仏陀の九徳、法の六徳、僧伽の九徳」にちなんだ「九六九運動」と呼ぶ反ムスリム運動を展開。「ムスリムは妻を四人娶って子どもをどんどん産み、ミャンマーをイスラム教で呑み込もうとしている」「無知な仏教徒の女性を騙して結婚し、無理矢理イスラム教に改宗させ、仏教徒女性としての権利を奪っている」と説法を繰り返した。
仏教徒のロヒンギャに対する偏見は根深い。軍事政権に弾圧された民主活動家や人権派を自認するジャーナリストの口からも「ロヒンギャは不法移民」という言葉が当たり前のように飛び出すほどだ。
筆者が昨年7月、最大都市ヤンゴンで面会したリベラル派の僧侶に「慈悲と寛容を大事にする仏教の国だからこそ、ロヒンギャを受け入れたらどうですか」と促すと、彼は「ミャンマーには135の民族が暮らしていますが、経済移民である彼らをその一つに加えることは絶対に認められません」と気色ばみ、「いわゆる『ロヒンギャ問題』は軍事政権の違法な行為が原因で起きたのです。軍事政権時代、ヤカイン州の入国管理の担当者は賄賂を受け取り、バングラデシュ人を違法に越境させていたのです」と持論を展開した。
神道と宗教がしっかりしていればこの国にカルト新興宗教が蔓延することもなかった
カルト新興宗教のせいでどれだけの子供達が苦しんできたと思う?
ふざけんなクズ共が
一神教を国全体の宗教にしておけばカルト新興宗教が蔓延ることもないのだよ
神道や仏教とこいつらが容認しているカルト新興宗教のことを考えるだけでイライラしてくる
てめえら全員死ね
多神教が良いとか言ってるクズ共は母親がカルトにハマったことで苦しんだ経験もない恵まれた連中だろ?
神社や大乗仏教の寺なんてものは何の頼りもならねーからいらねーんだよ
地獄に落ちろ
僕は今猛烈に怒っている
怒りのあまり頭が熱くて苦しい
こいつらのせいで僕は人生が狂った
ここまでの顛末、対応を見て、たいていの人は薄々感づいているはずだ。「こいつ、どんだけ炎上しても逃げ切る気だな」と。
NAVERまとめへの批判記事が殺到している昨今だけれど、ここまで批判されていてもNAVERが腹を切る絵図はいまいち見えてこない。「批判は一部のもの」と取り扱い、なし崩し的に現状維持を試みているようだ。民草の怒りが別の対象に切り替わるまでやり過ごそう!と、事の解決を時間に求めているようだ。
しかしもちろん「じゃあ野放しにしておこうぜ!」っていう流れに話は転ばない。戦は大将首を落としてこそ完結する。DeNAを討って一国を滅ぼした今の反乱軍の勢いを鑑みればそれはなおの事だ。
ではNAVERを打倒するにはどういった手段に出ればいいのか。以下は1+1=2!ぐらいのみんなわかりきった話だ。再確認みたいなものだと思ってほしい。
著作権侵害を助長するNAVERへ未だに広告出稿する倫理観の低い企業のまとめ
https://matome.naver.jp/odai/2148162947661675701
薬機法ロンダリングをして更に著作権侵害を助長する小林製薬のPR記事まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2148168906592981501
出資元を殴って補給路を絶て、という実に戦略的なやり口。相手が長期戦を望むのであれば兵糧攻めは基本である。
NAVERだって迷惑行為やリスキーな著作権侵害を慈善事業や趣味として敢行しているわけではない。そこにお金が発生するからである。原動力はお金。ならお金を彼らから切り離そう!という手段だ。
https://support.google.com/sites/answer/116262?hl=ja
目につくから鬱陶しいのであって、人が見ないところでひっそりとやっていれば気にすらならないし、日を浴びなくなればいずれ自然に枯れる。
NAVERまとめの流入の大半はSEOだ。検索エンジンから根をこそげば流入はストップする。検索エンジンは一種インターネットの神様みたいなものなのでいくら大企業とはいえGoogleに見捨てられればこの地に生きるすべはない。
NAVERまとめごときで人が死ぬとは思えないが、これを原因に死者が出ればいっぺんに社会現象になるのでは。「死んだ」という事実はなんだかんだインパクトがある。各メディアもこぞって取り上げたがる。
インターネットをクリーンにするための人身御供を買って出る優秀な増田やブックマーカーが待たれる。
結局今はたまたま矢面に立っているのがNAVERなだけで、DeNA、NAVERとデカいところが死滅していったところで、その部分に零細が滑り込むだけであって、単なるいたちごっこなんじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20161210211949
SEO及び検索エンジン一神教である今のインターネットの根本構造を変えない限りは根本的な解決にはつながらないと言える。
かといって、極端に厳しすぎる著作権システムや、メディア概論がまかり通ってしまうと、SFにありがちな、極端な正義しか許されない清潔ディストピアのような状態になることだろう。
そうなってしまえば反乱軍がそのまま山賊化し村々を荒らした末誰も住めないインターネットはたやすく完成することだろう。
場当たり的に役に立ったまとめ、キュレーションは確かにあった。アレ自体が完全な悪とも言えない。基本情報の全てをWikipediaに任せるのもちょっと味気ない。
今や温水洗浄便座は我が国に広く普及し、それにすっかり慣れてしまった。
俺が子供の頃、ウォシュレットなんてものはほとんど普及していなかった。だから排便後は紙でサラッと拭いてそのままパンツを履いていた。
あの頃は大らかなもので、洗髪だって毎日はしなかったし、周りもそうだった。そういう時代だったのだ。
だが俺が思春期になった頃に「朝シャン」が流行し始め、とにかく清潔にしてニオイを断つことが中高生のあいだで広まった。
俺も朝シャンはしないまでも毎日頭を洗うようになったし、その頃からケツの清潔さも気にするようになった。
排便後、力一杯ケツを拭いても紙が純白のままになるまで、何度でもケツを拭くようになったのだ。
しかし、歳とともに、「紙が純白のまま」になるまでの回数は増えて行った。高校生の頃はまだよかったが、大学生になる頃には排便する時間よりも拭いている時間の方が長くなった。
やがて、何回も拭いているうちに出血するようになった。目標は「紙が純白のまま」から「紙に血は付いているが便はついていない」=「紙に赤色成分はあるが黄色もしくは茶色成分がなくなるまで」に変わった。
そんな頃普及しはじめたのが温水洗浄便座である。これはまさに科学の生んだ福音であった。
温水洗浄便座で肛門を洗浄した直後に紙で拭くと、一回目でありながら紙には何の穢れもなく、完全に浄化されていたのである。
俺はその後何年かの間は、偉大なる温水洗浄便座様の恩寵に感謝し、心の底から帰依しながら心安らかなる日々を送っていた。
肛門を洗浄したあと、なにかムズムズする感覚があるので、念のためにもう一度拭いてみた。するとどうだろう。紙に便が付いているのである。
温水洗浄便座は表面をキレイにしているだけで、ちょっと中の方は奇麗になっていなかったのだ。
排便後に温水洗浄便座で肛門を洗浄
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紙で拭くと便は付かず奇麗
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念のためもう一度拭いてみると紙に便が付いて汚い
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もう一度洗浄
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紙で拭くと便は付かず奇麗
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念のためもう一度拭いてみるがやはり奇麗
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三度目の正直でもう一度拭いてみる
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紙に便が付いて汚い
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もう一度洗浄
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以下無限ループ
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流す
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流した直後はウォシュレットの水圧が極端に下がるのでタンク内に水が溜まるまで待つ
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紙で拭くと便は付かず奇麗
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念のためもう一度拭いてみると紙に便が付いて汚い
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再び無限ループ
このループから抜け出すまでに、イヤホンで聴いていたブラームスの交響曲第3番(40分弱)が一曲まるごと終わってしまったことがある。
このループを早く抜け出す方法として、やがて私はウォシュレット浣腸を見出した。
最強水圧で直腸内に温水を噴射して浣腸し、そのあとやや弱めた水圧で通常に表面のみ洗浄してから紙で拭くと、3〜4回目まで紙に便が付かず、付いても血液のみ、という結果になる可能性が飛躍的に高まるのである。
最強水圧で噴射しても、私の中に水が入ってこなくなったのである。私の肛門が頑になって、外からの愛を受け入れなくなったのである。
こうなると救いの道は悟りしかない。愛への執着(しゅうじゃく)を捨て、犀の角のように只一人歩むのだ。
通常の方法で洗浄して一度拭いて奇麗だったら、それで良しとすべきなのだ。小欲知足。南無阿弥陀仏。
そんな時、新たなる福音が私の前に現れた。
http://togetter.com/li/1050158
日本で生まれた温水洗浄便座は、海外においてさらに進化を遂げていたのである。
日本の温水洗浄便座の最強水圧を遥かに上回る神のような水圧を持った浣腸機能が、海外製品では標準装備されていたのだ!
絶対的な境地を求め諦めることなく進み続ける。それこそが全知全能の唯一神を信じる一神教の精神であり、これこそが科学の進歩をもたらしたのではないだろうか?
一神教徒は死後の裁きを信じているし、インド人は輪廻を信じているから、悪行を避けて善行を積もうとするところがあって、
あまりガメつく金儲けばかりしてると天国に行けなくなるから貧しい人に喜捨しようという心持ちになるけど、
日本では浄土真宗によって「善行で極楽に行こうと思うな、ひたすら阿弥陀如来にすがれ」という価値観が定着してしまったので、
極楽に行くために善行を積むモチベーションが皆無になってしまっている。
どんなに悪どいことをしても心の底から「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けるのだから、現世ではひたすら私利私欲に邁進していればいい。