はてなキーワード: 一神教とは
既に一神教じゃないじゃんww
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトに端を発する小説を中心とした架空神話
一神教文化を背景としたおぞましさを表現している傾向が強く、多神教文化圏では理解しにくい部分もある
日本の創作にもよく引用され、クトゥルフ神話を題材とした作品がアニメ化されたりもしている
リチャード・ストールマンに端を発するGNU宣言の後に誕生
フリーソフトウェア運動支持者は狂信的なものもおり、時にその思想から内外で対立することを宗教戦争として揶揄したことからGNU教というジョークが成立
リチャード・ストールマン本人も聖イグヌチウスと名乗りコスプレを披露したこともある
北米の公教育において進化論と共にインテリジェント・デザイン説(知性ある何かによって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)の立場も教えなければならないとする議案に対して、反発する意味を込めて成立した
このインテリジェント・デザイン説の立場とは事実上キリスト教徒の立場であり、信教の自由があり為政者が特定の宗教を贔屓するのは良くないとする学生たちがキリスト教のパロディ宗教としてスパモン教を作った
スパモン教徒は「平等のため、スパゲッティ・モンスターが人類を作ったという説も学校教育で教えるべきだ」と主張した
後にオランダにおいて宗教団体として受理され、(神前式のノリの)パスタ婚式も行われた
日本の女性声優の釘宮理恵のファンによるサークル的性質を持つ創作宗教
ヤマグチノボルのライトノベルであるゼロの使い魔に登場するルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールをアニメ版ゼロの使い魔で釘宮理恵が演じたことにより釘宮理恵のファンが爆発的に増えたことを由来とする
釘宮理恵の演技に虜となった者を釘宮病と揶揄し、釘宮病罹患者はほぼツンデレ神釘宮教信者と見做される
海外の日本アニメファンにもKugimiya DiseaseもしくはKugimiya Byouで通じる
(追記)
東京都八王子市日吉町に所在する寺院了法寺の住職がオタクカルチャーファンだったことにより、了法寺へ萌え看板を設置したことにより注目を浴び、イラストレーターとろ美デザインのとろ弁天が作成された
いや、その気持はすげえわかるけれど、でもそれを言うと、一神教が言うところの「社会というのは男性主導で作るのが正しい、女性は貞淑に従うべき」ってのも、論理としては誤のフォルダでしょ? つまりは現代の価値観でで歴史上のその時点でに行動を判断はできねーよね、に行き着くわけでさ。
今現在の判断はいま現在の価値でするにとどめて(つまりこの場合、現代日本社会においてラディフェミは過剰な暴力で不要)、本来どうであるべきであったか、本質的に正解だの不正解だのみたいなところに突っ込んでも、益は少ないと思うわけよ。
ってなわけで「歴史のある時点においては必要とは言わないまでも意味のあった思想だった」「でも現代日本社会においてはちょっとそぐわねえと思うよ」って記事書いた。
発生当時の時代状況と欧米の文化においては、まあ、意味はあった、のかなあ。そのへんは論者の評価によるけれど俺個人は意味があったと思うよ。
そもそものはなし欧米の文化のベースである一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)において、神は「父なる神」だし、イブはアダムから作られた劣化神造人間だし、ノア(男性)が家父長であり一族のリーダーだと神からはっきり示されてるわけ。つまり、文化の大前提として家父長制=男性優位社会がインストールされてるわけよ。アメリカ南部の教会ではつい最近まで「女性にはテレビとラジオを禁止しておけ、娯楽をあたえると家事をサボるようになる」とかそういう説教を牧師が言ってたとか、まあすげえわけ。
当時はリベラル・フェミニズムはもうすでにあったわけだけど、女性参政権程度じゃ、文化や宗教の制約(つまりは既存社会の慣習)が打破できなくて、そこで、血に飢えた狂戦士みたいなフェミソルジャーを戦線に投入して食い破らなければいつまでも家庭内家事奴隷だろみたいな思惑もあった。宗教的権威に対する挑戦であり、血まみれで戦わなきゃ一歩も前に進めねえので、そこでラディカル・フェミニズムなわけよ。「父権社会によって長い年月をかけて洗脳に近い刷り込みをされた女性は女性自身も気づかぬうちに搾取されてる」「全ては父権社会と権力勾配が悪である」「女性は無給家事労働者とか公的な娼婦として隷属化させられてる」あたりの思想で、「既存の男性主導文化そのものを打倒」しようとしたわけだ。その歴史的経緯を踏まえないと、ラディカル・フェミニズムは理解できないとおもう。
なんつうか、もうこの時点で天照が女神で天鈿女命がおっぱい揺らすとノコノコでてきちゃう日本民族的には理解しがたいのよな。とは言え、「俺には理解し難いんでお前らのやったことは全部無意味で無価値」とはいいたくないんで、だから前述の通り「個人的には意味があったと思うよ」なわけだけど。
だから、そういう状況で戦った女性はそれなりに道理もあれば正義もあったわけ。
上記のような宗教的抑圧の地獄で発達した過激思想を、現代の恵まれた(この恵まれたって言うのに和フェミの皆様方は噛み付くわけだけど、上の記述を見てそれが理解できないのは馬鹿だと思うのでもう話したくない)日本の女性社会において、ラディカル・フェミニズムってのはもう圧倒的に過剰で馬鹿げた思想なわけよ。でも、男性叩きの理論的背景には便利だから、遊び半分でネットのキチガイどもが振り回してるってわけ。
参考文献や考え方のフレームワークを教えてもらえたらありがたいなと思って書き込んでいる。
宗教とその信者を尊重しなければならない理由というのがわからないんだよね。神様とか死後の世界のような妄想をおとぎ話やラノベのようなフィクションじゃなくて本気で信じてる狂人でしょ? なぜ狂人扱いしてはならないのか?
いや、現実的な処世術としての理由はわかるよ。日本はともかく、信者の多い外国で無神論を公言したら嫌われて商売も生活もしにくくなって、場合によってはテロに遭って殺されるかもしれないから。俺もやらないよ。
そもそも日本でもどこに○○○がいるかわからないから××××先生の悪口とか言わないし。
でも、力があるから面と向かっては怖くて批判できないけど、やっぱりヤクザは悪だよね? という議論をさせてもらいたい。
神様って妄想でしょ? あなたは妄想を自分の人生の指針にして、ホモは罪で死後地獄に落ちるとか他人まで攻撃してるの?
と徹底的に否定して攻撃してはならない理由というのがわからない。
ただの俗人の俺が「ホモはキモい! 異常! 病気!」と言うと全世界から科学や人権の手斧を投げられかねないのに、
一神教信者が「ホモは罪と神は言っている。ホモは地獄に落ちたくなければ悔い改めてアナルセックスとか止めなさい」と言うのは尊重しなければならないということになっている。
信者を批判した方が宗教差別主義者にされてしまうことさえある。
この扱いの差がいよいよわからない。
増田はリチャード・ドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』は書店で平積みするべきではないという立場を取る?
このタイトルの表紙が目に入っただけで「殴りかか」られたようなショックを受けるキリスト教徒やイスラム教徒は多いと思うけど。
経験な信仰者の親に育てられて神の愛を信じ切っている子供が見たら心底嫌そうな顔をして親に泣きつくかもしれない。
キリスト教徒やイスラム教徒は日本では人口の1%未満の圧倒的少数者でもある。
書店は日本ではマイノリティである一神教論者に配慮して露骨な無神論を表紙で謳っている本はゾーニングすべきであると考える?
もし増田がドーキンスはゾーニングしなくて良いという立場なら、エロ表紙のラノベとの違いは何?
どちらも表紙を目にしただけでマイノリティを傷つける可能性の高い「センシティブ」な表現では?
子供はラノベのエロ表紙のような性的な表現から保護されるべきだ、それは当たり前の他者に対する思いやり、ラノベの表現の自由は子供の保護に優越しない、それが文明社会。
しかし、子供には神の存在を徹底的に否定しにかかる無神論の表現からは保護される権利など無いのだ、文明社会には表現の自由ってものがあるのだ。
キリスト者の親は神とともに歩んで欲しいと願っている我が子が書店の入り口に平積みにされているドーキンスの無神論に感化されるのを受忍するしかないのだ。
これは差別では?
この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
The persons and events in this motion picture are fictitious. Any similarity to actual persons or events is unintentional.
現代の日本で戦後レジームの意味するところは主に、第二次世界大戦での日本の降伏後、GHQによる占領下で出来上がった日本国憲法を始めとする憲法や法令、テレビや新聞などのマスコミ、経済や金融では通貨発行権や通貨管理権の所在を意味する言葉として使われている。
突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。
アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。
すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである。
彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビケツノミコトとして戦うように命じられたのである。
宗教問題について調査してたら、興味深いことが書いてあったのでメモ。
◆Amazonで購入される場合、中古を買ってください、新品と同じものです
アマゾンの価格を値上げしてます。新品で出品するのに、アマゾンからは1冊ずつしか発送依頼がないのですが、その発送方法の指定他で、発送費が1000円近くかかります。馬鹿らしいので、新品は売れなくてもいいと判断しました。アマゾンの中古で、新品同様の商品を出品できるように依頼していますので、そちらは旧価格のままです。
要するに、アマゾンに一冊ずつ新品を納品したくないための価格改定です。中古でも同じものを出してますので、アマゾン経由で購入希望の方は、中古を買って下さい。
小生「自営で最強なのは不動産業やで、大家業。ワシ資産3億あるんやで、毎月家賃500万入ってくるんやで。」
高卒から不動産投資を始めれば、小生の年齢までに3億貯まることになる。
家賃を貰ってそのまま再投資する不動産投資では、このように雪だるま式に資産が増えていく。
10年前にオウムを辞めた小生は、女房の虎の子1000万を元にこのようなやり方で資産を増やして来た。
世間一般のエリートコースを離れ、尚且つ元オウムというマイナスの経歴を背負った小生でも、不動産投資という手法では金銭面では十二分にリカバリーできたということになる。
リースバック事業資金について、お金の出どころを問題視される方がいらっしゃるようなのでコメント。
まず私には、オウム・アレフ時代から親しい関係にある女性がいます。その女性は元出家者ですが、アレフ時代には、類まれなことに一部上場企業に就職して年収500万程得ていました。それ以前にも彼女は教団関連事業に携わり、個人の給与として累積で1000万近く給与を得ていました。
私はアレフ以前から資金管理者の立場でもありましたので、彼女の金をリースバック事業等に使いました。それがみどりの家族計画にある原資です。それを原資として、例えば200万で物件を買い、利回り66%で回し、その収益物件を600万で売り抜けるという感じで資産を増やしています。
http://blog.lalamiamor.net/entry/2018/06/13/115748
上を読んで、なんだか暗い気持ちになったというか、途中で苦しくてやめてしまった。
こういう問題はあらゆる病気、障害に起こって、例えば私は歯が異常に柔いらしくひどい虫歯に年中なるんだけども(前の虫歯が次の虫歯を引き起こして治療が間に合わない)そんな軽い問題すら、それによって起こる金銭的な問題を誰かが保証してくれるわけでないし、それをもってして私を怠惰な人間と判断する人がいるという障害を生み出す。すくなくともこんな状態で誰かといちゃいちゃするつもりもないので恋人はできないし、口臭を気にする人とは話すことも許されない。私のポケットにはミントタブレットと口臭予防薬が常備されている。すべての歯をセラミックに直すとしても、そのお金をどこから捻出するのか。私は私の口臭を気にしないような、ぶっとんだ人たちと仕事をするしかなく、今はそれを受け入れて何とかしのいでいるけれど、それに耐えられる精神力を持たなかったときは、本当に儲からないような仕事しかできなかった。実は、この口臭というのは、うまくごまかす方法があって、それはタバコを吸うということだった。タバコの強いにおいに紛れれば私の口臭は誰も気にしないという算段で、これが実際あたったわけだが、こんな話はどうでもよい。
つまりは、障害に対する解決策はあるのだという話で、これが語ってしまえばごまかしだとしても、運用上は確かにうまくいったりするのである。で、それを実現するのに、ひとりで何とかなればよいが、そうでないときは、他人の助けを得なければならない。この助けというのは全力でなくてよい。
たとえば私の場合、口臭を気にしないという態度でいてくれればいいのだ。実のところにおいの問題は例えばインド人のヘアオイル臭にもつながってくる問題で、相手の臭いを気にしないというだけで海外の文化理解にもつながる行為である。あるいは体質的にげっぷが出やすくなっているだとか、そういう人にも助けになる。それくらいでいいのだ。もちろんどうしても気になるのならそれでいい。そうであれば、嫌な顔をしない、というのでもいいのだ。それもむつかしければ、そういう人にネガティブな感情を抱かないというのでもいい。それも無理であるのなら、ただ近寄らないでほしい。
よきサマリア人のたとえはよくできていて、教えの内容としてもわかりやすいし、みんながうっすら幸せになる。簡単に言えば、あなたは救える範囲で救えばよいのだということで、その範囲は自身で決めてよいのだ。しかしこれは、ある人にとっては厳しい教えになるかもしれない。逆に言ってしまえば自分でできる範囲を認めなければならないからだ。それは弱さや責任を認めるということである。
例えばカップルが路上で痴話げんかを起こしていて、それが暴力につながりそうな場合、あなたはどうするべきか、力の強いであろう方を殴って倒す?警察に通報する?それとも見なかったことにする?いずれもあなたの置かれている状況においてできる範囲であれば問題ない。しかし、その結果は誰もしらない。その結果殺人罪で起訴れることになろうと、カップルのどちらかが死のうと、あなたはできる限りのことをしたのだ。それ自身を何人たりとも責めるべきではない。
より言ってしまえば、善きサマリア人により善くなるよう求めるというのは、みんなが大好きな言葉で言えば呪いである。
口臭の話にもどって申し訳ないが、口臭に関する知識を得たとしても、本人の口臭は改善しないし、ある人の臭いに対しての嫌悪感は薄れない。それはわたしが納豆をどんなものか理解しても苦手なのと同じだ。口臭が出る人間がいるのであれば、当然口臭が嫌いな人間もいるのである。それは認めなければならない。もっとも必要なのは口の工事をするためのお金で、お金を与える非営利団体があったり、そこに寄付する人があればよいのだ。多くの人は、なんとなくな気持ちで100円を寄付すればそれでうまく回るはずである。でもそれはむつかしい。世の中にはなんとなくで100円寄付するほど余裕のある人間は少ないからだ。しかし、それすらしょうがないことなのだ。
口臭の例えがピンとこないのであればホモオダホモオ問題だってそうだ。ああいう、ゲイの記号化は問題だといっても、実際そういうゲイがいたときに、それはホモオダホモオ的ゲイの否定につながる。あれについては、単純にああいうゲイでない人もいるのに、そういうステレオタイプを適用されるのが不快であるという表明で十分だったのである。つまり必要なのは、ホモオダホモオ的ゲイ以外のゲイについて知るガイダンスだった。いや、その考えすら疑う余地はあって、もっと単純に私はそういうゲイではないという表明かもしれないし、私はホモオダホモオ的見た目であるがゲイではないという表明かもしれない。いやいや、それすら疑う余地があって、もっともっと簡単に「なんかちがう」という言葉だけですんだのかもしれない。私たちは常に傲慢の気がある。いやいやいや、その傲慢の気という考えも、より善きサマリア人を求める姿勢なのかもしれない。いやはや、これはずいぶん苦しい考えで、善きサマリア人のたとえにもどれば、実際はここまで悩んで発話する必要はないのだと思う。すでに私たちは苦しいのだから。
とにかくできる範囲でいいのだ。一神教の話を持ち出してなんだが、捨てる神あれば拾う神ありだ。私たちは結果にコミットしなくてよい。神である必要はない。できれば拾う人でありたいという気持ちで十分なのだ。だってそれで機能する社会というシステムがあるのだから。
私たちは社会には所属しているが、私自身が社会ではない。その社会だって枠組みでしかない。
私たちは、個人で人を助け、それが無理ならば、社会というシステムに乗っかって人を助け、それが無理ならば、なんだろう、もっと大きな仕組みに従って助ければよい。それが善意であるし、その姿勢が大事なのだと思う。むしろ問題なのは、善きサマリア人に対してもっともっとと求めてしまう気持ちだったりする。その気持ちはわかる。わかるのだが、できるのであれば、その気持ちはしまっておくほうが、きっと苦しみは少ない。
だから私たちは、望むべき助けがある場合に、他人を責めるのでなく。助けるっていいね!と提案すべきなのだ。しかし、この文章も押しつけがましく。その実行は本当にむつかしいこととしか言いようがない。
ちなみに重くなってしまうかもと思って表明しなかったが、私は発達障害でバイセクシャルでパニック障害もちで何より口が臭い。プライドが高く臆病で死ぬこともできない間抜けで、今もゴミだらけの部屋の隅っこで体育座りをしてキーボードを打っている。それでも、誰かに助けてもらったり、親切にしてもらうことがあるから、こんな安い、なんの助けにならない文章を書いているのだと思う。これが私の醜くつたない処世術なのだ。
結論を先に述べると、人にとって分け隔てなく愛するということは不可能で、愛することはすなわち差別することにつながる。
それでもなお、それを理想として追いつづけていくしかない。それが神を捨てた人の宿命。
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愛には、対象を特定せずに広く与える愛と、対象を選り好みして特定のものにだけ注ぐ愛とがあるという。
前者の愛は、一神教における全知全能の神が人々に与えるものであるし、日本においては万物に宿る神が織りなす世界からの加護、あるいはお天道様が見て下さるという感覚が近いものだろう。
前者の愛をもたらす対象が人ならざるものであることからも分かるように、物事の如何に区別なく愛情を注ぐというのは、人にとって不可能にも近い不得手なことがらである。
人が織りなす愛というのは、何かと何かを区別する、あるいは誰かと誰かを差別することで特定のものに注ぐものである。それは肉欲によるようなものばかりではなく、優れたもの・素晴らしいものを愛でるときにも当てはまる。なぜなら、そのとき人は、劣ったもの・醜いものを選り好みして差別しているからだ。勿論、その選り好みは外見だけの評価とは限らず、内面や行動などで判断される場合もある。
美術が美術として評価されるのは、他のものと比べて美しさが秀でているからであって、誰か素人が作った作品よりも他人からの愛を受けているからだ。平等に愛を注ぐのなら、そうした素人作品と美術品すら区別なく差別なく、愛を注いでしかるべきだ。残念ながら、選り好みをしてしまうということ自体が、平等に愛を注ぐということに反しており、結果としてそのように世界を愛するというのは一般の人には到底不可能なことなのである。
それが不可能で、それでいてなおかつ愛を受ける身としては理想的であったからこそ、全知全能の神という概念を人々は作り出したとも言える。なにしろ、どんな存在であっても愛を受ける資格はあるのだから。たとえどんな悪事を働いていたとしても、無為な存在であったとしても、そんなことは関係ないというのだから。人々が与える愛は、相対的な肯定はあっても、絶対的な肯定はありえない。それは秀でたものがより愛され、劣ったものがより愛されないという状態であり、その基準は各々異なっていても、対象によって愛を与える程度が異なるというのは変わらない。その優劣は非常に恣意的で、単に身近にいるかそうでないかという差異であったりもする。親が子を無条件で愛すると言っても、子として存在しているからこそ他人より差別して愛するのであって、どんな人であっても同様に愛するというのとは全く異なっている。そうした相対的な愛ではなく、絶対的な愛を誰も分け隔てなく与えてくれる存在、それこそが理想でなくてなんなのだろうか。
かような神という概念を創出したことで、人々は平等に愛を得ることが可能になった。その愛が空想上のものであったとしても、構わない。重要なのは、当人が愛を受けていることを感じているかどうかであって、実体として誰かが愛を与えているかどうかではないのだから。
このように考えてみると、万物に対する差別なく区別ない愛というのは、人々の空想上のものに過ぎないと分かる。ただ、それは空想の産物であったとしても、非常に賢い発明であったことは確かだ。それに、実体がなかったとしても何の問題があるだろうか。愛を与える存在がいるかいないかに関わらず、愛を受けているという感覚があるということこそが重要なのだから。
いずれにせよ、これまでの議論から導き出されるのは、人は区別・差別することなしに愛することはできない、ということだろう。言い換えると、区別することで初めて愛することができる、とも言える。それは人種や国籍・身分その他という分け方でなくても、ヒトかヒトでないか、動物かそうでないか、生物かそうでないか、石ころだって特定の、例えば花崗岩や砂岩などと判別することで初めて対象を特定化て愛情を注ぐことができるのではないか。漫然と、自分の子供と野良猫とそのへんの石を全く平等に愛するというのは不可能なのだ。そのへんの石だって、他の石と区別することで初めて愛しうる対象になりうる。区別できなければ、その対象にすらなり得ないのだ。
故に、人を愛するにはその人を他人と区別することが必要となり、集団を愛するにはその集団を他のものと区別する必要があり、地域を愛するには他の地域と区別する必要が、国を愛するには他国と区別する必要が…となっていく。愛国心などと言っても、日本という概念があまり一般的ではなかった江戸時代には、諸藩における郷土愛はあっだだろうけれども日本を愛するという考え方はごく一部の外国を認識している人を除いて存在しなかっただろう。列島を束ねる存在(日本)が当たり前過ぎて、認識するに至らなかったというほうがより正確なのかも知れない。
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左翼のというより、人権思想などの近代思想の出発点は、フランス革命の自由・平等・友愛から始まっている。ここで友愛とは博愛とも同胞愛とも訳され、仲間に対する愛を示しているのだけれども、これも特定の集団に対する愛を唱うことで他の集団を差別している。平等とはあくまでその集団の中だけで適用される概念で、他の集団に対しては平等であることは必要ではないのだ。だからこそ敵であるフランス王家は斬首になったし、信条が異なる集団に対してはリンチが横行した。これは左翼思想を発展させた共産主義に引き継がれ、今なお信条の正統性を主張する形で争われている。
この近代思想は、神が行ってきた(と人々が空想した)分け隔てない愛を与えるという行為を、人が自らの意志で執り行おうとして産み出したものであろう。それは確かに理想ではあるけれども、実態として分け隔てなく愛するということが不可能であるが故に、ときに空想となり、あるいは夢想となって人々を混乱に陥れたようにも思う。
結局、現代人はその理想を、限定して扱うことで現実と妥協しているのではないだろうか。
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人は誰も、差別されることは拒絶するが、他人を区別することなしに過ごすことはできない。
基本的人権として求められるべき最低限の平等を規定しつつ、それ以上の区別は互いに棍棒で殴り合う、もっと文化的に折り合うなどして勝ち取るものではないだろうか。