はてなキーワード: アニメとは
内容はようわからん
ノリとか絵が良いから見てる
VTuberの人ってこんなこと毎回してるの?おれオッサンだからわかんねぇ
その人(VTuber)のことがよほどお気に入りじゃないとみてられないよね、という物珍しさがある
ほんわか風に見えてモンスターの首や腕がちぎれ飛ぶ
ヤベェ女の小佐内さん
チアリーディングの動きがすごい
負傷療養中の子が復帰するのかが一番気になる
3話あたりまで爆笑
3話めくらいまであった主演声優による本編全部コメンタリーはもうやらない?
見てるとあっという間に時間が過ぎる
キャラ絵が可愛らしい
色合いもきれい
箸休め的
もう惰性で見てる
新キャラが良い感じ
どうせ最後はやるんだろうと思いながらみてる
正直、早見さんの演技見るためだけにみてる
内容は関係ない
主人公がハイスペでありながらあたりの優しい感じに好感が持てる
冒頭の「過労死の後転生」って設定、わざわざいる?その後も一切触れられることないし
硬派・ハードボイルド
とりあえず「第17話 成長」だけで2000円くらい課金してもいい
今期は出だしおとなしい感じだったのに急にアクセル全開
面白いって言ってる人がいっぱいいるから気になって漫画買おうか迷ってる
好きなフォロワーさんも面白いって言ってるし、人気作品は基本面白いんだろうなって思うし
1巻読んだけど正直面白いとは思えなくて(グルメ漫画そんな好きじゃないからかも?)でも調べた感じ途中から展開変わってくるっぽい?
中世ナーロッパの世界に飛ばされた吹奏楽少女たちがケルティックな音色と出会ってモンスターの素材からハープ・バグパイプ・アコーディオンなどを作ってバンド活動する感じのやつできないの?
X(Twitter)で、「□□だよ○○ちゃん」って書いて□□の画像をアップしている(例えば、ラーメンだよ 花子ちゃん みたいな)Postをよく見るけど、あれはどの方面が発祥の文化なんだろう?
狼と香辛料のアニメってデカくなったホロがめっちゃ柴犬じみててなんか迫力無いというか
現実に"brown wolf"で検索して出てくる姿よりのっぺりしすぎてて覇気というか畏怖に足る強さが感じられないんだよね
そこだけが不満
アニメ韓流恋愛リアリティに競輪格闘技公営ギャンブルというおじさんの趣味に深夜バラエティのなりそこないみたいな番組というニッチを寄せ集めてるラインナップ
これでなんとか食いつないでるんだろうなとは感じるが、アニメチャンネルだけでいくつあるんだよ。。。感は否めない
オリジナルコンテンツのニュースはニュースでひろゆきがインテリ枠扱いされるレベルだしという
地上波もつまらんつまらん言われてるけど、それなりに多様性があって選択肢もあり、深夜や日曜の昼には低予算なりに攻めた番組やったり採算度外視のドキュメントつくってるからAbemaTVの現状よりはかなりマシ。
まぁ考えてみたら「地上波より規制がゆるい」としても、客は地上波のドラマやアニメで育ってきた世代な訳で、今更平成初期や昭和の規制が緩かった時代のノリやり直すだけじゃ勝てるわけねぇんだよな
規制がゆるいネット配信だからこそできる新しい作品、を作れなかった結果がこれなんだろうなぁ。とかそんなことを久しぶりにダウンロードして思った
スケボーとかブレイキンみたいな「自由の象徴」的な競技でも中国勢がそこそこ活躍するの、どう思う?
それを言ったら、かつてのソ連やイランの映画だって国際的に評価されているわけだ。
だったら、表現の自由・思想の自由があった方が良いものが創れるって話は眉唾じゃないかなあ。
日本は表現の自由大国みたいな顔してたけど、いまやアニメやゲームでも中国に負けそうだし、世界で勝てるの女性への嫌がらせぐらいだろ。
以下、建前。
→よくわかる。良いSNSの使い方だと思う。
・ゲームをして面白かったから大量のスクショと関係ない最近のアニメやニチアサのインターネットユーモアで盛ったブログをNoteに書く
→僕はちょっとよくわからないけど、そういうのが好きな人もいるのはわかる。
コミケ・マンガ・アニメもそうだけどさ、日本ってパクリパクられの文化じゃん。AIと相性良いと思うけどね。 銃が無い国でパクられ妄想して大量殺人した国なんて日本だけ
常に面白くないダジャレを言う。本人は明るく陽気な人気者のつもり。いちいち反応するのがめんどくさい。話が長いのも特徴。無視すると怒る。キモい。
オジサンなのに萌え絵とか好きだとキモい。鉄ヲタやラヲタもキモい。普通にゲーム好きとかアニメや漫画も見るくらいなら問題ない。
汚いのはダメ。これはルッキズムではなく、いい大人なのに身だしなみすら整えられない社会性の欠如の問題。かなりキモい。
仕事ができないのはやっぱりキモい。しかも無能のくせに女性社員、特に若い女性社員をバカにしているのもまたキモい。存在が邪魔。
増田にもたくさんいるけど、ネットで政治の話とか熱く語るのガチキモい。リアルでそんな話してるとさらにキモいからネットに閉じこもっててくれたらいいんだけど、たまにリアルでも漏れ出すので絶望的にキモい。
氷河期世代に多い。いつまでも若者側のつもりで話すオジサン。元イケメンで今でも若い子にモテるのだと勘違いしている。いつまでも恋愛脳でモテるかどうかを気にしていてキモい。顔しか取り柄がなかったから、正しく年齢を重ねられなかったのだと思う。若者の流行に敏感だったり、媚びてる感じがとにかくキモい。
なぜかわからないがやたらと尊大で態度が悪いオジサン。なぜかいつも不機嫌。店員や部下など自分より下とみなしている人間への態度がおかしい。キモいだけでなく大変不愉快なので、関わり合いになりたくない。こいつらは妻子がいるパターンが多いのだが、理解できない。定年離婚されるのがよくわかる。
抜きん出てキモい。まともな性行為で発散できなくなったからか、変な溢れ方をしている。シモネタ連発したり妙に距離が近かったり触ってきたりオジサン構文LINE送ってきたり、脳が性欲を制御できていない。キモい。若いつもりのオジサンや偉そうなオジサンと両立してるオジサンが多い。若い女にオジサンがまともに相手してもらえるわけないと知るべき。フィクションはオジサンの願望の反映なので、現実とは違うと理解しろ。とにかくキモい。
お盆は働いているマトモな人が休みでいなくなるからさらにブコメ記事の品質、コメントの品質が落ちる。
はてブをみていても日本終わってるな感しかない。ふわちゃんとかどうでもいいし、オッサンが臭いとかいう話もどうでもよすぎる。
本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。
「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。
何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。
つまり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だから、ジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。
パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正と明治で同じようなことがあった、とか。
時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶も曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白いものって今にはないかな、と。
そうやって見ていくと、最近の若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものとそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから、時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。
今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱になっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。
そもそも、ご自身の文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います。
あの、本書の前半では、2022年9月13日のフランスの映画監督ゴダールの死について書かれています。高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別な存在なんでしょうか?
これは世代的なもので、僕の世代で芸術、音楽、映画、文学が好きな人でゴダールに影響を受けていない人はいないと思います。
当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画のニュースもなかった。テレビのニュースもやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。
僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画もクレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。
しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGSの映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダールの作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイルが特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的に編集で映画を作るというスタイル。
引用が多い。ゴダールの作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用で作品を作る。だから、過去の世代を否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います。
最後の作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真がバンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。
どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダールの作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画はテーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ、映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。
ゴダールは、自分の映画が自殺の映画だと言っていて、主人公が死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後に主人公が自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後に自分の意思を表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。
「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品と現実の境界を取り払うことを考えていたんです。作品と現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。
映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダール。アメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールはもっと前からそれをやっていた。それがかっこよかったんです。
また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学者牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?
いや、面白いですよ。単純に普通に面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。
でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。
でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。
普通、おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいから普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のものを尊重するってことなんですよね。つまり、おかしくても存在意義がある。
これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。
僕も色々調べました。障害がある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます。時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます。特に父親は最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。
魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎も変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎は植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。
でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存が保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存が保証された。
でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。
結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。
これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。
セコさんの漫画「マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますから、よろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?
自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています。
一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります。
例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。
転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。
そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。
例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族と契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。
プラン75もそうですが、年寄りが不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。
でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代が連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。
僕は政治テーマとして、全世代が連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。
これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。
社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。
ジャニーズ問題と玉音放送について、高橋さんがテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題を無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末にジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか?
あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBCが放送した直後に番組審査員を辞めて、最後の番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。
でも、やっぱりテレビ局は商業放送だから、視聴率が下がることが怖いんですよね。だから、視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通の常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。
今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディアが動画サイトやSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。
だから、僕も言ったんですが、面白い動画サイトの番組はテレビより面白いですよ。テレビのバラエティなんてやめたらいいと思います。個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビはお金も人もあるんだから、もっとできることがあるはずなんですよね。
Netflixのドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います。
江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サドの作品を絶賛されていた話もあります。今の時代の言論の空気感についてどう感じていますか?
メディア、テレビ、ラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。
一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史の捏造じゃないですか。
今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史の捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。
ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います。定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものだから。
ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会だから、空気で決めるというのはやばい。ポリティカル・コレクトネスが空気で決められるようになっているのが、日本の事情なんですよ。
上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事を判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題を言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。
その辺が、日本という国は忖度する社会だから、空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。
大杉栄についても言及が複数見られます。思想、生き方、性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?
大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。
例えば、子育てをしていたんです。普通、政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊の選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。
彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供だから自分が Permalink | 記事への反応(1) | 08:25
自分から彼氏作ろう!みたいに思ったことがなかった上に、自然と同年代の男性と知り合える学生期間も終わってしまい、職場恋愛は妻帯者のおじさまばかりなので全然期待できない。
すぐに彼氏がほしい!ってわけではないけど、このままいくとズルズル一生ぼっちになりそう。
友達もほぼいないに等しいし、一人っ子だし、孤独死まっしぐら。趣味はあるけど、snsで交流するのが苦手でアカウントはロム専だし、自分はオタクのくせに趣味垢あるような夢中になれるものがあるオタクは嫌なんだ。わがままでごめん。無趣味で、彼女=趣味になってくれるような空っぽ人がいい。まあでも彼女=趣味になってくれるなら、鉄オタとか、無機物のオタクなら楽しそうかもしれない。アニメキャラとかアイドルが好きなのは辛い。
アプリしかないんだろうか。なんか怖いし、自然に出会いたいとか思ってしまう。一度アプリという選択肢が恋愛に入った人って、気に入らないことがあるとすぐ「まあ次アプリで探せばいいや」みたいな、別れるハードルが低そうという勝手な偏見がある。かといって他に何か手があるかと言われると、特に何も思いつかないな。都合よく同窓会でも開催されたらな。特にあてはないけど。
友達の部屋に行ったらコンビニのレシートが落ちていた。そこには800円 クレジットカード決済と
書かれていた。私はやれやれまたかと思いながらレシートを元の場所に置いた。
友人はクレカの利用に二回失敗している
一回目は野球チームのクレカで10万ぐらいリポ払いで使って払えなくて強制引き落とし
二回目は五等分?とかいうアニメのクレカをリポ払いで申し込んで払えなくて利用停止
あと私が貸した8万も(スマホ代)
ASIAN KANG-FU GENERATION のボーカル・後藤正文さんが美少女アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』に言及した。
8月11日に『ぼっち・ざ・ろっく!』のアニメ公式がX(旧Twitter)に後藤正文さんのコメントを投稿している。
また、過去には自分のブログでぼざろに言及したことがある。
それに対する私の感想はこうだ。
後藤正文さんは、ぼざろに登場する主人公の名前の由来になっているとはいえ、好意的に言及できる立場ではないだろう。
まず、後藤さんは左翼で有名な人だ。特に反原発運動に関しては顕著で、日本共産党に投票していることも明かしている。
一方で、日本共産党はフェミニストとつながっている。フェミニストは美少女アニメを「萌え絵」を呼んで蛇蝎のごとく嫌っており、性的搾取と非難している。
Xでキャラグッズのラインナップからこれは公式カプになる匂わせだ!って喜んでる人を見たんだけど、
グッズの企画が、例えば映画なら上映の一年前位から計画されてるから、
そもそもグッズの企画まで作者の監修がいってるかというとそうではない
日本国憲法には全ての国民が生命、自由及び幸福を追求できる幸福追求権が明記されています。なので、「死ね」という発言、「死んでくださーーーい」という記述のいずれも基本的に許されることもなく、故に最近急速に芸人がその言葉を発する頻度は減少しています。子供がよく「死ね」を発するのはアニメや漫画の影響が大きいと思いますが、適切な教育によって改善されますね。どちらかと言うと、
場合によっては「死ね」が許されるのだから「死んでくださーーーい」を書くのがダメな理由がわからない
というあなたの考え方は非常に歪んでいて、
やっぱり私たちも「死ね」とか軽々しく言ったり書いたりしちゃいけないんだよねって再認識しました
くらいがちょうどいいのだと思いますよ。
共学高校→工学系大学→自動車業界と歩を進めてきた私にとっては、高校の部活の同窓会というのは男女比がほぼ5:5になる唯一のコミュニティだ。
大学に入って以来女子のほうが多い飲み会に参加した記憶などなく、仕事帰りに男女で居酒屋に入っている集団を見ると例外なく殺意を覚えたものだが今回ばかりは私がその男女の集団なのである。
そんな飲み会に参加できるのであれば、妻との交渉にて使ったHäagen-Dazsなど安いもの。
ただ一言だけ断っておきたいのは、私は決して浮気不倫等の社会倫理に悖るコトをしたいのではなく、ただ単純に旧友に会って話がしたいということのみであり、ついでに女子が多く場が華やかであれば尚良しというただそれだけのことである。
さて高校3年間、16~18才の所謂"青春時代"をともに過ごしたメンバーであるから、破局したカップルがいたり、叶わぬ片思いの相手がいたりと愛憎渦巻く飲み会であった。
元カップルが、現在全く別の相手と結婚していたりいまだ独身だったりするのであるから、それは破局したと言って差し支えないだろう。
全員アラサーであり、良くも悪くも大人なので昔の恥ずかしくも甘酸っぱい思い出を語るようなことはせず、もっぱら話題は結婚、出産、子育て、マイホーム、転職、近況が主な話であり、それぞれ自分の人生を歩んでいると思った。
マイホームとその予算。子育てと仕事との折り合い。転職と投資。今の日本を覆う諸問題は、眼の前の旧友たちにも例外なく振りかかっているようだ。
そんな中、私の元片思い相手は絶賛彼氏募集中という話を聞いた。
一番結婚から縁遠そうな私が結婚したので、妻との馴れ初めや結婚式の話をしていると、そのようなコトを言っていたのだ。
どうやらマッチングアプリを使ってはいるものの、なかなかいい人と巡り合っていないという近況とのこと。
それを聞いたときの私の心情というのが今回の文章の主題である。
温めの燗酒と炙ったイカをお供に私の舟唄を聞いてほしい。
その件の相手というのは高校の同級生で、入学したとき私の前の席だったのを覚えている。
どちらかと言うと明るいが奇妙奇天烈な性格で、典型的なオタク女という分類になるのであろう。
意識したきっかけは何だったか、はっきりとは覚えていないが確か魔法少女まどか☆マギカの映画化に際して、今度よかったら一緒に観に行かない?と(おそらく向こうにとっては)なんの気無しに言ったお誘いだった記憶。
女子からなにかに誘われるということはそれまでの人生で1度となく、胸が高まったというのだけは覚えている。
地元のイオンモールに2人で買い物に行ったことがある。私の人生初デートである。その時の目的もはっきりとは覚えていないが、確か何かしらのアニメグッズを買いに行くのが目的だったはずだ。
そこから約1年。同じ部活のメンバーとして練習をしたり、みんなでカラオケに行ったりという何気ない日常が続いていた。
その頃にはもう好きになっていたのであろう。
まどか☆マギカを観に行かないかという誘いは、そして果たされることになる。
201X年の12月24日。県庁所在地にある映画館にて映画を見に行った。
当時アマガミという恋愛シミュレーションゲームにハマっていた私は、クリスマスデートというのは絶対に抑えておきたい高校生活のメインイベントだった。
彼女にその気があったかは私は知らないし、知ることはないだろうがそれでも私にとってはデートだった。
親に出かけるといい、精一杯のおしゃれをして、なんとなく親には察され、待ち合わせ場所に向かった。
地元の駅で待ち合わせ、映画館に向かう間は私は緊張してあまり喋れなかったように思う。
映画を観終わって帰路をたどっている最中、私はどうやって告白するか、それだけを考えていた。
もう少し正確な表現を心がけるなら、おそらくその日は1日中告白することだけを考えていたのだろう。
恋愛シミュレーションに毒された高校生が、12月24日に映画館デートをしているのである。
意中の相手とクリスマス・イブに2人で出かければ、意識をするなという方が酷な話であろう。ましてや17才の青春真っ盛りの高校生であれば、恋愛脳であっても誰からも咎められはすまい。
だが私は結局言い出せなかった。
告白なんかできる雰囲気ではなかった。言えるタイミングがなかった。言い訳を挙げればキリがないが、要するに怖気づいて言えなかったのだった。
部活はまだ続いていく。告白して失敗し、気まずくなるよりはリスクを冒さずに現状維持することを選んでしまったのだ。
この選択は正しかったと15年たった今でも自分に言い訳を続けている。
年が明け、年度が変わり高校3年生になった。私は理系、彼女は文系なので違うクラスに。それは部活を引退すれば疎遠になるということだった。
インターハイが終わり、私の高校での部活は終わった。これからは大学受験に向けて各々勉強する時期である。
とはいえ、高校生活はまだ続いていくからイベントはある。文化祭や体育祭、球技大会などクラス単位で楽しむイベントはまだ残っている。
当然私も自分のクラスで、文化祭や体育祭など全力で取り組んだ。文化祭の出し物の打ち合わせで22時過ぎまでファミレスでクラスメイトと話し合いをして、追い出されたのはいい思い出である。
彼女と同じクラスで出し物ができる、文系クラスの友人を羨ましく思った。
私は英語が大の苦手で、このままでは英語が足を引っ張り不合格になるであろうことが予想されていた。
両親の方針で、地方でひとり暮らしをしてでも浪人は絶対にNGとのことだったので二次試験に英語のない地方の大学に目標を変えざるを得なかった。
詳しくは知らない(し、未だに彼女がどこの大学に行ったのかはよくわかっていない)が彼女は実家から通える都内の大学を受験すると聞いた。
2人の距離が、どんどん開いていくような気がした。
3月になり、私は地方の大学でひとり暮らし。彼女は都内の大学に通うことが決まった。4月になれば離れ離れである。
卒業式が終わり、付き合っているわけではないが彼女との別れが近づいてきた。
私は彼女が秋葉原のメイド喫茶と池袋のアニメイト本店に行きたいと言っていたのを覚えていたので、彼女をデートに誘ったのだ。
私は当日が楽しみだった。普段は見ない朝のテレビ占いなんかもみて自分の運勢を確認したくらいである。
そしてクリスマスの日にできなかったことを今日こそはとも思った。
何しろもう後が無いのである。月末には私は地方に行かねばならない。
都内でのデートは非常に楽しかった。私の青春の集大成と言ってもいい。
行く先々でカップルと見られるのは心地が良かったし、この時間が永遠に続いてほしいとも願った。
どうしても遠距離になってしまうし、現実的には厳しかったのも理解していた。
ただこれからが絶望的な以上、クリスマスのときのように比べる天秤がない以上、一兆分の一の可能性を信じたかった。
地方に引っ越しをした時が私の人生で一番寂しかった時期だろう。
知らない街、知り合いは誰もいない中で、選別に貰ったキーホルダーが失恋を常に思い出させた。
失恋から6年後、キーホルダーが壊れてくれたお陰で、私は青春と漸く決別できたのである。
同窓会で再開して、彼氏募集中のようであったとしても、私にはもう人生をともにする伴侶がいる。
今の妻と別れてもう一度青春を取り戻すべきであろうか?
それが不可能であり、すべきでないことは論じるまでもないであろう。
綺麗な思い出は綺麗なまま保管せざるを得ないのである。
せめても彼女に、佳き人が現れることを願う。
書いたら色々思い出したので、言語に関する単なる思い出語りをちょっとメモさせて頂きます。別に面白くないと思います。
わたしが滞在していた時はアラブ革命の前後だったので、段々シリアの方が物騒になってきて、シリアにいた外国人留学生がエジプトに逃げてきました。
それで何人かの子と同じフラットで住むことになったのですが、シリアで勉強していた人は当然シリア方言です。そしてエジプト方言に馴染んだ日本人から見ると、シリア方言を話す青い目の西洋人がめっちゃかわいくて上品に見えました。
前提のお話をすると、アラブ世界というのは中世ヨーロッパみたいな感じに、「正式な言葉」と「普段使う言葉」がかなり乖離しています。フスハーと呼ばれる「正式な言葉」は、書き言葉のほか、宗教関係や法曹関係、演説やテレビのニュースなどで話し言葉としても使われます。テレビのアニメも教育目的でフスハーが使われていたりします。このフスハーはアラブ世界共通です。
一方、アーンミーヤは地域差が激しく、それぞれの方言があります。
で、日頃この方言で話している場で急にフスハーで喋る人がいると、日本で言えば「ござる言葉」で話す人みたいで滑稽で、なんか可愛い感じもします。
シリア方言はエジプトの感覚からすると少しフスハーに近いというか、古くて伝統的な感じがするのですが、外国人が喋っているとそれも相まってめっちゃ可愛いのです。まぁ、わたしがエジプト方言を喋るのもエジプト人からするとかわいかったのかもしれませんが。
これも単なる自分の思い出語りですが、わたしは元々ずっとフスハーを勉強していて、アラビア語愛が高まりすぎて仕事を辞めてエジプトに行ってしまった人間なので、エジプトに行ったばかりの頃は、「あの美しいフスハーを喋らない現代エジプト人は、なんて堕落しているんだ!」「エジプト方言はイーイー言ってる感じで下品!」と思っていました。
アニメがきっかけで日本語を勉強した外国人が、実際に日本に行くと誰もナルトとか悟空みたいな喋り方をしていなくて愕然とする、みたいな感じでしょうか。
最初の頃はひたすらフスハーを学び、関わりのあるエジプト人もフスハーで喋ってくれていました(教育水準によりますが、なんちゃってフスハーでよければ皆んな多少は喋れます)。
でもしばらく暮らしていると、買い物をするのにも不便だし、その辺の無学なおっちゃんの喋っていることは全然わからないし、普段周りにいる人達の会話に入っていけないのはすごく辛いです。
で、途中からエジプト方言も積極的に学ぶようになり、エジプト人同様に二刀流になりました。
フスハーはクルアーンの時代の言葉をベースにかなり無理して人工的に保存している言語なので、純度が高いですが、アーンミーヤには前のエントリで書いたようにトルコ語とかアラブ化以前のコプトの言葉、古いイタリア語由来らしい言葉などが結構混ざっています。もちろん現代語彙では英語やフランス語由来のものもあります。その辺のごった煮な感じに現代方言ならではの魅力があります。
ちなみに文法の超絶難しい正則アラビア語に比べると、現代方言は簡略化されていますが(ラテン語とフランス語くらいの感じ)、その分不規則要素が多くなり、なんというか、英語みたいに「ノリ」で話している感じがあります。
これも余談ですが、アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、会話などはまったくわからないものの、古い言葉はなんとなく類推で意味がわかるものもあります(そもそもアラビー=アラビア語とイブリー=ヘブライ語は同じ子音の順番を変えた言葉で縁が深い)。
ヘブライ語ではなくアラム語みたいですが、イエスが最後に言った「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とかも、アラビア語風にカタカナ表記をすれば多分「イラーヒー、イラーヒー、リマーザー、タラクタニー」(إلهي إلهي لماذا تركتني)で、すごく似ています。tとthが入れ替わったのかなぁ、とか想像が膨らみます。アラビア語訳の聖書とかも重々しい感じでジーンと来ますよ!(もちろん、本当はヘブライ語やギリシャ語で読むべき)
この辺は言語の本物の研究者の方たちがめっちゃ深堀りされているでしょうね。自分は中途半端にかじったレベルなので、本物に色々教えてもらいたいです。