はてなキーワード: これはすごいとは
まず自分の息子が使い物になったことがほとんどなかったのです。
完全に自分が心の奥で緊張しなくなって安心して立ち上がれるようになるまでけっこう時間がかかりました。
完全に心因性のEDです。一人でする時は全く問題ないのですが。
そしてそれは男としての強いコンプレックスだったのですね。
しかし、ある時ふと出来心でシアリスというED治療薬のジェネリックをネットで買ってみたのですよ。
なにかこう試しに買ってみまして。
すると、どうでしょう。
心に関係なく、立派に立ち上げることができるんですよ!!!!!!
しばらくは、風俗で狂ったように楽しんだあと、
男性としての自信を取り戻し、
女性にも積極的に恋愛相手としてのコミニュケーションを取れるようになっていました。
だって、万が一 予定外に二人で夜の逢瀬になる機会になっても、
一錠飲めばなんにも問題ないですし。
口説いておきながら、いざとなったら立ち上がらない、なんて男のメンツ丸つぶれな心配はないわけです。
そんなふうにして私はED治療薬のおかげ?で、彼女が数年ぶりにできましたとさ。
どちらかというと、薬嫌いのほうだったんですが、
あとは、女好きな友達に色々聞くとだいたい30代くらいからそういう薬を常備してるんですよね、やっぱり。
酒飲みすぎても大丈夫なように、って。
もっとはやく気づけば良かった。
いやすごい。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/236686/1
日刊ゲンダイを読んだ。
これはすごい。安倍嫌いな人はこういうのを読んで安倍は許せないと思うのだろうか?
もうめちゃくちゃ。筋立てがいいいいかげん。
昔、愛国ポルノという単語が流行った。あれは、エロに行くまでの仮定はめちゃくちゃでも最後にエロがあれば許されるのになぞらえて、
愛国が最後にあればどんなデタラメでもOKになるってことだったけど、今、安倍たたき、だんだん反安倍ポルノになってない?
強引にエロで無理やりエロ展開になるように、強引に反安倍にしてしまう感じ。
なんかもう、誰が喜んでるのか知りたいわ。
みなさんが言っておられるように、もう日本は中国に追い越されています。
JETROによると最低賃金は、各省によって異なるが1,500元を上回ってきている。
沿岸部では2,000元以上もちらほら。
ただ、すごい!って思った人、だまされてはいけないよ。
これは「月額」だからだ。
その後のQE縮小による円安で、円は120円ほどまで急落した。
しかし日本の財政政策への失望もあり円は落ち着いたので、仮に1元=110円とすると、
最低月額賃金1500元=16万5000円。
沿岸部は、2000*110=22万円となる、
日本においては初任給でもここまでもらえる会社は少ないのではないだろうか?
はてブでこのようなことを言ってる人をよく見かける。インテリはてなーに対してはわざわざ忠告することもないのだが、インテリはてなーのフォロワーやワナビーはインテリではないので、ここでちょっと申し上げておいてもいいのではないだろうかと思った。
「またナントカ案件か」思考法において彼らが行っているのは、物事を自動的にパターンA、パターンBといったように振り分けることである。もちろんこういったパターン認識は情報を素早く処理できるというメリットがある。パターンAであればそれへの最適な解答はαであり、パターンBであればそれへの最適な解答はβであるというように。彼らはそれがナントカ案件であると認識した段階ですでに最適解を反射的に出しているわけだ。問題の認識と解答がほぼ同時に行われている。刺激に対して反応が決まっている。
たしかにこれは非常に合理的な判断のように思える。同じようなパターンなら同じような解答が最適になる蓋然性は高い。しかし彼らはその問題が以前の問題と比べてどの程度類似していてどの程度類似していないかについてまったく考えていないのではないだろうか。彼らは自分の思考法の陥穽を十分に理解しているだろうか。
物事というのは細部が重要である。細部の差異を認識し、その都度そこでしか発生していない特殊条件を勘案し、適切に処理できるかどうかに知性の差が現れる。どんなに素晴らしいデザインであっても、設計がその場に適応したものでなければ効果が得られない。「またナントカ案件か」思考法においては細部の差異を自動的に切り捨て、その場の状況に合うかどうかの深慮もなく、決まりきった解答αやβを放り込むのだ。そして「これで万事解決!」そう彼らは思っている。
この思考法を採用している者は物事を分かった気になっているが、正確に言うならば、彼らが分かっているのは物事から細部の差異を切り落としたあとに残った理想上空想上のイメージである。
彼らは物事の正確な認識を避け、「またナントカ案件か」思考法によって情報処理の負荷を軽減し、空想上のイメージに飛びついてそれを現実だと思い込む。そして、いまや現実と同じ価値を持つにいたった空想上のイメージについて彼らは解答αなりβなりを提示して、すべてがうまくいったような気になっているのだ。物事がパターンAそのものであれば彼らの解答αで完全に片がつくだろう。しかし世の中はそれほど単純ではない。それは問題の矮小化、議論の簡略化にしかなっていない。
物事にはすでに用意されたパターンによっては拾いきれない膨大な背景が存在し、その背景の要素同士がさまざまに絡み合って、一つ一つの物事をそのときそこにしか存在しない独特のものにしている。
情報を受け取ったときの第一印象として、パターンAに類似している、あるいはパターンBに類似しているなどと察するのは問題ない。賢い人は一瞬でそういった思考をめぐらせて大体の全体像を把握する。しかしそこで「これはパターンAに類似しているからαをやっておけば問題ない」とするのははてなーに求められる態度ではない。類似したパターンを検索するのは始まりにすぎず、むしろそこからすべての議論が始まって深まっていくはずなのだ。
だがどうもこういったことができない人をよく見かける。「AだからAなのだ。だからαすればよい」などといった態度はどれほど知的な態度だというのだろうか。こういった種類の人間は自分の有するパターンの数を誇っているのかもしれない。「俺は1000のパターンを持っているから現実に対処するには十分であろう」などというように。こういった傾向を「知識オタク」と言えるかもしれない。
しかし実際のところ、彼は1000個のボタンと、そのボタンを押すことによって得られる効果を丸暗記しているだけなのだ。Aを押したらαが出てくる。ただそれが1000個あるだけなのだ。1000個では現実を生き抜くには少なすぎるだろう。それなら1万か、10万か、100万か?
おそらくそういうことではない。
こういった「またナントカ案件か」思考法によると、完全に未知の問題には対処できないのだ。未知の問題に挑んでいくのが知性というものではないだろうか。
安易な判断を下す前にまずは物事をよく観察し、情報を揃えてみてはどうだろうか。SNSを中心にやっているとインターネットというのは速さが求められがちだが、実は自分のペースで好きなだけ考えることができる空間でもある。
かつてお笑い芸人のおぎやはぎが「一概には言えない」と言っていたことがあるが、まさにこれなのだ。こういった態度にネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。しかし一概に言えないということは何も言えない、言わないということを意味するものではない。むしろ何かを言おうとしている態度である。だから何か言うまで待ってほしいし、十分に待つべきなのだ。
デマ情報、嘘ニュースの拡散が問題になっているが、「またナントカ案件か」思考法ともつながっているのではないだろうか。情報を見た瞬間に「これはひどい」あるいは「これはすごい」と認識し、それですべてを理解した気になってしまう。背景にどういった事情があるのか記事のバイアスはどう評価できるかなどを考慮せずに、あるパターンに類似した情報を、「きっとあれのことだろう!」と自分の中にある既存のイメージに結びつけて理解した気になってしまう。現代のインターネットには速さと同時に短慮がある。あるいはそれは短慮ですらなく、自動化されていて、ほとんどbot化しているとも言えるかもしれない。
よかった。
色々あったけど生きてきてよかった。
突然わけのわからない怖いのに襲われても笑顔で歌を届けるフレイアで泣いた。
ハヤテがフレイアに助けられた、と最初から一貫して言ってるなんかこう支え合いみたいなアレに泣いた。
生きてるとどうしようもない生活の垢がたまるし、時間はたつし、昔は感動できていた色々なものに「もうみた」と思いがちだけど、
劇場のスクリーンで、ワルキューレのライブが観れて、劇場でかがやくフレイアが観れてよかった。
カナメさんの歌を聴けてよかった。
激情のワルキューレは、テレビ版をみていたときの若かった私の、そのときの気持ち、もう失われて日常の中では絶対に思い出さない大事な気持ちを呼び起こしてくれた。
一話のライブシーンを見て、これはすごいアニメが始まったぞとワクワクした気持ちと、
バアル化した兵士を撃っちゃいけんとフレイアが命がけで守って、フレイアが歌えるように守ったハヤテの優しさや絆と、
ハヤテが飛べるように歌を届けるため飛んだフレイアの勇気と愛と、
テレビ版を追いかけて毎回感動してた私の気持ちが、劇場中盤の一話リバイバルなライブシーンで爆発して、「生きててよかった」と思った。
ワルキューレの歌は、次元を超えて、時間を超えて、ずっと私を支えてくれたんだと分かった。
美雲さんがみんなと歌いたいって言って泣かない人いる〜〜!?!?
ミラージュさんもかわいくてとてもよかったです。
マキマキはいつでもみんなを明るくしてくれて、テレビ版では女子親子にもサービスシーンが喜ばれてたけど本当に老若男女に親しめるかわいいアイドルだと思うし、
レイレイがそんなマキマキとかかわって柔らかくなるまでの軌跡も劇場で観れてとても贅沢でした。
前情報でカナメさんとメッサーくんが好きな人は観たらいいと言われていたけど、本当によかった。
カナメさんがメッサーくんを遠くの空で見送るだけでなく、受け止められて、よかった。ありがとう。
ひくほど泣いた。鼻も出た。
観終わった後「最高」「どう考えても最高」としか言葉が出なかった。
すばらしい物語、そして歌、命でした。
結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。
もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかわからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうよマジで。
『エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家・イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本を舞台にした中高生のラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。
『エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編のラブコメとしてはめずらしい。
1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。
つまりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。
原作は小説家が小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。
通常の小説家小説には、小説家あるある、小説への熱意・展望・愚痴、小説論、作者自身の体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつう、もっと自分の好みを推したり、もっとマニアックな作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。
以上の二点から『エロマンガ先生』は、本来的な意味で小説家小説をやる気がないとわかる。
では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。
まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説内小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。
エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説内小説」によって関係が構築されている。正宗がエルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的に正宗にアプローチをかけていく。
正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説内小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説内小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説内小説」が根っこにある。
ストーリーの起伏は「小説内小説」に依るところがとても大きい。
ふつうラブコメでは、主人公とヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。
エロマンガ先生の場合は「小説内小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい。
男女間の摩擦のない恋愛描写は批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。
ふつう、ラブコメのエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子のパンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂でヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。
『エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合はエロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。
たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗はエロマンガ先生が妹であることに気づき、配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっとも重要なシーンだ。
三話の冒頭では、となりの無人の洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生の名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。
このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割を果たしている。これに加えサービスカットも豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。
学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係、ストーリー、サービス)←―サービスを強化――エロ
【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐
↑ │
サービスを強化 │
│ │
【第一層】小説内小説(人間関係、ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ
あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品、学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。
普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だから、あなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。
とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子の象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。
でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。
智恵という幼なじみのキャラがいる。この幼なじみ、ほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗とラノベ談義に花を咲かせているだけだ。
また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。
幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域も重要ではないということだ。
「学校」「となり近所」といった公的領域は重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事で成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。
第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。
沙霧「ふつう……」
正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」
沙霧「兄さん、寂しかったの? あのときの電話、なんだかおかしかったから……」
正宗「そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるときに事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」
(花火の上がる音)
沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」
沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。
複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。
正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」
沙霧「それが兄さんの夢?」
正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりでアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」
正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりでアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージそのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたりが家族になるための第一歩目という具体的なイメージを正宗はもっていることを示している。
正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。
エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せな結婚生活のイメージを、自分と正宗が築くてあろう幸せな結婚生活のイメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せのイメージは淡い。
ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属の小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。
ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。
ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。
率直にいうと、家族をつくるのに恋愛・結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。
前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説内小説=仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛はあくまでサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。
『エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。
このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロはストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事(小説内小説)はストーリーや人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。
家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくまで金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵にあやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガやアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。
『エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽なエロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。
※追記 指摘のあった箇所を修正
日本人には清音と濁音を自然に読み分ける機能が備わっていると思う。
フリガナが無くとも自然にそれぞれの「田」を読み分けることができる。
実際には、キタタさん、サカダさん、マエタさんも日本にはいるだろうけれど、
大部分の日本人の読み方はキタダ、サカタ、マエダで統一される。
そんなの今までに出会った人々の苗字から学んでいるだけだろう、と言われるかもしれない。
傘田、鯛田、傷田
なんかであっても、なぜか自然と清濁を読み分けることができるのは何故だろう?
生まれつき、とは言わない。何年も日本語と接してきた経験の中で勝手にインストールされるのだ。
その、インストールされた脳の法則が、茨城は「いばらぎ」だと訴えている。
成人して幾年かたったのにここ最近急に喫煙に対しての興味が湧いたので、思い切ってかった。
まず買うところからが大変だった。どれを買ったらいいのかわからない。なんなら買い方さえ不明だ。コンビニで番号をいえばでてくるのは知っているが、どれが何番なのかどこをみればいいかさえわからない。
おずおずとコンビニに寄って見れば、レジの上部にでかでかとタバコのパッケージと番号が並んでいた。なるほどと思った。
銘柄はわからないのでこの際しょがない、母親が昔吸っていたピアニッシモにしよう。
たばこだけ買うのもと思って店内を見て回ったが、特に欲しいものはなかった。しょうがないので手ぶらでレジに向かい、頑張って数字だけを言おうとおもった。
どうかんがえても挙動不審な動きだったので怪しまれないかとびくびくしていたが、レジの画面をタッチさせられて終わった。そういえば、たばこだけの時は袋とかにいれてもらえないんだな、とおもいながら、サッとそれをカバンにしまった。
別のコンビニでマッチ箱を買った。ライターは怖いからだ。マッチは学校で使い方を教えてもらえる。
まず驚いたのは20本みっちりはいっているたばこはあまりに取り出しにくいということだった。コツとかあるのだろうか。
なんとかしてたばこを一本とりだし、マッチに火をつけた。タバコに火を近づけた。
吸ってみる。おかしい、特にこれといってなにもない。よくみれば火ついていない。なるほど、火をつくのも結構大変なのか。
結局あまりに火がつかないので不安になり一本捨て、新しく取り出してきて、もう一回がんばってみた。たばこから煙があがっている。今度こそは大丈夫そうだ。
吸い方は事前にネットで調べた。1案件1000ポイント報酬とかで書いたであろうブログしかでてこずイライラするはめになったが、とにかくゆっくり吸ってゆっくり吐けばよいみたいだ。
しかしこれもまたむずかしい。副流煙がどんどん鼻に入ってくる。くさいし、鼻がいたい。
あとタバコははちゃめちゃに軽いのでどんな持ち方でもなんかちゃんと手に留まる。これはすごい。
まあそんなこんなで口に加えてる時は鼻で呼吸しないように……手で話した時に鼻で吸って……で吐いて……としていると
これ以外のことが何もできない。こまる。たばこはながらで吸うものじゃないのか?
まあただタバコの味というものは若干見えてきた気がする。ただ思っていたようなものではなかった。タバコを吸うとスーッとする!などときくが、そうでもなかった(メンソールなので口の中はちょっとスースーしている)。まあただ確かにもうちょっと試してみてもいいかなみたいな魔力は感じる。
当方おっさん。つーか初老。外見がおもしろい。どれくらいおもしろいかというと、鏡を見た瞬間に「ああ、これは俺に好意を抱く女性はいないですね」と、怒るでもなく絶望するでもなく、ふつうに納得するレベル。そんな人間でもなんかのまちがいで結婚できたので、人間どうなるかはだれにもわからん。ただそれは結果としてそうなったというだけであって、女性と縁のなかった年月のほうがはるかに長い。
子供のころから自分が男性であるということに強い違和感があった。といっても女子小学生になりたいとかそういうことではなくて、というか本当は女子になりたかったのだが、なりたすぎて「現実的に女性になるにはどうしたらいいのか」というようなことを考えていた。その結果、顔面がおもしろいので女性になるのは諦めた。というのが小学生のころの話である。
そこで、女性になれないのであれば、男性として生きるしかなくなったわけだが、なら、なぜ男性であることがここまでいやなのかと考えた。そもそも性別ってなんだ。ちんこついてるから男なのか。ちんこごときで俺を男扱いするのはやめてもらおうか。などと考えていて気づいた。なるほど、俺は「男性として扱われる」ことそのものがいやであったらしい。
俺が子供のころはまだまだ「男は男らしく」という価値観が相当に支配的な時代だった。「男のくせに」「女のくせに」とかがわりと平然とまかりとおった時代である。つまり俺はいろんな人たちが押し付けてくる「男性」が気に入らなかったのだ。そう気づいたのは、高校くらいになってフェミニズム関連の書籍を読んでからである。どうやら俺が気に入らなかった「これ」はジェンダーと呼ばれるものであるらしい。いやだったのは自分にちんこがついていることではなかった。フェミニズムの思想は、俺を救った。
しかしちんこついていても排尿くらいにしか使いみちがない。なぜなら俺はもてないからである。この「もてない」というのは子供のころからわりと決定的な条件だった。しかしここで「俺を愛さない女が悪い」とかはまちがっても思えないのである。なぜなら、鏡を見るとそこにおもしろい顔があるから。だれよりも最初に自分が納得しているのである。なるほど、この顔面はいかん。これはどうにもならねえ。
でまあ、最初から女性となんらかの関係を持つのは諦めていた。諦めたというか、恋愛とかそういうのは魔法やら超能力と同じようなものだと思うようになった。不思議なもので、こうなると恋愛は異世界ファンタジーである。「俺はそこには行けないが、ここではないどこかには、美しい世界があるに違いない」などと思いはじめる。実際、クリスマスの町中を歩くのが好きだった。俺には関係ない世界だが、だれかは幸せであるに違いない。そうしたものが町にあふれているのは決して悪いことではないじゃないか。
とはいえ、性欲はあるのである。幸いなことにこの世にはポルノというものがあった。まじちんこ助かる。しかし現実の女性というものをあまりに俺とは無関係なものであると判断した結果、二次以外では反応しない体質とちんこになった。そもそもが女性と性的な関係をもつ可能性を想定していないのである。ならば、その肉体は男性と同じである。俺にとって男性も女性もひとしく「人間」でしかない。青年誌とかのグラビアを見てもなにも感じない。そのころのグラビアの記憶として残っているのは、小倉優子が表紙のヤングアニマルかなにかを見たときに「これはすごい。胴が長い」と驚いたことくらいである。
こうした価値観は、俺の内部に相当の歪みとか恨みみたいのを蓄積させているらしい。個人としてはわりとさまざまな不都合があった。ただまあ、これは結婚できたからこそ言えるのかもしれないが、にもかかわらず、よかったと思っていることもある。
それは、仕事やらなんやらで出会う人間について、男と女で区別することが絶無であることだ。本当に男女の違いは心の底からどうでもいいのである。具体的には、ある特徴があったとして、それを「性別」という場所に落ち着かせることがない。というかその発想が出てこない。すべて単なる個性である。仮に巨乳だとして「なんか胸のあたりが大きい人間」でしかない。それは俺にとって二の腕がものすごい太い男性と似たような意味しか持たない。結婚してからは、女体を性的な目線でみることの意味合いが多少は理解できてきたのだが、しょせん後天的な学習の成果である。油断しているとすぐに忘れる。
もちろんこうした価値観は、どう隠したってかならず漏れる(隠そうとする知恵くらいはついた)。おもしろいのは、このスタンスで生きていると、一定数の女性からは蛇蝎のごとく嫌われることだ。理由は単純で、その人が依拠しているものを完全に否定してしまっているからだと思う。俺にとって救いのは、世代が下になるにつれ、このようなやりかたで俺を嫌う人間が減ってきていることである。まあこっちがおっさんになったという観察者問題もあるかもしれない。
フェミ関連で荒れるようなもんがホッテントリに上がってくるたびに、俺は自分がそれに救われた経験から「違う。フェミニズムってのはそういうものじゃないんだ」と叫びたいような気分になる。男とか女とかそういうの別にいい。ちんことまんこに代表されるものはそれが必要とされる場面以外では出さなくていい。まず人間だ。みんな人間だ。みんなメシ食ってうんこする。その程度のものだ。俺はアゼルバイジャンの人間よりもカレーを嫌いな人間のほうが理解できない。しかしだからといってカレーを嫌いな人間をそれだけで嫌ったりはしない。なぜうんこの話のあとにカレーの話題を持ち出した。さっきカレー食ったからだ。よけいタチが悪い。
おもしろい顔面は、俺にもてないという運命を与えた。もちろん外見だけが人間を決定するわけではない。そんなことはいやってほど理解してる。それでも「顔がダメ=もてない」という図式をかつて俺は完全に受け入れた。いまにして思えば、俺があれほど自分の性別に違和感を持ったのは「自分ではどうしようもない身体的な条件に対して、なにか義務を与える」というこの性別というものの構造そのものに対する抗議だったのかもしれない。
具体的な抗議行動として、今期は斉藤さんになって志摩リンのことを「かわいいなあ」「ほんとにかわいいなあ」「ずっとこのままでいてほしいなあ」などと思いつつ、たまにその感情が閾値を越えて友情のふりして抱きしめるという暴挙に出たい。あとあんまり関係ないけど、俺のことをキモいとか言った女子よりも、もてないことを理由に嘲笑した男たちのほうが許せない。いまでも許す気ない。
某xivで検索しても0件(2017年11月28日現在)だったCPの同人誌を、冬コミで出した。(2018年1月17日現在は私の新刊サンプルがあるので1件だ)
小説本で、R18。表紙も下手ながら自分で描いて、全部自分で書いて校正してヒイヒイ言いながら10パー割り増しまでして、同人誌を出した。
理由は簡単で、そのCPの話が読みたくて仕方がなかったのに、ツイッターも、個人サイトまで掘り返して探したのに見つからなかったから、もう自分が書くしかないと思ったからだ。
刷ったのは50部。これは使った印刷所の最小ロットが50で、もう予算的にそこしか使えないという理由なので、これほとんど残るだろうなとは思って刷った。
スペースは、そのジャンルの端っこで、片方はオールキャラ、もう片方は男女カプのスペース。ざっとカタログを見たら、なんとCPどころか受けにしているキャラ自体の取り扱いがなかった。
冬コミ当日はそのジャンルが好きな後輩と、コミケの際は毎回買い物を手伝ってくれる会社の同期が売り子で来てくれた。ありがたい話だ。
さて、結果的に言うと、本は18部売れた。
うち、ツイッターのフォロワーさんが挨拶してくれた時に買ってくれたのが14冊なので、残り4冊は、おめでたい解釈をするなら、CPの同志なのではないかということになる。
支部で検索して0件と表示が出るたびに、自分は世界で一人なんじゃないかという気持ちになり、鬱になり、眠れなくなって睡眠薬を飲んだりした過去が、本当に報われるような気持ちだった。
もちろん買ってくれたフォロワーさんもありがたいと思っているんだけど、私なら身内が出した本なら多少知らないジャンルでも応援で買ってしまうし、やっぱりそういった関係のない人から買ってもらうのは別の感覚があった。
4人の方のリアクションも気持ち悪いくらいに事細かに覚えている。
通り過ぎようとして、一回流し見をした後に立ち止まり、またスペース前に来て、本の説明を読んで、そっと財布を取り出して買ってくれた方。
ゆっくりスペース前まで歩いて来てくれて、地図とスペースを見比べながら頷いて、一冊くださいと言ってくれた方。
一直線にスペースまで来て、新刊一冊、と言ってくれた方。
スペース前に足を止め、軽く試し読みをしてから、一冊いいですかと言ってくれた方。
あなた方のおかげで私は幸せな気持ちで年を越すことができたし、今もその瞬間のことを思い出すだけで幸せだ。
本当に嬉しかった。これからも、このジャンルに限らず、自分の好きなものを作っていっていいんだと思えた。
本は多分何年かこのまま売れないだろうけど、今回感じた喜びは忘れたくないし、この体験を原点にして色々やれたらいいなあと思った。
これを書こうと思ったのは、ブースという通販サイトに登録しておいた私の本が一冊売れたからだ。こうやって見ていてくれる人や見つけてくれる人がいる。これも1つのコミュニケーションだし、これからも生きていきたいなと思わせてくれる。そんな気持ちを書き留めておきたくて、ここに投稿させてもらった。
Ref. 126334G 正規店で買ったので税込み117.7万円。フルーテッド ベゼルにジュビリー ブレス、文字盤に10ポインツ ダイヤモンド。美しい。文字盤はサンレイ ブルーダイアル、青に深みがある。実際身に着けるまで、こんなに素敵だとは思わなかった
キラキラしていてかっこいい。四〇代も半ばになるとキラキラしているものが魅力的に感じられるようになるのだ。この感覚、二〇代・三〇代の頃にはなかった。肉体の輝きが失われている分、外に求めるという心理状態なのかもしれない。
いずれにせよ、キラキラと輝いて魅力的である。姪っこにとられないようにせねば。
そういえば百万円を超えるモノを買うのは初めてである。旅行代金でならあるが。
昨年の夏からずっとデイデイト40を買おうと準備していたのだが、諸事情を勘案してデイトジャストに落ち着いた。いま腕に着けているものを見るに、もしかしたらデイデイトよりもかっこ良いのではないかとすら思える。デイデイトの前にこれを買えて良かったのではないか。
ホワイトゴールド&ステンレススチールで使い勝手が良い。仕事でも普通に着けていられる。たしかに、ゴールドのロレックスは使い時が難しいかなと考えるようにもなっていた。
DJ41を買おうと決めたときはバーインデックスのものをと考えていた。ところが買う直前になって、同じ買うのなら高く見える方を買いなさいというあるひとの言葉に背を押されてダイヤインデックスのものにした。結果としてとても良かった。ただし、暗がりでは時刻がわからない。夜光ではないのだ。価格の高い時計は存外時刻がわからない。いろいろと示唆的で面白い。
腕時計とは身に付ける美術品なのだなあと思う。見ていて飽きない。これはすごいことだ。
ロレックスの売り文句に、”Every rolex tells a story.” とある。ロレックスは時計を売るのではなく、人生を彩るストーリーを提供しているのだという。この売り方、勉強になる。
腕時計とはもはや時刻を知る道具ではなく、ステータスシンボルなのだ。そういうものを売っているのだから価格が問題にならない。学べることは多々ある。
それにしても41ミリのサイズ感(大き過ぎたりしない)、ホワイトゴールドベゼルのキラキラ感、10ポインツダイヤモンドの輝き、すごく良い。つくづく買って良かった。
俺は恋人と水族館にいた。そこはよく訓練された動物たちがウリで、巨大水槽でスイミーをやったり、蟹が折り紙を切ってアートをやったりしてて、これはすごいなあって楽しんでた。俺たちはそのままアシカショーに足を運んだ。アシカたちもよく訓練されてて、いろんな芸があったが、目玉の芸というのが「その人のことを当てる」だった。たとえば消防士の客には消防車が描かれたカードを持ってきて渡したり、音楽が好きな客には楽器のカードを持ってきたり。
そうこうして俺達の番がやってきて、アシカはブラウン社のハンドブレンダー(クリスマスに自分用に買おうと思っていた)のカードとか、俺の職業を表すカードとか、俺の好きなバンドのカードなんかを持ってきて、俺はすごいなあすごいなあすごいなあと感心してた。何往復めかのとき、アシカはカードのかわりに、俺の日記帳のあるページを破ったものを持ってきた。そこには俺の誰にも言えない重大な秘密が書かれている。いやーもうね笑顔で近づいてきて突然ナイフで腹を刺されたみたいな衝撃。映画的にドラマチックだった。アシカに合図を与える男が、お前の秘密をしっているぞと俺に警告してきたみたいにおれは感じた。そっから、男はずっと俺を監視していたことがわかって、さらにチビりそうになる。いつの間にか横にいた恋人はいなくなってて、なんとか監視の男から逃げようとするのだが、俺はいつの間にか足を怪我していて早く走れない。いつの間にかゾンビみたいな奴らが街にうようよしていて……というところで目覚まし。
ちなみに、俺は日記をつけていない。怖い男と知り合いでもない。知られたくない秘密というのも、夢の中で秘密とわかっただけで具体的に何の秘密なのかも不明。日記帳も持ってない。なんでああいう演出だったのか謎だ……疲れてるのかな。
50万ぐらいするねんけど、給付金?っていうのがあって、
それでも最初は50万払わなあかんし、途中で諦めたら給付金ももらわれへん。
大変な額や。
でもな、ちゃんと一括で払っても生活困窮せん程度には貯金もしてるから大丈夫。
まぁ、ずっと言うてる引越しとかはしばらくお預けやけどな。
でも、この資格は多分、今のうちのキャリアにプラスしたら絶対にいい方向にいくはずやから頑張るわ。
模擬試験とか見てたら、今の知識でも答えられるようなのが半分くらいあったし、
なんか実技試験もあるみたいやけど、ぶっちゃけうち、対人スキルめっちゃあるから、
国家資格やで。
種類は別やけど、妹が大学4年間で学んで一生懸命とった国家資格と同じやつや。
今はこういうの、大学行かんでもとれるねんな。
ええ時代や。
自分で稼いだお金で、自分の意思で、必要なタイミングで、欲しいからこの資格をとるために頑張る。
絶対にとれる。大丈夫。すごいやろ。かしこいやろ。えらいやろ。
だからな、もうあんたらええ加減、「お姉ちゃんを大学に行かせてあげられなかった」と思うのやめなさい。
そやのに、妹が高校のと気におじいちゃんが死んで遺産ががっぽりや。
そのお金で妹は浪人して、大学行って、国家資格とって、確かにうちよりかけてるお金はずいぶん多い。
そりゃもちろん最初は妬ましかったよ。当時まだ20代前半でしたからね。
でもな、うちはずっと、ちゃんと感謝してるねん。
あんだけお金ない中で、2年ならっていう風に言うてくれたから、
確かに安めのところ選んだけど、奨学金も払ってへんやんか。これはすごいことやねんで。
それに、その専門学校に行きたいって言ったんは、限られた選択肢の中からやったかもしれへんけど「うちの意思」や。
介護福祉士とか保育士とかやなくて、カメラマンとかデザイナーとか安定性の低い系の学科やったけど、
反対もせんと、学資保険とおかんの隠れ貯金使っていかしてくれたやんか。
明らかに専門学校の経験がきっかけで今の仕事を選ぶことができたし、
今、月収27万ももらえてる。おとんやおかんが稼いだことない金額やろ。
自慢の娘やろ???ん??
「東京で働くならちゃんと大学行かせてあげればよかった」とおとんが言うようになった。
おかんもそう思ってるみたいやし、妹も、「おねえちゃんかわいそう」と思ってるみたい。
いや、やめい。
確かに、今周りにおる人たちはみんな学歴コンプレックスとは無縁や。
でも、別にそれで「あなた専門学校卒業でしょ」みたいな嫌味言われたこともないし、普通にやっとる。
確かに、学びの基盤の差を感じるときもあるけど、「こんなもんかい」ってやつもおるからなぁ。
あとな、
うちはとにかく正社員になりたいって理由だけで大好きな地元を離れたから、長期休みは欠かさず地元に帰るで。
ほんまのこといえば、今でも仕事とか安定とかそんなん考えやんと地元に戻って、家族の近所で暮らしたい。
でもな、「お金使ってあげられへんかったから」とかいって何回かに一回、交通費を渡してくるの、やめい。
親孝行したくて外食のお金を出そうとしても、「ええから」って逆におごってくれるのも、やめい。
たまには払わせてや。うちこの中で給料いちばんもらってんねんぞ。
ほんでそのお金で生活してな、好きな服買って、外食して、遊んで、貯めてな、
国家資格とろうってなるまできたんや。
今はな、大学なんか行かんでも、こういうスキルはみにつくねん。
でも、行かんでも、こうやって10年くらいたって目指せたりするんや。
十分やで。
ていうかな、
正直、20歳まで育てるまでに十分お金つかってくれてるし、専門でもお金出してくれてるからなあんたら。
あんたらももう、「お姉ちゃんにお金を使ってあげられへんかった」なんて思わんと、
私がお金出す、言うたらたまにはそれも娘孝行やと思って受け取ってや。
(そして年々その可能性は高まっていくばかりやけど)
そやからそれぐらいさせてくれ。
おかんが、自分のいろいろを犠牲にして育ててくれたん、ちゃんとわかってる。
おとんは、ちょっと今さら思うなら早くどうにかしてよって思うけど、
それでも今そんな風に後悔してくれたら、もう十分や。
やから、「ごめんね」なんて、もうやめてや。
苦労ばっかりで悲しい顔してた分、そういう顔はもう見飽きたから、
楽しそうにしてるあんたらの顔がみたいんや。
次帰ったら、もう「ごめん」なんて顔やめてや。
なんかええもんでもご馳走させてくださいね。
服ぐらいじゃないかな 流行りものが一気にかわるのって あれはファッションショーとかで今年の流行を決めているそうだよ 繊維業界も在庫抱えるわけにはいかないしね
自分は真っ先にスマホ(っていってもHT-03Aからだけど)に飛びついたけど、割りと周りから「今のやつでいいじゃん」っていわれたし「いや、使いにくいでしょー」ともいわれて「でも、フルブラウザ(ガラケー時代はPC画面でみれるブラウザはこういってた 自分は)でWebページみれる!」といって周りに宣伝するもの「別にケータイブラウザでいいし…」って言われまくった。
同好の士はいた。iPhone3を買ったようなオタクだ。「赤外線が使えない」というやつには同好のオタクの士とbump!して「こうやって連絡先交換するんだぜ!」っていうけど帰ってきた言葉「ダサい」だった。
「キャリアメールが使えない」と言われれば当時は月いくらか払えばいけることを伝えた。お財布ケータイが使えないって言われたら素直に認めて、でもこんなことができるよ!とした。
残念だけど、私と同好の士ががんばったけどスマホに変える人間は少なかった。
そして迎えるXperiaの発売日。当時、SONY製品しか触りたくないみたいなソニー信者だった自分は真っ先に飛びついた。今でも名駅西のビッグカメラ開店前にまばらな人を見つつ手に入れたのを思い出す。周りに集まったのは自分によく似たオタクしかいなかった。
そして、同時に「Android派」「iPhone派」が出来た日でもある。同好の士は「お前が次買うのはiPhoneだと思ってた」という、自分は「SONY製品は裏切らない。おまえだってPSPを大事に抱えているではないか」という、
同好の士「appleは神なのだ。そもそもお前がいつまでもMacintoshに変えないのが気に入らなかった」
私「Macintoshではゲームが動かない。私にとってそれだけでMacintoshが二流のクソOSだと主張する理由がある」
同好の士「仮想OSでできる。WindowsのOSはUIデザインがクソだ。なんだあの、中途半端なフラットUIは」
私「リボンUIはクソであるが、これから先フラットデザインが流行る。そこまでいうなら決別だ。」
それを境に私と同好の士は連絡を取り合わなくなった。その頃の連絡手段といえばSkypeだ。iPhoneには純正のSkypeがあったがAndroidにはなかった。そこもバカにされた。今でも思い出してムカつく。
時は経ち、iPhoneが日本では流行り、同好の士のドヤ顔が頭に思い浮かぶ。
それでも私はAndroidを捨てず、世界ではAndroidのほうが流行っているというソースが不明の言葉を信じて、「ほれみろ、今はどこもかしこもフラットデザインだ」とほくそ笑みながらスマホが流行るっている様子を眺めるのである。
こんなこと書くと自分に先見の明があると思われがちだがそんなことはない。いくつも失敗している。
SONY信者なのでvitaも持っている。やればやるほど「これ、スマホでいいのでは…」と思いつつもソフトを待ち焦がれているが…駄目みたいですね。
Google Glassは絶対に流行ると思って今かと待ち焦がれているが現在の状況を見れば、そういうことだ。
AppleWatchだって買った。(勘違いしてほしくないが、AppleアンチではなくSONY信者なのだ。SONYが出していないものは別の会社のものでもつかう)がんばって「これはすごいぞ」と広めたけどイマイチである。周りのやつがだいたい言うのは「仕事で使えない」だ。でもその自尊心に満ちた100何万の時計より高機能であることは間違いないと言い聞かせながら私はSmartWatchを使っている。やっぱりAppleWatchよりSmartWatchだよ。(でも、なんか徐々に付けてきてる人は増えてるようにおもう。)
そんな失敗の中からたまたまスマートフォンがよかっただけなのだ。