はてなキーワード: 構造主義とは
いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)
時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.
だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬の候補になると感じる.
確かに「サルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.
構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想の根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.
この点については,自身が西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.
しかし時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.
サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.
少年期に戦争を経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である.
そんな中でサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトルは実存主義を自称したがらなかったようだが)
他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である.
このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツと東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.
このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的や規範と言われるようなものが国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.
それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.
そんなような状況下になっていったわけだから,構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.
別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェやヤスパース,ハイデガーなどがいる.
キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカルも実存主義に分類するそうだ.
この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.
例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.
そういった既存の規範(あるいは構造,世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.
あいにく今現在の私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.
新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義の挙動もその一つだろう.
この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.
人間は自分自身で時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである.
うむ。構造主義者。
言ってることはわかるんだが、しかしやはり、全てを構造に結びつけてしまうことには警戒的であらねばならないと思うんだ。相対主義の泥沼に入り込んで、倫理が不可能となってしまうから。
つまりだな、努力しないことでコンビニ店員になってしまったフリーターより、東大を出た勤勉な官僚の方が、"倫理的に"優れていることは明白である。というより、明白でなければならないと思うんだな。
自己責任論を発露する人々っていうのは、倫理観を発露している人々な訳。
そこにだな、コンビニ店員が出てくるのは構造的問題であるからコンビニ店員に責任はないよ、という話を主張しにくる。わかるよ。俺も同じこと言ってたことあるし。けどそれを言ってた頃の俺はまさに文系大学卒業した後、コンビニ店員のフリーターをやっていたりしたんだよな。
俺は果たして、大学時代の知識を生かして正しく社会構造に関する知識を語っていたのか? それとも我が身可愛さに倫理的責任を回避していたのか?
ここでは仮に、俺は倫理的責任を回避していたクソ野郎だとする。ではこの時、俺が東大卒官僚だったら、俺の社会構造に関する主張は責任回避のクソ主張ではなくてったのか? 主張する人間の属性で構造主義ってのは、倫理的な正誤の大小が変わるの?
お前は一生懸命「個人の責任は別だよ」と言っているけれども、結局のところ、それは原理的に別に扱うことができないのだと思う。
お前が構造主義を主張し、自己責任論に唾を吐く時、やはりお前は個人の努力と責任にも唾棄しているのだ。その事にはやはり警戒的でなければならない。
自己責任論者は、そりゃ社会科学に対する知識が足りてないのかもしれん。でも我々は社会科学に詳しいんだから、自己責任論者にもまたリスペクトを振り分けねばならんだろう。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
ぺこぱという、相方のボケに突っ込みそうで、それをポジティブに肯定する二段ボケで笑いを取る芸人が居る
所謂何でもポジティブにとる笑いで、それのバランスを、突っ込み役が無駄に個性的な事で中和するなど、かなり技巧派なギャグになっている。
単純に笑いとしても面白いし、お笑いに厳しい人も技巧派として楽しめるし、鬼滅の刃が兎に角「売れ線」の嵐で、経済学者に喜ばれるように、
「社会を反映し、またそれ自体が構造的なテキストである」という構造主義大好きマンの文系学者に好まれるような形になっている。
若林は「最近は多様性が重視されて、ツッコミが出来ない社会なので、ぺこぱを見て泣いた」と言っていた。
ジョーカーの監督も「コメディー映画を作っていたが、今の時代、コメディーを作ると世間から批判されるので、作らない。だからジョーカーを作った。」と言っていた。
お笑いとは、「既存の常識レールからズレたモノを、常識レールに当てはまることで『非常識』を際立たせ、そのギャップを笑って受け入れる」という性質を持っている。
例えば若林と春日だと「兎に角マイペースで堂々と突っ走る春日」というズレた存在を「常識人で普通の若林」が春日の変な部分を指摘するというように。
しかし現代は「ズレている」という事を認めなければならない。若林と春日の芸も、人によっては「発達障碍者を馬鹿にしてる」だとか言われるかもしれない。
そこで「尖った笑い」を目指して渡米したウーマン村本は、「多様性最高の左派西欧のブルジョワ価値観」を常識に設定し「日本の奴ら」を非常識に設定することでそれを達成しようとした。
しかし「多様性・欧米・左派は最高」という矛盾をはらんだは構造に気付く事が出来ず、日本に来ると結局「出羽守というボケ」のピン芸人になり自滅した。ぺこぱを見て彼は悔しがってるのではないだろうか。
「女で精神的に健やかで健全で黒人」という常識レールに「男で精神障碍者で白人」という笑えない非常識を置いて、コメディではなくサスペンスを作った。構造的にはコメディーで、笑わせない事で
逆に常識レールというものの不自然さと都合のよさ、不満を描いて、観客はウケた。
若林は
とにかく常識レールを学び、価値観スレスレを行くことで対処した。
ぺこぱはどうだろうか。正直これを「多様性の尊重」と称賛する人は多いが、皆はこれを見て何を笑ってるのだろうか。
「変な事をしている人間(多様性)」という常識レールに、「多様性を受け入れる変な人間」という非常識を置いて、それを笑っている。
皆受け入れてはいるが、尊重はしてないのだ。多様性を受け入れる社会、つまりポリコレを笑ってるのだ。ギャップを顕在化させてる突っ込み役は観客である。突っ込む責任は観客も分担する。
ただ「笑い」と「納得」の境界を曖昧にしてるので、受け入れられない部分は笑って、受け入れる部分は頷く。
そこにあるのは左派でも右派でもなく、全てである。全てであるが故に、今度は「ぺこぱ笑う人間」を叩く未来が確実に来るだろう。そして「そういう意図でコメディにした」ぺこぱも叩かれる。
「晴れたほうがいい、一人が犠牲になっても、みんなが笑顔でいればそれでいい」という常識レールに対して「天気なんて晴れなくてもいい、女の子一人救えればそれでいい」という非常識を置いた。
結局ジョーカーも天気の子も、結論は同じだった。「何が正しいか、何を選ぶかは全て自分自身にかかっている」これが近年のテーマである気がしてならない。
ぺこぱの芸にも同じことがいえる。結局、「何が面白いと思うかは、自分で選べばいい」というアイディアが元だ。しかし選んだ責任を背負えるだけの力が僕たちにあるのだろうか。
「大丈夫」と言ってくれる人は居るのか。
ぺこぱは「いじめにならない」という人は多いが、違う。ツッコミ役は割と理不尽な目に会う。
首に雑巾巻かたり、叩かれたり。「雑巾が綺麗なのは部屋がきれいにしてるって事」「痛いというのは生きている事」みたいな事を「言わされる」いじめは容易に想像できる。
「何が正しいか、何を選ぶかは全て自分自身」の価値観も、結局「選ばさせられる」という事は容易に想像できる。暴力もまた多様性の一つだ。
僕たちはそれを見て笑うのだ。そしていつか「多様性を強いられてる人」が常識レールになり「常識を語る人」がボケになる。いつか「人はいつか死ぬ」だとかで笑う世界が来る。
そして統一された「笑い」という概念は無くなってしまうかもしれない。
目の前の選択が、本当に正しいのか、それは自分自身の選択、レールなのか。これはこれからのテーマだろう。
常識レールが無くなり、異常者が居なくなり、何にも笑えなくなる世界がすぐそこまで来ていることを感じる。
「全ての存在は滅びるようにデザインされている」とはニーアオートマタの言葉だ。それが滅びというか、完成というかはわからないが
そこへの道を一歩一歩進んでいるような、世界の終末に向けて歩いているようなそんな気がする。ひょっとすると素晴らしい世界かもしれない。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 101 | 18788 | 186.0 | 37 |
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作品情報(5), 構造主義(5), 墓石(8), キャリ(4), 書斎(3), March(3), 3月8日(3), WUG(4), 2019年度(5), スギ(6), 時として(3), 経頭蓋磁気刺激法(3), パーソナルカラー(3), 産油国(3), 万引き(10), 外注(6), ぶつける(5), 改革(5), 職歴(5), 最大限(5), 恨み(11), 一目(4), ジャップ(15), ネトゲ(4), AM(12), レイプ(32), PM(12), クリエイター(8), 無理矢理(6), アニメ化(8), 抜き(12), GAFA(5), 老人(17), 資産(9), 💩(15), 家事(20), 主観(8), 婚活(11), パンティー(13), 主語(7)
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「問」は具体例を挙げた説明を要するものと解釈して説明していく。
パソコンとは何か?
還元主義的階層論では、CPU、メモリ、HDD等のパソコンの部品がそれぞれパソコンの一部と捉えて、
そう言った部品の集合体と捉える。このようなパソコンを部品に分解していってもそれはあくまで
だが、半導体1個、抵抗1個を「これはパソコンの一部です」と言えるだろうか?
全体主義的階層論ではそう言った部品一つ一つはパソコンではなく、各部品が集合して電子信号等を
やり取りする、つまり部品間で関係性を持つ事によって初めてこれはパソコンであると捉えている。
例えばパソコンから電源なりCPUなりを1つ取り外せばパソコンは起動しなくなるだろうが、
構造主義的階層論でもバラバラのパーツはパソコンではないと捉える点では全体主義的階層論に似ている。
では両者の差異は何か。
全体主義的階層論ではパソコンはCPU、メモリ、HDD等のパーツからなり、HDDはネジ、ベアリング、
モーター等のパーツからなり、ベアリングは金属やグリス、ゴム等のパーツからなると全てにおいて
一方構造主義的階層論では例えばパソコンは各パーツ差し込んで組み立てれば完成するけどベアリングは各パーツで加工を
しなければ完成しないから同じ論理を持ちだすのは間違いであると考える(構造列の相違による不連続)。
ひとつひとつのクラスのオブジェクトのふるまいをよく理解すればライブラリが理解できるよ
プログラミング言語いろいろあるし、ハードウェアもいろいろあるで。
上記は、多様なハードウェアで動く、多様な言語を、オブジェクトという1つの観点からぶった切ったときだけ、見えてくる構造よね。
みたいな話かなと思った。
俺は読めないけど。
還元主義的階層論は次のような仮定に基づいている。全体の性質は部分の性質に還元できる。すなわち部分と部分がいかなる関係をもつかは部分自身の性質により決定される。これに対し全体主義的階層論は、部分と部分の関係性は他に還元することができず、関係性自体を実在と看做さなければならないと考える。さて、構造主義的階層論は、構造は下位の構造に還元できないと考える点で、明らかに全体論に近い。しかし全体論が成り立つのは同一構造の内部に限られると考える。ここに全体主義的階層論と構造主義的階層論の決定的な違いが顕わになる。前者はこの世界のすべての部分-全体関係はそれ自体が一つの構造であると暗黙理に前提する。すると宇宙全体を最大の全体、最小の粒子(いまのところクォークやレプトンのようなもの)も最小の部分とする、全体-部分の構造階層系列に、この世界はすべて包摂されてしまう。素粒子から始まって原子、分子、高分子、細胞内小器官、細胞、組織、器官、個体、個体群、群衆、生態系、地球、太陽系、銀河系、宇宙と連なる壮大な形態的部分-全体系のどの一つをとってみても、部分と部分の関係性自体は、部分の性質に還元できない何らかの実在と看做される。これに対して構造主義的階層論は、全体主義的階層論あるいは還元主義的階層論によってア・プリオリに措定された、形態的部分-全体系列の連続性の仮説を放棄して、水平面には構造の相違による、垂直面には構造列の相違による不連続面を構想する。たとえば構造主義生物学は、生物を形成する空間には無生物からなる空間とは異なる生物固有の上位構造が具現していると考える。したがって単一の細胞や単一の個体が同一の構造(列)下に包摂され、この空間の内部に関する限り全体論的な部分-全体関係が成立することを擁護する。
追記:
ある程度の数読まれて、いろいろと気が付かれた方も多くいらっしゃったようなのでさっさと種明かしをしようと思う。結論からいえばソーカルやユニバーサルメルカトル図法という語がもっとも的確にこの記事を表現している。
「ある本から引用した」というのがまず第一の欺瞞である。引用ではなくぼくの創作である。また「ちゃんと読める?俺は読めるけど。」は煽っただけの惹句である。
必然的に、引用と銘打ったその後の文章はすべてがでっち上げたものである。この「引用文」はシンタックスは問題ないながらも言葉の意味をデタラメに並べ書き連ねて意味ありげにしたものである。ただしいくつか罠を張ってある。最初の煽りも罠の一つであり大いに楽しんでもらえたように思う。
「引用文」のはじめに出てくる「敬虔のない状態」というのはデタラメで意味不明である。「敬虔」という言葉は神学・キリスト教史観などの語を後に出現させて煙に巻くための布石であって、ここではそれ以上の意味はない。「構造化」も「構造主義」「認識論」につながって哲学の要素を暗示するための適当な言葉である。だいたい「○○化・○○的」と言えば立派に聞こえるものだ。
「最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献」は文の構造からみるに「神経医学における漸進的な貢献」と等価であるが、これに関して特にエビデンスはなくデタラメであるし「漸進的な貢献が最新医療技術によって問題提起される」とはナンセンスであろう。「如実に現している現状〜は自明だろう」は「そんなことも知らないの?」と煽るために付加したもので、もちろんこちらもエビデンスはなく適当である。
「エリファット=フォン=ハッシュヴァルツ」なる人物は架空の存在でありでっちあげたものだ。19世紀後半にスウェーデンから移民というのもよくある話を適当に追加しただけである。フォンやヴァルツなどの音はそれっぽいので採用した。音がそれっぽく聞こえること以上の意味はない。「あまり知られていない」「詐欺師と言われていた」と弁解しているのはググっても出てこない理由をそれらしくするための装飾である。察しの通り、Kalmia Theoryも架空の理論である。Kalmiaはツツジ科の花でスウェーデンの植物学者カルムが命名したものである。つまり構造主義とは何ら関係がない。また「構造主義の前置き」とあるが正しくは「構造主義の前提条件」などとするべきである。また、構造主義は20世紀に登場した実在の概念である。
「誤解を恐れずに言ってしまえば」というのは、Kalmia Theoryまでの大きな嘘を覆い隠すため、ろくに調べなくてもいいように逃げ道を作ってあげたものである。続く文は「神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ」というわかりやすそうで意味不明な文である。「キリスト教史観での認識論を改める」とはめちゃくちゃであり「欧米人が考える哲学的な何か」くらいのざっくりした暴論の衒学的表現である。「神経医学においても」とつけたのは更にデタラメさを助長したかったためである。
「経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号」は、似ている言葉を並べただけで何も関連性はない。こちらはひとつひとつの専門用語が実際に存在しているために「そういうものがあってそういうことがある」ぐらいの気持ちで読み流されるのを狙ったものである。直後の「しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない」によってなんとなく納得するように仕向けているが、結局デタラメである。そのデタラメさは、ひとつひとつの語の意味を知ろうとすれば見抜くことができる。
「ミクロ的事象」の意味はない。流れで「評価」というワードを思いついたのでなんとなく経済用語でもぶちこんでおくかくらいの気持ちで追加したものである。
最後に「問.」とあるのは最後の煽りであって、意味などないし「引用文」の中に答えがあるはずもない。心理学で言うダブルバインドに近いとぼくは勝手に考えている。
また、この文章はぼくが適当に独自に創作したものであるから英文から和訳したものではない。内容が欧米っぽいことは否めないが。
19世紀のアメリカにジェニファーという女性の神経学者がいた。彼女は学者というよりは詐欺師として扱われていたようだが、彼女が打ち立てた理論、Karma theory はのちの構造主義の前身となった。専門は神経学だったが、それだけでなく倫理学や哲学、キリスト教神学にも通じていた。彼女の論文の主張は、誤解を恐れずに言えば、神経学はキリスト教的視点を捨てて、もっと多角的に分析されなければならないということだ。
昨今、神経科学が倫理的でなければならないということは自明であるかのように言われているが、しかし実は全く自明ではない。
例えば、神経に電気を通して反応を観察する診断の事例がある。通電によって生じた影響が人体に長く残ってしまうかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。もし倫理を優先するならば、治療の現場はこのような瑣末な判断で溢れてしまうだろう。そのような状況にもかかわらず、この直観に反する事例が報告された。
Q. その事例とはなにか。
個人的にニューアカ風味に欠けてるなーというのが不満だったので、ちょっと添削してみました。いかがでしょう?
神経医学の、医学全般への漸進的な貢献は、敬虔さという態度変更を伴わない状態では、あらかじめ(つねに/すでに)構造化されうるものではない。
医療技術分野での最新の知見により近時あらためて問題提起されたこの<貢献>という主題が、なぜ現状のようにじゅうぶんに構造化されえないのか(あるいはまたそれが如実にあらわれてしまっているか)は、だから自明のことなのではないだろうか。
今日では歴史の地層に埋もれてしまった感もあるが、19世紀末にスウェーデンからアメリカへと活動の場を移したエリファット・フォン=ハシュヴァルツという精神科医/哲学者がいる(とはいえ、当時はなかば詐欺師のような扱われ方をされていたようでもあるのだが)。彼女は精神分析医として働きながら哲学・神学の領域にまで思索の幅を広げ、まるでのちの構造主義を予見するような理論Kalmia Theoryを提唱している。その思想はひじょうに複雑にして晦渋きわまりないものだが、暴力的に単純化すれば、神経医学においてキリスト教的認識論の軛から逃れ、世界を多面的・多声的にとらえる・そのための方法とでもいうものだったらしい。
倫理がなぜ神経医学において重要なのかという問題は、これもまたいっけん自明に思えるかもしれないが、実はそう簡単な話ではない。簡単な例を挙げれば、経頭蓋磁気刺激法という術式は、磁気増幅器を使用するため被験者の神経パルス信号の異常をもたらす場合がある。しかしこれを即座に危険とみなせるかどうかもまた「時と場合によって」しか決定されえないのである。そしてその場の恣意的な判断によってただ闇雲に積み重ねられ溢れかえっているこうしたミクロな事象をどう扱うかという問題は、当時の精神医学界の躓きの石であった。だがある日、その状況に待ったをかけた言わばコペルニクス的転回ともいえる現象が観測されたのだった。
増田本人からネタバレがされているが、全く読解できない文章ではない。
「◯◯という単語が出てきて、そこで読むのやめた」というブコメが多いが、
この手のケムに巻いた文章の読み方を伝えたいと思う。
簡単に言えば、数学のように変数として扱うことである(厳密に言えば、定数であるがそこはご愛嬌)
面白いので、すこしやってみよう。
神経医学における漸進的な貢献は、敬虔のない状態では決して構造化されるものではない。
最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献が、なぜそれを如実に現している現状のように構造化できなくなったかは自明であろう。
あまり知られていないが、19世紀後半にエリファット=フォン=ハッシュヴァルツというスウェーデンからアメリカへ移住した哲学者がいる。哲学者と言っても当時彼女は詐欺師のごとく扱われていたようだが。この哲学者は哲学以外にも同時に医療や神学を学び、現在でいうところの構造主義の前置きとなるKalmia Theoryを提唱している。誤解を恐れずに言ってしまえば、神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ。
倫理がなぜ神経医学において重要かというのは自明に見えるかもしれないが実はそれほど自明なものではない。ひとつ例をあげると、経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号へ異常をもたらす場合がある。しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない。こうした恣意的な評価に留めるだけではミクロ的事象を溢れさせてしまうことになる。だがそれに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
文意を取りたいだけなら、強調のみの用語は全部取っ払って良い。よくわからない言葉は変数を置く。
神経医学の貢献は、現状のようにBできなくなった。
19世紀後半にCという哲学者がいる。この哲学者Cは哲学以外にもいろいろ学び、構造主義の前段階となるD理論を提唱している。Cの主張は、神経医学においても、Eを改めてFしなければいけないというものだ。
神経医学において倫理が重要であることは自明のようであるが、実はそれほど自明なものではない。(次の例示は前の文章と同内容を主張することになるはずなのですべてカットしてしまってよい)だが、それに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
このように読解すると、どうでもいい意味ありげな言葉を取り除いてしまえば、たいして論理構造が難しい文章ではないことがよくわかる。
最後の2文を読めば良い。
つまり、論理展開上はこの後の文章では、「Aって常識だよね!」「いや、そのAの常識を疑おうぜ」「その常識を疑う態度を疑え」という2番目から3番目に移行する(つまり、ただ一番最初の主張に戻るだけのつまらない)主張を裏付けるエピソードが記述されることになる。
最後までやってひとこと。
最初2013年から始まっているから、5年間も粘着しているんだろ。ラノベ専門学校もひどいかも知れないけど、それに執着している筆者も大概じゃないか?
こういう文学マウントの取り方とかも、ラノベ書きたいんじゃない感じさせすぎなんじゃ?だから邪険にされるんでしょ。こういうのって、映画界で言えばゴールデン街で論争吹っかけてくるようなタイプで面倒くさいだけの人だからね。
柳田國男も聖書も構造主義も知ってれば強みに出来るかも知れないけど、この増田は別に何にも生み出せてないんだから、知ってても知らなくても一緒だよ。
ざっくり言えば、ストーリーがある物語は通時性の性格を持っていて、元増田のいうキャラクターと世界観は、共時性の性格が強いのでしょう。
これって、神話など、伝承的な物語とかでもはっきりしたストーリーのないものがあったりするので、そうおかしなことではなくて、むしろこれまでのあり方が通時性に偏重していたと考えてもよいのかもね。
ネットを通じて、不特定多数の人と、共時的な場の共有ができるようになったけれど、それまでは、直接にあったときにしか、共時的な体験をすることは難しかったんじゃないかな。
もうちょっとにわか知識をひけらかすならば、通時性の共時性に対する優位を主張するのは、サルトルの実存主義の負の側面であって、両者に本質的な違いはないと構造主義的に(ないしはレヴィストロース的に)思います。
弱者がガン細胞となるなら取り除かねばならないし、かといってなりえるからといって弱者を排除するわけではない。
積極的に弱者の一部を強者として格上げすることもない、弱者を最低限は必要としているからだ。
しかし、右翼が弱者の味方であるように振舞う、また助ける存在として現れることがあるのはなぜだろうか。
以下に引用する。
左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが 変容してきたのは右翼・保守系の論調である。 ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護需給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているだの 子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞『デイリーメイル』紙でさえ 「『Benefits Street』は貧困者のモラルのなさを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している。」と書いた。
一見して、Benefits Streetという番組を介して、
左翼は事実を隠蔽する弱者の敵として、右翼は真実を明るみにし、弱者を擁護する味方として出てくる。
私は右翼は国家有機体説をとっており、左翼は構造主義をとっていると考えている。
左翼からみても構造を維持するために奔走しているので弱者のためではないのではあるが、右翼から見てもそうなのである。
弱者から見れば右翼による構造主義の批判は、現実問題として弱者すなわち私を生み出している構造である。
そうであるならばその否定は歓迎されるものであり、味方のように見えるだろう。
問題は右翼により新しい構造に作りかえられたとして、弱者にとって改善は見込めないだろうということ。
今回はなぜ味方のようにみえるのかということで、正解とは何か思いつかないが。