はてなキーワード: 帝国主義とは
大正ロマンは悪いのか?
https://togetter.com/li/1264601
こんなん公式がポリシーも知識もなく出したり引っ込めたりするから、さも「大正浪漫」が悪いみたいにみえとる案件やんけ。大正浪漫に何の問題もありません、と毅然と対応すればすむ話でアホらしいわ。
明治末から儲けていたのは財閥や成金であって、彼らは西洋に追随する貴族趣味の文化を謳歌してた。一方、「大正浪漫」は、生活の苦しみを味わいつつ社会の矛盾に目覚めた大衆であり庶民の文化や。政府の弾圧を受けながらも海外の文化、思想、自由主義や民主主義にあこがれ革命を夢見た人々。文学の世界で言えば浪漫派の中核にいた与謝野晶子は「君死に給ふことなかれ」という反戦詩を書き、石川啄木は「地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と詠んで韓国併合を行った政府の方針を憂い、現代人が直面する社会の矛盾や苦しみを「時代閉塞の現状」という評論にまとめた。これのどこが問題なんや? 「ご意見ありがとうございます。しかしながら、私たちが『大正ロマン』に込めた願いは以上のようなものですのでご理解いただければ幸いです。」と返せばそれでいい話や。引っ込めるからむしろ「やっぱ疚しいんや」と向こうが思いよったやろ。ふざけんなや。
大正浪漫から連想されるのは、帝国主義や財閥の下で苦しむ庶民が上からでなく自分たちの手で文化を生み、自由を謳歌しようとした時代とその文化なんや。そして、震災を経て、社会に絶望した連中のうち、純粋な連中は国家社会主義に走り、不純な連中は帝国主義を推し進めようとした。その結果、気が付いたら止めようとしてもどちらにも止められへんチキンレースとしての日本の暴走が始まったわけや。その直前の時代を代表する大正ロマンは、近代日本民衆のはかない目覚めの象徴やで。国家にぶんなぐられてすぐまた眠ってしもたけど、そのとき少しだけ日本人は「自由」を信じた。そういう文化が大正ロマンなんや。アナーキズム、女性解放、米騒動、ストライキ、自由恋愛、デカダンス、海外留学、魂を解放する芸術……そういうもんがないまぜになった文化、それが大正ロマンなんや。
せやからな、たとえばイギリス人がヴィクトリア朝の文化風俗をファッションとしてもてはやしてたら、インド人怒る、これは(余計なお世話でそんな暇なインド人おるんかと思うが)一応理解できなくはないよ。西部劇やその時代を称揚したら、ネイティブアメリカン怒る、配慮した方がええ、これも一応分かる。それらは、いずれも征服や迫害とその文化がダイレクトにつながっとるからな。しかし、日韓併合と大正ロマンはそうではない、むしろ反対や。そういうことを無視して味噌も糞も一緒にすんな。何より、大正ロマンに対してごく適当な理解をした連中が、今度は手のひら返してしたり顔で「大正ロマンはやっぱ帝国主義でダメですよ」とか言い出すのは耐え難い。お前らの知ってる「大正ロマン」てだいたいサクラ大戦やろボケ。そんなんで何か語んな。ほんまやっとれんわ。
「「Kimonoは『人種差別主義』『帝国主義』」芸術イベントで理不尽な日本批判 https://www.sankei.com/west/news/180905/wst1809050009-n1.html
読めばすぐ分かることだが、ライターの方はボストン美術館に寄せられた批判に対しておっそろしく頓珍漢な反論を行っている。
事件は当時有名になったから、ご存じの方も多いと思うが、教科書なんかにも載ってるモネの「ラ・ジャポネーズ」の絵の前で着物を着せるイベントを企画したら、アジア系の人からクレームがきた、というものだ。これは、当時大変盛んだった Cultural appropriation(文化の盗用/文化簒奪)やという視点に基づく批判の典型である。つまり、「弱者であったアジアの文化を、強者だった西欧人が真似して楽しむ、というのは、西欧がアジアから簒奪してきた歴史への反省や異文化に対する敬意を欠いた尊大な振る舞いである」という主張だ。日本でも、近年ようやく「ステレオタイプな異文化理解やその模倣が、異文化に対する敬意を欠いた失礼な振る舞いになる」ということにいくらかコンセンサスが生まれつつあるが、自国内で異文化と日常的にふれあう経験が少ないせいか、これを重要な問題と理解することがなかなか日本人には難しいようだ。
個人的に、この「文化の盗用」論に100%賛同するわけではない。特に、あまりにも過敏な反応は、逆に内なる差別性の表明、あるいは強者の驕りではないかと思う場合すらある。少なくとも、モネの絵の前でその真似をしたくらいで目をつり上げるほど怒る必要はないと思う。それは、「真似をする」行為がリスペクトを意味しもするという風に感じられるからだ。
しかしながら、「相手の真似をする」という行為は、一方で相手を侮蔑したり揶揄したりするときにも行われることも考えておくべきだ。大人しく着物を羽織ってる程度ならまだしも、そのまま椅子に腰掛けたら? その程度なら問題ないだろうか。では、たとえば撮影した写真に滑稽なタイトルを付けてSNSにアップすることは? あるいは、その着物を羽織ったままわざわざ眼鏡をかけ首からカメラをぶら下げる真似をしだしたら? どの時点からそれは「アウト」なのか。もちろん「リスペクトのない行為はダメです」とは言えるだろう。だが、残念ながら「内なるリスペクト」とやらを検証する方法はない。リスペクトを言い訳にすれば何をしてもいいのか。あるいは、結局、みている日本人の「お気持ち」だけが判断規準になるのだろうか。そんな明文化できない規準を我々はいちいち振りかざすべきなのだろうか。
それよりも、単純に「少なくともそういうこと(文化の盗用と疑われること)は軽々しくやっちゃだめ。少なくともダメだと言われたらすぐやめましょう。」というあたりが、今のところ落としどころになっている。今のアメリカでの「文化の盗用論」というのは、おおむねそういう風に理解しておいたらよろしいと思う。
以上の話を踏まえれば、御年73歳のこのコラムのライターの「分かっていなさ」「恥ずかしさ」がよく分かると思う。この方が引用した3人の批判者の主張はこのイベントが「アジア人に対する人種差別主義」であり、ステレオタイプが抱く「異国情緒」を楽しむ低俗なイベントであり、そして「帝国主義」的であるというものだった。そして、ライターの方はこれを「日本批判」と捉えたらしいがとんでもない誤解で、明らかに事実はその反対なのである。彼女らの主張は、「文化の盗用」と見えるイベントを企画したボストン美術館の姿勢自体に「アジア人に対する人種差別」があり、モネの絵のような「ステレオタイプ」なヨーロッパの東洋のとらえ方に基づく流行(=ジャポニズム)を今また模倣することは、かつての西欧の帝国主義の無邪気な肯定にすらなっている、ということである。そこには、日本に対する一欠片の批判の意図もなく、彼女らはむしろ「西欧帝国主義のおもちゃにされている(と彼女らが信じる)アジアと日本文化の尊厳」を守るべく、ボストン美術館に対して声を上げているわけだ。(かれらが掲げるプラカードも、体験する来館者に対して「あなたが着物をきてキュートで異国的に見えたとしても、それは差別じゃないの。美術館のイベントでなければね!(It's not racist if you look cute・exotic in it. Besides MFA support this!)」という、美術館批判の趣旨の言葉である。)
ネットに残る写真に写る方々が中国系アメリカ人なのか、日系なのかは知らないが、彼女らの出自などというつまらないことで邪推し、彼女らが「日本を批判しているに違いない」と思い込んでヒートアップして美術館に手紙まで送ったこのライターの方の行為は、相当差別的で恥ずかしい。
しかしながらもっと恥ずかしいのは、「文化の盗用」のような、現代の「差別」をめぐるごく基本的なワードや議論を全く知ることなく、このような稚拙な内容のコラムをそのまま掲載してしまった産経記者のあきれるような無知である。こういうところで「所詮は二流新聞」とあなどられることになる。それがイヤなら、産経は好き嫌いをせず、あおり記事ばかり書かせる練習をするのでなく、記者にもっときちんと勉強をさせるべきだと思う。できればライターや読者にも。
なお、参考までに、事件当時も似たような方々が大量に湧いていたらしい。こういうのなんて言うんだろう。セルフ釣り?(参考:https://togetter.com/li/845708)
そうじゃなくて少数意見=異常って見方は組織全体として非常に危険思想だからやめとけって話。
全体主義というなら開戦に向かった日本なんてまさに帝国主義に染まってたじゃねえか。
赤軍もファシストも問題なのは全体主義になっちまうことでしょ?
少数意見にもそれなりの理由があるんだから、それを分析して考えていかなきゃおかしな方向に簡単に曲がってしまうってことを俺は言ってんの。
すぐに左翼だとかいって気に入らないやつはレッテルを張って沈黙に追い込む方がキチガイ。
それに理解できるかどうかが変革できるかどうかの分かれ道。
もっと言えば資本主義がファシストや社会主義に勝ったのは少数派意見が比較的通りやすいってところだから。
今資本主義が標準になってしまったせいで対比する相手がいなくて、また少数意見への風当たりの強い世の中になってきてしまった。
時代を撒き戻すのもいい加減辞めて欲しいもんだ。
どこの国も戦争では似たようなことがあっただろうに
ナチのような切り離した議論はなされず、現代日本人に反省を求め
反論すると過去の過ちを認められない劣等民族のように語る自国民も多い
ナチスドイツは東西に分割統治され、その後法律でもナチズムを禁止した
ドイツではナチを批判することで、愛国心や自国の誇りを語ることを許される
大日本帝国はGHQによって法律から社会体制まで書き換えられた
にも関わらず、日本国民が愛国心や自国の誇りを語ると軍靴の音が聞こえるという
俺は普段はノンボリ大学生なんだけど、昨日は8月15日ってのもあって、TwitterのTLには戦争についてのツイートが溢れてたから見てみたんだ。
「尊い犠牲の上に今の日本があるなんて間違いだ、太平洋戦争さえ起こらなきゃ犠牲すらなかったはずだ」
まぁこんな内容、ぼくも素直に共感していいねだけしておいた。んでまあ何気なくリプ欄をスクロールしたんだけど、そしたら
「時代のせいだ」
「失われた命を軽視するのか」
という批判の嵐。そいつらのプロフィール見たら「日本が好き」「愛国」「日本に感謝」の不気味な羅列。
もう、アホかと、この国もおしまいだと思ったよ。
お前ら愛国者(笑)はせめて母国語をちゃんとマスターしてくれよ。「なぜ同胞のかけがえのない命が300万も失われたか、あれさえなければ」って論調なのに、「犠牲=無駄死なのか」って批判は的はずれすぎるだろ。
んでもってよくその辺の界隈が持ち上げる「自衛戦争」とかいう妄想だけど、「日本語の強制」「泰緬鉄道などの労働徴発」この辺は紛れもない事実だろ。帝国主義国家同士の陣取合戦なのはどんなに日本をひいき目に見ても明らかなのに、自国だけ擁護するメクラが「愛国」なんて名乗るな汚らわしい。
んでもって「戦争は仕方ない」みたいな論調をするくせに愛国を名乗る滑稽さ、ホント反吐が出るよ。300万の同胞が、文字通り殺戮され、多くの日本人の人権が奪われた先の戦争が間違っていなかった???売国奴としか思えんわ。
そういえば右翼って日本人を20万人以上も殺戮し、また傷つけた核兵器を保有しようとする奴らまでいるらしいな。お前らもう日本から出ていけって。
日本人を最も多く殺したであろうアメリカ軍の基地が横須賀や横田、普天間や辺野古を埋め尽くしたって何も言わないもんな。
何もアメリカ切って中国と組めなんて言わないよ。中国なんて人権侵害クソ国家と組むなんて死んでも反対だね。先進国ですらないロシア韓国なんて論外。
でもお前ら曲がりなりにも「愛国者」名乗ってんなら、1度でも米兵を批判してみろよ。先のクソ大日本帝国政府を批判してみろよ。同胞を殺戮した戦争を反対してみろよ。
お前ら狂ってるんだ、お前らを利用する自民党はもっと狂ってるし、立憲なんちゃらや共産党は本気で日本を滅ぼしたいとしか思えん。
革命を成し遂げたことのない日本に、デモクラシーを自家生産すら出来ない日本に、ナショナリズムなんて無理だったんだな。そうやって日の丸掲げて鬼畜米国の番犬やってりゃ愛国?笑わせるなよ
安倍の代わりは誰でもいいなんていうことはありません。ポスト安倍には以下のような条件が求められます。
実際には起訴されていなくともA級戦犯容疑者である時点で侵略戦争に主導的に関わった人物であり、その親族も帝国主義思想に染まっている人間であるため不適切です。
・一流大学を出ていなければならない
偏差値の低い大学を出ている人はまともな判断力がなく、日本の舵取りをする器ではありません。
・子どもがいる
子どもがいない人は未来の景気なんてどうでもいいと思っているに違いないから不適切です。
いざという時に健康上の不安があって総理を続けられないようなことがあっては困るので、重い持病を持っている人は不適切です。
日本の舵取りをする総理大臣には大人らしさを示すことも求められます。従って、イチゴをスプーンで2つに切って食べるような子供っぽい食べ方をする人は不適切です。
「帝国主義時代の欧米の倫理観」は、曲がりなりにも当時の主流、多くの人たちがその妥当性を認めてたわけで、そう言う意味ではあんたの倫理観は「帝国主義時代の欧米の倫理観」以下だわ。
そもそも、現状を変えてLGBTを受け入れる事を要求する側こそ、その妥当性を証明しなきゃ、受け入れられるわけねーじゃん。、
当時の常識は世界中どこもかしこも帝国主義だったという背景を理解できなければ太平洋戦争は永遠に理解できないかと。
あの時、あの時代では先進国は植民地を拡大しないことには成り立たない時代。
それをやめたら先進国を辞めるのと同じ。
お前が今日からスマホを捨ててパソコンを捨てて電気を捨てた生活をしろと言われたら納得できるか?
西側諸国と日本・ドイツが全く同じ立場だったという認識をさせてしまい、
両者には単純に勝者と敗者という関係性しかなかったことになる。
そうすると戦勝国としては都合が悪いので、負けた国が悪かった理由探しをするという教育をする。
しかし、また、開戦しないという選択肢も同じくらい有り得なかったという認識は正しくしておいたほうがいい。
アベノミクスは、大規模すぎる金融緩和という第一の矢以外は、全く当たっていない、というか第二、第三の矢を放つこと自体を、言い出しっぺの総理自身が、全く忘れているかのようである。
景気は良くなっているように見える、経済指標のいくつかは向上している。法人税の税率を下げて企業の経済活動保護を行っているし、あれだけ札を刷っていれば当たり前のことでしかない。問題は、刷った金がどこに流れていくかである。
人口の多くを占める給与所得者の手取りは減少している。増税・社会保障費負担増しているからだ。消費税も増税するつもりでいたらしい。人口の大半を占める給与所得者の手取りは減っているし足元景気は両手を上げて喜べるほどの変化とは言いにくい。大規模金融緩和を行うための方便の一つである年金運用もそれほど改善したという話はきかないどころか、年金受給年齢を引き上げるという報道もあるように、むしろ大して良くはなってないのではないだろうかと思っている。
更に、重商主義政策は続き、いわゆる「働き方改革」に着手している。人口の多くを占める給与所得者の手取り収入が下がっている上に、この先は人手不足が深刻で更に労働環境の悪化、主に労働時間の増加と時間当たり報酬の低下、というかたちで私たち給与所得者に対して、厄災として降りかかってくるだろう。人口減少に伴う労働者人口の減少は、もう10年以上前から話題になるべき場所では小さい話題にはなっていたが、これは企業の利益率低下を招く。一番のコストである人件費が上がる可能性が高いからだ。そして労働者保護の視点がゼロの現政権が考えている「働き方改革」の骨子を見る限りでは、企業にとって人件費を抑えるためにはとても有効な、労働者の権利を最小化(というか労働基準法を守る気がない監視や罰則の導入をする気がない)するものを、推し進めそうになっていた。
推し進めそうになっていた、と過去形で〆ることができたのは、ひとえに森友問題、加計問題(これはまだ疑惑段階ではあるが、森友がこれだけ真っ黒なら…とは思わざるを得ない。状況証拠は森友より分かりやすく真っ黒なので)のおかげである。
加計問題は一見問題がない良い話のように見える。官僚の管理主義を排除し雇用や若者の流出などの問題を抱える地方へ希望を与える、ように見える。が、露骨な「オトモダチへの利益誘導」にも見える。加計スキームの怖いところは「オトモダチでないとアベノミクスで買う人がいなくなるほど刷った金が還流できない」という「構造」を邪推できてしまうようなものでもあるからである。いくつかの報道で本丸扱いされているのはこれが理由だ。どれだけ札を刷ろうが、幼稚園児に北朝鮮のようなマスゲームを仕込んで首相夫人を褒めそやさせたり、首相と幼馴染の生まれた時からオカネモチでないと、本質的な意味でアベノミクスで恩恵を得ることはできないのでは…と思えてくる。
もちろん、投資家のうちに旨いことやった人々もいるだろうし一部の「勝ち組社員」の中には多少ベアがあったりボーナスでうはーとなったりしている人はいるだろうが、働き方改革がこのまま推進されてしまうと、せっかく給与が雀の涙ほど増えたところで、労働時間や負担がどんどん増えるだけ、という暗い未来が更に想像しやすくなる。金を回してもらうには安倍のケツを舐めるしかない、という社会になるということ。
増田が自民党のことが嫌いになれないというのは、どちらかと言うと安倍様のケツを舐める側に近いところから仕事を得ているからだろう。ただ、世界はその他大勢の「そうじゃない人」も支えているし、増田だって所詮はただの給与所得者でしかなく、上が「おらもっとケツ舐めてこい」という体制になったり、将軍様の気まぐれで余禄が還流されなくなったりしたら、同じことを言ってられるかという風が吹けば飛ぶような立場でしかない。
社会を、より大きな社会リスクや変化を減らせるように運営していくためには、こういう形はあまり良くない。人が動かす社会は不安定さを招きやすいからだ。繰り返すが増田だって「今たまたま」悪くない場所にいるだけでしかないし、安倍将軍のゴキゲンが変われば簡単に変わる、人知的な政治の怖さはこれである。私は法治国家の方が好ましいと考える。
更に元増田の不思議なところは、自民党と安倍政権をごっちゃにしているということだ。もちろん議会民主制なので政権与党≒キャビネットではあるのだが、実際には党内にも色んな意見があって調整したり話し合いをすることで、議論や法案はより良いものになるはずである。民主主義ってそういうことでもあったりするが、安倍政権は公務員人事権の運用も独裁的(森友問題はおそらくこれが原因で起こっている)だし、内閣人事もこちらの顔が羞恥で赤くなるほど露骨な「ケツ舐めてくれる人優先」で能力を見た適材配所には全くなっていない。言えばきりがないほど、麻生がかつて漢字読めなかったことを揶揄されきっかけで退陣したのがばかばかしくなるだろうなと思うぐらいには失言や方言や失策のオンパレードである。稲田さんが典型。
これは私見だが、おそらく安倍麻生を筆頭にした「彼ら」は、そして増田も「公」の概念を理解していないのではないだろうか。安倍、麻生両氏については「公=オレ」ぐらいに思っていそうである。違うよ。「公」はその社会に属している全員が共有する「場」であって、民主主義国家においては「法律」を作ってその場所をみんなで守る、と言うようなものである。常々首相はアホヅラで「朕は国家なり」って言うと似合うだろうなーと思っているのだが、それは帝国主義的だしもっと言えば独裁である。江戸時代か、いや明治天皇にでもなったつもりでいるのか(実際の明治天皇はそういうタイプの性格ではなかったようだが)もしれない。
厄介なのはご本人たちに「公=オレ」いう間違いを自覚する気がないことと、公=オレと思いこめる源泉が「親から受け継いだ多大な財産」をバックボーンにしているという残念さである。せめてワタミ程度に「自力で手に入れたもの」であれば…もしくは官僚上がりの政治家のように一応は人並み以上に勉強を積み重ねた人であれば、とも思うが。ワタミはワタミでああいうひん曲がり方をしているし官僚上がりだと官僚との慣れ合いが酷くなる可能性もあるし困ったもんだ。まぁ安倍政権は官僚上がりの閣僚が少ないので後者の心配は不要である、つーか逆に偏差値で言うと43くらいだなーと思うのでもう少し官僚上がりの閣僚増やしたらいいのに笑。
今そういう独裁的な国家体制でこれ以上続けていても、国際競争力や世界でのプレゼンスを維持できるとは全く思わない。現に安倍政権はほんっとーに外交がド下手だ。ちょっと面白いぐらい下手。北朝鮮に振り回されまくってるし、猫の目が変わるようなトランプ政権の情報を米国から流してもらえてないことすらしばしばだ。あれだけしっぽ振ってんのにどんだけ舐められてんだよ笑と思う。
更にいえば、誰も買うものがいなくなるほど刷っている札は、この後どうするんだという問題である。トリクルダウンは今のところ起きていない、あとは日銀がいつ紐を引き絞るのかということであるが、これ、誰がどのタイミングでやっても世の中全部が大怪我はする。すでにそのぐらい刷りすぎてる。なのに多くの給与所得者たちの手に渡る金は少ない。首相もいつだかの会見で「給料あげたれよ企業よー」というコメントを出したがその後に政権が進めたのが「底に穴があいている働き方改革」なので、まーガス抜きでしかなかったのかなーと愚考する。
インフレも起きつつある。もちろん良いことではあるが、それに比して給与の上がり率が追いついていない。この先に待っている可能性はスタグフレーションである。すでに可処分所得の低い世帯からじわじわと個々の家計においてスタグフレーション的な現象が起こっている。若年層や子育て世帯に余裕がないなど、で、結果的に少子化も止まらない。
もしくは、紐ちょっと引き絞っただけで一気にまたデフレに逆戻りか。どちらにしても札を庶民に還流させるための方策であるはずの第二、第三の矢がまったく飛んでこないのだから当然である。ここで所得増税とか消費増税するあたり、安倍ちゃん結局良く分かってなかったんじゃね?感がすごい。2012年に第一次安倍内閣が発足してアベノミクスアベノミクス煩く言うようになった時から、「基本歓迎するけど、いつ紐締めるんだろうね、つーか第二第三の矢って具体策ゼロだけど大丈夫なのかね…」という声はあった。結局あれから5年経っても第二第三の矢はまだ実体が見えてこない。
昭和20年の大東亜戦争終結以来、我が国は急速な復興を遂げ、GDP換算で世界第2位の経済国家となった。他方で、アメリカ合衆国(米国)を中心とするGHQによって拙速に作られ、我が国民の総意を反映しているとはおよそ言い難い憲法を保持することにより、国民精神の十全な発揚を伴った発展は掣肘を受けた。その結果、近年では共産党政権の一党独裁国家である中華人民共和国(中国)の経済成長に比して我が国経済の成長速度は鈍化し、世界第3位の経済大国という地位に甘んじている。拡大する経済力を基盤とした中国の軍事的拡張と、各地での侵略行為は留まるところを知らず、国際秩序の安定上、予断を許さない状況が続いている。
今こそ、軍事的圧力を背景に押し付けられた借り物の秩序から脱却し、我が国独自の政治・経済・社会的秩序を打ち建てる時が来ている。帝国主義的な拡張路線にひた走る中国、ロシアを凌駕し、我が国民がその潜在力を十全に発揮し、我が国が未来永劫にわたって繁栄を続けるための基本的条件は、古来より連綿と受け継がれたわが国独自の精神文化に立ち戻り、それ基づく政治・経済・社会へと変革を成し遂げることにある。以下ではこうした方針に基づいた変革のあらましを記述し、現在に至るまでの進捗状況について述べる。
現行憲法に起因する政治・社会制度上の根本的な問題は、国民主権あるいは民主主義の名の下に、収拾のつかぬ意見の多数性がいたずらに尊重され、急を要するあらゆる変革への掣肘となり、かえって衆愚政治に堕していることである。したがって、憲法を改正して大日本帝国憲法の天皇主権に立ち戻り、国民の強固な統合を図ることが最も枢要である。この目的に照らしてみれば、基本的人権、結社の自由、信教の自由が制限を受けることは当然である。引き続き憲法改正の議論を提起し、我が国の伝統的家父長制に基づいた国民の統合を進めねばならない。
大東亜戦争終結時、GHQにより天皇制廃止の議論が起こり、その方向で新憲法が起案された。先代天皇は連合国最高司令官マッカーサー元帥と面会し、象徴としての天皇制存続を取り付けることに成功した。天皇主権の国家が次に戦争をひきおこし、他国に国土が占領される事態に至った場合、万世一系の天皇家は確実に廃絶されるという教訓を、この経験は天皇家に与えた。
今上天皇はこの教訓を遵守し、天皇主権の憲法へと改正を進める論議が起こるにあたって、自らの退位によってこの流れを断ち切ろうと試みた。しかし象徴天皇制下において、このような越権行為は断じて許されるものではない。天皇が象徴となった現在、新憲法下で天皇主権の意味するところは、天皇に助言を行う内閣主権であり、ひいては、内閣の長たる内閣総理大臣の主権でなくてはならない。こうした主権の移譲が円滑に行われるよう、憲法改正の議論は続けていかなくてはならない。
現行憲法下での平等は機会の均等を国民に保障する根拠となったが、これはかえって我が国の発展を妨げることとなった。国家が永続的な発展を続けるには、強いものがさらなる発展を続けることが、より合理的である。したがって、豊かなものがさらに豊かに、強いものがさらに強くなるよう、あらゆる方面において既存の有力家への支援を一層拡大することが枢要である。
進捗度: 順調に推移している。
イノベーションとは畢竟、知的、金銭的、社会的な多様な資本の集約を要する。資源の限られたわが国において、すでに成長を遂げた企業への支援を継続することが最も合理的である。税制や労働法制の改革はこの路線に沿って行われなければならない。
強いものがさらなる発展を続けることが合理的である以上、国民の間に所得によって階層の分化が生じることは必然である。低所得者の納税額は高所得者に比して低いため、利用可能な福祉サービスを減らすことが合理的である。福祉サービスの削減について合意を得るためには、強いものは努力によって強くなったのであり、弱いものはみずからの怠惰からそうなったのであり、自己責任であるという当然の理路について、国民により一層の教育を図る必要がある。
進捗度: 順調に推移している。
科学技術は国家の経済的、軍事的発展を支え、国家の威信を高めるものでなければ、その存在意義を持たず、財政的援助を受ける必然性がないことは論を俟たない。したがって、産業への応用可能性が最も高い分野に集中的な投資を行い、投資の正味現在価値に対する監視を強め、投資判断と組織の改編は迅速に行うべきである。
我が国が独立独歩で中国およびロシアと軍事的に対抗するためには、軍事産業の育成が急務である。したがって、大学等の高等研究機関において軍事研究への投資を拡大し、軍事産業の発展に必要な技術および人材の育成をさらに進めるべきである。
大学における学問の自由は、天皇主権国家の発展を妨げないかぎりにおいて認められる。国立大学については財政上、人事上での国家の関与を一層強化し、国家の経済的、軍事的発展へ大学が確実に資するよう政府は導かねばならない。
進捗度: 順調に推移している。
松本人志がなんか最近だとそういう面で怒られがちだけど、たとえば氣志團とか、あるいは MC バトル系の一部の人達とか、素朴な(という言い方が適切なのかは知らん)帰属意識と地続きの愛国心を前面に出してるみたいのあったりするじゃないですか。
個人的にこの点が最も象徴されてるのが、徳之島だと思うんですが、あの曲、あくまでも「戦艦大和の慰霊碑のある犬田布」について言及しているのであって、ではその同じところが薩摩による帝国主義への反発の象徴であるという部分に触れてはないよね。徳之島というあの島を「日本」という国家のなかの「熱い」地域と極自然に位置づけることは極めて危うい行為であるように俺には思えるのだが、まあともかく彼はそれを普通にしている。
音楽家とか芸能人とかは反権力的であるべきみたいな規定を持つ人達は今でも中高年には結構いるように思うのだが、結局それはコンスタンチン・スタニスラフスキーという天才が偶然ロシアにおり、そして彼がソ連政府に協力的でありソ連政府の側もその利用価値に気付いていたという話にすぎなかったんではないかと思う。
とはいえ徳之島のあれを無神経と怒る人がそんなにいるようにも見えず、徳田虎雄の屈折のようなものすら理解されなくなる日は近いのだろう。
日本共産党が、今回の総選挙の結果を総括する文書の中で、今後の党の躍進策として、「第一は、日本共産党の綱領、歴史、理念をまるごと理解してもらい、共産党をまるごと支持してもらえる方を広げていく活動を抜本的に強めること」ということを挙げている。
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2017/10/post-766.html
でも、その綱領って「アメリカの対日支配は、明らかに、アメリカの世界戦略とアメリカ独占資本主義の利益のために、日本の主権と独立を踏みにじる帝国主義的な性格のものである」なんて書いてある。そこまで言ってる綱領を、ターゲットである「労働者階級」にまるごと支持させることはできるだろうか。
http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/
関連産業も入れると全就業者数の1割近くを占めると言われる自動車産業が、いかに市場としてのアメリカに頼っているかを無視しているんじゃないか。北米市場の売上構成比はトヨタで4割近く、日産は過半数。ホンダに至っては、ぼやぼやしてたら6割になっちゃう。アメリカを敵に回してクルマが売れなくなったら、労働者階級は怒るよ。
ていうか、そういう構造を隠して「日本はアメリカに搾取されている!」なんて煽ってると、騙されたことに気づいた労働者にしっぺ返し食らうぜ。
日本共産党が「日本が、独立国としての地位を失い、アメリカへの事実上の従属国の立場になった」のを執拗に批判してる理由は、中国共産党の利益を代弁しているからとしか思えない。本音は「アメリカと手を切って中国様の属国になろうぜ」といったところではないのか。