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2022-09-15

16歳の女の子が駆け抜けた戦争

飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師戦後72年…激戦地で生き、戦後助産師で赤子抱く

2017年8月14日埼玉新聞

もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの」

 元従軍看護師木村美喜さん(89)=桶川市=は激戦地フィリピンルソン島で約1年、敵の爆撃機砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない。無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。

 生まれも育ちも桶川日本赤十字社埼玉県支部看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外陸軍病院派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。

 9月、マニラ空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院解散。絶え間ない空襲の下、部隊マニラから北に約250キロバギオに移動した。

 悲劇が襲ったのは、45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。

 埼玉班も9人が戦死。「今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。

 4月、バギから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの」

 埼玉班の仲間も一人、また一人と病気栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだい手紙写真日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。

 終戦を知らされたのは8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山。うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラ先住民足跡を見つけるたびに背筋が凍った。

 ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉背中を押され、何とか収容所にたどり着いた。

 約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった。

 戦後助産師として働いた。「もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。

 今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ。」


https://www.saitama-np.co.jp/news/2017/08/14/07_.html

2021-03-31

大東亜戦争という聖戦に対するフィリピン人神対応!涙が止まらない・・・

「苦患のルソン戦線坂田澤司

・・・バギオ市内に入るが早いか、比島人の凄まじい怒りの罵声が待ち受けていた。

ドロボー

ジャパン、パタイ!」

「ゲット、アウェイ

ありとあらゆる罵声と投石の嵐を、出来る限り姿勢を低くしてくぐり抜け収容所へ向かった。

(中略)

途中、比島人は沿道の至る所で我々の通るのを待ち受け、家から飛び出して来て、バギ市街にも増して激しく、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と声を揃えて大声で怒鳴る。

女子供までが、さも憎々しげに

ジャパンソルジャー、パタイ!」

と首を切られる真似をするかと思うと、侮蔑を表す彼等特有のしぐさで親指を立て、

「ゲット、アウェイ!(出て失せろ!)」

と繰り返し、大小の石がトラック目掛けて飛んできた。

(中略)

(貨車に乗り換え)途中停車する毎に比島人の憎悪のこもった眼差し、怒声、投石の嵐が続いた。

(中略)

後日収容所で聞いた話では、投石で頭を割られた兵隊、酷い者はピストルで撃たれて死人まで出た貨車もあったという。

ルソン島敗残実記」矢野正美

しばらくして小さな町に入ると、鉄道沿線には黒山のように住民が並んでいる。

列車が近付くと一斉に石を投げてきた。

(中略)

小石がパラパラと頭上に飛んでくる。

女達までが私達に向かって舌を出し、首を叩きながら喚いている。

ドロボウとか、パタイ(死ね)という言葉が、コーラスのように響いてくる。

(中略)

何のためか列車が野原の真ん中に停車したので、ホッとしてシートを取ると、住民達はここにもいっぱい居て相変わらず石を投げつける。

一人の老婆が近寄ってきて、

ジャポンマニラ、パタイ!」

と言いながら、ビンロウの実を噛んで、真っ赤な口から血のような唾を吐き出し、憎しみを込めて叫ぶ。

肉親の誰かが殺されたのか、或いは家を焼かれたのか、家財でも奪われたのであろう。

「お前達はマニラで殺されるんだ!」

そう繰り返している。

彼等もまた、大きな戦争犠牲者であろう。

私達もあのサンフェルナンド上陸以来、比島の住民達にしてきた事を考えると、その罪の大きさを思わずはいられない。

殺人強盗放火強姦、ありとあらゆる罪を重ねてきている。

お前が言うな

ケダモノタイ

「ルソンの霧」石田

途中、いくつかの集落を横切った。

部落には、既に、もとの住民が復帰していた。

彼等は、床の高い粗末な家の窓から顔を出し、黙ったまま、私達に軽蔑の目を向けていた。

彼等は、時々空に向けて小銃を放った。

それには度胆を抜かれた。

「ルソン戦・死の谷」阿利莫二

線路際にフィリピン人が群がって石を投げ始める。

ジャパンポンポン、パタイ!」

この罵声だけ覚えている。

(日本人射ち殺せ!)

こんな心だろう。

「Gパン主計ルソン戦記」金井英一郎

マニラ市街を通過する。

平和を取り戻した猥雑な街。

人が溢れている。

交差点で止まる度に、バカヤロドロボー、パタイ罵声の嵐。

マニラの港に着くと、何百人ものフィリピン人男女が待ち受けていた。

タイタイ(死ね死ね)

ハングハング(首を締めろ)

石だけではない、ビンやコップを割った凶器も飛んできた。

最後の強烈な禊だ。

嗚呼草枕」於保忠彦

街を通過する時は、日本兵は頭を抱え、路上から飛んでくる石や、薪を投げつける老婆や子供から身を守らねばならなかった。

ジャパニーズ、パタイ!」

と叫んで、手を首に当て、首を斬る仕草をする。

「ルソン海軍設営隊戦記」岩崎敏夫

タルラックを通る時、群衆が私を見つけて、

バカヤロー!」

とか、「死ね!」とか叫んでいる。

ところが、Millare軍曹が立ち上がって、

「He is a good man! He is good!」

と怒鳴っている。

これには有り難かった。

(中略)

途中、フィリピン人が待ち構えていて、

ドロボー!」

とか、「バカヤロー」

とか怒鳴っている。

どうしてこんなに怒鳴られるのか。

マヤントクでの住民との交歓の後だけに、狐につままれた思いであった。

重機関銃分隊長のルソン戦記」川崎恵一郎

バギオの街では・・・(中略)現地民が我々を見て、

バンケーロ」(馬鹿野郎)

「パタイ」(殺す、もしくは死ね)

罵声を上げる。

(中略)

しばらくして貨車は動き出す。

ゆっくり進んでいく。ときどき、

バカヤロー!」

ドロボー!」

と叫ぶ声が聞こえる。

貨車日本兵が乗ってる事が分かるらしい。

所々に陸橋があったり丘の高いところがあると、この下を通る時が大変である

現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている。口々に、

ドロボー!」

バカヤロー!」

「パタイ!」

叫びながら石を投げつける。

(中略)仲間の中には石が当たって血を流してるものもある。

フィリピン戦線の人間群像守屋

住民パラパラと家から路上に駆け出して、手を振って何か大声で叫んでいる。

私達はテッキリ戦争が終わったので、喜んで我々を歓迎するために、家から飛び出したのだと思った。

我々は彼等の姿を見ると、ニコニコして手を振った。

ところがこれが大間違いで、彼等は形相恐ろしく、口々に、

ハポンドロボーバカヤロー!」

と言っているのである

ハポンとは現地語で日本の事である

なかには石を投げつけようとする人もいる。

「生ある限りルソンへ」礒崎隆子

再びトラックに分乗、サンホセに向かった。

途中、現地民から日本語で、

バカヤロー!」

ドロボー!」

「ヒトゴロシ!」

罵声を浴びせられ、石を投げられた。

私達は頭を抱え荷台にしゃがみ込んだ。

石が頭に当たり血を流す人もいた。

現地の人を略奪し殺し、平和国土戦場にしてしまった私達日本人は、どんなにされても文句の言える立場になかった。

「ルソン死闘記」友清高志

トラックが一つの集落差し掛かった時である

前方の沿道の両側にビッシリと住民が群がっている。

彼等はトラックが近付くと、老人から子供に至るまで、一斉に喚声を上げた。

ドロボウドロボウドロボウ・・・」

拳大の石がいくつも飛んできた。

中には、手を首に持ってきて、水平に動かし、お前達は絞首刑だ、とジェスチャーで示す者もいる。

この調子では、フィリピン全土が、日本軍に対する恨みの炎で燃え上がっていよう。

多少の覚悟はしていたものの、私の予測は甘かった。

「傷跡・ルソンの軍靴佐藤喜徳

無蓋列車はなおも南へ南へと進んだ。

そして、何度か、現地民の罵りと投石を受けた。

「バキャヤロ!」

ドロボー!」

現地民が我々に叫ぶ侮辱日本語は、とりもなおさす日本占領時代に我々が彼等に使っていた言葉の仕返しであった。

「パタイ!」

「ヤマシタ、パタイ!」

日本人を殺せ!」と投石する現地民の怒りを、我々は無蓋列車の中で、首をすくめて我慢した。

(石をもて追われる如く)敗残の身を、私は車中で目をつむっていた。

生還者の証言加藤春信

(証言者その2)・・・ところが思いもかけない次の言葉で、冷酷な現実実態を思い知らされた。

ジェスチャーを交えて投げ飛ばす彼等の言葉は、相手侮辱する時に使う日本語の、

バカヤロー!」

ドロボー!」

なのであった。

しかも、罵倒するだけでは飽き足らず、彼等の中には青竹を振りかざして殴りかかってくるものもいたし、私を目掛けて、小石を投げるものもいた。

(中略)

それなのに、まるで泥棒猫でも打鄭するように、青竹の一部がささくれだって裂ける位の勢いで、殴りまくる人もいた。

筋肉の脱落した痩せた体を目掛けて、ビシリ!ビシリ!と打たれる度に、不思議に肉体的な痛みは感じなかったけれど、まるで心臓に五寸釘でも打たれるような激烈なショックを受けた。

そして、その時、身に滲み通るような敗戦の惨めさをつくづく感じたのであった。

「1945年夏・春菊よ谷のせせらぎよ有難う」岡田梅子

人家のある所を車が通っていくと、我々は罵声を浴びせられ、小高い家の庭先で洗濯をしていたオカミサンは、矢庭にタライの中の石鹸水を浴びせかけたのであった。

(中略)

遠い金網の外側にはフィリピン人たかって、拳を振り上げたり、唾を吐きかけたり、日本人へ憎しみを表しているようであった。

「1945年夏・フィリッピンの山の中で」新美彰

沿道のフィリピン人達は、私達の乗ったトラックを目掛けて、石を投げつけ、日本語で、

バカヤロー!」とか、

「インバイ!」

とか知ってる日本語で、罵り嘲笑う。

この付近フィリピン人の家を我が物顔で横取りして、作物を荒し廻った私達だから、どんなにされようとも仕様のない事だと思う。

私達はあの人達にとって、さぞ殺したい程憎い日本人だろう。

(中略)

駅につけば付近住民ギターを持って、貨車の周囲に集まってきて、何かタガログ語で歌い、罵り、嘲笑う。

言葉の分かる小母さんが口惜しいと涙をためておっしゃる

「激闘ルソン戦記」井口光雄

バギオに近付くにしたがって、現地民達が増えてきた。

ジャップ・パタイ(死ね)」

ギロチンOK」

マールダル(マーダー、人殺し)」

ドロボー!」

と口々に喚きながら石を投げつけてくる。

手を頸に当てて引き斬るような手真似をしては、唾を吐きかけ、バナナの皮などを投げつける。

(中略)

事実日本軍は彼等の財産である家々を強制的使用し、床や壁を剥がして家捜しをしたり、燃料の代わりにして荒らした。

作物を押収したり、家畜を殺して食べる事にも貪欲であった。

ときにはゲリラスパイと見なして、善良な市民さえ射殺した(注、斬首だろうに)。

寒風のごとき日本兵と、太陽のごときアメリカ兵では比較にならない。

ルソン島野戦病院・全滅の記」西井弘之

途中で、シビリアン達が口々に

ドロボー!」

バカヤロー!」

と盛んに私達のトラック目掛けて投石したが、フルスピードで走り抜けてくれた。

(中略)

(列車に乗り換えた後)停車駅では無蓋列車に座らされ投石を防ぐ。

相変わらず

バカヤロー!」

ドロボー!」

罵声と共に投石するシビリアン達。

情けない。

そりゃ情けないわな、天皇軍隊もの

世の中に、日本兵程情けないものはない。

日本兵など、人間もっとも下等な存在からね(日本兵日本人)。

強姦ばっかしやがって!

タイだよ!

フィリピン人達の怒りは、俺の怒りでもある。

強姦魔!

恥知らず

爪の先の埃程も、日本兵に同情などしないからね。

ケンペースケベ!

ちんこ斬っちまえ!

2020-08-01

年表(近現代

関ヶ原の戦い日露戦争

1600-10-21 関ヶ原の戦い

1615-05-07 大阪城落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡

1853-05-23 アメリカ艦隊浦賀沖に来航(黒船来航)

1861-04-12 アメリカ南北戦争1865年5月9日まで)

1865-04-15 リンカーンアメリカ大統領暗殺

1867-01-30 孝明天皇崩御

1867-02-13 睦仁親王践祚

1867-11-09 大政奉還

1868-01-03 王政復古

1868-01-27 戊辰戦争1869年6月27日まで)

1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)

1868-10-23 元号慶応から明治に改められる。

1871-08-29 廃藩置県

1872-10-16 琉球処分琉球藩設置)

1875-06-28 讒謗律太政官布告)及び新聞紙条例太政官布告公布

1877-02-14 西南戦争1877年9月24日まで)

1877-05-26 木戸孝允死去

1878-05-14 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺

1879-04-04 琉球藩廃止沖縄県設置

1888-03-09 ヴィルヘルム1世プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御

        フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1894-07-25 日清戦争1895年4月17日まで。宣戦布告1894年8月1日台湾平定終了は1895年11月30日)

1898-07-30 ビスマルク死去

1901-01-22 ヴィクトリアイギリス女王崩御

1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)

1904-02-10 日露戦争1905年9月5日まで) 

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日露戦争終結太平洋戦争勃発

1905-09-05 日露両国講和条約ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)

1909-10-26 伊藤博文暗殺

1910-08-22 韓国併合ニ関スル条約調印

1910-08-29 韓国併合ニ関スル条約発効

1912-07-30 明治天皇崩御皇太子嘉仁親王践祚元号明治から大正に改められる。

1914-07-28 第一次世界大戦1918年1111日まで)

1921-11-25 皇太子裕仁親王摂政就任

1922-02-01 山縣有朋死去

1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印

1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効

1925-04-22 治安維持法公布

1925-05-05 普通選挙公布

1926-12-25 大正天皇崩御皇太子裕仁親王摂政)が践祚元号大正から昭和に改められる。

1927-03   昭和金融恐慌

1927-04-05 鈴木商店破綻

1928-06-04 張作霖爆殺事件

1929-10-24 大恐慌

1930      昭和恐慌

1930-10-02 日本ロンドン海軍軍縮条約批准

1931-09-18 満州事変柳条湖事件に始まる)

1932-03-01 満州国建国

1932-05-15 五・一五事件

1936-01-15 日本ロンドン海軍軍縮条約を脱退

1936-02-26 二・二六事件

1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効

1937-07-07 日中戦争1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称

1939-05-11 ノモンハン事件

1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告

1939-09-01 第二次世界大戦ドイツポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)

1940-01-26 日米通商航海条約失効

1940-03-30 中国汪兆銘政権成立

1940     アメリカ、対日石油輸出を制限

1940-09   アメリカ、対日屑鉄全面禁輸

1940-09-23 北部仏印進駐

1940-09-27 日独伊三国同盟調印

1940-11   日本アメリカの各種交渉1941年12月まで)

1940-11-30 日本中華民国間基本関係ニ関スル条約日華基本条約)調印

1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達

1941-04-13 日ソ中立条約調印

1941-06-22 独ソ戦ドイツバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)

1941-07-26 アメリカ在米日本資産の凍結を実施

1941-07-28 南部仏印進駐

1941-08   アメリカ、対日石油全面禁輸

1941-08-28 近衛首相ルーズベルトアメリカ大統領に首脳会談提案(結局、沙汰止みとなる)

1941-11-26 アメリカ日本に対しハルノート提示

1941-12-08 太平洋戦争日本英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)

        1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。

1941-12-16 戦艦大和竣工

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太平洋戦争

1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲東京空襲

1942-06-05 ミッドウェー海戦

1942-07   日本軍、フィリピン全土占領

1942-08-07 米軍ソロモン諸島ガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸

        (ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)

1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官ブーゲンビル島上空で戦死海軍事件)。

1943-05-12 米軍アッツ島上陸5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。

1943-09-30 御前会議絶対国防圏構想を決定。

1943-10-01 在学徴集延期臨時特例(勅令)の公布

1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。

1943-11-22 エジプトカイロ英米首脳会談カイロ会談。26日まで)

1943-11-28 イランテヘラン英米首脳会談テヘラン会談。同年12月1日まで)

1944-03-08 日本軍、インパール作戦開始

1944-04-17 大陸打通作戦(同年1210日まで)

1944-06-19 マリアナ海戦日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋制海権制空権喪失

1944-07   ブレトン・ウッズ協定

1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。

1944-07-18 東條英機内閣総辞職

1944-07-22 小磯国昭内閣成立。

1944-08-02 テニアン島日本玉砕テニアンの戦い)

1944-08-11 グアム島日本玉砕グアムの戦い)

1944-09-11 米軍ペリリュー島上陸ペリリューの戦い

1944-10-20 米軍フィリピンレイテ島に上陸レイテ島の戦い)

1944-10-23 レイテ海戦始まる。

1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29マリアナ諸島より東京を初空襲

1944-12-10 日本軍、大陸打通作戦完了

1945-01-06 ルソン島の戦い(同年8月15日まで)

1945-02-04 クリミア半島ヤルタ英米首脳会談ヤルタ会談11日まで)

1945-02-18 硫黄島の戦い(同年3月22日まで)

1945-03-10 東京空襲

1945-04-01 沖縄戦(同年6月23日まで)

1945-04-12 ルーズベルトアメリカ大統領死去。トルーマン副大統領アメリカ大統領に就任

1945-05-02 ベルリン陥落

1945-08-06 アメリカ広島県広島市原子爆弾を投下

1945-08-08 ソ連日本に対し宣戦布告

1945-08-09 アメリカ長崎県長崎市原子爆弾を投下

1945-08-14 日本ポツダム宣言を受諾

1945-08-15 玉音放送

1945-09-02 日本政府ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争大東亜戦争終結

1945-09-09 日本政府中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結

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戦後占領バブル崩壊

1945-09-10 国共内戦

1950-06-25 朝鮮戦争

1950-08-10 警察予備隊設置(後身は陸上自衛隊

1951-09-08 日本国との平和条約サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

        (日米安保条約)調印

1952-04-26 海上警備隊設置(後身は海上自衛隊

1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効

        日本占領状態が終了し、独立国

1952-08-05 日本国と中華民国との間の平和条約発効

1952-10-15 警察予備隊保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1953-03-05 スターリン死去

1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催

         (於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーホテル

1954-06-01 保安隊臨時松島派遣隊編成

1954-07-01 自衛隊法施行自衛隊成立)

        陸上自衛隊保安隊から改組)、海上自衛隊海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置

1954-12   高度経済成長1973年10月まで)

1955-11-15 自由民主党成立(保守合同

1955年11月  1975年4月30日 ベトナム戦争

1956-07   昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)

1956-12-12 日ソ共同宣言発効

1956-12-18 日本国際連合に加盟

1958-08   大躍進政策

1960-06-23 新日安全保障条約発効

1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。

1962-10-15 キューバ危機

1963-11-22 ケネディアメリカ大統領暗殺

1964-08-02 トンキン湾事件8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)

1964-10-01 東海道新幹線開業

1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年1024日まで)

1966-05-16 無産階級文化大革命文化大革命)(1976年10月6日まで)

1971-01   世界経済フォーラムダボス会議を開催)設立

1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)締結

1971-07-15 ニクソン訪中宣言

1971-08-15 ドル・ショック

1971-12-18 スミソニアン協定

1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)

1972-09-29 日本政府中華人民共和国政府共同声明

1973-10-06 第四次中東戦争

         勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。

1973-10-21 日米欧三極委員会の初会合(於東京

1975-04-30 ベトナム戦争終結

1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)

1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)

1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印

1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効

1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱

1985-09-22 プラザ合意

1986-12   バブル景気1991年2月まで)

1987-10-27 1987年大韓民国国民投票

1987-12-08 中距離核戦力全廃条約INF条約)発効(2019年8月2日失効)

1989-01-07 昭和天皇崩御元号昭和から平成に改められる。

1989-04-01 消費税導入(当初は3%)

1989-06-04 六四天安門事件

1989-12-03 マルタ会談終了(冷戦終結

1989-12-29 日経平均株価取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。

1990-03-27 総量規制バブル崩壊の始まり

.

現代バブル崩壊パンデミック

1990-10-03 東西ドイツ統一

1991-01-17 湾岸戦争

1991-12-25 ソ連崩壊

1993-07   衆院選自民党が敗北し、非自民連立政権誕生する(55年体制終焉

1993-11-11 欧州連合条約マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)

1995-01-17 阪神淡路大震災

1995-03-20 オウム真理教による地下鉄サリン事件

1995-11-23 Windows95日本国内で発売される。

1996-03-23 台湾民主化総統民選となる)

1997-04-01 消費税率が3%から5%に上がる。

1997-07-01 香港返還

1997-07   アジア通貨危機

1997-11-03 三洋証券経営破綻会社更生法適用申請する)

1997-11-17 北海道拓殖銀行経営破綻公表

1997-11-24 山一證券経営破綻公表

1998-10-23 日本長期信用銀行、破産国有化

1998-12-13 日本債券信用銀行、債務超過国有化

2001-01-06 中央省庁再編

2001-09-11 アメリカ同時多発テロ事件

2003-03-20 イラク戦争201112月15日まで)

2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行

2008-09-15 リーマン・ショック

2009-09-16 鳩山由紀夫内閣総理大臣に指名される(政権

2017-01-18

名探偵コナンラストガチで予想する。当たりすぎて青山豪商を驚嘆させてオチを変えさせてコナンが、あのコナンがだぞ、あの国民的漫画ラストが、つまらなくなる覚悟で俺は書く。

まずコナンは復活する解毒剤の副作用で新一とコナンに分裂する。

新一は蘭と結婚する。コナンのほうは灰原とくっつく。

灰原も分裂する。小さい方がコナンとくっつくのは先述のとおりで、お姉さんの方は光彦とくっつく。

新一と蘭の子である工藤久作は黒の組織を復活させる。

コナンと灰原は新生黒の組織により葬られる。ここまで第二部未来少年探偵コナンザグレート(100巻)。

毛利小五郎と妃英理との晩年の子である毛利太郎が、新生黒の組織ボス工藤久作を滅ぼす。

太郎は、光彦と灰原の子である円谷有栖とくっつく。

指輪フィリピンルソン島にあるピナトゥボ火山に投げられ、永遠に失われる。

円谷と毛利西方浄土に旅立ち、第三紀は終わりを告げる。ここまで第三部アリス探偵局(100巻)。

2016-05-17

memo

バターン死の行進

バターン死の行進とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島日本軍投降したアメリカ軍フィリピン軍の捕虜が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道トラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

フィリピンの戦い(1941-1942)

太平洋戦争大東亜戦争)緒戦における日本軍フィリピン進攻作戦である

本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日ルソン島上陸し、1月2日には首都マニラ占領した。

しかし、アメリカ極東陸軍ダグラス・マッカーサー司令官バターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。

45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

2015-04-10

世界トップ10のビーチことフィリピンのパラウイ島に行ってきた後編

http://anond.hatelabo.jp/20150406191358

パラウイ島について前回の続きを書いていこう。 もっとGoogle検索順位が上がって、将来旅する誰かの役に立ちますように。

観光 基本情報

パラウイ島にはホテルリゾートが無いため、基本的サンタアナ北端のサンヴィセンテ港から日帰りで行くことになる。

ボート等の手配は港で前日までに行っておくこと。2014年2月の記事であるが、マニラフリーク

http://manilafreak.jugem.jp/?eid=653

この料金表と同じであった。

このボートは1艘あたりなので、1人で行くと割高、複数人数で行くと割安となる。

船は8人マックスと書いてあるが、普通の小さいバンカーボート。外海は波が荒いところもあり怖い瞬間もある。 同時に乗る人数は船員を除いて4人 多くても6人程度に抑えたい。

日本とは違い、あくまで命の値段が安い所謂"後進国" であって安全は全く重視されていないのを念頭に。

Cape Engaño

スペイン植民地時代にパラウイ島の東北の端の高台建設された灯台。この灯台近辺から景色がパラウイ島旅行の唯一かつ最大の目的となる。

世界トップ10に選ばれるだけあって、絶景一言。 写真ではわかりにくい素晴らしさで、実際に目で見て欲しい。三連休をかけて行く価値がある景色だ。

登って降りてくるだけなら30分もかからないのだが、何故かガイド費が300ペソもかかる。 ここに直接行く人が多いが、個人的には下記のトレッキングしてからだと感動が倍になるのでオススメ

トレッキングについて

パラウイ島は結構大きく、トレッキングルートが3つある。 ガイド費は350ペソ

そのうちのPunta Verdeという地元住民が多くいるビーチ(島の東岸の中腹あたり)から東北端のCape Engaño まで海岸を沿って歩くルート(3時間と言われていたが、1時間半程度だった。距離にして4~5キロ程度)がオススメ

Cape Engaño とPunta Verde間にはもう1個、山を通るルートがあるが超疲れるし景色が見れるポイントが無くただただ山の中をハアハア言いながら歩くだけで全くお薦めしない。やめておくべし。

景色めっちゃ良いよ!」という地元住民に完全に騙され地雷を踏み抜いてしまった。

3つ目のルートである島を東西に横断するルートは筆者は行っていない。未知数だが、地元住民曰く「西のビーチは透明度が悪いし魚もいない」ということだったので今回の旅で島の西岸には上陸しなかった。

とりあえず騙されたと思って信じて欲しい。

Cape Engaño に直接行かず、Punta Verde上陸して海沿いのルートを歩いてCape Engaño へ2時間くらいかけて歩いて行く その後の灯台から景色は感動的だ。 ハロハロフィリピンのデザート、パフェサンデー的なもの)も非常に美味しく食べられるだろう。

(前日にガイドの手配をしておくように。あと上陸ポイントと島を出るポイントが違うので船主に対してCape Engaño に迎えに来るように伝えておくように)

Anguib Beach

普通フィリピンの白い砂浜、綺麗な海岸といった感じ。  他のリゾート等で綺麗な砂浜の経験があれば別に無理していかなくても良い。

ただ行っても別に損はしない。ここでゆっくりしても良いのでは。

Crocodile Island

謎の岩質で出来た謎の地形の島。 是非行って欲しい。 島は5分で一周出来る。

ビーチでシュノーケリングしても楽しいので、ここで数時間過ごしても良いだろう。

ただ樹木等が無い禿山の島で、日を避けるところが少ないのと常に観光客で混んでいるのでゆっくり滞在するかどうかは好み。

延長料金

基本的には朝6時から時間、つまり正午までが基本料金に含まれる。

延長は1時間あたりたったの100ペソ。 どうせサンタアナに戻っても暇を持て余すので、仲間と一緒に行く時は延長料金をケチらずゆっくり滞在して欲しい。

海の荒れ具合や弁当の持参の有無等にもよるが、夕方近くまでまったり過ごしても良いのではないだろうか。

なお、早朝5時半の時点でやってるサリサリストアがあるのでそこで水を1リットル×2本くらい買っておくと良いだろう。 1個25ペソ。  日差しがキツいので水は多めに持っておくことを推奨。

飯 (超重要

パラウイ島旅行最大のネック。一人旅お薦めしない最大の理由

Cagayan Holiday & Leisure Resort内に中華料理があり、ここが唯一の普通料理?と言える。 ここに泊まった場合も泊まってない場合も是非複数人数の時は行って欲しい。  

ドレスコード(服装の制限)があるかどうかはわからないが、リゾート施設内だしおそらく大丈夫じゃないかなあ。

メニューを見たところ1人1000ペソ~1500ペソ程度で食べられそう。

中華だけだと流石に飽きると思うので、フィリピン料理行けるという人は以下の2つも試して欲しい。

San Vicente Portから約4キロトライシクルで15ペソで行けるサンタアナ市街地コマーシャルセンター近く)のレストラン

・J and J Restaurant

https://www.google.co.jp/maps/place/J+and+J+Restaurant/@18.4601929,122.1427828,15z/data=!4m5!1m2!2m1!1srestaurants!3m1!1s0x0000000000000000:0xadc5a5d07c45023f

地元住民イチオシレストラン。筆者は食べていないがメニューを見たところフィリピンメジャー料理は揃っていた。 

・Dampa-Esperanza Seafood Restaurant

https://www.google.co.jp/maps/place/Dampa-Esperanza+Seafood+Restaurant/@18.4601929,122.1427828,15z/data=!4m5!1m2!2m1!1srestaurants!3m1!1s0x0000000000000000:0x2d564be3d9aaba88

同じ「ダンパ」でもパサイ市にあるものとは全く別物。

香港かなんかで修行したシェフがやっているとのこと。 カニ等の海産物が美味しいらしい。  地産地消

なお、筆者は1人旅をしたので地元住民が多く入るようなヌードルハウス等で食べたが麺がクタクタで非常に不味かった。全くオススメしない。

アジアで1番料理が不味いと言われているフィリピンであってもルソン島中部バギオとかバナウェ、サガダ、ボントック山岳部だと野菜含め普通に美味しいのだが、もっと北に行くと料理はまずくなるんだなぁ・・・ 勉強になりました。

飯の時の注意点

特に晩飯時の「行きは良い良い 帰りは怖い」に注意。

San Vicente Portからサンタアナ市街地は割と楽にトライシクルが捕まる。

日が沈んで晩飯を食べてさて、帰りを探そうとなると断られる。 もしくはぼったくられる。

フィリピン人は日が沈んだら基本的仕事モードからプライベートモードに切り替わるということを学んだ。 

筆者はぼったくられるのが嫌で4キロ超の距離を1時間以上かけて歩いたが、途中該当が無い林みたいな場所があり普通に怖かった。

途中の民家の飼い犬に吠えられ狂犬病リスクフィリピン貧乏な国なので基本予防接種等してない)に怯えつつ、不安な道中であった。

もう二度とあんな思いはしたくない。 頑張れば歩ける距離だが、歩くのは絶対お薦めしない。 例え行きの10倍払っても良いので宿まで安全に戻るべし。

日清のパンシットカントン

ただのインスタント焼きそばなのだが、食に困ったらこれを注文すべし。 調理費混みで1個20ペソ(小さい袋なので1個ではただのオヤツ代わり)。 3つくらい頼めば十分昼飯になる。

San Vicente Portの先端の港に付帯するサリサリストア含めいろいろな所で食べられる。

「Pls Make it hot I like very very spicy」等いうと良いだろう。 カラマンシーシークァーサー)も付けて貰おう。

飯の総括としては困った時のためにカップラーメン等の非常食を数個持っていけ。あって損はしないというか得しかしない。 お湯は宿でもサリサリストアでもどこでも貰える。 

娯楽

マイナー観光地ゆえ、夜の娯楽は少ない。

Cagayan Holiday & Leisure Resortに泊まっている場合カジノがあるのでギャンブル好きな方は是非そちらへ。 筆者は訪れていないが、なかなか施設は綺麗だった。(外側から見た感想

また、San Vicente Portのメインの通り沿いで現地人数十人が路上屋台縁日のようなギャンブルをやっている。 数ペソ~100ペソ程度の非常に少額の賭け。

リサリストアコンビニの超ローカル版)は遅い所でも21時くらいには閉まるのでビールつまみ等は閉店時間を見越して買っておこう。

ただし、だいたいの場合翌日朝6時に港集合で朝が早いので夜更かし(AM1時とか2時とか)はあまりお薦めしない。 

ビール

田舎からなのか、ルソン島北部文化なのかわからないがほとんど売っているのはアルコール度数が高いRed Horse。 サンミゲルピルセンやサンミゲルライトが売っている店は1軒か2軒しかないのでRed Horse苦手な人はチェックして買いだめしておくべし。

なお筆者はマニラにいるとき基本的にはRed Horseを飲まない(ピルセンと比べて不味いと確信しているいる)のだが、旅行中ゆえの気分の高揚なのか それとも暑い気温と乾いた空気による風土の違いなのかわからないが今回の旅の道中ではRedHorseは非常に美味しく頂けた。

嫌いという人も一度くらいは試してみて欲しい。

ネット環境

田舎にも関わらず予想よりはるかに良かった。

4G(LTE)は繋がらないが3Gが非常に快適につながった。Youtube動画ストレス無く見れるレベル

SmartのPocketWi-fiを持っていくべし。  ビール飲みながら田舎の夜風に当たりつつネットサーフィン。 一人旅でもなかなか楽しいもんですよ。

バス移動(おまけ)

基本飛行機を使うと思うのでこの情報は完全に蛇足

今回の旅はルソン島北部台風が近づいたりいろいろあって、帰り道にバスを使った。

サンタアナからトゥゲガラオはバンを利用(180ペソ

本来ビクトリライナーを使いたかったのだが、いっぱいだったのでフロリダバスを使った。

トゥゲガラオからマニラまでのバスが700ペソ。 午後4時発で途中バス内で盗難だか痴漢だかよくわからんが、 騒ぎになりCabanatuanの警察署に2時間弱ほど寄ったりしてマニラに着いたのは翌朝の5時過ぎ。 

休憩は最初時間程度乗った所で1回あった程度で、そこで皆カンテーンで飯を食べたり売店で物を買っていた。 あまり休憩しないので最初の休憩所で水分等を買っておくべし。

冷房はそこまで効きすぎていなかった。(フィリピンだと長距離バスは上着必須レベルにクッソ寒い。 ただ、筆者は男性なので女性遠距離バスに乗る場合は是非上着を持って行って欲しい。)

席は日本東京大阪間の格安3000円夜行バス程度のクオリティの柔らかさで割と良かった。  (過去にマクタからセブ北端まで行った事があり、その時のバスが酷い設備だったので、ハードルは低い)

なお、一番右端後ろの席は柱があって倒れないので地雷。   あと当然だけどアイマスクと枕は持っていくべし。 

総括

いろいろパラウイ島旅行に関する良いところも悪いところも書いたけれども、マニラ在住者で3連休があったら乾季中に是非行って欲しい。 やはり世界トップ10のビーチは伊達ではない。

日本からだと4連休必要になるので、そこまで強く勧めない。 

今はセブ島への直行便があるしもっと移動時間が少なくて有意義に過ごすことは出来ると思う。 栄えてるし治安も良いし料理も美味しいレストラン多いしマッサージ等の物価も安いし遊ぶところも多いしとりあえずフィリピン旅行たかったらセブがお薦め

2015-04-06

世界トップ10のビーチことフィリピンのパラウイ島に行ってきた前編

旅行記兼、これから旅行する可能性がある人向けアドバイス集。

超長文に付き、最初に結論を書いておく。

・あまり1人旅には向かない。4人くらいで行くべし。 飯の選択肢コスパが圧倒的に変わる。 1人で食べれるような飯は基本不味い。フィリピンクオリティ

・かかる金額としてはマニラから4人で二泊三日で行く場合貧乏旅行場合に移動費等全部混みで一人あたり最大1万ペソ程度(3万円弱)、ある程度宿や飯にお金を使う場合でも2万ペソ前後(6万円弱)を見ておけばOK。

・旅のコスパフィリピンの中でも上のほう。ただし、時間効率は並程度。 もしも乾季中に三連休があれば是非行って欲しい。

トップ10に選ばれただけあって景色の美しさは保証出来る。 が、ダイビングシュノーケルが主目的だったらもっと良いお手軽な島が比国内に多々あるのでそちらへ。

・2015年4月現在、混雑は全く心配しなくて良い。 

ネット環境は思ったよりずっとずっと良い。SmartPocket wi-fiを持って行こう。 なお市街地、北端の港近く、パラウイ島の主要地 どこでも電話が通じる。

タガログ語は問題なく通じる。 英語もまぁ田舎の割に思ってたよりは多くの人に通じる。

・港近くの中華リゾートの中にCityBankのATMアリ。 MEGALINK対応カードであればBDO等他銀行のカードでも現金を下ろす事が可能  *1 

筆者スペック

2009年末からメトロマニラに住み始めたアラサー男性。 日本に行ったり帰ったりもあってフィリピン滞在歴は合計4年弱。

12歳時にタイプーケットダイビング免許取得。モルディブパラオ沖縄サイパン、ロタ 等世界各国の海に加え、 エルニドやボホール、パラワン等フィリピンリゾートを多々経験しており海やビーチに対して目は肥えている・・・つもりだが、欧米に行ったことがない。 *2

序文  パラウイ島とは?


2013年5月にCNNが世界トップ100ビーチを発表した。(下記日本語記事は7月の日付)

今年こそ行きたい、世界の厳選ビーチ100

http://www.cnn.co.jp/travel/35033711.html


この結果が在比邦人(フィリピン在住の日本人)の一部界隈で密かに話題になった。

他にフィリピンからランクインしたボラカイやエルニドは在比邦人にとって非常に有名である

また海外ではあるが、19位に入ったタイピピ島なんかも レオナルド・ディカプリオ主演の映画ザ・ビーチ」の舞台になったので知ってる人は知ってるだろう。

しかし、このランキングアジアで唯一トップ10に入ったパラウイ島は旅好きな日本人の誰もが知らなかったのである。(なおCNNはアメリカ放送局なので、ランキング欧米系のバイアスがかかり上位に大西洋地中海近辺のビーチが多くなるのは納得行く。)

さらに日本人の間だけではなかった。 なんと各々の職場の同僚のフィリピン人に聞いても誰も知らなかったのだ。 

果たして一体どんな島なんだろうとずっと恋焦がれていた。

それから約2年弱、情報を集めようやく先日行くことが出来た。

パラウイ島についてはネットにおける日本語における情報が完全に不足しており、9割が英語の情報、1割が中国語及びタガログ語である

おそらくだが行ったことがある日本人は私を除いて2,3人しかいないのではないだろうか。 *3

更にいうとトリップアドバイザーやGoogleMap等における近辺のレストランや宿についてのレビュー情報も圧倒的に不足している。存在する情報はパラウイ島が観光地として素晴らしいということだけである

そんなわけで最近行った私が知っていること全てをアウトプットすることにした。 今回一人旅をしたことで色々な地雷も踏み抜いたし、世界一詳しい日本語でのパラウイ島旅行解説を目指している。

おそらくこの日記を見る人の中で実際にパラウイ島に行く人は1万人に1人以下、フィリピンに住んでいたとしても100人に1人というレベルの場所だが、将来パラウイ島に行く日本人の変わり者の君のために文を綴ろうと思う。

マイナー観光地かつ残念糞長文ゆえ、ブコメスターが集まるとはあまり思っていないが、願わくばグーグルで「パラウイ 行ってきた」と検索した時に1ページ目に出るようになることを切実に願っている。

アクセス 前半(マニラ→トゥゲゲラオ→バン乗り場)

初日にまずマニラからトゥゲガラオまで飛行機で移動することになる、基本的には。 *4 

セブパシフィック航空(セブパシ)とフィリピン航空(PAL)でマニラ発トゥゲガラオ行きがある。どうしてもPALが好きなんだ、という人でなければニノイ・アキノ国際空港(NAIA)のターミナル3(T3)を使えるセブパシを選ぼう。  *5 

チケットを取るタイミングプロモの有無にもよるが、11時15分発、12時15分着でだいたい2000ペソ弱(5000円くらい)  帰りは14時発、15時着で1000ペソ強(3000円くらい) +空港使用税などもろもろでチケット代は往復1万円前後と考えておこう。

なおマニラ発トゥゲガラオ行きの飛行機は左側の窓際の指定席個人的オススメ。 *6

飛行機の搭乗時間は1時間弱。 そこからバン乗り場まで移動する。

距離にして1キロ程度、歩いて15分程度だが、トゥゲガラオはフィリピン最高気温の記録がある街。

標高が低く周囲が山に囲まれている盆地のため、気候は暑くなりやすい。3月の平均気温は38℃であるフィリピンで記録された最高気温1912年4月29日のトゥゲガラオ市で42.2℃である

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B2%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%AA

日本で言う埼玉県熊谷岐阜県多治見のような内陸部の盆地に付き、3~5月の乾季の一番暑い時期の昼下がりは晴れてれば40度近く軽く行く。

無謀に歩こうとせずに、是非トライシクル二輪車サイドカーが付いた三輪車風の乗り物。タイ等でいうトゥクトゥク)を利用することを勧めたい。

値段もたったの15ペソ(40円程度)なのでケチらないほうが良い。  *6

アクセス 後半 (トゥゲガラオバンのバン乗り場→サンタアナ→サンヴィンセンテポート

バン乗り場ではトゥゲガラオ発、サンタアナ行きのバンが30分~40分に1本出ている。 地元住民の需要もかなりあるらしくすぐに次の便が出る。 人数が揃い次第or次のバンが来次第出発な感じなので時刻表なんてものは勿論存在しない。

11人乗りのバンに15人とか16人とか詰め込まれ時間の行程を行くことになる。値段は行き帰りともに180ペソ(500円弱)

もし可能ならば1本遅らせても良いから助手席に座るべき。値段は同じなのにも関わらず後部座席とは快適さが全く違う。 特に帰りは前半右側に海の景色が見えて綺麗なので是非。

道はデコボコじゃなくて案外乗りやすい。あと窓を開けっ放しでスピード飛ばすので意外と暑くない。

サンタアナに付いたらバンの運転手さんにお願いして先端の先端のサンヴィンセンテポートまで行ってもらうように。(20ペソプラスしてチップを渡すと良いでしょう)

もしもサンタアナ市街地に降ろされてしまった場合トライシクルを捕まえて15ペソ程度で港まで行ける。 市街地から港まで4キロ以上あるので歩いて行こうと思わないように。 

先端の港では翌日のパラウイ島の入島許可証を買ったり、ボートの手配。 宿のチェックインより先にやってしまいたい。

パラウイ島のオススメ観光プランや値段については後編にて。

宿

旅における最重要ポイント。主に3種類。

基本着いて翌日の朝6時に港集合なので、徒歩で港まで行ける上二箇所が安全だと思う。

勿論もっと南のサンタアナ市街まで候補地を広げれば相当宿の数は多くなるが、早朝にもしトライシクルが捕まらないと詰む可能性があるのがちょっと怖い所。

・その1 バックパッカー向けゲストハウス

http://www.tripadvisor.jp/Hotel_Review-g2081111-d7009315-Reviews-EF_Costales_Lodge-Santa_Ana_Cagayan_Province_Cagayan_Valley_Region_Luzon.html

今回筆者が利用した格安宿。GoogleMapに載っていない、やばい。(同じような名前のCostales Lodgeもっと東のほうにあるが、そこではない)

しかもTripAdviserの地図もそこと間違ってる。

場所的には先端の港から1本道のDugo-San Vicenteロードをまっすぐ南下。 途中それなりに曲がりつつも道なりに進んで10分弱で見えてくる右側のガソリンスタンド(PETRON)の手前を右。 明らかに1本道で迷わない。

前述の通り港まで徒歩で10分程度。 朝は5時45分に宿を出れば6時の船に乗れる。

シャワーだが1泊800ペソ程度。 一番安い部屋だと二段ベッド×2なので4人で行けば1人あたり200ペソ(500円強)で泊まれる。

とにかく旅にお金を掛けたくない人向け。 夜の娯楽等については後編にて。

・その2 リッチに旅を楽しみたい人向け中華資本の立派なリゾート

Cagayan Holiday & Leisure Resort  北端の町の西側の海岸一体がリゾートな感じ。中華資本だが、普通に超綺麗だった。

港まで徒歩で15分程度。 先述の安宿よりやや南下するが、港までは十分徒歩圏内。

一番安い部屋で1泊3000ペソ前後(1万円弱)。コテージの中は見ていないが複数人で旅するならアリな選択肢だと思う。

なお、ホテルフロントのあんちゃん曰く、中国人が泊まるのは2割程度とのこと。

後編の飯の所でも書くが、北端港町でまともといえる料理があるのはこのリゾート敷地内(厳密には同じ資本でオーナーは違うらしい)にある中華料理レストラン1軒のみ。

筆者は貧乏旅かつ1人なので食べに行かなかったが、メニューを見たところお値段は普通にマニラ首都圏と変わらないくらいする。(おそらく1人1000ペソ前後行くのではないだろうか)   中華料理性質ゆえ、ここで食事するとき複数人で行くことを進めたい。

またこれは完全に未確定情報だが、おそらく リゾート所有の送迎のバンが存在する。 町を歩きまわっている時にリゾートの中に入っていくバンを何度か見たので。

ただそのバンが一体トゥゲガラオからなのかサンタアナなのかはわからなかった。 また、早朝や昼の港への送迎をやっているかどうかもわからなかった(≒聞くのを忘れた)

電話で予約した時に是非送迎について聞いてみて欲しい。

・その3 ビーチ派向け 浜辺のコテージがあるビーチリゾート

"世界一詳しい日本語でのパラウイ島旅行解説を目指している。"と最初に宣言しつつも、この項だけは非常に非常に信頼度が怪しいので眉唾ものとして聞いていただきたい。

だいたいが現地民の話を継ぎ接ぎで作り合わせた推論(及び自分が実際に訪れた場所の感想)なので、前者2つの選択肢に比べてハイリスクである。ご了承頂きたく。

まず、Anguib Beachという非常に綺麗なビーチが東のほうにある。実際に筆者は船で訪れた。

http://www.tripadvisor.com/ShowUserReviews-g2081111-d2277103-r128107194-Anguib_Beach-Santa_Ana_Cagayan_Province_Cagayan_Valley_Region_Luzon.html

ここにあるFirst Cagayan Leisure & Resortは浜にコテージがあるタイプのビーチリゾートで、1泊2300ペソ(6000円くらい)で泊まれる。

いかにもコテージといった感じの宿で、可も不可もなくといったところ。

また、ネットでの評価が高めのリゾートがさらに東側にある。

https://plus.google.com/102147166564377320070/about?hl=ja&gl=jp

ここには筆者は訪れていないので何も言えない。

これらビーチリゾートに於ける疑問点としては

1.おそらくリゾートから港はトライシクルで行けるような距離ではない。 バン等の交通機関が早朝からあるのだろうか。

2.リゾート所有の船が砂浜に何艘かあったが、もしかしたら港を使わずあの船を使ってそのままパラウイ島へ行って帰ってこれるかもしれない・・・・?

3.飯についての情報が完全に不明。 北端港町だと南へトライシクルで10分行けば市街地にそこそこ食べられる料理があるのだが、(市街地から離れている)リゾート場合リゾート内の料理が不味かったら逃げられない可能性が微レ存

普通に人が大勢泊まっている時点で船や車については大丈夫だとは思うのだが、是非電話で予約するときに確認して欲しい。

なお、パラウイ島自体にはホテルリゾート存在しないのでどうしても泊まりたければ砂浜にテントを張ってキャンプするか地元住民の掘っ立て小屋のようなところにホームステイすることになるらしい。

テントの貸出しサービスがAnguib Beachにあった。 アクティブな人は是非キャンプして見て欲しい。

⑤CNNの”ベスト・ビーチ100”に ボラカイ、エル・ニド、パラウィ 掲載日 5 31

  CNNは、ボラカイ島プカ・ビーチ、パラワン島エル・ニド、カガヤン州パラウィ島を世界でも最高のビーチにリストアップした。 中でもパラウィ島は第10位に

ランクされ、トップ10では唯一の東南アジアのビーチとされた。 白砂・溶岩・青緑の海水珊瑚礁に恵まれダイバー天国で”未開発の美”と絶賛する同島

には、アクセス開拓されず リゾートホテルも無いが、星空の下でのキャンプと民宿が素晴らしいとしている。

→ パラウィ島はルソン島北部のカガヤン州サンタアナ町にあり、バブヤン水道沖にある。 94年に国立海洋公園指定。 エル・ニドは 14位、プカ

ビーチは 84位。 観光省の統計では、1-4月の入国者は 165万人で、昨年から 10.12%増えている。

"リゾートホテルも無いが、星空の下でのキャンプと民宿が素晴らしい"

とあるので、タガログ語の交渉が得意な方は是非現地住民と交渉して、ホームステイトライして頂きたい。

飯や買い物、パラウイ島の素晴らしさ等は明日の後編に続く。

驚くことにここまで肝心のパラウイ島の旅行記について全く書いていない。 

*1  但し、20ペソ程度手数料がかかる

*2 いつか紅の豚に出てきたギリシャザキントス島のナヴァイオビーチ行ってみたいなぁ・・・

*3 なお、2年弱前の時点で相当探したが0人だったと私の中では確信している。CNNの結果を受けてようやく知ったという人ばかりだろう。

*4 帰り道に台風4号の影響もあって、トゥゲガラオからマニラまでバスで移動したが非常に大変だった。値段は700ペソで12時間程度かかる。 マニラ市内のバス停の位置も不便だしそこをお金ケチ必要は無いので行き帰り共に飛行機を使うのを強く強く推奨したい。

*5 使用する滑走路や当日の風向きにも寄るだろうが、晴れていればマカティ、ボニファシオ、オルティガス、ケソンシティあたりまで綺麗に上空の景色が見ることが出来るだろう。

*6 もしフィリピンについて全く詳しくない人がいたとしたらT3はめっちゃ便利でT1とT2は若干使いにくいと覚えておこう。極端な話だと中心地からの移動時間的にT3が羽田空港で、T1とT2が伊丹空港と関空を足して二で割ったくらいな感じ。

*7 なお、筆者は歩いた所汗だくになった。ただ辿り着いたバン乗り場でのレッドホースは最高に美味しかった。

2014-03-29

島国がそんなに発展しない理由

タイトル釣り

id:su_rusumi ではなぜフィリピンは発展しないのだろう? 2014/03/28

へのアンサー。

実は島国が発展する方がレアケース。

現在先進国を見ても日英以外はあとせいぜいでニュージーランドシンガポールぐらいしかない。

まともな国が作れるぐらい広くて、まともな農業ができるぐらい気候的に恵まれた島がそもそも世界的に珍しい。

島の面積ランキング上位を書き出すと

  1. グリーンランド寒い
  2. ニューギニア島暑い
  3. ボルネオ島暑い
  4. マダガスカル島暑い
  5. バフィン島:寒い
  6. スマトラ島暑い
  7. 本州
  8. グレートブリテン島
  9. ビクトリア島:寒い
  10. エルズミーア島:寒い
  11. スラウェシ島暑い
  12. 南島ニュージーランド
  13. ジャワ島暑い
  14. 北島ニュージーランド
  15. ニューファンドランド島寒い
  16. キューバ島暑い
  17. ルソン島暑い
  18. アイスランド島:寒い
  19. ミンダナオ島暑い

と見事に日英新以外は暑すぎか寒すぎ。

寒い文明が作れない。まあ農業できなきゃアウトですわ

暑くても文明が作れない。ジャングルがはびこって農業ができなかったり、疫病が強烈だったり。

本当はもっとかい理由がいくらでもあるが、根本はそういう話。

あと、表のすぐ下は20位がアイルランド島、21位が北海道

この二つはひょっとすると独自の島国として発展できた可能性があったかもしれないが、すぐ隣が日本イギリスというのが悪かった、ということだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20140327233218

2010-03-22

「死の行進」写真ではなかった、65年ぶり訂正

ttp://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100321-OYT1T00456.htm

第2次世界大戦中の1942年4月、フィリピンルソン島バターン半島攻略した日本軍が、米軍フィリピン軍の捕虜炎天下で100キロ歩かせて多数の死者を出したとされる「バターン死の行進」の写真について、配信元のAP通信は、数週間後の遺体埋葬の写真だったとして65年ぶりに写真説明を訂正した。

2007-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20070718180344

M6クラス地震新潟だけじゃなくて、世界中で頻発したことの方が興味がある。

そこらへんは予言していないの?

ちょっと英語媒体まで調べてたんだけど新潟以外殆ど報道されてないみたい。残念

http://earthquake.usgs.gov/eqcenter/recenteqsww/

http://earthquake.usgs.gov/eqcenter/recenteqsww/Quakes/quakes_big.php


2007年10月26日に巨大な台風日本に来る。

11月にくる台風が巨大になるのか…?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E9%A2%A8

最も遅いものとしては、1990年11月30日台風第28号が紀伊半島に上陸した例がある。

そんな遅いのもあるんだー。

2007年 ゴアがノーベル平和賞受賞(発表は10月中旬)

これは無いな。2007年はすくなくともない。

ノーベル賞はほぼ引退した人に与えられる。審査に5年は掛けるので2007年というタイミングは無い。

2008年 エイズとデング熱に有効なワクチン誕生ブラジルマットグロッソ州にあるルアナーと言う薬草から開発される。

エイズウイルス言うが、あれはウイルスなのか??

免疫不全症候群エイズであって何か違う気がする。

できたとしてもそれはワクチンっていうのか?阻害酵素

2008年9月13日 南シナ海ルソン島沖)で地震津波が発生する。マグニチュード8.5(フィリピン台湾地域で最大級の地震)。中国南部(香港海南島など)で100万人の死傷者。

M8.5なんてありえるのかよ!?と思って調べてみたら、意外とあるのねそのサイズの地震

NEIC: Earthquake Search Results

びっくりした。(URL貼ったらよこにのびちゃったので訂正)

2027年 アメリカイエローストン火山が噴火が始まる、1600kmまで灰降しカンサス、ネブラスカリビングストンなどで大被害。最後に噴火したのは7万年前で、新しい氷河期がくる。

2039年 温暖化の影響で気温が60度以上になる国が現れる。

イエローストーンが噴火して氷河期がくるいうてるのに温暖化の影響でとかいってるのがなんかあれ。

イエローストーンクラスが噴火したら100年間世界中で降灰しつづけるよ。

地球はーたちまちー氷りつくー!のあの世界だよ。

それに俺の記憶がたしかならイエローストーンの噴火周期は60万年だよ。前回の噴火が60万年前だからそろそろ噴火するんじゃないか?ってもっぱらのうわさだよ。

7万年前というと、73,500年前のトバ噴火(インドネシアスマトラ島)のことじゃないか?

このときは人類は数千人まで減ったとか。もちろん他の動物もね。

現代人が100年分食料を保存したとしても少なくとも助かりはしない。

惑星が落ちてくるのを待つまでもないよ。

俺も予言をするぜ。

次に増田は乙と言う。

中越沖地震予言的中か? ?? 人類最後の日 ジュセリーノの予言

まず中越沖地震で犠牲になられた方のご冥福を祈ります。

ところで、この地震で思い出しちゃったのはブラジル予言者でジョセリーノという人。巷では的中率九〇パーセントとまで言われています。

ダイアナ暗殺911テロオウム事件、スマトラ大地震など、これまで的中した予言は多数あるようです。

彼曰く、

2007年7月13日日本地震発生して、多数の被害者が出る。

という予言をしていました。(あわせて津波予言されていたようです。)

誤差は二日だけ。これってどうなんでしょうか…。

彼は夢で未来を見るらしく、それを目覚めた後にすぐさまメモしていくそうです。彼の予言は非常に小さな事件から巨大な現象まで多岐にわたり、数多くなされています。

今年は他に、

2007年10月26日に巨大な台風日本に来る。(っていうかもう来てないか?)

2007年8月 トルコで数千人が地震によって死亡する。

2007年9月 イスラエルで対立によって多くの民間人が死亡する。

2007年 ゴアがノーベル平和賞受賞(発表は10月中旬)

2007年12月31日 人類が過ちに気付く最後の機会。

等々といった予言をしています。

それ以降で分かっているのを幾つか見ると、

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2008年 エイズとデング熱に有効なワクチン誕生ブラジルマットグロッソ州にあるルアナーと言う薬草から開発される。

2008年 アフリカ水不足が発生し数千人が死亡。

2008年9月13日 南シナ海ルソン島沖)で地震津波が発生する。マグニチュード8.5(フィリピン台湾地域で最大級の地震)。中国南部(香港海南島など)で100万人の死傷者。

2009年1月25日 大阪、あるいは神戸で数十万人が犠牲となる大地震が発生。

2010年 アフリカでは気温が58度まで達して水不足が頂点に達する。

2010年6月15日 ニューヨーク証券取引所崩壊。世界経済が危機に陥る。

2011年2月17日 アフガニスタン地震

2011年 鳥インフルエンザ人間感染して8千万人が死亡。初症状は普通風邪に似ているらしい。

2012年 黒い煙の時代。12月6日から気温や疫病が増大、人類の滅亡が始まる。

2012年 インドネシアのクラカトア火山が噴火する。

2013年 ガンの治療法完成。

2013年 リオデジャネイロ原発事故

2013年11月25日 カナリア諸島でラ・パルマ島が噴火、150mの津波が襲う数千人が死亡。

2013年 地球に衝突の危険性ある小惑星存在が問題になる。(この件はジュセリーノ氏がNASAに予知警告した結果、2002年6月31日にNASAはその存在確認を発表した。)

2015年 ポルトガルイギリスフランススペインヨーロッパ全域で干ばつ。2015年4月22日にはもっと激しくなる。

2015年 インドネシアのクラカトア火山が再噴火。

2016年 アメリカブッシュ大統領が緊急入院

2017年 アフリカで気温が60度に。世界中で干ばつによる激しい国家対立が起きる。

2023年2月9日 サンフランシスコ震度8.9度の地震が起きる。

2026年7月17日 サンフランシスコでザービッグワンと言う名の大地震が起きてカリフォルニアが崩壊。震度10.8度の過去最大の地震。150mの津波

2027年 アメリカイエローストン火山が噴火が始まる、1600kmまで灰降しカンサス、ネブラスカリビングストンなどで大被害。最後に噴火したのは7万年前で、新しい氷河期がくる。

地球で安全な場所は14箇所しか残らない。その内1箇所がカナダ、1箇所がアジア、12箇所がブラジル

2029年4月13日 地球の近くを小惑星アポフィスが通る。(調べたら本当の話でした!)

2036年11月11日 再び地球に同じ小惑星アポフィスが接近。衝突の可能性は80%で地球壊滅の危機。

2039年 温暖化の影響で気温が60度以上になる国が現れる。

2043年 人類滅亡。

ブルブルガクガクげっそり

詳しい予言の的中具合は以下のサイトで伺えます。

見た限り、本当にかなり的中してるように見えます。

http://oriharu.net/jstand.htm#time_limit

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小惑星アポフィス衝突の危機は科学的にも(極低確率ではあるが)現実の問題ですが、もし現代の地球に巨大隕石が衝突したらどうなるか、それをシミュレートした映像があります。

http://www.youtube.com/watch?v=oB3G0rvCIJc

見ると鳥肌がたつほどですが、実はこの被害は大昔の地球に実際にあったものです。そしていつまた同じことが起きるか、それは誰にも言えません…。

しかし同時に、これほどの地獄をも生き延びた地球と生命たちのおかげでいまの我々があると思うと、いまこうして豊かな大自然の営みのなかで生かされていることに、ただただ感謝の気持ちを覚えるばかりです。

 
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