はてなキーワード: 民意とは
これが失敗したのは、年寄りに負けたからである。前者はネーミングで嫌われた気もする。
小池新都知事がやろうとしていることは、多分ここに通じている。
しかし築地問題を見て分かるとおり、おじいちゃんたちが一気に反発しだした。
今朝はまたあの老害森元総理がガキのいじめみたいな対応をしていた。
このままいくと色々と、失敗に終わるかもしれない。
態度だけでも年寄りに寄り添おう。
正論をネット使える年代が理解しなくては、年寄りを黙らせることはできない。
そのあたりも大切になってくる。
日本はいつでもイギリスのEU離脱みたいなことが起きる程度に、民意は年寄りが強い。
デモを否定するわけじゃないが、声を荒げて行進することは、どうも昭和的。テロ攻撃をネットでする今、喉を枯らしても足を動かしてもなにも起こせて無いように見える。(やってるのほぼ年寄りだし)
皆さんこんにちは。
anond.hatelabo.jp/20160728000910
どこの田舎に住んでるんだろう。多様性を知らず、自分の良いと思ったものは誰もがそうだと思えるほどの想像力の無さ。ダメ親だな。中卒専業主婦とか?
togetter.com/li/1008595
というレッテル貼りですね。
deniirotwitter.publog.jp/archives/1059729090.html
子供に性的暴行するような親になるから止めときなよ。ここまでクズならパイプカットしたらいいよ。死ねば誰かが喜ぶような人生になりそう。
togetter.com/li/1004839
無知は害だな。動物飼育はもっと規制されるべき。野生動物をむやみに触ったり、特性を無視した飼い方で死なせるのはこういう手合いに違いない。子供を持ったら毒親になるタイプ。話を聞かないし理屈が通じない。
lite-ra.com/2016/07/post-2447.html
多様性ぃぃぃ....
news.livedoor.com/article/detail/11803286/
バラエティ見ない私知的!!でもこの記事はブコメしちゃう!!!
blog.kaerucloud.com/entry/fuck-adultcorner
https://www.buzzfeed.com/satoruishido/nippon-kaigi-3
こういう爺さんたち早く死に絶えないかなあ
政治家は死んでもいいらしい。
shukan.bunshun.jp/articles/-/6359
多様性を認める心はどちらへ...
www3.nhk.or.jp/news/html/20160710/k10010589891000.html
それでも自民には入れなかったけどね、民意がそうなら仕方ない。北朝鮮にまた一歩近づいたな。戦争はあと何年だろう。入れた人は、喜んでお国のために前線に行って欲しい。
自民党に入れると戦争に行かないといけないという古典的なアレ思想。
satoshi.blogs.com/life/2016/06/vote.html
投票したは政治家が裏切っても、あなたが投票したんだから自己責任!なわけですね。言いたい事は分かるがアプローチとしてはいまいち
えぇ...さっき自民党入れた奴は戦争行けって言いましたやん。
toyokeizai.net/articles/-/124699
えぇ...さっき自民党入れた奴は戦争行けって言いましたやん。
blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/52085633.html
www.news24.jp/sp/articles/2016/07/03/10334298.html
永田町あたりでよろしく
this.kiji.is/118531495104349687
いい加減この偏見どうにかなんないの。
www.imishin.jp/awful-pet-bottle/
本当にひどい、涙が出る。買わないこと、絶対に。
永田町でのテロの望んでいるのにオウムのピンチには泣いちゃうらしい。可愛い。
www3.nhk.or.jp/news/html/20160617/k10010559351000.html
怖い。
www.j-cast.com/2016/06/17269948.html
anond.hatelabo.jp/20160614023432
最善かどうかなんて分からない。何にでも言えることだけど。ゲイとおなべのあべこべ夫婦ってのもいたよね。いろんな形があっていいと思う
偏見の塊ながら、同性愛について善意的な意見は知的だと思っているらしい。
anond.hatelabo.jp/20160605143345
ないと思ってもおかしくないし、それでいい。産む人を悪く言う人はあまりいないが、産まない人を悪し様に言う子持ち多いもんね。そういう人が親になってる国ですから。
凄まじいレッテル貼り。
www.huffingtonpost.jp/2016/05/26/weekend-work-emails-illegal-in-france_n_10137938.html
日本とは正反対だな。さすがフランス先進国だ /時間外にねじ込む、脅すなど人の裏をかいたりセコい事をするのが前提の国柄と違うね
おフランスは素晴らしいらしい。何年くらい住んだことがあるんでしょうか?
b.hatena.ne.jp/entry/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160519/1463622587
流れ弾!
www.afpbb.com/articles/-/3087320
政治家の話は聞かないのに。
headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160511-00000087-nnn-soci
anond.hatelabo.jp/20160422143019
夫と出会ってなければ、今頃自殺したか誰かを殺していたんじゃないのと言われているので、出会いは大事だよねって思います。今でもレールには乗ってないけど刑務所と棺桶には入らずにすんでる
wwwww
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。
あのシーンはノートPCのインカメラを使って撮影するという、いかにも若手がやりそうな演出をアニメ映画とはいえベテラン監督がやっているのが、見ているこっちがこっ恥ずかしくて印象に残った。
シンゴジラ批評が盛り上がっているので、個人的に気になったことを…
見終わって、あちゃー、立った状態で逝ってしまわれたか、と思ったのは俺だけじゃないはず。だって、一応、放射性物質だから、あのあとコンクリートで覆うんじゃないの?あんな風に自立してたら超巨大建造物になるけど、そのデザインは一体誰が?ザハ先生がご存命であれば、たぶんすごいデザイン案が出ただろう…と本編後のことが気になっている。
せっかく凍結状態にしたのだから、生き返りでもしない限り爆破するようなことはないだろう。とすると死体の処理方法は、そのまま放置、周囲を覆う、解体して移動する、丸ごと移動する、の4つに絞られる。
まず放置した場合、東京で経済活動を続けることが難しくなる。福島原発事故のときのように、外タレが日本に来てくれないどころの話じゃなく、たとえ都市機能が維持できていても、人が集まらないので経済活動を維持できなくなる。
ではコンクリート壁で囲った場合、それで安心して人が集まるのかといえば、それも疑わしい。穴を掘って埋めるという方法もありがちだが、工費がかかるわりにメリットはそれほどないはず。
解体に関しては、怪獣の闇マーケットが存在するハリウッド映画であれば簡単なのだが、日本映画ではそうもいかない。あちらの世界ではキングギドラの肝とかモスラの糸が闇マーケットで取引されているんだろうが、こちらの世界だと「人間が手を出すとしっぺ返しをくらう」のが怪獣映画の鉄則だ。オカルト的ではあるが、無性生殖によって増殖したり、細胞から新たな怪獣が誕生するのがこちらの伝統である。つまり解体という選択を選んだら、おそらく続編は怪獣大戦争ルートに突入すると思われる。
では丸ごとどこかへ移動するとした場合、まず放射性物質なので国外へ持ち出すのは難しい。当然ながら国内にも受け入れ先はない。せめてお台場まで運ぶとして(ガンダムと並べたら価値がありそうなので)、それだけで国家予算並の費用がかかってしまい、その費用を別の目的に回したほうが良さそうだ。あるいは東京湾に捨てることも可能だろうが、復活する可能性を考慮すると実行しづらい。
こうして考えてみると、結構やっかいな難題である。おそらく政治家たちが遷都とか首都機能移転に夢中になりつつ、民意は翻弄され、マスコミは東京を守ろうとキャンペーンするような、どうしようもなく何も進まない状態が、後日談として妥当なセンではないだろうか。
ここで、この話は一気に残念な方向に向かう。というのも、シンゴジラのストーリーは核攻撃を回避したことでハッピーエンドになっていたのに、この後日談の推測では、その実態は「核攻撃されたのと大して変わらなかった」ということになるからだ。
話をまとめるとこんな感じになるだろう。
ゴジラが放置される。石棺による封印が検討されるが専門家の意見が別れる。あと石棺のデザイン案で揉める(頭だけ遠くから見えるようにしたら、新しいコマ劇の本物みたいで楽しそうだ)。都心から15キロ圏内は避難指示、30キロ圏内は避難勧告が出されたまま解除されない。首都圏の土地は大暴落する。逆に首都圏以外は土地バブル。急激な円安とインフレになる。不安心理から出生率が向上。首都機能移転が推進され、京都遷都が実施(京都民大歓喜)。9条が憲法改正される。ゴジラ対策を名目に核保有を宣言する。
怪獣映画というのは敵のいない戦争映画みたいなものなので、シンゴジラがどこかネトウヨ寄りになるのは仕方ないとしても、こうして想像すると果たしてあのストーリーはハッピーエンドだったのかどうなのか。
まあこういうのって、死体がしれっと消えるのが怪獣映画のお約束なので、深く考える意味はあまりないのだが、お約束に頼らない現実寄りのフィクションであるところにシンゴジラの価値があるとすれば、もし続編があるとしたらこうした後日談も描いてほしいところである。
2016年参議院選挙と東京都知事戦が行われた。参議院選挙での投票率は全体で54.7%、実に約半数が投票権を棄権した形だ。
都知事選の投票率は18時時点の速報ベースで35.8%とこちらも半数以下。
参議院選挙の投票率を年代別で見ると18歳51%、19歳39%、20代33%、30代43%、40代51%、50代61%、60代67%、70代以上58%と、18歳が善戦しているが、若者の投票率が低く、中高年の投票率が高くなっているのは明らかだ。
選挙を棄権することの意味が本当に分かっているのかと問い詰めたい。全て分かった上で、信念があっていかないならもう何も言うまい。ただし行かないやつに政策を批判する権利もないからな。国がどんだけ高齢者優遇、若者差別の政策とっても文句言うなよ。黙って甘んじて受け入れろ。選挙に行かない若者が多数なら、国は今後も高齢者優遇政策を推し進めるだろう。
私は予言する。私達が高齢者になる時、年金は破綻する。毎月何万も給与から天引きされてる年金基金だが、将来私達はそこから一円も貰えない。保育園に入れられず、育休からの社会復帰が出来ずリタイアを余儀なくされる人も減らないだろう。
「なぜ投票に行かないのか?」
周りに尋ねると「興味がない、忙しい、投票してもしなくても一票で結果は変わらないので行く意味がない、選びたい候補がいない」などの答えが返ってくる。そこに共通するのは圧倒的な当事者意識の不足だ。
貴方達の言い分もよく分かる。確かに本当に興味がわかないだろう。投票なんて5分で終わるが、デートに買い物に人生は忙しい。組織票が多いし、一人一人の個人の一票の重みが実感出来ないのもよく分かる。候補者はクソばかりだ、ゴミ箱の中からまともなゴミを選ぶなんて不毛だ、だって全部ゴミなんだから。
...本当にそうだろうか。こんな言葉がある。
「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが by 英国元首相ウィンストン・チャーチル」
こんなデータもある。衆議院のデータだが、一票の価値を360万とする試算だ。
「一票を「国家予算の配分を決める権利」だと考えること。政府の一般会計は約90兆円だから、有権者数を約一億人として、これで割ると、一票は年に九十万円。衆院議員の任期を四年とすると、360万円の価値ということになる。」
日本では選挙は義務じゃなくて権利と規定されている。だから行かなくても表面上はなんの罰則もないし、誰も貴方に選挙に行くことを強要できない。
でも覚えとけよ、お前らに政策の文句を言う資格なんてないからな。
待機児童問題にも、低所得者へのバラマキ政策にも、生活保護にも、例えポルシェを乗り回す裕福な高齢者であっても後期高齢者なら一律で1割しか医療費を負担していないことも、お前らは文句言う資格なんて無いんだからな。
一緒に心中してやるよ。選挙に行かず、結果として差別されることを自ら若者が選択するなら、民主主義社会ではそれを民意として受け止めるしか無いからな。正にチャーチルの言う通りだ。民主主義は今までの他の政治体制を除けば最低だ。
将来は食うものにも困りながら、汚い長屋で一緒に暮らそうぜ、江戸時代みたいで風流だろ?俺がお前のオムツを替えてやるよ、お前が俺のオムツを替えてくれ。
これまでどおり、コソコソ韓国に都の保育園用地を献上したり、首長でもない議員の分際で一人150万円✕20人あまりをかけて海外旅行を雁行したりしてもらってどうぞどうぞ、という方はノビテルさん率いる増田氏に投票されれば如何かと。舛添サン承認の意思表示みたいなもんダネ。
都有地を寄付っぽくしますよ、とひとことでも表明ないし民意に問うていたならこんなに腹立たしくは思わなかった。コソコソ、ってことが他にもたくさんあるんじゃないの?と自民・石原系への嫌疑がいまいち晴れない。
酷いニュースなのはもちろんだが、それよりもっとおかしいのはマスコミの報道姿勢。
一通り事件について報道した後、オリンピックや都知事選の話題に何のためらいもなく移っている。
19人も亡くなるという戦後最悪の殺人事件であれば、即特番が組まれるべきで、他にもバラエティ番組を延期するなど何かしらの自粛ムードが起きても不思議じゃない。
政府の対応も同じで、首相も役員会で簡単な声明を発表するのでなく、きちんと映像付きで被害者と遺族の方へのご冥福と、事件の真相究明について語って欲しい。
その一方で、なぜアメリカのケリー国務長官やプーチン大統領が映像付きで今回の事件に対し迅速に声明を発表しているのか、なぜ日本より海外のメディアの方が大々的に報道しているのか。
ひとつ仮説を立ててみた。
海外では障害者の方も「当然」人権を持っているという意識が根底にあり、健常者だろうが障害者だろうが19人の人命が失われた事実にフォーカスし、同じように報道し、哀悼の意を表するのに対して日本人はもしかするとその意識が欠けているがためにこんなに軽いマスコミや政府の対応になっているのではないだろうか?
「日本の記者がロジャー・フェデラーにインタビューしたときに「なぜ日本のテニス界には世界的な選手が出てこないのか」と聞いたらしいんです。
するとフェデラーは
『何を言っているんだ君は? 日本には国枝慎吾がいるじゃないか!』
と言った」
という内容。
これだけで全てを判断することはできないが、日本人が障害者を軽く見ているというひとつの例ではないかと思う。少なくとも欧米よりは。
障害者だけでなく、社会的弱者全体への意識が低くなっていないだろうか?風当たりが強くなっていないだろうか?
「マスコミは民意の鏡である」という言葉があるが、まさにこのマスコミの報道姿勢は自分たちの障害者や社会的弱者に対する意識を現しているものだと思うがどうだろうか?
そんな風に「絶対に日本人の過半数が支持するはずのない草案」であっても、
改憲賛成派が2/3とったら「これが民意です!」つって長時間かけて国会で議論するし、むちゃくちゃ税金使って国民投票するけど?
俺は必要経費だと思うよ。
これ以上緊縮を進めるなら国民投票なんて洒落にならないレベルでヤバイと思うし。
それなら国民投票で何百億か損する方がまだましだなぁ。
たとえば同性婚の妨げになってる「両性の合意」って言葉を「両者の合意」に変えるとか
時代に合わなくなってきたところをメンテするという方向ならぜんぜん賛成だなあと思ってた
でも自民の改憲草案があまりにも、あまりにもクソ過ぎてムリ!ってなった
そもそもあれ、「国民のあるべき姿を示す」とかいってつくってっからね。
憲法って国の作る法律や為政者に対する枷のはずで、そんなん中学の公民で習うはずなのに。
大筋いいけど表現をもうちょっと変えてほしいとかじゃなくて、作る立脚点がまちがってんだもん。
それでも俺は自民の改正草案がいいと思う!賛成だ!って人はいいよ、それはお互いの信条の違いだ。仕方ない。
あと、そもそも憲法にぜんぜん興味ねーっす、優先度めっちゃ低いっすって人も仕方ない。個人的には「能天気だな」と思うけど。
「自民の改憲草案はどうかと思う」って言ってる人が改憲賛成派の政党に投票する意味はまったくわからん。
「国民投票で絶対に却下されると思う。日本国民なめないでくれ」?
そんな風に「絶対に日本人の過半数が支持するはずのない草案」であっても、
改憲賛成派が2/3とったら「これが民意です!」つって長時間かけて国会で議論するし、むちゃくちゃ税金使って国民投票するけど?
あたりまえじゃん。ずっと前からアピールしてんだから、クソみたいな漫画とか作って。
あんたの投票行動は、「あの改憲草案が、国を挙げて議論するにふさわしい」ってお墨付きを与えるわけだけど。
比例で「民主」とだけ書かれたものを どの党への投票と見なすか、選管が判断に苦慮してるって報道見たけどさ。
まず、目の前に掲示されてる党名・候補者名すらマトモに書けないような人に、
自分と全く同価値の権利があるのもなんだかなと思うけど(正式名と明示されてる略称以外は無効にすべきでしょ)
他人の判断で、本人が例えば民進に投じたつもりだった一票が自民や社民への票になる(その逆も然り)なんてさ、
おかしくない?それはどうなのよ、多数決で民意を測る事にしてる民主主義的には。
そんな馬鹿の為に選挙費用かさんでるかと思うと本当に腹立たしいし。
毎度毎度同じ事繰り返しててなんで改善しようとしないのか、はなはだ疑問。
投開票の仕組みを変えようって話になると、
電子投票は不正がー!とか(やったこともないのにどうして分かるのかしら)
マークシートやパンチ方式は間違いがー!設備投資がー!とか さまざま言われるけど、
候補者名や党名のハンコを用意しといて投票用紙に押すようにすりゃよくない?
ハンコ代は手書き文字の判別にかけてる人件費を思えばペイできると思うんだよね。
鉛筆を卸してる決まった企業があるのか、つまり既得権益なのか知らないけど、
文具メーカーだったならハンコも作ってたりするんじゃない?
それでゆくゆくは完全に機械での自動判別による集計にして作業員を大量削減。
どうよ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34800
雑な字で書かれた何かのアンケート回答みたいなものをチラっと見ただけなんだけど、割と胸に落ちる事言うなと思った。
もちろん実質的に誰かしらが立候補しなきゃ選出が叶わないようなシステムにはなってるんだけど、
口ではみな違った事言うんだけど、マニフェストは反故にされても別に構わないみたいな風潮だから、結局言葉も信用できない。差がわからない。
重責ある立場に立っても堂々と私腹を肥やし、いざバレればその言い逃れに終始して一向に辞意を示さず、議会も民意を反映したリコールすら行わないまま、ただいたずらに時を浪費し本人の自主辞職待ちをするしかない、民主主義が完璧に機能していると断言しづらい権力構造。都知事がみなこの謎システムに守られるのであれば、たとえ誰が都知事になっても一定のヤンチャは必ず許容され得ることになる。差がわからない。
テレビや新聞は政治の結果で景気が上昇傾向にあると伝えるけど、一個人の立場からすると給与は変わらず税と物価は上がっただけで、景気の上昇も感じられず、政治路線の差がわからない。
結局、政治家という立場がおいしいから立候補してくるんでしょう?と見えてしまう。
給与も少なく印象も悪く外圧もひどくて激務のような、政治家がおいしくない立場にでもなれば、立候補してくる人間を信用することもできるんだが。
ステイツの大統領選挙において、共和党主流派は指名争い首位のトランプ氏に否定的だそうだ。主流派とはいったいなんなのかさっぱりわからないのだが、主流派には民意とのずれが理解できず、自分たちを主流派だと自任している認識がそもそもも誤りなのだろう。
トランプ氏の一連の発言、政権公約とそれに対するステイツ国内の反応をみるにつけ「虐殺器官」を思い出す。明らかに、今アメリカ国内は虐殺の文法によって支配されているように見えるからだ。また移民の構成比率から見ても、彼の唱える政策/施策が実施された場合には、内乱に近い状態に向かうのではないかとの懸念に同意しやすい。かの御仁の移民政策に反対する当事者、移民たちが抗議活動から暴徒となることはこれもまた想像に易い。
現場にいるわけではないのだが、そういう「空気」なのだろう。この空気を作ったのは、まちがいなく言葉だ。極めて低コストで言葉が流通する時代になり、あっさりと虐殺の文法が成立したように見える。
引いて、日本国内においても虐殺の文法は機能している。日本人向けの虐殺の文法は、自殺の加速だろう。そうやって、今、本当に虐殺器官が機能しだしたのだ。
あらかじめ身分を明かしておくけど、私は東京の美大(デザイン系学科、そこそこ有名)に通っている学生。
去年の夏頃からモヤモヤした思いがあったけれど、今やっと自分の中で整理がついたので書きたい。
まず専門的な知識がある(又は勉強している)人間から見たら、あれら4つは全部ダメ。
オリンピックにおけるデザインの機能っていうのは、一つは『情報をきちんと人に伝達すること』。
エンブレム候補、1cm四方に印刷してみろ、ほとんどの線が細くて消えちゃうし、なにがなんだかわからなくなるだろうが。
オリンピックって巨大なイベントなんだよ。エンブレムがでっかい垂れ幕とか巨大なスクリーンだけに表示されるって保証はないわけ。
ちっちぇえチケットだの、スポンサーのチラシだのに印刷されたり、クソ解像度の低いスマホのディスプレーに表示されるかもしれないだろ。
その時にきちんと「東京オリンピックに関する情報だな」ってわからねーとエンブレム失格なんだよ。バーカ。なんだこの細い線だの、ちっさい要素は。
後もう一つの機能は、『大会全体の視覚的な表現を、一つに統一して世界観をつくること。』
これらのエンブレム候補がCMになったり、ポスターになったり、看板になったりしていく姿を想像できるか?せいぜいエンブレムをパーツに分解して模様にできるくらいだろうが。
それに、そういう展開に関することを、作った本人たちはほとんど考えてないだろうな。この感じだと。コンセプトも全部エンブレムにしか当てはまらないことだし。
デザインコンセプトを必要としてるのはエンブレムだけじゃないんだよ。大会の視覚情報全部なんだよ。全部。
大会全体のすべてのヴィジュアルな部分を(CM、ポスター、会場の看板、チケットに至るまで全部)一つの世界観でまとめられて始めて、デザインとしての機能を満たしたっていうんだよ。
この2つめの機能がしっかりとしてないと、映像とかポスターとかを見て人が感動したり、グッズが売れたりしないし、観客とか選手の精神的な高まりとかもなくなっちまうんだよ。バーカ。
だいたいエンブレムだけ公募で考えさせてどうすんだよ。オリンピックに施さなきゃいけないデザインってエンブレムだけじゃないだろうが。
グッズだって出すし、テレビCMだってポスターだって作るだろうが。Tシャツとかの端っこにちょこんってエンブレムがくっつくだけでグッズ展開完了ってか。ふざけんな。そんなの誰が欲しいんだよ。
大会全体のデザインコンセプトが、すべての視覚的な表出物に、適応するように、俯瞰して考えられてから始めて、デザイナーとして立派なんだよ。
なんだよあの候補は。エンブレムのことしか考えてねーじゃねーか。一個一個の意匠が小綺麗だったりするだけじゃ、だめなんだよ。もっとオリンピック全体で考えろよ。
チケットにだって、会場の壁面にだってテレビCMにだって、ポスターにだって、デザインを施さなきゃいけねえんだよ。こんなエンブレムだけにおさまっちゃってて、展開性のないもんが使えるか。バカ。
あと何度も言うけど、デザインは“機能”なんだよ、“機能”。おまえらの考えるお絵描きとはわけが違うんだよ。
「私はこっちが好き〜」とか「俺はこっちが好きかな」とかどうでもいいんだよ。おまえらの感想を聞きたいんじゃないんだよ。機能的なのか否かで判断しろや。バカ。
だから、デザインっていうのは誰でもできる活動ではないんだよ。美大のデザイン科では好き勝手に絵を描いてるわけじゃないんだよ。
デザインがどうすれば十全に機能するかを学んでるんだよ。それは経済学部が経済学を学んでいたり、工学部が工学を学んでるのと同じことなんだよ。おまえらの考えるアーティスト像と一緒にすんな。
だから、デザインが機能的かどうかっていうのはプロにしかわからねえんだよ。私はまだ半人前にもなれない身だから、そういう判断を完璧にできるほどの能力はないけれど、そういった判断がプロにしかできないってことぐらいは確信持てるわ。
ネットの奴らもテレビの奴らも組織委員のやつらも、プロの仕事、キャリアをなめすぎなんだよ。本当に。
今の状況って、歴史に残る大イベントの設計の仕事を、素人・アマチュアに丸投げしてるってことなんだぞ。そのことわかってんのか。バカ。
これって、セレブリティーのためにつくる重要な料理のメニューを、クックパッドで決めたり、ジャンボジェットの運転を、「フライトシュミレーターで遊んだことあります〜」とか言うそこらへんの飛行機マニアに任せたりするようなもんだろ。
だいたい、なんでエンブレムの審査委員長が芸大の元学長なんだよ。あの人、金属工芸家だろうが。芸大のトップだったからってデザインがわかると思うなよ。
それにスポーツ選手が審査員の中にいるの本当目を疑ったわ。なんなのあれ。別に芸大の元学長は工芸のトップレベルの人物だし、スポーツ選手たちもトップレベルのスター選手なんだけど、デザインのことは何がわかるんだよ。
「なんとなくこっちがいいかな〜」とかしか言えないだろうが。逆にスポーツの監督をデザイナーがしてたり、工芸についてデザイナーが教えを垂れてたら、絶対怒りだすだろ。絶対。
あと感情任せにいい加減なポストするネット民も本当なんなんだよ。お前の好き嫌いとか本当にどうでもいいんだよ。感情で話すなよ。論理で話せよ。論理で。バーカ。
前のエンブレムも、感情で言ったら私だって好きではなかったけれど、論理(著作権法等の法的観点)からいったら全然セーフだったじゃねーかよ。だから私だってあのエンブレムのままでよかったと思うよ。
それに、一番やばいのは論理的な観点を置き去りにして、感情的になった民意(笑)にまんまと動かされちゃった組織委員会の人たちだよ。そんな非論理的なことで、大イベントのこと決めていいのかよ。バーカ。
マスコミだって、なに「ネットで探しました〜☆」みたいな情報ばっか報道してんだよ。コメンテーターの「私は招致の時のエンブレムがいいと思います〜♡」とか聞いてねえんだよ。感想ばっか言ってんじゃねえよ。
なんかもうここまでくるとオリンピックなんかどうでもいい。やめちまえよ。
感情的になって、こうやって書き留めるだけでそれをはらそうとしている、未熟な自分もバーカ。バーカ。
みんなバーカ。
バーカ。バーカ。バーカ。
「保育園落ちた日本死ね!!!」の増田がもたらした衝撃は様々な人々に直撃した。私はこの増田が国会にまで取り上げられたことが衝撃的だと思う。なぜなら、政治の流れの向きが真逆になったからだ。
日本をはじめ多くの国家が採用している間接民主制の政治というのは、まず市民の要望がありそれを解決する人を支援して議員になってもらう、というのが基本だ。
しかしこの増田を取り上げた政治の流れを見ていると、まず議員がいて市民の要望を取り上げる、という流れになっている。これは、政治を行う『権力者』がまず存在して恣意的に民意を取り上げているという点において、前時代に行われていた君主制と構造的な差異がない。それが政治の流れの向きが真逆になったということであり、これは現代における間接民主制への反逆だと言って差し支えない。
しかし、一見民主主義にそぐわないように見えるこの件は、ネット時代の民主主義政治の萌芽ではないかと私は感じている。
この、まず議員がいて市民の要望を取り上げるスタイルは、市民の要望によって議員が選出されるスタイルと比べて、圧倒的に有利な点がある。それは、早さだ。
今回の件は選挙という民主的プロセスを経ずに国会へ上がった。つまり、選挙によって本当に民意なのかを問われる時間がまるまる短縮された。これは従来の民主主義的価値観からすると批判されてしかるべきことだが、一方でその迅速な面は評価すべきだと感じる。
インターネットというのは情報の伝達速度を非常に早めた。そのネットの特性である早さが政治の場でも現れたのが今回なのだ。
ネット時代の新しい民主主義政治が生まれるとしたら、この早さを生かすものになるだろう。
しかし、今回の件をそのままネット時代の新しい民主主義の成功例とするのは尚早すぎる。
今回挙がった声は選挙によって民意であるかどうかの審問を受けないまま国会に提出された。それを許しては民主主義政治は成り立たない。
しかしここで問題なのは、選挙を通ったか否かではなく、民意であるかの審問を受けたか受けなかったかだ。選挙はあくまで民主主義を実現するシステムであり、民主主義そのものではない。民主主義であるかどうかは、民意によって政治が決定されるかどうかだ。
今の民主主義システムでは民意を定めるために選挙という手段を使っているという話であり、民意を定めることができるなら選挙という手段に拘泥する必要はない。
ここで、インターネットから挙がった声を民意である、と定めるシステムが作れるとしたら。それがネット時代の新しい民主主義である。
そのシステムがどんな姿になるのかは、今の私には想像もつかない。ただ、そのシステムが作られたとしたら、予想できることは幾つかある。
まず、議員のあり方が変わる。現在の議員は民意の代表者であるが、それが単に民意の代行者となる。どういうことかというと、議員はまず何らかの方法で選出され、本人の政治的主張とは関係なくインターネットによって定められた民意を実現するだけの存在になるだろう。
そして、政策の短期化といった問題も出てくると考えられる。民意の実現がスピード化されるのならば、朝令暮改を防ぐのが難しくなるだろう。それ以外にも、目の前の問題をスピード解決できる手段が与えられた時に、自分の三世代以上後のことを考えて意思決定できるのかという問題がある。
最後に。そもそもネットによって民意を定めることは本当に可能だろうか?
今回の件だけでも、保育園は必要だよ派から保育園いらないよ派まで様々な意見がある。これらの声をまとめ上げるのは不可能だろう。
つまり現状と同じく、どこかで線を引いてここまでは民意、ここから先は民意ではない、とみなすことが必要とされる。その線引きをどうするのか?現状の選挙制と同じく票数で線引きをするべきだろうか?
だが、ネットには荒い人の声が大きくなりやすい炎上という性質がある。今までのように単純に票数で決めることは難しいだろう。
少なくとも言えることは、まだまだ時間をかけてネットというものの性質を観察する時間が必要であるということだ。我々がネットに接し始めてからまだ大した時間は経っていない。
もしかしたらその結果、ネットを用いて民意を定めるのは不可能という結論が出るかもしれない。
しかし、私たちは感情に煽られ炎上を繰り返し続けるほど愚かなのだろうか?
そうではない、と私は信じたい。
われわれ働く増田の会は、日本の保育園によって育てられ、いわば日本の保育園はわれわれの父でもあり兄でもあり、母でもあり姉でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的発言に出たのは何故であるか。
かえりみれば、幼きわれら増田は3年、あるいは保留児となったかも知れぬ過去を父母の加護により隠蔽し、入り得た保育園で一片の打算もない教育を受け、またわれわれも保育園を愛し、もはや園の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに先達の知らなかった豊かさを知った。ここで流したわれわれの涙は山川純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に園の庭におしっこした。このことには一点の疑いもない。われわれにとって保育園は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。保育士諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、保育園を愛するが故であると私は断言する。
われわれは失われた二十五年の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、保育の大本を忘れ、保育園精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は森元らに転がされ、五輪紋章の汚辱は払拭されずにただごまかされ、保育園卒園者すなわち日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
われわれは今や保育園にのみ、真の保育、真の保育士、真の保育再興の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、待機児童の現状は自治体および日本国の行政不作為が問われる状況にあり、国の根本問題たるべき待機児童が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、待機の語義を永遠の諦めにすり替えることによって、親となった増田たちの魂の疲弊、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき保育が、早期解決すべき待機が、実質を重んずべき一億総活躍の美名が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。保育園は元号を平成に変えてから国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。待機は待機の本義を与えられず、女性活用も一億総活躍もその対象も明確にされなかった。われわれは失われた二十五年のあまりに永い保育園の眠りに憤った。保育園が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。保育園が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、保育園が福祉の本義に立ち、真の男女均等となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。しかるに、誤って目覚めたのは宮崎であった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。地方行政は自らは何もできぬという。しかし行政に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には増田らの民意からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的保育園の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、保育園行政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする保育園は魂が腐ったのか。ゆりかごから墓場までの理想はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な遊戯所になって、どこかへ行こうとするのか。
われわれは二十五年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。保育園を真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。次世代の生命以上の価値なくして何の保育園であり一億総活躍だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。保育だ。われわれの愛する歴史と伝統の保育だ。これを骨抜きにしてしまったこの国に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に勃ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の増田として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
増田 公威
聞けい。聞かぬか。そうか。