はてなキーワード: アウトラインとは
最近、ギターのチューニングが合うとか合わないとか言って、軽くバズってた記事あったじゃないですか。
まあ、わざと突っ込みどころの多いトンチンカンな話をダラダラ書いて、突っ込んでもらうことでアクセスを稼ぐスタイルだろうと。
狙いなのか素なのか、判断が難しいケースもあるが、知られたローディーに知り合いがいるような人が、わざわざネットで記事にするようなケースは狙ったと見て良いのではないかと。
誰かを傷つける内容ではないとしても、トンチンカンな話に真摯に反応したブクマカなんかは、あとから気づいたらやっぱり愉快ではないと思うのですよ。
そうした行為は傍から見ていても不快なので、何か抑止力がほしいなあと思い、まずは名付けが良いのではないかと思った。
名前が無いといちいち説明することになり、説明する-説明されるという「事象の受け渡し」に結構なエネルギーを必要とするため、拡散が難しい。事象を端的に表す名前がついてしまえば、その事象を理解しやすくなるし、別チャネルで拡散した同様の事象(のアウトラインや概念)を再利用することも容易になる。
http://anond.hatelabo.jp/20150901175700
>あの写真は、おそらく審査員向けの内部資料(カンプ)であって、本来表に出るものではありません。
内部資料であれば他人の著作物を勝手に使用してよい、と言う制限には日本著作権法はなっていません。
著作物「そのもの」を使用する場合の検討過程における使用ならば問題無い、という条文(30条の三)はありますが、今回の場合はエンブレムの使用例として原作を改変しているので二次著作(27条)の許諾が必須です。
これが例え佐野氏の会社の内部資料であっても同じです。本来表に出ないというのは関係ありません。
表に出ないという抗弁が認められるのは、家庭内かそれに準ずる範囲(30条)、のみです。
ところで、著作権法第 三〇条によれば、著作物は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲 内において使用することを目的とする場合には、その使用する者が複製することが できる旨が規定されているが、企業その他の団体において、内部的に業務上利用す るために著作物を複製する行為は、その目的が個人的な使用にあるとはいえず、か つ家庭内に準ずる限られた範囲内における使用にあるとはいえないから、同条所定 の私的使用には該当しないと解するのが相当である。
今回の事例での抗弁で残る手段は五輪は行政事業だという事で、行政における目的を持った内部使用(42条)という手があるのですが、これもそもそも改変された二次著作物の時点で無理です。
>予算は変わらず、でも資料に使う写真までオリジナルで作って、と言われたらほとんどの会社潰れると思います。
他人の著作物を使用するのであれば、著作権者に許諾を取ればよい話です。
20代デザイナーです。普段は業界の末端にてWEB以外の商業デザインなどしています。
今回の件、誰もちゃんと内容が分からないまま話が進んでいるのがモヤモヤするので、簡単にまとめようと思います。
個人的に今回のエンブレムの感想を書いておくと、震災があった中で、それでも前に進もうとする強い意志、円を基調とした設計に前回の東京五輪への深い尊敬が見える、力強くいいエンブレムだと思いました。まあ、原案は円関係ないんかい!とも思いましたが。
一応僕もデザイナーなので少し偏った見方があるかもしれませんが、どうか生暖かい目で読んでいただけたらと思います…。
◼︎そもそもアートディレクターとは
まず、アーティストとアートディレクターについて誰も区別がつかないまま話が進んでいるのが怖かったので簡単に説明しておきます。アートとデザインの違い、となるとそれは永遠に答えが出ないと思いますが、「アートディレクター」はあくまでも「アート」部分に関する「ディレクター」であって、別に絵を描いたりする人ではありません。
さらに上の「クリエイティブディレクター」という役職の人が映画のプロデューサー的な立ち位置でしょうか。どんな作品にするかの意思決定をします。
そしてそれをもとに、「アートディレクター」という役職の人が、どのような形でそれを表現するか決めます。これは映画でいうと監督でしょうか。監督がセットを作ったり、メイクをしたりはしませんよね?
さらにそれをもとに、イラストレーターが登場したりカメラマンが登場したりしてデザインの素材を作ります。(素材という言い方は彼らに失礼ですが…)
さらにさらにそれらをまとめて、部下のデザイナーが画面やアイテムに落とし込みます。アートディレクターはそれを見て「こうじゃない」「それいいね!」など意見します。自分で手を動かすこともあります。
という訳で、本来、アートディレクターという立場は一人で何か作品を作るものではなく、チームを引っ張って、その案件を商業的に成功させるための監督のような立ち位置です。
◼︎トートバッグについて
エンブレムは「佐野研二郎」名義のもの。トートバッグは「MR.DESIGN」名義のもの。エンブレムはおそらく、会社のスタッフは関わらず一人で作り上げたのでしょう。これは一旦置いておいて、トートバッグの無断転用はどう考えてもNGです。
先ほどの例えで言うと、本来はイラストレーターやカメラマンにお願いして新しく作ってもらうべきですが、他人のものを無断で使用してしまった。
これは、佐野研二郎さん個人というよりは、「MR.DESIGNのアートディレクター」としての責任です。部下のデザイナーのやったことを見落としてしまったのか、内情は分かりませんが、きちんとした対応が必要な部分です。
(同じ業界の人間としては、好きでパクったりはしないだろうと思うので、それくらい激務だったんだろうなあ…と同情してしまう部分もありますが…。アニメーター問題に近いかもしれませんね)
◼︎エンブレムについて
問題は、今回のエンブレムや、動物園のロゴなど、「形が似ているからパクリ」とされているものに関してです。実際佐野さんがパクッたのかどうかは分からないので置いておくとして、この流れを放置するのはまずいことです。
美術の学校ではロゴデザインについてある程度同じ教育を受けていますし、同じ時代に生きていれば同じセンスを共有しています。そしてデザインを志すような人間の視点は基本的に近いと思うので、たとえば、「アルファベットのAを簡略化しろ」と言われたら、多くの人が「△」を思い浮かべると思います。実際、アルファベットのAを三角で表現したフォントはたくさんあります。
つまり、パクリでなかったとしても、偶然同じ形になってしまうことはたびたび起こります。
チェックを入念にしたとしても、シンプルな形の組み合わせであれば、何かしら似ているものは見つかってしまうでしょう。
もちろんその中で独創性あるものを追求するのがデザイナーの仕事ではありますが、
「形が似てるものはパクリ」となると、僕たちはともかく、10年後、20年後のデザイナーは何も作れなくなってしまうのではないでしょうか?
また、今後パクリ疑惑をかけられるのを恐れて、いろいろな要素を組み合わせた野暮ったいデザインが世の中に広まっていくのだとしたら、そのはどこかで止めなければなりません。
そうなったとき、何がパクリ/オリジナルの判断基準になるのか?
出来上がったデザインをどう守ればいいのか?
これが今回出てきた一番の問題です。
◼︎コンセプト
「コンセプトが違うので盗用ではない」という言葉を何回も聞いて皆さんは死ぬほど不信感を持っていると思いますが、実際のところデザインにはコンセプトが存在します。
まあコンセプト全くなくていい!かわいい!おしゃれ!という世界もあります。
しかし、五輪エンブレムや企業エンブレムなど、これから何年も使われるものに関しては、流行りや気分に左右されない、柱となるコンセプトや設計が必要です。
ここがややこしいところです。
多くの人にとって、美術やデザインというのは「学校の副教科」でしかありません。副教科では、「カラフルで自由にのびのびと描いてね!」くらいしか言われないでしょうし、美術やデザインに対する認識がそこで止まったまま大人になってしまうでしょう。
(少し逸れますが、本来美術の授業は、美術が好きな子のためにあるというよりは、いつかクライアントになるかもしれない子たちが、「作品はそんなにすぐにはできないし、手間もかかる」と自らの手で実感するためにあるのかなと思います。)
「本当にコンセプトなんてあるの?適当にやってるんじゃないの?」
「数時間で適当に作ってくれればいいから!」「無印みたいな簡単なデザインでいいから!」
これらは、デザイナーや僕が舐められているというよりは、本当にデザインについて知らないから起こってしまうすれ違いなのかなと思っています。「好き勝手作ってお金もらえて、楽な職業だな」くらいに思われているのかもしれません。
デザインにも歴史があり、多くの人が様々な技法や設計を編み出してきました。
それを僕たちは何年もかけて迷い、悩みながら勉強しています。少なくとも、そういった先人たちやデザインそのものを小馬鹿にするのは止めてほしいです。
ただまあ、僕もいきなり「やっぱりオゴペ料理のハンヌスはフラッペンよりピテポが合うよね〜」とか言われたら何言ってんだコイツと思うでしょう。もっと分かるように説明しろよ、と。
デザイン業界の一部には「どうせクライアントには言っても分からないから押し通そう…」とか、カタカナ語を多用しすぎて主張が意味不明な人もいますが、そんなことやってないで、精一杯説明して伝えないと何も始まりません。これからはもっとわかりやすく、丁寧に伝えていく必要があるのでしょう。
エンブレムだけ作れる人ならたくさんいますし、「それっぽいもの」なら誰でもすぐに作れてしまうと思います。ただ、実際それに決定されたとして、会場のインフォグラフィックだったり、全体のポスターだったり、広告だったり、グッズだったりへ落とし込む際の監督をその人ができるか?という問題が出てきます。結局その監督を誰か雇うなら二度手間になってしまいます。だからこそ、国内外で活躍しているデザイナーに絞ってコンペを開催したのでしょう。そして、その案の中で佐野さんの案が最もイメージの湧きやすい提案だったのではないでしょうか。
たとえば「名刺を作るコンペ!」やランサーズなどの簡単なコンペなら繰り上げでいいと思いますが、仕事のコンペって「誰に任せるか」を決めるものでもあります。全ての提案を見た上で、「この提案をした人にどうしても任せたい!」と決まったのではないですかね。「エンブレムを決める」というよりは、「提案を見て、オリンピックデザインの監督を決める」コンペだったのでしょう。
◼︎写真盗用について
今回、会場での使用イメージに使った写真が無断転用だという話題が出ました。
あの写真は、おそらく審査員向けの内部資料(カンプ)であって、本来表に出るものではありません。
だから転用していいという事にはなりませんし、クレジットを意図的に消したのもいけなかったと思いますが、クライアント向けの内部資料まで1からオリジナルで撮影している代理店やデザイン事務所はほとんどないでしょう。
広告の雑誌で売れっ子アートディレクターを特集した記事などでは、カンプにモザイクがかかっているのをよく見かけます。予算は変わらず、でも資料に使う写真までオリジナルで作って、と言われたらほとんどの会社潰れると思います。
この内部資料に使う素材に関しては、業界全体が考え直さなければいけない問題です。外には出ない資料だとしても引用元は明記するなど、なにかアウトラインが欲しいですね。
まあ実際どうだかはわかりませんが、全体的に業界は人手不足だと思います。
で、やっぱり一緒に仕事をするチームはいつも同じになってきてしまいます。
それは、デザインが「ロゴ作って終わり!」というものではなく、人と人とのコミュニケーションの中で作っていくものだからです。全く知らない奴が急に飛び込んでくるより、お互いがよくわかっているチームで仕事をしたほうがやりやすいのは間違いないです。これにはいい面もあるし、悪い面もあります。
そういう信頼関係が何十年も続いていったのが今の業界なのかもしれません。そしてそれを利権と呼ぶのかもしれませんが、賞やコンペに関しては公正は保たれているように見えます。
今回の件、個人的には、「この人は、僕が作ったものが何かに似てしまっていたら、手の平返して袋叩きにしてくるんだろなあ…」という目線で交友関係を見直すことができました。
と同時に、「◯◯くんはパクリなんかしないだろうから信頼してるよw」というような声もいただきました。その言葉は、今回の擁護騒動そのものを表していませんか?他の大御所デザイナーも、きっとそれと同じ気持ちで彼にコメントしていました。
◼︎まとめ
精一杯努力して作ったものが誰かに気に入ってもらえると、何より嬉しいです。
しかし、ずっとここに居たせいで、おかしなことを常識だと思い込んでいたり、「こんなの説明しなくても分かるでしょ…」なんて思ってしまったこともあります。
片っ端からデザイナーを叩いたり足を引っ張り合うのも結構ですが、そうではなく、何がダメで何がダメじゃなくて、これからどうしていけばいいのかを真剣に話し合わないとどこへも進めません。デザイナーはデザイナーで、もっと色々なものを公開して、説明していく義務があると思います。
僕たちの世代は生まれた時にはもう不況で、経済がおかしくなったり震災があったり、ずっと踏んだり蹴ったりでした。そんな中で、生まれて初めて舞い込んだハッピーかもしれないニュース、東京オリンピック。これがこんなに荒れてしまったのでは本当に悲しいです。
「こんなの俺でもできるじゃんww」という方、どうかデザイナーになって業界を助けてください。これから先、今まで以上に大変な道が待っていると思います。
嫌になることばかりですが、それでも人を信じてコツコツ頑張っていこうと思います。
いくつかの原稿を平行して執筆しようとしている。今までは何とか凌いてきていて、現在締切直前というものはない。締切無しの原稿もいくつかある。しかし業務上コマは進めねばならない。そう思って PC 上で原稿ファイルを開く。しかし何故か怖くてそれを見ていない。気付くと別のウィンドウを重ねて見えなくしてしまう。またそれに気付いて原稿の画面を表にするが、やっぱり見ていない。とにかく自分の書きかけ原稿を注視・精読できない。以前の増田でみた『ひと鍬入れる』みたいのが全然できない。ただ自分が恐怖心を感じていることだけは理解できる。
締切が近づいてくると別の恐怖心が芽生えてきて、やがてそれが原動力になって結局は完成することが多い。今まではそんな感じでやってきた。しかしこの戦法はメンタルへの負荷が大きすぎるので、何とか平常時から向き合えるようになりたいと思っている。思っているが実践できない事が多い。
実際のところ、こういう時の心理状況が理解できない。自分の感情なのに分からない。いったい何に怯えているのか。原稿を完成させるまでの道のりに恐怖しているのか。筆が止まることを恐れているのか。自分の能力のなさと対峙するのが怖いのか。これらの考察はどれもイマイチしっくり来ない。恐怖心の源はもう少し違うことのような気がする。しかし分からない。
また、よく進む原稿とまったく進まない原稿とあって、この恐怖心も均一ではない。自分の知識量とか見通しのよさ等によるのかもしれない。確かに見通しのたつ原稿は書きやすいような気がする。そう思ってたった今アウトラインに注力しようと考えてみたが、ものすごい勢いで脳みそが拒否してくる。いったい何なんだ…。
物書き、絵描き、音楽家、その他自分自身で考えて作品を仕上げていくような仕事をしてる方、なんでもいいのでアドバイスいただけませんか。何とかこの状況を打破したいです。
「大阪クラシック」は、毎年9月、大阪の梅田・心斎橋エリアの各所で1週間にわたって開催されるクラシック音楽のイベント。無料主体のコンサートが1日に10〜15公演行われる、かなり大規模なものだ。
演奏者は主催の大阪フィルハーモニー交響楽団(以下大フィル)の団員がメインだが、数年前から関西フィルや大阪交響楽団など他団体も参加している。
こちらが大フィルのサイト内に設置されている今年の公式サイト。
http://www.osaka-phil.com/oc2015/
トップの日付の部分から各日のスケジュールにアクセスできるが、
http://www.osaka-phil.com/oc2015/schedule.php?d=1
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000316941.html
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/cmsfiles/contents/0000316/316941/20150906.pdf
「テキストデータが無い」ということは、音声読み上げブラウザやスクリーンリーダーを利用している視覚障がい者にとっては「情報が無い」と同じこと、というのは誰にだってわかることだ。
音楽を大きな楽しみ、慰めとしている彼らから、よりによって、「音楽」イベントの情報が遮断されている。しかも大阪市や大フィルという、公共性の高い団体の主催する催事で!
前提として、誰が悪いという問題ではない。事象に良いも悪いもない。善悪を決めるのは立場と概念である。
うつ病は、患者もそうだが、その患者を引き取った家族にも多大なストレスとなる。特に患者が一度独立し、その後うつ病にかかり失職し、実家で引き取る事になった場合などは顕著であると思われる。
家族と患者の間でまず必要になるのは、両者の間で”うつ病についての”コミュニケーションを再構築する事である。家族は強力な共同体だが、それは生活の上での話であり、病気とは別だ。生活はツーカーでいけても病気となれば話は変わってくる。この両者を混同し病気についてのコミュニケーションを疎かにすると、両者の間に溝が生じ、最終的に相互不信の状態に陥る。家族の側から見ると「何を考えているのか分からない」「どう動いているのか分からない」、患者の側から見ると「どうせあいつらは自分の事など分からないし、分かろうとする気もない」となる。著者は実際そうなりかけている(と思っているのは著者だけの可能性もある。この場合は一方的な不信となるが、この状態が良いはずなどない)ので、以下に「あの時こうしていれば」と感じた事を書く。
1.病気についての知識を共有する。
患者は、家族がどこまで自分の病気を理解しているのか不安を持つ可能性がある。患者を含めた家族全体が、病気についてどのように理解しているのかを共有することは重要だと考える。可能であれば、患者の主治医などから、患者を交えて、その病気がどのようなものであるかのレクチャーを受ける。この時点であわてて本やネット上の記事を読んで知識をつけることはお勧めできない。重要なのは共通した認識を持つことなので、情報源は統一することが望ましい。仮に患者にとって最も大きい権威が主治医で、主治医と本の主張に食い違いがあった場合、患者は主治医の意見を信じるかも知れない。家族は本の主張を信じ、患者は主治医の主張を信じる事になると、ここにリスクが発生する。かと言って本を読むなという事ではない。後述。
2.患者の病識について共有する。
患者には自覚症状と、非自覚症状が現れる。著者の場合は、一時期ひどく怒りっぽくなっていたそうだ。そんな自覚はないのだが。一方、自覚症状として死にたいという気持ちが常につきまとっている。数年前に突発的に襲われ、その時は何とかやり過ごせたものの、以後延々とくすぶっている状況である。当然ながら家族には話していない。自殺のための道具一式を買い集めていつでも実行できるようにしている事も家族は知らない。書き出してみるとそこそこ危険な状態かもしらん。このリスクは、患者の病識を家族間で共有することで軽減することができる。(1)をクリアしていると、患者としても自分の状態を話しやすくなる――「家族は病気についてどこまで分かっているのか?」と疑問を抱えている状態よりは。理想は日常会話の中で患者側から「最近はこんな感じ」と言えるようになる事である。ここを誤ると患者はウソをつくようになる。
3.主治医と接点を持つ。
治療を医者と患者だけの中で完結させてしまうと、家族からは現状が見えにくくなる。また、患者と医者のやりとりもルーチンワーク化する可能性がある。毎回である必要はないが、数回に1度は患者に同伴し、どのようなやりとりの中で治療が行われているかを知ることは有益だと思う。患者の前で言いたくない事が出てくるかも知れないので、その場合の相談先(患者の診察日時とずらして主治医に会えばいいのか?あるいは別の相談先が用意されているか?)を確認し、患者にも伝えておく。患者に予告なく主治医に会いに行き、後になって「先生に会ってきたんだけど」という行為は、特に日頃から全く診察の同伴をしていない場合、患者にダメージを与える可能性がある。
うつ病患者に「がんばれ」は禁句とされるが、「がんばれ」の音の組み合わせがNGワードなのではない。文脈の問題である。上記をクリアすることで、患者に接する際のアウトラインくらいは見えることを願う。この希望的観測を前提とすれば、わざわざ項目を設けて書く必要もないんですけどね‥‥。ともあれ、無駄な所に気を遣って家族側が無意味にストレスを溜める状況をある程度は軽減できるかも知れない。できるといいなあ。
この記事もそうだが、結局のところ重視するべきは、著者の名前と肩書きしか見えない本でも、もっともらしく書かれているネットの文章でもなく、直接顔を見て会話をする人間である(その人間に治療を任せられるか否か、という所まで含めて)。ある問題に対して多角的にアプローチすることは有益だと思うので、本などを読んで疑問に思った事はどんどん主治医にぶつけていいと思う。(1)で本に待ったをかけたのは、情報が固着している本などでは状況に合わせた柔軟な対応が不可能だからである。「本を読んでだいたい分かったし、先生に会っても話す事とかないし、病院は患者だけで行ってもらえばいい」と思考が進むと、患者は自分の病気に関心がないと受け止める可能性がある。
以下は実際に著者が経験したトラブルである。ほぼ愚痴に近いかも知れない。
a)快方へ向かったフリをする
患者は「いきなり転がり込んできた厄介者」であることも「今後の人生設計を破壊した」ことも「大きなストレス源」であることも、百も承知している。したがって「早く良くなって欲しい」という家族側の希望も十分に分かっている。病気についてのコミュニケーションが十分でない場合、表面的に良くなってきた様子を見た家族が「最近は調子がいいみたいね?」と言う。上記の事柄を察している患者は「良くなってきている」と言う。言った以上、家族の前では無理をして元気なフリをする。しばらく経って、家族が「そろそろ社会復帰を考えてもいいんじゃない?」と言う。上の方でも触れたが、実際は自殺衝動から次の24時間をどうやり過ごすかの状態で社会復帰と言われても困る。溝は深まる。
b)金銭トラブル
患者は金遣いが荒くなる場合がある。クレジットカードは注意を要する。積み立てていた患者名義の貯金を知らない間に使ってしまっているかも知れない。例えば年金や健康保険料などを一度患者に渡して支払いをさせる場合は使い込みの危険がある。著者の場合は到底支払い能力を超えた大きな買い物ではなく、「このくらいなら何とかやりくりできるかも知れない」の小さな買い物が積み重なり、結局一度預かりで国へ納めるはずの年金を使い込んでいる。訳あって一時的に著者の管理となった生活費なども使い込みが発生している。当然バレる。
原因は判断力の低下である。「何とかやりくりできるかも知れない」の目測を誤る。対策の一例では資金の凍結、上限枠を設定したクレジットカードへの交換、あたりか。
資金の凍結は将来起こるトラブルを未然に防止することが期待できるが、「自分の金を無理矢理取られた」と思われないように、十分な事前準備が必要だろう。何せ相手はうつ病患者である。物事を悪い方へ、悪い方へと考える。著者が実家へ引き取られた時に資金の凍結をさせられた場合をシミュレートしてみたが、なかなか反応が想像できない。
で、著者が直面しているのは(b)の問題で、この背景に(1)から(4)の問題が存在する。ひとつひとつは容易に修正可能なように見える。しかし積み重なると難しい。大事故は小さな原因の連鎖で起こるパターンの縮小版である。判断力の低下と説明しても、家族が病気に対する知識をどれだけ得ているかの共有がされていないので「そんなの理由になるか」と一蹴される可能性がある。金額的な問題は今の家庭の経済状況で十分にリカバー可能な額なのだが、今後の資金ぐりや信用の問題などを考えると全く先が見えない。何をやっているんだか。かくしてここしばらく著者を悩ませていた自死が大きくのしかかってくる。大事故は小さな原因の積み重ねで‥‥
安定剤を飲みつつ現実逃避と気を紛らわせるためにこんな文章を書いている訳だが、これが遺言とならない事を祈るばかりである。明日病院いてきます。って明日祝日じゃん‥‥
梅木が有料コンサルの客の相談内容をブログで晒してdisった話。
http://tanimachi-9.com/2014/08/the-startup/
まーたこんなことやらかしてるのかと思わざるをえない。
依頼者はやたらと善意に解釈しているが、こんな話は日常茶飯事だ。
例えば去年彼が炎上した、そのきっかけとなった某クラウドソーシングサービス。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/08/the-startup-033.html
そこからも有料コンサルの体でマーケの手伝いの仕事をとっていたのは周知のとおり。
自分が炎上して社長からも突き放され、分が悪くなると、クライアントのはずのそのサービスが「有料被リンクを買いまくってスパムSEOや競合相手の逆SEOをやっている」というネタを自らメディアに売り込んだ。
そのサービスが実際そういうことをやっていたかどうかまず怪しいが、それよりもクライアントの利益を守らない姿勢が問題だ。
普通、金をとってコンサルするような場合、いかなる内容であれ一切口外しないのは当たり前。
それ以前に、相談前にアウトラインを聞き取ったりして自分なりに準備するのも常識だ。
ところが、今回の被害者のブログを読めば分かる通り、梅木は何の事前準備もせず、一方的に自分の前提でもって2時間説教しただけ。
TheStatupの他の記事も読めば分かるとおり「どこどこがダメだ」とか「どこどこは思ったより厳しいと聞いた」とか、ほとんどが第三者の伝聞情報で、本人に直接話を聞きにいくということがない。
彼がちょいちょい宣伝している月2000円の有料サロンもそうだ。
梅木サロンに参加してるある人は、月2000円の会費を「みかじめ料」と呼んでいた。
つまり、サロン会費を払って適当に絡んでおけば、悪しざまに書かれるリスクは(ちょっとだけ)減るかもということだ。
スタートアップ限定の物書きなんか少ないので、うっかり変なことを書かれると非常に迷惑なわけだ。
そのリスクを3、4割は軽減できるとなると、月2000円払ってもいいかなと思う人が今300人くらいいるってことだ。
サロンメンバーに起業家は多いが、VCが少ないのもその傍証だろう。
もちろん、たまに間違って純粋に勉強するつもりで入る学生くんもいるけど、実際そういう人は少ない。ヤのつく商売と同じで、結局みかじめ料だから300人も集まるのだ。
その証拠に、本人もブログに「会った人を燃やすことはない」などと書いている。
ひどいとは思うけど、そういう商売もある。
しかし実際は、サロン参加者でも割と適当に書かれているので、あまり効果は無いんじゃないか。
「その道具でいかに目的を達成できるか」
「いかに目的を早く達成できるか」
っていう道具の本質
そんなことは実際はどぉぉーーーでもよくて、
その道具を使った結果とは無関係に、「目的を達成するまでの道のり」それ自体を、
とにかくデコレーションしてキレイにしてスムースにアニメーションさせて見せてあげさえすれば、人はそれを優れた道具だと錯覚する
ってことでしょ?
ディズニーランドの並びの道中ばりに過程を演出してあげさえすれば、
実際には道具として大した性能、能率じゃなくても、そんなことは一般庶民は気にしない ってことじゃん?
設定項目を他のアプリと同じアウトラインのアイコンにしてホーム上でも置く場所によって場所が変わってしまうような超絶分かりにくいクソ仕様でも、
じゃあ設定関係は全てそこにまとまるのかと思いきや、アプリによって設定のある場所がそこだったりアプリ上だったりバラバラなクソ仕様でも、
意固地に戻るキーが無いから、クソ遠い左上に「戻る」「キャンセル」、クソ遠い右上に「完了」、ものによっては何も無し、あげく判定の超曖昧なスワイプで戻るとかいう、戻るキー1つあれば解決するのに付けないグダグダっぷりも、
IMEにただ「矢印カーソル」がありさえすれば起こらなかった世界中の人のイライラのエネルギーと、そのせいでまごついて無駄にした電気的エネルギーを合わせたら史上最悪の兵器級になるであろうクソUIでも、
とにもかくにも全体を、スムースにアニメーションさせて描画だけでもしっかりキレイに動かしておけば、
人々はそれを、「素晴らしい性能」、「分かりやすいUI」 だと思い込む、そういう心理学的見地を見事、証明したっていうのが
いやアップルのプロダクトすべてにおいてその思想で、園内で夢を売るディズニーランドと同じ商売だよね、つまりは。
それを、保険業界の人らが「その保険のアイデア、なかなか巧妙だな、素晴らしい ウシシ」と他社の保険を褒めるかのごとく、
技術者が「林檎屋め、なかなか狡猾よのう ウシシ」 と黒い笑みとともに評価するならまだ分かるんだけど、
エンジニアたちが集まるような場所で、煌々とあの林檎マークがしかもかなりの数光ってるのを見ると、
すぐ流されるブランド好きな日本人っぽい感覚が、技術者の中でも無自覚に広まっていてそれに大して何も感じない、平気でいられる感覚、むしろ俺はイケてるとさえ思ってそうな辺りが技術者の程度を示してるっていうか。
技術者でさえ効率とか本質とかそういうことを追い求めていないのか っていう軽い絶望。
そういえば、あの林檎の光が毎日世界中で消費してる電力ってトータルいったいどのくらいなんだろうね。
かなりの大きさになると思うんだけど。
それは冗談だとしても、わりと本気であの林檎マークが超絶ダサいマークに見えてる最近。
さいきんのゆとりは、と言われそうなので、三十代半ばと年齢を先に申告しておく。
試験にノートを持ち込めるわけでないし、教科書に書いてあることを黒板に写して、それをノートに写すなんてどうして?と思ってた。
流石に、大学では「データを残すために」紙に記録することにしたけれども、紙に書くことが理解の助けになるとか、記憶の助けになるとは思わない。
忘れてしまうことはノートやメモに残すけど、忘れてしまう前提だから残すのだ。
逆に、アウトプットのために、紙にかくことはとても有用だと思う。
文章を作る前、数式をたてる前、スライドを作る前、出来上がりのイメージを図にしてから始める。
あれをつくるためには、この順番で組み立てて、それぞれの部品はこうやって表現して、そのためにはあれが必要で、ということを考えるためには、紙とペンはとても有用だと思う。
学校教育では、アウトプットのための紙とペンの使い方をもう少し教えた方がいい。
と、ここまで書いておもったのだが、僕の思考は、まずはアウトラインを決めて、そこに合うように部品を嵌めこむ「トップダウン型」だ。
対して、学校教育は往々にして、知の積み重ね、「ボトムアップ型」だ。
たとえば、乗法の交換法則の証明を終えてはじめて、掛け算の順序問題から開放されるというように。
それはある意味では正しいと思うんだけどね。
ひさしぶりの増田!
ちょっと海外の展開をみていたら非常によろしくない流れができつつある。本当にあぶないね。
http://anond.hatelabo.jp/20140119001755
反論に文章は弱すぎるので3分ぐらいの動画をつくれたらとおもう。
・問題解決のために
追加論点ある?
海を血に染まる光景は心をざわつかせ何かしなければという気持ちにさせる。
しかしその煽られた恐怖はレディ・メイドで、これはプロパガンダだ。
愛くるしいイルカはなぜ殺されなければならなかったのか。
イルカの追い込み漁は石器時代からおこなわれてきた原始的な漁である。
近代にもなっていまだに残忍な原始的な漁が行われるなんて文明国家とはいえない!
非難は受け止めるべきであろう。
しかし、人は動物や植物などの命をいただかずには生きることはできない。
あなたが奪った他の生き物の時間や未来を食べて生きていることは忘れてはならない。
今回、殺されたイルカの数。
原始的なイルカ漁とは違い、屠殺された家畜の血があたりを染めるセンセーショナルな映像を見ることはないだろう。
同じ場所でおこなわれるイルカ漁とは違い、殺人はどこいつおきるかもわからないだろう。
飛行機と電車で安全にいける日本と違い、戦場の撮影は撮影者にとって安全ではないだろう。
決まった時期に決まった場所にいけば暖かいコーヒーを片手に簡単にあなたたちの心をざわつかせる素材を手にいれることができる。小さな町の漁民相手だ。あとは映像をみせて声高に叫べばいい。
血が流れる写真や映像は人々をどんな気持ちにさせるかわかりきっている。
わかっていてその映像が撮影され、配布され、今何をできるか、行動をおこせと扇動されている。
さっきまでどのような感情を抱き、何をしようとしていたか思い出してほしい
そうさせることが目的だ。
昨年食べられずに捨てられた食料の量。
あなたは今煽られている。
本当に大切なことはなにかを思い出して欲しい。
まずあなたのまわりで興奮している人を落ち着かせることだ。
しかし、よりよい未来を考えるならば情報は多角的なものでなくてはいけない。
情報が偏っていたら判断は誤る。
日本からみると、あなたたちは攻めやすいところを攻めるためだけの用意された素材に踊らされている。
現在二十代後半の自分は小学校でのコンピュータ教育が始まったタイミングの世代です。
始めは「学校へコンピュータ導入しました」みたいな申し訳程度な感じだったと記憶しています。
小学校でのコンピュータ教育の内容としてはCD-ROMを配布され、ODへ挿れるとソフトウェアが書き込まれたISOが自動起動して、そのソフトウェア上でコンピュータを学ぶという形式だったはずです。
学習ソフトウェアは勝手にフルスクリーンになるわけですが、今思えば無知な小学生がOSの設定を変えてしまわない配慮だったのだと思います。
実はこのあたりの記憶は曖昧なので学習ソフトウェアの内容は以下のような感じだったはずです。
これ以外もあったような気がしなくも無いですが、前提として私は小学生男子なので興味のないものは記憶からすっぽり抜け落ちている可能性が高いです。
この中で一番出来が良いのはパラパラマンガツールで、おそらくはプレゼンテーションなどを学ばせるためのものだったのでしょう。
時代を考えるとFlashが出始めの頃でありユーザーインタフェースや機能はFlash作成ツールから影響を受けていたようです。
ポケモンの戦闘シーンを完全再現したことでクラス内でヒーロになったのでこのツールには思い入れが深いですw
感覚として元も近いFlash作成ツールはParaFla!で、ParaFla!とペイントを足して2で割ってタイムラインシーケンスが無い感じでした。
地図を学ぶゲームも比較的良い出来で、ユーザーインタフェースはシムシティな感じでしたね。思いっきり影響を受けてるようでした。
確かストーリー仕立てになっていてクリックしてるだけで進み、地図記号とか学べるんじゃなかったかなあ?と記憶が曖昧です。
この学習ソフトウェア、どうコンピュータ教育に活かされていたか?と言えば、何にも活かされていませんでした。
教師は軽くマウスやキーボードの使い方を指導するだけで、あとは良い言葉を選ぶなら生徒の自主性に任せて、変な設定等を行わないように監視しているだけでした。
どういう指導要領になっていたかは知りませんが、コンピュータによるオートメーションを過剰評価して授業もオートメーション化出来るかも?と国は考えたのでしょうか?
まあコンピュータ教育が導入された最初期ですから実験的な意味合いも多分に含まれていたと思います。
パソコンの起動方法から始まり、ローマ字入力(小学校はひらがな入力)、そしてMS Officeへと入りいます。
このあたりは民間のパソコン教室と変わりがないかも知れません。
小学校で行われていた学習のオートメーション化への期待は無惨にも崩れたらしく、教師は手取り足取り教えてくれます。
それは新規フォルダや新規ファイルの作成方法、メールやWebブラウザの使用方法、その他今現在皆さんが日常的に使うであろうソフトウェアの指導が全く無いです。
どうやら学習のオートメーション化は不可能だと気づいたため、今度は思いっきり実用に振ってMS Officeマスターを育てるという選択をしたようです。
Wordでは文字の大きさや色、背景色、ワードアートの使用法、図の挿入、印刷などが中心に指導されます。
ワードプロセッサソフトが大好きな方は気付いたと思います。そうですWordなのにマークアップの指導が一切ありません。
完全に見た目の変更の仕方と印刷だけの指導であり、Wordなのにアウトラインとか完全に無視です。
見た目中心の指導を行うことはWordと変わらないですが、Excel関数の指導に入ると関数の意味をほとんど教えず「B1へ=SUM(A1:A5)と入力してください。はいA1からA5が足された答えがB1に表示されました。次は...」といった感じです。
生徒は教師の指示通り入力するだけで応用とかそういうの全くわかりません。しっかり理解してるのは見た目の変更の仕方くらいです。
時代ですね。こうして互換性無視なオフィスファイルは作られていったのでした。国がそう教えてましたから。
あっそうそうPowerpointとかAccessは授業でやりませんでした。
端的に言うのならば同上。
しかしPowerpointが追加されました。流石にPowerpointも教えないといけないと気付いたのでしょうか?
高校によっては工業高校や商業高校、高専ではもっとマシな指導をしていた可能性はあります。
ただやっぱり社会人から見るとツッコミ入れたくなるような指導が一部で取られていたと思います。国も手探りですから。
この年齢くらいになると学校の授業で覚えたと言うよりも独学でパソコンを習得してる生徒が殆どになっていました。
全くと言って良いほど学校の授業からは得たものがなく、エロ画像探しのほうがコンピュータリテラシーを僕に与えてくれました。
そして大学時代は教授のゴリ押しからOSがWindowsからEmacsに変わりました。
はてブで小学生向けにビジュアルプログラミングScratchが流行り始めてるんだなと知ったくらいでコンピュータ教育の授業の内情がどうなっているか全く知らないです。
なので僕が少年期に受けたコンピュータ教育を前提として「こうだったら良かったのに」というのを書きます。
コンピュータを扱うにおいてデータ管理というのは非常に大事です。
何故判りやすいファイル名を付けるのか?何故フォルダを作るのか?そういうことをしっかりと指導しなくてはなりません。
とりあえず僕も誰かに教える気になって書いてみたいと思います。
今だけ使えれば良いデータはどうせ直ぐに破棄するデータなので用途に合致すればどんな風に作っても構いません。チャットやっててウケを狙うためにネットからダウンロードする時にファイル名を「a.jpg」にするとかそういうことです。どうせ消します。
注意しなければいけないのは残り2つです。残り2つは前提として後々見たり使ったりするデータです。
このデータのファイル名を「a.txt」とかにしたら何のデータか全くわかりません。
つまり後々使ったりするってことは探すってことです。探すのに判りにくいファイル名にしてたら意味もなく違うファイルを開いて探しまわることになります。最近流行の「名前重要」です。
このジャンルのデータはある特定のフォルダ(ディレクトリ)に保存すると決めておけば探すとき非常に楽です。
そのため各OSは、例えばWindowsならば「マイドキュメント」や「マイピクチャ」「マイミュージック」などを用意してくれてます(ソフトウェアも空気を読んでデフォルトの保存先をそういうのにする)。
せっかく用意してくれているので使うようにし、もし自分でフォルダを作るときは名前重要ですから判りやすいフォルダにしておきましょう。
例えばTwitterであるジャンルの話を同好の士に読んでもらいたい場合どうしますか?ハッシュタグを付けますよね?
そうやって名前を判りやすくしておけば自分以外の他人が使う時も非常に楽なのです。
「でもよく使うデータを深い階層に置いてたら面倒じゃん」っていう意見はもっともです。
実はそのために「デスクトップ」という階層や「ショートカット」があるんですね。
デスクトップがアイコンだらけの人ってたまに居ますけど、きっとそういう人はコンピュータ教育は受けたけど保存されるデータの種類を知らない人です。あなたは悪くないですコンピュータ教育が悪い。
世の中には目の見えない人が居ます。そんな人たちがコンピュータを使えるように「読み上げソフト」ってのがあります。
まあいろんな意味で"文字通り"読み上げるためのソフトウェアなわけですが、このソフトは何も編綴もないテキストデータを読み上げるとめちゃくちゃ棒読みです。
それが更に平仮名ばかりで句読点もないテキストだと読み上げソフトは棒読みで一気に読みあげて目の見えない人はものすごく聞き取りにくいです。こんなテキストは目の見える僕たちでさえ読みにくいです。
そこで僕達は漢字を使ったり句読点を使ったりして可能な限り読みやすくします。実はこれがデータの中身にとって重要なのです。
句読点は文章を判りやすくする目印ですが、これを付けることをコンピュータの世界では「マークアップ」と言います。
読み上げソフトはマークアップされた文章だと、何処がタイトルで何処が本文というのが判別できるようになり、更に強調マークアップされている部分では音量を上げたりするので目の見えない人は非常に聞き取りやすくなります。
もしここまで読んである点に気が付いた人はかなり賢いです。その点とは「目が見えないのは機械も同じ」という点です。
マークアップされた文章は機械にとっても非常に判別がしやすい文章であり、実例をあげるのであれば検索するときに使う「Google」が検索結果へWebページのタイトルを載せてくれるのも、マークアップされたタイトルを拾い上げているからなんです。
Wordでも「見出し」と指定された行は機械的に判別され、アウトライン機能で文書の管理が非常にしやすくなったりします。
PDFでも同じでアウトライン表示されたり、読み上げソフトがPDFに対応していたらマークアップに合わせて読みあげてくれます。
少しだけ専門的になりますが、データベースとして使われているCSVファイルやJSONファイルも特定の記号を使われているのでコンピュータは楽に判断できるのです。
更にしっかりとマークアップしておけばPDFを電子書籍でよく使われているEPUBに変換するなど、他形式への変換が失敗しにくくなる利点もあります。
今まで行なってきたコンピュータ教育は正直「コンピュータ教育をしてますよ」という体裁だけを保っている教育の仕方だと思います。
コンピュータが使われるようになったから教育に導入し、MS Officeが使われるようになったからMS Officeを教え、IT市場が大きくなったからプログラミングを教える。
高速に変わっていくコンピュータの状況に合わせてしっかり教育は対応して居るように見えますが、現状のコンピュータ教育が見ているのはコンピュータの上っ面だけです。だから教育も上っ面になる。
コンピュータ教育ではタブレット端末の導入を現在検討しているらしいですが、どうみてもこれは上っ面な判断です。
コンピュータで高速に変わっていってるのは上っ面だけであり基礎の部分は。ハッカーが使ってそうないわゆる黒い画面、つまり端末(コマンドプロンプト/ターミナル)の頃とあまり変わってません。
その基礎を教えずしてOfficeだのビジュアルプログラミングだのを教えても生徒が得るものは何もないと言って良いと思います。
正直この記事は総合職さんやプログラマさん、エンジニアさんから見たら「なにそんな当たり前の常識的なことをドヤ顔で記事にしてんの?」って嘲笑されるような内容です。
その嘲笑されるような内容をコンピュータ教育はできていないわけです。
これWindowsじゃなくたって教えられること、最新ハードじゃない中古のPC-98でだって教えられること、中学生以上は持ってそうなスマホでだって教えられることです。
お、おう。プログラマなのでこれは知ってるんだが、小説書くときにはわざわざ記号入れなきゃいけないわけだよね?原稿清書で消さなきゃいけないわけだよね?
これやるなら、Dropboxなりgoogle docなりでクラウド環境にtxtファイルおいといて、
を使ったほうがよいぞ。
青空文庫の形式に対応してるので、そのとおりにかけばそのまま電子出版行ける行けるレベルじゃないから行かないけど。
ただこれもページ数はわからないんだよなぁ。1ページの行数指定できないから。
フリーとかシェアウェアで縦書き・アウトライン表示・原稿用紙換算とかしてくれるエディタとかあるけどわざわざ探すならワードでもいいや。一回テンプレート作っちゃえばあとは使いまわせるし、余計なこと考えたくない
横レスで済まないがWordは便利だぞ。章にスタイル1、段落の最初の一文にスタイル2あたり指定しておけばあとでアウトライン確認できるし、各段落に飛ぶのもナビゲーションウィンドウから一発だ。ルビも普通に振っとけばテキストに出力した時に丸カッコ内に吐き出してくれる。
俺も昔はテキストだけで書いてたけど、効率悪いよ、あれ。今なんページかわからんし。書いてる途中でこのページ数でまだ山が来てないのやばい、とか書いてる途中にわかったほうがいいじゃん。公募に出す場合、書きながらその辺の微調整してプロット組み変えていかないと、最低限一次通過するもんにならないぞ。
女の話に論理?が乏しいのはもう諦めたけど
話に構成というかオチもないのは勘弁して欲しい。
せめて喋りだす前に何の話かぐらいは言って欲しい。
話のアウトラインが欲しい。
じゃないと「あわせるための相槌」を打つのすら難しくて苦痛だ。
最近ガキの相手する機会があるんだけど
ガキのほうが結論述べてから喋り始める気がする。男でも女でも。
「何についての話題で」「自分はそれについてどう思っておるか」ぐらいのザックリした情報は最初に示される。
女の子も「ねーねー〇〇ってさー」みたいに最初に自分の関心の中心をはっきり言う。
つまり大人の女のあの聞くに堪えない、
だらだらだらだらとなかなか主題の見えない喋り方は
後天的に身につけられてる可能性が高い。
日本のフォントメーカーが、中国の規制の強制部分と標準部分をごっちゃにして、
買う必要がないビットマップフォントを日本の企業に売りつけているんではないか?
という話です。
購入して使用しなければ、中国には輸出できないということを言っている
http://www.lim.co.jp/products/chinese.html
字形に関しても規定が行われビットマップフォントに関しては、中国政府認定のビットマップフォント以外は使用できなくなりました。
http://www.founderinternational.com/jp/structure/pro/201107/show20110704160230883.htm
http://www.arphic.jp/news/epaper/AR%20News_CESI%20Certification.pdf
http://www.dynacw.co.jp/oem/embedded/tabid/159/Default.aspx
GB13080の原文を探したのですが、なかなか無い。
以下でやっと見つけました。
GB13080原文
原文の強制部分を機械翻訳すると、
(翻訳が正確かどうかはわかりませんが)
http://baike.baidu.com/view/889058.htm
(1)製品は正しく、出力、処理のGBを入力することができます 18030-2005は一部の規定の全部の漢字のキャラクターを強制します;
(2)製品は正しくGBを識別することができます 18030-2005強制性の一部の規定の全部の漢字のキャラクターの対応するコード。
うーん、文字コードを正しく扱って全部表示してねとしか書いてないような気がします。
もっと下の方をみてみると、標準を規定した部分に以下のような文が。
~中略~
ビットマップフォントについては単なる標準規格だと解釈出来ます。
認証を受けていなくとも使用については問題ないと判断出来ます。
なんか原文に当たるすべが無いもしくは面倒くさい企業に対して