はてなキーワード: バイアスとは
順序逆じゃね? 社会構築主義の話が出てきたのって,アンチフェミの人が社会構築主義を攻撃したからじゃん?
むしろなんで社会構築主義の話が出てくるのか文系の俺が知りたい.
これはそうなんだよね.それは社会的に構築されたものに過ぎない! で,それの何が悪いの? まったくもってそのとおり.
社会構築主義が出てくるのは,あるものが「本質的であり自然である」と看做されていることに対するカウンターだ.
たとえば,民族.民族主義者は民族を「古くから連綿と続く人間集団」であるかのように主張する.でも歴史学は,「民族」という概念が発生したのは近代であること,それ以前にはそんな統一されたアイデンティティは存在しなかったこと,「古くから続く」という幻想が最近になって作られたものであること,を明らかにしてきた.
もしくは,ジェンダー.性別役割分業を支持する人は,男と女は好みから何から根本的に違っていて,分業は自然なものだと論じる.それに対してフェミニストは,「女は赤を好む」のような固定観念は最近になって生まれたこと,かつては男女のなすべき仕事が異なっていたこと,そういったことを論証してきた.
そういう仕事の理論的な根拠が社会構築主義なんだよね.人間社会にあるもので「本質的」だったり「自然」だったりするものなどない.どれも社会のなかで形作られそれが「本質的」であるかのように見えているだけで,実際には何一つ「自然」ではない.
だからまあ,構築されたもので何が悪い? と言われればおしまいなんですよ.
それでおしまいにならないのは,「本質的」という言説が世の中に溢れているから.
「同性愛を嫌うのは当然」と主張する人がいる.実際には多様な性愛の有り様のなかで同性どうしの性行為が悪魔化され抑圧されてきたのはごく最近の話に過ぎないのに.「悠久の日本の歴史を讃えよ」と真顔で言う人がいる.統一された「日本」という観念も民族という理念もごく最近生まれたに過ぎないのに.「女が家事育児を担当するのは自然」とのたまう人がいる.それは様々な家族形態のなかでたまたま現在定着しているモデルに過ぎないのに.
さらにいえば,学者が本質的だと仮定して用いている概念もまた構築されたものでありうる.1世紀前の学者は「民族」が実在すると思っていて,世界の様々な「民族」の歴史をたどることが学問なんだと信じていた.でも現在は,その「民族」という概念は構築されたものであるとして,かつての歴史学は批判を受ける羽目になっている.構築主義はそうやって世界の認識をアップデートしていく営みなんだよね.
もちろんこういう言明にも理論的隘路はあって,それはまあとっくにゼロ年代頭に指摘されていることなので詳しくは色々読んでみてほしいのだけれど,最近の学者は構築主義を前提としてでもそれじゃ何も言ったことにはならないよねとかこの部分おかしいんじゃないのとかじゃあこれをもとに何が言えるかとかそういう議論をしているので,社会構築主義はおかしい! とちゃぶ台返しされても,華麗にスルーするしかないじゃん? それが社会構築主義に基づくパラダイムの欠点を暴き出し世界認識を一変させるものなら喜んで飛びつくけど,現状そういうちゃんとした議論が出てきてるようには見えないわけで.悪いけど社会構築主義に基づいた方がより厳密な研究ができるしやってて面白いんですわ.
そーなんだよね.はっきり言うとこの件社会構築主義とか微塵も関係ないですよ.普通に自由とか権利とか公共とかの話をすべきところでしょ.そして自由とか権利とか公共とかの話をするなら持ち出すべきは社会構築主義じゃなくて政治哲学とか法哲学とかそういう分野でしょう.
俺はあのポスターを公共空間にあっても問題ないと擁護するしバッシングはバカバカしいと思うのだが,それと社会構築主義の是非はまるっきり別の話で,なんで社会構築主義が目の敵にされるのかはマジで理解不能.
ただ「男がおっぱい好きなのは自然の摂理」とか言い出すと「え? 江戸時代の春画はおっぱいをすごい雑に扱っていたけど? そもそも何がエロいかという認識あるいは羞恥心は自然なものではなく社会的に構築されていて,たとえば日本でパンチラが恥ずかしがられるようになったのも20世紀以降の話で,そこから考えると現代日本の男性がおっぱいに関心を示すのは……」みたいな社会構築主義に基づく反論が飛んでくるから気をつけてな! オタクが美少女に萌えるのも腐女子がBLを愛でるのも同性愛が「禁断」と看做されるのも胸の大きい絵が性的と思われるのも全部社会的に構築されたことだからそこんとこ夜露死苦! あと「公共」概念が歴史的に帯びているヨーロッパ中心主義的なバイアスに気づかないのは鈍感すぎると思います先生!
社会学の功績の話するときは「統計学」の話してるけど、実際の社会学ってもっと適当だよね
社会学って統計を超えた主張とか思想とか、ざっくばらんなデータの分析とか、データを恣意的に解釈したりとか
そういう結論ありき、あるいは安易に結論を出したがるタイプのものが非常に多いじゃん
社会学がすべて、社会の問題に対する統計学的アプローチと分析のみってことなら学問として認めてやってもよいが
勝手に因果関係を作り上げたり、何かを糾弾したり、勝手な解決方法をおしつけたりするのはおかしいんじゃないか
また、反証可能性で化学や物理の話してるけど、物理の仮説は将来的には反証可能になるものとしているし
仮説は仮説として共有されていているじゃん
地球温暖化も、客観的に言えるのは「地球があったかくなっている」「温室効果ガスが排出されている」ことであって
この二つの因果関係を明確にしめすことはできない。たまたま氷河期が終わりつつあるという仮説もある。
「温室効果ガスによって地球が暖かくなっている」という仮説を組み立てた人たちが「とりあえずやってみよう」としているだけで
科学が断定しているわけではない
フェミなんかは、とくにそう。
フェミはその現象の原因を男性の性欲などに求めたり(根拠がない)、男性の悪意によるものだという考え方をする。
「女性が社会進出できていない」というのは一見客観的に見えるけど
家事も社会活動であるという考え方もできるし、看護士や介護士、パートなども社会活動だと言えるだろうから
本来言えるのは「女性は男がやるようなことをさせてもらえない」=「男女の役割には偏りがある」くらいだろう。
「男女の偏り」の中に安住できない人にとっては悪だと思うが、この偏りに問題を感じていない人もいるのだから
すべての女性にとって悪だとは言えないだろう。
(だから、悪だと認識させて味方をつけるためにフェミは学生を洗脳していくのだと思うけどね)
おそらくはボーヴォワールの実存主義的な思想にからんでるのであって、思想であり、主義であって、科学ではない。
で、他の社会学にも、そういう「主義」「思想」によってバイアスのかかった言論をする人がたくさんいる。
女性に対して視線が集まりやすいのも幼少期から形成されるバイアスのせいで、たとえば「髪型を変えたことに気付かないことに怒る」みたいな現実フィクション問わずに存在する描写がすでに害悪なのである。
誰も人のことなんか見なくていいし、いちいち何かが変わったか気付く必要なんてないというメッセージをこそ発信していかなければならない。
宇崎ちゃんポスターに対しての批判の中に、実在巨乳への批判を避けたいが為か「乳袋」に絞って問題視する声は度々見られたが、
この点にとても違和感があったので少し考えてみた。
「乳袋」的な誇張表現は90年代には確立、いや発祥を遡ると恐らく70年代頃にはあったと思うが、その体系的な解説は識者に任せるとして、
そもそも「乳袋」という言葉自体がネットミーム化したのは比較的最近のことであり、朧げな記憶だが恐らく2010年前後。
ニコニコ大百科の記事が10年6月に作成されていることから、大きくはズレていないだろう。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B9%B3%E8%A2%8B
その記事内にも言及があるが、元々は巨乳イラストが現実に即していないという批判的な文脈から生まれており、
裏を返せば「乳袋」という言葉が出て来るまでは、オタク達は無意識無批判的にその表現を受け入れていたこととなる。
そう言うと批判側の「オタク達は(乳袋がエロではないと)麻痺している」との言説に一定の説得力があるように思えるが、自分としては実情が異なる印象だ。
乳袋の表現は、言ってしまえば、実在の巨乳に対する無理解から生まれるイラストの巧拙や、デフォルメ表現としての流行や表現の確立としての側面が強く、
類似例として、巨大すぎるリボンや、カラフル過ぎる髪の色も、(判子絵的な)キャラを区別する為に生まれた創作者側の都合によるものと考えられる。
つまり「乳袋」はオタク的には直接的なフェチ表現ではなく、イラスト表現の変遷で発生したものであり、副次的に受け入れてきたものだろうということ。
その証拠としてあげられるのが、pixivのタグ検索。「#乳袋」のタグがついたイラストは現時点で2578作品。フェチ的表現としてオタクに人気な気がする「#黒タイツ」の44025件に比べると寂しい数字だ。
タグがついていないだけで乳袋とされるイラストは膨大にあるから、フェチ表現ではなく、表現技法として根付いているように見える。
「根付いているのでは麻痺と一緒では?」と思った方もいるかもしれないが、ここで主張したいのは「乳袋」は巨乳を表現する技法の一種でしかないこと。エロに対して直情的だから蔓延した表現というのは誤認である。
批判するのであれば、「乳袋」ではなく、漫画アニメイラスト業界に蔓延する過度な巨乳女性を安易に描く風潮そのものでなければ、抜本的には解決しない。
(その風潮が生まれたのは、男性の性欲からという点は否定しない。男はだいたい女体が好きであり、それを空想として描くときに現実離れするのは不自然なことではない。安易であるが)
しかし巨乳女性イラストへの批判は直接的な表現規制になり得るし、実在巨乳女性へ飛び火する危険性や、国民的作品へのバッシングにも繋がる。それを分かってるから批判側もそこまでは言及せず分かりやすい記号である「乳袋」にターゲットを定めた心理があるのだろう。
だがそれはオタク文化への直接的な加害であり、オタクからすると「カラフルな髪の毛は現実に即していない!」と同レベルの文化侵略であるように感じられるし、また単なるオタクヘイトと区別がつかないのである。
余談的となるが、宇崎ちゃんの巨乳設定は、漫画を読む限り読者を扇情させる為の魅力というより、ウザい後輩キャラ的な属性をその大きなおっぱいが文字通りクッションとなって印象を和らげる為に機能としてあるようにも見える。漫画としてはエロよりずっとラブコメの色が強い。
あと、2巻3巻の表紙は確かに「乳袋」だが、1巻の表紙や漫画内ではいわゆる乳テントで描かれてる部分も多いので、「乳袋」は宇崎ちゃんにとって重要な構成要素ではないこともわかる。
(漫画の印象に関しては読む人によって意見が別れるだろう。ただ巨乳設定=扇情と限らないのはアニメ漫画を嗜む者には理解して貰えると思う)
作品表現とポスターとしての問題を直結する必要はないが、特にエロの権化でもない宇崎ちゃんが「乳袋」の絵だからといって性的搾取のシンボルとして掲げられるのは不憫としか言いようがない。
そんな感じで、一介のオタクとしては、「巨乳ではなく乳袋批判だ」という詭弁的な批判ではなく、男性の欲望と直結してしまってる創作界隈の巨乳文化をターゲットにして貰いたい。
その声が大きければ、自主規制による創作界隈のアップデートは十分起きうるだろう。巨乳がいなくなれば当然「乳袋」もなくなる。無論個人的には望まないが。
教員採用試験が簡単ってよりも、教員を目指す人達にとっての学校は楽しい場所で、少なくとも学校に通えなくなるレベルの辛い経験はしてない人たちが大半なんだと思う。
それは悪い事ではないけれど、そういう人ばかりなのがまずいと思う。
多数の教師がそうなのだから授業や行事も陽のノリで進むし、一人でいることや真面目でいる事がまるで悪いことかのように扱われて、半強制的にクラス全員と仲良くしましょうみたいなクラス行事とか、授業中のおふざけに真面目な子まで巻き込まれたりとか。
でも先生たちはそれを苦痛に思う感覚が分からない人ばかりで、嫌だとか辛い思いを分かってくれる大人がなかなか居ない。
そしてそれがループしてくんだよね。てか今もきっとそれがループしてこうなってるんだよね。
おとなしく真面目でいること、一人で勉強ばかりしていること、友達を少数しか作らないこと、無口なことなどは悪だと思い込まされ、更には許せないことをされても、許したくなくても強制的に仲直りさせられるところ。
少し大人になって当事者ではなくなったからこそ気付けたけど、学校っていう社会しか知らない子どもが自発的にその異常性に気付くのは難しすぎるよ。
今思えばあれこそ正常化バイアスの権化みたいに思う。陽のノリこそが正常とされる世界。
そりゃ学校行くな!とも言いたくなるわ。
亡くなった子供の父親から依頼を受けた探偵さんが書いた記事という事だが、その時点で中立とは言い難いバイアスのかかった記事だと思う
それを真に受けて「田舎の闇」や「Dが殺したに違いない」などと言ってしまって良いものなんだろうか?
ブクマカ達が少ない情報のみで個人を断罪したり、元々持っていた田舎に対する偏見を垂れ流しにしてるだけじゃないか?
もちろん、真偽は俺にも分からん
記事の通りにDくんが怪しいのかもしれないし、逆に探偵さんがDくんが怪しく見える情報だけをピックアップして記事にしただけで、警察には事故と判断できる確証があるのかもしれない
無関係の第三者、それも地元の人間ではなく遠く離れた土地の人間がネットで記事を見ただけで、事故(もしくは事件)が起こった状況や背景まで見通せるものだろうか?
もしかしたらこの程度の情報で全てを見通す千里眼の持ち主がブクマカにはいるのかもしれないが、少なくとも俺には分からないし多くのブクマカも似た様なものだろう
こういう時は複数のソースに当たるのが基本だが、この件についての記事はかなり少ない
全面的に信用できるとは言い難い週刊誌の記事が散見されるくらいだ
どうやら新聞から提供された記事が削除されたり、記事についたコメントが削除されている様で、その事もこの件についての疑いを強くしているのだと思う
情報が少ない →意図的に情報が隠されているのではないか? →組織ぐるみの隠蔽があるのではないか? と疑いを拡大させている人もいるだろう
だがどれほど疑わしくとも、それは疑いでしかない
今後、裁判に至る可能性はあるとはいえ、現時点ではまだその準備段階といったところだろう
おそらく探偵さんは裁判に至った場合に備えて今も様々な情報を集めていると思われる
そういう段階でネット民が疑いを根拠に個人叩いたり、地域への差別感情を垂れ流したりといった行為は、事故が起こった地域の(その多くが事故とは無関係の)人々の感情的な反発を煽るだけではないだろうか
その事が返ってご遺族や探偵さんの取り組みを邪魔してしまう可能性もあるのではないか
ご遺族が署名付きの再調査の嘆願書が提出されたそうだから、警察がその疑いを張らす為になんらかの行動を見せる必要はあると思う
少し脇道にそれて、下着の広告について考える。街に下着の広告があったとして、下着メーカーは、単に下着の魅力を伝えたいだけで、性的な消費のためにポスターを掲示するわけではない。しかし一方で、下着の広告を性的であると受け取る人間は存在するし、客観的に見れば非常に露出度の高い表現である。
赤十字がヴィクトリアシークレットとコラボレーションを行い、下着姿の女性が献血を呼びかけるポスターを作ることはあるだろうか。あまり無さそうに思われる。下着姿の女性を下着の広告から切り離した場合、それは過度に性的な存在になると感じる人が多いのではないだろうか。逆説的に、下着姿というものは本人の意志に関わらず本来は性的であり、下着の宣伝という文脈でのみ、その性的さが阻却される、とも言える。どうやら、現在の日本においては、下着の宣伝においては、性的な要素の含有は問題ない、という社会通念上の合意が得られているようである。なぜそのような合意が今日の日本で得られているかというと、下着というのは、日常の生活でほぼすべての人に必要だからであろう。ここで注意すべきなのは、このような合意は、現在の日本において、という前提である。宗教や国、あるいは時代によっては、このような合意が必ずしも得られていないことは容易に想像できる。このような合意は、社会における価値観のすり合わせによって形作られたと言っても良い。
このような合意が、他の性的な表現と比べた場合に一貫性にかけるという指摘は、ある意味では妥当である。先に述べたとおり、文脈や背景を考慮せずに、客観的な露出度などを基準に性的な表現を判断することを是とする場合、「下着の広告である」という文脈もまた切り離すべきであるといえる。例えば、文脈を理解する力が弱い子供にとって、下着の広告は単に性的でありえる。実際に、「小さい頃は通販雑誌の下着のページを良く見ていた」という男性の話も聞いたことがある。このような場合、たとえ広告に性的な意図がなかったとしても、子供に悪影響があるかもしれない。大人の都合によるこのようなダブルスタンダードともいえる基準が子供に悪影響を与えているという指摘がなされた場合、どのように答えるべきであろうか。ダブルスタンダードを廃して、下着の広告も露出度を基準として規制すべきだろうか。あるいは些細な影響だとして現状を維持するべきだろうか。「下着の広告は性的に見るためのものではないので、勝手に性的に見るのはやめなさい」という教育を行うことに意味はあるのだろうか。
この点については、正直なところ私自信もあまり明確な結論を持っていない。直感的には下着の広告ポスターに規制をかけることはバカバカしいと思っている。下着広告においては、それが性的消費に向けたものではないという認識があるからだろう。しかし同時に、それはダブルスタンダードであると言われた場合、うまく返答ができない。「あなたが下着の広告ポスターに規制をかけるのをバカバカしく思う気持ちは、私が宇崎ちゃんのポスターに対する批判をバカバカしく感じるものと同じです。なんなら、露出度が高い分、子供への悪影響は下着の広告ポスターの方が大きいですよね」と言われた場合、あなたはなんと答えるだろうか。「エロくないものを勝手にエロく見るほうが悪い」といえば問題は解決するだろうか。
ちなみにであるが、恐らく多くの成人男性にとって、下着の広告ポスターは多かれ少なかれ性的なのではないだろうか。男性は、単にTPOをわきまえて性的な表現に対するリアクションを行っているだけであって、教育によって下着の広告ポスターを「性的に見なくなった」わけではない、気がする。「勝手に性的に見る」のをやめられた男性がどれぐらいいるのかは気になるところである。性的に感じつつも、見ていないふりをしている男性の方が多いのではないだろうか。
ところで、宇崎ちゃんの作者は、宇崎ちゃんを性的に表現しているのだろうか。宇崎ちゃんの作者の内心はわからないので、2つのケースを考えてみる。
1つ目は、宇崎ちゃんが、男性に対してのアピールを増すために、意図的に性的な要素である乳袋を与えられた場合である。この場合、宇崎ちゃんには、性的な要素が意図して組み込まれた背景が存在することになる。そして、宇崎ちゃんが性的である、というポスター批判派の指摘には、一定の妥当性がある。
2つ目は、単に可愛い要素を詰め込んでいたら乳袋になっていただけ、という場合である。既に乳袋が一般的な表現になっている世界において、宇崎ちゃんにちょっとした可愛さの一要素としてそれが組み込まれた場合、宇崎ちゃんに性的な意図は含まれていないと考えられる。この場合、宇崎ちゃんを性的であるとみなす言説は、本来は胸が大きくて可愛いだけの宇崎ちゃんを「勝手に性的に見ている」行為になる。つまり、興味深いことに、ポスター批判派こそが、人の格好を勝手に性的であると見なして騒いでいる存在となるのだ。ポスター擁護派の中には、この立場に立って、ポスター批判派こそが「エロくないものを勝手にエロく見ている」と指摘する人もいる。一方で、乳袋が性的な表現ではないという前提は、現在の日本においては広く同意が得られた認識ではなく、この立場に立つことはポスター擁護派の欺瞞である、という指摘もある。
実際のところ、作者がどういった意図で宇崎ちゃんを作ったのかはわからない。恐らくは前者であろうが、オタクコンテンツの一般的化が進んだ現在において、後者のような状況が起こる可能性もある。乳袋ネイティブ世代にとって、乳袋は猫耳ぐらいのカジュアルな属性かもしれない。また、乳袋や韋駄天の靴下は極端にしても、絶対領域やミニスカート、胸の谷間やおでこ、猫耳や表情といった要素になると判断が難しくなるのではないだろうか。下着広告においては、「性的消費目的ではない」ということが明白であるため、「エロく見るほうが悪い」という切り捨てに一定の妥当性が与えられる。しかし、こういった未定義エリアにおいては、表現者と受け手のどちらかに、一方的に責任を押し付けることが難しくなる。
これらの思考実験を前提とした場合、「かわいい」「綺麗」あるいは「性的」「エロい」というのは、外形上非常に線引が難しいと認めることになるだろう。ある人にとって単に「かわいい」だけの格好が、別の人には「性的に」映ることは避けられない。また、性的消費の意図が表現者に存在したかどうかを基に判断をするというのも、同様の理由で困難が予想される。さらに、仮に性的な消費を前提として表現された性的な要素だとしても、どこまでが許される「性的さ」で、どこから先が自粛すべき「過剰な性的さ」なのかについても考えなければならない。
今回の乳袋については、個人的には、性的な消費を前提とした性的な要素であるが、過度に性的とまでは言えないかな、という認識である。オタク表現に馴染んでいるためのバイアスが掛かっていることには自覚的であるが、なんとなく肌が露出していなければセーフという気もする。また、表情について言うと、これは恐らく性的な消費を前提としていないであろうと考えている。作者は単に宇崎ちゃんのうざさを表情で表しているだけのように見受けられる(これをアヘ顔とは呼ばないであろう)。
繰り返しになるが、このような受け取り方は、私個人のものであり、人によって異なるであろう。それ自体が悪いことであるとは、私は考えていない。
多様性は大切にするべきであり、多様性を大切にするのであれば、お互い似好き放題やって、相当な衝突が発生しない限りはお高いに許容しよう、という考え方がある。仮に、件のポスターが性的であったとしても、「そういう表現が好きな人もいるよね」で終わらせることができるのであれば、それで全ては解決する。一部のポスター擁護派からはこのような世界を理想とした言動が見受けられる。
しかし、この考え方は現実世界においては、非常に運用が難しい。「相当な衝突」の定義が人によって異なるからだ。ある人にとって些細なことが、別の人にとっては大問題というのは、それこそ多様性を前提とするれば数多く発生するだろう。そうなった場合、結局は社会的なすり合わせが行われて、自主規制として運用されることになる。私個人としては、なるべく多様性を尊重する観点から、多少気に食わないことがあってもスルーするのが美徳であると考えている。しかし、だからといって他人に対して「それは些細な問題であるからスルーせよ」と強要するのは良しとしない。件のポスターを女性差別の問題として扱う場合、その人にとって、それは些細な問題ではない可能性がある。多様性の尊重とは、相手に黙認を強要するための武器ではなく、互いの価値観をすり合わせて妥協点を見つける営みであるとも言える。もちろん、そのようなすり合わせは非常に高コストであるし、お互いに面倒である。繰り返しになるが、自由を維持するための不断の努力とはこういうものなのだろう。
ポスター擁護派の中には、仮に宇崎ちゃんが過度に性的であるとして、そこを指摘する必要性はあるのか、と問う人もいる。件のポスターを女性差別や性犯罪と関連付けて批判する場合、他にもっと重大な問題が存在するのではないかという指摘である。私自身は、この指摘は意味をなしていないと考えている。仮に、宇崎ちゃんのポスターが性差別上問題があるのであれば、それが他の案件に比べて社会的に些細な影響をもたらさないとしても、指摘することは問題がない。もちろん、リソースが有限である以上、より重大な案件からあたるべきだという意見には一理あるが、それを強制することは誰にもできない。あるいは、ポスター批判派は単にキモオタもしくはオタクコンテンツが嫌いなだけなのではないか、という指摘もある。この点については、個人の内心がわからない以上、そこを議論しても無意味である。しかし、どのようなチベーションの人が存在するとしても、言論それ自体にはロジカルに対応する必要がある。論者自身の姿勢への批判と、議論内容そのものへの批判は分けて考えるべきであろう。
極端な話では、なる可能性はある。すでに述べたとおり、規制は強化される方に圧力がかかりやすい。ポスター擁護派はこのような自体を避けるために、無理に譲歩する必要は無い。最も、私自身はこの点については、あまり心配してはいない。仮にあらゆる肌の露出を性的とみなす言説が現れたとしても、現在の日本において多数派の同意は得られないであろう。
ある意味ではミラーリングが起こっているのだが、「男」という言葉を「雑に」用いた意見に対する反発が、少なからずあるように思われる。これはすでに多方面から指摘されていることであるが、「多くの」男性にとって、性犯罪あるいはセクハラというのは実際のところ未知の事象であり、「多くの」男性は、少なくとも自らが犯すのは避けるべき行為であるという倫理的、良心的な規範を持ち合わせている。このことが逆に女性が日々感じている女性ゆえの困難さへの無理解につながるのだが、一方でその困難さへの責任を「男」というまとめにより自身へも向けられたとき、その男性にとっては困惑しかない。これはある女性が「女性」として差別されるのと同じく、ある男性が「男性」として差別されている相似形と言える。「多くの」男性は、このような女性の困難さに対して同情的であるし、不正義だと考えるであろう。しかし、一方であなたもその片棒を担いでいる、と責められるのは理不尽であると考えるのではないだろうか。女性であるという理由でハイヒールを強要されることを良しとしないのであれば、ある男性は男性という理由だけで責任を押し付けられるべきではないし、罵倒を浴びせられるべきではない。このような行為は、男性でも女性でも、アメリカ人でも日本人でも傷つくことである。差別は良くない。単純だが、これは切実な問題である。本当に傷つくのだ。
ある属性の人々が憎まれるのは、過去にその人達が行ってきたことのせいである、という考え方もあろう。しかし、どうか、属性で人を憎むのはやめることはできないだろうか。「罪を憎んで人を憎まず」とまで言うつもりはない。なにか嫌なことがあったときに、原因となった個人を憎むのは、あるいは避けられないだろう。しかし、その原因となったその個人の属性までを憎むようになってしまうと、文字通り憎しみの連鎖が始まってしまう。気持ちは分かるけど、なんとか堪えられるといいと思う。難しいけど。また、議論においては、そのような発言は大いに弱点になるので戦術的にも避けたほうが無難ではある。
ところで、先程から使っている「多くの」という表現であるが、ここに闇が潜んでいるのではないか、という指摘もある。社会は階層や年代、あるいは地域ごとに特性があり、私が感じるところの「多くの」というのは、あくまでも「私の身の回りでは」の話となる。ある女性にとって、身の回りの「多くの」男性が、その女性にとって好ましくない特性を備えているという状況は、恐らく確率的にありえるし、どちらかというと、そういったことは特定のグループにおいて偏って発生するのではないかとすら推測できる。私が前述した、「多くの」男性が倫理的、良心的な規範を持ち合わせているという言説についても、同意できない人はいるであろう。
インターネット上の議論においては、そういった各人の異なる背景が共有されないまま発言が行われるため、話が非常にややこしくなってしまう。ある人は、身の回りの男性を原因とする数多くの困難を経験した上で、その経験に基づいて何かを述べるのであるが、そのような経験は必ずしも前提として共有されていない。そのような発言を、同様の困難を経験したことのない人が見た場合、大げさだったり、被害妄想が激しいか、あるいは単に攻撃的な人物の発言のように写りがちである。このような両者の異なる認識は、それぞれ異なる経験に基づいたものであるから、それぞれ「正しい」のである。そして、正しいからこそ厄介であり、それぞれが無意識に持っている別々の前提をすり合わせないままに議論を続けると、平行線のまま話が進むことになる。Twitterのような短文のプラットフォームでは、なおさら背景が共有されないまま議論が行われることになりやすい。
以上のことを考えるに、もしも発言の中に「常識」や「普通」あるいは「当たり前」「当然」「明らか」といった言葉を使っていた場合は、特に考え直したほうがいいかもしれない。あなたにとっての「常識」は非常に限られた範囲でのものである。しかも、これらの言葉は「正しさ」をニュアンスとして含有していることから、それに当てはまらない人(恐らく沢山いる)に対する悪意と捉えられやすい。当然ながら、「異常」とか「おかしい」とか「論外」といった強い表現はなおさら安易に使うべきではない。これらの言葉は人を傷つけるし、ロビイングの戦術としても周囲の理解を得にくくなる。すでに「主語が大きい」ということはよく言われるようになったが、これらの表現にもできるだけ留意するようにしたい。
まだ続くのすごない?
どっちが一眼レフで撮った写真?iPhone11 Proとキヤノンカメラを見分けられるか
https://iphone-mania.jp/news-265039/
これ、ブコメの反応を見ていると性能についてはむしろiPhone11が大勝利ってことになってて悩ましいんですが。
おおよそみんなが見分けられたとする根拠は2つで、1つはボケについて。で、もう一つは深みとかについて。
ボケに関しては毛先のデティールが失われてるかどうかを見れば一目瞭然なのは確か。
その中で全体のボケに関して言及している人もいるのだけど、これについてはコメントが難しくて、それは本体じゃなくてレンズの性能差によるものとも言える。
ボケが不自然っていうなら、サードパーティの安価な明るめレンズつけて開放で撮ったほうが多分iPhone11よりもっとわちゃわちゃで汚いボケになると思う。
そもそもピント面が甘いというよくある初心者が量産する典型的なダメ写真ができあがるというやつ。
そうした写真が比較対象として出されても綺麗とかって褒めてたら本当にどうしようもない。
つまり、そもそも一眼レフは本体の話しか出てきてないのに、ボケの話しを始めてしまうというのがまず第一のにわか踏み絵。
つぎに深みとかについて。
この写真、もう一つ簡単に見分ける方法があって、それが周辺減光というもの。
周辺減光っていうのは、レンズの構造上写真の四隅が暗くなるやつ。
趣があって好きっていう人は結構いるけど、これがあるほうが性能がいいかと言われるとむしろ逆。
光たっぷり入れるにはでかいレンズつけなきゃいけなくて、イコールコストに転嫁される部分だから金持ちだけが取り除くことが許される代物。
デジタル時代になって後でいくらでも手を加えられるようになったので最近ではそれほど問題でもなくなってきた。
で、これのどこがにわか踏み絵かというと、みんな周辺減光がある写真のほうが奥行きがあるとか綺麗だとか言ってしまっている点。
プロカメラマンが高いレンズ買って、現像で一生懸命消してるのに、あったほうが綺麗って言ってしまうのが世の中の評価。
恐らくiPhone11側もエフェクトであえて消してるんだと思う。
ってことは、消さない、もしくは消し方を自然にしたら違いがわからないってこと。
元々ないならないでレンズの性能がすごいって話で、どちらにしても性能チェックならiPhone11のほうが上っていう結論を導き出してしまっているという悲しい現実。
ついでにいうと、ボケの深度について一律でつまらないっていうコメントが星を集めてるけど、これも間違い。
iPhone11のポートレートモードは、異なるレンズで距離を計測してそれに応じてボケの量を変えてます。
のっぺりみえるのは完全にバイアス。っていうか、素人が気づくようなことプロ集団が放置するとでも思った?
適当に拾ってきた記事だけどこの辺みると距離データが3Dで保存されてるのが分かる。
そしたらどこで性能チェックすればいいの?という話になる。
ノイズ感というのはちょっと雑な言い方をすると全体のザラつき。
特に暗いところが顕著で、本来黒いはずの部分に偽色っていう青とか緑とかの色が出てしまうことがある。
よく写真で黒く潰れてしまったり白く飛んでしまったりするけど、それがどれくらい広い範囲でカバーできてるかどうかということ。
もちろん性能が低いほうが白く飛びやすく黒く潰れやすいので、例えば影の部分がどれくらい書き分けられてるかを見るとわかりやすい。
本来深みという意味で議論されるべきはこのあたりなのだけど、この点に関してはほとんど遜色がない。
これって本当にすごいことで、スマートフォンカメラのセンサーサイズで35mmフルサイズの画質に肉薄してるってどういうこと?ってなる。
もしかしたらiPhone11側は高速で連射してあとでHDR合成しているかもしれない。
もちろんノイズリダクションとか使ってノイズを消している可能性も否定できない。
そういう意味で、現像レタッチなんでもありのiPhone11の写真と、そうした現像環境について何も言及がない一眼レフの写真を比較しているっていう事自体もにわか踏み絵でしかないんですよね。
ただ、その上で一番のにわか踏み絵って何かというと、iPhone11と一眼レフ、どっちの写真ですかクイズでしかなかったものに、「綺麗」とか「深い」とかって知ったような口で性能評価してしまっているというところ。
それは痛いよ。かなり痛い。見分けられた!よかった!で十分なのに、性能評価してしまうことで無知を露呈する愚かさ。
両者の写真はたしかに異なる写りをしている。だからといってそれを正解ありきで綺麗さとか性能を褒めるのはとても危険。
比較する条件があまりにも揃っていないし、皆が綺麗だと褒めれば褒めるほどそれはiPhone11のほうが性能は優れていると宣伝しているようなことになってしまっているんですよということに誰も気が付かない悲しみ。
ただし、こうした安易なポートレート撮影でいうなら、残念ながらコストパフォーマンスの面ではiPhone11の圧勝。
でも一眼レフの真価は信頼性とか操作性とか表現の自由さとかもっと全然別なところにあるので、画質で比較する話ではないんですよって話にそろそろ終止符を打ちたい。
勘違いしないでほしいのは、マウント取りたいとかってわけじゃなくて、世の中の反応と現実的価値にこれだけのギャップがありますよってこと。
だからきれいな写真撮りたいだけなら高いカメラを買う必要はないです。
はやりで売れてくれることはありがたいけど、みんな持て余してるのが現実。
自殺した児童生徒 最多の332人 昭和63年度以降で | NHKニュース
この記事で文部科学省の発表で、自殺の6割の原因が不明ということで多くのブクマカが異議を唱えている。
いじめ問題は皆が注目し、よくニュースになるので自殺の原因はいじめだろうというバイアスを持っている人は多いが、実際の自殺の原因は文部科学省の統計ではなく、厚生労働省や警視庁の統計を見れば分かる。
この朝日の記事を見ても分かるが、実際の自殺の原因は「親子関係の不和」、「学友との不和」、「学業不振」が多く、いじめが原因で自殺する人は多くない。
https://www.asahi.com/articles/ASM6F323JM6FUTFK005.html
もちろん統計に現れないイジメもあるだろうが、それ以上に他の原因で自殺する人が多いのだ。
特に近年小中高生の自殺が増加しているのは「脱ゆとり」教育のためである。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG28H6D_Y6A120C1CR8000/
遊ぶ時間が減り、勉強する時間や成績について悩む時間が増えストレスを感じ自殺する小中高生が増加しているのだ。
また児童生徒の自殺者数のグラフは、平成25年度以降に高等学校通信制課程の生徒の自殺が加わっている。NHKの記事では説明されていない事に留意したい。
イジメによる自殺は非常にセンセーショナルでニュースになり多くの人の目に留まるが、実際は「家庭内の不和」や「学業によるストレス」で自殺する若者が多いのだ。
北村紗衣が自分にリプライを寄越してきたアカウントに対してこういう返事をしていた
https://twitter.com/Cristoforou/status/1184999914499006464
「下世話な言い方」をすると言っておきつつ、後者を「漫画とコラボしてファンに献血を呼びかける宣伝」と控えめに表現する時点で、ご自分の判断にかなりバイアスがあることは理解されてますか?
俺にはこのへんの感覚がわからない。あれはキャラクターであり、オタクは女の記号を性的にまなざして欲情しながら血を抜かれに行くわけではない。
北村によれば例のポスターは日本のパチンコ店で行われた、ナースコスプレをした女を餌に健康診断を呼びかけ研究倫理上問題があると批判された事例と同様のものらしい
https://twitter.com/Cristoforou/status/1184307481830289408
やっぱりこのへんの感覚が理解できない。ただのキャラクターなんだけど。こういうセンスにはかなりジェンダーバイアスが入っているんだろうか?
正直経済的に無理をして東京に住んでいると思っている人間です。
給料上がらないし、税金高いし、ローンやばいしで日々死にたくなる。
・買い占め?ちょっと歩けば別のお店に行けるぞ!
・停電?日本の中心なので、おそらくすぐに復旧するよね(せざるを得ないよね、というバイアス)
・強風被害?うちがだめだったらほかの家もだめでしょうね…ガハハ(すでに諦めている)
・何かあっても頑張って歩けばなんとかなりそうという安心感。
もっとあるけどぱっと思いつくのはこれくらい。
安心・安全をお金で買う(言葉が悪い自覚はある)ってこういうこと。
首都が変わらない限り、この状況は変わらないのではないかと…。
特別な事情がない限り、国の中心付近に住むのがいいと思います。
君の言う薄っぺらいことは「起業したら逃れられるよ」みたいなことを言うが、
まあ、成功バイアスのかかってる連中に踊らされるのも学も知性もない人間だな。
なんだかんだ、日本はその他大勢で居続けられば、飯だけは食っていけるのだから、そちらで割り切って楽しいことできる方が遥かに幸せだって。
あのあたりの連中って「苦境があってもそれを乗り越えられるし、乗り越えられるのが当然」って連中なんだよね。まあ、生存バイアスで祀られる存在になった自負があるんだろうけど。
だけど、苦境は、逃げるか本人が望む形で解決するかしないと逃れられない。
ましてや、苦境を作ってる側も逃げも本人が望む形の解決もさせずに、苦境を作ってる側の望むとおりにさせることを望む。
それが本人にとっても苦しむ形であってもね。
そりゃ、保守的に、問題から逃げやすい安全な立場ばかりを狙うわな。
何かに挑んで苦しんでも石を投げられるだけだけど、逃げてしまえばその他大勢の一人としていきていける。日本ではその他大勢の一人になってしまえば安全だから。
友人(仮に富山とする)がその富山の友人にストラップを作ってもらったらしく、自慢げに俺と友人3人(仮に山口、福井、岡山とする)に見せてきた。
そのストラップは鬼滅の刃の主人公が身につけている耳飾り(?)をモチーフにしたものだった。
俺は鬼滅の刃に関する知識が全くなかったので、それを見た瞬間に(旭日旗やん)と思った。
富山はたまに極端に右に振れた発言をすることがあったので、その背景も踏まえて俺は苦々しく思った。
山口と福井はそれを見ても何の違和感も抱かなかったらしく、無邪気に「うわーいいなー」「ほしいー」と反応していた。
メンバーの中で一番オタク文化に造詣が深い山口が「ほらこれ」と言ってスマホを出し、鬼滅の刃の主人公の耳飾りを指し示した。
場の反応からして、鬼滅の刃を知らなかったのは俺と岡山だけらしかった。
岡山はそれを見て、「たとえ鬼滅の刃だったとしてもこれは旭日旗に見えるし、持っていると思想の偏った怖い人みたいに思われかねないから、安易に外に出さない方がいいのではないか」と言った。
岡山はグループの中の年長者で、いつもそんな風に常識的な意見を述べて皆をたしなめる役回りだった。
それに反発したのは山口だった。「は? 鬼滅の刃の何が悪いん?」
俺はそれに乗り遅れたので、何か意見を言わなければならないような空気になってしまった。
「まあ、鬼滅の刃を知らん人もおるわけやし……」俺は歯切れ悪く言った。
「知らんのはその人の落ち度やん」「そもそも旭日旗の何が悪いん」山口と富山が口々に言った。
「旭日旗自体が悪いというわけでは無くて、それが使われてきた背景とか、今現在旭日旗を好んで身につけている人とその人に対する世間一般のイメージからして、無駄な軋轢を生むし、富山にとって百害あって一利無しなんじゃないかってこと」岡山はあくまで冷静なトーンを保って言った。
「岡山の言う『世間一般』がよくわからんけど」福井がそう前置きして言った。「『旭日旗! 旭日旗!』って騒いでんのはサヨクぐらいちゃう? 『世間一般』ではそんなんどうでもいいと思ってる」
それから岡山と富山・山口・福井は何となくお互いを避けるようになり、俺はそれに板挟みになった。
岡山とサシで食事した時に、彼は「旭日旗が和風なテイストを醸すために最適なアイコンになっているってだけなんだろうな。それをいい意味で無邪気に使えるオタク文化は素敵なものだと思う。変にバイアスがかかった俺みたいなのと富山たちが疎遠になったのはいいことだったのかもしれない」と言った。
俺は「5人でいた時の方が楽しかったっすけどね」と言った。
岡山は「お世辞でもそう言ってくれると嬉しいな」と言った。
コーヒーが苦かった。
東日本で20数年を過ごしたあと、1年前に大阪に引っ越して来ました。
大阪(関西)に住んで色々と思うところがあったので、備忘代わりに書いて置こうと思います。
そのまま。はじめて新大阪駅について「これから大阪で頑張るぞ!」なんて思ってJRに乗り換えようとしていたら、エスカレーターで後ろから歩いてきたおじさんにスーツケース蹴られて泣きそうになりました。私にとっての大阪の初印象は、最悪。
②満員電車で詰めない
東京の中央線ってめちゃくちゃ混んでるじゃないですか、でもみんな慣れてるからちゃんと駅に着いて人の出入りがあると何となく全体が最適化されるようにポジション取るんですね(そんな気がします)。
朝の御堂筋線は(中央線比べて)そんなに混んでません。でも絶対にみんな自分のポジションを動かない。
詰めろや!入り口で突っ立ってるなや!
あと阪急は夏にエアコンちゃんと回してください。暑過ぎです…。
パンチパーマのおばちゃんが店番しながら観光客にちょっかい掛けてくる、そんなイメージを持っていた時期もありました。パンチパーマの大阪のおばちゃん、どこにいるんでしょう、情報お待ちしてます。
④外国人が多い
関西経済を語る上でインバウンド観光客の寄与は欠かせませんよね。とはいいつつ、本当に外国人客が多い。なんばとかもはや異国の地を旅している気分になりません?私はなります。
あの辺、あんまり日本らしさとか大阪らしさとか感じないけど、みんな何を楽しみに来てるんだろう…?金龍ラーメン??たこ焼き??
あのごちゃまぜで雑多な感じが好きっていうなら、私も同じですけれど…。
ただまあ、リピートする程来てくれるっていうのは、何はともあれありがたいことです。