はてなキーワード: バイアスとは
男女平等には2種類の平等がある。2種類とは、"性別による差を無視する平等"と"性別による差を補填する平等"だ。
日本の女性の多くは、"性別による差を補填する平等"を重視し、"性別による差を無視する平等"はあまり考えていないように思う。
でも、どちらの平等も重要で、使い分けるケースがあると思うのだ。
以下の記事を読んだときに、男性スタッフは仕事であるから"性の違いを無視"するように振舞った。これは男女平等の社会、多様性を許容する社会の上ではとても良い行動だったと思う。
"男性スタッフがレジで女性の下着のレジ打ちをするのにはやはり抵抗があるか??"
しかし、女性客はこの行動を拒絶して女性店員の対応を要求した。これは性別による差別だと思う。男女平等の社会、多様性を許容する社会の上では批判されるべきだ。
一方で、これは生理的判断としては正しいとも思う。つまり、"平等"とは本能や生理的な反応を否定し、理性でそれらをねじ伏せて行動することだ。男性スタッフは生理的には対応したくなかったが、理性でその感情をコントロールして対応した。これが平等を重んじる社会における正しい行いだと思う。本能を理性でコントロールすることは難しいしストレスがかかるが、平等を重んじる社会では皆がそれに立ち向かっていかなければならない。
さて、この記事へのブックマークを見ると、女性のほとんどが女性の店員がいればそちらに持っていくという。これは男性スタッフに失礼を与えはしないが、明確に性別による差別だ。このように日本人女性が"性別による差を無視する平等"について軽視していることは問題だと思う。
他方、アメリカでは女性が公共の場でトップレスになるのが6つの州で合法化した。また、ノルウェーでは40年前から女性が軍に志願できるようになった。これは、"性別による差を無視する平等"である。欧米は"性別による差を無視する平等"も重視していると強く感じる。
ここで、日本の女性が重視している"性別による差を補填する平等"についても述べたい。例として、産休や育休、つまり労働可能な時間が短くなる女性についてもある程度変わらない給与を支給するものがある。ある評価基準によって"能力"が定義され、能力は個体差がある。評価基準は何かの生産性に基づくもので、能力が高いということは生産性が高いということなので、能力が高ければ社会における待遇はよくなる。
一方で、能力が低くても一定の待遇は保証されるべきだという考えが"差を補填する平等"である。これも非常に重要な平等だが、こちらは無制限には行えない。なぜなら、"差を補填する"際にコストが必要だからだ。だからこれは"弱者が救済されるために"使われるべきだ。強者にバイアスをかけるようなコストは減らすべきだからだ。
欧州は弱者へのコストが膨らみすぎて、もはや国家の経済が存続できない国が現れた。それ故、コストがかかる"性別による差を補填する平等"だけを重視するのではなく、"性別による差を無視する平等"によって全体の調和を整えようともがいているのではないか。
産休や育休のような、"性別による差を補填する平等"は今まで以上にどんどん取り入れるべきだと思う。それによって豊かに暮らせる人や家庭が増えればよい。でも、これからの日本は"性別による差を無視する平等"も考えていかなくてはならないと思う。"差を補填する"リソースは無限ではないのだから。
さて、日本人男性についてあまり話していなかったが、日本人男性は"性別による差を無視する平等"を重視する世の中を望んでいると思う。理由は、"性別による差を補填する平等"で男性が利益を得るような制度がないからだ。でも男性の中には、タピオカドリンクを飲んでみたかったり、女装してみたかったり、女性向け漫画が好きだったり、主夫になりたい人もいるのだ。彼らは"性別の差による補填"を望むことはない。"性別によって差別"されたくないのだ。性別に関係なしに、自分の興味があることを試したり没頭してみたいのだ。
はてなでも男女平等について色々な議論が生じる場面があるが、いつも男女間で議論がかみ合わずに平行線になる。これは、女性が"性別による差を補填する平等"を重視している一方で、男性が"性別による差を無視する平等"を重視しているからだろう。それぞれの平等はどちらも重要だが、いっしょくたに考えてはいけないのだ。別々のものとして考え、どちらの平等が適したケースかを議論する必要があるのだ。
まず最初に、こちらフェミニスト業界では、昨今の性教育関連エントリの各所でのプチブームを、大変嬉しく思っていることをお伝えしておくよ。
本当は、性教育を語るには、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)から入らなきゃいけないんだけど、ちゃんと書くとそれだけで元田が眠くなるくらいの長い記事になるので、ここでは簡単に触れるだけにするよ。
セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(SRHR)とは、男性も女性も、それ以外の性別の人も、同性愛者も異性愛者もそれ以外の性指向の人も、とにかくあらゆる人が性(性欲を満たすこと。以下、セックスとしよう)や生殖(子どもを産み育てること、以下、出産・育児としよう)に関して自分の意思を持つことが許され、その意思が尊重され、セックスや出産・育児についてのやり方を自分で決めることができる権利のことだ。
例えば、親や親戚、近所の人に「あんた長男なんだから、はよ結婚して子ども産みなさいよー」って言われて無理やり見合い結婚させられるのは、SRHRの侵害だ。逆に、結婚して子どもを産み育てたいのに、「あんたには家事・介護をして欲しいから結婚は許さない」とか、望まない妊娠(これ自体がまずSRHRの侵害だ)をした時に、産もうと決心した女性を無理やり中絶させたり、逆に中絶しようと思った女性を法律や説得で無理やり出産させるのはSRHRの侵害だ。
セックスと出産に関する体の部品(男性なら主にペニス、女性なら主に子宮)の使い方、政治家さんの好きな言葉を流用するなら「子どもを産む機械」は、持ち主である男女が自分の意思で自由に使い道や使い方(使わないことも含めて)を決める権利だ、と言ってもいいかな。
純潔も、淫乱も、本人の好きにすればいい。ただし、他人に迷惑をかけない(他人の道具を相手の同意を得ずに使わない)ことが条件だよ。ってことね。あと、好きに使うためのメンテ(性感染症の予防や、妊娠出産に伴う医療リスクの軽減)ができる環境が、全ての人に与えられなければならない、っていうのが、SHRHの考え方だ。
そんでね、性教育っていうのは、この権利について学ぶ、人権教育なんよ。
元田も、多分これを読んでくれる多くの人も、日本で育っていれば性教育っていうのはほとんど受けたことがないと思う。保健体育でちょこっと生殖の仕組みについてやったり、性感染症について学んだり、あと女性なら初潮が来る頃に生理について学んで生理用品のサンプルもらうくらいかな。
でも、実はこれは国際的に見るとかなり遅れている。
国際的に、って言ったな。うん、言った。
実は、ユネスコが「性教育の国際的ガイドライン」を出してるんだ。英語、フランス語、中国語などはここで見れるよ(これは2018年の改訂版。初版は2008年に出されている)
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000260770
https://www.akashi.co.jp/book/b297731.html
性教育は、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」というのが、ユネスコの定義だよ。これは通称「包括的性教育」と呼ばれる。
日本でやることは、あくまで身体面の、生物学的な性(というか生殖)についての教育でしかないんだよね。でも、「包括的性教育」では、自分と他人の体の仕組みを学び、それに自信を持つことから、他人を尊重すること(ここには、シスヘテロでない少数派の人たちの多様性を理解し、尊重することも含まれる)、自分と他人の感情を理解・尊重することなども含まれる。当然、セックスの前の合意の確認の仕方や、嫌なら嫌と言っていい(むしろ言うべき)っていうことも教わる。
この手の問題になるとよく「セックス同意書ないと安心してセックスもできない」と言い出す人達がいるけど、その発言自体が日本に包括的性教育が欠けているということの証明になってるわけだね。(日本では性犯罪の構成条件が難しすぎて現実的に無罪になりやすい、というのは、それとはまた別の問題だ)
そう考えると、男子が生理を含む「女性の生殖器の特性について知ること」と、女子が勃起や射精を含む「男性の生殖器の特性について知ること」は、表裏一体なんだ。
同時に、男女それぞれが自分の生殖器について理解し、例えば男性なら「仮性包茎は問題ない」とか、女性なら「生理の辛さには個人差があるから、必要なら産婦人科に診てもらう」とか、知識を持ってきちんと自己管理することを学ぶのも、性教育の大切な意義だ。
さらにいうと、男女問わず子どもが性的なパーツを触られた時に、「それは犯罪であり、拒否する/拒否できなかった(暴行された)時は、大人に報告するべきだ」という理解を持つことに持つことにもつながる。
実際のところ、未成年の性的虐待っていうのは、当初は「子ども自身がおかしいと気づけないから」表に出ないっていうことがすごく多い。たまたま性について学んだことがきっかけで、気づいて病院を訪問するケースが、かなり多いそうだ。
さて、ユネスコの定義に戻ろう。性教育とは、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」だったね。
元田のいう(1)は、「性の感情面の理解」という文脈に含まれる。これは明確だからいいよね。
(3)は、身体面と社会面になるかな。例えばテクノブレイクは都市伝説だし、AV男優とペニスの形が違う(=包茎)も大抵は問題ないし、手マンは爪を切って手を洗ってからやらないと膣を傷つけて女性が大変なことになるし、潮吹きはAV女優側が水とかいっぱい飲んで頑張って出してるもので普通は起きない。そういうことをきちんと知ったり、あとは「女性は男性に従うもの、好きなら生でセックスさせて当然」みたいな社会的規範はおかしいというのも、当然教える前提になる。
(4)は、身体面だね。マスターベーションは普通だし、テクノブレイクなんて存在しないし、女性だってオナニーしていい。オナニーって言い方がなんかやだったらセルフプレジャーって言おう、みたいな。
(5)は、社会面と認知面かな。恋愛工学なんて典型的な認知の歪み(自己中心性バイアス、投影バイアス、多集団同質性バイアスあたりか)に基づく行動原理だしね。
さて、問題は(2)なんだけど、これは典型的な権利(自由)に関する問題だ。
日本人は自由を「無制限に好き勝手する権利」と考えがちなんだけど、実は自由というのは、近代では「他人に迷惑をかけない範囲で、自分の好き勝手をする権利(バカなことも含む)」だと定義されている。フランス人権宣言第4条とか、ジョン・スチュアート・ミルの自由論とかが、この辺の定義として著名なソースだね。
そこに基づいて考えると、「他人の自由を害さなければ、好きにセックスしたりオナニーしたりしていい」し、逆に「他人の自由を害するならば、セックスやオナニーをしてはならない」ってことになる。
こういう部分は当然、包括的性教育にも含まれるわけだけど、それ以前に「社会生活をする人間としての常識」なんだよね。
たとえば私は「SRHRは最終的にはKKOもインセルも救うことを目的としている」と思っているんだけど、それは「KKOやインセルに彼らの望む可愛い恋人をあてがう」という形では実現し得ない。なぜなら、それは「恋人としてあてがわれる個人」の自由を侵害してしまうからだ。他人の自由を侵害する自由は、存在しないのだ。
彼らを救うには、「モテないことが悪いことではない」という認知を全ての人が持つように働きかけることや、相手の感情を理解し合意の取り方を知ることで交際の入り口をなだらかにすること、同時に他人を尊重し、断る権利・断られたら(少なくともその時は)諦める責任を腹落ちしてもらうこと、などが必要だろう。
これらは全部、包括的性教育のカリキュラムに含まれるものでもある。
包括的性教育は、男性の性欲を管理するだけのものでも、女性の性欲を解放するだけのものでもない。これまで、日本を含む多くの社会が男性の性欲に寛容・女性の性欲に抑圧的であったがために、一見そう見えるけれども、本来は「あらゆる人が、自分のセックスと出産・育児について、自分で決断できるようなライフスキルを身につけること」なんだ。
だから、増田の意識しているものは当然のように含まれるけれど一部でしかない、ということと、そういうことを教えるためのノウハウは欧米諸国を中心にすごく普及しているよ、ということを伝えたくて、長々と書いちゃったよ。
本当は日本は女性のSRHR、特にヘルスではなくライツの部分が世界でもかなりやばい状況にあるとか、そういう話もしたいんだけど、若干オフトピックなので今回はぐっと我慢するよ。
女は異様に異性へ求める要求事項が多い。なので女は一部の2割の男に群がり、その他8割を足切りする。その結果2割の男が女をとっかえひっかえすることになり、その他の男は余る
ついでに女が2割の男に群がる性質から、一部の男が女を選び放題になり、結果女が接する男が浮気性な割合が上がり、女の中で「男は浮気する生き物」というレッテルが貼られることとなるという残念なバイアスがある(女が群がらない残り8割の大多数の男は浮気すらできないし、浮気もしない人間であるという認識が女の中からはすっぽりと消えている)
そして女の言う「顔は重要じゃない」は女にありがちな単なる自己認識の間違いであり、実際は「顔も金も学歴もテンポのちょうどよさも全部重要視する」が正しい。その結果2割の男に群がる。
男の世界で「顔は重要」と明らかになっているのは、男の自己認識の正しさを表しているのと同時に、異性に対して要求する事項が女よりも少ないという理由もある。
また一人が自殺という傷ましい結果に向かう出来事があった。その発端に「いじめ」があったことは、おおむね事実と考えたい。その上で、各社が見出しにしているこの文言、そして取扱方は全くフェアではなく、ハッキリ言って問題解決には何の役にも立たないどころか有害であると私は思う。
“教育委員会は大ウソつき” 15歳男子生徒が自殺 埼玉 川口(2019年9月9日 18時16分:NHKニュース)
埼玉県川口市の中学校に通っていた当時いじめを受けたとして、自殺未遂を繰り返していた15歳の男子生徒が、8日、自殺したことが分かりました。いじめについては、市の教育委員会が調査を進めていましたが、生徒の部屋には、「教育委員会は大ウソつき」などと書かれたノートが残されていたということです。
関係者によりますと、8日の未明、埼玉県川口市の小松田辰乃輔さん(15)が市内のマンションの敷地内で死亡しているのが見つかり、屋上から飛び降りたとみられるということです。
小松田さんは中学1年生だった3年前、部活動の先輩や同級生から悪口や仲間はずれなどのいじめを受けたと訴えましたが、学校の対応に失望し、自殺未遂を3回繰り返したということです。
その後、おととし11月になって、市の教育委員会は第三者委員会を設置し、いじめの調査を進めていました。
中学校を卒業した小松田さんは別の学校に通っていたということです。
自殺したあと、小松田さんの部屋から見つかったノートには、「教育委員会は大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる」と、教育委員会の対応を批判する内容が書かれていたということです。
川口市教育委員会指導課の三浦伸之課長は、「本人への聞き取りを要望していたが、話せる状況にないということで実現していませんでした。教育委員会への不信感を訴えて自殺したことを重く受け止め、対応に問題がなかったか確認したい」と話しています。
小松田辰乃輔さん(15)の自宅の部屋には、市の教育委員会の対応への批判が書かれたノートが残されていました。
ノートには、「教育委員会は、大ウソつき。いじめた人を守ってウソばかりつかせる。いじめられたぼくがなぜこんなにもくるしまなきゃいけない。ぼくは、なんのためにいきているのか分らなくなった。ぼくをいじめた人は、守ってていじめられたぼくは、誰にも守ってくれない。くるしいくるしいくるしいくるしいつらいつらい。ぼくの味方は、家ぞくだけ。くるしいつらい」と書かれていました。
そう考える理由。
どんないじめ事件であっても、片側の言い分だけで解決することは難しい。周囲からの意見も、バイアスがかかるので参考程度にしかならない。あくまで「本人」からの聞き取りは必須の要素である。もちろん、保護者はしばしばそう考えない。それは「ウチの子が嘘を言うわけはない。それはずっと育ててきた私たちには分かる。この子には問題などない。実際いままでは問題なかった。なのに今この子がこんなに苦しんでいるからには、周囲に問題があるはずだ。」と、そう考えるからだ。
だが、教職員、あるいは教職員出身の教育委員会事務局関係者はそうは考えない。どんな子も状況次第で嘘をつく可能性はある。その子をずっと育ててきてはいないとしても、何十年にわたって同年代の子供を千人以上見てきた経験からそれは言える。問題の無い子などいないし我が子を過信しない親というのもまずいない。これまで他との関係性の中では起きなかった本人自身の問題が、別な関係性の中で発現することも充分あり得る。場合によっては、そのことを直視し自己の問題(それは保護者との関係性の問題である場合もある)に気づくことが本人の成長に必要なことさえある。だから、苦しんでいること自体はその子の非責任性(その子に責任がないこと)の証明にはならないし、いずれにせよ、周囲に問題があるかないかも含めて本人への聞き取りは必須だ、と考える。教育職のプロフェッショナルなら、誰しもそう考える。
そして、それを阻害していたのがおそらく保護者だ。
本人「ぼくの味方は、家ぞくだけ。」
この家族は、生徒本人に「味方」と認識されていたとのことだ。それ自体は間違っていない。結果として防げなかったとしても、味方がいると信じさせることが命を救うこともある。だが、「生徒から味方と認識されること」は重要だが、それは「自分たち以外の全てが敵だと認識させること」とイコールであってはならない。家族は、問題を適切に解決に導けるよう、教育委員会と協力して問題にあたることが必要であり、可能なら、自分たちの利益に沿って動いてくれると信じられる適切な第三者(たとえば代理人としての弁護士)をたてて交渉した方がよかった。教育委員会が立場上、加害者とされる生徒も含めて「両者の利益を最大化するように」動くのは当然であって、何ら問題ではない。教育委員会が、真理を解き明かす(捜査能力のある)機関でもなければ、罰を下す(司法)機関でもなく、教育を通して社会全体の益を最大化するための機関である以上、それは当然のことだ。そのためには、当然「いじめた側」の話を聞き取る必要もある。当然ながら、それはあくまで「片側」の聞き取りに過ぎないから、話半分にしか聞かないし、「いじめられた側」に「~と言っているがどうですか」と聞くのは、単に双方に対する事実確認以上のなにものでもない。にも関わらず、
というような受け取り方をされるのはどういうことか。生徒本人と会えていない以上、これは、保護者がそういう伝え方をしたと考えるしかないわけだが、「いじめた側」の言い分を聞くことが「相手に味方することであり利敵行為だ」と捉えるような見方を保護者がしていたのでは、事態解決に向けた健全な協力関係を作っていくこと自体が難しい。
そのような状況で、教育委員会への不信を連ねた(極めて一方的な言い分を)書き連ねた遺書を見出しに掲げることに、一体どのような意味があるだろうか? 上記を踏まえれば、教育委員会が「嘘をつかせた」というのは明らかにおかしい上に、教育委員会はそんな嘘をそもそも「信じていない」可能性の方が高いだろう。問題は、あくまでそのような状況における教育委員会と家族の協力を台無しにさせたそのような敵対的関係であり、ではそのような敵対的関係を作り上げたのは何かと言えば、このように不安を煽るマスコミのセンセーショナリズムがその一因ではないのか。
もちろん、教育委員会の極めて「お役所的対応」が保護者の不信感を買うことも、事態の一つの側面ではあろう。その点については、できることは重々反省した方がいい。しかし、この件で教育委員会の対応に特段の問題があったようには自分は感じない。強いて言えば、なんとか家族を説得して、生徒本人と経験豊富な指導主事なりが対話できればよかったが…という位だ(それができなかったからこうなったのだが)。それができたら生徒は死ななかったのか、と言われれば、私は「おそらく死ななかった」と答えよう。直接会えば、生徒も「教育委員会の人も敵ではない」ということを理解できた可能性はあるからだ。教育委員会の人も「僕を守る人」だということを理解できたかもしれないからだ。これは、家族を批判しているのではない(そんな死体蹴りがしたいのではない)。家族(と本人?)をここまで頑なにさせてしまったのは何か、という話だ。
そう思わせたのは何なのか? 学校と教育委員会が100%悪? それでいいのか?
そもそも「自殺した」ことをもって、その人を全肯定する理由とはならない。たとえばマスコミは、この生徒の「いじめられた」という主張が実はいくらか大げさであり、周囲の生徒からの困惑のコメントに対して「あいつらは嘘をついている」と意地を張りたい生徒があてつけで自殺未遂を繰り返した、みたいなケースについては想定したのか。そのような場合であっても、同じような見出しを付けて教育委員会の問題を指摘するのが適切な報道と考えるのか。いずれにせよ私は、このような形で自殺した生徒について大げさな報道を繰り返すのは、そしてその後についてはまともな調査も報道もしないというのは、ただのセンセーショナリズムでありゴシップ誌の発想でしかなく間違ってもジャーナリズムではないと考える。
事実というのは、そんな単純に善悪を切り分けで説明できるものではない。少なくとも、このような事件に絡んで「教育委員会が悪いから生徒が死んだ」という極めて単純なストーリーしか描けないとしたら(言い換えれば「教育委員会を罰すれば問題は解決する!」とか思うのは)、それは単純な正義感を振りかざす危険な人物であり報道だと思う。
某界隈の非モテ論はなんかもう滅茶苦茶だな。
玉の人はとにかく暴力性って言葉を使うのが悪い!と壊れたラジオ状態だし。
実際悪いが言葉の定義云々の話してなにか変わるの?なにか良くなるの?その先がないからなにも話にならない。それは悪くなるぞ!いっそ悪くなれ!としか言わない。私が代表で暴力性と言ったのは悪手でした、ごめんなさいと言えばいいの?
非建設的だしそれこそアジで起きる玉入れ競争の下のルンバだよな。見本になろうとしてるの?否定してたのに?
青の人の論点整理もまた下手に玉をかばってあなたは人生辛い人のためのライフハック本作者でしょ?思い出して!みたいな檄文書いてリソースがない人がこれ以上水をやるのが厳しいやつらがいるということを無視してるし。優しさの果実が無限じゃないなら水だって有限なんだけどな。
アレが批判だというのはバイアスかかりすぎてる。当の玉も批判だと思ってないし。
白の人はズレがわかってるからあえて触れてないな
。この人はまだわかる。商売人だし。
自分が勤務している会社の部署に転職で入ってきた人が休みがちになり、やがて鬱による休職となった
原因は部署の上司ということだが、たしかに声も体格も大きいが、気に入らない人間を虐めるとかは無かった
だが、休職した人は「自分だけ執拗に叱責された」と言ってたらしい。確かに転職なので、他社でのやり方を参考に自社にも適応させようとしていたが、根回しどころか変えることへのメリットすら説明も無く強制してくるので、ただ混乱するだけだった
自分のが絶対に正しい、ここのは糞。みたいな感じで試してみようという気すら起こさせてはくれなかった。もちろん現場が混乱するので上司も注意していた。皆の前とかでも無かったので、最低限の注意もしていたとは思う
休職していた人は、障害者手帳と弁護士を連れて復帰、結果上司はパワハラとして異動となり、大して仕事の出来ない上司が充てがわれ、当の本人は鬱から復帰ということで大した仕事も振られず、日々社会復帰に向けて仕事を頑張っている。その分の仕事は周囲に充てがわれ、上司の使えなさもあって散々な状態になった
それ以来、自分は鬱病患者が大嫌いになった。病名と弁護士を使って自分の都合のいいように職場を荒らした上で、再発をチラつかせながら自由気ままに仕事する寄生虫にしか見えない。出来れば復職してほしくなかった。家で引きこもるか転職するか、それも無理なら今の人生終わって欲しかった
たぶん鬱に甘いはてなは「見えない所で上司は何かやってた」「バイアスかかってる」「日本が遅れてる」とか言うんだろうな。こちらから言わせてもらえば、日本以上に諸外国の方が冷たいと思うけどね