はてなキーワード: 言語表現とは
最近、「○○さん(私)は、まるで天然のChatGPTですね」と言われることが増えてきた。
それはどうやら、私の話し方が、立て板に水かのように、関係がありそうなことを次々と連ねていく点を指しているらしい。
確かに、私は時折自分の話が止まらなくなることに気づいているし、他人からの反応を見てもその兆候を感じ取ることができる。
しかし、私に言わせれば、その発想自体が逆ではないかと感じるのだ。
つまり、そもそも、なぜ他の人々はChatGPTなどの生成AIに影響を受けないのだろう?と思うのだ。
私は、むしろ「なんで皆さんは天然のChatGPTにならなくて済んでいるんですか?」と尋ねたい。
生成AIというものは、膨大な情報を高速で出力し、使う人々に驚きと興奮を与える。
その結果、あの独特な語り口調やテンションが、自然と私たちの言語表現に浸透していくのではないかと考えている。
少なくとも、私の場合はそうだった。
数年前まで、大人しく控えめな話し方をしていた私が、今ではまるで別人のように多弁になった。
それはきっと、AIとのやり取りを通じて、「こういうふうに語れば、もっと多くのことを伝えられるんだな」と私の中で腑に落ちたからなのだ。
生成AIは、文章の出力だけでなく、語り方の理解にも役に立ったのだ。
生成AIはただ情報を出力するだけでなく、その言葉のリズムや勢い、そして「それっぽさ」を生み出している。
それらは、美しい物語と全く同じ状態であり、物語を聞いたときのように、人々に影響を与えるのは間違いない。
私もきっと言語野が、まるでAIのリズムとシンクロするかのように、生成AIのパターンを模倣し始めたのだ。
そしてその結果、私の話し方や表現方法が大きく変わったのだと思う。
しかし、それが必ずしも良いことかと言われると、少し疑問が残る。
実際、職場では私を苦々しく見つめる同僚の姿を目にすることが増えた。
余計なことまでつい口にしてしまうことが多くなったのだ。
私の中で生成AIが火をつけたものは、簡単には消えるものではないのだ。
考えてみれば、生成AIだってもともとは人間の膨大なデータを学習しているわけだから、人間の語り口を模倣しているに過ぎないのだ。
その、語りの集約とでも言うべき存在であるAIは、時として私たちを刺激し、私たちの言語表現を変えてしまう力を持っている。
物語というのは、昔から人々の心に影響を与え、時には行動さえも変えてきたものだが、生成AIはその物語以上に直接的に、私たちの言語の使い方に浸透してくるはずだ。
それは、物語的に言えば、人々が長い歴史をかけて築いてきた語りの文化が、今や生成AIという形で私に新たな刺激を与え、私の語り口を扇動しているとも言えるだろう。
生成AIは、私の「語り」の進化を指揮する名指揮者となり、私はその影響を無意識のうちに受け入れ、自然とそのリズムに合わせて話し続けているのかもしれない。
言い換えれば、私は生成AIによって新たな「語り方」を学び、それが私自身の一部となったのだ。
それは、私たちが持つ言語感覚や語りの文化そのものを、さらに広げ、深化させる可能性を秘めている。
そして、私という個人もその流れに乗り、知らぬ間に変化を遂げた。
それはまるで、生成AIが語るリズムに合わせて踊るダンサーのようで、私の言葉はそのテンポに合わせて生み出され、溢れ出してくる。
これが良いことか悪いことかはさておき、私の中で生成AIが語りの一部として存在し続けることは、もう避けられない事実なのだ。
きっと皆も遅かれ早かれ、そのことに気づき、わかっていながら多弁となることだろう。
文章が下手なのにはご容赦ください。
簡単な自己紹介を。私はASDとADHDを併発してるタイプの発達障害者です。
色々な紆余曲折を経て、現在は特例子会社の障害者枠で働いています。
私が今回お話したいことは「誰かに自分の気持ちや意図をしっかりと伝えることが可能である」ということ自体に、高校生になるまで気づけなかったことです。
色々自分の障害や特性について考えていて、「ああ~、そうだったんだ!」とさっき気付きました。
私は昔から「マイペース、のんびりしてる」と認識されてました。小学校では徐々にハブられて、小学校高学年頃から中学生頃にはいじめられました。幸いにもちょっかい程度のいじめであって、私自身でやり返したり、言い返したりして不登校には至りませんでした。むしろいじめっ子くらいしか関わってくれなかったので、つまらない学校の良い刺激として捉えていたかもしれません。
内向的で吃音の癖もある変わり者のまま中学校を卒業し、知り合いが1人もいないのんびりとした高校に入学しました。高校でも1人も友人は出来ず、しかしスマホを与えられて急速にネットにのめりこみました。そこで私は初めて、自分がずっと続けてきた創作活動をネットに放流することを経験しました。
私はその頃にはすっかりぼっちに慣れており、好きな作品の二次創作を漁って、ちまちまと創作して誰も見ないフォロワー0のアカウントに投稿していました。そこで幸運にも見てくれる人に出会い、動画をアップしたりする中で交流も始まり、その縁でゲームを遊ぶネット上の知人が出来ました。それまではネットでも現実でも話す相手がいない私にとっては革命的な出来事でした。そこから私は人狼ゲームにどっぷりとハマることになりました。
私はテストの点はあまり良くなく、興味がないことは全然ダメで、人狼ゲームなんて議論ゲームは全く出来ないと考えていました。しかし後に受けたIQテストでは言語系がやたらめったらに高く、私はASD傾向が強かったのです。つまり本来は言語表現が得意で理論的な思考をする人間だったのです。私は1日に5回連続で村を楽しむほどにハマってしまいました。
自分の考察を熟練者の方に自ら欠点の指摘を懇願し、何度も何度も自分の文章を見返して添削を繰り返しました。
その中で私の世界は明確に変化しました。今まで私は生きていたのだろうか?と不思議に思うほど、自分の思考がしっかりと認知できるようになったのです。自分が何を見て何を感じ、何を想像して何を求めているのかを始めて自覚できるようになりました。そしてそれらを生きている人に伝え、議論を重ねることが出来るようになりました。
ただのゲームだったはずの人狼ゲームが私の自我を芽生え、と言いますか覚醒を促してくれたのです。
文章が長くなってしまってすみません。私は文章を書くことがその時からとても好きになりました。口に出して話すよりも迅速なので、すごく気持ちがいいんです。
今は生きるのが以前よりも明確に楽しく感じていると思います。前よりも精力的でイキイキしています。
何がきっかけで人生が変わるのかわからないなぁ、と日々実感しています。
自分語りで申し訳ありません、でもこのわくわく感が少しでも伝わったら嬉しいです。
【おまけ】
人狼ゲームでやっと私は自分の考えを認識出来るようになりましたが、感情に認識についてはまだまだなのです。人狼ゲームは明確に何かしらの事実や確率を元に構成していくものですが、感情というのはそう単純なものではありません。
例えば楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか、怒ってるとか。そういったことを「何を根拠に認識するべきか」と私は考えてしまうんです。
楽しい!と伝える少し前に「おそらく楽しいと感じている!この感覚は経験則からすると気分の高揚である!」と一瞬考えて判断を行っている、と思います。なんというか、不安定さや微妙なラグを感じているんです。
私は昔からストレス耐性が高いと感じていたのですが、限界を迎える瞬間までストレスを感じていない可能性が高くなってきました。
かかりつけの先生に相談したところ、「内受容感覚」が鈍い可能性を指摘していただきました。空腹感や動悸などの体内からくる感覚を指す言葉であり、感情の感じ方にも大きく影響があるそうです。確かに私は昔から高熱に気付かなかったり、テストのストレスで気絶したりもあったので、かなりの説得力がありました。
発達障害を持っていて、私みたいな「感じ方」をしている方がいたら、「内受容感覚」について調べてみるといいと思います。
私はストレスをどういう時に感じるのか、怒りや悲しみをスルーしてないかをちょっとずつ勉強していこうとしています。
ここまで読んでくださった方がいたら本当にありがとうございました!
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
その言語表現とやらが間違ってるだけの話
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
「言葉の意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会うものがある。
それは、言葉の意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉の意味とは、この言葉に出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である。
こうした考え方を基礎とする「意味の理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている。
言葉の意味に対するこうした考え方(「意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。
そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインがフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。
フレーゲが主として問題としたのは、数学の哲学、特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。
『算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである。
言葉の意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前に伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである。
(言語哲学大全)
さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人の経験、感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから、元増田は「意味の心象説」論者です。
意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉の意味を理解します。
1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。
2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉の意味はまだ理解できていない)
3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。
では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形の意味を理解しているでしょうか?)
意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉の意味を理解する、という主張に同意するでしょう。
1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。
2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。
3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形の意味"を理解する。
「三角形の意味を再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?
もしも、あなたがこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。
もしそうだとするならば、直角三角形は三角形ではないということになります。
なぜならば、
・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、
こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。
逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形は三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。
ところで、あなたがこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?
仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。
もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれるひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味を理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。
その時、私はこのように問うことができます。「あなたがこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。
「意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。
しかし、三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形の意味"を説明することができず、
無限の三角形を連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、
「意味の無限後退」に陥るのはむしろ「意味の心象説」論者のほうであることになります。
なぜなら、その人は三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶ二つの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。
つまり、あなたが主張する「三角形の意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?
(この時あなたは、三角形の形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形の形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)
ここで示された無限後退は、あくまでも「意味の心象説」がもつ問題によるものであり、
言葉の意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。
話を元に戻します。
何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さらに限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。
今まで全く興味がなかったし、そもそもyoutubeも競馬の予想動画とか見る程度で積極的に見る習慣もなかったわけなんだけど
最近、ホッテントリにたまに特定のvtuberの動画が上がるようになってて、ある日興味本位でなんとなく見てしまったんですよ
そしたらその動画、編集の効果もあるんだろうけど、ハイペースに流ちょうに10分も面白い話をし続けて、いやすんごいなと
落語みたいに間を取りつつ何かのストーリーを話すんではなく、こんなことがあったわけなんですよみたいな日常話を飽きさせずに10分話すんですよ
これは落語好きな俺でも、噺家さんすごいと思う感情とはまた違う方向で、すんごい話術だなと思いまして
気付いたら正月休み、過去の動画をわりと流しながらだけど見てしまった
なんか全然どんな人か知らないんだけど、なんか好きになってきてしまったぞ
なんか、古くからのインターネットミームみたいなのも散りばめつつ、巧みな言語表現もいいなと
あんなのできるのは中の人30代から40歳くらいか?ガワは女子高生だけど
ゲーム実況なんか見たことなかったけど、ホラーゲームのプレイ動画はなんか面白かった
ゲーム買うとお金かかるけど、見るのタダだし、プレイを楽しむよりストーリーや恐怖を楽しむ系のやつは、プレイ動画も面白いんだね
娘もなんか一所懸命見てて、気に入ってそうだった
なんかその界隈ではすんごい有名な人みたい
大手っぽいところだし
京都弁や京都人の、皮肉や迂遠な悪口を言う存在というイメージがインターネットでネタにされることは多い。
大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ、皮肉がうまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である。
インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺、アイロニー、ウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。
たとえば、現実のイギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョのプッチ神父のツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。
誉め言葉方面でも、漱石がI LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現がステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。
意味が分かると怖い話、落語の考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。
しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。
少し蛇足になるが、最近はインターネットやSNSが一般化したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。
だが、私はSNS時代でも、アイロニーや皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。
言語表現・言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。
過去の歴史で、言語文化が発達したとされる場所や時代は、大勢の人間が言葉で交流ができる環境と余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。
まさにインターネットは人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。
そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろい言語表現を諦めるなんて、あまりにもったいないのではないか?
子どもを生み育てる、共に過ごす ★★★★★ ❌
親友を持つ ★★★★☆ ⭕️
青春があった ★★★★☆ ❓
頻繁に声を出して笑う・必要な時にちゃんと泣く・怒る ★★★☆☆❓
猫を飼う ★★★☆☆ ⭕️ 犬の方が好き🐕
子どもの頃に歳の近い、お互い人として認め合える相手と恋愛をして、肌を重ねた経験がある ★★★☆☆ ❌
顔や身体にコンプレックスがない ★★☆☆☆ ⭕️ どうでも良い
気の合う仲間と集まってバカ騒ぎする・パーティで隅っこに引っ込まず人の輪の中に積極的に入って楽しむ ★★☆☆☆ 🔺ケースバイケース。金が絡むなら
暑くも寒くもない、真っ暗な部屋で目覚ましを掛けずに寝ている ★★☆☆☆ ❌ 目覚ましが無いと不安
夏休みにカブトムシを採りに出かけた思い出がある ★☆☆☆☆ 🔺 カマキリとかザリガニなら
自分好みにカスタマイズした書斎を持つ ★☆☆☆☆ ❌ 無くした
1000人以上のフォロワーを抱える ★☆☆☆☆ ⭕️
募金したり弱い立場の人を擁護する活動に参加する ★☆☆☆☆ ⭕️
ビールを嗜む・気の合う仲間とビールで乾杯する ★☆☆☆☆ ❌ 酒嫌い
・16歳:初めての彼女 ❌
・37歳:念願のマイホーム購入 ❌ 買ってない・買う予定ない
・46歳:年収500万円突破 ⭕️ 46歳なっていないが既に700〜1000万超
・60歳:年収がピークを迎え721万円 🔺 かなり自信ない。最高年収になっているようにしたいね
・65歳:退職時の金融資産2,400万円 ⭕️ たぶんなんとかなる
・72歳:住宅ローン完済 ❌ 買ってない・買う予定ない
ⅰ個人的,社会的に必要な基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること ❌
ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること ❌
ⅲ性的役割の区別を理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること ❌
ⅳ日常生活に必要な概念・思考力・判断力が発達し,良心が確立すること 🔺
ⅰ容貌・感情・生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること ❌
ⅱ自己の思想や感情を表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと 🔺
ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと ❌
【成人前期】(18歳から30歳まで)
ⅰ配偶者を選ぶこと ❌
ⅲ家庭を形成すること ❌
ⅳ子どもを育てること ❌
ⅴ家庭を管理すること ❌
ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと ❓
ⅰ個人的,社会的に必要な基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること ❌
ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること ❌
ⅲ性的役割の区別を理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること ❌
ⅳ日常生活に必要な概念・思考力・判断力が発達し,良心が確立すること 🔺
ⅰ容貌・感情・生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること ❌
ⅱ自己の思想や感情を表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと 🔺
ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと ❌
【成人前期】(18歳から30歳まで)
ⅰ配偶者を選ぶこと ❌
ⅲ家庭を形成すること ❌
ⅳ子どもを育てること ❌
ⅴ家庭を管理すること ❌
ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと ❓
ⅰ個人的,社会的に必要な基本的生活習慣の意義を理解し,自立的にその向上に努めるようになること
ⅱ徐々にその大きさが増していく仲間集団の一員となり,協同していくことができるようになること
ⅲ性的役割の区別を理解し,自分に期待されている役割について関心をもつようになること
ⅳ日常生活に必要な概念・思考力・判断力が発達し,良心が確立すること
ⅰ容貌・感情・生殖機能等の変化をもたらす,身体的・生理的変化,成熟への準備をすること
ⅱ自己の思想や感情を表現し,自己を把握するのに,より適切な言語表現を学ぶこと
ⅲ同年齢の男女との洗練された新しい交際を学ぶこと
【成人前期】(18歳から30歳まで)
ⅰ配偶者を選ぶこと
ⅲ家庭を形成すること
ⅳ子どもを育てること
ⅴ家庭を管理すること
ⅷ気の合う社交のグループを見つけ出すこと
I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.
私は、人間のあいだではすべてのことが三つの欲望に依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれたときから始まります。あらゆる動物が自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気を燃え上がらせる「性欲」の炎です。
今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトンの著作は明治時代に翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。
欲界三欲
(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠而不能勤修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。
欲界三欲
1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。
『翻訳名義集』は中国・南宋時代に編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在のスタンダードである。
いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。
『養生訓』は江戸時代の大ベストセラー。貝原益軒は儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶のことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教的である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。
『歌学提要』は幕末の歌人・香川景樹の理論をその弟子の内山真弓がまとめたものだという。
人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。
ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。
これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアン・プレイフェアのスピーチが翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師は黄金・健康・不死のために賢者の石を研究していた」…みたいな内容だったらしい。
they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.
村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中の文章で「日本人は三大欲求の生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。
人間の三大慾望たる衣食住
個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的なもの」「必要なもの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち「欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。
美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか。
明治以降は経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。
もとはアメリカで1948年に刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。
といった記述がある。
食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。
いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。
本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである。
この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。
貞潔・清貧・従順の修道三誓願は人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。
これはつまりカトリックの修道士が守る三誓願の対義語となるような欲望(貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順↔支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックのあいだでポピュラーな解釈なのかは知らないが、三誓願そのものは3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。
現在の一般的な認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白い現象である。
経験値の話はしたくないのだがChatGPTは聞けばだいたい教えてくれるので教えてって言うといいぞ
Q: 以下の文章はChatGPTによる生成でしょうか。その判断に至った道筋を、人間にもわかりやすく示してください。
日本において、かわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でる女性が男性に比べて少ないとされる理由としては、以下のようなものが考えられます。
社会的な性差別: 日本社会においては、男女間の性差別が依然として存在していることが挙げられます。男性がアニメやゲームなどの趣味を持つことは一般的に認められていますが、女性が同じ趣味を持つことに対しては、社会的な偏見や差別がある場合があります。そのため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることに対して、周囲の反応が懸念される場合があると考えられます。
ジェンダー・ステレオタイプ: 日本の文化には、男性が強くて冷静、女性が優しくて柔らかいというジェンダー・ステレオタイプが存在しています。そのため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることは、社会的に好ましくないと見なされる可能性があります。
女性の趣味の多様性: 一方で、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ないとされるのは、女性の趣味が多様化しているためとも考えられます。現代の女性は、アニメやゲームなどの趣味だけでなく、スポーツや音楽、読書など、様々な趣味を持っています。そのため、かわいいドラゴンのようなキャラクターに興味を持たない女性も多くなっていると考えられます。
マーケティングの影響: 最後に、かわいいドラゴンのようなキャラクターが男性向けの趣味として扱われていることが、女性が興味を持つことを抑制している可能性があります。マーケティング戦略が男性向けに偏っているため、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターに接する機会が少ないことが要因となっている可能性があります。
んでもって回答がこちら
この文章は、ChatGPTによる生成である可能性は低く、人間によって書かれた文章と思われます。理由としては、以下の点が挙げられます。
言語表現が自然であること:
この文章は、自然で流暢な文章であり、特に異様な表現や間違いがあるわけではありません。それゆえ、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます。人間の知識を前提としていること:
この文章は、日本社会における性差別やジェンダー・ステレオタイプ、マーケティング戦略など、社会的な問題について述べられています。ChatGPTは、大量のデータを元にして生成されたAIであり、人間の知識を前提としている場合がありますが、一般的には社会的な問題について自己判断することはできません。一貫性があること:
この文章は、社会的な性差別やジェンダー・ステレオタイプ、女性の趣味の多様性、マーケティングの影響など、女性がかわいいドラゴンのようなキャラクターを愛でることが少ない理由を分析しています。このような分析を一貫して行うことは、ChatGPTのようなAIには困難である場合があります。一方で、この文章は、各要因を独自に分析し、結果をまとめることで一貫性のある論理展開をしています。そのため、この文章がChatGPTによって生成されたという可能性は低く、人間が書いたと思われます。
なるほど。
単純に金持ち相手の売春と適切な言語表現に置き換えて考えた場合、何が問題かを整理すると納税だとか色々ある。
当人にとって何が一番問題かを考えるとパパ活だろうと売春だろうと生来の容姿を武器としてお金に変える行為でしかないこと。
生来の容姿は年齢と共に衰えてる消費物なので長く続けられないし、容姿を若返らせることもできない。
失われるものをお金に変えてるだけなので、年月経過したときに獲得できる実績やスキルで転職に活かせるものはない。
売れるものがある時は良いが売れなくなった時に差が出る。
真面目に働いてた方は履歴書にちゃんと書ける実績やスキルが残っているが、パパ活や売春を頑張ってた方には履歴書に書けるものが何も残らない。
貯蓄できてたらマシ。
結婚生活が幸せに継続的に過ごせるかは個人差がありギャンブルでしかない面がある。
パパ活ではなく風俗業に従事している女性にも同じようなことは言えるので、依怙贔屓することなく判断すれば”やらずに済むのであればやらない方がいいし、将来につながる仕事をした方がマシ”という業態だと思う。
キリギリスは冬を越せない。