はてなキーワード: 構成員とは
(前略) ところがほかのメンバーたちが、いきなり会場内で殴り合いを始め、ビール瓶やグラス、ナイフ、フォークが飛び交い、ガッシャーンという音が鳴り響きました。そして、警察を呼ばれたとわかった途端、怪我人を除き多くが一目散に逃走しました」
警察呼ばれたとわかった瞬間、怪我した仲間を放って一目散に逃走する半グレ
幹部は5人ですが、そのうち3人が逮捕されていて、幹部会を開けない状態です。現在、組織は総勢300人程度。各支部は独立採算でやっています。創設メンバーである幹部はすでに50代になっているけど、誰も引退しない。組織の大半を占めるのは2世で、だいたい40代後半
幹部が50代で引退せずに居座り続け、組織の半分がアラフィフで高齢化が進む半グレ
警視庁は、2021年12月に4億円相当の覚醒剤を密輸したとして、チャイニーズドラゴンの構成員の男を逮捕した。また、2022年の8月、9月にも、それぞれ傷害容疑で同構成員が逮捕されている。
三つ子虐待死の減刑嘆願のあれこれを見るに、育児のトラブルにおいては、たとえ子殺しであろうとも「母」は被害者であり、罪は男の作った社会にあり、男が償うべき問題らしい。
であれば、虐待を受ける息子は幼児と言えども「加害する側の性別」であり「後には男社会に属する」わけだから、「男社会の罪は男が償え」論によってその責任を背負うはずである。
即ち、「政治的に正しい理解」においては、殴っている母こそが被害者であり、殴られている息子こそが加害者なのではないか?
虐待された息子が虐待した母を糾弾するようなことは、己の加害者性に目を背ける行為であり、「政治的に正しくない」のではないだろうか。
虐待を受けている少年は母から一打を受けるたびに、母をそのような凶行に走らせている社会(の構成員となる己)の罪に向き合い、母の心を救えるように努力する事が求められているし、それができない者はミソジニストで、弱者男性で、失格である。
少し前の話だけど、有名な俳優が訪れたクラブのキャストに暴力を働いたということで出演していた番組やCMを降板になった。
番組自体が終わってしまったものもあって、昆虫をテーマにしているそれは俺も大好きで、いい大人が昆虫のことを熱っぽく語っている様子が面白かったし、やっぱり俳優その人が好きだったんだと思うんだけど、そういうことをする人物なんだと知って、もう前のように観ることはできなかったと思うから、しかたがない。
それを受けて、あるインフルエンサーの一人が「その俳優について意見するのは自分とまったく関係のない物事について延々議論するのと同じだから、自分の問題に向き合った方がいい」ということを言っていた。
この発言の細かい文脈はよくしらないが、他人のことにごちゃごちゃ言うより、自分が抱えている自身の課題に集中した方が合理的だし健全だよ、ということだと思う。
そこで主張されている(と推測される)ことは割りと理解できて、他人の情報に気を奪われるよりも自分の生活や夢を守る方が大事だろう、というのはもっともだと思う。
ただ、それじゃあ件の俳優の事件がまったく問題視されず、事件以降も堂々と映像作品に出続けていいかというと、そうではないとも思う。
映像に対して、「こういう人だと知ったら、もう前のようには観られないな」という消費者としての接し方と、「こういう人が制裁を受けずにこれまでどおりでいられるのっておかしいし、そういう社会のあり方は拒絶するべきだろう」という共同体の構成員としての責任があって、この二つは重なっていることはあっても、個別のものだと思う。
社会の進んでいく方向に対して、どうも違和感があるなら、それに疑義を示すリソース(時間や体力)は生活の維持とか将来の夢に向ける努力とは別に費やされていいわけで、そういう意味で、思うところがあったら言うべきだろう、と考える。
ただ、その主張に対する熱意が度を越して、身体の健康を害したり周囲を巻き込んだりするとそれも問題であって、そうなるぐらいなら「俺にはカンケーないんで、俺は俺のことだけやってますね」という方がいいのかもしれない。
あと、件のインフルエンサーだって、別に当該の俳優が起こした事件がまったく問題ないと思っているわけじゃないだろうし。
「(お前が首つっこまなくても、しかるべき制裁を受けてしかるべきところに落ち着くんだから、)お前はお前のことをやっとけよ」というのは、アドバイスとして悪くはない。そういうことだけじゃねえだろ、と俺は思うけど。
芸能界の話ばっかりだが、以前、不倫騒動を起こして妻と離婚したある俳優がいて、近況を最近記事で読んだのだが、ネットのコメントでずっと怒られている。
人ん家のことなんだし、どうでもよくねえ? と俺は思っている。
元妻だった女性との間で法律的に決着はついてるんだろうし、心理的にも解決…はしてないのかもしれないが、別に禍根が残ってても、俺たちがどうこう言うことじゃねえじゃん、と思う。でも、許せない人には許せないらしい。
ただこれも、「こういう男が時間が過ぎたらなんとなく許されてのうのうと社会、ましてや映像業界に復帰できてしまうから、いつまで経っても女性の立場が改善されないんだ、だから怒りと拒絶を示す必要があるんだ」と言われたら、あ、そうなのか、と思ってしまう。
そうなると、先に書いた別の俳優の暴力事件に対して表すべき反応との違いがわからない。そうか、じゃあどっちもいかんか、となって区別ができなくなってしまう。
自分以外の誰かのために必ず示すべき怒りがある。一方で、その感情によってむしろ何かが損なわれている怒り、あるいは、誰かのためのようでいて実は自身のための怒りもある。そこのところがよくわからないが、「怒っても時間の無駄だから自分のことをした方がいいぞ」というのは賢いんだろうけど、ちょっと違うよなあ、と思う。
だって、今の俺たちの生活も、俺たち以外の誰かが未来の俺たちのために怒ってくれた過去からできているものでもあるだろう、と思っている。
2018年に同様の自殺を遂げたライダーの方の模倣とも聞くけど、ざっとツイートを読むと、躁状態的な明るく楽しげなツイートの中に、
「最後」や「もう来れない」といった自殺を匂わせる文言を差し込んだり、発達障害や自殺に関するツイートをRTしていたりと「手がかりの配置」が
美しく、しかも最後の写真が「過去にRTした『一歩踏み出す』というテーマのイラストと構図が同じ」で伏線回収しつつ、「詳しい人や地元の人なら
その写真だけでどこか分かるくらい変わった形状のダム」を背景に写すことで、「どこで彼が死のうとしてるのか」考察し、現地に向かう人を呼びこんで
直前の「これで日本一周は終わり!」ツイートへの当初のリプライを見てると、「いろいろヒントは出てたのにみんな気づかず呑気なもんだぜ」って
感じで、kotaさんこれ見ながら気持ち良かっただろうなと思うよ。「騙し切った!」って快感ね。
これから死のうと思ってて、どうせ死ぬなら多少目立ってみたいと思ってる私のような人間には勉強になることしきりですよ。
ADHDの診断書。いやー分かる。「あ、俺って先天的に欠陥品だったんだ。道理でな~」って確定しちゃえば、今感じてる生きづらさは
一生続くんだって分かっちゃうからね。だったらば一秒でも早く死んだほうがコスパが良い。でも、ただでさえ面倒だったり怖かったりする
ことは先延ばしにしがちな発達障害。「死ぬ」のなんて一番怖いし面倒くさいですからね。
そこは、自殺を「残りの人生ぜんぶ賭けたビッグイベント」と読み替えて自分に暗示をかけて、「楽しいことなら頑張れる」過集中のムラッ気を
生かして愉快に死ぬしかない。kotaさんのやり口はその意味でも非常にクレバーでしたね。
自分が「普通」に現代社会に適合した生活ができない欠陥品だってことは二十何年生きててよく分かってるし、それが
環境遺伝も含むにせよ親からの遺伝だってことも分かってる。大嫌いだった父親と同じような言い方で他人を脅し、傷つけ横柄に
振る舞うようになってしまった。うちの父方の一族は、全員同じ怒り方をする。私も。嘘で自分を大きく見せようとしたり失敗をごまかそうとする、
父の短絡的な虚言癖と軽薄な外面の良さもしっかり受け継いでしまった。あれは祖父も一緒だった。
軽蔑していた父方の伯父のように、九時五時の仕事が嫌になって辞めてその場しのぎのコネの単発仕事と借金で自堕落に
暮らすことをなんとも思わなくなってしまった。
私の親族を見回すと、ひとりも真っ当に自分の力で生計を立てている人間がいない。父方の一族はみんな、網元で金持ちだった
祖父の当てにして遊んで暮らしている。その祖父だって、独力で会社を立ち上げたんじゃない。大政翼賛会の幹部で県会議員
だった父親(曾祖父)が、公職追放後の新しい稼ぎとして仲の良いヤクザから借金のカタに取り上げた定置網の漁業権を
売ってもらって、それを息子が継いだというだけだ。祖父も父も、ただ親が用意してくれたレールに乗ってへらへら既得権益を
むさぼっていたにすぎない。大体、漁業なんていうのは自分がつくった訳でもない自然のものを略奪する泥棒であって、
網元なんてその泥棒する権利を「最初の方からその町にいた」というだけの既得権益者で独占する犯罪集団の構成員だ。
漁師なんてみんな死んだほうが良い。
母方の一族も、みんなコンビニと不動産業をやっている祖父から金を送ってもらって生きている。母方の祖父母については、高度経済成長の
人口ボーナスを追い風に馬車馬のように働いて戦後のどさくさから一代で蓄財したのだから大したものだと思うが、てめえの息子が
確実に統合失調症なのを40年間引きこもらせて病院に連れて行かせず、今や「玄関の前で蝉が死んでた!集団ストーカーが
死骸を目印のために置いたんだ!」と騒ぐおしまいの60男になってしまった責任を取らずに死んでいこうとしている罪は重い。
父方も母方も、今のうのうと生きている50代以上の寄生虫どもが財産を使い果たし、私にまで回って来ることはおそらくなさそうだ。
私に与えられたのは、ただただ「まっとうに働くことができないこらえ性のない注意欠陥障害で」「社会性も協調性もない」
「ホウレンソウのできない」「部屋も片付けられない」「双極性障害で」「クズのくせに無意味にプライドばかり高い」「すぐにキレる」
「感情的な人間なのを糊塗するために論理的にしゃべろうと必死になってモラハラみたいになる」「虚言癖で自分を大きく見せたがる演技性人格障害で」
「人におもねって喋っているのがバレバレで信頼されない」「自分の意思と力で飯を食っていこうという能力に決定的に欠けた」
自分の遺伝子がこの世に必要がないことは分かり切ってる。生まれてくる必要がなかった。ただ、私が苦しい思いをし、私のまわりの
人間たちが私のせいで不快な思いをするだけなのだから。反出生主義とはなんと妥当な価値観だろう。
私は自分が欠陥品だと分かっているにも拘わらず、反省しない人間なので「じゃあ周りの連中はそんな価値のある存在なのかよ!?」と
他人に転嫁して叫び散らしたくなることがある。結婚や子作り・子育てにポジティブな人間を見ると「お前ら如きの遺伝子を世界に遺す
一見正しそうだが正しくないラベリングをすると、結果として意図しない結果を引き起こすことがある。
"難しい人"、"有害な振る舞い"というのは、大変よろしくないラベリングになる。
こういったときに「言ってることはわからなくないけど、なんか違うな」と違和感を持ち、解決策を探るのがエンジニアである。
アクションに落とし込めないもの、計測できないもの、機械的に判断できないものは、いわゆる人間力に頼ることになる。
具体的に以下を例に挙げる。(元の記事の一番最初に例示されているもの)
この短い(1行80文字以下を短いと言う)文章の中に、人間力に頼る判断は何か所あるだろうか?
私は、「創造的」「議論」「阻害」「時間を奪う」の4つは、機械的な判断が難しいと思う。
これは客観的な基準で「他者の話に割り込んで、自分の意見を差し込」んでいる。
先ほどの例だが、こんな前提があったとする。
そうすると、「営業と管理職から見て、大変有意義で創造的な議論に、毎度口をはさむ難しい組み込みエンジニア」というレッテルは正しいだろうか?
各人の判断は、正しいだろうか?
人間力に頼る判断基準で多数決を用いるのは、エンジニアリングで無く、政治的な解決だと思う。
先ほどの会議の例でいえば、5人中3人が心理的な負担を感じており、不愉快な気分になっている。
チームの60%が「創造的な議論を阻害する有害な振る舞い」だと認定している。
その判断は、正しいだろうか?
この場合、組み込みエンジニアが、難しい人 or 有害な振る舞いをする人として、指導もしく排除されたとする。
それは、心理的安全性をあげ、チームの生産性をあげる行為だろうか?
例えば、今後デザイナーは、営業と管理職が「どのような雑談をどの長さでしていても」発言しなくなるかもしれない。
デザイナーからみて、その会話が創造的な議論か判断ができないからだ。
さて、Web系のバックエンドエンジニアや、クラウドインフラエンジニアだと、アラートを設定したり、対応したいことがある。
「何かまずいことが起こっていることを、何らかの方法で監視して、対応したい」という場合だ。
例えば、待機系サーバーの起動時に妙に時間がかかっている場合、自動対応ができないので、アラートメールを飛ばして手動対応したいと思ったとする。
絶対値(10分)か、相対値(過去5回の起動時間の平均値)かは場合によるし、それが適切かはまた別の話だ。
「他者の話に割り込まない」というルールは、誤検知を引き起こしやすいアラートだ。
そんなのは常識で考えたらわかるだろう?曖昧な基準は「俺のは有意義な議論の発言だ」の判断を誰かが決めることになる。
大多数がそう思っていれば、という複合的な基準もありうる。その場合、先ほどの例の組み込みエンジニアは、アラート対象になる。
「会議のアジェンダに記載されている内容を3分以内で喋っている場合に、割り込まない」というのは、一つの基準になる。
この場合、営業が「営業概況を冒頭のアジェンダに加えて欲しい」と交渉する余地がある。
また「報告時間が10分は欲しいが、3回以上は一度会話を止めるので、営業概況に対する質問はその時に」という合意もできる。
そして、顔合わせのキックオフミーティングで、営業概況をやるかは、会社やチームによる。
明示的なルールで縛るのが正しいかと言えば、そうした方が良い職場もあるだろうが、窮屈な職場も多いだろう。
という簡単な話に見えることですら、ルールを作って守らせることに違和感を感じる感性も正しいと思う。
チーム(もしくはマネージャー)に求められるのは、こうした「何かチームに嫌な感じがある」ときに軌道修正できることだ。
一例でしかないが、例えば以下の流れでルールを作らずに、解決できることもある。
コミュニケーションコストを、チームを維持するのに必要なコストとして、きちんと時間を割けるかが重要だと思う。
さらに言えば、「それは有害な振る舞いだと自分は思うが、あなたがそう思わない理由は何か」とコミュニケーションを取れないのであれば、そこに課題があるだろう。
チームやマネージャーがある人を「難しい人だなあ」と思ったとして、2つの解決策が出てこないのなら、その思考には課題があるのではないか。
「他者に配慮できる」という曖昧な基準で異物を弾くようなチーム作りは、蛸壷化して致命的な結果を引き起こすことがある。
パワハラ、セクハラ、試験結果改ざんが、「なんでそんなんなるまで誰も言わなかったんだよ」となるのは、
「その構成員が他者に配慮できる人たちで構成されていて、異物を弾き続けた結果」であることが多い。
少なくとも、「エンジニアの”有害な振る舞い”への対処法」には、機会、動機、正当化のいわゆる不正のトライアングルのうち、動機と正当化を満たしている。
いやいや極端だろと思うだろう?
快不快が、正しい正しくないに繋がっていることは社会生活を送っていると極めて多い。
「マネージャーならば」法律や外部の意見も含めてかなり慎重に判断する必要がある。
「エンジニアならば」相手に快適に聞こえるようにコミュニケーションするスキルは磨いておいて損はない。
(あと、機械的に判断可能なルールを守ることが自分を守ることに繋がる。ルール順守か業績なら、常にルールを守れ。記録を軽視するな)
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。
奴隷が当たり前の時代では奴隷が当たり前だったように、差別はその社会の構成員には当たり前すぎて、不当なことをしていると思わないものだ。
言及先のように、現在の社会一般に受け入れられている傾向を観察して、「○○は差別だけどしていいよ」と広く周知することは悪魔のささやきだ。
現代という時代は、現状追認の思考停止した人々の選択が、イジメから気候変動まで様々な問題を引き起こすからだ。
人間の認知能力には限界があるため余談や偏見を抱えたまま判断をするしなく、誰しも誤りや差別を犯してしまう宿命にある。
だから「みんながしているから、正しいだろう、失敗しても叩かれないだろう」に流されるのだけど、
それは「最初から責任回避を用意していて、悪事を成すことに無関心、悪事を成した後でも無関心」という、倫理的にも問題解決的にも最悪な態度じゃないか。
少しでも正義や平等を大事にする気持ちがあるなら「自分の責任で正しいと思うことを判断して行い、人間の宿命的にしてしまう差別には寛容かつ誠実に向き合え」としか言いようがない。
「身長を基準に相手を選ぶ→差別じゃない」という世間の風潮に疑問を持ったなら、なぜそう思ったのか自分なりに深掘りしてみてほしいよ。
はてな匿名ダイアリーってのを思い付いたので、是非試して見て欲しい。
私は「ポリコレ嫌い」が苦手だ。
私と似た観測範囲を持つ人はこの一文で過不足なく伝わるであろうが、もう少しだけこの背景を共有したい。
ポリティカル・コレクトネスという考え方は、社会を構成するあらゆる属性の人々が、その属性によって不愉快に感じたり不利益を被らないようにしようという理念である。
なるべく多様な人を包摂するような視野で表現しようということだ。
どういうわけかこの「ポリコレ」はいわゆる「オタク」と呼ばれる人たちにおよそ蛇蝎のごとく嫌われている。
何のオタクか?と問われると明瞭な回答を与えることができないのが歯がゆいが、おそらくアニメ・ゲーム・映画等に関心を持っていて、積極的にソーシャルメディアで語り合う人たちと言ってもいいかもしれない。
そして、私はこの「オタク」による「ポリコレ」の嫌いかたが苦手なのだ。
その嫌いようといったらまるで「ポリコレは倒すべき外敵、屈してはいけない」というような具合なのである。
マイノリティの属性を持つキャラクターが登場すると「出たよポリコレ」。
ポリティカル・コレクトネスが無謬の理念であるとは言わないし、理念の実装にあたってプラクティカルな問題が起こり得ないとも言わない。
極端な話ではあるが、例えば「日本の田舎の中学校」を描く作品にアフリカ系日本人と中国系日本人とヨーロッパ系日本人とアイヌ民族と琉球民族と大和民族の全てを出演させなければポリティカルにインコレクトであるとするような言説は、私の感覚では受け入れがたい(し、皆さんもそう感じるのではないかと思う)。
けれども、私の目に映る「ポリコレ嫌い」の批判はそういうことではないようなのだ。
私には「マイノリティが描写されること自体からポリコレを連想して、それに敵愾心を燃やしている」ように見えてならない。
先ほど挙げた「マイノリティを描かなければならない」という理念とは対象的に、「マイノリティを描いてはならない」という理念にすら映る。
おそらく私は、「ポリコレ」という「倒すべき外敵」に抱かれる敵愾心と、それに対する無自覚が苦手なのだと思う。
無邪気に使われる「ポリコレに屈した」という表現にも「負けてはいけない外敵に負け折れてしまった」という含意があり、屈折した被害者意識を感じてしまう。
ポリティカル・コレクトネスと向き合うことを避け、漠然とした怒りの感情を「ポリコレ」に仮託していると感じてしまう。
とにかく、鬱屈としているのだ。
改めて明言したいが、ポリティカル・コレクトネスというのは上でも述べた通り無謬の理念ではないと思う。
しかし、誰もがその属性によって必要以上に傷付けられない表現を目指すという素朴な理念自体は間違ったものではないだろう。
実装にあたって様々な問題が起こってしまう理念自体を陶冶していくためにも、我々はポリティカル・コレクトネスから顔を背けず向き合うべきなのではないだろうか。
男さんも利権ぐるぐるオリンピックといい統一教会といい腐った政界をなんとかできてないのはなんでなんですか?
まともな政党もありますよね。なぜ男性様は一致団結してそのような政党を押し上げないのですか?
こういう弱者男性論とか共同親権派とか反ワクチンとかネトウヨとかテラス缶とかが盛り上がって流行るのは構成員が活発に活動するのは何故かというと、非モテや弱さやバカで頭が悪くてブスでキモくて人から嫌われるとかそういう要素との結びつきが非常に強く、鬱屈した人間にとっての唯一の娯楽になるからなんだよな。
普通の一般的な人間ならここまで感情を強く持って何か一つのことについてネットで延々叩くなんて出来ないので、一見ネット上では盛り上がってるように見えたりする。が、実は、このようなインセル投稿やインセルコメントはごく少数の人によって(1人2人、いても数人程度)なされているのである。
この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 暴力的不法行為等 別表に掲げる罪のうち国家公安委員会規則で定めるものに当たる違法な行為をいう。
二 暴力団 その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体をいう。
四 指定暴力団連合 第四条の規定により指定された暴力団をいう。
八 準暴力的要求行為 一の指定暴力団等の暴力団員以外の者が当該指定暴力団等又はその第九条に規定する系列上位指定暴力団等の威力を示して同条各号に掲げる行為をすることをいう。
被害者連絡会だかの情報を信じるならば、コンプライアンス宣言後もいっかな統一による霊感商法被害が減っていないという事実をもって
社会に悪影響の大きい団体の構成員であること、を理由に採用を回避するのはアリのような気もする。
まず、「カルト」という言葉は「反社会宗教団体」を意味します。良い暴力団が存在しないのと同じように、良いカルトは存在せず、カルトを排除する際に理由は不要です。
もちろん暴対法による元構成員の社会復帰困難性のような、運用面の問題に対する批判はありえます。しかし、「暴力団を排除するのは不当」という議論は成立しません。
反社会性を前提としない場合、カルトではなく「新興宗教」と呼びます。これも「うさん臭い連中」といったニュアンスで使われがちの言葉ですが、字義的には批難を含まない、ニュートラルな呼称です。
では新興宗教に帰依していることを理由に採用を拒否することは可能か? あるいは、従業員の信仰する宗教を調査することは許されるか?
これは一律に回答できるようなものではなく、究極的には裁判で最高裁まで戦うようなお題になりますが、
雇用契約自由の原則に従って採用を拒否することは理由の如何を問わず可能、と主張することもできるし、
実務能力ではなく宗教団体への所属を理由に採用を拒否するのは不当かつ違法、と主張することもできそうです。
現実的には、不採用あるいは解雇の際に理由の開示が不要であるから、信教を理由とした採用拒否/解雇とそれ以外を弁別することが困難なので、それを防止することもまた困難であるとは思います。
では雇用契約ではなく、カルトに所属する代議士を罷免できるか? というと、これは無理です。政教分離というのはそういうことではありません。これについては安倍晋三氏が答弁を出していますので引用します。
現在自民党と連立政権を組み、政府と一体となっている公明党と、その支持母体である創価学会との関係は、政教分離の原則に照らして適切なものであるか。公明党と創価学会は「政教一致」の関係にあるか。
(略)一般論として申し上げれば、憲法の定める政教分離の原則は、(略)宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではなく、また、憲法第二十条第一項後段の規定は、宗教団体が国又は地方公共団体から統治的能力の一部を授けられてこれを行使することを禁止している趣旨であって、特定の宗教団体が支援する政党に所属する者が公職に就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないから、同項後段違反の問題は生じないと解しているところである。
(衆議院議員鈴木貴子君提出我が国における政教分離の原則に係る内閣官房参与の発言に関する質問に対する答弁書 2014年6月24日 内閣総理大臣安倍晋三)
要は代議士が統一教会の指示に従って動いていたとしても、それは統一教会が統一教会として権力を行使しているわけではないので、政教一致にはあたらない、ということです。カルト代議士を排除するには、贈収賄などの犯罪行為として立件するか、あるいは自民党自身が統一教会との決別を決意し関係者を排除(除名)する必要があります。後者の場合、党から除名されても議員資格は失わないので、統一教会新党ができることになりますね。