2022-10-06

関係ある・ない話

 少し前の話だけど、有名な俳優が訪れたクラブキャスト暴力を働いたということで出演していた番組CM降板になった。

 番組自体が終わってしまったものもあって、昆虫テーマにしているそれは俺も大好きで、いい大人昆虫のことを熱っぽく語っている様子が面白かったし、やっぱり俳優その人が好きだったんだと思うんだけど、そういうことをする人物なんだと知って、もう前のように観ることはできなかったと思うからしかたがない。



 それを受けて、あるインフルエンサーの一人が「その俳優について意見するのは自分とまったく関係のない物事について延々議論するのと同じだから自分問題に向き合った方がいい」ということを言っていた。

 この発言の細かい文脈はよくしらないが、他人のことにごちゃごちゃ言うより、自分が抱えている自身課題に集中した方が合理的だし健全だよ、ということだと思う。



 そこで主張されている(と推測される)ことは割りと理解できて、他人情報に気を奪われるよりも自分生活や夢を守る方が大事だろう、というのはもっともだと思う。

 ただ、それじゃあ件の俳優事件がまったく問題視されず、事件以降も堂々と映像作品に出続けていいかというと、そうではないとも思う。



 映像に対して、「こういう人だと知ったら、もう前のようには観られないな」という消費者としての接し方と、「こういう人が制裁を受けずにこれまでどおりでいられるのっておかしいし、そういう社会のあり方は拒絶するべきだろう」という共同体構成員としての責任があって、この二つは重なっていることはあっても、個別のものだと思う。

 社会の進んでいく方向に対して、どうも違和感があるなら、それに疑義を示すリソース時間や体力)は生活の維持とか将来の夢に向ける努力とは別に費やされていいわけで、そういう意味で、思うところがあったら言うべきだろう、と考える。


 ただ、その主張に対する熱意が度を越して、身体健康を害したり周囲を巻き込んだりするとそれも問題であって、そうなるぐらいなら「俺にはカンケーないんで、俺は俺のことだけやってますね」という方がいいのかもしれない。

 あと、件のインフルエンサーだって別に当該の俳優が起こした事件がまったく問題ないと思っているわけじゃないだろうし。

 「(お前が首つっこまなくても、しかるべき制裁を受けてしかるべきところに落ち着くんだから、)お前はお前のことをやっとけよ」というのは、アドバイスとして悪くはない。そういうことだけじゃねえだろ、と俺は思うけど。



 芸能界の話ばっかりだが、以前、不倫騒動を起こして妻と離婚したある俳優がいて、近況を最近記事で読んだのだが、ネットコメントでずっと怒られている。

 人ん家のことなんだし、どうでもよくねえ? と俺は思っている。

 元妻だった女性との間で法律的に決着はついてるんだろうし、心理的にも解決…はしてないのかもしれないが、別に禍根が残ってても、俺たちがどうこう言うことじゃねえじゃん、と思う。でも、許せない人には許せないらしい。

 ただこれも、「こういう男が時間が過ぎたらなんとなく許されてのうのうと社会、ましてや映像業界に復帰できてしまうから、いつまで経っても女性立場改善されないんだ、だから怒りと拒絶を示す必要があるんだ」と言われたら、あ、そうなのか、と思ってしまう。

 そうなると、先に書いた別の俳優暴力事件に対して表すべき反応との違いがわからない。そうか、じゃあどっちもいかんか、となって区別ができなくなってしまう。



 自分以外の誰かのために必ず示すべき怒りがある。一方で、その感情によってむしろ何かが損なわれている怒り、あるいは、誰かのためのようでいて実は自身のための怒りもある。そこのところがよくわからないが、「怒っても時間無駄から自分のことをした方がいいぞ」というのは賢いんだろうけど、ちょっと違うよなあ、と思う。

 だって、今の俺たちの生活も、俺たち以外の誰かが未来の俺たちのために怒ってくれた過去からできているものでもあるだろう、と思っている。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん