はてなキーワード: 弊害とは
全ての問題は自認を善いものとする派閥が生み出したものだよな。例えばアメリカなんかでは国勢調査で自分の人種自認を選ばされる。自分は白人か、ヒスパニックか、黒人か、インド人か、ネイティブアメリカンか、アジア人なのか、ということに関してどれを自認するかを選ばされる。混血の人だってたくさんいるのに自分がどの人種かというのを与えられた中から選ばされるんだから全くもって意味不明な調査だ。そして政治家は人々の自認をうまく利用する。例えば女性の地位向上をと叫べば女性から票が入るし、黒人が差別されていると叫べば黒人から票が入る。このようなアイデンティティポリティクスの弊害が今アメリカで起きている混乱の大きな原因だ。ポリコレも意味不明なところへ向かっているのはこれが原因。そもそも自認は有害だ。日本人が日本人であることを自認した結果、外国人は差別されるし第二次世界大戦では狂気に走った。ナチスドイツも同じだ。自分がアーリア人であるという自認の高まりが他者への寛容さを無くしホロコーストにつながった。これらの極右的な自認の高まりを批判している極左だが、実は彼らも全く同じことをしている。自認は悪だ。
前提
・二次創作とは不法行為である。あくまで二次創作は著作権法の性質により見逃されている。あくまでグレーゾーンである
真である。あくまで二次創作とは不法行為でしかない。だからどうあがいたって100%正しいとは言い切れないのである。
ならば二次創作は100%悪なのか?と聞かれればそれはまた違うのだ。
例えば二次創作が嫌いだとか、そういうのはいい。好き嫌いを制限するものはないのだから。
だけど全面的に禁止というのも、また法的には根拠に乏しいものになる。
著作権法では独自性というものが重要視される。これは盗作などを防ぐためだ。
なら、二次創作には独自性がまったくないのか? これもまた違う。
あくまで、二次創作に全く独自性がないのだとしたら、我々は海賊版をせっせとつくっていることになる。
我々が書いたものは海賊版などではない。全く同一のものではないのだから。
たとえば、ポケットモンスターで最初の相棒がピカチュウじゃなくてイーブイだったサトシを考えたことはないか?
自分が作中に登場して友情を築いたり激しいバトルを繰り広げるドラゴンボールを想像したことはないか?
クラナドで、もしも主人公と付き合わなければ悲惨な未来が待っているヒロインを認められたか?
すべてはifのお話から始まるし、そこに独自性がないとは言い切れないのである。
二次創作を一切みとめないとなると表現の自由もまた侵害されることになる。
また、その弊害として創作自体が萎縮しかねない。今でさえ訴えれば必ず勝てるのだ。それを赤の他人、非関係者から投げつけられれば作品の発表を行う前にまず弁護士への相談がいるだろう。それでは創作を行うための行為がリスキーなものになってしまう。
二次創作のすべてを認めるというのなら海賊版が横行する可能性はあるし、何より何らかの不利益があったとき原作者を守りきれない。
それによって筆を折る原作者がやまほど増えてしまう。利益もないのに創作を行うことはできるが、利益がなければ創作をし続けることはかなり難しい。
もうお気づきだろう。どちらかに100%の舵を切ることができる問題ではないのだ。
だからその塩梅を決めることができるのは原作者だけにしよう、という運用になる。
これは確かに完全ではない。完全ではないが最悪ではないのだ。
これより規制を厳しくするのはとても難しい。法的なしくみの問題もあるし、二次創作を許容も拒絶もできるようなしくみは結局親告罪として運用するほうが何かと都合がいいのだから。
二次創作はどうあがいたって白よりの灰色か、黒よりの灰色を歩くことしかできない。どこまでもグレーだし、それはつまりどちらかに振り切ってしまえば最終的に創作は萎縮してしまう。
嫌いなのはいい。好きなのもいい。でもそれを理由に規制や緩和を推し進めるのは、灰色の道にそぐわない。
もう少し冷静になろう。グレーなのだから調整が難しいのは前提だ。
※
そもそも恋人との愛情の確認行為としてセックスが当たり前、てのがおかしいんではないか?
それこそ昭和時代のように恋人とすることはハグやキス程度にしましょ、という純朴さ溢れる風潮にするべきなんじゃないか?
だって妊娠のリスクがある以上、セックスという行為自体極力避けるべきだろう。
気持ちいいから?それは分かるが、妊娠のリスクを負ってまで得る価値のある快楽なのか?
時代が経るに連れて「恋人としての当たり前にする行為」がエスカレートしてるからこその弊害なのではないか?
いや別に他人の行動を制限したいわけではないしセックスしたいなら好きにすりゃーいいが、
ほんと、避妊問題で「そもそもセックスなんてしなきゃいい」、という意見が見られないのが不安になるんだよね。
しないことにはリスクなんて起こりようが無いのに。
あのさ、きいてよ。
私はこれからどこの本屋さんに昼の憩いを求めたら良いのかしら?って
というか、
他の本屋さんは一応あるんだけど、
ちょっと遠いのよねー。
でも私は生きる!って思ってるけど!
文房具でもすぐに買いに行けるのも
また便利極まりないほどの極便利なのよね。
そういう話を聞くと本当に世知辛い世の中と思ってやまないわ。
ちょっと心配になってきちゃったついでに暖簾くぐって覗いてみようかしら?
もちろん、
覗くだけって覗くだけじゃなくて、
その並びのお店には一応本屋さんがあるんだけど、
まあラインナップはそれ相応、
それはともかくとして現金のみの扱いなので、
逆に味が遠のいちゃうわって。
エアペイの嫁がだんだんと面白くなっていくことに期待しながら、
私はチンゲンサイを100万円で買うことになるのかなーって
そう思っちゃった訳なのよ。
うふふ。
たまに見かけるリッチテイストのおにぎりもたまに当たりのものだと美味しいわよね。
パッケージに騙されちゃいそうだけど。
海外産なのによ。
ほんとよく見かけるの。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「肉を切らせて骨を断つ」定食と
「骨と皮が離れる音」定食とがあって、
私のクリエイティビティの限界をはるかなる超えた想像で何定食か結局分からなかったの。
「肉を切らせて骨を断つ」定食と「骨と皮が離れる音」定食どっちがいい?って急に聞かれても時が止まるわ!
前者はジューシー鶏モモから揚げ定食、後者はヘルシー鶏ムネから揚げ定食だって。
分かるわけないわよね。
OLさんがから揚げ定食ご飯てんこ盛り!って言うのが恥ずかしいから、
「油淋鶏」って言っておけば港区のOLさんがヒーヒー言いそうなおしゃれで一見単純にから揚げ定食とはバレない感じで
逆にカップスープとおにぎりだけ事務所の机で食べてたりすると、
それだけで足りるの?って
言ってくる人とかも本当に油淋鶏だとおもうわー。
それだけで足りるの避けのダミーおにぎりとかあったらそれはそれで売れそうよね。
とりあえず、
観測するまで、
猫が生きているのか死んでいるのか分からないぐらい、
だから私は、
以前行った日替わり定食に感動したばりに
だってね、
だけど、
これも弊害があって、
その場で出会った感の不意を突かれる感動がないのよ!
献立表を見ておきながら、
メニューに書いてある間違い探しをじっくりやってる場合じゃないのよ。
料理がくるまで見つけるんだ!って心の中で決めていたタイムトライアルもむなしく、
ああ、だから私は今日もサイゼリヤを救う旅に出たのにサイゼリヤを救えなかったんだなってガッカリするの。
だから
「サイゼリヤを救う旅に出たのにサイゼリヤを救えなかった人」ってサイゼリヤ辺に人って書いた漢字が
今年の漢字は絶対に「サイゼリヤを救う旅に出たのにサイゼリヤを救えなかった人」だと思うんだ!
だから本当に
次回こそは次回こそは
心に決めるの!
だから私にこっそり、
今年の漢字の1字になる
この猫界の元号の堅魚2年にそう思った訳なのよね。
ちなみに
読み方の長い漢字をドラえもんの秘密道具の登場の節回しで言うと
うふふ。
漢字で鮭辺に手と書いて
「パリパリの海苔で優しく鮭おにぎりを握って作る人」って読みの漢字もあれも鮭おにぎり欲をそそるわー。
おにぎりじゃなくてアイス最中を食べるときパリパリって音がするのでそれで思い付いたって話しは嘘だから信じないでね。
温まりたいじゃない
朝ぐらいは!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
プログラマだけど、これに関していつも思うのはそもそもプログラミング言語が英語ベースなのがよくないということ。
機械語が人間にわかりにくいから自然言語をベースにしたんだろうが、そうじゃなくて「人間にわかりやすい機械語」を開発すべきだった。
自然言語だとどうしても害しかないイレギュラーな文法の弊害に遭う。たとえばモデル名は単数形・テーブル名は複数形みたいな規約が多いけど後者は単語によってsだったりesだったりそのどちらでもなかったりとルールが違ってややこしい。その辺自動で生成してくれるフレームワークとかあるけどそのためにわざわざ不規則変化する単語の辞書持たせてんだぜ。そもそも単数形・複数形って何だよそもそも言語に必要なのか?日本語にはないぞ。
こういう自然発生した事故みたいな自然言語のクソ仕様に振り回されながら機械に指令を出すってアホらしくない?俺はもう老害だから若手はこの辺21世紀内に解決しろよ。
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。
"お前は何を意味のわからねえ事言ってるんだ伝わる言葉で話せといつも言っている"
まさしくそういう詰め方をする上司の元で、自身のパフォーマンスは明らかに下がった。
その上司が納得のいく答え、体裁を準備するのに本質的でない労力が削がれるのよ。
気に入らなければ報告書、資料はすべてやり直し。何が悪いかは自分で考えろ。
また現場の実情と乖離した「上司の納得のいく解」を準備する担当者が気に入られ評価されるので
自身も歳とってアウトプットの要であることから降りているのだけど、そういう指導しか受けていなかったため
チームのパフォーマンスを最大化する方法は未だ思考錯誤している。
ただ相手の伝え方が悪い部分があっても必要な情報を聞き出すのは上司の役目であり、聞き出せないのはむしろ自身のスキル不足と思ってやっている。
そのためには上司相手であっても自由闊達に話ができる空気を醸成し、間違った発言をしても発言したこと自体は咎めない。
これはこれで非効率な部分はあるだろうけど、「発言すると詰められるので都合の良いこと以外は黙る」の弊害が大きすぎるので現状はそういう方針。
話を続けましょーか
前提を共有しておくけど
二度は言わないわよ
忘れないでね
この話を続けるのは
何の報酬も出ていないの
タダ働きって意味じゃないけど
それでも無償でやってるの
“やってあげてる”の
そこ忘れないでよ
これからする話を
納得できたか
そんなの関係ないわ
それはアンタの問題
そっちで解消しなさい
このことは言ったわよね?
そーいうのもあるでしょうけど
実際は取るに足らないからなの
それを違うアプローチで出来るだけ
そーいう認識が広まっていった
まー昔は色々あったらしいけどね
確執やら何やら
そんな感じのエトセトラ
でも細々と説明する気はないわ
どーせ覚えられないでしょ?
アンタの御頭(おつむ)じゃあ
現代社会で役立つ
そしてその気持ちを、掲載した公的な場での掲載主や表現の場の関係者に
と迫り、圧力によって取り下げてしまう、またはその意見通りの表現の変更が行われている事象が多く存在します。
この内容の言動を唱えている方の大半は、
制作側の、どの程度の表現が規制されるラインなのかを設けてほしいという要望にも明確な基準線を設けず、
このような言動を唱える方々の多くは、歩み寄りや論理性を持った話し合いを避け、
「こう思った」「こう感じた」という意見をひたすら投げ、
として、放暴的に意見を押し付けている状況であると理解しています。
論理的な意見ではないのであれば、それはただの「気持ちの表明」であると思います。
「私たちはこの性的な表現によって傷ついたんだ、私たちは被害者だ」
このように気持ちを表現するのは、表現の自由として誰もが認められているところではあります。
現に一般の創作活動を嗜む方々を、この表現によって傷つけているのです。
私は、この表現のことを「潔癖グロ」と言い表すようにしました。
この表現を発する方が傷ついたと感じる表現、つまり「エロ表現」ですが、
またSNSなどでは、クリック等の一動作置かないと表出されることがないようにされるなど、
様々な”ゾーニング”がなされており、
こういったエロ表現によって傷つけられる人の割合は少なくなるように配慮されるようになってきています。
エロ表現と同じように、何らかの表現によって傷つく人がいるのであれば、
同じように何らかの配慮によって"隠される"ようになるのが妥当だと思います。
正当性を持たせるためには、そこに論理の整合がなくてはなりません。
論理の整合があるから、多くの人が正当な意見であると考えるようになるのです。
ですが、論理性を持たない、個人の感情である一介の表現ですので、
それを発出した弊害である、それにより傷つけられる人のことも考えなくてはなりません。
人間は、生物は、生殖機能によって、生命活動を長い期間育んできました。
少なくとも哺乳類の一種である、ホモ・サピエンスという種として生まれた私たちは、
生殖を行うことで子孫が形成され、次代に遺伝子が受け継がれていきます。
私たち人間にとって、生殖というのは大切な機能であると私は考えます。
生殖機能から発出する性意識や衝動についても、勿論大切なものとして扱わなければならないと思います。
更に私たちは同時に、社会活動をしている、社会的な動物である、とも考えます。
社会の中で、性機能というのはしばしば、不適当なものであるとして端に追いやられてきました。
しかし、私たち本来が持つ生殖機能や、それから派生するものも蔑ろにされるべきではないと考えます。
性表現自体が蔑まれ、排斥されるようなものではないと考えます。
細胞を分裂させて、自分のクローンを作り出す微生物と同等の繁栄方法を行っているか、
私たちホモ・サピエンスがまだ理解が出来ない、未知の繁殖方法で子孫を残しているか、
そのどちらかの当事者であれば、この性表現を排斥しようという意見は飲み込むことはできます。
しかし私たちは人間であり、生殖というのはその大切な生命活動の中の一部です。
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると考えます。
上記の理由から、私は性表現の排斥という言動について、正当性はないと考えます。
まだ成熟しておらず、性表現や性衝動を、あるものとして理解せず、
生殖を組み込んだ社会形成になっていないから、そういった言動が出てくるのではないかと思います。
私たちは誰でも、生殖機能を有し、性的衝動を有し、性的意識を有します。
そのうえで、社会を営む上で、理性を有し、上手く社会を回すために、
理性で性的衝動を抑え込むことで、生物が社会を回すことに成功しているのだといえます。
忘れがちなことですが、大半の人が、その人固有の性的衝動を抑え込んで今日まで生活してきているのです。
上記の言動の人は、そのことを無視し、性的衝動等を無きものとして社会形成を考えていると感じます。
というのは、その性表現の中に、
実際に、
性活動がどのようなものか理解できず、負担をかけてしまうことであったり、
それによって心理的なストレスを抱えるという事態が発生しているというところから派出している言動なのだと思います。
そのような社会的な事態を、加虐側になるような人に奨励するような表現がゾーニングされるべきであり、
については、本来はゾーニングされるべきではないのではないでしょうか。
また、ゾーニングを排斥、排除の意味で使われている方が多く散見されます。
https://ja.wikipedia.org/?curid=3593582
ゾーン(Zone)に分けて、場所場所で差をつけて管理しよう、というのが都市計画用語におけるゾーニングであり、
派生してゲーム等でのレーティングでは、表現の過激さからスコアを付与し、
あらかじめ鑑賞、ゲームを楽しむ人に、その表現が苦手な人がいたときに適切に避けられるように設定されたものであり、
その表現自体を排除、排斥するためにレーティングを行え、というのは、
レーティングを行うのではなく、気に入らないものの検閲を行えと言っているのと同義であり、
検閲というのは、国民が国に課した憲法ですら、禁止であると明記されています。
「この表現は過激だから、この表現はこのレートに当たるけど、もっとレートを下げたいなら修正してね」
自身がそのプラットフォーム自体の管理者ではなかったとしても、
どこまでも製作者を追い続け、「不適切だから取り下げろ」と迫ります。
プラットフォームが認めている表現であれば、本来の意味からはゾーニングは適切になされているのであり、
不快であると表現する側がゾーンから異端であるのだと思います。
たとえ表現者が、
プラットフォームが認めているのであればゾーニングは適切になされています。
表現の製作者や、ましてプラットフォーム自体を潰そうと画策する行為は
(表現をする場所を取り上げることも咎められる行為だと思います。)
このような排斥の言動も、上記の理由から社会的には"隠されるべき"であるといえるでしょう。
女性だから、男性だから、その他の性だから、何かの加害者だから、被害者だから言ってもいいんだ、という理由にはなりません。
私は、現状のような、
潔癖であることが何よりも是であり、性的な表現は一般社会に全く表出されるべきではない
そこから生まれる性表現も、大切にされるものであると上述しました。
大切な人とどんなふうに愛し合おうか、ですとか
恋人同士でどうすれば二人が満足感の高い性行為ができるか、ですとか
どんなところがパートナーの好きなところなのか、ですとか
それに付随する性交の表現や、性器の表現も直接的でいいと思います。
私たちが本来有する機能であり、大半の方は性行為を経験することになるからです。
子どもは大人になるのであり、大人になったら経験をすることであるので、
思った感情を相手に話す力、話を聞いてどう思ったか考える力と伝える力、
そういうことを重点に置いて教育を受け、そのうえで、
ですから、社会的に逸脱した行為は社会でゾーニングを行うとして、
一般社会では適切に性的な表現は咎められるべきではないと考えますが、
(小学校の目の前に、男性器が勃起した、あるいは女性器の陰唇が開かれているような看板が
周りから一定の範囲にはそういったものを掲載しない等の規則が出来ればと思います。
子どもが学習の場で適切に教育を受け、学びの場から卒業した時、
性というものに抵抗なく触れていけるような仕組みづくりが求められていると思います。
翻って、
このような言動は「潔癖グロ」として、何らかの配慮が受ける側に必要であると考えます。
なんかここ10年くらいの競馬は騎手にしても種牡馬にしても一局集中し過ぎてつまらない
昔は乗り替わりが今ほどなくて中野とか大西みたいな微妙な騎手がそのまま日本ダービー出て勝ったりしてたよね
今だったら絶対に乗り替わりでしょ G1の出馬表見ても騎手が毎回同じような面子なのはどうかと思う
若い頃の横山典なんてメジロライアンで駄目騎乗しまくってもそれでも乗り続けさせてもらってそれで一流ジョッキーになったわけじゃん
エージェント制の弊害なんだろうとも思うけど、これじゃ若手騎手が一向に育たないと思う
種牡馬にしてもSS系ばかりでつまらない なんだこりゃみたいな零細血統の馬が昔はたまに走ってたのになあと思う
産駒のメルシーステージが重賞連勝したおかげで、種牡馬廃用になって行方不明になってた父のステートジャガーの捜索がはじまって種牡馬復帰出来たエピソードとか大好きだったわ
時々、世の中には人が多すぎると思うことがある。
その弊害のせいで、人間は数を減らすべきではないかとすら思う。自分でもこの直感はヤベェと思うし、間違ってる気がするけど、でも、みんなそういう風に思ったことないの?
私がヤな理由としては、
①物理的混雑
満員電車、バス、店が狭い、道が狭い、空が狭い、自然がなくて落ち着かない、どこにいても人がいて気が抜けずずっと監視されてる気分。
②人の多様性
LGBTの話ではない。人が多いと、客商売はトラフィックが多い、疲れる。さらに多様性がくる。いろんな人がいる。何しても最善を尽くしてもクレーム。あと、ヤベェやつの多さ。
トラフィックが多いとその分ヤベェやつの幅も数も広がる。まじで世の中にこんな人いる?って人がいる。普通に。信じられない。
いい人もいるし学ばせてもらったこともあるけど、ほんと心の傷になるのよね。疲れちゃった。
最近東京から千葉に引っ越して、スゲー快適になってびびったんだ。
更に田舎に行けば楽になるのでは?と思う。
実際そのように思って田舎暮らししてる人、実際暮らしてみてどう?
あと仕事的に色々なものを見るんだけど、頭のいい人も当然いるんだけど、
一方で世の中には私がどんなに頑張っても救えないバカというか、
なんかもう関わりたくないやつがうじゃうじゃいて、人口全体の割合としては少ないんだけど、東京が色んな人を許容してしまうのと、絶対的人数が地方に比べてと多いから疲れる。
過去形だけど。
仕事が超絶ブラックでサービス残業の毎日、休みの日も出かける余裕がなくて趣味だったゲームにも興味がなくなった。
そんな毎日を過ごすたび、世界が灰色になったのか、自分だけが灰色で世界には色が付いてるのか、分からんけどとにかく自分と世の中が切り離された感覚になって行った。
何で生きてるんだろう。
何の為に生きてるんだろう。
コンビニ店員の明るさに、「この人は何でこんなに頑張って生きてるんだろう」と不思議で仕方なかった。
いつの間にか鬱になっていた。
会社の上司はそういったことに理解が全くなく、退職を申し出ても辞めさせてもらえなかった。(元々ブラックすぎて人がどんどん辞めていたので引き止めたかったんだろう)
3ヶ月ほど粘って、やっと辞めた。
俺は引きこもりになった。
人と話すことがなくなった。
相変わらず世の中と自分の色はくっきり差が付いていた。
何ヶ月か病院に通って投薬治療を受けた結果、少しだけまともな精神状態を手に入れた俺は、趣味だったネトゲにも復活した。
少しだけ人と話したいという欲求も出始めてきた。
元々VCで活発にゲーム友達と話していたし、実際にVCでも話そうと思った。
でも俺は、長らく引きこもった弊害で上手く喋ることができなかった。
うまく喋れないというより、声が出なかった。
文字ならばスラスラと話ができるのに、声では頭が真っ白になり、動悸がして、上手く言葉が出ない。
愛想笑いで精一杯。
チャットを交えて会話をして誤魔化していた。
回復したと思い込んでいたところにこれはキツくて、悔しかった。
会話の練習をしなければいけないと思った俺はDiscordで片っ端から雑談系のサーバーに参加した。
だけど、大体は聞き専だけじゃ仲良くもなれないし、何の印象も持たれていない様子だった。
そこでメンタル系(精神疾患持ち)のサーバーをメインに利用することにした。
そこは結構大規模なサーバーで人も多く活発だったけど、文字だけでも名前を覚えてくれたり愛想よく声をかけてくれる人達がいた。
「上手く話せないから聞き専をしてる」
そういうことも気兼ねなく言えた。
「じゃあ話す練習に付き合ってあげるよ」
そう答えてくれる人達がいた。
恐る恐るマイクをオンにする機会が増えた。最初は話せないし、相槌だけとか笑うだけとか。
そんな日々が続いていくうちに徐々に話ができるようになってきた。
声が出る。
「普通に喋れてるじゃん!」
自分のことのように喜んでくれるサーバーの人達の気持ちがすごく嬉しかった。
今もまだ不安定な時は上手く喋れないけど、日常生活で(ほとんどコンビニしか行かないが)喋ることができるようになって感謝している。
鬱や引きこもりになって塞ぎがちになってる奴は興味があったら試してみてほしい。
ブロックチェーンや暗号通貨、Web3.0、Dweb というのはここ数年、そしてこれからのバズワードであるようだ。
ここ一週間ぐらいだろうか。マイナンバーにブロックチェーンを導入しようとしている事業に関して色々な議論が発生しているようである。例によって議論に向かない Twitter 上で発生している。というか何が議論の中心になっているのかイマイチよく分からない。ただ雑然と荒れているという感覚がある。
私は技術・歴史・文化といった面からブロックチェーンや暗号通貨に対して知識がなく、学び始めたのはここ一ヶ月と言ってもいいだろう。学ぶ、といっても転がっている日本語の一般的なメディアの記事を気が向いたときに読み散らかすぐらいである。真に技術的なことは何一つ分からない。暗号通貨は Bitcoin とEthereum しか知らないし所持しているのはたまたま貰った僅かな ETH しかない。金銭的に貧しい多摩川に転がっている石くらいどこにでもいる17歳JKである。と逃げの文言を置いておく。
囲み取材で数十秒話したことが記事になっているので、正確に伝わって無さそうです。
・マイナンバーカードをいずれカード不要にしてスマホにインストールできるようにしたい
・その前にそもそも、普及のためマイナンバーカードの発行総数を増やす必要がある
という趣旨かと。
加納氏のこの時期のタイムラインから現在に向けて遡れば様々な第三者の感想や疑問を得ることができるだろう。これらに纏めて答えているのが以下の記事である。
ブロックチェーンの優位性①疎結合|加納裕三/Yuzo Kano
https://blog.blockchain.bitflyer.com/n/n4b45329e308c
加納氏とは一体何者なのかは以下を参照。
東京大学大学院工学系研究科修了。ゴールドマン・サックス証券会社に入社し、エンジニアとして決済システムの開発、その後デリバティブ・転換社債トレーディング業務に従事。
2014年1月に株式会社bitFlyerを共同創業し、2019年5月に株式会社bitFlyer BlockchainのCEOに就任。
bitFlyer創業以降、法改正に関する提言や自主規制ルールの策定等に尽力し、仮想通貨交換業業界の発展に貢献。
日本ブロックチェーン協会代表理事、ISO / TC307国内審議委員会委員、官民データ活用推進基本計画実行委員会委員。
2018年G7雇用イノベーション大臣会合、2019年V20 VASPサミットに出席。
ttps://finsum.jp/ja/2019/speakers/recQMoKK5nD9yb8Ht/profile/
ブロックチェーンを語るうえで何が重要かというと、その言葉の定義である。議論に参加している人が同じ言葉を使っているのに、各人の言葉に対する定義が異なっていると、言葉は理解できるが内容が理解できないといった状況に陥ってしまう。このことは実生活でも頻繁に起こっているように思えるが、Twitter という短文が好まれるプラットフォームでは著しくないがしろにされ不毛な議論を生む原因になっている。
加納氏が代表の JBA (日本ブロックチェーン協会)に依ると、ブロックチェーンの定義は以下の内容である。
ブロックチェーンの定義
1)「ビザンチン障害を含む不特定多数のノードを用い、時間の経過とともにその時点の合意が覆る確率が0へ収束するプロトコル、またはその実装をブロックチェーンと呼ぶ。」
2)「電子署名とハッシュポインタを使用し改竄検出が容易なデータ構造を持ち、且つ、当該データをネットワーク上に分散する多数のノードに保持させることで、高可用性及びデータ同一性等を実現する技術を広義のブロックチェーンと呼ぶ。」
定義策定のアプローチ
まず、Satoshi Nakamoto論文およびその実装である、ビットコインのブロックチェーンをオリジナルのブロックチェーン(以下「オリジナル」)として強く意識しています。
狭義のブロックチェーン(定義1)は、オリジナルを意識し、それが備える本質的で不可分な特徴を捉え、言語化しました。
広義のブロックチェーン(定義2)は、昨今〜今後の技術の展開を鑑み、オリジナルが備える特徴であっても、別の実装方式や別の目的への展開などにおいて、置換や変化が行われていく広がりを許容しながらも、特徴を捉えられるよう、言語化しました。
総務省のページも見つけたが JBA が定義するものを基礎としている。
ttps://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h30/html/nd133310.html
私が疑問と漠然としたモヤモヤ感を抱くのは、最近の一般層で使われているブロックチェーンの定義には「信頼できる第三者が不要である」という点が抜け落ちているように思われることだ。非中央集権SNSで暮らし脱中央集権を推進したい私にはこの点が"ブロックチェーン"の一番重要な点であると思うが、JBA の第一定義にはこの点が記載されている。不特定多数へのインセンティブによって不特定多数による合意を形成している。これによって「信頼できる第三者が不要である」は満たされている。
blockchain (3.6)
distributed ledger with confirmed blocks organized in an append-only, sequential chain using cryptographic links
Note: Blockchains are designed to be tamper resistant and to create final, definitive and immutable ledger records.
distributed ledger (3.22)
ledger that is shared across a set of DLT nodes and synchronized between the DLT nodes using a consensus mechanism
Note: A distributed ledger is designed to be tamper resistant, append-only and immutable containing confirmed and validated transactions.
ISO の定義によれば、ブロックチェーンは、暗号化リンクを使用した一連の鎖で、追記のみで構成された確認済みブロックからなる分散台帳を指す。改ざんに強く、最終的で確定的で不変の台帳記録を作成するように設計されている。分散台帳は、一連の DTL(分散台帳技術)ノードで共有され、合意メカニズムを使用して DTL ノード間で同期される台帳である。確認された有効なトランザクションを含む全てが、改ざん耐性、追記のみの不変性を持つように設計されている。
さて、加納氏の投稿やその他の加納氏に批判的/賛同的な人たちの反応を見ても、彼らの言っている内容がブロックチェーンの定義を満たすものなのかいまいち分からなかった。
・ビザンチン耐性(BFT)
・改ざん耐性
私はブロックチェーンの主な利点はこの5つ(ただし5つにだけではない)だと考えています。これをここでは5大利点と呼びます。
なおかつ、この5大利点を概ね満たしているものをブロックチェーンと呼んでいます(ただしブロックチェーンと呼んでいるものは、すべてこの定義だとは言ってない。かつ、ブロックチェーンの厳密な定義はこれではない。)
なぜ前提として厳密な定義を加納氏の言葉で説明せずに、勝手に加納氏が定義した内容を”ブロックチェーンである”と語っているのか理解に苦しむが、加納氏の説明したい"プライベート・ブロックチェーン"を ISO の定義を基に判断すると、
加納氏の上記の2つの投稿からは、"プライベート・ブロックチェーン"と"パブリック・ブロックチェーン"のどちらを指しているのか不鮮明ではあるが、note の記事では"プライベート・ブロックチェーン"を想定している、と明記されており、議論の発端となったマイナンバーとブロックチェーンに関しても"プライベート・ブロックチェーン"を指していると思われる。5大利点を満たす"プライベート・ブロックチェーン"は存在しないのでは…。
"一方で、誤解と批判を恐れずに書けば、ブロックチェーンがBitcoinの論文に端を発するものであるとするならば、いわゆるプラベートブロックチェーンやコンソーシアムブロックチェーンと呼ばれているものは、ブロックチェーンと呼ぶのをやめて、「タイムスタンプ2.0」のような別の言葉を使うことも考えてはどうだろうか。それは、これらの技術が、リンクトークン型タイムスタンプのデータ構造の上に、決められたノードによる合意アルゴリズムを加え、記録した情報に対するビジネスロジックに応じた情報処理を加えたものであるからだ。根っこの技術は、同じHaberらによるタイムスタンプを元にしているものの、ブロックチェーンの発端となったBitcoinの論文が目指した「信頼できる第三者機関を不要にする」という方向とは別の方向の進化をしているもので、その別の2つの方向のものを同一の枠で扱うことには無理があり、理解や発展を考える上で両方にとって弊害がある。"
https://link.medium.com/TgeOXv8Dlab
https://link.medium.com/4pz5oNlHpab
これらの記事を読むと、そもそもブロックチェーンと呼ばれるものにおいてパブリックではないものは、なんびとも信用しない状況において根本的に非改ざん性を保障することができないのではないかと感じる。"パブリック・ブロックチェーン"こそがブロックチェーンであり、他のものはブロックチェーンから発展してきた技術を使ったブロックチェーンの定義を満たさない分散台帳なのではないか。
加納氏に関して覚えておきたいことは、彼は bitFlyer の CEO であり bitFlyer は miyabi という"コンソーシアム・プライベートブロックチェーン"を開発しているという点だ。当然行政に対して彼がブロックチェーンを推しているのはこれを売り込むためなのであろう。これが厳密にブロックチェーンなのかは置いておいて、このプロダクト自体は素晴らしい取り組みだと私は感じる。デジタル化によって今までの煩雑な手続きが簡単になる可能性は大いにあるし、公的文書の保存にも役にたつ。黒塗り秘匿文書を撲滅しろ。
ただ、ブロックチェーンをただの空虚なバズワードとして扱うのではなく、厳密な定義の上で使うのは大事なことだ。今回の件は、果たして全てにおいて加納氏が良くない、と言えるのだろうか。言葉というのは多数が使うことによって定義が決まる。時代が変われば定義が変わってしまうこともある。ブロックチェーンという言葉を便利な魔法の言葉にしてしまったのは誰だろう。本質を見極めない我々だ。AI 搭載!!といたるところで見る言葉だが、何をもって AI と呼んでいるのか不思議になる。実際のところ今まで"システム"と呼んでいたものなのに。日々の中で言葉をしっかりと見つめ直すのは大事だ。
この記事は、そもそもブロックチェーンとは何か、という個人的な疑問をまとめたものであり、加納氏を批判する意図は無かったわけで、最後の締めはやんわりとしたかった。だが、加納氏は立場的には日本ブロックチェーン協会の会長で、言葉を定義する立場である。言葉を定義した側がこの有様というのは遺憾である。日本の行政のデジタル化の推進は頑張って欲しい。