はてなキーワード: 弊害とは
増田の日本語が意味不明すぎるので、DeepL翻訳で英語にして再び日本語にしてみた
かなり読みやすくなったと思うのでどうぞ
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今の時代になってもセンター試験が相変わらず行われていると聞いて、「ああ、[教育者の考える良い人像]はセンター試験のようなテストでしか選ばれないんだな」と思いました。インターネットが普及した今、そんなに処理能力が重要なのか。私はそうは思いません。
最近よく思うんですが、ネットで調べたことやちょっと調べればわかることを記事にしても、私と同じものを作れる人がほとんどいないのはなぜなんでしょうか......。
それは自分の知識を教育レベルとは違う方向に使おうとするからで、そうしないと読んでいて楽しい記事が作れないんですよね。
これがいいのかどうかはわかりませんが。職業によってはそういう人の方が有能な場合もありますが、それしかできない人が世の中には多すぎます。
これが詰め込み教育の弊害なのでしょうか。いや、「ゆとり教育」に戻せと言っているわけではない。ネットで調べたことを文章にしたり、文書にしたりする場合、レポートや知識の一覧表は、職場でのコミュニケーションにはいいかもしれませんが、商品や娯楽、全く新しいものを作るために人を巻き込むのには向いていないと思います。試験室を作るのが大変な時代に、それを試験にすることはできないのだろうか。
教育レベルの知識を与えるためにたくさんの人を作っても、コンピュータが人を追い込むだけ。(ネットで検索しただけの知識では同じことしかできない)
高校レベル以下の知識レベルであっても、検証の問題点を暴いたり、知識を面白おかしく話したり、書いたりすることができるかどうかを考えることが大事だと思います。実際、理系では頭が良い人ほど、マニアックな知識の使い方をしているので、個性的です。
文系では...知識が足りないからなのか、大学で実験や検証をあまりしないからなのか...自分の知識を面白いように使える人、面白いように見せられる人は意外と少ないです。
こんなご時世でもセンター試験は通常通りと聞いて「あー【教育者が考える優秀な人】ってセンター試験的な試験じゃないと選抜できないんだな」って思った。建前上、二次試験が思考力を問い、1次試験で処理能力を問うてるらしいけど…その処理能力ってネット普及した今そんな重要か?と思うわけで…
最近改めて思ったんだけども…ぼくがネットで調べたことや少し調べたらわかることを記事しても、ぼくと同じものを作れる人がほとんどいない理由…
それってぼくが知識を教育レベルとはまた違う方向に使おうとするし、そうしないと楽しく記事を作れないからなんですよね。
教育レベルの知識というのは「〜でした」「〜ということがありました」と羅列していく営み。職種によってはかえってそういう人が有能なんだろうけど…それしかできない人が世の中に多すぎるんですよね。
詰め込み教育の弊害?いや、ゆとり教育にもどれって話ではなくさ。何かネットや資料で調べたことを書く・活用するにしたってそれがレポートや知識の羅列などでは、職場内のコミュニケーションとしてはよくても、成果物やエンタメ性、全く新しいものを作る際に人を巻き込む上ではしょぼいんですよ。それを試験会場を作りづらいご時世では試験にできんかったのかな?
教育レベルの知識をつける人をいっぱい作ってもコンピューターに駆逐されるだけ。(ネットで検索した結果と同じものしか知識だけだとできん)
検証課題を発掘するとか、知識を興味を引くように話したり書いたりするとか、知識量高校生以下でもそれができる人かどうかってけっこう大事な観点なんだが、詰め込みと対極にいるわけではなく、むしろ理系だと頭いい人ほどゴリッゴリのヘンタイだったり、マニアックな形で知識を使ったりしててユニークなんだけどね。
文系はねぇ…知識が足りないのか、実験や検証を大学であんまりしないからか…知識の使い方や見せ方を面白くできる人って意外に少ないよなぁ
なわとび:602回
ボクシング:126kcal
『夜明け前』読みおわった
まあ、実は読み終わったのは結構前なんだけど、せっかく読んだからなんか書いておきたいなと思ってから実際に書くまで結構時間がかかった
最初の巻を読んだのは実は結構前で、もう15年以上昔のこと。以来続きの巻をそのうち読もうと思いつつなんだかんだで今まで来てしまった
kindleを導入したときに、手持ちの本をいくつか電子書籍と置き換えようと思って、青空文庫に入っている本をいくらか処分したのだけれど、その時ついでに続刊を持っていなかった『夜明け前』を全部揃えてあとで読むリストに放り込んでおいた
一度、どうにか読んでしまおうと思って自動読み上げ機能に読ませてみたこともあるのだけれど、漢字の読みがぐっちゃぐっちゃで、たとえば「金兵衛」を「きんひょうえ」と読んだりする
これを聞きながらちゃんと理解しようとするよりは、自分で読んだほうがまだ脳みそのリソース消費が少ないなと思って断念した
あとで読むリストに入れて毎日目にしているとなんとなく爪のささくれのように気になるもので、今年とうとう一念発起して読んでしまうことにした
実はこのあとにまだ20年積んである『破戒』というのも控えているのだけれど、まあこれは来年あたりに読んでしまおうか
こっちは一冊で終わるし
さて読み終わってみると、まず第一になぜ藤村は父親の一代記とも言うべきこの本を書こうとしたのかということを考えるわけだけれども、これはやはり父親が精神を病んだからというよりも、その過程で家の菩提寺でもあり、代々深い付き合いのあった万福寺に放火しようとしたことの原因を探ろうという意味合いがあったのではないかという気がする
物語はすべてこの放火事件へ向かって流れていき、この事件のあとはすべてエピローグであるように自分には読めた
ところで、物語は半蔵の父親の吉右衛門の時代は万事が概ね順調で、半蔵の世代に移ってからは半蔵自身の才覚のなさもあって波乱万丈なように見えるが、これはたぶん作者自身が実際に見たのが半蔵の時代だったから祖父に当たる吉右衛門の時代が理想的に見えているだけで、実際には吉右衛門の時代は吉右衛門なりの苦労があったのはもちろん、彼なりの不手際や軋轢もたくさんあったのではなかろうかと想像する
半蔵は半蔵なりに精一杯その時代を生きたし、それは彼の父親の吉右衛門も変わらなかったろうと思うから
いつの時代もどんな人であっても安気に暮らしている人はそうそういないもので、その人なり、その時代なりの苦労をそれぞれ背負って生きているものだろうと思う
これはまあ4冊も通して付き合った半蔵に対する同情でもあるけれど
個人的な興味関心との関連でいうと、一つは、最近登山をするようになって各地の山にある神社仏閣を訪れる機会が増えて、その由来などを調べるにつれ、明治の廃仏毀釈がいかに激しかったかを知り、なぜあのようなことが起きたのか興味があったので、その思想的背景の一端を知れたことは良かった
とはいえ平田国学から廃仏毀釈へと至る背景にはさらに江戸時代の寺院がかなりの権力を持っていて、その弊害が大きかったらしいこともうかがえるので、むしろ平田派の思想はきっかけに過ぎなかったのかもしれない
このへんはまた機会があったらちゃんと調べたいところ
もう一つ、この前恵那山にも登ってきて正直面白みの薄い山だなと思っていたのだけれど、木曽路から見る恵那山の描写を読むとこの山はむしろ麓から眺めることにこそ面白さがあるのかもしれないと思ったりした
少なくとも10年近くに渡り、私以外のいろいろな人が本来やるべきことをきちんとやらずになぁなぁで済ませてきたことによる弊害がここに来て爆発。今時点で担当の私が被弾。
しかしながら、それを早急に相談しなければならない人は、フレックスで残業を月間で0にしないといけないこともあり、昼過ぎに「良いお年を」と言って帰宅。
そして、業界的にトヨタカレンダーに近い勤務体系なので所定の仕事納め自体が明日だし、その明日は部門の休暇促進日で明日出る人はよほど仕事が切羽詰まった人だけ。
ありがたいことに私も今日が仕事納めだし、なんなら私自体も昼下がりの時間に同じく月間残業時間を0にするために、その懸案は年始にやることにして帰宅した。
持ち回りの担当なので来年は変わるだろうから、あとは野となれ山となれになりたいが、それは許されそうにないので、休みの間だけ忘れることにしよう。
あのさ、
道にお金落ちてたら拾う?
さすがに私は1円や5円では困らないけど、
う~ん10円、
そうね50円ぐらいから良いコインが落ちてたら拾ってお賽銭入れちゃうかも。
よくさ、
あれってモンスターがお買い物途中で、
それ切なすぎない?
久しぶりにいろいろとゲームをやると、
ふと現実味をおびて考えちゃう癖がどうも切なくさせるのかしら?
ここで何度も言うけど、
ゴブリンにいきなり夜奇襲をかけるなんて、
手袋を買いに行くんだってお母さんモンスターからお金を持たしてくれて、
充分気を付けていたにもかかわらず、
背後から奇襲をかけられて、
お母さんモンスターは
いつまでも子どもモンスターが帰ってこないからソワソワし始めて
雑魚とは言え
いや雑魚であろうとなかろうと、
ってサンリオのピューロランドでキティーちゃんがそんなこと言ってたような気がしたし。
そんなこと分かっていながらも、
夜また火のついた弓矢で高台の上から夜営しているゴブリンのアジトに奇襲をかけるんだから、
だから私、
斧あるし木もいっぱい生えてるから
木こりにでもなろうかなって思うの。
でもそれはそれで
木こりをしすぎて
斧を失ってはこの先の冒険で困るし
これの繰り返し。
超高値の花になる前に、
またDSでも買っておこうかしら?って
うふふ。
2日ぶりにお店に行って見たけど、
年末なので新レシィピもないのかしら?
忙しいのね。
温まるわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
私はいまのところ極度の流行地域ではない地域の病院の某科で診療をしている。感染症や呼吸器の専門ではないので直接コロナ患者を診ることはほとんどない。当直や発熱外来でコロナ疑いの人の診療をすることはある。
だから、現在自分の業務が逼迫して追い詰められているわけではないのだけど、医療従事者の一人として、旭川の病院が医療崩壊におちいっているニュースと、にもかかわらずいまだに大雑把なGo to イートを推進し続ける国の状況に絶望しそうになっている(雑じゃなくきちんと、一人ごはんやテイクアウトなど感染拡大をなるべくさせない方法を推奨するならいいと思うんだけど)。
どの地域であってもこのままいけばクラスターが発生して病院が機能不全に陥ることは起こりうると思う。年末年始が怖い。
どんなに感染対策をしても、感染者の多くが無症状であるCOVID19は感染を100%防ぐのは困難だ。医療従事者であっても(以前、関口さんが医療従事者なのになぜ感染するのかと宣ったことがありましたが)。
医療従事者はだいたい毎日何十人という患者と接している。患者さんに接するときマスクとアイガードをしていて(少なくともうちはそう)、接触の度にアルコール消毒をしているから大丈夫じゃないかと思われるかもしれないが、それでも防げないこともある。たとえば、患者さん側がマスクはしていても不織布マスクではないこともある(相手が不織布マスクじゃないと接するこちら側の感染リスクが大きい)。マスクをしていると、それ以上のことを求めるのはなかなか難しい(熱と咳がある患者さんには不織布マスクを渡しているところもあるかもしれないが)。
そしてなるべく距離を保って会話をしたいのだが、耳が遠い人もいるので、診察室で最初になるべく離して椅子を置いていてもだいたい患者さんは椅子をずらして近づいてくる。近づいたうえで大声で話さないと聞き取れない患者さんも本当にたくさんいる。そうなるとお互いにリスクである。
だから、今日診た(熱のない通常の診療を受けに来た)患者のなかにひとりでもコロナ感染者が混じっていて、運悪く感染ることもあるかもしれない。オンライン・電話診療をするというのも対策のひとつだと思うけど、高齢の方など画面越しの会話は難しいことも多いし、対面して話すというだけで医療者にとっては患者の体の具合やどれだけこちらの説明が伝わったかなど、声だけ、画面だけより格段に情報量が多く治療方針を決める上での判断材料になるのだ。コロナ流行下ではやむをえず電話再診をしたりもするけど、その弊害もあると思う。なんらかの症状のある患者は身体所見を診ることも必要だし。
というわけで病院で診療行為をしていること自体、人と近いところ、せまいところで会話し接触することもある行為なのでどんなに対策していても感染は起こりうる(これは病院、医療にかぎらず、お店の接客とか仕事上そうせざるをえない人はみなそうだと思う)。それでも多くの病院でいまのところ院内感染が起こらないのは、話が逆になるようだけど冒頭にいったように手洗いやマスクなどの感染対策を徹底しているからだと思う。
それでも地域の感染者数が増えるほど、その対策をすりぬけて運悪く感染する率が上がり、クラスター発生→医療者が感染すると一時欠勤せざるをえない→もともと病院の仕事量というものは一人でも欠勤するとやばいことになる。それが複数ともなると残りの人の負担が想像するだけでおそろしい→医療者疲弊→そこにさらに患者が増えると皆つぶれてしまう…ということになるのだ。
旭川の病院のインタビューを読むと「予想していた以上に感染のスピードが速かった。ある程度の人数で抑えられるとたかをくくっていたが、こんなに一気に感染が広がるとは思っていなかった」と答えているようだけど、「たかをくくる」などの表現で誤解されないといいんだけどと心配している。感染防御はきちんとやったうえでこうなっているのだろうし。大事なのはそれだけ感染の広がりが速いということのほうだ。
専門でもない私がだらだらと雑感を書いてしまったけど。
私などが書くまでもなく、感染症の専門家が必死でCOVID19の特徴や対応策を国民に、そして国に毎日のように説明して訴えているのに。それに対して国が真剣に受け止めて考えてくれていると感じられない。見離されているような気持ちになる。
別に経済を止めろといいたいわけじゃない。最初の方に書いたように飲食店を助けたいなら、個食やテイクアウトのすすめや、店舗の感染対策のための補助金をだすとか、旅行についてもマイクロツーリズムだとかいろいろ提案されているはずなのになぜそれらを声を大にして推奨しないのか。
少なくとも旧来の大勢が集まって騒ぐタイプの忘年会にはしないよう呼びかけないと年末年始大変なことになる。
医療機関も年末年始体制に入るし。まあ総合病院の年末年始は短いと思うし(1月4日には平常になるところが多い気がする)、例年と同じ年末年始体制がとれるかどうかはわからないけど。たぶんコロナに専門的に関わっている人は休めない可能性もありそうで、それを思うと本当に心が痛む。もちろんこれに関しては行政だけじゃなく、病院、医療者自身も考えるべきことだと思う(実際、専門科じゃない医師が応援医師としてコロナ診療をやってたりする)。ただ、本当にいまコロナ診療で身も心も疲弊しながら働いている人に対して、その負担を少しでも軽くするという姿勢を政策として見せないと、ただでさえしんどいコロナ診療へ積極的に志願する気持ちにはなりづらいし、医療者の心身に限界がくる。
タッチタイピングしていると見せかけて実はやっていない人が結構多い
そんな偽タッチタイピングをまとめてみました
これが一番多い
さすがに一昔前のグーの状態から人差し指だけ出してタイピングするような人は減った
が、手をパー、もしく半握りにして人差し指だけしか使ってない人は結構いる
常に手元を見ながらのタイピングになる
なぜかオジサンに多い
手元を見ないでタイピングはしているが、よく見ると小指は絶対に使わないタイピング
また、タイピングスピード自体はたいして変わらないので弊害も少ない
CapsをCtrlに入れ替えてCtrl+他のキーとかを教えるとボロが出てくる
増田もブコメも「わざとぶつかってくる一部の変態は置いといて」で片付けてしまっている。
そうじゃない。
そいつらは沢山の女に何度もわざとぶつかる。そいつら自体は一部でも被害者は大量にいる。ぶつかり男の被害に何度も遭う女性もいる。
結果として「男は女にぶつかる」と沢山の女性に印象付けてしまうのだ。そいつらのぶつかりは女が避けないでぶつかるのよりも多くなり、また、避けないでぶつかるのではなく「わざとぶつかってくる」異常さがインパクトを与えるのだ。
痴漢と同じ。痴漢は一部でも、そいつらが大量に被害者を生み出す。
よって、「男全般は避けない。女を見下してるからだ」とか思ってたのは増田くらいである。みんなその「わざとぶつかる男」の話をしていたんだよ。
余談だが、外国人が「ぶつかった時に謝るのはイギリス人の他にもいるのか」と実験したところ、日本人には素早く避けられてしまうらしい。
ただ、同じ方向に避けすぎて進めないという弊害も起きる。
「そっちが避けろ」の方がうまくいくことはあるのだ。
つい先日、推し作品の舞台が幕を下ろした。シリーズ別で何年か続いていたものもすべて終わった。携わっていた皆様、本当にお疲れ様でした。
推し作品では、作品内のキャラクターが架空の舞台や映画に出演し、それがドラマCDとして公式から出ていた。舞台が3作品で映画が4作品。これからする話は、キャラクターたちが出演していた上記7作品をそれぞれを舞台化したものだ。
推し作品では『キャラクターたちは私たちと同じ世界(三次元)に存在している』という様なことを公式がほのめかしている。正直、私も『キャラクター』と書きたくない。私自身も公式の影響を強く受けているので、キャラクターではなく実在する『人物』だと思っている。しかしここではややこしくなるので、心に蓋をしてあえてキャラクターと書いていく。
2.5次元舞台は役者がキャラクターそのものになるのが一般的だ。今回推し作品では『キャラクター(初代)が演じた舞台・映画作品の役を若手俳優たちが【2代目】として演じて2.5次元化する』という落とし所をつくった。なかなか絶妙な配慮だったとは思う。キャラクターそのものではないが、キャラクターが演じた役を演じるので容姿は限りなくキャラクターに近くなる。公式が『推し作品内のキャラクターを演じる訳ではない』としくれたのはよかった。それが後に弊害になる部分もあったが。けれど、それが明確に表記されていたのは舞台化の発表時だけだった気がする。以降は暗黙の了解なのかなんなのか、ハッキリさせずに2代目は作品内の役名で呼ばれていく。私は以降、2代目と呼んでいく。
何も知らない人には上記を1から説明しないと話が始められないのが大変だ。あと一応私のことについても書くと、私は推し作品は愛しているが若手俳優にはまったく興味がない。2.5次元が流行りだす前から舞台やお芝居は好きだ。推し作品の舞台は全シリーズを実際劇場に見に行った。
舞台化の発表が公式からあった時は賛否両論とんでもないほどの反響があった。2.5次元が流行りだしても推し作品は乗っからず我が道を行っていたのに。公式が『キャラクターは現実にいる』って体現してきたのはなんだったんだよ!?と拒否反応で舞台化発表の時点でシャットアウトした人も多いと思う。今なお舞台の話については人によっては地雷になる。批判の声の方が大きかった気もする。あとは戸惑いの声。私は元から舞台が好きだし、公式がやると言うならとりあえず見ようと思った。とりあえず見てから何か言おうと思ったのでこれを書いている次第である。
やっと本題になるが、結論から言うと見た事に後悔はない。舞台を見られたことはよかったと思う。だけど手放しで『最高だった!』とは言えなかった。
見た事に後悔がないのは、キャラクターたちが演じた舞台・映画作品が元なので、その作品のその後、もしくはその作品へと続くゼロのストーリーが見られたことだ。舞台の脚本は各作品ごとに違うのである意味二次創作にはなるが『もしこれをキャラクターたちが演じていたら…』と妄想が膨らむ。また、初代が演じた舞台・映画は現実ではドラマCDだったので、同じ内容でなくても舞台セットや衣装など雰囲気を実際目で見ることができたのはとてもよかった。脚本の中身ついては好みもあるので意見は別れると思う。アクションが多い舞台もあったので、そういう作品については物語の中身よりアクションを魅せる方に力を入れていたように思う。あとは2代目の脇を固める、舞台オリジナルキャストの存在も大きかった。場数をそれなりに踏んでいるであろう安定した演技、2代目を支え、引き立たせる役割をしっかり果たしてくれていてどの役者の方も素晴らしかった。そして、時に何役もこなし、時に舞台転換、時にダンスも踊る、万能すぎるアンサンブルの方々。アンサンブルは舞台の中では目立つ存在ではなくても、絶対に欠かせない方たちだった。原作のドラマCDは主演キャラクターしか出てこないので作品の世界感はかなり広がった。オリジナルキャストとアンサンブルの皆さんには本当にスタンディングオベーションを贈りたい。推し作品に携わってくれてありがとうございます。
じゃあなにが手放しで最高と言えないのか。推し作品の舞台は、本編のお芝居の後に歌やダンスのパフォーマンスをする2部構成だった。休憩も挟まず、本編の内容にも関係なく『この後は歌とダンスで盛り上がってほしい』と言われる。2代目は『キャラクターたちが演じた役の2代目を演じる』だけであって、正直歌う必要はないと思っていた。だから突然歌うと言われても困る。そしてお芝居の余韻に浸ることもできない。この流れが私は苦手だった。そして、さらに困ったのが『ペンライトを振ってほしい』と言われることだ。推し作品のキャラクターたちは歌を歌うので、キャラクターたちに対してペンライトを振るのは分かる。でも2代目はキャラクター本人ではないし歌う必要もないと思っているので、私にはペンライトを振る理由がなかった。申し訳ないとは思ったが、ペンライトを振りたいとは一度も思えなかった。極めつけは、歌っている途中で突然客席に向かって愛を伝えるシーンがあったりする。別に私に言っている訳ではない。でも客席に向かって言われたら、私も客席にいるので仕方ない。これだけは譲れなくて、私は推し作品のキャラクターの女ではあっても2代目の女ではない。お前の女ではない。めんどくさいオタクである。誰もが頷くような圧倒的なパフォーマンスを見せられたならその気持ちも少しは変わったかもしれないが、残念ながらそこまでには至らなかった。
2代目の役に対しても同じ気持ちだった。初代はドラマCDなので声のみの演技だ。色眼鏡で見ている部分もあるが、それでも感じるものはあった。2代目に関しては視覚を通しても見ているのに心に響いてくるものが少なすぎた。若手俳優だし経験の差なのかなと思えば仕方ない部分もあるが、私は2代目の頑張りや成長を見たい訳ではない。推し作品の舞台を見に来ているのだ。お金を払って客として見ているのだから、完成された舞台を見たい。それが叶わない部分が少なからずあった。それが推しキャラクターの演じた役の2代目であれば尚更気になる。初代の演じた役への解釈が薄っぺらい。表現力が足りない。先ほどの話にもなるが、2代目は無理に歌わなくてもいいからもっとお芝居に力を入れて欲しかった。2部構成には無理があったんじゃないかと思った。
そして、2代目のことは最初から最後までどう扱っていいか分からなかった。舞台では2代目として初代の役を演じて、パフォーマンスはキャラクターと同じように歌って踊る。さらには時々キャラクターの口癖や仕草を真似る。
2代目、お前らは一体誰なんだ。
公式、お前は客に何を見せたいんだ。
2代目は2代目なんだからキャラクターに重ねたくない。最初から最後まで線引きをちゃんとして欲しかった。
これは推し作品に限ったことではないが、2.5次元の流行りで若手俳優はいろいろな舞台へ引っ張りだこだ。稽古時間が限られていたり他の仕事があったり、分からないけど色々あるのかもしれない。そこに今はコロナもあるので制約があると思う。これがあの時の精一杯だったのかもしれない。だけど、なんで客側がそんなことを考慮して見なきゃいけないんだろう。創られた非現実世界を楽しむために舞台を見に行ってるのに。なんで諦めて見なきゃいけないんだろうか。流行りだから、儲かれば舞台化するでいいのか。実際推し作品の舞台化が儲かったかどうかは分からない。正直そんなにキャパのない東京公演でも当日券が出たり空席も見かけた。最後の舞台の千秋楽後も続報はなかったので、ここが幕の引き時だったのかもしれない。
以上が、推し作品の舞台を観た率直な感想だ。色々なことを言ったが、最後まで推し作品の舞台に携わってくれたすべての方に感謝を言いたい。前途多難な舞台化を走り切ってくれてありがとうございました。
推し作品の公式は、ファンの声をもっとリサーチしてなるべく多くの人が喜べるコンテンツ展開をして欲しい。身内同士をこれ以上仲違いさせないでくれ。頼むから。
https://anond.hatelabo.jp/20201201184650
当方20代後半、四国に生まれ、高校まで四国で過ごし、大学は関西の田舎にあるキャンパスに通っていた。紆余曲折あり25歳まで正社員をせずフリーターの身で田舎で過ごし続けていたが、25歳になり大阪のど真ん中で正社員となった。
勤務先は大阪の地下鉄沿線の製造業の会社で、事務をしたり現場(これも大阪市内の工場)に出張に行ったりしている。
・・・と、上記記事のテンプレートに則って書くのはここまでとして、結論から言うと大阪での生活は可もなく不可もなくである。
良い点と悪い点を書いていこうと思う。
・良い点
①気軽に何も考えず出掛けられる
上記記事に、都会は「心理的負担なく出掛けられる」という話があるが、車を持っていない人からすれば確かにそうだと思う。俺も大阪の街中で高校生とかを見かけると羨ましく思う。こんないろんな物が満ち溢れた世界で高校時代を過ごしたかったな、と。
また、上記記事に「東京に住んでいる時には外に出る理由なんて一切必要なかった。」とあるが、これは大阪も同じである。休日にとりあえず梅田行くか、心斎橋行くか、天王寺行くか、みたいな感じでふらっと街へ行くことが多い。実家だと取りあえず出かけるというとイオン一択になってしまう。
②街の変化にワクワクする
俺が大阪でよく行く街は梅田だが、あちこちで再開発がされており、完成後の姿を想像すると非常にワクワクする。ただ、当の大阪人たちはそんなにワクワクしないらしく、これは俺のような田舎出身の人間特有の心理なのかもしれない。
これのどこが良い点なのかと思うかもしれないが、この土地の未来が楽しみであるという感覚は、過疎化で衰退する一方の田舎とは正反対の感覚で、自分の気持ちもポジティブにさせてくれるものなのだ。
③交通費が安く済む
大阪市内に住んでいる俺のメインの交通手段は地下鉄だ。車は持っていない。車の維持費に比べれば地下鉄の交通費なんてかなり安いだろう。
しかも俺の場合、自宅-会社間の定期券ではなくマイスタイルという地下鉄の定額サービスを契約しており、その交通費も会社負担のため、大阪の主要な街には実質無料で行くことができる。
・悪い点
①人が多いことによる弊害
田舎出身の俺は、行列に並ぶことへの心理的負担が都会人よりも大きいと感じる。とにかく行列が待てない。行列に並ぶぐらいなら諦めるor別の場所へ行く、となってしまう。
また、朝夕のラッシュにも多大なストレスを感じる。ある日の帰り、電車で横にいた奴に肘打ちをされたのだが、その日一日中俺の怒りは収まらなかった。
そのことを同僚に話すと、「そんなことで怒ってる奴なんて初めて見た」と言われた。都会人的にはそういう行為は一瞬イラッとはするが、その後その怒りをズルズルと引きずったりはしないらしい。
それを聞いたとき、俺には根本的に人混みが向いていないのだなと感じた。
②家賃はやっぱり高い
大阪は東京と比べるとかなり家賃が安い方だそうだが、それでも家賃は高いと感じる。
大阪市内の地下鉄沿線、オートロック、トイレ風呂別、角部屋とかなりの好条件ではあるが、たった6畳の極狭なワンルームで毎月の家賃共益費が6万円。
対して四国住む友人は2LDKのマンションに4万円台の家賃である。
また、今のところ車を買う予定はないが、車を買えば毎月1~2万の駐車場代も発生する。
③夜も騒がしい
夜寝るときも外から何かしら音がする。一番びっくりしたのが、真夜中に道路工事をすることだ。
田舎だと昼間に車線規制とか片側交互通行とかして道路工事をするが、都会では夜中にするらしい。
上記記事に、周りに人の気配がないのが孤独という話があったが、田舎育ちの俺には分からない感覚だし、静かなことに越したことはないだろうと思う。
増田です。
ちょっと身辺落ち着いたので投下させて下さい。
https://anond.hatelabo.jp/20200314011635
端的に話しますと前エントリに言及した刑事事件の件、加害者(元上司)が死亡しました。
心不全と聞いたけど被害女性の訴えが明るみに出たタイミングだったので
辞めた理由ってのは前エントリ通り漆黒な組織っていうのもあったんですが
最終的には加担したことにして一緒に劣悪な僻地に飛ばすつもりでいたことも判明しました。
自分もこの上司の被害には遭ってたし(暴力、暴言、仕事しない)、
どうこいつ(自分)を扱っても壊しても構わないという魂胆が透けて見え
最後にはこの組織が気持ちが悪くて、恐ろしくて、裸足で逃げ出したようなものです。
最終的に退職金と給与が入金された後、「二度と関わらない」という証書にサインさせて、
2年間、健康診断を受けさせてもらえなかった弊害か体に異常が見つかったのですが、
心配性かつ理解ある上司のおかげで不定ではありますが在宅をさせて貰ってます。
会社組織に抗うという不利な理由で退職しましたが今いる組織にも離職の理由は伝えて、
また、劣悪な前職の中で必要に迫られ必死に取った一定数の資格技能が、
こんな風に転職を助けてくれるとは思いませんでした。
今思うとかなり環境に毒されていたのですが
懸命に置かれている場がおかしいことを訴えてくれた友人たちのおかげで
心身ともに壊される前に人生を再開できました。
トラバでどなたかが仰っていましたが幸せになるからな。という言葉は多分呪いだと思います。