はてなキーワード: 小手先とは
お世話になります。
COJというアーケードタイトルに60万円以上使っているプレイヤーです。
3月18日に行われたカードランキングおよびオリジナルポイントの変更について思うところがありメールを送らせていただきました。
単刀直入に申しますと、オリジナルボーナスSデッキの使用率を下げるためだけの調整はやめて欲しいです。
今回新しくデッキオリジナルボーナス(以下、DOB)6pのカードが登場しました。
【変更前】
1-100位 0p
101-300位 1p
301-550位 2p
【変更後】
1~30位 0p
31~150位 1p
151~550位 4p
551位~ 6p
一見してDOBの高いデッキが組みやすくなったように見えますが、実際は違います。
説明しなくても調整した側の人間なら分かると思いまずがプレイヤーを馬鹿にしての調整だと見受けられるので、
ここで説明することでその認識をいい加減やめてもらいたいと思いあえて行っています。
【変更前】
S:80p~ (AP獲得倍率:2.5)
A:40p~79p (AP獲得倍率:1.8)
C:5p~19p (AP獲得倍率:1.2)
【変更後】
S:160p~ (AP獲得倍率:2.5)
A:80p~159p (AP獲得倍率:1.8)
B:40p~79p (AP獲得倍率:1.5)
D:0p~9p (AP獲得倍率:1.0)
この【変更前】の以前にはSデッキに関してのみAP獲得倍率を下降させる調整を行っています。
この時からSデッキに対する調整を入れていきたいという意向があったことは誰でも分かります。
次にDOBランクに必要なポイント数を満たすためにより少ないカード数で満たすとどうなるかを書きます。
【変更前】
S:80p
2p×40枚(残0枚)
A:40p
B:20p
4p×5枚(残35枚) or
2p×10枚(残30枚)
C:5p
2p×2枚+1p×1枚(残35枚)
【変更後】
S:160p
6p×26枚+4p×1枚(残13枚) or
4p×40枚(残0枚)
A:80p
6p×13枚+1p×2枚(残35枚) or
B:40p
C:10p
6p×1枚+4p×1枚(残38枚) or
これだけでも高いDOBを組もうとした際にCデッキより高いボーナスデッキは、
DOB確保以外のカードを組み込めるカード数が軒並み減ってしまっていることが分かります。
オリジナルデッキの制約というのは、DOB確保のためのカードを除いた自由に組めるカード枚数の数の増減です。
自分で好きに入れることのできるカード枚数が減ればそれだけ難易度は上がります。
従来の1p、2pであった現在の1p、4pの層が厚くなったため条件を満たしやすくなったかもしれませんが、
Sデッキに関して言えばより難しい条件になり、Aデッキに関しても自由に使えるカード枚数を増やそうとすると
新しい1p、4pを選択しやすくなった状況でより候補から外れやすくなった6pカード、
正真正銘の弱すぎて6pでも誰も使いたがらないようなカードをデッキに組み込む必要が出てきます。
つまり、1pと4pの層の拡大化により高いDOBデッキを組みやすくなるというのは見せかけにすぎず、
実際に使用率を集計して変化するDOBシステムにおいてはより難易度が上がっただけということになります。
DOBの高いデッキを作るために4p帯の使用率が上がれば1p帯とのループ的な入れ替わりを起こし、
今回の調整により、最下層である6pカードはさらに日の目を見ない層になりかねません。
なぜ、このような調整を思いついたのか。
なぜ、このような調整に誰も疑問を投げかけなかったのか。
なぜ、このような調整が通ってしまったのか。
誰かに余計な入れ知恵でもされたのでしょうか?
余計な口出しをされたのでしょうか?
Sデッキの使用率を下げたいがために他のデッキ利用者も巻き込む形で調整が行われてしまった。
そのようなことはプレイし始めれば早かろうが遅かろうが誰でも気づきます。
そのときに心に浮かぶことは運営への不満や疑問しかありません。
ここまでの文章を書くまでの間に何度も残念だという気持ちになりました。
Sデッキを調整したいという思いにはとやかく言うつもりはありません。
ですがSデッキを調整するために他のデッキを使う人間にも影響が出るような調整をしないでください。
Sデッキが運営にとって不満であるならばポイント帯を0、1、2、3、4として新たに作った3pに
4p帯が本当に誰も使いたがらないカードにする調整はできたはずです。
システム的な問題ならゲームシステムの根幹であるDOBにコストを掛ける正当性はあるはずです。
目先の調整や小手先の調整で回そうとしないでください。
無理をしないでください。
プレイヤーは、特にヘビーユーザーにとっては取って付けたような真新しさはそんなに望んでいません。
その人たちにとってはプレイ時間が短いために頻繁な更新をされてもついていけません。
だんだんと自分の遊び場ではなくなっていくコンテンツを遠巻きに眺めるようになり、
そうすると運営は躍起になって小手先の更新に注力して、火に油を注ぐわけです。
もうやめにしませんか?
更新して売上が上がるのはプレイヤーはクオリティを確認しようとしているからです。
決して更新自体にお金を払っているのではありません、確認するために課金せざるを得ないのです。
それがカードゲームです。
プレイヤー側全体は更新が起こるたびに「このゲームを続けていていいのだろうか?」という評価が発生しています。
しかしそうでないものを何度も行い続けると結果は目に見えています。
ゲームシステムを変えることなく、安全に集金することが可能です。
ユニットの絵柄を変えるコンテンツはずっと凍結されたままになっています。
あちらに力を入れて課金要素を追加してください。
できればフィールド上でも小さな変化があればいいかと思います。
RPを使用させるコンテンツを充実化させればプレイヤーは実際にプレイするほかありません。
プレイする頻度が高ければ高いほどゲームにのめり込むと考えてください。
なるべくプレイヤーをゲームさせるような調整がCOJの未来とファンを作ります。
また、Sデッキをしきりに警戒しているようですが、
大部分のプレイヤーにとって少し流行ったSデッキを使いランクを上げたとしても元々の実力がない限り維持はできません。
そしてランクの高さがゲームの終わりだとも思っていませんしランクを上げることにモチベーションを感じる層は全体のごく一部だと思います。
そういった一部の人間もランクが上がったからといってゲームをしなくなるというわけでもありません。
ランクの上昇は自分のゲームスキルの向上の一種の指標にしかすぎないという認識は多いと思います。
そもそも1対1のゲームのため分不相応のランクに突入しても自分が痛い目を見るだけです。
Sデッキを警戒しすぎておかしな調整を繰り返さない前に誤解をやめてください。
ここまで遊んできたのですから、COJよりも面白いカードゲームが登場するまでは最後まで遊ばせてください。
新しいカードが欲しいわけじゃないんです。
新しい調整をしてほしいんじゃないんです。
そしてそれができるのはゲームセンターにおいてセガゲームス以外には無いと思っています。
失望させないでください。
夢を見せてください。
以上です、どうぞよろしくお願い致します。
いつか忘れてしまったけど、会社の権限を利用して色々糞なことをやって懲戒解雇になった数人がいた。
なんかそいつらは一緒にある事業(?)をやってたらしいんだけど、それが今いる会社の内部権限を利用する形で収益を得てて、結局バレて懲戒解雇になったんだけど、ほんと単なるクズだった。
その後も会社立ち上げて、そのままその事業を続行していく様子だった。
なるほど、収益をどうしても得たいのかとか思ったよね。
いやーほんと不正な手段、しかも小手先のテクニックで収益を得てた奴らが、辞めた後に会社立ち上げて「Googleを越える会社を作ります!!!!」とか言われたからほんと笑っちゃった。
その程度の技術やビジョン(笑)でGoogleを超えられるわけ無いだろw と思いましたさ。
あと、それをFacebookにシェアされているのを見て「いいね!」とかしてる奴らがいて、なるほどゴミを愛する(利用する)人々かと思った。
一生信用しないと思った。
そんな奴らと働くことは単に不満だよね。
オレはアイドルのライブで歌唱力やパフォーマンスの凄さを楽しむよ。
圧倒され息を呑むのを忘れ、時が止まったような感覚を味わうね。
まあオレは他の観客の凄さを体で感じるんじゃなくて、
周り見渡してキョロキョロするのが嫌なら、メタルを聴けばいい。
モッシュピットで殴り合いをするのも、後ろで腕を組んで泣くのも自由だ。
もちろん歌唱力だかパフォーマンスとかいう技術もメタルの醍醐味だ。
もっとも、その手の小手先の技術は、楽曲とアーティストの魅力を伝える手段にすぎないけどな。
パスタマシンで中華麺を作ってたけど、試したくてヌードルメーカー買った。
最初にレシピ通り打ち食ってみると、不味い。キャラメルのように奥歯にくっつく中華麺ができた。
麺が不味い原因は、麺肌が荒れているからで、それを茹でると茹で汁はドロドロになるし麺は不味くなる。
太めの2.5mmや平麺のアダプタで製麺すると比較的良いが、それは麺が太いから荒れている部分が
相対的に少なくなるだけで根本的に解決できている話ではなかった。
2mmのアダプタでは麺肌の荒れは顕著だったが、加水率を上げたり上級な粉を使ったり薄力粉を足したり
卵白を入れたりしてやっと何とかモノになってきた。
でも、考えてみると今まではパスタマシンを使って3級の粉と炭酸ナトリウムで十分な麺が打てていたのに
めちゃくちゃシンプルで。
・ちゃんと勉強してるやつは格好良い
・勉強サボっているやつは格好悪い
オフ会や勉強会でも、学校でも、予備校でも、語学学校でも何でもいいから、このどちらか、あるいは両方が「アタリマエ」として共有されている環境に身を置く。
そして、そこにいるやつらと仲良くなり「こいつらに嫌われたくない」という感情を手に入れる。
それだけだ。
(節度を守っているならという前提条件は付くが、「こいつらにモテたい」まで昇格できれば最高オブ最高だぜ)
周囲を見ていると、小手先のテクニックや自らの意識を高めることに関しては意欲的なのに
「環境を言い訳にするな」なんて言葉もあるが、極度に意思が堅いやつならともかく、普通の人間にとっての環境のプラスorマイナスのブーストを甘く見てはいけない。
とにかく、理想的に環境を手に入れること、それが何より重要なんだということはもっと共通認識になるべきだと思う。
インターネットは嘘を嘘として楽しむ場所なので、こんなことを言い出すのも野暮なのかもしれないが、
私は「騙されるのが嫌だ」「感動を返せ」とほざくバカに自衛のための武器をあげたい。
なぜなら増田とは地上に残された唯一博愛の地であり、敵に塩を送る礼儀をわきまえた唯一の匿名人種だからだ。
そのことが増田たちを誇り高くしている。
まず、見てすぐわかるタイプのがいる。いわゆる「初級おっさん」というやつだ。これはおっさんもわざわざ隠そうとしない。場合によってはラスト一行で男バレを自らやることもある。
これをもって「おっさん乙」などと得意げにコメント打つのは愚の骨頂、カモの所業である。
即バレなどおっさんにとっては前戯のようなもの。まだアナルには爪先すら触れていないのだ。
そんなおっさんが本気を出して騙しにかかった場合はどうだろう。
ぶっちゃけていえば、通常その真贋を看破するのは不可能に近い。人間、その気になればwikipediaと小手先と情報の非対称性でいくらでも人を騙せる。
難しいのは増田という場自体が「騙しやすさ」を底上げしていることだ。
増田は匿名サイトだ。そこに書いてある意見や発言は実名で発言する地位ないし度胸のないクズのたわごとと見なされており、まず真剣に読まれない。ゆえに「自分は◯◯だ」と言い張ればまず、多少瑕疵があったところで、わざわざ検証コストかけてまで反論しにくるやつはいない。今回の女音楽家風俗嬢事件のように、たまたま増田にそのスジに詳しい人物がいればいいが、いつもそうした専門家に恵まれるとはかぎらない。「女音楽家」が「女カバディ選手」だったら手の施しようがない。
だから基本的に増田の言うことはそのまま額面どおり信じられることとなる。
では騙されたくない人はどうすればいいのか。現状では三つの伝統的な対処法が存在する。
1. 増田をみるのをやめる。
一番健康的な対処法である。もともと読むに値しない記事が99.9999%を占めるので、全く読まなくなったところで人生になんら悪影響を及ぼさない。むしろ、増田を見なくなることが人生の良い側面が目につくようになり、精神衛生も向上することでご飯がおいしくなり、毎日がハッピーに、年毎の健康診断でも改善が見られるようになる。
しかし、タバコや大麻といっしょで、簡単に止められるなら最初から誰も苦労はしないのである。
2. 元増田が女性と自称する記事のコメントをすべて「おっさん乙」にする。
知性の敗北である。「高度に発展したおっさんは本当の処女と見分けがつかない」とするならば、常に一定割合で含まれるおっさんをバスターするために絨毯爆撃はそれなりに理にかなっている。リスクもない。
しかし、それであなたのプライドは満足するのだろうか? おっさんと処女をまとめて鏖殺する、そんなのがあなたの人生なのか? そのような雑でサイコパスじみた合理主義がベトナムで、アフガンで、イラクで、悲劇をひきおこしてきたのではなかったか? あなたはおっさんを敵視するあまり、ドローン以下の存在に堕落してしまっているのでは? おっさんと子どもたちの未来を奪う空爆に今こそNOを!(おっさんという文字列には NO WAR という語が含まれている)
いわゆる、深淵を覗くものはキャーのび太さんのエッチ! ってやつである。
みずからおっさんを演じることでおっさんの意志に沈潜し、同化し、その思考をトレースすることでおっさんを完璧にプロファイリングすることが可能となるのである。先ほど挙げた「初級おっさん」にもおっさんプリテンダー、おっさん検挙を最終目的とするおっさん潜入捜査官が含まれていると言われる。
もちろん、この手法には重大なリスクが伴う。やがて、マジモンのおっさんになってしまうかもしれない、という危険だ。そして、その罠にはまる若者は事実後を絶たないのである。虎穴はいらずんば虎児を得ず。おっさんを殺すためにはおっさんの力が必要なのだ。君にその覚悟はあるか?
以上三つが伝統的対おっさん検挙手法であるが、年々高度化する知能犯であるおっさんに対して、いずれも決定打とはなりえていない。
そこで私は一つ新たな手法を提唱したい。名づけて「それ、AVで観たよね?」メソッドだ。
あなたが、増田で自称女を名乗る記事を発見したとしよう。文章も設定も物語も高度に練り上げられ真に迫っており、とても創作とは思えない。が、あなたの脳内では一目観た瞬間から「これはおっさん!これはおっさん!」という警報が鳴り響いている。
この直感の正しさを証明するために、あなたは以下の行動にでる。
まず、あなたは記事の設定を抽象化して抜き出す。「女音楽家」、「苦学したため金を稼ぐために風俗で働く」。
そして、その設定からそれっぽい検索ワードをひねりだし、DMM.comのサイトで検索にかける。
ヒットした候補のなかから記事の設定によくにた設定のAVを見つけよう。
「おっさんは自分の願望に基づいて女を創作する」――その習性を利用してやるのだ。なぜなら、おっさんの妄想の八割はAVに由来する。
そうやって、おっさんを割り出せたとして、あなたはそのおっさんをどうすればいいのか。
断罪するのか。弾劾するのか。無視するのか。むしろ擁護してやるのか。おっさんの嘘に加担するのか。
そう、真実の先には常に「あなた自身の真実」が投影されるのだ。
これはひどく狭い世界の話だ。
要するに、
創作関係のコミュニティで内輪揉めを引き起こして、
結局なにひとつ現状は変わらなかった、というだけの愚痴だ。
数年前からそのコミュニティに参加し始めた。
「コミュニティの一生」というコピペがあるが、
あれでいえば俺はちょうど面白い人とつまらない人が入れ替わる、
その一番最初に来たつまらない人、という位置だろう。
当時はにぎわっていた。
最初にその場を耕し、育てあげた人々はみな何らかのノウハウがあった。
意外にも、本来いるべきその道の専門家は少なかった。
むしろ優れた部外者たちの試行錯誤やぶつかり合いが場を育てた。
たとえるなら、
トランペットを小学生の頃から続けてきたベテランが、
その経験を活かしてセンスある創作料理を次々と生み出すようなものだ。
それほどに無関係な分野の人たちが、
「その道の専門家」を圧倒する勢いで傑作を生みだしていった。
自分は以前“その道”に近い場所にいた。
だからはじめ、彼ら先駆者よりも自分の方が優れたものを生み出せると、
そんな驕った考えでその場に近づいていった。
そして打ちのめされた。
最初の半年か一年くらいは、彼らの生み出した言語の習得に追われる日々だった。
夢のように充実していた。
彼らは小手先の作法などでなく、本質を素手で掴まえようとしていた。
最盛期は「いかによりよいものが作れるか」と夜な夜な語り合い、
酒を片手に垂れ流すようなバカ話も交えつつ、
時には場を凍らせるような尖った言い争いを起こしつつも、
全体としては実りある技術論をしていた。僕にはそう映っていた。
みんな、過去の話だ。
やがてある時から、人の気配が減り始める。
そのコミュニティがどこまでも膨張していったが、
筋違いの非難や関係者への人格攻撃も増えていった。
先駆者たちの多くは、そこらで別の居心地良い場所を探し始めた。
自分も彼らの後を追ったり、まだ元の場所に居着いていたり、
あるいは全く別の場所に触れてみたりしつつも、
心まではコミュニティから離れられずにいた。
衰退以前から、コミュニティ関係者の間ではSNSが普及していた。
SNSは確かにコミュニティ活性化の起爆剤ではあったが、
同時に終焉へと向かう引導でもあった。
当初の目的を外れた雑談や日常生活での愚痴などが空間を占め、
居心地の良い場所となっていった。
そこは創作行為をしなくてもぬくぬくと過ごせる場所に変わっていった。
世代交代はゆるやかに進んでいった。
かつての先駆者たちが作り上げた傑作に魅了された、新しい作り手もやってきた。
だがすでにそこは見えないルールでがんじがらめとなっていた。
尖った作品、極端な作品は叩かれ、無難なものだけが場を占めるようになった。
それどころか、作品の評価と作者の評価が混同されはじめ、
「SNSで良い顔をしている作者は叩かれない」という
あまりにも本末転倒した状況が生まれつつあった。
コミュニティから生まれた作品を保管するサイトの運営もまた、世代交代した。
以前の運営はコミュニティ参加者とは一定の距離を保っていた。
必要最低限のことしか話さず、任務を遂行していた。
運営が引退すると、別の参加者が次期運営に名乗り出た。
それから運営が交代し、ついにSNS参加者の手に運営が移った。
その運営は作品への非難を許さず、すべてに全肯定で返した。
作者の人格をキャラ化してSNS上での人形遊びにかまけては、
作者と作品の安易な結び付けを積極的に促した。
作品非難に対しては、その質を問わず断固たる態度で臨み、
場合によってはアクセス禁止を断行した。
ユートピアによく似せたディストピアがゆるやかに形作られた。
以前はどうだっただろう。
かつてはつまらないものはつまらないと叩かれ、
時には手ひどい長文バッシングやアンチのストーキングさえも起きていた。
だが、それは間違いなく健全な場所だった。
飛び抜けて優れたものが絶賛を超えた絶賛を受け、
見るに堪えないものはこっぴどく叩かれる。
だが、そうした歯に衣着せぬやり取りこそが、
本当の意味で作品に触れることでもあったのだ。
現在、そのコミュニティには酷評も絶賛もない。
悪いものには反応がなく、
よいものにも「お疲れ」「よかった」程度の寒い拍手が並ぶ。
中身を見てなどいないのだ。
現在でも本当に飛び抜けて優れた作品が生まれるが、
参加者にそれを賛じるだけの語彙がない。
この語彙というのは単なる辞書的な意味ではなく、
作品を底の底まで見抜く目と、それを素直に口にする心意気だ。
今は作品ではなく、生身の人間としての作者との馴れ合いが優先される。
彼らは何を作り上げるかではなく、儀礼で作った愛着にしがみついているのだ。
私はコミュニティにとって老害だ。
本当はすでに別の場に片足どころか重心まで移しておきながら、
さらに当時のコミュニティで腕を奮っていた作者たちをそこに呼び寄せながら、
こうして元居た場所を憂う資格など、本当はないはずだ。
けれども、もし、と考えてしまう。
もしこの場で、
かつてのように良いものを良いと、悪いものを悪いと言えたら。
言える人物がいたら。
まっとうな評価があれば、少しは何かが変わるだろうか。
風を起こせるだろうか。・・・そんな夢物語を考えてしまう。
ディスコミニケーションが極右思想をそそのかしてしまう。
そこで、修羅の仮面を被ってみた。
最盛期よりも過剰に、気に入った作品を絶賛し、
逆に気にくわない作品を立ち直らせぬほど叩き潰した。
実作評価とコミュニティ評価の乖離した作品は許さなかった。
借りてきた怨念を込めて、身体に空く穴もいとわず、
保管庫とその運営に向けて呪いをぶちまけた。
耳に入る同志たちが影でささやいた恨み辛みを糧に、
自分が真っ先に身をなげうって、
「健全な精神」の持ち主が後に続く道を切り開こうとした。
もちろん、そんなことで現状は何一つ変わらなかった。
今でも参加者はいちゃいちゃと馴れ合い続け、
自分の酷評に対しては見当違いな人格非難で憂さ晴らししてやり過ごし、
彼ら参加者は己の手で愛すべき土地を汚して踏みにじっていることに気づかず、
ぬくぬくと余生を過ごしている。
恥知らずにも、その手は未だに僕や出て行った人々にまで向いている。
突き返して叩き落としても、彼らに言葉は通じなかった。
反吐が出る思いだ。
だが、祖国に泥を擦り付けたという点では、自分もまた同罪かそれ以上なのだ。
先駆者たちは正しかった。
何もせず、すっと離れる方が殉教などより遙かに賢い選択だった。
中でも先陣を切った人は、コミュニティの樹立どころか、
人が集まる気配すらも避け続けているように見える。
根無し草というより、難民のような様相だが、
己の創造性や価値観を守るには賢明な選択なのだろう。
作品の質云々も、手前の好みにすぎないと言われても反論しきれない。
現運営が理想主義者の皮をかぶった独裁者であるのと同様に、
自分もまた、ある種の独裁的思考の持ち主にすぎない。
「ユートピアを語るものは、そのユートピアでの独裁者である」
そんな言葉を何度となく噛みしめる。
ちょうど一連の出来事は、例のISILの事件と同時期に起こっていた。
比べるのもばからしいほど規模の違う話だが、
テロリストになるとはこういうことなのか、と共感してしまう自分がいる。
僕はもう諦めてしまった。
例のコミュニティから距離をとりつつも、へらへらと生きていくのだろう。
死んでいく老兵の遺言として、この文章をのこす。
さあ、四月から新生活だ。
がんばるぞ
具体的に言うと新卒の皆様の就職活動に向けての準備でございますな。
そこで、超具体的に高卒or大卒or院卒(除く博士)就職する人向けのTOEICの話でも。
テクニカルに500点取る人と、理解して400点の人は、質が違う。
TOEIC公式サイトのサンプルでも見て、どう思うかで判定できるね。
これを「英語の試験だ」と思うか「ああ、ビジネスで使いそうな例題ね」かで違う。
業務で英語なんか全く使わないのに「高い方が優秀だろ」みたいな理由で点数見てるトコね。
まあ、世の中努力ではどうにもならん理不尽な事が多いのを知るのも就活の意義ではあるので、
そこは諦めて、出来る事をしてくれ。
商社やメーカー、中小工場の営業に至るまで、英語圏で仕事する人達は多い。
で、経験則的に、フツーに英語使えたら風邪引いててもこれくらい点数取れるだろ、と設定してる。
(まあ、野生の勘でブロークンイングリッシュで乗り切るオヤジとかが生息してたりするんだが)
新人の間はアンチョコ片手に苦労しながら現地のコーディネーターに合流出来て、
意思疎通して開拓したり交渉したりする(契約は英語屋orネイティブを挟む)のを期待してる。
だいたい、700~800点位を基準にしてるところが多い。
コッチ狙う人は正攻法で頑張ってくれ。
ワリとIT企業に多いんだが、意味もなく高い値に設定しているところが多い。
500~600点を基準にしてる所はまず意味ない数字だな。機械的に単位の「優」を数えるのと一緒。
あと、積極的に海外展開してるように見えないのに、750~900点とかつけてる所。
まず、商社や販社、外資の「英語普通枠」は、帰国子女とか準ネイティブが占めます。
身も蓋も無いですが、諦めましょう。
(諦める必要の無い努力型英語話者は、素でTOEIC800は超えるので関係ないしね)
「日本人だけど英語が使える枠」として残りたいなら、800点を目指しましょう。
まあギリ800,だいたい700~750くらいだと問題無いと思います。後は経験なので。
このレベルになるとTOEIC受けて知らない単語は滅多に出てこない、
思い出すのに時間かかるとか、なんかこもった話し方されると解らん、というレベルかな。
人によってやり方違うけど、まあ慣れかな。
学生さんだとそもそもビジネス文書に慣れが無かったりするので、
意外と日本語の新聞の社説を速読できるようになると、効果があったりする。
最初に言っとくと、試験の意味がわからない人でも、技法で600点ぐらいまでは行ける。
そうだなあ、
「英語は判んねえけど、今オレの悪口言っただろ」とか
「単語並べりゃ海外旅行は出来る」みたいなバイタリティ溢れる人は、
逆に、TOEICの点数はスゲエ良いのに、英語使って仕事できない人も居る。
で、「600点以上」とか書いてる会社は、何も考えてないことが多い。
600点って、辞書片手に英文メールで仕事のやりとりが何とか出来るレベル、だから。
これは巷にあふれるテクニカルな手法でとりあえずチャンピオンデータ取っちゃえば勝ち。
当然毎月試験受けるし、小手先のテクニックも大量に使ってくれ。
英語力(というと胡散臭いが)上昇には意味ないが、どうせ元々意味のない数字だ。
ヨドバシのチラシ見て「どれが一番割引率が高いか」とか、
中央線の時刻表見せて「どの列車に乗ると高尾山に一番早く着くか」とか、
展示会に行ったら「セミナー会場は変更になりました。なお飲食禁止です」とか、
ホテルにモーニングコール頼んで、お湯が出ないって文句言ってるオッサンの愚痴を聞いたり、
歯医者に「都合悪くなったんで、来週にならんかな」とか言ってるオッサンの電話聞いたり、
「明日の未来の為に、我がジオン国国民はXXXXXならんのである!」を穴埋めさせたり、
「あの壺をキシリア様に届けてくれよ! 」を聞いて、届けるのは何家か聞いたりとか、
和訳してテスト見れば、日本人なら風邪でもまあそりゃ取れるだろって内容なの。
だから「天気予報なのは判ったけど、その気象条件の単語は知らん」とか
「オッサンの説明がウザくて、何曜日か忘れた」とか
そういう状況なら、後は努力だ。
経済のルールが変わるからそれに合わせないといけなくなったという事なのだ。
昔のルールは;お金を稼ぐのは日本国内で日本語を話していればいいよって言うルール。
これからのルールは:国内のお金はだんだん少なくなるからお金を稼ぐのなら英語を使って海外で稼いでねーっていうルール。
ルールが変わったからゲームのプレーヤー(この場合は国民とか産業とか小さな意味では先生とか学生)はこれに適応しなければ生存できなくなるかもっていうこと。
それを分かっていないと、小手先の議論になってしまって、入学試験制度は大学が自由に作れるはずとか、高校生の基礎学力が落ちているとか、今の大学制度に問題はないのに
なせかえるんだとか、入試制度を変えれば問題が解決する訳ではないとか (おもにここに書いてある事だが(笑)http://blogos.com/article/63882/?axis=&p=1)
今までのルールは
と言う形。日本は確かに輸出で儲けたがそれでも経済は内需型。2010年の対GDP比で輸出依存度は11.4%で先進国ではアメリカに次いで低い。
ちなみに韓国は43%、ドイツは33%、中国でも24%。2010年でもその程度なのでそれ以前はもっと低い。一桁だったときもある。
そのような経済状況で必要な教育は内需経済のために必要な教育でいい。
だから国内の大学同士を競わせ、優劣を付け、教育のレベルをあげるというのでよかった。英語教育もいらない。英語は優劣を付けるための手段であり、
では、これから20年後どうなるのか?
2)内需の縮小
3)経済のグローバル化、知識のグローバル化による日本の産業の競争力の低下
が見込まれる。っていうかもう始まってる。
日本の経済を成長させ続けるためには本格的に外需で食べる事が出来るような体力をつけないと、
そうなると日本は国策として国内の大学同士を競わせて内需向けの労働者を大学で育成しても
貴重な外貨を稼ぐ事が出来ない。
また、人口が少なくなる中、海外からの優秀な頭脳を取り入れなければ競争力を持続できないが、
インターネットをつかったコンピューターネットワークが出来てしまった事によって英語の優位性は
もう既に決まってしまった。今後300年くらいっていうか未来永劫英語は世界の言語になってしまった。
それ以外の言葉はあまりにもお金を稼ぐのに不利になってしまったんだ。
お金を稼ぐルールが変わってしまった以上、プレイヤーはルールに従ってお金を稼ぐしかない。
で、いままでのルールでは日本国内だけで競っていれば良かったものが、国外の経済と競わなければならなくなった。
内需ならばいくらでも保護貿易できたんだけど、外に行くとなると保護できない。それどころか排除される側。
しかも輸出したい国は中国韓国はじめとする新興国から、欧米の先進国まですべての分野で競争相手がいるのだ。
また競争するためには時には相手とくむ事だってある。そのときの相手も日本語話してくれない。
つまり英語使って交渉できなければ売る事も研究も、つまるところ仕事ができないのだよ。
今回の入試改革によって入学試験は学力の面では圧倒的に緩和されるだろう。
そして大学に入るのには、勉強するに足りる基礎学力(特に理数系)、仕事に使う英語、交渉の際に必要な論理性の3つにおいて
ある程度のレベルを達していればよいとなるはずだ。
またそのためには勉強のスコアだけではなくて面接(特に英語、論理性)が試されるようになるに違いない。
入学試験は学力で学生を選抜する試験ではなく、学生の適正、能力、伸びしろをみるための試験となる。
一部の一芸に非常に優れた学生(たとえば数学オリンピックに出るような才能)はその枠で、
それ以外の学生に対しても可能性という枠で席を与えていかねばならないのだ。
勉強のできる学生が選抜されて入ってくる従来の制度では大学は入試が大事であとは学生が勝手に勉強してくれた。
これからは可能性のある学生が入ってくるのであとは「大学が育てる」という形になるはずだ。
故に大学は本当に勉強も教えなければいけなくなるだろう。また勉強だけではなくてコミュニケーションと論理性を育てる場所である必要がある。
これまで大学は国内の学生の選抜システムという形で機能していたが、これからは本当の意味での「学びの場」にならねばならぬのだ。
ルールが変わったのだから今までの国内のランキングなど関係なく東大を抜かす事だって出来るのだ。
この変革によって大学のレベルはより平準化され、専門化される。そしてその事が日本の大学のへきんレベルを底上げするだろうし、一部の学校は
教え方次第で相手は逆に嫌になってしまったりもするってことぐらい知っていさえすれば、自分の教え方に問題があるのではないかと考える切っ掛けにはならないだろうか。
義務教育で「教え方を教える」ことにする → それに際しては「教え方の良さ」を点数づけできるようなわかりやすい基準が必要になる(そうしないと現場の教師は馬鹿だから教えられない) → 「教え方の点数」を最大化するテクニックが蔓延しそれだけが取り扱われるようになる(そうしないと受験に勝てないし、教師の能力的にそのくらいが限界だし、受験に使わないなら皆無視して「教えたことにする」ようになる) → とにかく相手に「わかった」と言わせる小手先の丸め込みテクニックだけを身につけた子供が大量生産される
本当は彼だって分かってるはずなんだ。分かってるという事実から目を背けたいだけなんだ。
逃げたいあまりにやらないといけないことから目を背けてるだけなんだ。
.
教育とは何か、分かるかね。分かってることを引き出すことなんだ。既に彼の中にあるものをひきだす。
人間誰しも成長の段階というものがあるね。彼はまだここにいるから分からないことも多い。
でもそれと同じくらい薄々分かってることも多いんだ。それを引き出すのが君の役目なんだ。
.
薄々気付いてると思うけど、君=彼なんだ。先生という仕事をしていて生徒から教えられることも多いだろう。
僕だって自分という人間の先生だから自分に教わることも多い。つまりはそういうことなんだ。
.
なぜ人は分かってるのに救いを求めるんだろう。寂しいから?あるいは本気で分かってないつもりになっているのかもしれない。
だから君ができることはマジレスすることなんかじゃない。本人が本当は分かっているのに認めたくない答えを突きつけてもそれは助けにはならない。
一通り元気づけたあと、もうやるしかないということに気付かせ、再び歩み始めるのを見守ること。それが君のできることなんだ。
.
薄々分かってることに気付かせるという言い方をしたよね。この薄々というのがポイントだよね。
分かってるけど理解が足りなかったり逃げたかったりして、本人にしてみればよく分かってないと思っている。
.
よく何が質問したいのか分からないのに質問にくる生徒さんがいるだろう?
薄々何が質問したいのか、もっと言えば答えやその手がかりだって薄々分かってるかもしれない。
それなのに分かってないように感じる。そこに引っかかりを覚えるから質問にくるんだ。
だから質問を明確にしてから来たまえなんて追い返したらいけないよ。本人は分かりたいんだ。
分かりたいんだけど分かりたくない気持ちのほうが強い。だから答えを聞いても、本人の中に分かろうとする準備がないとおそらく駄目なんだ。
あくまで先生ができるのは彼の中に眠るものを引き出すこと。その準備が不十分なときは、「やるしかない」と本人が気付くしかない。
.
人生でつらいことがあって人に相談したいと彼は思っているかもしれない。
あまりに理不尽に感じることが多いのだろう。確かに客観的に見てもそうかもしれない。
だけどやるべきことははっきりしていて、それを彼が分からないフリしてるのもまた事実なんだ。
分かりたくないから、分からなくていいように、自分を欺き、やらなくていい努力をし、それを周囲にアピールしてるんだ。
だけど自分が悲劇の主人公だとアピールしても一時のなぐさめにしかなるまい。
.
彼が同じ過ちを繰り返さないためにも、どこかで「ほんとうは、わかっている」という方程式に気付くしかないんだ。
そのためには、とことん追い詰められる必要がある。
ただの「人生経験」「社会経験」なんてくだらないものじゃないよ。そんな苦労した気になるだけの経験はもうたくさんだろう。
そのためにも今彼がやってることをとことん突き詰めるといいのではないかな?
やがて小手先や先入観や常識では通用しない段階が必ず訪れるだろう。その時に変わればいいんだ。
君ができることはただ1つ。繰り返し何度も何度も彼を「やるしかない」という気にさせ歩き続けさせること、それだけなんだ。
悔いが残るな。
今までに、オーダーに対して自分の力量やセンスなどが足りなくて微妙な映像を納品したことは2回記憶がある。
この頃は経験値がなさすぎて(制作経験も浅い上、プロフィール映像初制作だった)
微妙かどうかもわかっていなかったが、今振り返ると相当ひどいものを納めた。
オーダーの意図を全く汲めていなかった。
企画演出は自分の力量では手に余ると理解しつつ、必死に作ったがもうひどい仕上がり。
プロの仕事とは言えない、納品レベルに達していないと自覚して納めた。
この2回目の経験が胃に穴が空きそうに辛くて、でも色々学んだ。
自分に企画演出は向いていない。技術力がないと、自分が作っているものの低クオリティが辛くて手が進まない。
ただ、辛くてもOKをもらえれば納品はできる、無理だと思った仕事もいずれ終わる。
技術と経験を積んで、ノウハウも増えて表現の幅も広がって、苦手な企画演出もそれなりにできるようになってきた。
しかし今回、3回目の失敗をした。
人目に触れる映像で、微妙だと思いつつ納めたが観客の反応はやはり微妙だった。イマイチだねという声を聞いた。
プロデューサー・ディレクター・クライアントからはチェックを経てOKを貰っているので仕事として問題はない、お金はいただける訳だが…
結局それじゃ内輪受けだ、見てもらえる人に喜んでもらえないのはやはり、悔しい…というか駄目だ…
今回の反省点は何だ。
だから企画演出は完全にクライアントとプロデューサー・ディレクターに投げた。結果的にこれが原因の2つ目になった。
ディレクターも経験が浅く、こうして欲しいという要望が全くない。
微妙だ、正直修正やオーダーが欲しいと思って確認に上げたものがそのまま通った。
仕事の流れ的には問題ないんだよなぁ…内輪の人間には満足だと言ってもらっている。
映像が流れていた現場では、その微妙な仕上がりに目を覆いたくなった。
少しでもクオリティを上げようと色々試みたが、小手先でどうにかなる話じゃなかったな…
ただ今回、内容に口を出せるノウハウがなかった。
クライアントさんは素人なのでともかく、プロデューサー・ディレクターはこれで満足なのかな。
観客に喜んでもらえないものを納めてしまって、クライアントさんがかわいそうだ…というか申し訳ない。
こんなに経験値とセンスのないチームに当たってしまったのは不運としか言いようがない。
借金の貸し手と借り手が同一の集団であるということ、より単純化して言うならば、自分自身からお金を借りるということは、よく考えてみればすごく奇妙なことではないだろうか。
簡単な思考実験をしてみたい。
ある男が、無人島に流れ着いたとする。そこで彼は、政府も国民もたった一人だけの、独立国家の設立を宣言するのである。無人島に流れ着いた時、たまたまこの男は大量のメモ用紙を持っていたとしよう。そこで彼の政府は、メモ用紙を使って1万円ぶんの「国債」を発行し(もちろん、複利の利子付きで)、それを自分自身へ貸し付け、その国債を裏付けとする1万円ぶんの紙幣を(自分自身に対して)発行するのである。さて、これでこの無人島には、都合2万円ぶんの新たな「価値」が生じたことになる。この時、国債(=紙幣)の発行前後で、無人島における彼の生活に何か変化が生じるだろうか?
もちろん、何の変化も生じない。
もしこの男が無人島で豊かな生活を送りたいと考えるのであれば、島に存在する動植物や鉱物といった資源を、彼自身の労働力を用いて、有用な食料や住居、燃料に変換する以外に無い。いくら紙幣を発行したとしても、豊かさの源泉である自然資源は増加しないし、自然資源を有用な財に変換するための労働力が向上することもない。貿易やら分業などを考慮しなければ、この男が日本人全体の集合であり、無人島が日本列島であると言えるだろう。
さて、この思考実験から、一般的な常識とは異なる以下の2点が主張できるのではないだろうか。
メモ用紙の紙幣の発行可能量は、いかなる物理的な制限をも受けることはない (ただし、筆記用具と紙の量は除いて)。発行した国債の償還期日が迫った時には、彼は利子の額をプラスした新たな国債を発行すれば良い。そもそもこの国債は彼が自分自身に発行しているものであるため、未来の自分が償還してくれることも確実なのだから、原理的にはこの過程はいくらでも継続しうる。
2. 国債が破綻することが無いという事実は、我々が豊かになれるかどうかには、ほとんど関係がない
たとえ、彼がどれほど大きな数字をメモ用紙に記入したとしても、紙の上の数字は、島の物理的な現実世界に対していかなる影響を与えることもない。彼の生活の豊かさは、根本的には無人島に基から存在した資源に由来しており、直接的には資源を財に変換するプロセスである労働の効率に依存している。資源の量と労働の効率が向上しない限り、交換媒体である紙幣量を増加させたとしても、彼の生活には何の関係もない。ゆえに、紙幣の発行量を小手先で操作することで、経済が成長を続け、我々が豊かな生活水準を維持できるかのように考えることは、誤りである。
ちなみに、批判があるかもしれないので予め答えておくと、この例では紙幣と財や労働力の「交換」という要素を意図的に省略している。けれども、たとえ無人島に複数の人間が流れ付き、全員がメモ用紙の紙幣を交換の媒体として使用することに合意したとしても、メモ用紙の紙幣の発行前後で、利用可能な島内部の財の総量が変化しないという事実に変わりはないはずだ。そもそも紙幣と交換される財が存在しなければ、交換の手段である紙幣は全くの無用の長物なのである。