はてなキーワード: 地位とは
指摘の現象は、非常に興味深く、心理学や社会学の分野でも多く研究されているテーマです。
人間は社会的な動物であり、集団の中で生きています。その中で、自分が属する集団の地位を維持したり、向上させたりしようとするのは自然なことです。しかし、なぜ強者に直接対抗せず、弱い立場の人を攻撃するような行動をとってしまうのか、その背景には複雑な要因が絡み合っています。
チンパンジーは、社会的な階層構造を持つ動物であり、集団内で優位な個体が劣位の個体を攻撃する行動が見られます。また、連合を組んで共同で攻撃を行うこともあります。このようなチンパンジーの行動と、人間社会で見られる一部の行動パターンが似ていることから、「チンパンジー味がある」という比喩が使われることがあるのでしょう。
現代社会において、このような現象は、様々な問題を引き起こしています。例えば、ネット上での誹謗中傷や、特定のマイノリティに対する差別や暴力などが挙げられます。これらの問題に対処するためには、個人の意識改革はもちろんのこと、社会全体で多様性を尊重し、互いを尊重し合うような文化を築いていくことが重要です。
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もし、このテーマについて、何か具体的な質問があれば、お気軽にお尋ねください。
女性の化粧はしてるほうが魅了的、しないと目立つ、ニュアンスが違うじゃん?
違う文化圏から見たら圧倒的な力の差だけど中から見たらそうとも思えないのは差別あるあるなんだよね。
纒足とか女性割礼だって外から見たら明らかな「女性の地位の低さ」だけど、当人たちはオシャレとかモテるとか女から尊敬されるとかそんな感じなわけだし。
あと女性が発言権強い夫婦というのは、昭和や明治の時からいたよ。かかあ天下というやつかな?
アフガニスタンとかでもそういう家庭はあるんじゃないかな。単に個人の資質というか。
何かある時に裁判を起こすなり交渉するなり強気の「出るとこ出る」力が半減させられた人間の存在というか
ジャッジする側じゃなくてされる側として社会規範を受け止める側というかな
社会を作る側であり、社会に整備されてる側は、そんなことしてないよって感じなのよ。
まあ、聞くより体感するのが1番早いんだろうなとは思う。絶望的なまでの男尊女卑に見えるけど、一度そうじゃない社会に出るか、社会の成り立ちを学ぶか、しかないのかな。どうなんだろう。
なるほど
賃金格差や労働格差や意識調査などデータならいくらでもパソコンで検索すれば出てくるわけだし
そこで敢えて質問するからには、まあ要するにデータ以上の実感や納得がない、そこを持たせて欲しいと言うことですね。
基本的に男尊女卑の国に住む人は麻痺してるので自分の地位が低いことに気づかないと言うか、当たり前になっていて思い至らないものですよ。
過剰な美意識の強さから家事の内容から話し方から何から何まで、中にいたらノホホンとメイク可愛い〜話し方かわいい〜で終わりですからね
フリーランスでゲームエンジン担当したり調整したりの仕事を今でもやってます。
「ITがつまらなくなった」「ゲーム制作がつまらなくなった」のは違う角度の話も入りますが同意です。
おそらく現在40歳あたり以降の人たちは「めちゃくちゃコード書けた時代」の人たちだったと思います。
私もめちゃくちゃコード書いてましたし、他人のコードも修正してたし(それでキレられたり1日中討論したりも)、何より車輪の再発明がすごく楽しかった。
Game Programming Gemsが唯一の経験者のナレッジの詰め合わせで、貪るように読んでましたね。懐かしい。
というよりそうでないと生き残れなかった。
何よりもコードを書くのが楽しい、起きてる間は全てコーディング、アーキテクト、新技術の調査に時間を充てるような生き方しか出来ない人たち。
生産性?それよりもテンプレートプログラミング面白くね?意味あるか分からんけど。そういやこのコンパイラいいよね、メモリの使い方上手くてさあ。
プログラミング全般の技術力は、正しい知識を身に着けているかも重要なんですが、それよりも重要なのはライブラリの仕様を覚えるくらい何度も何度もアウトプットすることなんですよね。
DirectXやOpenGLの仕様を追えばだいたい効率的な計算方法や描画手法は身についちゃうので。
技術体系に紐づくものだったり、デザパタとかある程度知っておくものもあるにはありますが、何なら自分で見つけたくらいの方が遥かに理解度が高い。
頭で創るより、実際に書いてコンパイラ通して目で確認するほうが何倍も重要。
3Dゲームの知見がまだまだ日本に足りていない時代、ドラマチックな演出を行おうとしたら別の技術が必要になった。
今の時代では、ただFPS/TPSにすりゃええって回答になっていますが、模範解答として映画しかモデルが無かったんですよね。
しかも日本の画作りは時間を使った画作りより、止め画、見栄を軸とした画が多くて、海外のセンスとはジャンルが違う。
最先端の技術を生業にしていた大手ゲームパブリッシャー、デベロッパーは頭を抱えていました。
なにせ、個人の技術で戦ってきてしまっていた日本では太刀打ちできないことがわかったからです。
すでに海外では映画や映像の最先端の技術者やクリエイターをかき集め、サイエンスとしてナレッジ化を進めていました。
物理学者を集めまくってたのもそのときだったのを覚えています。
結果的に、大手は各社最高のグラフィックエンジンやクロスコンパイルエンジンを自社開発しようとして、(ほぼ)全て断念していますね。
……ただフォローのつもりで言いたいのですが、失敗ではあったと思いますが、そこで得た技術は非常に重要なものでして
日本は失敗を許容しない組織が多く、初めるのが遅く、辞めるのも遅い、それでいて二度と挑戦させない文化なので育つ土壌が無いんだと思います。
だいたい誰かが俺仕様で作ったクソみたいなコードを修正して、高速化したりメモリリーク改善したりがメインです。
「またコレか…」のパターン多すぎる。これがつまらなくなった所以です。
GCの仕様くらい考えたらなんでスパイクが起こるかわかるやろ……なんで調べんのなんて思うこともあります。
ただ出来ない人が多い、才能の無い人がビジネスだけでゲーム作ってる時代でもあるので、そのおかげでおまんま食べられてるんだよなって考えてます。
プロジェクトが破綻してることも多くて、その大部分はエンジニアがクソすぎるってのが多いですね。
体制の問題もあるにはあるんですが、ゲームにこだわることもなく、ただ稼げるで来ちゃった人たち。
だからそんな人達に何か伝えても響くことも無いし、生き方も違うので何も言わない。
ゲーム自体もどこかで見た何か。なので正解が存在するのでアーキテクトや制作に頭をひねる必要も無い。
感謝されるのでやりがいはあるんですが、当時激論を交わしていたような人たちはゲーム業界から離れ超ホワイトな外資系や大手でぬくぬくやってます。
幸いなことにソーシャルゲームバブルが起こり、その波に乗れた人たちです。
たまたま私の周りはコミュニケーション能力や問題解決能力、分解能力が高かったのでちゃんと地位を築き、ちゃんと生活しています。
共産主義政党においては最高幹部がこの名で呼ばれることが多い。その筆頭である党の書記長(かつて存在したソ連や東ドイツ)や総書記(中国)は最高権力者にあたる役職の名称となっている[4]。
会議の議事をまとめる書記がなぜ役職名になったのかいくつか説があるが、ヨシフ・スターリンの地位に由来するというのが有力な説となっている[4]。ソビエト連邦共産党ではスターリン以外の党幹部は民衆への演説を重視してデスクワークを雑用とみなして嫌っており、スターリンが党の「雑務」を引き受けることになった[4]。しかし、この「雑務」の中身は地方幹部の人事や資金の調達などであり、これらの決定権を掌握したことで最終的に書記が党の最高権力者の地位になったとされている[4]。
かつて、秋葉原は電気街として独自の文化を誇り、オタクたちの聖地として広く知られていた。しかし、時代の流れとともにその姿は大きく変わり果ててしまった。インターネットの普及により、欲しいものや情報が手軽に手に入るようになり、秋葉原で買い物をする理由も薄れてしまった。今では、狭苦しい雑居ビルに漂う酸っぱい臭いが、かつての活気ではなく、どこか閉塞感を感じさせる。
その狭い店内に並ぶのは、ティーンエイジャー向けの安っぽい食玩やトレーディングカード、価値の見出せないアクリルキーホルダー、そして精度の低いプライズフィギュアばかりだ。かつて個性を持っていた店舗は、今や凡庸なチェーン店に取って代わられ、街全体が均一化されてしまった。
メイド喫茶も、かつては独自の文化を象徴する存在だったが、今では弱者男性から金を搾り取るだけの、名ばかりのガールズバーへと変貌してしまった。観光客たちはガイドブックを手に期待を抱いて秋葉原にやって来るが、現実とのギャップに失望し、無気力な表情で街を歩いている。
かつての秋葉原は、ただの商業街ではなく、情熱と創造力が溢れる特別な場所だった。通りを歩けば、電気パーツを扱う小さな店が軒を連ね、手作りの電子工作やパソコンのカスタマイズに熱中する人々で賑わっていた。彼らは、秋葉原という街そのものを生きた実験室とし、自らの手で新しいものを生み出す場だと信じていた。
一方で、アニメやゲーム文化も花開き、秋葉原はオタクたちの聖地としての地位を確立していった。ここには、他では手に入らない希少なグッズや、熱意を持ったクリエイターが作り上げた同人誌が溢れていた。地下のショップや裏通りでは、宝探しのような感覚で新たな発見を求める人々が集い、確かに「何かを見つける」喜びが存在していた。
メイド喫茶もまた、単なる飲食店ではなく、訪れる客とメイドの間に築かれる特別な体験の場だった。メイドたちはただの接客スタッフではなく、その世界観を共有する仲間として迎え入れられていた。そこには、日常の疲れを癒し、非日常の空間で自分を解放する、独特の温かさと安心感があった。
秋葉原は、熱心なオタクや技術者が自らの趣味を追求し、仲間と交流し、未来を夢見る場所だった。それは、単なる物を売買する場を超えた、コミュニティであり、文化そのものだった。そうした情熱こそが秋葉原を特別な場所にしていた。しかし、時代の変化とともに、その魂は次第に失われ、今では過去の面影を探すことも難しくなってしまった。
もしかすると、秋葉原は初めから虚飾に満ちた偽りの場所だったのかもしれない。それでも、かつての秋葉原には、人々の情熱と夢が詰まっていた。しかし、今の秋葉原はその魂を失い、ただの観光地と化してしまったように感じる。
そんなもん現代のガキの身長が高いってところでわかるやろ、コレは進化やで
あと生物学的にはどうかは知らんが、整形とか身体拡張も医学を利用した進化や
羽生やさな社会的な地位が上げられへんとか首長くないと人権得られへんとかが起きん限りワシらの肉体に変化は起きへんし、それが道具と知恵で代替出来てるんならワシらはその飛ばなあかん社会を壊すし、首短くても人権得られるようにする。
ワシらはそうやって生きてきとるんやね。
価値観が違いすぎる。
ただ単に彼らのモノやサービスが現時点で優れてて便利だから警戒しつつも利用してるだけ、よい選択肢が育ち次第切り替える、という姿勢を貫くべき。
向こうの人間はやたらとこちらの人間にとっては不可解なポリコレでうるさいが、裏を返せばそうやってポリコレ棒で叩きまくらないといけないほど邪悪で支配的で空気を読めない「強者男性」が幅を利かせてる地域だということ。
特にアメリカは、事実として世界中に争いの火種を振りまいている。
大企業はそういうマッチョで残虐な「合理主義」的本性を美辞麗句で包み隠すのに長けているというだけで、優越的な地位を作り上げて合法的に搾取することに躊躇いがない。
そういう土壌を持つ国や組織のプロダクトをもてはやすくらいなら、同じ東アジアや東南アジアの国々をもっと贔屓してやるべきなのだ。
政治思想や体制に違いがあるとはいえ、それはアジアに共通する、カオスと共存できる国民性のおおらかさという美徳の前では些細な違いだと俺は思う。
増田さんは、頑張りすぎなんですよ。
前に進むための一歩が全部打ち砕かれたと感じるのは本当に辛いことだと思います。無理をしすぎて、自分を追い詰める必要はありません。どんなに頑張っても、思うように結果が出ないことってありますよね。でも、その頑張り自体が無駄だとは限らない。たとえその結果がすぐには見えなくても、それが増田さんの成長や経験の一部になっているんですよ。
それに、少し立ち止まることも大事です。諦めたり、休んだりすることは決して悪いことではありません。人生って、時にはちょっと休憩が必要なんです。無理をせずに自分のペースで進んでいいんですよ。
人生の価値は、自分自身がどう感じるかに依存しています。お金も、地位も、何かの成功も、結局は一時的なものでしかありません。結局のところ、何が本当に価値あるものかは自分で決めるしかないんです。それが大したことじゃなくても、自分が納得できるものであれば、それで十分です。
最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
権力を自分のモノにしたい税金を盗みたい悪者はどの時代でもいくらでも沸いてくる
だから王が選別する
何故…。ストーリー的には比較的目立った位置にいたはず…。以下Aとする。
原因はわかっている。キャラデザが人を選ぶし、所謂「万人刺さる」キャラデザではない。少数寄りのフェチなのはわかっている。にしても露出なさすぎなのは多人数作品の悪いところ…。
ちょっと前に、超人気キャラの新規絵の片隅にいて「やったー!」と喜んで、「Aのファンの人たちも喜んでいるだろう!」とサーチすると『なんでこいついんの?』『(Aへの容姿罵倒)』『Aより○○入れた方がよくね?』とあってインターネットを閉じた。
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その昔、タイトルに反するが、グッズがでた!!!!公式も『Aのグッズが出ました!』と言っている!涙を流し、予約までして発売当日に買いに行った。会社の机に置く用と、家用、予備!
ホクホクとして数日後、他のことで情報収集のためにTwitterを開いた。
Aのキャラと同じ日に発売された超爆公式お気に入り激熱人気キャラの比較としてAの売れ残り写真や『Aしか手に入らないクソ』みたいな投稿で馬鹿にされていた。
リプにも「Aとか好きな奴いる?」「Aのグッズなんて売れ残るでしょwお店可哀そうw」がずらっとトップに並ぶ。
あ~もうダメだった。売上からしてこれで公式はAが売れないことを確実に実感する。そしてグッズや新規絵の可能性は地へ落ちる。イベストにでることもなくなるだろう。
Aはソシャゲのキャラで、そのソシャゲはそん時くらいに引退した。だが今でもAは好きだ。グッズが出るんだったら買う。
昨日、ふと思い出して「さすがに新規絵くらいは…」と思って調べたら当然ない。マジで空気になってた。いや空気どころかAが2番手くらいのストーリーのイラストにいない。なんで?(当然新規グッズはない)
ちょびっとしか出ていなかったが、キャラ的にウケまくっていたキャラがセンターすぐ横にいる。そのキャラを調べたら今はとんでもない人気で、グッズは出るわ出るわ、イベストには大体いるわいるわ。メインストーリーにも出ていて、いろんな衣装を着ている。人気を博していた。当初はそのキャラよりAの方がストーリーにめちゃくちゃ関わっていたのだが…。
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また別の作品でBというキャラが好きなのだが、それはネットのおもちゃになっていて、公式が乗っかるというクソムーブで身を引いた。Bは好きだったキャラではなくなっていた。ネットのおもちゃになり、その性格が公式になった。自分の好きなBは公式からいなくなっていた。Bに似た何かがいる。ついでに何故かポンコツ化した。真面目で知的だけどちょっと抜けているところがカワイイのに、真面目でもなんでもないポンコツ化を容易にするな。真面目知的成分はどこ行ったんだよ。空の彼方に消すな。『ちょっと抜けている』と『ポンコツ』はキャビアと砂利くらいちげーんだよ。
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またまた別で、Cというキャラが好きなのだが、進むにつれ公式が直々に容姿いじりをしていて、それがストーリーにも反映されてしまい公式になり、それ関連のネタ要因になってしまい終わった。ファンアートにも容姿いじりで描かれるばっかりで悲しかった。初出のストーリーではそんなこと一切なかったのに。Cをちゃんとキャラとして見ているやつなんてほぼいない。容姿いじりの代表としてネタの導線でしかなくなっていた。Cが現実でこんな容姿いじりをされていたら恐らく泣いてしまうだろう。でもCは二次元。受け入れるように性格が変わっていく。クラスメイトでいじりがいじめになる様子を傍観するしかないあの感情になる。声を上げても何あいつと大して世界は変わらない感情。
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またまたまた別で、グッズが何故かでないDというキャラがイベストに出るというからウキウキして読んだら温厚でクールで家族思いなキャラだったはずなのに、子への愛がロリショタコン扱いされてギャグじみた吹っ切れ方をしていた。家族愛にあふれるキャラがなんでロリショタコンになるんだ。50000000歩譲って親バカじゃだめなのか?なんで家族のために世界に挑むキャラが実の子に対してグヘヘな感情を持ってるんだ。子が幸せになる世界を望んでいただろ。そんな変態な感情持ってなかっただろ。案の定こういうキャラ変にはDが大して好きじゃない人はウケる。そしてそういう印象を持たれたDはことあるごとにロリショタコンキャラとしてファンアートは描かれ、公式はウケたとなり何度も擦るスパイラル。レベル1くらいのキャラ変が積み重なり、もうレベル300くらいのキャラ変になっている。誰だ。Dは何処へ。
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こうなると完結済みで、もう公式がグッズや新規絵を出していなくて、ファンも落ち着いている、ちょっと古めの作品しか興味が無くなってしまった。人気な作品を人気の空気で味わいたいけど、これらのことがあってからできない。ソシャゲならサービス終了している奴でストーリーが公開されているくらいだ。それか公式が人気とか気にせず平等にグッズやイラスト公開しているやつくらいだ。ファンメイドのノリに乗っからない公式であり、キャラを大事にする公式であれ。
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本当に運命を感じるほど大好きなA。Aの初出ストーリーを読んだ時、こんなにも素晴らしいキャラがいるのかと思った。Aを得るために初めて課金した。ゲームの課金はこれが最初で最後だ。もし何かしらの最強の地位を手に入れ、『好きなキャラを答えてくれれば、めちゃくちゃ力を入れたキャラ変しない最強のストーリーを1つ作りますよ』と公式が問いかけてきたら食い気味にAって答える。そして恐らくその作品のファンは『はぁ?!A?!馬鹿じゃねーの?!誰が見んだ!』と激怒し、殺害予告や脅迫DMでも送ってくることだろう。
でもそんなストーリー作ってくれることは万が一もない。だって絶対に受けないのがわかってる。売れない。金が全ての世の中なので仕方がない事なんだ。
Aの容姿は人を選ぶ。わかってる。男女ファンともに『Aは良い奴だけど』程度な認識だ。Aの容姿も性格も信念もキャラデザも声も過去も全部大好きなのに…己にもっと、もっと力があれば……一度同人誌を出したことはある。だが数人の同士だけで完結した。そんなもんだ。二次創作なんて公式に金は入らん。グレーどころか違法と言われれば違法行為だ。Aの露出に繋がらない。公式が出したあの素晴らしいAが見たい。でもB~Dの様にはなってほしくない。Aの露出が増えたとして、Aがもしネタ要因のキャラ変マシマシになったらヘイトスピーチをしてしまいそうだ。面倒な客だ。やかましい客だ。もうこのままが一番いいのかもしれない。でも新しい表情のAが見たい…違う笑顔が見たい…
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というだろうが、フィクションであれ、いやフィクションであるからこそ、人の欲望が映し出されているはずである
弱者男性でモテるおぢというロールモデルを探すなら、例えばフーテンの寅さんである
寅さんは毎回失恋して終わるが、視聴者の女性からはモテてい「た」のではないだろうか
「た」と過去形なのは、現在にあのロールモデルはちょっと…、と思ってしまうからである
現代社会における弱者男性がフーテンの寅さんのような地位を築き上げればいいのではないか
ちなみにリアルのフーテンはシンナー中毒でメチルアルコールで失明したヤンキーDQN崩れのクズであるので、
フーテンがいいわけではないのである、あくまで寅さんというキャラクターが好まれているのである
映像作品とか小説とかフィクションとかから、イケおぢのロールモデルを探すべきなのだ
襲い掛かるならそのあとなのだ
もちろん、襲い掛かるときはまず同意書を手渡すのが現代社会のマナーだ
ぬいぐるみからペニスが問題になっているが、まず、ぬいぐるみを克服しなければ話にならない
でも同時に、ペニスもあるよ、とにおわせてはおくのだ
一定の地位にある人間も、脳をハックされると自分が何を言っているか、どう思われるかが分からなくなり、社会的な罰則をくらうまで暴走してしまう。
一度ハックされた脳は、手痛いデメリットを負うまで元に戻ることがない。
できることは、脳をハックされないように、自分が異様に怒りを感じたり、逆に気持ちよくなってしまう話題からは距離を取り、誰かの意見に左右されないようにすることだけだ。
恐ろしい、恐ろしい。
政治家のパワハラ問題を解決するには、どんな仕組みが必要か。政治家をもっとビビらせる仕組みを作ればいい。
まずは、彼らを本気で追い込む「罰則制度」が必要だ。今のところ、何をしてもほとんどお咎めなしで、せいぜいちょっと謝罪して終わり。その程度じゃ、彼らが変わるわけがない。だから、罰金じゃなくて、実際に職を失うリスクがあるようにするべきだろう。地位と権力が全てなんだから、それを奪うようにすればいい。
それじゃあ、政治家は萎縮して、何も言えなくなるって心配する人も出るだろうが、それこそ笑える話だ。まともに部下を扱えない無能な人間が、他人の人生を左右する立場にいること自体が問題。そんな奴が言葉を選んで発言することが、どうして悪いことになる?もしパワハラを恐れて発言が減るなら、それは発言の質が低かった証拠に過ぎない。
さらに、外部の独立した監視機関も必要だろう。議会内でお互いに監視するなんて、今の仕組みがそもそも無理。なあなあで済ませるのがオチ。だから、政治家たちが嫌がるような、本当に独立した第三者が必要なんだろう。こうした監視と罰則のダブルパンチで、ようやく政治家たちのパワハラ問題にメスが入るかもしれない。
まあ、そんな簡単には変わらないだろうけど。
ネットで声のでかい男性、身だしなみなど女の為に労力を払うのは拒絶しつつ、自分の属性(低身長、高齢未婚)が女から超絶不人気だと指摘されると、
ジャニーズ他芸能人やセレブなど女の目に止まるために必死に容姿磨き続けたり地位知名度を手に入れた人物の名前を羅列するのはどういう心理なんすか
プログラマは上司や客先に意見するときに、上下関係をきちんとわきまえて発言していますか?
技術的な意見でも、上司の手柄になるようにアイディアを献上しましょう
プログラマは下僕で、上司や客先が主人であることを認識するのです
たとえ技術的に正しい意見でも、上下関係をわきまえていないと感じられる発言ならば、組織の秩序を守るために却下されるのです
役所と民間、元受けと下請け、上司と部下、妻と夫(ここ数十年で下剋上が起こってしまいましたね)・・・東アジアは儒教文化の構造でできています
なんだろうな・・・世界観の作り込みやゲームとしての面白さという部分において、本当に可愛そうになるぐらいレベルが違うんですよねこの両者。
素人が作ったフリーゲームをわざわざ下げるのもどうかとは思うんですけど、それに影響されてか「「Papers, Please」を褒めたら「奇天烈相談ダイヤル」を褒めなきゃいけないみたいな圧が薄っすら世界に蔓延してるじゃないですか。
それに負けないで、「Papers, Please」だけを褒める人のことが私凄い好きなんですよ。
「奇天烈相談ダイヤル」が独自の世界観を作り出すために工夫したのは分かるんですけど、やっぱり元のゲームと比べると明らかに作りが悪いんですよね。
「Papers, Please」の良さって理不尽なミスの理不尽さそのものが世界観に組み込まれている所にあると思っていまして、あのゲームはアレやコレやとルールを押し付けてくる上に、それが意味不明に変化するし全然納得できないしでイライラする所に、官僚主義・共産主義・独裁政権といったものへの批判が込められていてイライラそのものがある種の快感になるように作られている。
一方で「奇天烈相談ダイヤル」のイライラって完全一致検索しか出来ない所だったり、形式的なコミュニケーションを必須とする所だったり、早解きすることを批判するような作りだったりの、ただただ事務的で鬱陶しくてそれでいてそこに何かの皮肉や世界観が込めらているでもない「面倒くさいだけの作業を強制される不快さ」だけしか残らなくなってる所が本当にアカンなと。
元となったゲームをただの間違い探しぐらいにしか見えてなくて、その奥にある「一挙手一投足から滲み出る世界観」を感じ取れない人が上辺だけを面白がって真似たんだろうなという失望や絶望があるじゃないですか。
そういったことをいちいち批判しろとは言わないんですけど、そういった難点を抱えてるゲームを同調圧力に負けて褒めてしまうことが、結果として「Papers, Please」の地位をそれと同じレベルにまで貶めてしまうのは回避して欲しいんですよね。
知ってか知らずかそれが出来ている人を見ると、すごく好印象なんですよ。
これの何がキモいって、主人公の寅子は当初散々結婚に批判的で見合いを断って逃げ続けてきたんだよね。それは結婚することで女性の地位が危ぶまれるからなんだよね。
家の中で男と息子ちゃまのために家事だけしてる飯炊き婆にさせられかねない時代。そんなのはおかしいと声をあげて戦っていたはずが結婚してない人間は信用がないとされて責任ある仕事を任せてもらえないしこれは今後のキャリアのための賢い戦略wとか御託を並べて手近にいた男と結婚。
まずこの時点で思想も行動もクソ。これまで家父長制に反対してきた前フリなんやったんや。
ここまでこれば分かるだろうがこの女、たまに良いことを言うだけで、家父長制を利用しときながら自分のことは棚上げで気に入らないときだけ社会を批判する二枚舌。
ひっでえのがもう法曹界には戻らねえみたいな態度で出ていったくせにちゃっかり初の女性判事になり、戻らねえ宣言した相手に「いま裁判所で働いてて(笑)」宣言。相手は貧しい家から必死に勉強して頑張って来たものの(おそらく)試験に不当におとされ弁護士資格も持てずになんとか食いつないでる身。
なんかもう見てられねえよ