はてなキーワード: 1980年とは
60期 石川理紗 1982年3月22日 35歳 2016年4月1日 神戸家地裁伊丹支部判事補 ( 岡山家地裁判事補 ) 名前は理沙 現在、41歳
60期 新宅孝昭 1980年11月30日 36歳 2015年8月16日 岡山地家裁判事補 ( 在ストラスブール日本国総領事館領事 ) 新宅 42歳
60期 仲井葉月 1982年8月6日 35歳 2017年4月1日 大阪地家裁判事補 ( 名古屋地家裁岡崎支部判事補 ) 葉月(はづき) 41歳 デリヘル
60期 中野彩子 1983年7月19日 34歳 2015年4月1日 大阪家地裁岸和田支部判事補 ( 横浜家地裁判事補 ) 彩子 40歳 デリヘル
60期 長峰志織 1980年4月19日 37歳 2016年4月1日 広島地家裁判事補 ( 宮崎家地裁延岡支部判事補 ) 昔延岡にいた 43歳
60期 浜口紗織 1983年6月9日 34歳 2015年7月16日 静岡家地裁浜松支部判事補 ( 在ジュネーブ国際機関日本政府代表部二等書記官 )
60期 深見翼 1981年10月10日 35歳 2016年4月1日 大阪家地裁判事補 ( 千葉地家裁判事補 ) 翼 41歳 BLショタ
60期 三貫納有子 1981年10月19日 35歳 2015年4月1日 宇都宮地家裁栃木支部判事補 ( 名古屋家裁判事補 ) 42歳
60期 三貫納隼 1981年8月21日 35歳 2015年4月1日 宇都宮地家裁判事補 ( 名古屋家地裁半田支部判事補 ) 隼 41歳 BLショタ
60期 横井靖世 1981年1月10日 36歳 2015年4月1日 横浜地裁判事補 ( 札幌家地裁判事補 )
61期 織川逸平 1979年12月18日 37歳 2016年4月1日 宮崎地家裁判事補 ( 桃尾・松尾・難波法律事務所(一弁) ) 43歳 おばさん
61期 長妻彩子 1984年9月27日 32歳 2016年4月1日 長野地家裁佐久支部判事補 ( 水戸家地裁判事補 ) 彩子 デリヘル
61期 中出暁子 1981年5月11日 36歳 2016年4月1日 大阪地家裁判事補 ( 金沢家地裁判事補 ) 42歳 クンニ
61期 西脇真由子 1982年5月10日 35歳 2016年4月1日 和歌山地家裁判事補 ( 名古屋地裁判事補 ) 41歳 整形軍団
61期 日向輝彦 1981年8月22日 35歳 2016年4月1日 鹿児島家地裁名瀬支部判事補 ( 東京地裁判事補 ) 41歳 GLAY
62期 加藤弾 1984年3月27日 33歳 2017年4月1日 大阪地家裁判事補 ( 広島地家裁判事補 ) 39歳 出来ない奴
62期 甚田理恵 1983年1月7日 34歳 2016年4月1日 秋田家地裁大館支部判事補 ( 東京地家裁判事補 ) 40歳 甚大な奴
62期 行川雄一郎 1983年3月24日 34歳 2017年4月1日 司研第一部所付 ( 新潟地家裁新発田支部判事補 ) 40歳 統合失調症
「ちはやふる」を載せてた雑誌は「BE・LOVE」だよ。少女漫画誌じゃなくて、レディースコミック誌。
BE・LOVE - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/BE%E3%83%BBLOVE
1979年9月に発行された『週刊ヤングレディ増刊 漫画特集BE・LOVE』が前身。1980年10月、月刊漫画雑誌として創刊。1982年5月、月2回刊となるが、2019年現在は月刊に戻っている。一時、誌名も『BE in LOVE』(ビー・ラブ)だったが、後に現在の『BE・LOVE』へ。大人の女性を対象とする作品を掲載しており、講談社は2006年時点で30代・40代女性の読者が多いと謳っており、2020年現在の読者は40代・50代女性が中心となっている。
あとは、よくある間違いで「のだめカンタービレ」を載せてたのは「Kiss」。これもレディースコミック誌。
Kiss (雑誌) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/Kiss_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
本誌は「読むと恋をする」をキャッチフレーズとしており、恋愛漫画を中心に大人女性の王道を目指すという編集方針が掲げられている。掲載作品には、仕事や恋愛について、働く女性の「リアル」と「本音」を描いた作品が多く、20代から30代の女性をメインターゲットとしつつ、それ以上の年代の女性にも親しまれている。
「ちはやふるっていう少女漫画」っていうのは「攻殻機動隊(ヤングマガジン別冊掲載)って少年漫画」っていうのと同じぐらいヘンだよ。
なんで男性は女性向けまんがっていうと少女漫画に括りたがるの? 元増田だけじゃなく、トラバもブコメもだよ多すぎね? 女性=少女なの? それ(以下略)。
対象の読者層もジャンルの傾向もわからずにお気持ちを開陳するのは、エロいまんがはけしからんっていうのと同レベルだと思うわ。
日本がラストチャンスとばかりに開始した「日の丸半導体」ラピダスに多大な公費が追加されていることが話題を集めている今日この頃。
心無い専門家たちからは必ず失敗するだの金ドブだの批判殺到中だが、本当に日本(経済産業省)主導の国家プロジェクトは今まで成功しなかったのだろうか?
この記事では主に経済産業省、旧・通商産業省が中心となって始めた国家プロジェクトを振り返る。
大規模集積回路(LSI)の研究、特に基礎研究に力を入れた国家プロジェクト。
当時、半導体弱小国であった日本で700億円以上の金を基礎研究に投資するのは挑戦的であったが、電子ビーム露光技術などの研究レベルのアイディアを実用・量産レベルに持ってくることに成功。
よく「日本は半導体生産はダメだが、生産機械はまだシェアがある」というが、この40年前の国家プロジェクトの技術的成功がかなり大きく、現在でも半導体製造機械はこのプロジェクトに関わった企業が上位にいる。
この成功をバネにして1980年台の日本は半導体生産の8割を占めることとなった。しかし鮮やかすぎる成功体験と日本政府の政治的脆弱性により、90年台に入ると見る影もなく没落したのはあまりにも有名。
通産省は前述の大規模集積回路(LSI)の成功体験を強く意識し、コンピューター技術の「進歩段階」は大規模集積回路が「第4世代」、そしてAI技術が来たる「第5世代」であると想定した。
「仕様書を読んでプログラムを作ってくれるすごい機械」を目指し、500億円規模の国家プロジェクトに踏み切った。
しかし当時の通産省は何もかも見通しが甘かった。大規模集積回路の次がAIというのも謎の括りで、ハードウェアとソフトウェアを混同していた。そもそもなにを研究するのか?という具体的な内容すらあやふやで、やがてはスパコンをよせ集めてもそんなものは出来ないという技術的課題に直面。
現在でいう自然言語処理などのソフトウェア開発を散発的に行い、難航。
それぞれが独自のプログラム言語を作ったりOSを作ったりしたが、特に統合されることも活用されることもなく、「ソフトウェアはむずかしい」ということだけが判明し、放棄された。
なお、唯一の結論「ソフトウェアはむずかしい」ということですら後に生かされることはなかったが、通産省は成功したと主張している。
「10年後にはソフトウェア技術者が60万人不足して、日本は技術的に取り残される–––」
この現代でもよく聞くようなフレーズに慌てた日本産業界は、ソフトウェア技術者の育成に熱い視線を向け始めた。
そこに通産省が入り込むと、さまざまな思惑が一致し、ついには国家プロジェクトとして250億円を投入するΣ計画が発足。日本はソフトウェア技術者の天国となる予定であった。
ソフトウェアという実態の見えないものに予算をかけることへの抵抗感からか、対象は主にハードウェア系企業に集中。
ソフトウェア技術者を増やすという本来の目的は曲解され、最終的には「安価な計算機を普及させる」というハードウェア重視の目標にすり替わっていた。
その結果としてΣステーションと呼ばれる計算機が誕生したが、特に安いわけでもなく、規格が致命的にガラパゴスだったので、ほとんど普及せずに失敗した。
失敗した後も地方を名目としてダラダラと予算が積み重ねられたが、何の成果もなかった。
日本のソフトウェア技術の息の根を止めたとして有名なプロジェクトである。
日本がIT技術に致命的に遅れていることにようやく気づいた通産省は、起死回生の一手としてIT技術に約500億円をかけることを決定。これを「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」と名づけた。
しかしそもそもこのプロジェクトには、何の見通しも何の戦略もなかった。
約50個の研究が「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」の内容であったが、その実態は検索ソフトから光ファイバーまでバラバラであり、散発的かつ無計画に予算をばら撒くという意味不明な行為は、もはや単一の計画である必要性がなかった。
この計画は最終的に10年にもわたって継続されたが、特に何の成果もなかった。そして膨大な予算とともに記憶の彼方へと消えた。
2000年に入ると、経済産業省は「かつて世界一だった日本の半導体産業を復活させる」という妄想に取り憑かれるようになる。
その数はまさに膨大である。
「みらい」プロジェクト(2001年)に465億円を注ぎ込むも見事に失敗すると、「はるか」プロジェクト(2001年)、「あすか」プロジェクト(2002年)、「DIIN」プロジェクト(2002年)、「あすか2」プロジェクト(2006年)、「つくば半導体コンソーシアム」プロジェクト(2006年)などが代表で、そのほとんどが失敗はまだしも、なんの検証もなく消えさった。
「アスパラ」(2002年)はかなり象徴的で、日本の先端半導体企業が集合して日の丸半導体企業を作ろうと国費315億円を費やしたが、2006年には泡の如く消えた。
これらの膨大な失敗は特に顧みられることもなく、なぜ失敗したのかいう考察もなく、ただ予算ともに忘れ去られた。
いったい何故だろうか?
摩訶不思議なことに、ソフトウェア技術者が致命的に不足していた日本においては、国産の検索エンジンが誕生しなかった。
中国やロシアが自前の検索エンジンを開発し始めると、日本でも国産検索エンジンを作るべきという安全保障上の発想が経済産業省に芽生える。約300億円をかけて国産検索エンジンを開発することにしたが、当時普及し始めたネット界隈はこれを激しく批判。
失敗続きの国家プロジェクトと比較されるが、経済産業省は「かつての国家プロジェクトとは違う!」と強い自信を見せた。
しかしなにも成さず、なんの検証もなく、予算とともに忘れ去られた。
ラピダスにおいては、経済産業省主導の国家プロジェクトは失敗するという根拠のない批判が多い。
しかしこうしてまとめてみるとどうだろうか?
膨大な数の実績が経済産業省には積み重なっている。
少しは信じてあげよう(完)
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
ローグ……自動生成ダンジョン、ランダム、ターン制、マス目移動という(当時では)新しいゲームシステムを切り開いたゲーム。初版は1980年。
ローグライク……ローグのシステムをフォローしたゲーム。angbandとかtales of maj'eyalがこれ。シレンやトルネコの影響で、不思議のダンジョン系と呼ばれることもある。もっと厳密な定義は『ベルリン解釈』を検索。
ローグライク系……ランダムとリプレイ性を主軸に据えたゲーム。ローグの面影が残ってないだろ!いい加減にしろ!Slay the SpireやDownwell、Risk of Rainがここに入る。
かつてはローグライク系をライトなローグライク『ローグライト』と呼ぼうという向きもあったが、結果はお察しの通り。
「ローグライク」と「ローグライク系」をごっちゃにして「ローグライク」と銘打った宣伝が多く、初心者に混乱をもたらしている。
なんかさ、人口予想みると2050年に9000万人くらいみたいなのあるじゃん?
それって子供産めない爺婆を含めちゃってるんだよね
2050年なんて、1970年生まれですら生きてるから、ヤバさが伝わらないんだよね
1960年 8361万人
1970年 8141万人
1980年 7889万人
1990年 6993万人
2000年 6358万人
2010年 5755万人
2020年 4829万人
ーーここから推計ーー
2060年 2540万人 総人口7200万人
2070年 2190万人 総人口6200万人
2080年 1878万人 総人口5400万人
2090年 1550万人 総人口4500万人
2100年 1330万人 総人口3800万人
2020年時点で既にヤバいんだけど、こっから50年で更にヤバいのわかる?
フラッシュ・ゴードン観た?感想聞かせてくれよな。
これは2008年で1億2808万人なんだけど
じゃあ生産年齢(15〜65歳)のピークはいつかっていうと、1995年なんだよね、思ったより早いでしょ
それで思ったんだけど、そもそも「一人あたりのGDP」っておかしくない?
生産性どうこう言うのなら「生産年齢一人あたりのGDP」が正しいのでは?
と思って調べたら割と順調に増えていた
1995年 8716万人 598万円 6.36万ドル ←生産年齢人口ピーク
言うほど失われてるか?
そして「一人あたりのGDP」が停滞し続けることは確定している、なぜなら人口が減るから
730万円っての個人的にしっくり来る、社員1人あたりの中小企業の売上ってこのあたりだよね
(15歳〜21歳とか、60〜65歳が含まれているので、実際はもうちょい上がる)
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参考:一人あたりのGDP(円)
1980年 219万円
1985年 281万円
1990年 375万円
1995年 415万円
2000年 422万円
2005年 416万円
2010年 396万円
2015年 423万円
2020年 428万円
本当の国別の生産性を図るのであれば、各国の生産年齢人口を分母にしなきゃいけないんだけど
これ調べようとするとめっちゃ大変なんだよね
前やったけど心折れた
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https://honkawa2.sakura.ne.jp/1158.html
日本が失われた◯年をやってる間
海外はなぜ順調に伸びたのか疑問だったけど
指標として「一人あたりのGDP」を使ってるのがそもそもの間違いな気もする
なお欧州・中国も2020年代はマイナスに転じていくため、「日本病」になる可能性がある
2030年代の予想を見ると、日欧中はもうだめそう
※ただし独身に限る
この「ただし」を抜いて記事にしたらバズるっていうのが結構前から繰り返されてるんだけど
許して良いのかねこれ
っていうか、許す許さないの前に、ソース読んでる人がまじで1割以下なんだけど
俺はもうナニと話してるんだろう
【童貞大国ニッポン】20代男性の性交渉未経験率が4割超え「女性から見下されているようでとてもつらい…」現役童貞の悩みと独身研究家が指摘するこれからの不安
現在の20代男性の性交渉未経験率が4割を超えるというデータがあり
https://shueisha.online/love/192184
この記事のソースはこれなのかな?曖昧すぎてわからんが、ここが一番詳しいと思う
https://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou16/JNFS16_ReportALL.pdf
18〜19歳 25.5%/74.5%
25〜29歳 63.6%/36.4%
それで、既婚率はこう
25〜29歳 27.1%
あわせると
20〜24歳 4.8%が既婚/47.3%が未婚非童貞/47.8%が未婚童貞
25〜29歳 27.1%が既婚/46.3%が未婚非童貞/26.5%が未婚童貞
(47.8+26.5)/2 = 37.1%
だいたい3人に1人
25〜29歳 36.5%
これも雑に平均を取ると38.3%となり約4割だ
これに既婚者を混ぜると
20〜24歳 4.8%が既婚/56.9%が未婚交際経験あり/38.2%が交際経験なし
25〜29歳 27.1%が既婚/46.6%が未婚交際経験あり/26.6%が交際経験なし
つまり、がち非モテで童貞こじらせた魔法使いはだいたい4人に1人だ
記事では「1980年から変わってないんですよ」みたいなアホなこと書いてるが、既婚のこと無視してる
2010年 21%
たぶん、非モテ向けの「大丈夫だよ安心していいよ」系の記事なんだろうな
まあそれは百歩譲って良いんだけど
おまけ
なんかこういう記事って男のことばっか書いてるんだよね
18〜19歳処女率は1987年レベルまで増えている、だいたい80%
一番お盛んだったのが2002年ころ
リチャードストールマンのハッカーの哲学は以下のようにまとめられます。
1. Playfulness and Cleverness: ハッカーの哲学は遊び心と巧妙さに根ざしています。何か難しいことを遊び心をもって行うことがハッキングとされています。
2. Exploration and Limits: ハッカーは可能性の限界を探求することを重視しています。新しいアイディアや方法を見つけ出すこと、あるいは既存のものを別の視点から探求することが含まれます。
3. Diverse Activities: ハッキングは単一の活動に限定されず、ソフトウェアの開発から実用的な冗談まで幅広い活動を含みます。MITなどでの活動やコンピュータに限らず、音楽や芸術の分野でもハッカーのアイディアが適用されることが強調されています。
4. Resistance to Silly Rules: ハッカーはしばしば制約や不必要な規則に対して抵抗し、その規則を巧妙に回避する方法を見つけることがあります。これは、自由な発想と巧妙なアプローチを重視する姿勢の一部です。
5. Misunderstanding and Security Breaking: 1980年頃のメディアの報道により、ハッキングは主にセキュリティの破壊行為として捉えられるようになりました。しかし、これはハッカーの多様な活動を無視したものであり、実際のハッカーの本質を誤解させるものです。記者や一般の人々に対して、セキュリティの破壊行為とハッキングを区別するために、"cracking"という用語を使い、それを行う人々を"crackers"と呼ぶことが提案されています。
1948年 41人
1949年 76人
1951年 40人
1952年 34人
1953年 26人
1955年 19人
1956年 22人
1957年 25人
1958年 21人
1959年 14人
1960年 36人
1961年 18人
1962年 14人
1963年 16人
1965年 7人
1967年 13人
1969年 13人
1971年 7人
1972年 7人
1973年 5人
1974年 2人
1975年 2人
1976年 2人
1977年 2人
1978年 4人
1979年 4人
1980年 7人
1981年 3人
1982年 1人
1983年 1人
1984年 3人
1985年 2人
1986年 0人
1987年 7人
1989年 5人
1990年 7人
1991年 4人
1992年 5人
1993年 7人
1994年 3人
1995年 3人
1996年 3人
1997年 4人
1998年 7人
1999年 4人
2000年 6人
2001年 3人
2002年 3人
2003年 2人
2004年 14人
2006年 21人
2009年 15人
2013年 8人
2014年 7人
2015年 2人
2016年 7人
2017年 2人
2018年 2人
2019年 5人
2021年 4人
2022年 0人
2024年 1人
所感
変更履歴:皆が体感より遅いと言うので、一般化を普及率50%にしました。都会は-3年、田舎は+3年くらいでちょうどいいかも(2024/01/20 8:41)
1979年 29歳 スペースインベーダーブーム
1986年 36歳 写るんですが登場
2018年 68歳 TikTok(ショート動画)が流行り始める
2019年 69歳 60代のスマートフォン率がガラケーを超える
2010年代 60代 本、新聞、CD、DVDが凋落、電子化・スマホ化する
2024年 74歳 ?
変化が濃すぎる
年はザックリ、わかりやすさ重視
全部調べて書いてます
普及率の伸びというのは体感より遅いんですよ、先進的な人は5〜10年早めるくらいで丁度いいかも
→ 皆が体感より遅いと言うので、一般化を50%にしました(2024/01/20 8:41)
※隆盛:身近になってきた当たり
※最盛期:ピーク
※一般化:大体普及率50%(ピークがそこまで行かない場合はピークの5合目当たり)
※FAXは非常にゆっくり浸透した、時代遅れになってから一番売れているのが面白い
※固定電話の普及は1950年代なのでこ50年生まれが物心つく頃は既にあったと思われる。また電話普及率は良い統計が無い
※炊飯器についても良い普及率のデータはなく、推測する論文がある始末
※新幹線と飛行機を入れたかったが、時代差より個人差が大きそうなので割愛