はてなキーワード: 小島とは
この日が巡る度、毎年思い出す。
しんどかったな~って笑
ハッシュタグの飛び交う中、嬉しいのに純粋に120%この日を喜べない思いを消化し、きちんと喜べる日にしようとこの日記を書きました。
そもそも何故なにわ男子の結成日が『6日』なのかと言うと、Duet、POTATO、Wink UPの所謂『3誌』の発売日だからである。
なにわ男子の結成は上記3誌で発表された為、発売日の2018年10月6日と相成った。
どこのユニットもほぼそうだと思うが、結成日と言いつつ正確には結成『発表』日である。
早売りの情報が流れて来たり、見ない様に流れて来ない様にしたりの毎月であるが、この日この情報を見なかった関ジュオタクはいないと思う。
メンバーは西畑大吾、大西流星、道枝駿佑、高橋恭平、長尾謙杜、藤原丈一郎、大橋和也。
今と同じ7人である。
メンバーが発表されたことで、この短文の情報がありとあらゆる関ジュのオタクに混乱をもたらせてしまった。
·MAINで活動していたのは西畑大吾、向井康二、大西流星、室龍太の4人だったのに4人中2人の名前が無い。
年齢的にオタクも焦っていたと思うので、下から下克上を起こされ、省かれた様な空気が流れた。
·藤原丈一郎·大橋和也の公式ユニット加入も、Funky8と言う屋良朝幸くんの作ってくれたユニットの事実上自然解散を思い知らされない訳にはいかなかった。
『リューン』の時に丈ちゃんが言っていた『3列目の逆襲』が本格的に始まったのである。
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正門良規·小島健(もんビバ)
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※西村拓哉·大西風雅·嶋﨑斗亜·岡﨑彪太郎·當間琉巧(ちび5)
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※藤原丈一郎·大橋和也·林真鳥·古謝那伊留·朝田淳弥·今江大地·末澤誠也·草間リチャード敬太
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他
※は場合によって入れ替わっていた様に思う。
此処のもんビバを飛び越えてしまったことにより、もんビバ担にも衝撃が走った。
こじけんは兎も角、この年はれんれんのデビュー年でもあり、当時の関ジュからするとユニットもないのに『デビュー』なんて言葉が思いついている訳もなく、同期の正門くんも『早くデビューしてほしい』どころか『やめないで』と言った不安が気持ちが何処と無く漂っている時期であった。
そんなこんなで、なにわ男子と言うたった7人のユニットが結成されたことにより、ほぼ関ジュのオタク全員をゆるがす大事件となってしまった。
当時私は関ジュ担のTwitterに住んでいたが、あの日の凍った空気は忘れられない。
(今後の自担が何も見えていない中でとてもじゃないけど『おめでとう』等言える心境ではない)
(そんな空気の中でとてもじゃないけど喜べない)
私は当時からなにわ男子のメンバーの担当であったが、例に漏れず誰からも『おめでとう』とは言ってもらえなかったし、自分自身も何も発信出来る空気感ではなかった。
(兄組の担当さんはまた違ったのかもしれない)
色々書いたが空気的にはやはり『康二くんは?』と言うみんなの思いが1番強かった様に思う。
そんな一夜にして訪れた問題の数々をオタクが解決出来る訳も無く、私達にはその時『Fall in Love』と言う梅芸公演が迫っており、常に目の前に見えていながらその問題は一旦見ない、と言った本当に無理矢理な方法で終わった。
勿論なにわ男子に入る入らないで関ジュオタク同士がお互いを好きになる訳でも嫌いになる訳でもなく、複雑なその問題は受け止めつつ華麗にスルーする運びとなった。
関西Jr.のバリバリサウンド、略して関バリと言うラジオ番組は当時藤原丈一郎·大橋和也·正門良規·高橋恭平の4人がレギュラーメンバーとして放送されていた。
丈くんの面白さ、正門くんのフォロー、橋橋のおバカ加減が絶妙なバランスで、この中に担当がいない私も当時は毎週楽しみに聴いていた。
メンバーを見てお分かりのことと思うが、4人中3人がなにわ男子となった。
生放送だったので同じ時間軸で進んでおり、なにわ男子が結成されて初めての放送を固唾を飲んで聞いていた。
挨拶は変わらず、『関西ジャニーズJr.の藤原丈一郎』『大橋和也』『正門良規』『高橋恭平です!』で始まった。
ユニット名を名乗らないどころか、その日の放送ではなにわ男子が結成された話は1mmも出なかった。
こんな大きなニュース近年の彼等に無かった筈なのに。
彼等もまたオタクと同じ様に、『なにわ男子を一旦スルー』することを、なにわ男子も、なにわ男子以外も、選択していた。
彼等もきっと、苦しんでいた。
私は、『あの大らかそうな正門くんでもこんな空気になってしまうのか』とことの重大さを改めて思い知ることとなった。
一方で、その頃丈くんは『タイヨウのうた』と言うふぉ~ゆ~辰巳くん主演の舞台にも出演していた。
当時なにわ男子は勿論関ジュも今みたいな爆発的人気はなかった為、この舞台も当日券で、大阪の初日を観劇することが出来た。
そこには、最後のカーテンコールで『なにわ男子の藤原丈一郎です。』と挨拶をする丈くんがいた。
『僕、今初めてお客様の前で『なにわ男子』って言いました』と嬉しそうに言っていた。
関西ジャニーズJr.が他に誰もいないこの空間で、初めて丈くんは何にもとらわれず自由に『なにわ男子』を出すことが出来ていた。
話は戻るが、SNSでの反応が芸能人に届かない時代でもなく、恐らくなにわ男子自身が1番反対されている空気感を感じ取っていた(SNSでは応援より批判の声が常に大きいしね)。
それが梅芸初日に立ってみて『応援されていることが分かって安心した』と言う様な彼等の当時の発言に繋がっていたと思う。
梅芸が終わり、クリパが終わり、序列が変わったことをオタクは口に出さずに徐々に受け入れて行くしかなかった。
そんな時にまたしても大事件が勃発する。
私は入っていなかったが、同日に3公演もあり、それぞれを観ていたオタク達10人近くと夜に打ち上げと言う名の新年会をすることになっていた。
終演後、出て来たオタク達は精神状態がかなりボロボロであった。
ROTでも取り上げられているし、素顔4でも発売されたが、公演があんな状況であった。
マイドリでみんなが泣いている。
今迄ああ言う時の関ジュは誰かが辞める時であり、『この人が辞める訳では無いと思う』『こっちかなぁ?』『何だったんだろう?』と解散する迄ひたすら答えの出ない議論が繰り広げられた。
康二くんのSnowMan加入は彼に残された最後のチャンスであったことは誰の目にも明らかであり、喜ばない人はいなかった半面、あんなに関西を愛して来た彼が何故東ジュにならないといけないのか。
そんな中、希望が見え始めたのが『Lilかんさい』の結成である。
私はユニットが『なにわ男子』だけでなくなったことに心底安堵した。
元々『ちび5』として非公認ながら5人でいることが多かった為、こちらは誰も増えず欠けず、すんなり受け入れられた様に思う。
そして『Aぇ!group』の結成。
Funky6の行方が知れない中での末澤·草間、そして間にいたもんビバの活動が保証されたことで、なにわ男子担的にも自担の長年のツレが多いユニットであり、『良かったね』と言う雰囲気であった。
立て続けのユニット結成であり、非加入組担にも既に『関ジュは変わってしまった。仕方がない』と言う空気も流れていた。
こうして、『一方的に叩かれ続けたなにわ男子』はこの辺でふんわりと歴史を閉じることとなる。
その後、龍太くんも俳優専業となり、真鳥くんも振付師への転向、朝田くんは3月の春松竹で退所と、徐々にみんなの道が決まって行った。
夏の8·8で、康二くんは加入から7ヶ月でデビュー組への階段を昇ることが決まり、同じく夏にAぇ!groupはなにわ男子より先に単独関西ツアーを回ることになった。
叩かれたのは何だったのか。
Aぇが出来たことによりこれで叩かれなくて済む、と言う安堵感と、モヤッと感と。
そこから何年も経ち、なにわ男子が出来てからのファン、デビューしてからのファンがもりもり増え、何のしがらみもなく純粋に喜ぶ人が沢山増えた。
10月6日は、私にこの1年弱の色々な感情を思い出させる日にちなのであった。
日本共産党の帰国事業を支えたのは朝鮮の人たちだったじゃないですか。帰国事業を支え合った北朝鮮の人たちを侮蔑するって、、、、脳が混乱してるのかな?
「帰国事業では合計9万3000人もの朝鮮人が新潟港から船に乗って北朝鮮に渡りました。日本人妻も1800人ほどいます。私は帰国協力会に8年あまり在籍し、155回にわたって北朝鮮に渡る船を見送りました。」
「当時、〝帰国3団体〟として、朝鮮総連、帰国協力会、日朝協会があり、新潟県帰国協力会・日朝協会の事務局員は4人全員が共産党員でした。また朝鮮総連の人たちも、戦後すぐは日本共産党員として活動していた時期がありました。」
「帰国事業は自民党や社会党などの超党派で帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミも応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党の党員です。」
https://x.com/search?q=from%3Anaramanara3206%20%E9%B6%B4%E8%A6%8B&src=typed_query&f=live
現行の『クラッシュ・バンディクー』シリーズのファンで、かつてソニー・コンピュータエンタテインメントで『クラッシュ・バンディクー』シリーズのローカライズに携わっていた鶴見六百氏を始めとするPS1時代の『クラッシュ・バンディクー』シリーズ関係者への憎しみをぶつける。ノーティドッグも憎いらしい。
鶴見六百信者は苦手なんで、二度とクラッシュバンディクー作品に来るなよ。
ラチェクラの所にいけよな。
返信先: @naramanara3206さん
あのチー牛の言葉を使った名越と友達の鶴見六百は、本当に世間知らずですわな。🤣🤣🤣🤣
哀れな鶴見六百〜🤣🤭🤣🤭🤣
何が番組に偽りだ?
お前が恥を知れ!!😠😠😠💢💢💢
クラッシュバンディクーの原作(PS1版のクラッシュ1〜クラッシュカーニバルまでの作品)を壊されて、SIEと鶴見六百とノーティードッグの奴らが、泣いてトラウマになる姿が楽しみだな。
https://x.com/STeienshi/with_replies
コナミが展開する麻雀ゲームの運営への不満、企業への罵倒を公式アカウントへのリプライする。かなりの投稿頻度をキープしている。最近は自分はコナミから暴力を受けていると主張する。ゲームはずっと続けている。
返信先: @MAHJONG_MFC573さん
KONAMIって会社、早川社長になってから無責任で仕事のヤル気無い人材が増え違法な行動も正さず苦情を言えばイジメ
これが一流企業のする事でしょうか?
やる事ヤクザと同じやん
返信先: @KONAMI573chさん
勝負は出来ません
勝つ時も負ける時もバカ偏りしてるから、本格的なんてもはや『嘘』でしか無い!
ヤル気ある方なら、改善してるはず
6年以上同じ事を言い続けても無視
こんな企業あって良いの?
返信先: @konamistyleさん
現在、麻雀格闘倶楽部にてKONAMIのネット暴力を受け続け12試合連続して勝利無し
返信先: @mfcsp573さん
何も客にとって良い子どもは無いです
かつては熱心なソニックファンであったが、昨年11月ごろにファンを辞める。声優に殺されたらしい。
ずっと
金丸さんのTwitterの言動だけで正直もうソニックシリーズ人に勧めずらいなぁ
フロンティアでお客さんが増えても言動を変えないと思わなかった
正直
金丸さんはこの人よりも酷いことをずっとしててソニックが子ども向けに本格的に移行してても変わらなかった
本当に悲しいし辛い
お客さんにこういう妥協をさせ続けるのが声優の姿になっていくならAI声優に仕事をとられてもしょうがないよって思う気持ちはある
長くファンをやってればやってるほど損をするんだ
こんな思いをしたくなかった
妥協するけど
それでもう何年も傷ついた
これ以上は無理です
これからシャドウをヒーローとして好きになる人が傷つきませんように
#ソニック
#ソニかつ
#ShadowTheHedgehog
シャドウファンの私はセガとソニックチームと金丸さんと悠木碧に殺された
それだけだよ
金丸さんはソニックシリーズよりネットで政治的発言や陰謀論を言いたい人で
悲しい
ほんとうに
悲しい
「無洗米はまずい」は時代錯誤! いまの無洗米は美味いしエコだし栄養たっぷり
https://magazine.cainz.com/article/119100
──無洗米を炊いたときに「パサパサしている」という声も聞きます。その原因は?
小島:おそらく水の量が足りないのが主な原因だと思います。というのも、無洗米は肌ヌカを取っている分だけ、1カップ(計量カップ)に入る米の量が多くなります。全体の米の正味量が増えるので、通常の精米の時よりも1カップにつき小さじ1杯(5ml)程度多く水を入れてください。品種や硬さの好みにもよるので、微調整は必要です。炊飯器の無洗米モードを使うことで、さらにおいしく食べられますよ。
炊き方で変わるという話
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動、最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをアジア、アフリカ、中南米でしばしばみてきた。
かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
アウェイといえば、ドラマ「おしん」(1983年)。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じる女性のエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
一方で、男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。逆に成功を収めれば、故郷側が自分をほめてくれる。【故郷に錦を飾る】というのは男性的な価値観だ。
女性はというと、嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
山崎ハコの「望郷」で歌われる故郷は、帰る家もない、戻るに戻れない場所としてうたわれた。これは失敗すれば帰って慰めてくれ、成功すれば褒めてくれる男性の故郷観とは対照的だ。これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
”アンチンポです”との一致はありません。
”アンチンポデス”
検索条件と十分に一致する結果が見つかりません。
探しているページに表示されている可能性がある言葉で検索してみてください。たとえば、「ケーキの作り方」ではなく、「ケーキのレシピ」でお試しください。
お困りの場合は、Google での検索に関するその他のヒントをご覧ください。
またヒット件数が出なくなった(二件ヒットした)
クソ広告乱舞といい
アンティポディーズ諸島またはアンティポデス諸島(―しょとう、Antipodes Islands[2][notes 1])は、ニュージーランドに属する火山島群。全て無人島である。
スチュアート島の東南東約860km、バウンティ諸島の南約215kmにあり、水半球の中心付近に位置する。この諸島は最も面積の大きいアンティポデス島(20km2)、その次に北に位置するボロンズ島(2km2)、そして多数の小島や岩礁から成る。最高峰は標高366mのギャロウェイ山である[3]。
ボロンって
うぷぷ
デンマークといえば、みんな大好き「(植民地とかではない)メインの領土が大陸にあるのに首都が島にある」2か国のうちの1つだけど(もう1つは赤道ギニア)、確かに「現在の」地図を見れば、首都コペンハーゲンはずいぶんと端っこにあるように見える。だが、コペンハーゲンはもともと国土の中心にあった。現在のスウェーデン南部スコーネ地方はもともとデンマーク領だったが、17世紀に戦争でスウェーデンに奪われたのだ。つまりコペンハーゲンは、ユラン半島とスカンジナビア半島南端部というメインの2つの領土をつなぐ、ちょうど真ん中の位置にあったことになる。仮に東北地方がソ連に奪われていたら、東京はずいぶん国土の端っこにあるように見えるのではないだろうか。
言うまでもないだろう。仮に将来南北統一が実現したら、ソウルは統一コリアのど真ん中に位置することになる。
これも言うまでもない。独立当時のアメリカは東部の13州しかなかった。13州のうちの北部と南部のあいだの妥協案として南部に新しい首都が作られたが、地図を見ると、まあ、「真ん中よりちょっと南」の立地と評価できるのではなかろうか。
ソフィアはずいぶんと国土の西側に偏っているが、本来はそこが国土の中心になるはずだった。20世紀の初頭、オスマン帝国領バルカンに残されたマケドニア地方を周辺の3カ国が虎視眈々と狙っていた。セルビア語とブルガリア語の中間のような言葉を話すその地の住民を、セルビアはセルビア人と呼び、ブルガリアはブルガリア人と見做し、ギリシャはスラブ化したギリシャ人の裔であると主張した。二度のバルカン戦争を経て、その地方は主にセルビアとギリシャの間で分割される(このオスマン領マケドニアのうち、セルビア領になった部分が現在の北マケドニア共和国)。……そう、ブルガリアはマケドニアという果実を得られなかったのだ。仮に幻の「大ブルガリア」が実現していれば、ソフィアは「大ブルガリア」の中心部に位置することになっていただろう。
オーストラリアはもともと1つの国だったわけではなく、オーストラリア大陸に作られたいくつもの植民地が寄り集まって独立した国だ。独立するときに二大都市のシドニーとメルボルンのどっちを首都にするかでモメたので、その2都市の間に新しい首都を建設することにした。つまり、国土の中心ではないが、二大都市の中間に首都があるということだ。まあ、オーストラリアの文字通りの中心、人住めなさそうだもんね……
交通に便利なパナマ地峡に街(パナマシティ)が作られる→交通に便利すぎて街のそばに運河が作られる→アメ公が大西洋と太平洋をつなぐ運河の支配権を欲しがる→運河地帯の住民による独立運動を煽ってコロンビアから独立させる、という経緯で作られたのがパナマ共和国。つまり首都のまわりが国土になるように切り取られた国なので、国土の真ん中に首都があるのは当たり前なのだ。
ブラチスラバは国土の端っこにあり、立地的にはほぼウィーンである。スロバキアというのは、元々「ハンガリー王国北部でスラブ系言語を話す人たちが集住しているところ」に過ぎず、伝統的な行政区画を持っていなかった(これは「オーストリア側でスラブ語話者がいっぱい住んでるところ」に過ぎなかったスロベニアと同じ。この2つの国名が似ているのは偶然ではなく、両方とも「クロアチア」みたいに伝統的な地域名を持っていなかったので、それぞれが「スラブ人の土地」と名乗った結果なのだ)。それが第一次世界大戦のドサマギでハンガリーから分離したわけだが、当然「どっからどこまでがスロバキアか」という合意があるわけではなかったので、チェコスロバキアとハンガリーによる実力での分捕り合戦になった。その中で、「大都市(当社比)だし交通の要衝だから、スラブ人率は低いけど占領しとこうぜ!」となって占領されたのがポジョニ、のちのブラチスラバである。ブラチスラバはあまりに「国際色」が強すぎたので(20世紀初頭の時点で人口の4割がドイツ語話者、4割がハンガリー語話者)、国土の中心にあってスロバキア民族運動の拠点でもあったマルティンにスロバキアの首都を遷そうぜ! という議論が戦間期に行われたのだけれど、結局ブラチスラバが首都として維持された(ところで日本語版ウィキペディア、マルティンの記事名が「マルチン」になってるな。確かにスロバキア語ではtiと綴ると「チ」と読むけど、Martinみたいな外来語の場合は「ティ」の音が維持されるんだよ!)。
島国といっても、メインの島が1つなのか、複数なのかでだいぶ違ってくる。というのは、小さな島がたくさんある国だと、まずもって「国土の中心かどうか」というよりも「島のデカさ」で首都が決まることがありえるからだ。そりゃ、真ん中にある小島よりも、端っこにある大きな島に首都置きたいよね……典型的にはトンガとかがそうで、南端にあるトンガタプ島のヌクアロファに首都が置かれている。あるいは、「大きな島+小さな島」の組み合わせでできている国は、たいてい大きな島の方に首都がある。バレッタ(マルタ)とか、バセテール(セントクリストファー・ネイビス)とか、セントジョンズ(アンティグア・バーブーダ)とか、ポートオブスペイン(トリニダード・トバゴ)とか……(元増田が挙げてるニュージーランドは例外)
では、メインの島が1つしかない国はどうだろう? これなら「国土の中心」も定義しやすい……あれ、意外と首都の位置偏ってんな。元増田が挙げてるアンタナナリブ(マダガスカル。ちなみにマダガスカル語ではoと綴ってuと読むので「アンタナナリボ」は間違い)は確かに真ん中ら辺にあるし、ダブリン(アイルランド)やダグラス(マン島)やディリ(東ティモール)やアロフィ(ニウエ)やポートルイス(モーリシャス)やスリジャヤワルダナプラコッテ(スリランカ)もギリギリ真ん中辺りと言えるかもしれないけど、台北(台湾)もハバナ(キューバ)もキングストン(ジャマイカ)もレイキャビーク(アイスランド)もマナーマ(バーレーン)もヌーク(グリーンランド)もヤレン(ナウル)も島の端っこの方にあるな……首里、沖縄本島の中心都市として見ると南すぎるけど、奄美~先島までの琉球王国の首都として考えると割と中心に近くて草。
首都の立地はよくよく考えますよね。ここは盆地で長らく中央集権国家だったから真ん中に首都があるやろとか、端っこの部族が全土を統一したから首都は端っこにあるんだよとか、東部は原生林が多いから人口の多い都市は西部に偏ってるんだよとか、港町を中心に発展したんだよとか、そういうことを地図描きながら妄想するだけですごい楽しい……だから元の「首都が国土の中央部にないのはおかしい」っていうツッコミは全然理解できないっていうか、変な形の国作って変な場所に首都置くのが楽しいんやんけ、となってしまうよね……
立方体で構成されたレトロなグラフィックの、しかしどこまでも広がる広大なフィールド。ログインすると他のプレイヤーたちが作り上げた街があって、道は石で舗装され、各自の土地に自宅が、中心地にはでかい城が建っていた。
街から出ると広大な小麦畑。知識のなかった自分はダッシュジャンプで畑を荒らしながらひたすら走り、湧き潰し用の松明を勝手に拝借して人の手の入っていない土地を目指した。森を抜け、砂漠を抜け、誰かが乗り捨てたボートで海を渡った。
一際高い山があったので登ると、カルデラ湖のような地形が形成されていた。しかし雨が降り出して、もう真夜中で、空腹だしゾンビに追われてどうにもならない。地面に穴を掘ってシェルターにして夜を明かした。
暗い土の中から這い出すと、目の前にはカルデラ湖とその中心に浮かぶ小島。空がオレンジからスカイブルーにじんわりと変わっていく。やけに感傷的なBGMが鳴り出す。
心底、美しいと思った。
美麗グラフィックでもなんでもないカクカクの風景がなぜこんなにも心を打つのか不思議だった。俺はその場所に居を構えることにした。岩の壁を掘り、丸石で崖に埋まった豆腐ハウスを作った。
wikiを参考にしながらインフラを整え、ブランチマイニングを覚えてダイヤモンドを探し、他のプレイヤーが作ったゲートでネザーに迷い込んで全ロスした。
生きてるって感じがした。
俺にとっての「マイクラ」はこれなんだよな。
これをもう一回やりたい。
その後バージョンが上がるに従って馬が出てきたり木材の種類が増えたり、RS回路も複雑になっていろいろ自動化もできるようになって、モブも増えてマイクラの世界はどんどんにぎやかになっている。
最初は発表の度ワクワクしていたアップデートだったが、そのうちについていけなくなってマイクラ自体をあまり起動しなくなってしまった。加齢のせいか、飽きてしまったのか。
貧乏者の子沢山というが、五反百姓に十八人も子供がいるような日本。
天然資源的に見れば取り代えるオシメにも事欠く程度の素寒貧だし、
持てる五反の畑も人里はなれて山のテッペンに近いような、
もしくは湖水の中の小島のような不便なところに孤立して細々と貧乏ぐらしを立てている。
気のきいた泥棒も、気のきかない泥棒も、そんなところへ物を盗みに行くはずがないじゃないか。
しかるにそこの貧乏オヤジは泥棒きたるべしとダンビラを買いこみ朝な夕なネタバをあわせ、
そのために十八人の子供のオマンマは益々半減し、豊富なのは天井のクモの巣だけ、
そのクモの巣をすかして屋根の諸方の孔から東西南北の空が見えるという小屋の中でダンビラだけ光ってやがる。
ここのウチへ間抜け泥棒が忍びこむよりも、このオヤジが殺人強盗に転ずる率が多いのは分りきった話じゃないか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45748_24336.html
バルト海のとある湾に龍が住んでいた。湾口は2マイルあり、湾の入り口を守るように2つの小島が浮かんでいた。その間を怪力の龍なれば、羽ばたくこと僅か2回で飛び越えられたという。
しかしこの年、湾口の片側の島に灯台が建立され、夜にも煌々と灯油ランプが灯されるに及んだ。これは龍にとってはどうも具合が悪いものであったらしく、目が眩んだ龍は灯台にある島に墜落してしまったのだった。
それが何より証拠には、この灯台のすぐ下にある岩に、彼(乃至彼女)が最後に残した爪痕が今でもくっきりと残っている。行ってみてみるがいい、未だにくっきりとしたものだ。
なお、このドラゴン落とし灯台は1906年に高さ15メートルの塔に改築され、その時に新調されたフレネルレンズは未だに周辺を照らして止まない。