はてなキーワード: メンデルスゾーンとは
長いこと室内楽をだらだらやりつつも、あんまり俺も詳しいわけではないので語るのもなんだし、そのうちクラオタというオタク界で最も闇の深いところに住む怖い方々から御講釈頂けるだろうから控えようとは思ったが、ディヴェルティメントから伝って探しても見つからないだろうなぁと思ったので書いてみる。
モーツァルトのディヴェルティメントは間違いなく名曲だが、さすがに2千回も聴くほど好きってのは初めて聞いたのでいろんな人もいるんだなぁと思った。そこからプロファイルしてみよう。
作曲家にも努力型/天才型が居て(まぁ歴史に残る作曲家はみんな努力した天才なんだが)、ご存じの通りモーツァルトは天才型ですげえざっくり神童と呼ばれた幼少期(初期)、メキメキと才能を発揮して実験的なこともした青年期(中期)(ウ○コマン期)、色々と人生の哀歓を味わった壮年期(後期)で結構作風が変わる。このディベルティメントは中期の作品。ということで
ってことになる。
1から入るならメンデルスゾーンが同じ属性なので近い曲が見つかると思う、バイオリンソナタはディヴェルティメントに近いが、バイオリン協奏曲も有名なので聴いてほしい。
2は古典派の音楽全部じゃねーかって気はするが、ハイドンの皇帝、ヒバリ、グリーグのホルベルグあたりは特に近いと思う
3は無限にあるけど有名どころだとチャイコフスキーの弦楽セレナーデやシベリウスのカレリアとかだろうか、どれもド定番だから既に聴いてるかもしれないが。
もちろんモーツァルトをひたすら聞いても人生1回分には十分なので彼の伝記(漫画でよい、もちろん吉田秀和でも良いが)を読んでこのころに書いたんかなぁ〜とか妄想しながらディベルティメント、アイネク、ピアノソナタ28とかを聞き直してくれてもいいと思う。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 富山(県
・07 [すべて]田沢湖 支笏湖(しこつこ) 十和田湖 池田湖
・08 クロップド(丈
・09 メンデルスゾーン
・10 [近似値]2億3502万967円
・12 心
・13 ト(ー)マス・ジェファーソン
・14 [3択]血小板
・18 鳥取(県
・19 [3択]1(番
・21 W
・22 蘇我馬子 そがのうまこ
・25 和同
・26 クマ
・27 鼎談 ていだん
・28e あのねのね
↑の近況報告を書いてから相当に間が空いてしまったが、実はレッスンは続けていたという。
それでいま再び筆を執ったのは、レッスン再開からちょうど10年の節目ということだけではない。
来月のレッスンから、ようやくメンコン(メンデルスゾーンの協奏曲)に取り掛かれるようになったことが、一番の報告だ。
これについては前のエントリで
全てが順調に行けば、年内にも念願のメンコンに取り掛かれる
と書いたけど、その意味では全く順調ではなかったのだ。
そこら辺の話を、例によって長くなるけど書いていこうと思う。
ちなみにメンコンの前準備としてモーツァルトの協奏曲に取り掛かったのは本当。
全5曲ある協奏曲の中でもかなり難しい第5番を、結局全楽章さらう結果になった。
楽章の合間にいくつか他の曲を挟んだ(ベートーヴェンのロマンスとか、クライスラーのロスマリンとか)ものの、モーツァルトに取り掛かってから現在までの7年の多くの時間は、モーツァルトに費やしたと言っていい。
こう書くと、曲のボリュームから言えば「時間かかりすぎやろ」と思うのが普通だろう。
確かに今思えば自分が先を急ぐあまり、少なからず荷が勝ちすぎる曲だったのは否定できないが、それでもここまで時間がかかった理由としては十分な説明ではない。
荷が勝ちすぎた曲だったことは前提として
という2点が大きいので、それぞれ説明しようと思う。
幼少からヴァイオリンを習っていた、いわゆる「アーリー組」の読者諸兄ならほぼ全員通ってきた道だと思うが、ヴァイオリンのレッスンというのは基本的に
ことで、「曲を弾ける」ようにしていく。
でもこれ、言葉を選ばずに言えば「先生の劣化コピー」を作っているに過ぎないわけだ。
もちろんそうやって一曲仕上げる際に得たノウハウを、他の似たような楽曲に応用できればいいが、学習者にそこまで耳やセンスが育っている保証はどこにもない。
実際、「よくわからないけど先生の言う通りに弾けるようになったからいいや」で済まし、結果「お前先生がいないと何も出来ないのか」みたいに、解釈力が全く育たないまま放置されている人は非常に多い。
何よりこうしたお仕着せまがいの教え方は、学習者が難しいことを前向きな気持で克服するのに必要な「憧れ」をしばしば忘れさせ、嫌々お稽古ごとコースに陥らせるわけで。
そしてモーツァルトのような、奏者への要求レベルが相当に高い曲をやる頃になるとそのレクチャーというか諸注意は微細を極める(それこそ音符単位)ため、
「もういいです勘弁してください!」
(それを踏まえると辞めることを許されない、プロを目指す子達がどんな気持ちでヴァイオリンをさらっているかは、想像を絶するものがある)
「自分が弾きたい音で弾く=弾けるようになるまで絶対に妥協しないことを基本にしなさい」と。
そのうえで
「増田さん、その解釈に基づく演奏でステージに上がったら恥かくよ(変人ショーになってしまう)、なぜなら(以下説明)」
「その部分が無味乾燥に聞こえる時点で解釈が足りてないと思う」
「それだと増田さんの弾きたい音は出ないから、これをこうする練習をしましょう」
という、クラシック=最上のものと定義される音の有り様を、懇切丁寧に教えてくれた。
お陰様で、モーツァルトの協奏曲5番は「本当に難しい」と思ってはいてもモーツァルトを嫌いにはならなかった。
気がつけば音楽に対する集中力と解像度は飛躍的に上がったし、なんなら
「アニソンやボカロみたいなポピュラー楽曲のカバーでありがちな、ポルタメントや過剰なトリル/アクセント/ビブラートに頼らない、あくまで上質なクラシックの弾き方で弾いて喝采を浴びてみたい」
みたいな新しい夢も出来た。
時間はかかったけど、その分より大きな高みに登っていける基礎体力は間違いなくついたと思う。
結局、能力に大きなばらつきがあることが先生はもちろん自分自身も、諸々の見通しを大いに誤らせる結果になった。
何に苦しんだかというと
これだと親指以外の4指を自由に動かせないのを無理やりコントロールする=コントロールできるまで途方もない練習量が要求される。
なのでこれ以上難しい曲に取り組むのであれば先がない(最悪弾けないまま体を壊しリタイヤ)という、致命的な問題だったのだ。
これについてはヴァイオリン以外の、逆上がりや二重跳びができないのはもちろん、ボール投げもバレーのサーブもヘボかったりとかも踏まえると、もう間違いなく自身の神経発達に問題があると確信させられた。
結局、なんとか「左指がデフォで緩んでいて、他の4指の力の入り具合に連動して自然に屈曲するように力が入る」動きを無意識にできるようになったが、もしこれが体得できなかったらと思うと、今でも怖くなる。
他に楽器を常に鎖骨の上に置く、右肘が後ろに逃げないよう腕を重力に任せて落とすといった基礎もツッコまれたが、どちらも10日程度頑張ったら治ったので軽症で済んだ。
なお、今もメンコンの最初の方だけしかさらえていない。納得できる音が出ないので先に行けないし、先を見ても意味がないからだ。
こうやって一歩ずつクリアしていけばいいと思えるくらいには落ち着いた。
正直とても難しいけど楽しい。
ということなら、ベートーベンのエグモント序曲なんかはどうでしょう。超有名というわけではないけど名曲で長すぎずまとまりが良くて盛り上がる曲です。いかにもベートーベンらしい感じのオーケストラ曲。
他には、そうだなあ、有名過ぎずってのが難しいところですが、例えばスターウォーズのテーマなんかが好きな人ならチャイコフスキーやワーグナーあたりが合うかも。『序曲1812年』とか『ワルキューレの騎行』とか『さまよえるオランダ人』序曲とか『マイスタージンガー前奏曲』とか(正確には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲)
もっと颯爽として軽やかなのなら、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』序曲とか、『交響曲イタリア』とか。
もっと繊細で切ない感じなら、モーツァルトの交響曲40番とか。(歌詞を付けて「哀しみのシンフォニー」としてヒットしましたね)
もっと明るいモーツァルトらしさなら、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク(小夜曲)』とか『ディヴェルティメントK136』とか『クラリネット協奏曲』とか。
もっと暗くて深刻な感じのクラシックなら、ブラームスの弦楽六重奏曲 第1番 第2楽章 とか、モーツァルトのセレナーデ ハ短調 K388 とか。
もっとロマンチックでリッチな感じなら、ラフマニノフのピアノ協奏曲なんかどうでしょう。もっと短い曲で手軽にラフマニノフを味わいたいなら、ヴォカリーズがオススメ。(楽器はチェロがいいかなぁ。フルートもいいけど。)
もっとインパクトの強いピアノ協奏曲がお望みなら、グリーグのピアノ協奏曲が一番かも。出だしの印象は強烈です。
もし、スウィングルシンガーズのバッハ(ダバダ〜)やネスカフェの昔のCM(ダバダ〜)やダニエル・リカーリの「ふたりの天使」(ダバダ〜)がお好きなら、映画「恋するガリア」のラルゴ(歌:ミレーユ・ダルク)で有名になった、バッハのチェンバロ協奏曲へ短調BWV1056の第2楽章ラルゴなんかいいかも。「バッハのアリオーソ」とか「バッハのラルゴ」とか呼ばれたりもします。チェンバロでもピアノでも他の楽器でも声でも素晴らしいですよ。(僕の好みはレオンハルトのチェンバロ)
ゲームの音楽のことは何も知らないのですが、初代ドラクエの音楽はクラシック調でしたっけね。CDも出てた。
もし、伝統的なヨーロッパ風の世界が舞台のゲームなら、古い時代の音楽が合っているのかな? だとすると、バロック期やルネサンス期ですね。バロックなら超有名なのはヴィヴァルディの四季やバッハの小フーガト短調ですが、有名なだけあってやっぱり名曲だと思います。(ついでにバッハの『イタリア協奏曲』と『ゴルトベルク変奏曲』もあげときます。)
もしヨーロッパの伝統的な村の雰囲気が味わいたいなら、近代的なオーケストラ用の曲だとレスピーギの『リュートのための古代舞曲とアリア』などもありますが、やはり当時の本物がいいでしょうし、ルネサンス期の舞曲なんかはどうでしょうか。YouTubeで「ルネサンス舞曲」と検索するといろいろ出てきます。
それから、昔の歌だと、マドリガル(またはマドリガーレ)と呼ばれる歌曲が親しみやすいですが、とりあえずジョン・ダウランド(John Dowland)の歌曲はいかがでしょう。YouTubeで John Dowland と検索してみましょう。あのスティングも歌ってますよ。
anond:20210210062305 (クラシック曲ガイド) を見やすくしたよ。
§1600年代前半
§1600年代後半
§1700年代前半
§1700年代後半
§1800年代後半
§1800年代終盤から1900年代初頭 (後期ロマン派・印象派音楽)
§1900年代中盤以降 (第一次大戦終了によってロマン主義と印象主義が古くなった時代に真価を発揮した作曲家たち)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1664833
↑このブコメで賞賛されている表がかなりデタラメなので修正してみた。
とりあえず同じように1600年代から始めます。「オケゲム、マショー、パレストリーナ、ジョスカン・デ・プレがないぞ」とかいう意見もあるようですが、それはもっと以前だから書いていないだけです。
作曲家の「生まれた年」ではなく「主に活躍した時代」で書きます。これに文句を言っている方もおられるようですが、何故かと言うと例えば生まれは1600年代終盤だけれど音楽家として活躍し世に認められたのは1700年代になってから、といったような例があるからです。
「あれは記憶だけで描いてるから素晴らしい」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、これも資料などは参照せず、ほぼ脳内の情報だけで書いております。
モンテヴェルディ(みんな知ってる「私を死なせて」)、カッチーニ(「アヴェ・マリア」が有名だが実はソ連の音楽学者ヴァヴィロフの贋作。真作で有名なのは「アマリッリ」)
シュッツ(「ドイツ音楽の父」として有名)、シャイン、シャイト(以上3名は「ドイツ三大S」として有名)
コレッリ(「ラ・フォリア」が有名)
ヴィヴァルディ(「四季」の人)、アルビノーニ(「アルビノーニのアダージョ」が有名だが贋作。真作で一般に有名な曲は無い)、ペルゴレージ(「スターバト・マーテル」が有名)
クープラン(チェンバロ曲で有名)、ラモー(音楽理論とオペラ)
バッハ(名曲多数)、ヘンデル(日本では「音楽の母」などと呼ばれたが女性ではない。「メサイア」「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」など)、テレマン(「食卓の音楽」で有名)
以上1600~1750年が「バロック音楽」の時代。欧州における「絶対王政」の時代とほぼ重なるという見解があります。
「古典派音楽」の時代。啓蒙思想によって理性が重視され、それが音楽に影響を及ぼした時代です。
チマローザ(オペラ「秘密の結婚」)、パイジェッロ(「うつろな心」)、ボッケリーニ(「女ハイドン」の異名を持つが男性)、サリエリ(オペラの巨匠)
音楽における「ロマン主義」は文学や絵画よりも遅れて1800年代になってから現れます。この時期は古典派音楽からロマン派音楽への過渡期です。
ロッシーニ(オペラ「ウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など)、ベッリーニ(オペラ「ノルマ」など)、ドニゼッティ(オペラ「愛の妙薬」など)
シューベルト(未完成交響曲 D 579、歌曲集「冬の旅」など)
メンデルスゾーン、シューマン、世代的にはワーグナーもここに入る(この時期はオペラ「リエンツィ」「タンホイザー」「ローエングリン」など)
リスト(本人はハンガリー人を自認したが実際はドイツ系オーストリア人で本来のハンガリーの民族要素は無いのでドイツ・オーストリア音楽として捉えるのが正しい)
グリンカ(オペラ「ルスランとリュドミラ」)、ダルゴムイシスキー(オペラ「石の客」)
1848年革命の失敗により、ヨーロッパ音楽の雰囲気も暗くなって参ります。
ヴェルディ後期(オペラ「椿姫」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」など)
ブルックナー(交響曲では4番と7番、8番が有名だが初心者に聞きやすいのはむしろ1番と6番だと思う)
ブラームス、ブルッフ(ヴァイオリン協奏曲第1番が有名)、ワーグナー後期(楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)
オッフェンバック(オペレッタ「天国と地獄」など。実はドイツ人)、グノー(オペラ「ファウスト」)マスネ(オペラ「タイス」など。「タイスの瞑想曲」)、サン=サーンス(長生きしたので今年没後100年)、フランク(バッハの対位法、ベートーヴェンの劇的構成、ワーグナーの和声を融合した究極の交響曲を作曲したが実はベルギー人)、フォーレ(「レクイエム」「幻想の水平線」)
スメタナ(連作交響詩「我が祖国」その中の一曲が「モルダウ」)、ドヴォジャーク(「新世界交響曲」e-moll op.95 など)
ボロディン(オペラ「イーゴリ公」、交響詩「中央アジアの草原にて」、交響曲第2番など)、バラキレフ(東洋幻想曲「イスラメイ」)、ムソルグスキー(オペラ「ボリス・ゴドノフ」、ピアノ組曲「展覧会の絵」)、リムスキー=コルサコフ(交響組曲「シェヘラザード」など)、チーコフスキー(バレエ「白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」など)
グリーグ(ピアノ協奏曲、劇判音楽「ペール・ギュント」、ピアノ曲「抒情小品集」、歌曲「最後の春」など)
プッチーニ(オペラ「トスカ(星は光りぬ)」「蝶々夫人(ある晴れた日に)」「トゥーランドット(誰も寝てはいかん)」など)、マスカーニ(オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」映画「ゴッドファーザー PART III」のあれ)、レスピーギ(交響詩「ローマの松」などローマ三部作)
マーラー(11曲の交響曲と歌曲)、ヴォルフ(ドイツ語歌曲の頂点として非常に有名)
リヒャルト・シュトラウス(交響詩「ツァラトストラはかく語りき」〈映画「2001年宇宙の旅」のあれ〉オペラ「サロメ」〈裸踊りで有名〉「薔薇の騎士」〈少女漫画オペラ〉)、レーガー(変奏曲と室内楽の達人。歌曲も秀逸)
ダンディ(「フランスの山人の歌による交響曲」は初音ミクが歌った冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の元ネタ)、ショーソン(「詩曲」、フランクの影響を受けた1曲だけの交響曲など)、ドビュッシー(オペラ「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」など)、ラヴェル(バレエ音楽「ダフニスとクロエ」、ピアノ協奏曲ト長調など)
フェルステル、ヤナーチェク(オペラ「利口な女狐の物語」、村上春樹のせいで何故か有名になった「シンフォニエッタ」)、スーク(アスラエル交響曲などが有名)
シマノフスキ(「スターバト・マーテル」など)
グラズノフ(ロシア浪漫派交響曲を集大成した作曲家として有名)、ラフマニノフ(無伴奏合唱曲「晩祷」で非常に有名)、スクリャービン(神智学に陶酔した交響曲第4番「エクスタシー」と、「神秘和音」を駆使した妄想ピアノソナタで非常に有名)
エルガー(「威風堂々」が有名だが真の傑作は交響曲第2番)、ディーリアス(「春始めての郭公を聴いて」は英語圏では誰もが知る名曲)、ヴォーン・ウィリアムズ(「田園交響曲(3番)」と「南極交響曲(7番)」が有名だが5番も捨て難い)
ヒンデミット(オペラ「画家マティス」と、その音楽をまとめた交響曲が有名)
シェーンベルク(無調音楽、12音音楽の創始者。彼が最初に12音音楽による楽曲を完成したのが1921年なので今年はシェーンベルク式12音音楽の100周年。まず聴くばきは「ピアノ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「弦楽四重奏曲第3番、第4番」)、ベルク(無調音楽、12音音楽に調性音楽的要素を取り入れて聴きやすくした人。オペラ「ヴォツェック」「ルル」、器楽曲では「ヴァイオリン協奏曲」が有名)、ヴェーベルン(12音音楽の究極として有名)。以上の3人は「シン・ヴィーン楽派」として20世紀音楽を語る上で非常に重要です。
いわゆる「6人組」の時代。現在でも有名なのはプーランク、ミヨー、オネゲル(交響曲第2番と第3番はカラヤン盤もあるので聴いて下さい。このほかオラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」も泣けます。実はスイス人)。現代音楽史的により重要なのはメシアン(「トゥーランガリラ交響曲」「世の終わりのための四重奏曲」「彼方の閃光」オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」などが非常に有名)。
プロコフィエフ(大人は「ピーターと狼」みたいなガキ向けの曲は聴かず「交響曲第2番」の暴力的激しさにヒャッハーしましょう)、ハチャトリアン(「剣の舞」とかいう曲は子供の頃運動会で聴いたでしょうから、そんなものより「交響曲第2番」でファシストとの激しい戦いを体感しましょう)、ショスタコーヴィチ(世間一般では交響曲第5番が知られていますが、高く評価されているのは4番、8番、10番、14番など偶数番号の交響曲です。真髄はオペラと弦楽四重奏曲です)
20世紀後半以降は省略。
『BADDAY』『星逢一夜』『金色の砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。
『金色の砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。
それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?
『金色の砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方(昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京と労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。
ブラームスのイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学の気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。
それから、ビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。
自分の携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。
あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ、交響曲1番1楽章とか激しい。
まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家。
シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分の体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。
ヨハネス・ブラームス、クララ・シューマン、ロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム
知ってる人らだからと油断していたら名前わからなくなった罠。ヨハネス、クララ、ロベルト、ヨーゼフ。
ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。
【】翼ある人びと
1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』
1841年:シューマン『交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチ(メンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。
1846年:長男エミール誕生【秋音光】。シューマン『交響曲第2番 Op.61』
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1853年(ブラームス20歳、クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳、フランツ・ヨーゼフ1世23歳)
10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印(21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声の使用などの先見性が評価されるようになった)。
秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタ』シューマンは出版を提案するもブラームスの判断で破棄
11月:シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている
12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒゲヴァントハウス。シューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品を作品1として出版することを提案していた。
12月30日:シューマン『交響曲第4番(改訂版)Op.120』初演(現在一般的に演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)
2月27日:シューマン投身、エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。
春?:『ハンガリー民謡の主題による14の変奏曲 Op.21-2』
6月:四男(末子)フェリックス誕生【次男、花菱りず】。ブラームスが名付け親。ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。
夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。
1855年:クララを手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞の世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンフレッド序曲』を聞いて)。
1856年『フーガ』『前奏曲とフーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』
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1857年:『前奏曲とフーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』
1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルトと婚約。『セレナード第1番 Op.11』
1859年:結婚生活が音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄
1861年:『シューマンの主題による変奏曲 Op.23』ユーリエへ献呈。
1863年:エリザベート・フォン・シュトックハウゼンがブラームスに弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女のまれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。
1867年:オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生。戴冠式@マーチャーシュ協会のミサ曲はリストが作曲。
1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクララがイタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからのユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章)Op.53』を作曲(別のサイトの表現では、プロポーズを承諾したときににわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。
1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。
1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った
1879年:フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリン・ソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲。クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。
1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース(23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。
1889年:フランツ・ヨーゼフ1世から「芸術と科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララは改訂版派だった)
1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。
1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナー校訂版出版、世に知られるようになる。
1893年:『シューマン全集』刊行(ブラームスとクララで編纂)
5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世の作品とみなされている。
5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。
6月:『11のコラール前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームスの健康は日に日に衰えていく。医者の治療を受けても病状は一向によくならず。
1937年:シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される
※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。
あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい
あと映画も
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曖昧さ回避 「ベートーヴェン、ベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Beethoven.jpg
別名 楽聖
生誕 1770年12月16日頃
死没 1827年3月26日(56歳没)
活動期間 1792 - 1827
ベートーヴェンのサイン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。
目次 [非表示]
1 生涯
2 作風
2.1 初期
2.2 中期
2.3 後期
3 後世の音楽家への影響と評価
4 芸術観
5 思想
6 人物
6.1 名前
7 死因また健康について
7.1 聴覚障害について
8 親族
9 弟子
10 代表作
10.1 交響曲(全9曲)
10.2 管弦楽曲
10.3 協奏曲、協奏的作品
10.4 室内楽曲
10.5 ピアノ曲
10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
10.7 宗教曲
10.8 歌曲
11 著作
12 伝記
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
16.1 録音ファイル
16.2 伝記
生涯
ベートーヴェン(1803年)
1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。
作風
初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。
中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。
中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。
これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。
後期
1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。
後世の音楽家への影響と評価
ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。
ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。
中でもワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。
一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
芸術観
同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けた[7]。
ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。
思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。
人物
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。
基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。
当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。
潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。
性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。
師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。
死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。
これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。
メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。
彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。
パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。
コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。
名前
原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。
日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。
詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照
死因また健康について
慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。
ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。
1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。
聴覚障害について
難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。
耳硬化症説
伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。
又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。
先天性梅毒説
「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。
鉛中毒説
上載の死因また健康についてを参照。
メッテルニヒ政権説
ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。
有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。
デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。
完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。
親族
フランドル地方・メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンス・アウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。
祖母:マリア・ヨゼファ
父:ヨハン
母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版) ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。
甥:カール(ドイツ語版) カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。
弟:ニコラウス・ヨーハン
同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。
弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。
弟子
カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。
フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。
ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。
ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。
アントン・シンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。
代表作
詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照
交響曲(全9曲)
第1番 ハ長調 op.21
第2番 ニ長調 op.36
第3番 変ホ長調 『エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]
第4番 変ロ長調 op.60
第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]
第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]
第7番 イ長調 op.92
第8番 ヘ長調 op.93
第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]
『レオノーレ』序曲第1番 op.138
『レオノーレ』序曲第3番 op.72b
序曲『コリオラン』ハ短調 op.62
交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91
『命名祝日』序曲 op.115
『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113
『献堂式』序曲 ハ長調op.124
協奏曲、協奏的作品
ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
ロマンス第1番 ト長調 op.40
ロマンス第2番 ヘ長調 op.50
三重協奏曲(ピアノ・ヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56
合唱幻想曲 ハ短調 op.80
弦楽四重奏曲(全16曲)
第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1
第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2
第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3
第10番 変ホ長調(ハープ) op.74
第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95
第12番 変ホ長調 op.127
第13番 変ロ長調 op.130
大フーガ 変ロ長調 op.133
第14番 嬰ハ短調 op.131
第15番 イ短調 op.132
第16番 ヘ長調 op.135
弦楽五重奏曲 (全3曲)
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
第5番 ヘ長調 『春』 op.24
第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47
チェロソナタ(全5曲)
ピアノ三重奏曲(全7曲)
第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1
第7番 変ロ長調『大公』 op.97
その他の室内楽曲
ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17
六重奏曲 op.81b
七重奏曲 変ホ長調 op.20
管楽八重奏曲 op.103
ピアノソナタ(全32曲)
第8番 ハ短調『悲愴』 op.13
第15番 ニ長調 『田園』
第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2
第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53
第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]
第26番 変ホ長調『告別』 op.81a
第30番 ホ長調 op.109
第31番 変イ長調 op.110
第32番 ハ短調 op.111
その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)
創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34
創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35
『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78
『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79
創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80
創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76
ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120
アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57
幻想曲 op.77
ポロネーズ ハ長調 op.89
7つのバガテル op.33
11の新しいバガテル op.119
6つのバガテル op.126
バガテル『エリーゼのために』 WoO.59
本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。
オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品
歌劇『フィデリオ』 op.72c
劇付随音楽『エグモント』op.84
劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113
宗教曲
ミサ曲 ハ長調 op.86
ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]
修道僧の歌
歌曲
アデライーデ op.46
汝を愛す
鶉の鳴き声
新しい愛、新しい生
口づけ
追憶
懺悔の歌
今週もスレッドがおちたようなので
8/29pts Rx ◆IRC1/LAAAk
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4pts ID:m6y9SUbG0
2pts*3 ID:----- ID:JMmYF4ng0 ID:cHg1aNqX0
1pt*6 (♂・∀・)♂ ◆VVVF/4gFB.
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・02 二人三脚 (47): ID:cHg1aNqX0 13:28:49.56
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・08 キュア)ホイップ (180): ID:w89aAZRga 13:33:46.14
・09 西南 戦争 (201): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:34:10.64
・10 ビンゴ5《ファイブ》[→] (213): ID:hqe/cTV10 13:34:35.02
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・12 諏訪))さくら (245): ID:agcja+sk0 13:35:24.91
・13 3(番 (269): ID:tR49kcvv0 13:35:54.11
・14 ゴルゴ13《サーティーン》 (286): ID:agcja+sk0 13:36:26.89
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・16 アユ (333): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:37:16.55
・17 地方(税 (352): ID:agcja+sk0 13:37:39.56
・18 富山(県 (393): ID:m6y9SUbG0 13:38:30.47
・19 3(番=あぶさん (411): ID:agcja+sk0 13:38:53.96
・20 ディンプル (434): ID:FMaOJJTU0 13:39:24.54
・22 満)25(歳以上 (481): ID:m6y9SUbG0 13:40:11.99
・23 土佐(酢 (498): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:40:40.25
・24 [AC]閑話休題 かんわきゅうだい (575): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:44:32.59
・25 横浜(市 (595): ID:agcja+sk0 13:45:13.52
・26 ラスカル (639): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:46:02.85
・27 隗《かい》(より始めよ[ok] (710): Rx ◆IRC1/LAAAk 13:48:12.28
・28 松田聖子 まつだせいこ ID:----- (750): ID:JMmYF4ng0 13:49:23.67
・29e カーリング (750): ID:JMmYF4ng0 13:49:23.67
いわゆる2ちゃんねるネタであり「あそこに書かれていることなんて気にしなくていいと思うぞ」で終わってしまう話を、あえて書いてみる。
就学前の幼少時から始められる楽器の代表例は、なんといってもピアノとヴァイオリンだろう。
そんなだから、当然2ちゃんねるにもヴァイオリンのスレはあるのだが、ピアノと違ってこのスレはほぼ十年来、ギスギスした空気で現在に至っているのだ。
理由は、幼少時から始めた人=アーリー組と、高校・大学・社会人くらいから始めた人=レイト組の対立にある。
結果、本スレから分家した、レイト向けスレの1に貼られるテンプレからして、その上から目線ぶりが尋常ではない。
以下の論争はすでに終結しています。
●耳の腐ったレイトに良し悪しは解らんだろう。
●ヴァイオリンはピタゴラス音律で弾く。レイトは基本的にヴィブラートを掛けてはならない。
●幼少期から習っている人に大人から始めて追いつけるワケがない。言語と同じ。
●チューナーは、調弦では仕方がない、運弓で使える、音階練習には使えない。
(中略)
汚い音、狂った音程に対する嫌悪感が、上達のインセンティブで、
これはもう、明らかに「にわかを見下す熟練者」「アーリー組自身が囚われている生存者バイアス」が合わさった結果であり、こういう対立がないピアノ組が正直羨ましい。
自分も一応はアーリー組の末席という立ち位置だが、どう見てもアーリー組のスタンスの問題だと思うのだ。
以下、そんなアーリーの特徴を、ヴァイオリンの特性も絡めて書いてみる。
主にピアノと比較したヴァイオリンの特性をシニカルに書くと、こんな感じである。
ヴァイオリンをとても良く弾ける人間がひとたび音を出せば、それはもう堂々の主役として、当たり前のようにステージを支配する点において「楽器の女王」であることは間違いない。
しかし楽器のポテンシャルや柔軟性から言えば、「楽器の王様」はピアノだろう。
そんなヴァイオリンは、親の時間的金銭的負担が大きい時点で幼少時からの学習者がピアノほど多くないところに、演奏技法習得の難しさ(≒誰もが知っている名曲を弾けるまでに至るための要求水準の高さ)から、恐らく多くの脱落者を生んでいることが容易に想像できるシロモノである。
それこそ面倒どころか、個人的には世界一難しい楽器としてギネス認定すべきだと思うくらいで、ヴァイオリン弾きの生存者バイアスが強いと思う理由である。
全5曲のうち、重要なのは3番以降の3曲で、これはプロオケの入団試験にも頻出する曲であり、つまりヴァイオリンでクラシックをやるなら、3曲のうちのいずれかをプロ・アマ問わず習得していることが望ましい曲である。
というかメンデルスゾーンの協奏曲やバッハのシャコンヌやチゴイネルワイゼンみたいな名曲を弾こうと思ったら、モーツァルトをまともに弾けるのは大前提だし。
そんなこともあり、実際プロ目指す人は小学生でモーツァルトをやってしまう。
しかしアマチュアになると、幼少時から習っていてもここまで来る人は1割程度だと言われている。
そして、そんなごく一部の人=アーリー組が、大人になってもヴァイオリンを続けていると、こういうわけだ。
しかし、アーリーにそんな自覚は多分ないはずで、それどころか超頑張って俺はここまで来た的な自負があり、これがレイトとの軋轢の根本原因だろう。
つまり、幼少時から始めた人が超上手くなって続けるか、そうならずにヴァイオリンを習っていたことそのものを無かったことにするかという両極端な事情をどうにかしないと、今後もこの憂慮すべき事態は続くと思われる。
バッハ | 1685-1750 |
ヘンデル | 1685-1759 |
ハイドン | 1732-1809 |
モーツァルト | 1756-1791 |
ベートーヴェン | 1770-1827 |
シューベルト | 1797-1828 |
メンデルスゾーン | 1809-1847 |
ショパン | 1810-1849 |
シューマン | 1810-1856 |
リスト | 1811-1886 |
ワーグナー | 1813-1883 |
ヴェルディ | 1813-1901 |
分類としては、バッハあたりがバロック音楽、モーツァルトあたりが古典派音楽、シューベルト以降はロマン派音楽ということになるのだろうか。
ともあれこうして並べると、まったく別の時代という印象があった音楽家たちが、意外に近い世代だったことに驚く。
ベートーヴェンとシューベルトとショパンとワーグナーが同時に存在していた瞬間がかつてあったのだ。
バッハなんてルネサンスくらいのイメージだったのだが、ルネサンス終了から100年後の人なんだよな。大航海時代のさらに後だ。
4歳から高校まで習っていたバイオリンのレッスンを、30代も半ばになって再開してからはや半年。
この間、徹底的に直され、今でも直されまくっているのがボウイングだ。
バイオリンは擦弦楽器である関係上、弓の元から先まで均一な音を出すのが基本中の基本であることは、ほぼ確実だ。
言い換えれば、切る前の羊羹みたいな、テヌート的な音が「バイオリンでは」基本と。
子供のうちから習った場合、それできらきら星を弾くのがド定番だったりする。
ここまではいい。昔は練習嫌いだった自分でさえ習得できたので、これは子供の頃から習った人は全員体得すると言っていい。
しかしこれ、西洋音楽の本質に照らし合わせると、飽くまで「バイオリンにおける基本」に過ぎないのだ。
つまり固有の楽器の技術的な基本と、音楽的な基本が違っているのだ。
何しろ西洋音楽の音の基本は、頭にだけアタックが付き、そこから音符いっぱいかけて緩やかに減衰する、デタッシェという音だったりする。
これは擦弦楽器だろうが撥弦楽器だろうが管楽器だろうが打楽器だろうが全く関係なく、西洋人にとって最も自然に聞こえるから、という話。
即ち、テヌート的な音の出し方しか出来ない場合、まともに聴かせられる曲が、かなり限定されてしまうと。
嘘だと思うなら、例えばモーツァルトをテヌートだけで弾いたらどうなるか想像してみるといい。かなり暑苦しい、ともすると力任せの演奏に聞こえるはずだ。
これがメンデルスゾーンとかになると、1フレーズごとに表情を変えることが要求されるし、それが出来ないと非常に退屈でつまらない演奏になるのは間違いない。
しかしテヌートだけがベースの奏法では弾き方の引き出しが少なすぎて、こうしたロマン派の難しい曲には全く対応できない。
またテヌートがデフォな人は、必要以上に力んでいることが多いので、音色も硬く、場合によっては汚い、荒っぽいものだったりする。
結果的に、普通の人がイメージするバイオリンの音から大きくかけ離れてしまうのだが、本人はなかなか気付かない。
昔はあまり練習に熱心でなかった自分は、結局テヌート的奏法しか習得できなかった(させてもらえなかった)ので、今になって目を回しながら対応に追われている。
バイオリンは可能な限り力を入れず、かつ綺麗で芯のある音を出さないといけない楽器であることを思い知らされているというか。
そこで疑問なのだが、幼少からバイオリンを熱心にやっている人は、一体いつくらいに、デタッシェの奏法を習得するのだろうか。
保育園・幼稚園や小学校低学年の子にこういう難しいことが理解できるとは思えない。
反面、少なくともメンデルスゾーンを弾く前には絶対にマスターしていないと、発表会で「右手はまだまだだけど左手はいいんじゃない」といった微妙な評価をもらうことになるだろう。
小さい頃からヴァイオリンを習っていたと話すと、それだけで「良家の子女」とみなされることが、ずっと不思議で仕方なかった。
そんな自分は両親とも公務員、東京の多摩東部(井の頭線沿線)の生まれで、小学校の時に北関東に引っ越して今に至る。
修士号を取るまで在籍した学校は経済事情優先で全て公立と、良家の子女になる要素は皆無。
東京にいた時はアパート暮らしで、近所にヴァイオリンの先生がいたので、興味があって4歳から楽器を習い始めた。
自分の学区は児童の人数が多い、いわゆるマンモス校で、小学校に入学したら同じ先生に楽器を習ってる人が何人かはいるだろうと胸をときめかせたのだが・・・一人もいなかった。
一方、発表会では姉弟子に当たる中学生や高校生の子たちが、ホールでメンデルスゾーンやバッハの無伴奏のホ長調を弾いているのを、順番の最初のほうで終わった自分はなんとなく聴いたり聴かなかったりで過ごし、最後は皆で合奏と、それはそれは大々的だったのだが、同時に「一体皆はどこから習いに来ているのだろう、近所じゃ見かけない人達だし・・・」と不思議でならなかった。
保育園から小学校に上がって、周りが皆幼稚園上がりで衝撃を受けたこともあり、子供ながらに結構しょんぼりしていたかも。
そして最近、東京の頃の記憶をなぞっていたとき、長年の謎が解けた・・・気がした。
なんのことはない、どうやらその地区は主婦のお母さんが圧倒的多数で、さらにその中でも家が裕福で、小学校や幼稚園から私立に通っている子(特に女の子)だけがヴァイオリンを習っていたと、そういうことだったらしい。
少なくとも当時の東京の多摩東部の西武新宿線~中央線~東横線くらいのエリアでは、そういうケースが殆どだったらしい。
そして地方であっても、ヴァイオリンを習う子の、名士の娘さん率は高かったらしい。
確かにエスカレーター式の私立一貫校は受験に多大な時間を取られずに済むので、嗜みや教養の一環として何らかの習い事をさせるだろうし、それが女の子なら、楽器の一つくらいは・・・ということでピアノかヴァイオリンを習うと。
それ以外だったら、親がプロの音楽家だったり、熱心なクラシック愛好者か楽器愛好者くらいか(地方の名士には愛好者多そう)。
ともかくそういう事情もあって、日本だとヴァイオリンは「お嬢様の楽器」というイメージが強いと。
かくいう自分は父親がクラオタで独学でヴァイオリンを弾いていたし、ヴァイオリンのレコードばっかりかけていたっけ。
もっとも、自分は非常に不器用で要領が悪いこともあり、しかも当時はクラシックが大好きというわけでもなかった。
結局受験と楽器のレッスンを両立させることは出来ず、今ではアマオケのその他大勢で弾くのがやっとだったり。
4歳からやっていてメンデルスゾーンも弾けない、ノイズ生成器に近い。
幸い、大人になって薄給の仕事ながら時間の余裕は出来たので最近レッスンを再開し、今度こそメンデルスゾーンを・・・ということになった。
それもこれも、昔の発表会で生演奏を聴いてしまったからだ。単なる懐かしい思い出であっても、その音が耳から消えることはない。
75
74 バルトーク 協奏曲、ヴィエニャフスキー エチュードカプリース
73 ヴィエニャフスキー 協奏曲第1番、イザイ無伴奏Vnソナタ、ハチャトゥリアン 協奏曲
69
66
58
56 ヴィターリ シャコンヌ
55 フランク、フォーレ、ブラームス/ソナタ、ローデ/カプリス(~67)
51 バッハ/無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティ―タ(~69)
50 バッハ/協奏曲1番(a-mall)、クロイツェル・エチュード(~60)
48 バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲(第1ヴァイオリン)
47
46 ヴィヴァルディ 調和の霊感より第6番第1楽章a-moll、カイザー・エチュード(~54)
ザイツ協奏曲は圏外
ご覧の通り、偏差値45以下は載っていない。
まあ、これより下のレベルは、早い人だと小学校上がる前にクリアしてしまう(そして中学校上がる前にメンデルスゾーンをやってしまう)し、クリアすると歯牙にもかけない人が殆どだからだろう。
今年は3月まで仕事忙しいけど、春になって暇になったら、アラフォーの手習いとしてバイオリンを再開しようと思う。
高校の時、バッハのコンチェルトを弾いて卒業したんだけど、その後学生オケやアマオケをやるうちに、再び先生にきちんと付いて、もっとソロの腕を磨きたくなったので。
でもいきなりは絶対無理なので、より演奏が容易な曲で鍛えてからになると思うけど、調べた感じだと
バッハ無伴奏のホ長調→ヴィオッティのコンチェルト→モーツァルトのコンチェルト3番→モーツァルトのコンチェルト4番→フランクorフォーレorブラームスのソナタ(ローデ併用)→ヴィターリのシャコンヌ→ブルッフのコンチェルト1番→ベートーヴェンのコンチェルト
と、ここまでやってやっとメンデルスゾーンらしい。
ちなみにラロとかスコットランドとか、チャイコやブラームスのコンチェルトはもっともっと難しくて、究極的にはパガニーニをエチュードにしつつバルトークのコンチェルトになるのだそうな。
ウヘァって感じ。バイオリンどんだけ奥深いんだ。
そしてこれらを高校までにやってしまうプロはどんだけさらってるんだ。