はてなキーワード: 音律とは
あるね、民族音楽の重要なところは音律だけではなくリズムと拍子が同じ西洋音楽の土壌にありながらもそれとは異質な体系がその民族ごとにあったというところ
わざわざ東南アジアやらアフリカを持ち出さずとも、西洋音楽の主流であった欧州においてさえも認められたところ
こういう発見をした(オリエンタリズムな時代背景も追い風だったかも知れないが、それを加味してもアカデミックな空間に説得力を持たせて送り込んだ)バルトークやコダーイはやはり優秀
というわけで既存の音楽理論体系の破壊と再構築なんてのは当時の19世紀生まれの西洋音楽それ自体に含まれていたので今どきの音楽を持ち出す必要もない
今を生きる彼らは先駆者ではない
先駆者の筆をなぞって名筆などというのは真贋を見極められない愚者の意見ぞ
友人に知識量で負けているという落差はあるような気がしてならないが。
「落差」ってどういう意味で使ってんの?
「知識量に落差があり、負けている気がしてならない」なら分かる。
「ある日人の思考をデジタルデータ化する方法が編み出されたんだ。こいつは面白い技術でね。そこからあらゆるコンテンツや映像が生み出された。するとそこから自然とイメージをどう保存するかという問題にもさしあたる。イメージは大量のデータ容量を消費した」
イメージって急に出てくるけれど、「思考」のことを言ってるんだよね?
急に思考がイメージに切り替わると「どっから出てきた?あぁ、前を読み返せってことね」ってなるわ。
調律って、楽器の音律を整えることだけど。「調整」の間違いじゃない?
部屋の隅から白と黒の二匹の猫が入り込んできて、くわえたネズミを床に落とすと去っていった。ネズミはたちまちシェイクへと姿を変える。
何もされてないのに、なんでシェイクに代わって見えるのか意味不明。
相対音感 ある音の高さを他の音との関係において識別する能力。
ヒトには音の高さを感じる能力があります。内耳の蝸牛に聴覚細胞が並んでいて、周波数によって興奮して信号を発する部位が違っています。これが脳の聴覚野で処理されて音の高さとして認識される。
長さに例えると長短は比較できますが「ものさし」がありません。何㎝と分かるには、単位を決めて物差しを作らないといけません。作成したものさしを基準点に合わせて長さを測ります。
音の高さはラ=440Hzの基準を決めます。周波数が2倍の880Hzの音を人間は「同じ音」に感じます。この音程・音の高さの間隔を1オクターブといいます。合成された波形の周期が元の周期と一致します。音の高さには「トーンハイト」と「トーンクロマ」という2つの考え方があり、トーンハイトがオクターブ単位で違う音はトーンクロマが同じと感じられます。
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周波数が2:3の音程は美しく響き合うと感じられます。合成された波形が単純な繰り返しになります。音楽ではこの音程を完全五度と名付けています。
2:3の関係で音の高さを決め、1オクターブの範囲を超えたら周波数を半分にして折り返します。こうしてできる12音の音列を半音階といいます。この方法をピタゴラス音律と呼びます。ピタゴラス音律では13音目が最初のラと「ほぼ同じ」なのですが、このために和音の響きが濁ります。不快な「うなり」が発生します。この音程の誤差をピタゴラスコンマと呼びます。
これを補正するために、様々な音律・半音階の周波数比が考案されてきました。ピタゴラスコンマを分散させています。
ピタゴラスコンマを均等に割り振ったのが平均律。きんとうに和声が濁ります。
ラ=440Hz と 平均律の音程 を 覚えて、半音階上の位置を判定します。これが相対音感。ラの周波数は可変です。半音階の音高に「音名」をつけます。が、ドレミファソラシは7音・全音階に命名されていて、半音階は♯♭をつけて表されます。
絶対音感は訓練によって、半音階の音の高さを記憶して、絶対的なものさしとして使います。記憶には短期間で忘却する短期記憶と長期間保持し続けることのできる長期記憶があります。短期記憶を繰り返すことで、長期記憶として定着すると考えられています。絶対音感・音の高さの長期記憶は、幼児期でないとできないとされています。脳の発達により能力が失われる。相対的な音の高さを思考できるようになると、単純な記憶をする訓練が妨げられる。諸説あります。
色覚はたくさんの色を認識することができます。これは光の周波数・波長を感じています。日本の文化では、赤橙黄緑青藍紫が波長の順に命名されています。
絶対色覚……という用語はありません。緑と青の間にも無数の色があり、これを明確に区別することができないから。
絶対音感は、ドレミファソラシの周波数を固定的に記憶しています。
ドとド♯の間の音は「わからない」 精度が低ければ近い方に誤認します。ドに近い・ド♯に近いと分かるために、相対音感で補間をします。
赤~紫の光は、赤・緑・青の3つの合成で作ることができます。0~256の強さで表すと256*256*256の色を表現できます。
音には1秒間の振動数で表すHzという単位の他に、音楽では1オクターブを1200分割して1セントとする単位があります。
可視光を7分割するのは、日本の文化。文化によって色名の数は異なります。
絶対音感があると、音がすべて「ドレミに聞こえる」という誤解があります。音感があると音の高さが「ドレミで分かる」だけです。もし「ドレミファソラシ~♪」という音声が聞こえていたら、それは脳が作り出したもの。生活に支障があるならばそれは「幻聴」という病気。
絶対音感で記憶している半音階に拘りがありすぎると、強迫性障害を発症します。長さが1cm刻みぴったりでないと許せないと言い出したら病気ですね。
人には聴覚から入ってくる情報を取捨選択して無視できる能力が備わっています。これを「カクテルパーティー効果」といいます。言語の音声を多数同時に処理できるほうが稀な能力ですし。雑踏の話し声がすべて頭に流れ込んでくるとか、どこからか話し声が聞こえてくるとか言い出したら病院へ
音感があっても複数のパートを同時に処理し記憶することは容易ではありません。そのような優れた音感・記憶力は「絶対音感」と誤解されていますが、音感の種類である絶対・相対とは関係ありません。
いわゆる2ちゃんねるネタであり「あそこに書かれていることなんて気にしなくていいと思うぞ」で終わってしまう話を、あえて書いてみる。
就学前の幼少時から始められる楽器の代表例は、なんといってもピアノとヴァイオリンだろう。
そんなだから、当然2ちゃんねるにもヴァイオリンのスレはあるのだが、ピアノと違ってこのスレはほぼ十年来、ギスギスした空気で現在に至っているのだ。
理由は、幼少時から始めた人=アーリー組と、高校・大学・社会人くらいから始めた人=レイト組の対立にある。
結果、本スレから分家した、レイト向けスレの1に貼られるテンプレからして、その上から目線ぶりが尋常ではない。
以下の論争はすでに終結しています。
●耳の腐ったレイトに良し悪しは解らんだろう。
●ヴァイオリンはピタゴラス音律で弾く。レイトは基本的にヴィブラートを掛けてはならない。
●幼少期から習っている人に大人から始めて追いつけるワケがない。言語と同じ。
●チューナーは、調弦では仕方がない、運弓で使える、音階練習には使えない。
(中略)
汚い音、狂った音程に対する嫌悪感が、上達のインセンティブで、
これはもう、明らかに「にわかを見下す熟練者」「アーリー組自身が囚われている生存者バイアス」が合わさった結果であり、こういう対立がないピアノ組が正直羨ましい。
自分も一応はアーリー組の末席という立ち位置だが、どう見てもアーリー組のスタンスの問題だと思うのだ。
以下、そんなアーリーの特徴を、ヴァイオリンの特性も絡めて書いてみる。
主にピアノと比較したヴァイオリンの特性をシニカルに書くと、こんな感じである。
ヴァイオリンをとても良く弾ける人間がひとたび音を出せば、それはもう堂々の主役として、当たり前のようにステージを支配する点において「楽器の女王」であることは間違いない。
しかし楽器のポテンシャルや柔軟性から言えば、「楽器の王様」はピアノだろう。
そんなヴァイオリンは、親の時間的金銭的負担が大きい時点で幼少時からの学習者がピアノほど多くないところに、演奏技法習得の難しさ(≒誰もが知っている名曲を弾けるまでに至るための要求水準の高さ)から、恐らく多くの脱落者を生んでいることが容易に想像できるシロモノである。
それこそ面倒どころか、個人的には世界一難しい楽器としてギネス認定すべきだと思うくらいで、ヴァイオリン弾きの生存者バイアスが強いと思う理由である。
全5曲のうち、重要なのは3番以降の3曲で、これはプロオケの入団試験にも頻出する曲であり、つまりヴァイオリンでクラシックをやるなら、3曲のうちのいずれかをプロ・アマ問わず習得していることが望ましい曲である。
というかメンデルスゾーンの協奏曲やバッハのシャコンヌやチゴイネルワイゼンみたいな名曲を弾こうと思ったら、モーツァルトをまともに弾けるのは大前提だし。
そんなこともあり、実際プロ目指す人は小学生でモーツァルトをやってしまう。
しかしアマチュアになると、幼少時から習っていてもここまで来る人は1割程度だと言われている。
そして、そんなごく一部の人=アーリー組が、大人になってもヴァイオリンを続けていると、こういうわけだ。
しかし、アーリーにそんな自覚は多分ないはずで、それどころか超頑張って俺はここまで来た的な自負があり、これがレイトとの軋轢の根本原因だろう。
つまり、幼少時から始めた人が超上手くなって続けるか、そうならずにヴァイオリンを習っていたことそのものを無かったことにするかという両極端な事情をどうにかしないと、今後もこの憂慮すべき事態は続くと思われる。