はてなキーワード: しまとは
見たけど、よくわからなかった
話の内容が、というわけではなく制作意図(?)がわからなかった
以下感想
アニメーションの出来が素晴らしい
日本の従来の商業アニメ的ではない表現、演出なので外国の映画賞とかとりそう
普通、アニメで、高校生で、アマチュア寄せ集めで、そっちの方向性にはいかなくないか?
そしてミスチルはクソ
以下ネタバレ気にせず感想をかく、良かった点と悪かった点、疑問点、腑に落ちない点を書くのでだれか答えを教えてくれ
ざっくりいうと邦画っぽい
邦画あまり知らないけどなんていうか岩井俊二的な、岩井俊二をアニメ化するとしたら山田尚子に任せたらよさそう的な感想を持った
ちゃんとアニメとして成立している、邦画っぽいけどやはりこれはアニメなのだ
また、邦画っぽいというのは、エンタメではないという意味も含む
たとえばこの映画が君の名はのように大ヒットして何百億円も稼ぐとはとても思えない
人によっては心に染み入るような、人によってはあくびが出るような、そんなタイプの映画
なぜそう感じるのか?
改めて考えたがこの映画は緩急に乏しい
たくさん登場人物が出るし、エピソードもたくさんあるがどれも平凡
心に刻み付けられる名ゼリフもなければグリグリ動く神作画もない
良かった点
その選曲とパフォーマンスで客がそんな風にはならんやろと思ったり
なんでこの子達がそんな曲作ろうと思うん?だったり
その点、このアニメはよかった
文化祭であんなセンスのある演奏されたらそらああなるし、そういう演奏になる理由も作中で描かれていた
悪かった点
1 ミスチルを起用すんな
単純にあってない
作品の完成度を落としてると思う
いやおそらく「今」なんだろうが、現実の「今」とこの作品の中の「今」、ちょっと違う、いやかなり違うよね
いかにもアニメアニメしたアニメならご都合主義として無視できるのだけど、キャラデザも演出もリアルに、邦画に寄せている分、どうしてもリアリティのなさ、時代の曖昧さを感じてしまう
上の方で岩井俊二っぽいと書いたけど、岩井俊二は時代を切り取るのが上手い
『打ち上げ花火下から見るか横から見るか』を見れば90年代の小学生のリアルがそのまま伝わってくるし
『リリイシュシュのすべて』を見ればゼロ年代の中学生のリアルに心が苦しくなるはずだ
彼女ら、彼らは、本当に、令和の、2024年の、日本の今を生きる高校生なんだろうか?とてもそうはみえない
作劇に合わせて都合よく作られたフィクショナルなキャラクターに見える
そのちぐはぐさが不快で不満
疑問点
エンタメではなさそうだ
いやもし売れる映画を目指してたなら単純に失敗だ
パンチが足りない
では作家性の強い映画、メッセージ性のある映画をやりたかったのか?
作風的にはこっちの説のがしっくりくるのだけれども、そうだとするとこの作品のテーマがよくわからない
自分には伝わらなかった
わかった人がいれば教えて欲しい
きみの色は結局何がしたい映画だったの?
「SEXーバトル」なるゲームジャンルがあると聞き、DLサイトで人気の体験版を10個ほど落としたのだが、どれも非常につまらない。
カードローグのような超高速っぷりまではいかずともせめて普通のRPGと同じぐらいのテンポは欲しい。
ADVとRPGをモッサリUIで同時にやるようなゲームばかりで苦痛でさえある。
昔ながらのRPGに「敗北したらエロシーン1 勝ったらエロシーン2」という要素をつけたものばかりだ。
多少のゲージ管理要素はあれどやっていることはレベルを上げてバイキルトとルカニをかけて物理で殴るだけである。
表向きはローグライト風・カードバトル・TDなど多様なジャンルがあるように見えるが、結局はどれもレベルを上げて殴るだけであり奥行きがない。
昔のFLASHエロゲーでよくあった「睡眠薬を持った相手が起きないようにちょっとずつイカせる」の方がずっとマシなレベルで、リスクとリターンの概念が薄い。
ゲーム内の葛藤は「わざと負けてエロシーンを見るか、それともここはちゃんと勝って後からわざと負けに来るか」ぐらいであり、攻略しているという気分にはとてもなれない。
「チンコを思いっきり挿れたら俺もイッてしまうかも知れないが、ケツアナに力を込めることでイク前にイカせられる可能性に賭ける!」という感じの駆け引きを俺は求めていたのだ。
それはまるでSEKIROやブシドーブレードの如き、ギリギリの鍔迫り合いの中で、精子をかけながらの対話を楽しみたかった。
だが俺の求めるゲームはどこにもない。
令和にもなってFCレベルのRPGをやるような脳死人間でも攻略できるようにと虚勢を繰り返され、エロRPGはただレベルを上げることだけを攻略とする時間浪費装置と化した。
こんなのを有難がるのは時間が余ってしょうがない生活保護受給者ぐらいではないのか?
確かに需要が我が心中にあり、俺の中にさえあるならクリエイティブで想像力豊かな人々の中には絶対的なライフワークでさえありえるはずだ。
解雇規制の緩和には、経済学的にさまざまなメリットとデメリットがあります。これらは、雇用市場の柔軟性、企業の経営効率、労働者のセキュリティなど、多角的な視点から議論されます。以下に、メリットとデメリットを挙げます。
解雇規制が緩和されると、企業は労働力の調整を柔軟に行うことができ、経済変動や市場ニーズに迅速に対応できます。これにより、成長が期待される分野に労働力をシフトしやすくなるため、労働市場の効率性が向上する可能性があります。
労働者を柔軟に雇用し、また解雇できることは、企業が効率的な人材配置を行いやすくし、コスト削減や生産性向上につながります。これにより、企業が国際競争に打ち勝つ力を強化できます。
解雇コストの低減は、企業にとってリスクが軽減され、起業や新規投資が増える可能性があります。特に中小企業やスタートアップにとって、柔軟な雇用環境は大きな魅力となり、経済全体の成長を促す効果が期待されます。
労働市場が柔軟化することで、労働者が新しいスキルや職業に適応するインセンティブが強まり、労働市場がダイナミックになりやすくなります。これにより、より適材適所な人材配置が促進される可能性があります。
解雇規制が緩和されると、労働者が簡単に解雇されやすくなるため、雇用の不安定感が強まります。特に、低スキル労働者や不安定な職種に従事する人々がリスクにさらされ、生活基盤が脅かされる可能性があります。
消費の抑制
雇用の不安定さが増すと、労働者は将来の収入に不安を感じ、消費を抑える傾向が強まる可能性があります。これにより、経済全体の消費活動が鈍化し、成長が抑制されるリスクがあります。
解雇された労働者が再就職までの間に失業手当や福祉サービスに依存する期間が長くなる場合、政府の支出が増加することがあります。これにより、税負担の増加や公共サービスの質の低下などが発生する可能性があります。
解雇規制の緩和が進むと、企業が短期的なコスト削減を優先し、長期的な人材育成や従業員の定着に対する投資が減少する可能性があります。これにより、企業の成長戦略が持続可能でなくなるリスクが増加します。
経済全体への影響
解雇規制の緩和がどのように経済に影響を与えるかは、国や経済状況に依存します。高度に規制された労働市場を持つ国では、規制緩和が労働市場の活性化に貢献する可能性がありますが、社会的セーフティネットの整備が不十分な場合には、大きな不安定化要因にもなり得ます。
馬鹿が有権者に増えすぎると、選ばれる政治家連中も馬鹿ばっかりになって政治システムが機能不全を引き起こす時点で
だからこそまともな国は国民に苛烈な生存競争を強いる事で、馬鹿がすぐに死ぬ様にして馬鹿の数が増えすぎない様に頑張ってる
事実としてアメリカでは貧困層の平均寿命は富裕層と比べると15年も短い
最近ではQアノンの様な陰謀論馬鹿も湧いてきたが、それでもまだ馬鹿ではない人間が国民の過半数以上を保っている
だからこそトランプの様な馬鹿を権力の座から引きずり下ろせたのである
逆に日本では解雇規制だの国民皆保険だのと、馬鹿を長生きさせてしまう制度を作りまくった結果
貧困層と富裕層の平均寿命の差は5年以下にまで縮まってしまっている
これでは馬鹿が淘汰されるスピードよりも、馬鹿が生産されるスピードの方が早くなり
だからこそこれからも馬鹿が長生きする社会が続く限り、日本の政治は絶対に上手く行かず
最近話題になっている裏金カルト議員やパワハラ知事の様な屑共はこれからも何十人と出てくるし
日本がこのまま民主主義を採用し続ける限りそれを止める方法は無い
このくだらない国を!システムを支えてきたのは諸君に他ならないからだ!
選挙じゃ何も変わらないんだよ!
2024年、私はインドネシア・バリで開催されたパラリンピックを観戦するため、バリ島を訪れました。バリの自然豊かな風景と独特の文化はもちろんのこと、世界中から集まったパラアスリートたちの熱い戦いを目の当たりにすることができ、心躍る時間を過ごしました。
競技観戦の後、バリならではの美味しい食事を楽しむことにしました。バリの料理は、香辛料や新鮮な食材を使った風味豊かな料理が多く、グルメとしても非常に有名です。
最初に訪れたのは、地元で評判の高いワルン(小さなレストラン)です。ここで注文したのは、「ナシチャンプル」というバリの伝統的な混ぜご飯。香ばしいサンバル(辛味調味料)とともに、鶏肉や豚肉、テンペ(大豆から作られた発酵食品)、ピーナッツ、野菜などがバランスよく盛り付けられた一皿で、見た目も味も素晴らしいものでした。
次に試したのは「バビグリン」、バリ風のローストポークです。じっくりとローストされた豚肉の皮はパリパリで、肉は柔らかく、特製のスパイスが絶妙なアクセントを加えていました。バビグリンは祝祭や特別な日に食べられる料理で、今回はパラリンピックという特別な機会にふさわしい一品でした。
デザートには、バリの伝統的なお菓子「ダダールグリン」をいただきました。ココナッツとパームシュガーが詰まった緑色のクレープは、甘さ控えめで口当たりが良く、食後のデザートにぴったりでした。
観戦後の食事は、競技の感動とともにバリの豊かな文化や味覚を体験できる素晴らしい時間となりました。パラリンピックのアスリートたちの勇気と努力に感動し、またバリの温かい人々と豊かな食文化に触れ、忘れられない一日を過ごしました。
反応集って本当に簡単に作れるから伸びる伸びない関係なしにアップロードしまくれるのよ
YouTubeのアルゴリズムって投稿頻度を一番重視するから、こういうことを続けているといつか伸びて、そしてずっと伸び続けるようになる
俺も最初は月収400円とかだったけど、今は10万くらいは稼げるようになった。反応集だけで100万とか稼いでるやついるしもっと頑張らないとな
6月頃から見始めたおしん。ついに最終回に到達した。全297話を一気見して感慨深い。おしんは明治に生まれ、大正昭和と激動の時代をたくましく生き抜いた女の一代記である。
これまでも2019年頃に再放送された際に断片的にはみていたのだが、フルバージョンで通してみたのは今回が初。全篇を通してみて、いろいろと誤解していたことも多いことに気が付いた。
全く違った。もちろん困難に負けないといった不屈の精神みたいなテーマもあるし、海外ではむしろそこが受けたのだろう。しかし、おしんの本質はそこだけではないというのが全話みた感想である。
いや、もちろん少女時代の奉公先での過酷な試練は、おしんのイメージともなっているし、全編通して苦労が絶えなかったのは確かである。それに耐えようとする根性もみせた。しかし、おしんは最初の奉公先である材木問屋からは逃亡しているし、佐賀の豪農の嫁となってからは、姑の嫁いびりに耐えきれずに幼い一人息子を奪うようにして家出している。7歳のおしんが座木問屋で受けた仕打ちにしても、24歳のおしんが佐賀の田倉家で受けたイジメにしても、視聴者から見るに堪えないとのクレームがあったほどのもので、おしんが耐えきれないのも無理はないものである。特に壮絶だったのは、妊娠したおしんに対する佐賀の姑の仕打ち。まかり間違えば自分が命を落としかねない危険な死産を経験したおしんはついに、佐賀の家を離れ東京行きを決意する。朝ドラとしては、佐賀時代は1ヵ月以上もあり、視聴者にとってもきつかっただろう。なにせ毎日いびられ、佐賀時代におしんが笑顔を見せることはなかったのだから。朝から気持ちを明るくさせるという朝ドラの使命を真っ向から放棄した凄まじく理不尽な展開だった。
後年、佐賀の姑・清を演じた高森和子は、こんなことを言っている。
佐賀編で、田中裕子さん演じるおしんをいびる田倉家の姑・清を演じた高森和子さんも「私はさほど厳しいと思っていなかった。きついといえばきついけど清から見たらおしんのことを我慢できない部分も当然あっただろうし。だから憎まれ役のつもりはなかった」という。ところが、まず舞台地の佐賀からどっと清に対する反発の声が上がった。「役者冥利に尽きるとも言えるけど、そんなに怒られると思わなかったので、最初は少し落ち込みましたね(笑)」。とはいえ、高森さんもおしん役の田中裕子さんの熱のこもった演技に、いびる立場でありながら「あまりにかわいそうで」思わず涙したこともあったようだ。(NHKアーカイブより)
さほど厳しいと思っていなかったという回想は、放送から40年後に、おしんを視聴した私にとってはむしろ衝撃である。なるほど、あの姑・清の行動にリアリティがあるのはそのためか。清の役柄を完璧に理解してこその発言である。プロとしかいいようがない。おしんの娘が死産した際、ほぼ同時に出産した娘・篤子には乳が出なかった。困った清はおしんの乳をもらえないかと頼む。清は授乳するおしんの姿に慈母観音をみる思いだと感動し、死産した娘に愛と名付けていたことを知った清は、自分の孫に愛という名前をもらうことにした。もとはと言えば、おしんの死産は田倉家での嫁としての過酷な日々により体力が奪われていた結果である。自分の孫に愛と名付ける姑の無神経さもさることながら、こんなところにいたら殺されてしまうという思いがおしんの東京行きを決意させた。その際、一粒種の息子・雄を清の手から盗み取って、自立しようと家出するおしんを手助けしてくれたのは、田倉家長男の嫁・恒子。恐らく当時の日本全国の農家の嫁たち(視聴者)は恒子の行動に大きな共感をもっただろう。誰しもおしんのように行動はできない。つらくても長男の嫁として根を張って生きてゆくしかない。真の意味で辛抱する女は恒子である。
これは半分は正しいが、半分間違っている。確かにおしんは、9歳から16歳にかけての酒田の米問屋・加賀屋で奉公した際、大奥様から見込まれ、お茶や料理、裁縫などありとあらゆる花嫁修業のみならず帳簿の分析の仕方など商いのイロハを徹底的に仕込まれた。これは加賀屋を継ぐことになる孫娘加代が商売に何ら関心がなく、将来とても加賀屋を任せられない不安から、加代をバックアップしてくれる存在としておしんに期待していたからである。
しかし、全編通してみると、おしんの才覚はむしろ夫の事業や息子の事業をサポートするために発揮されていることがわかる。10代の頃に加賀屋奉公時代に培った経験は、のちに田倉商会の旦那と結婚し、田倉商店を支えようとするときに力を発揮する。帳簿をみて夫の田倉竜三の経営能力の弱さを見抜いたおしんは、そのを不安を源じいと相談する場面がある。源じいは佐賀の本家から三男・竜三のお目付け役として東京で同居していた使用人である。夢ばかり膨らみがちな竜三の経営には源じいもハラハラしており、おしんの商才を見抜いていた源じいは、おしんが竜三坊ちゃんを支えてくれるものと安心していた。しかし竜三は甘く世間知らずだった。田倉商店は詐欺にあい、あっけなく倒産してしまう。
田倉の再起をかけておしんは自ら稼ぐことを考えた。おしんは手先も器用だった。17で上京した当時、日本髪に弟子入りした経験から、出前の洋髪を始めるとたちまち客がついた。一方、竜三は堕落した。会社員の月給の何倍も稼ぐようになったおしんをしり目に、竜三はカフェを飲み歩く日々。完全に髪結いの亭主化してしまう。日本髪のお師匠さんに相談すると離婚してしまえと助言を受けるが、ここでおしんのとった行動がすごい。夫を再起させるために、自ら稼ぐことをやめてしまうのである。おしんが働くのをやめ、ついに貯金がつき、明日の米を買うお金も無くなった。お金が尽きたとお師匠さんに報告した際にいったタカの言葉「ダメは男はどこまでいってもダメなんだよ」は自分の胸に突き刺さっていたい。どん底を理解した竜三はプライドを捨て勤め人として働きだす。それからのおしんは、再び商売を始める竜三に対して、どんなに商売にセンスがなくても温かい目で見守ることにした。先行きに不安でも、それを表には出さずヨイショを欠かさなかった。夫と一緒ならどんな苦労でもすると明るく振舞う。黙って俺についてくればいいんだと竜三に言わせることで、おしんは夫の背中を押していた。やがて子供服の需要に目をつけ、竜三は工場建設に乗り出すも、関東大震災で多額の投資をした工場は瓦解、田倉商店の夢も泡と消えた。失意の竜三は佐賀に帰ろうと言い出す。そもそも三男坊である竜三は実家の資金で東京で事業を始め、失敗し、夢破れて、太い実家をあてにして舞い戻ってしまうような根性なしだった。前述のおしんの佐賀地獄はここから始まる。
それから数年、佐賀地獄から幼い息子を連れて脱出したおしんは、東京、山形と転々とし、最終的に伊勢に落ち着き、魚屋として地道に商売をする日々が続いた。いずれ夫と家族ともに暮らせる日を夢見て。最初の3年は一人で魚屋を切り盛りしていたおしんっだったが、夫の竜三からは手紙を出せどなしのつぶて。そんな折、有明海干拓の夢破れた竜三が、満州で一旗揚げると別れの挨拶にひょっこり伊勢に現れた。渾身のタックルで、逃げようとする竜三をつかまえるおしんの演技は、天才女優・田中裕子のすごさがわかるシーンである。竜三は自分には甲斐性がないことを承知していた。おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘っていたのである。しかしおしんには会いたい。干拓の夢破れた自分を恥じて、おしんに顔を向けられない。おしんに見つかった途端に逃げ出してしまう竜三。そんな旦那にしがみついて、プライドを捨てて魚屋から一緒にやり直そうと説得するおしんの行動には、ある意味、全篇通して変わらないおしんの本質がある。田中裕子の猛烈なタックルをみるだけでも「おしん」を見る価値がある。マイベストシーンといってもいい。
やがて伊勢に根付いて20年が経ち、この伊勢の小さな魚屋を軍部お抱え業者としての水産加工工場にまで事業拡大させたのは竜三の手腕である。
竜三と長男・雄を戦争で失い、おしんはもう一度魚屋として再出発する。魚屋を手伝い始めたおしんの息子たちはやがて魚屋をアメリカ式のレジを導入したセルフサービスの店に転換しようと奮闘する。それがのちのたのくらスーパーの出発点となった。今日ではどんな店でも当たり前のレジによる精算が当時は画期的な仕組みだったというのも興味深い。それまでは品物の中央に座りザルをぶら下げて、商品の受け渡しと代金の受け取りをするのが一般的だったのである。
魚屋として地域に根差し、身の丈に合った商売をしたかったおしんは当初は反対していたくらいであり、事業の原動力となったのは次男の仁である。おしんは夢ふくらむ仁の行動に不安を覚えつつも、その後の事業拡大を支えていたのは間違いなくおしんであった。しかし、情熱をもって会社をリードしていたのはおしんというより次男の仁であったというのは間違いない。
こうしてみてくると、おしんは実業家として全く野望を持っておらず、本心は堅実に地域に根付いた商売をしたかっただけである。
極貧の小作の娘から、女一代でスーパー16店舗をかまえる地域の実業家になった、というのは筋としては間違ってはいない。しかし、大正、戦前、戦後とその時代時代でおしんがしてきたことは、成功しようと夢見みて危険なかけにでる夫や息子の行動を冷静に分析し、正しく軌道修正しようとすることであった。事業拡大をしようと竜三や仁がいうとき、おしんはいつも反対してきた。これまで大切にしてくださったお客様など義理人情を捨ててまで商売をしようという考えはおしんには全くない、ある意味とても保守的な人間であり、実業家によくある野心家では全くなかった。野心家は夫の竜三であり、その血を引いた次男の仁のほうだった。
もちろん、おしんにはおしんの商売に対する信念があった。それは人のつながりを大切にすることであり、恩を大切にすることである。おしんは昔から自分を育ててくれたり支援してくれた人たちへの恩を忘れず、いつでも義理と人情に生きようとする人なのである。
大正時代に縫製工場を拡大したときも、従業員をこき使おうとする竜三に、社員の健康、福利厚生の大切さを説いていたおしん。ここにはかつて製糸工場で結核になったおしんの姉・はるが使い捨て同然に実家に戻され亡くなった経験がにじみ出ている。伊勢で魚屋の店舗を構えることになったときもおしんはお世話になったお客様を忘れず、なかなか行商をやめようとはしなかった。
またおしんをめぐる当時の関係人物にはそれぞれやはり、一宿一飯の恩義という観念がつよく働いていた。それを象徴するのが、息子・雄の戦友である川村である。雄は南方戦線で亡くなってしまうが川村は戦友に報いるために自分が取得した駅前の土地を田倉家に譲渡するという行動に出る。そしてなんといってもおしんの人生最大の恩人は16歳のときの初恋の相手・浩太である。浩太にとってもおしんは恩人であり、かつ激動の時代を共にしてきた戦友のような存在だった。
おしんの物語は、事業家としての成功の一代記というより、ひとの縁と恩を大切にする人生観がより胸に迫ってくる物語である。いってしまえば浪花節である。いやそもそも成功などせず、ほぼ失敗して物語は終盤に向かう。その失敗についても、その救済についてもいろいろと誤解していたことがわかった。
もともとリズと青い鳥とか好きだし山田尚子さんの新作まあ行くかくらいの気持ちで予告を見たところ、“天然そうな主人公がサブカルバンドやろうぜ的なノリで音楽やって結局青春やってライブとかなんだかんだ上手くいく的なよくあるお話ね”、と別に気乗りもせず、SNSでも“話がない”などと書かれているのを見て、ルックバックを映画でみた時くらいいまいち乗り切れない気持ちになったらどうしようと心配していたのですが、開始10分後にはその心配は見事に打ち砕かれ、言語化できない感情の波を視覚的に示されつづけたことによって私は目から水を流し続けるただの機械となりました。人に感情を強制的に感じさせる機能を備えた映画ってすごくないですか?それなのに、あまりにも予告編で得られる情報と実際の映画の良さが違いすぎて皆さんに伝わらないので広告を書かせていただきます。
まず、予告ですが、予告だけ見ると全く面白そうな映画に感じません。予告が面白くないのは、たしかにこの映画に話という話がなく、予告として周知すべき展開がないため、日本の映画広告で求められるストーリー性(タイムスリップして女子高生が特攻隊に恋をした、など)が薄いからなのでしょうね。
そもそもこの映画には、人間の”視覚化された感情”とそれを表現するためのモチーフの連続だけがあります。なので、予告というシステムでシーンをピックアップして繋げることで良さを伝えるのは無理なのかもしれません。
この映画を端的に説明しようとすると、他人のことが色で見える主人公が、いろいろ事情のある同級生と一緒に困難を乗り越えて青春とか恋とかありながら成長する物語って感じになってしまい、正直「薄っ!」ありきたりすぎて、色が見える=共感覚とかなに、中二病?って思ってるしまうんだけど、正直話とか設定とかキャラクターとかもう全部あんま関係ないんですよ。多分この映画、監督もインタビューで言ってたのでそうだと思うんですけど、人(特に若い)の感情を描こうと思ったということだったので、色が見える(共感覚?)という設定は、映像という媒体の中で感情表現をできる限り視覚化することで、表現したい感情の概念を観ているみんな(余す所なくみんな)にわかりやすくするため便宜上そうしてるだけなのだと思います。なので、みていて中二病とかイタイなとか感じる場面は(私はそういうのを感じやすいほうですが)ほとんどなかったですね。なので、話とかそういうのじゃなくて、ただ、若くて未熟(いや、成熟しているといえる人間などいるのか?)な人間の内面を眺めに行くと考えてこの映画に臨んでもらえると受け入れやすいのではと思います。
主人公のこと、ほんわか系とか不思議系とか天然とかってまあ一般的には表される雰囲気なので、予告見てそれがちょっと抵抗感に繋がったという人もいるんじゃないかと思うんですね。ただ、この映画の中ではとにかくその人が外から見られたときにどう見えるかってことは全く関係なく、常にその人の内面が見えるように設計されているのです。例えば一般的にどんな天然でほんわかしている女でも家では彼氏や夫と普通にエロいセックスしていたり、普通にいい生活してる人に嫉妬したり人を見下したりすることがあるように(本作の中ではそういう描写はありませんが)、この映画の主人公も外からみたらほんわか天然ふわふわ系なんだけど、普通に普通の人間として思考していて、それが当たり前のように表現されていて、その人間のグロさがリアルでよかったです。
エイリアンロムルスはすごく良かったです。おすすめ。公開初日なのでネタバレしません。
それはともかく、見ていてふと、思ったことがあったんです。
スタートレックの話。
スタートレックは長寿SFで1番人気があるのは初代よりむしろ2作目の新スタートレック(TNG)で、1番人気があったキャラはデータ少佐というアンドロイドのキャラクターでした。
データは端的に言うとオズの魔法使いの人間になりたいブリキ人形です。スタートレック世界でもデータのようなアンドロイドがたくさんいるわけではなく、彼はイレギュラーな存在で、周りも戸惑いはしますが、そのトンチンカンさを愛し、有能さを認め、彼が彼であるままを受け入れている、そういうキャラでした。
シリーズが終わったあとの映画で、データにはついに感情チップが搭載され、データはついに人間の感情を理解し、戸惑いはしたのですが望んだ「人間」になることができました。ヨカッタネ。
これに当時子供だった私は猛烈にガッカリし、腹を立て、何か自分の大事にしてきたものを壊されたような気がして失望しました。
その時はうまく整理できなかったんですが、今日ふと思ったんです。データって、今風に言うと、ニューロダイバーシティの体現みたいなキャラだったのに、そしてそのありのままが受け入れられている姿を描いていたのに、無理くりに「定型の人間」にさせられてしまって、それをハッピーエンドとしたことが私は悲しかったんだなと。
もちろん「レインマン」とかわかりやすい作品はあると思いますが、明らかにニューロダイバージェント、もっと言うとすごくASD的なキャラクターが普通に出てきてでも悪役ではなくて、「こういう人もいるよね」とキャラとして受け入れられていて立ってる作品というとシャーロックあたりからかなと思います。その前は、人間は人間らしく、感情をたっぷり描くキャラが正しくて、そうじゃない「サイコパス」的なキャラは出てきても、理解のできないおかしな悪役が多かったと思います。(シャーロックの後はハンニバルのウィル・グラハムとかちょっと普通じゃないけど社会に生きていて、こういう人もいるよねという作品も増えましたね)
子供の頃の私はデータに感情移入していたんだと思います。多くの、定型じゃないSFオタクたちもみんなどこかしらそうだった気がします。(TNGには、socially awkwardなオタクの心を無茶苦茶に傷つけるようなレジナルドバークレーというキャラもいますが、それは置いといて。)だから、socially awkwardでもいいんだよ、社会は受け入れてくれるよっていうデータのことを、彼の幸せを、製作陣がぶち壊してしまったのが悲しかったんだなと30数年越しに思いました。
最近、生活していて辛いことが増えたんだけど、それ以来、社会問題や知識ネタ、著名人のあれこれなんかより、名も無き人々の喜びや苦悶の話の方が摂取したい欲求が強くなった。
今は辛いことばかりだけど生きていたら良くも悪くも色々なことがあるという変化の可能性を、他人を通して感じたいからだろうか?
もうすっかり忘れてしまったけど、あれはコツがあるんだよ
少なくとも、自分が現役だった頃はあった
理屈とかルールがあって、それを覚えることで複数パターンの問題に対応できる
他人に教えるのがうまくなるのは、試験受けた後が最高潮なんだよな
そのあとはすべてすっかり忘れてしまう…😟
コンピューターがパラーメーターを判定して「はい、あなた合格です」とか「あなたたちは条件が合致しているので結婚しなさい」とか決めるわけじゃないんだから、目の前の人間楽しませる事に全振りしろよ。
なんのアドバイスもできないのだけど、似たような弟を持つ者として。
他人のことは変えられないし、身内じゃなかったらとっくに距離置いてるような人でも、血が繋がってたら簡単に離れられないからキツイよね。
うちの弟もどれだけ親が甘やかさず話をしても、
通院しても、その他支援機関に頼っても根本的には何も変わってない。
暗い考えだけも、なんかそういう人って一定の割合で世の中にいるのかな…とか思ってしまう。
もちろん増田弟がそうなるとは自分にはいえないし、何か解決に向かう道があることを祈ってるけど。
1つ思ったのは、増田の弟さんはまだ若いし、学校っていう環境が合わないだけの可能性はあるかも。
職業訓練とか、バイトとか弟さんが打ち込めて自立に繋がりそうなものが何かあるといいね。
自語りで申し訳ないけど、うちの場合弟はもういい大人なのでどうなろうと本人の責任だと思うけど、追い詰められて自殺したり、犯罪を犯すようなことになったら親がさぞ悲しむだろうなと思うとそのことだけがつらい。
うちの親の教育が完璧だったとはいえないのかもしれないけど、同じ家庭環境で育った者としてうちの親はそういう悲しみを味わわなければいけないほどの悪いことはしてないと思うから(他人が聞いたら身内びいきと言われるかもだけど)。
「親AIの親玉の法学者がAI訴訟で追い詰められた結果、反AIをブロックしまくって逃亡している!」みたいな言っちゃってて、しかも対象の人名すら正確に書けないレベルで、知性の欠片も感じられない。
別に権利にひれ伏せと言わないし、学者と言えど利益の為にポジョショントークもするから学者が無条件で正しいは言わないし、それが難癖レベルでの突っかかりでも最終的には建設的な意見交換に繋がる確率は限りなくゼロに近くとも完全にゼロではないからやるなとも言わないけど、喧嘩を売る相手の名前くらい正確に書けよ…。
ましてや相手はそんじゃそこらのゴミカスAI絵師()ではなく、著作権問題で多方面で最前線で殴り合いをしてきた百戦錬磨の言論武闘派のバケモノだぞ。
そんなバケモノ相手に「著作権侵害は手段ではなく、結果で、各事案ごとに、個別に、判断される非親告罪」と言う、基本のキですら理解を拒み「AIは無条件で著作権侵害」との自説とゴリ押ししようとような奴らが、相手の名前すら正確に書けないまま突撃して言ったところで相手して貰えるとなんで思えるんだよ…。
前も愚痴を書いた。
普段は自我を出さずかわいい絵ばかりを書いているが、今日の吉田のレターで悲しくなったからこのエントリーを書いている。
グラアプデは正直すごく嫌だった。
好きなミニオンは荒いままだし、自分のキャラの顔は違うし、愚痴を言っても分かってもらえない。
現状で満足しているフォロワーが愚痴っている別のフォロワーを叩いているのを見ていやな気持ちになったこともある。
アウラの男性を使っているのだが、目はつり上がり眉下は真っ黒。
肌はガサガサになり、唇はたらこ唇になった。
確実に違う誰かを自分のキャラクターとして押し付けられて、キャラクターに愛着もあるから離れられない。
私はフォーラムには一貫して「パーツを増やせ、今のを気に入っている人もいる」と書き込んできた。
フィードバックはしてきたが、グラアプデが来てから2ヵ月、現状から変えると同じ思いをしてしまう人が出るというのは私の望むところではないからだ。
正直失望している。
FF14には色んなことで時間を使ってきたし楽しませてもらってきた。
でも最近は失望しっぱなしで、信用貯金がなくなってきているのを感じる。
ストーリーもちぐはぐだった。
いつかまた心置きなく楽しめる日がくるのだろうか。
話題的に綺麗な話じゃない。でも表で誰にも言えないから吐き捨てついでに
とある小説で、毎日食後に必ず出す息子の話を読んで、そんな人がいるのかと子供ながらに驚いた。
それぐらい出ない。体感三日に一回ぐらい。
あまりにもひどい便秘だから、大人になって出たか出ないかでログ付けてた。
一年以上付けてたけど、ひどいと週一で出してる時があった。ほんとひどい。
小食でもなく、人並みに食べてるのに本当に出ない。
学生時代は冬にお味噌汁を飲んで家を出ると、学校に着く頃にはお腹を壊していた。
一度腹部をレントゲンで撮ったことがある。それは体育の授業中勢いのあるボールがお腹に当たって、痛かったため異常がないか見るためだった。
その時にパンパンの腸を指差して医者が「ボールが当たったからじゃなくてコレが原因では?」と言った。
女子の先生が引率してくれたけど、先生も似た意見を言った。とても恥ずかしかった覚えがある。
下っ腹が出ているタイプなので気にはなっていたけど何も出来なかった。
癖になるからと薬に手を出すことはなかったけど、少し前に薬にも手を出した。
でも量の調整が難しく、出る時間も不規則で家に一日いる日じゃないと飲めなかった。
つい最近、転職をした。出社をするため、朝ご飯をヨーグルトにした。
それまでは規則正しく朝食を摂っていたけど、手を抜いた時でもヨーグルトは食べてなかった。
でもそれが、毎日大体同じ時間に、そう多くはないけどヨーグルトを食べた。
そうしたら毎日出るようになった。快調である。しかも大体似たような時間に出るのだ。
びっくりした。連続三日も出たら私にとっては快挙だった。それがどうだろう。かなり出るようになった。
しかも形態も良い。これまでウサギとかが出すようなコロコロしたものが多かったのに、いわゆる「健康的」なものが出るように。
とは言え出ない日もあるし、形態も微妙なものが出ることもある。
毎日少量でも食べるのが大事だと気付いたので、しばらくは毎朝ヨーグルトを食べようと思う。
人によって相性があると思うけど、毎朝ヨーグルト。良ければ試して欲しい。
今の「はてなブックマーク」、なんだかガルちゃん+2ch+ヤフコメが悪魔合体したみてえじゃねえかよ
そんでもって発言小町残党っぽいのや嫌儲残党みたいなのがたくさんいる
もしかしてここが俺が望んでいた女も男も右も左も殴り合う理想郷ってやつか…?
でも俺はまだ求めます。そろそろ「はてなブログ」に戦いの場を移しませんか?
100文字で殴り合うのもいいですがパンチが、暴力が足りないですよね?
お手軽にバトルするのが魅力的だというのはわかります。しかし100文字じゃ気持ちがいいバトルっていうのはできない。
クソナガ文章を送り合ってこそ友情ってやつが芽生えるんだよ。100文字で殴り合ってちゃなんにもならねえ。
いいか?「はてなブログ」をやれ。ブコメでID名指しするならブログで記事をかけ。名指しされたらブログを書け。
増田でセルクマするならブログを書け。「書きました!」じゃねえ。ブログで書け。
「長いから読むのやめた」じゃねえ、読め。読まないやつがこんなブコメをつけること自体が恥だと思え。読め。
ブクマカやりすぎて100文字しか読めねえならブログを読め。良いから10倍読めるようになれ。
書け。日常でもなんでもいいから書け。駄文でもいいから書け。書いてお前が何者か、示せ。
はてなのプロフィールにブログアイコンがないブクマカ、開設しろ。開設して書いて、少しでも良いから開示しろ。人間だと思わせてくれ。
月1でもなんでも良いから書け。おれはこのぐらいの頻度で書いている。日常やら愚痴やらなんやらを。クソしょうもねえ。アクセス数も一桁。でもおれは書く。