はてなキーワード: 文学的とは
「処女航海(maiden voyage)」「処女作(maiden work)」といった言葉に苦言を呈するフェミの方々が現れると、決まって「『船』や『ペン』が女性名詞だから『処女』が付くだけなのにそんなことも知らないのか」と得意げに反論をする人たちが出てくるのだが、はたしてこの「女性名詞説」は本当に正しいのだろうか。
Etymology
From Middle English mayden, meiden, from Old English mæġden (“maiden, virgin, girl, maid, servant”), diminutive of mæġþ, mæġeþ (“maiden, virgin, girl, woman, wife”) via diminutive suffix -en, from Proto-West Germanic magaþ, from Proto-Germanic magaþs (“maid, virgin”). Equivalent to maid + -en.
中世英語の「mayden」「meiden」は、古英語「mæġden」(「未婚の若い女性」「処女」「少女」「女中」「召使い」)に由来し、それは「mæġþ」「mæġeþ」に指小語尾「-en」がついた指小辞であり、それは西ゲルマン祖語の「magaþ」に由来し、さらにはゲルマン祖語の「magaþs」にまで遡る。「maid + -en」に相当する。
maiden (adj.)
c. 1300, "virgin, unmarried," from maiden (n.). The figurative sense of "new, fresh, untried; first" (as in maiden voyage) is by 1550s. In horse-racing (1760) it denotes young horses that have never run before.
13世紀。「処女の」「未婚の」。maiden(名詞)から。1550年代には「新しい・新鮮な・試されていない・最初の」という比喩的な意味(「処女航海」のように)で使われるようになった。競馬では(1760年)一度も走ったことのない若い馬を表す。
つまり、古英語(5世紀から12世紀ごろ)からあった「maiden(処女)」という名詞が、13世紀ごろに「maiden(処女の)」という形容詞としても使われるようになり、さらに1550年代になって比喩的に「maiden(最初の)」といった意味の形容詞としても使われるようになった、ということだ。
そして、古英語のころにはあった男性名詞・女性名詞の区別が、中世英語(11世紀から15世紀ごろ)では失われていることから考えると、1550年代に生まれた「『最初の』という意味の形容詞maiden」が女性名詞にしか使えなかったとは考えにくいだろう。
当たり前の話だが、同じ意味の単語でも、それが男性名詞か女性名詞かは、言語によってバラバラである。英語「ship」と独語「schiff」は共にゲルマン祖語に由来するようだが、どちらも中性名詞である。仏語「navire」と伊語「nave」はどちらも羅語「navis」に由来しているのだろうが、ラテン語とイタリア語では女性名詞なのに、フランス語では男性名詞となっている。
女性名詞説の人たちはしばしば「『船』はラテン語で女性名詞だったから」などと言うのだが、仮に英語の「maiden」が女性名詞に付くとしても、なぜ古英語などではなく、いきなりラテン語が基準になるのだろうか。「maidenは女性名詞に付く」という結論ありきで、「船」を女性名詞とする言語を探してきているだけではないのか。
女性名詞説の「処女作は『ペン』が女性名詞だから」というのもおかしな話で、普通に考えれば「作品」や「本」が女性名詞かどうかを考えるべきだろうに、なぜ「ペン」を持ち出してくるのかといえば、ラテン語で「ペン」が女性名詞だったことを探してきたからだろう。
女性名詞説の人たちがもうひとつ頼みとするのが「英語でも船をsheと呼ぶ」ということである。つまり「船をsheと呼ぶのは船が女性名詞だったことの名残である」というのである。
これについては以下のページに詳しい。
これは古英語にあった文法性とは無関係です.乗り物や国名を女性代名詞で受ける英語の慣習は中英語期以降に発生した比較的新しい「擬人性」というべきものであり,古英語にあった「文法性」とは直接的な関係はありません.そもそも「船」を表わす古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞でしたし,bāt (= boat) にしても男性名詞でした.古英語期の後に続く中英語期の文化的・文学的な伝統に基づく,新たな種類のジェンダー付与といってよいでしょう.
「OED によると船を受ける代名詞としての she の初例は1375年である」らしいが、最初にも述べたとおり、英語に男性名詞・女性名詞の区別が残っていたのは古英語(5世紀から12世紀ごろ)までである。また、これも先述のとおりだが「古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞」というのだから、女性名詞説の人たちの主張はまったくの誤りということになるだろう。
1. 英語の「maiden」は、そのあとを受ける名詞が男性名詞か女性名詞かに関係なく、「新しい」「最初の」という意味の形容詞として使われている。
2. その「新しい」「最初の」という形容詞としての用法が生まれたのは、英語から男性名詞・女性名詞の区別が失われた後のことである。
23億枚。
この事実を聞いて、
「人間にそんなに多くの絵を見ることは不可能だ。やはり人間は人工知能に勝つことはできない」
でも、こう考えてみてはどうだろうか。
人間は1秒間に数十枚の画像を、起きているほとんどの間認識している。
1日に16時間、秒間60枚の画像を認識していると仮定すると、
20年間で60*60*60*16*365*20 = 25228800000枚…約252億枚の画像が脳に刻み込まれていることになる。
もちろんその中にはほとんど同じ景色であるようなものも含まれているが、
それを考慮しても人工知能の特権(と、一般的に思われている)である膨大な量の学習に
遜色ない量をすでに私達は学習していると言えるのではないだろうか。
それに加えて私達は、視覚情報以外にも、聴覚、触覚といった他の感覚器官、
そこから得た情報の歴史的価値や文学的な表現といった形而上的な概念を学習している。
機械学習においてこうした複数の種類の情報を統合して学習することは1種類の学習よりも遥かに難易度が高く、
多くの研究者を悩ませている。
だがどうだろう?
我々はすでにそのような、様々な感覚から学習し、それらを統合する技術を既に身に着けているではないか!
そして、視覚情報と同様にそれらも常に変化し続けてきたものを我々は学習する。
視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感、温度や痛覚などのその他の感覚、さらにそれらの持つ意味…
これらの相互に繋がった数百億、数千億の情報を我々は「体験」する。
ただバラバラの情報ではなく、それらの繋がりさえも学習し、記憶する。
さらに人間の優れた能力として、我々は他人の体験を「追体験」することができる。
個人から離れた異質の経験は、既存の情報に新しい繋がりを提供する。
この魔法が、人々に全く新しい情熱や感嘆や絶望や感動――私達の心の動きの全て――を生み出す源なのである。
そして、これが最も重要な点であるが、上で述べた学習内容は、「人によって異なる」のである。
誰に育てられ、どの学校に通い、どんな友達と遊び、何を食べ、…
そして小さな経験の違いが脳に影響を与え、行動に影響を与え、その結果異なる事象を経験し、異なる反応をし、さらに異なる事象が生まれる…
まとめ。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは本当に正しい(フェア、公平な)やり方なのでしょうか。以下のように考察してみました。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
いずれも、発言した人とはまた別の人たちが、揚げ足を取る形で批判をしています。発言した内容そのものではなく、その発言の「裏を返す」ことによって新しい発言を生み出し、それを実際には発言したものだとして批判しています。
高校数学I・Aでは、論理学(命題・真偽・逆・裏・対偶)を学びますが、命題の裏を返すとはどのようなことなのかについては、高校数学を修めた人ならば理解できているはずです。念の為に復習しておきましょう。
ある人が「ナイトは硬い」(もしXがナイトならば、Xは硬い)という主張をしたとして、考えてみましょう。
この命題をシンプルに書けば、「ナイト→硬い」となり、ある人はこの命題が真であると主張しているわけですね。
まずはこの命題の逆を作ってみましょう。矢印の前後を入れ替えることになります。「硬い→ナイト」となり、「もしXが硬いならば、そのXはナイト」を意味します。
また、元の命題の裏を作ってみましょう。矢印の前後の言葉をそれぞれ否定します。「ナイトじゃない→硬くない」となり、「もしXがナイト以外ならば、Xは硬くない」となります。
最後に、元の命題を裏にして逆にしましょう(逆にして裏にしても良い)。「硬くない→ナイトじゃない」となり、「もしXが硬くないならば、ナイトじゃない」となります。
論理学においては、対偶関係にある命題の真偽が一致することが知られています。たとえば元の命題「ナイト→硬い」が真であるならばその待遇である「硬くない→ナイトじゃない」も真であることがわかっています。数学ではこの性質を利用した対偶論法を使って証明が行われる場合もあります。
またもう一つの特徴として、元の命題の裏や逆の命題は、元の命題から真偽を判断できないことがわかっています。つまり、元の命題が真だからと言って、その命題の裏や逆の命題は真であるとは限りません。つまり別の情報を導入しなくてはもとの命題の裏や逆は、真偽が定まらないのです。
そのため、ある人が「ナイト→硬い」(真)を主張したとき、対偶の性質を用いて論理的には「硬くないのは→ナイトじゃない」(真)を主張したことになります。しかし、逆である「硬い→ナイト」や裏である「ナイトじゃない→硬くない」の真偽についてその人は言及していませんし、情報が不足しているので、その真偽を論理的にも導出できません。
なお情報不足については、裏・逆・対偶以外の操作をした場合も同様のことがいえます。たとえば矢印の前側だけ否定する「ナイトじゃない→硬い」などなど。
以上を再度まとめます。「対偶関係にある命題の真偽が一致する」のですが、それ以外の操作によって作られた命題の真偽はわからないのです。
つまり論理的に考えれば、ある人がとある命題が真(偽)であると主張したとき、その命題自身の真偽やその対偶命題の真偽を批判することは問題ないのですが、それ以外の操作をして生み出した新しい命題をその人の主張として批判するのは完全に的外れとなります。だって、その人はそんな主張をしてないんですから。
言い換えると、「A→B」(真)という主張をした人に対して、「A→B」「〜B→〜A」の真偽について議論をしかけることは問題ありません。様々な証拠を持ち出すなどして論破してやりましょう。
しかし、その人が言っていない逆「B→A」、裏「〜A→〜B」、それ以外の「〜A→B」「A→〜B」・・・などなどを勝手に作り出し、その人が言ったとして議論をしかけるのはおかしいなことですよね。論破以前に、その人はそんなこと言ってないんですから議論が噛み合うはずがありません。むしろその人からすればただのイチャモンですよね。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
教師の主張は「自子→愛す」(真)なので、その裏である「自子じゃない→愛さない」なんて主張してもいなければ意識すらしていませんよね。そんな言ってもないことを捏造されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、自分の子と同様ではないかもしれませんが、先生として教え子を愛することは普通にありえることですし、この教師も両方の愛し方を同時に行っているのかもしれません。(なお、本当にそうかはわからない。あくまで未定)
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
BLM支持者の主張は「黒人命→大切」です。その裏である「黒人命じゃない→大切じゃない」は主張していませんし意識すらしていません。言ってもないことを捏造して批判されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、黒人の命は大切だし、それ以前に黒人であるかどうかに関わらず人の命は大切であるというのが普通の考えですよね。どう考えても揚げ足取り(しかもエア揚げ足)です。
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
弔辞におけるありきたりな表現なので、これを主張しているというのはかなりずれているような気もしますが、「いのちを失ってはならない人→存在する」という主張と今回はあえてみなしましょう。
批判者は「いのちを失ってはいけない人ではない→存在する」であると拡大解釈して批判しています。でもこれは、裏でも逆でもないしもちろん対偶でもありませんね。そんな無茶苦茶な操作によって作った命題を、主張したものとして批判するのはさすがイチャモンが過ぎます。まったく論理的ではありません。裏ですらないんですから。
裏や逆の操作を使って特定の命題から新しい命題を増やし、話題を広げるのは日常的によくやることです。
日本語の「裏を返せば」「逆に言えば」は、無理筋な強弁へと通じることもあるから注意しないといけません。もちろんその強弁を面白さとして昇華させる文学的なテクニックもありますが、かなり高度なテクニックですよね。
自著において自分の主張を展開するときに裏逆などを使うのは自己責任だから良いけれど、他人の主張の「裏」「逆」をとってそれを主張したものとして議論するのは避けるべきです。
たとえば自著で自説を書くはじまりに、「現代は情報化社会であることは衆目一致するところであろう。だが裏を返せば現代以前は情報化社会でなかったことを意味する」みたいな強引な論理展開をしたとしましょう。当然ながら命題の裏の真偽は未定なので、これは穴だらけの強弁です。この主張を正しいとするために、それ以降に様々な証拠を挙げ証明をしなくてはいけませんよね。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは全く論理的ではありませんし、言ってもいないことを勝手に捏造してまくし立ててくるのは、議論のやり方としてフェア(公平)ではありません。
そのような論法を使ってくる人がいたら厳重に注意しましょう。また自分でも「裏・逆の非論理性の罠」に引っかかって批判のロジックを組み立ててしまわないように注意しましょう。
今後、「裏を返せば」「逆に言えば」という論法で、言ってもいないことを言ったこととして一方的に批判をしてくる人が出てきたらこう返すと良いでしょう。
「私の主張を勝手に裏にしたり逆にしないでください。それは私の主張ではなくあなたの主張ですよね。もっと論理的な批判をお願いします」
「その文書の地域で何が起こっているのか?文書は人々からどのように受け止められているのか?文書の何が神経を逆なでするのか」について分析するという話を聞いたことがある。「文学的インフラ」とは、文学を資源として活用し、たとえば何らかの現象を予測するといった発想だ。物理現象を予測できないかもしれなが、社会現象ならどうか。
こういうものを評価してテキストのリスクを判別するというプロジェクトに聞き覚えがある。ユルゲン・ヴェルトハイマーという人は「作家は、読者が即座に世界を想像し、その中に自分自身を認識できるような方法で現実を表現する」と述べている。
例えば、以下のアルジェリアの例がある。
何が言いたいかというと、増田コーパスを使えば何かしらの社会現象の予兆を見つけることができるのではないか、ということ。
確かに「時間、場所、事象を非常に具体的なレベルで予測」となると不可能かもしれないが、「特定の政党の支持率」「どのような哲学主義が好まれているか」「どの国との関係性が良かったり悪かったりするのか」「自殺率が増加するのか減少するのか、凶悪犯罪はどうか」「博士課程に対する社会の許容度はどうか」といった大雑把なレベルなら予測できることがあるのではないか。
題名の通り、他人の解釈が怖くなった。漫画とかアニメとか映画とか小説とか、そういうのを読んだ後に他の人の感想とか反応を見たりするのが好きで、アニメなんかも2周目は感想付き(アニメをリアルタイムに実況するやつ)をよく見る。普通の感想だったらまだいいけど、表現とか、描写とかに筋道立てて作者の意思とか何を表現したかったのか、といった風な考察とか解釈が怖い。現代文の答え合わせをしているようで、とても怖い。文学的要素、というか行間を読むような作品とか。具体例を出すとシャニマスのような作品。趣味の範囲内なんだし個人で楽しめばいいというのはもちろん分かるけどそういう他人の解釈が自分が思った事と違うと、とても悲しい。間違いじゃないと分かっていても、そっちの方が確かに正しいなってなって。自分はなんて浅いんだろう。これで好き、なんて言えるのかとか。けれど見ずにはいられない。自分の「好き」が正しい好きかどうか確かめなくちゃいけないから。ここまで書いてみて自分の自己肯定感の無さを感じるなーとか、他人からどう見られてるか気にしすぎじゃない?とか思った。SNS、やめた方がいいのかも。分からないけど
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
注目エントリに前川の名があったもんで思い出した(内容は全然関係ないよ)大学の友人が住んでたので時たまに行ってた。前川喜平さん自体は関わりは多分ないんだけど、かなり特殊な寮だったのでまあ思い出話ってことで。
なんで前川?って思うかもだけど敷地のど真ん中に創設者ってことで前川喜作って人の銅像が立ってる。前川製作所の創業者で前川喜平の祖父にあたる人らしい。
立地は早稲田大学のそばで、田中角栄邸が隣にある。東京の超一等地に急に鬱蒼と茂った森が出てきて度肝抜かれた記憶。理系の俺でもひしひしと文学的な趣きが感じられるんだけど、実際に村上春樹が「ノルウェイの森」の舞台にしてたらしい。早稲田の側だけど住んでる人は大学生ならどこでも良いっぽかった(名簿が貼ってあったけど早稲田が一番多くて、東大からFランまでみんないた)
敷地には文化財?の建物と東西南北乾巽の6つの寮があってそれぞれの寮で個性があったらしい。ただ共通してるのは体育会系ってことで上下関係がメチャクチャ厳しそうだった。新入生は徹底的にシゴかれる時期があるらしく、その時期に何人もやめてくらしい。先輩とすれ違う度に「こんにちは!」「失礼します!」って絶叫してたもんだから、なんかそういう雰囲気になって俺もやってたw
一番の特徴は大学生なのに体育祭があるってとこ。9月頃に友人と連絡が全然取れなくて、暫くぶりに会ったらムキムキになってた。なんでも1ヶ月毎日何らかの競技をやってて、集大成に騎馬戦をやるらしい。その騎馬戦を見に行ったことがあるんだけど迫力が半端ない。大将戦で帽子を取るんじゃなくて騎手を地面に叩き落とすルールだった。もちろん毎年怪我人が続出するらしいんだけど、大の男が勝利して咆哮し、負けたら号泣する真剣な姿がめちゃくちゃカッコよかった。その友人は普段イジられキャラだったんだけど、その時ばかりは惚れたw
他にも色々エピソードを聞いたけど、コンプラ的な面で割愛。まあこんな感じでかなりヘンな寮だった。もうその友人もその寮で仲良くなった人も暫く会ってないけど、元気にしてるかな。体育会ノリなんて今じゃ(というか当時から)毛嫌いされてると思うけど、みんな商社とかそういうとこ行ってたから今でも多少そのノリをやってるかもねw
好きなのでまとめた。他にもあったら、教えて。
「栞」。有名かつ一般的な名前だけど、このパターンの中で一番好き。詩を織る、という読み下しの綺麗さも勿論だが、その文学的な感じが栞にも通じているのがかなりポイント高い。あと、汐里っていう分解方法もあったりして、自由度が高い。ただ、し、お、りの三文字に分けるのは個人的にそこまで心惹かれない。
「香」。これも花という漢字と香が通じていて良い。歌織も歌織物みたいなイメージがあって好きだが、香と通じているという理由で花織を標題にあげた。夏織は字面が可愛いが上記ふたつには叶わないかな。香織は香の字そのものを使ってしまっているので個人的に好みではない。
「庵」。東屋みたいなネガティブなイメージあるかもしれないが、自分は松尾芭蕉が句を書いてるみたいな風景が浮かぶし、誰かにとって心安らぐ場所みたいな意味が込められてそうで好きな名前。
「奏」。ちょっと現代的な感じがするけど、花を撫でるという読み下しは結構かわいい。華撫もよい。奏撫とか花奏みたいな分解の仕方は個人的に好きじゃない。(分解になってない)
「岬」。これもよくある名前だけど、岬のイメージあるとちょっと違った響きに聞こえてくる。このパターンの名前ってそういうイメージの転換含めて好き。あとこの名前はイメージを合体させると、花の咲き誇る岬って感じになるのもいい。
「縁」。由香里とか優花里とか色々あるけど、この表記を見た時は恋してしまった。美しすぎ。ただまあ、ゆかりと読む名前は紫が一番好きである。
「緑」。少し古っぽく感じるか?でも好き。
「幹」。読みが二文字のやつの分解は偶然感が強くて、あんまりこのパターンとして考えてないんだけど、この名前に関しては樹と幹が通じているので良い。
「円」。これはさすがにキラキラネームだろうか?だとしたらごめん。そもそも名前として全然見かけないし。でも窓辺の花のイメージ、良すぎるんだよな。丸い窓なのかな。窓歌ってパターンもあるみたいだけど、これも窓辺で鼻歌を歌っている感じがグッドだ。
に触発されて作ってみたら全然30曲じゃ足りなかったので50曲になりました。
H2Oじゃない方。夏休みの朝、ラジオ体操から帰ってきて視聴する「らんま1/2熱闘編」。
亀田誠治が偉大すぎる。
RIP SLYMEはメンバー間で色々あったようで空中分解してしまって悲しい。
唯一無二のシンガーソングライターだと思う。
タワレコで何の気なしに視聴したら好みにドンピシャでハマった。
Aメロを家で口ずさんでいたら夫に「こわい」って言われた。
ヘッドフォンで聴いているとハヤシのHey!が右からやってくる。
コーラスワークが綺麗で清涼感がある。
盆踊りに流したい。
色気のあるベースから始まり更に色気のあるヴォーカルが乗っかる。
こういうかっこいいアニソンが量産されてほしい。
FM802のヘビーローテーションになっていたのをよく覚えている。
準新作だと気づかずに7泊8日レンタルして返却時涙目になった。
シンセサイザーの響きには近未来感を感じるけど同時に哀愁も漂っていてすごいと思う。
高校生の時付き合っていた彼氏に「この曲を歌えるようになってほしい」と言われ「無茶な」と思った。
今聴いてもサウンドのすべてがおしゃれ。
夏の終わりに聴きたい。
Salyuも唯一無二の歌声だな。サビのハモりが気持ちよすぎる。
甘酸っぱさ満点。
確か、歌詞の視点が独特なのをROCKIN' ON JAPAN誌上でツッコまれてた。
2006年のRUSH BALLのオープニングアクトで一目惚れした。
私のBUMP OF CHICKENはここから。
多幸感あふれるメロディーとストリングスと大サビの歌詞の対比が好き。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
Apple Musicで検索しながら作ったので、サブスクに入ってなくて漏れた曲がいくつかあります。
無駄に喧嘩腰であったから読んでいなかったが、今読んだので一応反論しておく。
私自身は厳密なプロライフではない。その意味で、大多数、と書いた。ほとんどの人は、厳密なプロライフでもなければ厳密なプロチョイスでもないからである。
プロチョイスの人でも二度三度四度と蓋然性が高い対策をせずに中絶を繰り返す女性には批判的であろうし、「障害を理由としての堕胎」については全面的なプロチョイスを肯定する人は少ないだろう。
私は強姦による妊娠を母体保護法の心身の危険に含めているだけである。
どうもこういう反論にもならない反論をする人が多くて困るが、この際それらも指摘しておく。
胎児を個人扱いすれば胎児に責任が問われるか。問われない。当たり前だろう。乳幼児以前の存在にいかなる法的責任が生じるのか。よほど法に疎いのか、キチガイなのかと思ったくらいである。もし損害賠償などが発生する場合であってもその責任は親である妊婦に帰せられる。男は関係ない。この対立関係は妊婦と胎児の間で発生しているからである。妊婦は、セックス相手である男性に対して補償を求め得るが、それは胎児には何の関係も無い話である。無関係の第三者に重篤な被害を及ぼしても「この私」の権益は守られなければならないとする、フェミニズムにありがちな女権優先の発想自体がファシズムなのだ。それはそれ、これはこれと切り分けられない雑な発想は、女権の名の下に下駄を履かされてきた(甘やかされて来た)からである。そのような自己中心性の高い人たちが人権の制約について語ること自体が危険だ。
ドイツでは、障碍者保護のためにダウン症検診後の中絶禁止はわざわざ後で特に加えられたのだが、ドイツでも経済条項の拡大解釈が行われ、障碍者胎児が意図的に殺されていると言う実状はある。
日本での現状についても正確に言おう。現状の中絶の99.9999%は文学的な意味ではなく本来の法的な意味においても犯罪である。母体保護法で定められた女性の心身の危機に基づくものでもなく、経済的な理由からでの中絶にも該当しないからである。私が主張するように、胎児は人間であると見なした場合、まごうことなくそれは殺人である。
どう揶揄をされようが、セックスをしなければ妊娠をしないのは事実であるし、避妊をすればかなり例外的なケース以外は妊娠を防げるのも事実である。中絶と言う人殺しをせずに済むように、最大限の努力をプロチョイス派がしていないから、より強力なカウンターが現状生じているだけである。
DER SPIEGEL:少なくとも、ノルドストリーム2の建設のためにロシアの資金で賄われる財団の設立は、今日、間違いであったとお考えでしょうか?
ショルツ:これはメクレンブルク=西ポメラニア州の政府と議会が下した決定だ。
DER SPIEGEL:あなたとアンゲラ・メルケル首相(当時)は、この決定を事前に知らされていましたね。同じ党員であるマヌエラ・シュヴェーシッヒ知事に反対を進言したのですか?
ショルツ:このような会話は、その性質上、秘密にしておかなければなりません。
DER SPIEGEL:プロジェクトに対するあなたの基本的な立場はどうでしたか?
ショルツ:私は、米国が制裁を科すだろうと予想していました。そこが私の間違いでした。
DER SPIEGEL:メクレンブルク-西ポメラニア州の調査委員会がこの問題を調査するようです。SPDは過去のロシア政策を見直す必要があるのでしょうか?
ショルツ:SPDの欧州・ロシア政策に対するこうした歪曲・中傷はアデナウアー時代からあり、私を悩ませている。SPDを際立たせているのは、ブラントとシュミットが追求した明確なデタント(緊張緩和)政策だ。鉄のカーテンが消え、東欧の多くの国々が民主主義を獲得し、そして今日、私たちがEUで団結することを可能にした政策だ。それは常に、強力な連邦軍と西側諸国との統合に依存する政策であった。それは、私が支持する伝統です。
DER SPIEGEL:シュタインマイヤーは間違いについて話している。前ブランデンブルク州知事で、最近ではドイツ・ロシアフォーラムの代表を務めるマティアス・プラッツェック氏も、プーチンについて間違っていたと述べている。どちらもSPDの政治家です。
ショルツ:メルケルさんもSPDのメンバーとしてカウントするようになったのでしょうか。
DER SPIEGEL:もし彼女がここに座っていたら、CDUのロシア政策の間違いについて同じように尋ねるでしょう。しかし、あなたは今政権を担っている。
ショルツ:それゆえ、明確な声明を出した。私は明確な進路に従っており、非常に長い間そうしてきた。また、東側の民主化を推進したからだ。大西洋横断主義者として、自分たちのことだけに目を向けるのではなく、自由な社会で民主主義に生きたいという願いは普遍的なものであることを理解することが我々の仕事である。ロシアに関しては、私は以前から批判的な声や、マーシャ・ゲッセンの著書『未来は歴史だ』のような文学的評価に感銘を受けている。全体主義がいかにしてロシアを取り戻したか "のような文学的な評価に感銘を受けてきた。その結果、ロシアは長い間、独裁への道を歩んできたという確信を持つに至った。
DER SPIEGEL:あなたは常に正しい道を知っていると主張し、自分の党の過ちとは関わりたくないと思っているようなので、一部の人々には少し傲慢に見えるということが理解できますか?
ショルツ:いいえ、そんなことはありません。しかし私は、あなたが社会民主党の政治について、ほとんどアデナウアーのように歪んだ絵を描いていること、そして、私たちが最終的に他者から主張されるような存在であると認めるよう強く主張していることを非難しているのです。社会民主党は大西洋横断同盟と西側にしっかりと固定された政党であり、そのような非難を受け入れる必要はないのです。
DER SPIEGEL:では、まったく議論をしないほうがいいということですか?
ショルツ:私はどんな議論も否定しません。今後の政策についてのあらゆる議論を支持します。しかし、議論への切符が嘘であるという考え方は否定します。
DER SPIEGEL:シュタインマイヤーが外相としての政策の一部を失敗と考えていることは、嘘ではない。
ショルツ:前外相も前首相も、どの国も他国を侵略しないようなヨーロッパの秩序を作ろうとしたことを非難される筋合いはない。彼らは、私たちが現在不幸にも経験している戦争を防ぐために、できる限りのことをした。それが成功しなかったのは、メルケル首相やシュタインマイヤー氏のせいではなく、あらゆる合意や理解を無視したプーチンの帝国主義によるものだ。プーチンは侵略者であり、他の誰でもない。
DER SPIEGEL:2月末、あなたは国会で「分水嶺の瞬間」を宣言しました。しかし、その後、ほとんど何も起こりませんでした。ドイツ人が今準備すべきことは何でしょうか?
ショルツ:まず、連邦軍の装備を充実させるために1000億ユーロを充当します。そうすることで、ヨーロッパの他の国々にも同じ道を歩むよう促している。第二に、再生可能エネルギーへのシフトを加速し、輸入エネルギーへの依存度を下げることに力を注いでいる。3つ目は、強力で主権的な欧州連合、つまり共同体が私たちを守ってくれていることです。これは、西バルカン諸国がEUに属しているという事実も含んでいます。私たちは、あまりにも長い間、瑣末なことにとらわれてきました。私たちは、これらすべての決定について、議会で幅広い多数を占めています。連邦軍に関しては、連立政権の枠をはるかに超えた愛国的な多数派が存在することを期待しています。
DER SPIEGEL:ドイツ人の多くは、これまで連邦軍に懐疑的でした。彼らはより強力な軍隊を受け入れる準備ができているのでしょうか?
ショルツ:はい、また、ドイツ連邦軍の装備が充実しても、より攻撃的なドイツ政策への転換を意味しないことも知っているからです。それこそが、この時代の転換点における特別な点なのです。20世紀前半のあらゆる災難を経て、もはや軍事的に強力なドイツを誰も恐れない形で民主主義国家として台頭したわが国についてである。