はてなキーワード: 文学的とは
はい、いくつかのおすすめの落ち着いた声で文学的な教養を有するVtuberを紹介します。
天宮こころ(あまみやこころ)- 文学、歴史、美術に造詣が深く、落ち着いた語り口が特徴的です。また、古風な着物姿で配信を行うこともあります。
葉山ユイ(はやまゆい)- 作家や文学に詳しく、読書会や朗読配信なども行っています。落ち着いた雰囲気と美しい声が印象的です。
塩田米子(しおたよねこ)- 古典文学や和歌に詳しく、雅な雰囲気で配信を行っています。また、落ち着いた語り口で日本の伝統文化や歴史について語ることもあります。
宮本るり(みやもとるり)- 詩や小説の執筆経験があり、文学的な配信を行っています。落ち着いた声と穏やかな雰囲気が印象的です。
星街すいせい(ほしぞらすいせい)- 文学や哲学に造詣が深く、その知識を生かした配信を行っています。また、落ち着いた声と深みのある語り口も特徴的です。
お前が出鱈目な名前を挙げることにはもう慣れたけど
知的作業の本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学、もっと一般的に言えば、純粋に記述的なレベルよりも高いレベルで経験を解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。
ほとんどの人が、数学は経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学の技法とはいくつかの決定的な点で異なる方法で実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。
まず幾何学。力学や熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンのプリンキピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的な形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定を裏付ける物理的な洞察と、定理を裏付ける実験的な検証が存在する。
ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理が疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験的性格にあった。数学的論理的な分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである。
ボリャイ、ロバチェフスキー、リーマン、クラインが、より抽象的に当初の論争の形式的解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論が発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋に数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解を修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学と一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。
第二に、微積分学から生まれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものである。ケプラーの最初の積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的に力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学的精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスやヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配が基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマンの科学的な性格そのものが、数学の二重性を最もよく表している例である。ワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学と論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想を払拭した。
ここで、第三の例。数学と自然科学との関係ではなく、哲学や認識論との関係である。数学の「絶対的」厳密性という概念そのものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学的抽象性以外の何かが数学の構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである。第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論が経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定は必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学の経験的起源は幾何学と微積分のような事例によって強く支持されるということ。
数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。
極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法で研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代の数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解に合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身の基準にかなり満足していたようである。
10歳くらいまで学校に通っていたなら本を読める程度の読解力を有する可能性が高い。
私が自発的に読みたい小説を読むようになったのが10歳くらいのときだったという経験的観点によるのだけれど。
いうまでもないが文章力や論理的思考の基礎は読書によって培うことが可能だ。
どのような生活を送っていたにせよ読書していればある程度の文章力の基礎を形作ることは可能だ。
またネット社会が到来してからはそれまでよりも文字に親しむ機会は増えたと言えるから或いは読書をしていなくても文章力の基礎は身につけることが可能かもしれない。
これはちなみの話になるが風俗嬢が自分で書く自己PRの宣伝日記などで
ライトノベルの作者が文学者として語られないのが腑に落ちない。
ライトノベル滅多斬りのようなそれに特化した書籍ならともかく、国語辞典や百科事典に載ってる人が全然いないわけだ。
特化した本では語られていてそうでない本では他のジャンルと同じ割合だけでもなく全然言及されないというこの状況は世間にとってラノベの価値は井の蛙的なものであるということを物語っているのではないだろうか。
後にも述べるがいまやラノベは純文学以上に熱烈な支持者は多いように思う。
が、そもそも本に対する愛着やこだわり自体あまりなく暇だったり必要に応じて読んでいるという人が、蝸牛の争いのような両者に比して圧倒的多数だと仮定するなら、権威ある事典などにラノベではなく純文学の作者について語られていれば浮動票のようにそちらの方が優れていると考えるだろう。あるいは世間一般の人がそれがなんとなくであるにすれラノベより純文学の方が優れているという考えを持っていることの現われなのかもしれない。
このような単にラノベが純文学より劣っているという考えは何の普遍性もない(無根拠な)価値判断が来ているのだろうか。
正直私にはたとえば恋愛を扱ったものに関してラノベと純文学で読後感という点で違いを見出せなかった。
ラノベ、魅力的な都合のいい異性を描いて娯楽に供させる。
一方で純文学、シェイクスピアのハムレットなんか見てみるわけだが、異性が魅力的でないこと以外読み物としては両者ともそれぞれ違った(優劣ではなく)面白さがあるだけで差を感じられなかった。
ブリタニカ百科事典先生によると、文学は芸術の一つで、芸術には美の要素があることが要件らしい。
逆に言えばより美しく、芸術性が高い作品が文学としてより優れたものなのだということになりそうだ。
でもそれじゃあ美ってなんだよって話になる。ラノベに書かれてることは美しくなくてシェイクスピアは美しいと頭ごなしに言われてにわかに納得できるか?ラノベ好きなら教条主義的な人以外そんなことを思考停止して受け入れるのは無理な話だろう。
文学といえばよくそのメッセージ性が問題にされているとは思う。
文学作品の物語、プロット、筋というのは何か崇高なことを訴えていることが期待されるものだ。
その点ラノベにとって物語というのは登場人物すなわち読者にとっての異性をより魅力的に見せるための小道具、オタク的に言えばシチュとしての役目しか持たされていないのかもしれない。
あるいは訴えることがあるにしても評価されている純文学のそれに比べれば余りにも素朴で浅はかなものなのかもしれない。
しかしそれがなんだと言うのだろう。
そのラノベを開くとマッチ売りの少女のように脳内に魅力的な異性が立ち現れてくる、そこに価値を見出している人が確かにいるのだからそれもまた確かに「価値」じゃないか。
むしろ紙の本が売れなくなっているこのご時世には電子出版と相性がいい漫画と同じくラノベのほうがそれ以外の小説よりよく読まれているのではなかろうか。
価値に対して人間が万物の尺度であってかつ尺度の多数決によってその度合いが最終的に定まるものなら純文学よりもラノベのほうが価値が高く優れているということになりそうなものである。
またどれだけ異性を魅力的に描けているかということならまだ美という観念にも通じるものがあるように思え、その作品の美しさを論じる余地があるように思える。
他方、ガリバー旅行記は人間社会の不条理さや醜悪さをこれでもかと抉り取った大人の読み物らしい。
そういうメッセージ、風刺、アンチテーゼの質が文学作品の重要な評価軸になっているようには思う。シェイクスピアも漏れなくその点で評価されているのだろう。
こうしたメッセージ等の価値というのはそれが真理を示しているか、生きる指針として役立つか、ということ等にあるのであって、これは美しさという尺度でどうこう論じれるものではないと思う。
たとえていうなら匂いについて判読性が高いかどうか論じようとするようなものだ。嗅覚上の情報に視覚に関係する尺度をあてがってもどうにもならない。
あるいは文学には描写そのものの美しさというものも見出すことが当然できよう。
その最たるものが詩だろう。
それは単純に視覚的に美的なものを描く、あるいはレトリックの巧みさという形で体現されるはずだ。
そういう詩的要素が散文においても存在するなら、その散文すなわち小説などは美しさを帯びていることになり文学の要件を満たしうるはずだ。
しかし文学からそういった詩的な要素に対してメッセージ性というものは論理の次元にあるものなのだから、そういう詩的フリンジを取り去ってもメッセージ性は保存されるはずである。
その文学作品が何を訴えているかということがノーベル賞においてすら重要な評価軸になっているのだから、詩的フリンジの有無はその文学的価値にとってさしたる要素ではない考えられるのだ。
文学の価値は何を訴えているかにあるはずなのにそこには文学の要件たる美がないとしか思われないのだから訳が分からない。
結局辞書の言っていることを手がかりに形而上的に考えても埒が明かないのかもしれない。
とはいえ主観のおもむくままに考えてみてもおそらく月並みな見解しか沸いてこないだろう。
それを承知で述べてみるなら、まず文学作品と呼ばれるようなものは限られた人しか楽しめない。少なくとも文盲や知的障がい者には荷が重い。
だからその価値判断というのはその限られた人の価値観に偏ったものになるはずだ。
知的エリートはそうでない人に比べ収入が高い傾向にあること言うまでも無い。
ただの女たらしが「紀州のドンファン」と一目置かれた称号を得るのも然り、財力があれば世間に対する存在感ひいては発言力も増すという俗物的な構造はまだまだ根強いと思われる。そうでなくても知的エリートは社会的地位が高い傾向がある。
そういうわけで彼らの考えは権威を帯びる。
ただそれだけなら楽しめる作品が多いというだけの話なのである傾向を持った作品ばかりが知的エリートに推されるということの説明にはなっていないはずだ。
彼らはより知的でなければ読めない作品に、自分を飾る嗜みとして、価値を見出すのだ。
なのでラノベではなくてそういう作品が、そういう作品の作者のほうが優れているという考えや言論が幅を利かせることになるのではないか。
教養とか皆無でもさっくり気楽に楽しめるようなものを尊んでいるのでは格好がつかない。それでは凡百と同じなのだ。
以上をひっくるめれば、彼らは美しい作品ではなく、強靭な教養や知性という顎でもってはじめて噛むことができるスルメ的な面白さがあるかどうかで価値を判断している。
そしてそれが権威ある辞書や事典の記述を通して本に対してさほどこだわりのない圧倒的多数の一般大衆に浸透し、そうしてラノベは純文学に対して劣ったものという既成観念が形成される。
月並みなばかりでなくいかにもルサンチマンに満ちた見解になっているとは思うが、そういうことなのではないか。
似たような話でアニメはドラマや実写映画より劣ったもの扱いされているということがあるだろう。
昔の大衆の娯楽だったものは今は高尚なものとして扱われるというパターンがあるけれど映画は割りと初めのほうから芸術的に価値あるものたりうると認識されていたような印象がある。
逆にアニメはジブリが(ガンダムなんかも?)例外なだけで今日まで芸術性が認められてないゆえにどこまでも映画に劣った娯楽作としか見られていないように思う。
さらに時間が経てば歌舞伎や浮世絵のように芸術として見られるようになるとはにわかに考えにくいのだ。
実はこの文章の原稿はいっぺんに書いているのではなく日をまたいで書いてるので、その間に得た知識によっては文章に反映されていくものもある。
その一つとして先ほど偶然知ったのは、大衆文学には少年少女小説、つまりほぼラノベと同義と捉えても差し支えない概念も含まれるということだ。
ただし付け加えていうなら大衆文学には純文学に対して価値が劣ったという含意がある。となるとこれはむしろラノベは劣ったものであるとう認識が存在する傍証になってしまったようだ。
本当のところはうだうだ言う前に早い話がもっとラノベと純文学をバランスよく読めば自ずと両者の面白さ以外の違いも分かって疑問も解決に向かうかもしれない。
しかし私はラノベもそれ以外も小説というもの自体平等にあまり読んでないので、今更自ずと分かるまで両者を読みまくって分析する気までは起こらない。
好きでもないジャンルの本を読むのは受験勉強に等しく苦痛だ。私はただなぜラノベ作者が純文学作者と比べ評価されたり公の場で対等に紹介されたりしないのか知りたいだけだから、私自身が苦痛を味わうまでもなく両者を愛読していて答えを知っている人に教えてもらう方が合理的に決まっている。
知恵袋にも質問の体をしているがその実は女がしがちな「どうしていっちゃうの?」式の不満に対する詰問でしか内容の投稿が多くあるが、結局風潮への反感が、反感は反問を生むという素朴な力学が私にその理由を知りたがらせているわけだろう。当然ここにも答えを知っているものがいるならばその提示を望むものである。
また私は私でただの判官贔屓かもしれないけれども、メーンカルチャーに属するコンテンツに対する感想が溢れるなかでブログや増田に埋もれたラノベやアニメの感想記事があったら、その飾らない感性とのその一期一会に感謝し、その価値観を慈しむことでこの世間の風潮に対抗しているつもりなのだが、それをこれからも続けていくつもりだ。
dorawiiより
表象ありきではないということのついてかろうじてなんとなく言えることは、
たとえば雲一つない空と書かれていたとき、読者間では想像する空の明度などで朝9時ぐらいのときのか真昼間のときのことかとか異なっていることもあろうが、同じ読者であればいつその文字列を見てもッ少なくとも「視覚面」については同じ空を想像してると思う。
しかしそういう空は文学的には爽快さの象徴でも空虚の象徴でもある。
なので「雲一つない朗らかな空」「今の私の空っぽの心のように雲一つな空」という文字列になったらば、同じ読者でも脳内に浮かぶものとしては何かが異なっている。当然ただ「雲一つない空」という文字列を読んだときとも異なっている。
実在的な視覚としてはどの空も同じであるはずなのだから、これらが脳内で違いを生じているということは、もはや単に脳裏に過去の記憶上の風景を想像するときに相当するような具体的な映像とは質的に異なることを意味している。視覚+別の何かが不可分に絡み合っているというか、だとすれば足し算の記号を使うこと自体語弊を生じているような、そういうなにかを思い浮かべながら定型発達は読んでいるのだろうと思う。
確かに最近読んだので未来からのホットラインなんていうSFでSFってラノベの要素多分にありがちだから否定はしないが。
でもあれにしてもμブラックホールの実験施設の立体構造についてつらつら書いてあったけど全然何言ってるのか分からなかったからあれで文学的というならいらない描写と言うしかないわ。
いつも思うんだけど小説に「文学的」と言われる表現は要るのか?
たとえ悪いかもしれないが「月が『煌煌と』輝く」の煌煌みたいなやつ。
小説で大事なのは作中の誰がどうしてそれに誰がどう思うかという部分がどれほど面白いかだけじゃないのかといつも思う。
風景の描写とかで技巧的な比喩を使ったり小難しい言葉を使うのはあくまで「詩」の分野であって、それは文学的というよりは詩的であるに過ぎないんじゃないかと。
複雑化すべきはプロットそのものであってそれを伝える表現を複雑にする必要はない。表現はむしろケータイ小説を見習うのがいいぐらいなのではないか。
作中の人間を動かすでそれは描写しておかないと説明不足になってしまうみたいな風景や状況に限って最低限日常会話と同レベルの言葉で伝えればいいと俺は思う。
夏目漱石のこころにしても表現自体よりもそれが示す人間ドラマの方がはるかに奥深い魅力があるわけで。別に表現自体の技巧はなくてもよい。
技巧面で詩的な表現にこだわって考えあぐねて筆が止まるぐらいならそんなもの投げ捨てて書きたい人間模様だけを書き進めればいいと思う。
海賊版サイトでfakku等によって原本から翻訳されたものが幅を利かせせているので、本来なら原本を買えば済む話なのだが、とにかく日本人側は翻訳版の再翻訳をしなければならない歪んだ状況に立たされているという話になっていた。
そういう話の流れで出たのが双龍の漫画「こういうのがいい」ってどの言語でも訳せなそうだよねという話だった(あえて言い古された「ちんちん亭」には触れない)。
もちろんこれは「こういうのがいい」の翻訳版を謳うものが出た場合は既に元の台詞回しのニュアンスが壊れているはずなので、また原本の日本語自身が独特なので、元の台詞を復元することは困難であるという含みもある。
台詞回しの一例をあげてみよう。
女:ワキガチェックしてくれたまへ
男:剃り残しがございます
女:うむむ…永久脱毛の金を稼がねば…って違うぞ違うぞぉ?臭いはどうなんじゃ
男:…なんか甘いんだが
女:スイーツだと
文章の随所において終助詞など細かく拘られていて、独特のテンポが形成されている。
ただ何より注目すべきなのは、このピンクの美少女が「違うぞぉ?」とか「どうなんじゃ」とか中性的かあるいはどちらかといえば男性的な口調でものを言っていることだろう。
この言語的倒錯が生むチャーミングさといったら一体どう翻訳すれば保存できるのだろうか。
たとえば英語圏にも男性口調とか女性口調の区別は確かにあるのかもしれないが、ただ女性に男性口調に相当する言葉を言わせる「ずらし」でそれは再現可能なのか。
上記の男口調は、俺妹にも拙者が一人称の男言葉を使う女はいるが、あの口調ともまた、それが放たれたときに読み聞きした側が感じる空気感というか味わいといったものが異なると思う。
つまり同じ言語内における言語的倒錯についても、ずらし元とずらし先の違いによってそうしたニュアンスが異なってくるのに、その各ニュアンスを別言語において再現可能なのかということだ。なかなか難しいものがあると直感される。ちなみに現代の女性が「たまえ」というだけでも面白いがそれが「たまへ」と表記されたときの独特の滑稽味もまた再現し難いだろう。
もう一例あげておこう。場面は風呂場の脱衣所で男女が裸になっているという状況だ。
女:ふいータオル貸してー
男:いいよーっておいそれ昨日使ったやつだぞ洗ったのあるよ
女:いいよ別に乾いてるし
女:むっ雄の香り
男:えっ?酸っぱい?お酢?
女:ちゃうオスメスの雄w
やや育ちの悪そうな自然体の男女カップルの会話が自然に、あるいは少し技巧的過ぎるかもしれないが、素晴らしい具合に再現されている。ちなみにネカマするならこういう本からこそ口調を見習うべきだろうとも思う。
後半の雄とお酢の畳みかけは、男の受け答えが女の意図したいことに対してあながち間違っていない(絶対酸っぱい匂いがするという意図もあったはず)という点も含めて言葉遊びとして面白い。
しかしこうした言葉遊びの翻訳は後述するが映画翻訳業界では十八番のようなもので、比較的なんとかなる類のものかもしれない。
さらに続きを見てみよう。
女:乾かして―
男:なんで至れり尽くせり体制なん
女:頼むぅいいじゃんよぅ
男:だが断る
女:えぇなんでー面白いのになー
女:でも勃起サイズアップするらしい…ってあれあれ~?復活ですかー?
男:いや刺激与えたらそりゃな?
もはや語尾の小文字と長音符の使い分けなど、この作者の文体の妙を説明するうえでは些末な類だろう。
「至れり尽くせり体制」などの日本語母語話者が談話においてしがちな咄嗟な造語はどう訳せばそのニュアンスを海外の読み手にも届けられるのか。
伏字になってない伏字も面白味があるがこれは比較的なんとかなりそうだ(相変わらず女の使う「だぜ口調」が翻訳の難所になろうが)。
男がジョジョの言葉を使っていることも注目しておきたい。誤用であるかもしれないことは作者も承知している可能性があるのであえて触れないとして、こういったものはどう訳せばいいのか。
そもそもこういった台詞は元ネタを知っているかしないかで同じ日本人でも読んだときの感覚は異なっているだろう。
結局ジョジョが世界的に有名な作品なだけあって、その言語圏で出版されているジョジョの該当セリフをそのまま引用してあげれば割とスムーズに我々が感じているニュアンスを届けてあげられるのかもしれない。
・
ある言葉が翻訳可能かについては、そもそも出版や映画の世界の翻訳技術の長年の蓄積があるのだから、薄っぺらなのは承知でこれらにも触れておく。
先述したが言葉遊びの部分を別の言語に落とし込むことは映画翻訳が得意とするところである。
その言語の音韻体系でしか成立しないだろというものもうまく落とし込まれているものである。ぴんと来ないなら参考にtedの生音声と字幕を比較してみることをおすすめする。
「ぼくのワンダフルジャーニー」の原題は"the dog"である(the objectを「遊星からの物体X」と訳すのとは似て非なる事情だと思う)。
素人目にはどうしてこんなアクロバティックな翻訳な成立するのだろうと思わずにはいられない。
逆に向こうの人にとって"the dog"という訳はどういう印象を持っているのか?個人的にはお堅い文学的な味わいすらも感じられるが、それを母語とする人にはひらがなで「いぬ」と書いた程度のニュアンスまで幅広くカバーしているのかもしれない。
「いぬ」と「ぼくのワンダフルジャーニー」なら、まずまず対応していると言えなくもない…か?
あるいは端からニュアンスを丸ごと保存しようとは翻訳家も考えないものなのかもしれない。
その文章の文体やテンポが、鑑賞者にとってのニュアンスや味わいに対して重要な要素としてどれだけ影響を与えているか、支配しているかということは弁えているものなのかもしれない。
たとえば注意書きの文章をテクニカルライターとして翻訳するにあたって、日本語の注意書き、特に箇条書きが持つ淡泊さを独特のニュアンスとして捉えその存在性を肯定することはできるかもしれないが、日本人が注意書きを読むにあたってそのニュアンスを重要としていないのと同様、そのニュアンスが保存されているかどうかにまで気配りする必要はないだろう、という具合だ。
とっくの昔に源氏物語が様々な言語に翻訳されていることも押さえておくべき事実だろう。
これもまた古文が持つ独特の味わいをどう翻訳しているのか、あるいは翻訳を放棄しているのかという話になる。
日本人の心には中等高等教育を経て古文単語に対して、仰々しさをはじめとした独特の感性が培われている。
その感性を通してこそ「変態糞中納言」は独特のギャグとして成立するわけだ。
しかし源氏物語にはギャグの要素はあったとしても重要ではないだろうし、結局助動詞とか係り結びに使う助詞が持つあのニュアンスは全部放棄しているのだろうか。
アーサー王物語時代の古英語でも使えばあるいは教養ある英語話者に似た味わいを感じてもらえるかもしれないが、これは英語圏の人間に限られる手法となってしまう。汎用的な手法を見出せないものか。
ところで海外の人が日本のアニメを字幕付きで見るということが大いに行われている。
主観になるが吹き替え版は可愛くない。仮に可愛いのだとしても、少なくともそれは日本人声優の演技とは別質のものである気がする。そのあたりにもなにがしかのニュアンスが宿っているかもしれない。
そのニュアンスは非言語的な要素が持つものであって話がずれていると言われればそれまでだし、因果関係上は先に生の動画があってその日本語が分からないから字幕をつけているというものに過ぎないわけだが、とにかく日本人声優の演技というのも、字幕の持つニュアンスを補うための日本語の音声という側面があると私は解釈している。
私なりに長々語って来たわけだが、私の関心はあくまでこうした「多言語に訳せない言語」が日本以外に諸言語にあるか、それにはどういった事情があるかなどといったことであって、巷で言われるような「日本語は難しい」的な自言語を特別視する態度は持ち合わせていない。
むしろ浅学でわずかな日本語と英語の例で比較したり考察したりすることしかできないのが嘆かわしいぐらいである。
戸田奈津子や村上春樹や、最近だと東大に40言語話せるハイパーグロットがいるらしいが、彼らに自分が「訳せない言葉」と思うものを持ち込んで翻訳をお願いし、その翻訳作業をじっくり見学したいものである。知見も深まるというものだろう。
「処女航海(maiden voyage)」「処女作(maiden work)」といった言葉に苦言を呈するフェミの方々が現れると、決まって「『船』や『ペン』が女性名詞だから『処女』が付くだけなのにそんなことも知らないのか」と得意げに反論をする人たちが出てくるのだが、はたしてこの「女性名詞説」は本当に正しいのだろうか。
Etymology
From Middle English mayden, meiden, from Old English mæġden (“maiden, virgin, girl, maid, servant”), diminutive of mæġþ, mæġeþ (“maiden, virgin, girl, woman, wife”) via diminutive suffix -en, from Proto-West Germanic magaþ, from Proto-Germanic magaþs (“maid, virgin”). Equivalent to maid + -en.
中世英語の「mayden」「meiden」は、古英語「mæġden」(「未婚の若い女性」「処女」「少女」「女中」「召使い」)に由来し、それは「mæġþ」「mæġeþ」に指小語尾「-en」がついた指小辞であり、それは西ゲルマン祖語の「magaþ」に由来し、さらにはゲルマン祖語の「magaþs」にまで遡る。「maid + -en」に相当する。
maiden (adj.)
c. 1300, "virgin, unmarried," from maiden (n.). The figurative sense of "new, fresh, untried; first" (as in maiden voyage) is by 1550s. In horse-racing (1760) it denotes young horses that have never run before.
13世紀。「処女の」「未婚の」。maiden(名詞)から。1550年代には「新しい・新鮮な・試されていない・最初の」という比喩的な意味(「処女航海」のように)で使われるようになった。競馬では(1760年)一度も走ったことのない若い馬を表す。
つまり、古英語(5世紀から12世紀ごろ)からあった「maiden(処女)」という名詞が、13世紀ごろに「maiden(処女の)」という形容詞としても使われるようになり、さらに1550年代になって比喩的に「maiden(最初の)」といった意味の形容詞としても使われるようになった、ということだ。
そして、古英語のころにはあった男性名詞・女性名詞の区別が、中世英語(11世紀から15世紀ごろ)では失われていることから考えると、1550年代に生まれた「『最初の』という意味の形容詞maiden」が女性名詞にしか使えなかったとは考えにくいだろう。
当たり前の話だが、同じ意味の単語でも、それが男性名詞か女性名詞かは、言語によってバラバラである。英語「ship」と独語「schiff」は共にゲルマン祖語に由来するようだが、どちらも中性名詞である。仏語「navire」と伊語「nave」はどちらも羅語「navis」に由来しているのだろうが、ラテン語とイタリア語では女性名詞なのに、フランス語では男性名詞となっている。
女性名詞説の人たちはしばしば「『船』はラテン語で女性名詞だったから」などと言うのだが、仮に英語の「maiden」が女性名詞に付くとしても、なぜ古英語などではなく、いきなりラテン語が基準になるのだろうか。「maidenは女性名詞に付く」という結論ありきで、「船」を女性名詞とする言語を探してきているだけではないのか。
女性名詞説の「処女作は『ペン』が女性名詞だから」というのもおかしな話で、普通に考えれば「作品」や「本」が女性名詞かどうかを考えるべきだろうに、なぜ「ペン」を持ち出してくるのかといえば、ラテン語で「ペン」が女性名詞だったことを探してきたからだろう。
女性名詞説の人たちがもうひとつ頼みとするのが「英語でも船をsheと呼ぶ」ということである。つまり「船をsheと呼ぶのは船が女性名詞だったことの名残である」というのである。
これについては以下のページに詳しい。
これは古英語にあった文法性とは無関係です.乗り物や国名を女性代名詞で受ける英語の慣習は中英語期以降に発生した比較的新しい「擬人性」というべきものであり,古英語にあった「文法性」とは直接的な関係はありません.そもそも「船」を表わす古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞でしたし,bāt (= boat) にしても男性名詞でした.古英語期の後に続く中英語期の文化的・文学的な伝統に基づく,新たな種類のジェンダー付与といってよいでしょう.
「OED によると船を受ける代名詞としての she の初例は1375年である」らしいが、最初にも述べたとおり、英語に男性名詞・女性名詞の区別が残っていたのは古英語(5世紀から12世紀ごろ)までである。また、これも先述のとおりだが「古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞」というのだから、女性名詞説の人たちの主張はまったくの誤りということになるだろう。
1. 英語の「maiden」は、そのあとを受ける名詞が男性名詞か女性名詞かに関係なく、「新しい」「最初の」という意味の形容詞として使われている。
2. その「新しい」「最初の」という形容詞としての用法が生まれたのは、英語から男性名詞・女性名詞の区別が失われた後のことである。
23億枚。
この事実を聞いて、
「人間にそんなに多くの絵を見ることは不可能だ。やはり人間は人工知能に勝つことはできない」
でも、こう考えてみてはどうだろうか。
人間は1秒間に数十枚の画像を、起きているほとんどの間認識している。
1日に16時間、秒間60枚の画像を認識していると仮定すると、
20年間で60*60*60*16*365*20 = 25228800000枚…約252億枚の画像が脳に刻み込まれていることになる。
もちろんその中にはほとんど同じ景色であるようなものも含まれているが、
それを考慮しても人工知能の特権(と、一般的に思われている)である膨大な量の学習に
遜色ない量をすでに私達は学習していると言えるのではないだろうか。
それに加えて私達は、視覚情報以外にも、聴覚、触覚といった他の感覚器官、
そこから得た情報の歴史的価値や文学的な表現といった形而上的な概念を学習している。
機械学習においてこうした複数の種類の情報を統合して学習することは1種類の学習よりも遥かに難易度が高く、
多くの研究者を悩ませている。
だがどうだろう?
我々はすでにそのような、様々な感覚から学習し、それらを統合する技術を既に身に着けているではないか!
そして、視覚情報と同様にそれらも常に変化し続けてきたものを我々は学習する。
視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の五感、温度や痛覚などのその他の感覚、さらにそれらの持つ意味…
これらの相互に繋がった数百億、数千億の情報を我々は「体験」する。
ただバラバラの情報ではなく、それらの繋がりさえも学習し、記憶する。
さらに人間の優れた能力として、我々は他人の体験を「追体験」することができる。
個人から離れた異質の経験は、既存の情報に新しい繋がりを提供する。
この魔法が、人々に全く新しい情熱や感嘆や絶望や感動――私達の心の動きの全て――を生み出す源なのである。
そして、これが最も重要な点であるが、上で述べた学習内容は、「人によって異なる」のである。
誰に育てられ、どの学校に通い、どんな友達と遊び、何を食べ、…
そして小さな経験の違いが脳に影響を与え、行動に影響を与え、その結果異なる事象を経験し、異なる反応をし、さらに異なる事象が生まれる…
まとめ。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは本当に正しい(フェア、公平な)やり方なのでしょうか。以下のように考察してみました。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
いずれも、発言した人とはまた別の人たちが、揚げ足を取る形で批判をしています。発言した内容そのものではなく、その発言の「裏を返す」ことによって新しい発言を生み出し、それを実際には発言したものだとして批判しています。
高校数学I・Aでは、論理学(命題・真偽・逆・裏・対偶)を学びますが、命題の裏を返すとはどのようなことなのかについては、高校数学を修めた人ならば理解できているはずです。念の為に復習しておきましょう。
ある人が「ナイトは硬い」(もしXがナイトならば、Xは硬い)という主張をしたとして、考えてみましょう。
この命題をシンプルに書けば、「ナイト→硬い」となり、ある人はこの命題が真であると主張しているわけですね。
まずはこの命題の逆を作ってみましょう。矢印の前後を入れ替えることになります。「硬い→ナイト」となり、「もしXが硬いならば、そのXはナイト」を意味します。
また、元の命題の裏を作ってみましょう。矢印の前後の言葉をそれぞれ否定します。「ナイトじゃない→硬くない」となり、「もしXがナイト以外ならば、Xは硬くない」となります。
最後に、元の命題を裏にして逆にしましょう(逆にして裏にしても良い)。「硬くない→ナイトじゃない」となり、「もしXが硬くないならば、ナイトじゃない」となります。
論理学においては、対偶関係にある命題の真偽が一致することが知られています。たとえば元の命題「ナイト→硬い」が真であるならばその待遇である「硬くない→ナイトじゃない」も真であることがわかっています。数学ではこの性質を利用した対偶論法を使って証明が行われる場合もあります。
またもう一つの特徴として、元の命題の裏や逆の命題は、元の命題から真偽を判断できないことがわかっています。つまり、元の命題が真だからと言って、その命題の裏や逆の命題は真であるとは限りません。つまり別の情報を導入しなくてはもとの命題の裏や逆は、真偽が定まらないのです。
そのため、ある人が「ナイト→硬い」(真)を主張したとき、対偶の性質を用いて論理的には「硬くないのは→ナイトじゃない」(真)を主張したことになります。しかし、逆である「硬い→ナイト」や裏である「ナイトじゃない→硬くない」の真偽についてその人は言及していませんし、情報が不足しているので、その真偽を論理的にも導出できません。
なお情報不足については、裏・逆・対偶以外の操作をした場合も同様のことがいえます。たとえば矢印の前側だけ否定する「ナイトじゃない→硬い」などなど。
以上を再度まとめます。「対偶関係にある命題の真偽が一致する」のですが、それ以外の操作によって作られた命題の真偽はわからないのです。
つまり論理的に考えれば、ある人がとある命題が真(偽)であると主張したとき、その命題自身の真偽やその対偶命題の真偽を批判することは問題ないのですが、それ以外の操作をして生み出した新しい命題をその人の主張として批判するのは完全に的外れとなります。だって、その人はそんな主張をしてないんですから。
言い換えると、「A→B」(真)という主張をした人に対して、「A→B」「〜B→〜A」の真偽について議論をしかけることは問題ありません。様々な証拠を持ち出すなどして論破してやりましょう。
しかし、その人が言っていない逆「B→A」、裏「〜A→〜B」、それ以外の「〜A→B」「A→〜B」・・・などなどを勝手に作り出し、その人が言ったとして議論をしかけるのはおかしいなことですよね。論破以前に、その人はそんなこと言ってないんですから議論が噛み合うはずがありません。むしろその人からすればただのイチャモンですよね。
- 批判者「裏を返せば、自分以外の子供は愛さないというのか!!!」
教師の主張は「自子→愛す」(真)なので、その裏である「自子じゃない→愛さない」なんて主張してもいなければ意識すらしていませんよね。そんな言ってもないことを捏造されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、自分の子と同様ではないかもしれませんが、先生として教え子を愛することは普通にありえることですし、この教師も両方の愛し方を同時に行っているのかもしれません。(なお、本当にそうかはわからない。あくまで未定)
- BLM支持者「黒人の命は大切です」
- 批判者「裏を返せば、黒人以外の命は大切ではないというのか!!!」
BLM支持者の主張は「黒人命→大切」です。その裏である「黒人命じゃない→大切じゃない」は主張していませんし意識すらしていません。言ってもないことを捏造して批判されても困ります。「それはあなた(批判者)の意見ですよね」
実際のところ、黒人の命は大切だし、それ以前に黒人であるかどうかに関わらず人の命は大切であるというのが普通の考えですよね。どう考えても揚げ足取り(しかもエア揚げ足)です。
- 弔辞「いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか」
- 批判者「「いのちを失ってはならない人」。この言葉は裏を返せば「いのちを失っても惜しくない人」がこの世に存在することを意味してしまう」
弔辞におけるありきたりな表現なので、これを主張しているというのはかなりずれているような気もしますが、「いのちを失ってはならない人→存在する」という主張と今回はあえてみなしましょう。
批判者は「いのちを失ってはいけない人ではない→存在する」であると拡大解釈して批判しています。でもこれは、裏でも逆でもないしもちろん対偶でもありませんね。そんな無茶苦茶な操作によって作った命題を、主張したものとして批判するのはさすがイチャモンが過ぎます。まったく論理的ではありません。裏ですらないんですから。
裏や逆の操作を使って特定の命題から新しい命題を増やし、話題を広げるのは日常的によくやることです。
日本語の「裏を返せば」「逆に言えば」は、無理筋な強弁へと通じることもあるから注意しないといけません。もちろんその強弁を面白さとして昇華させる文学的なテクニックもありますが、かなり高度なテクニックですよね。
自著において自分の主張を展開するときに裏逆などを使うのは自己責任だから良いけれど、他人の主張の「裏」「逆」をとってそれを主張したものとして議論するのは避けるべきです。
たとえば自著で自説を書くはじまりに、「現代は情報化社会であることは衆目一致するところであろう。だが裏を返せば現代以前は情報化社会でなかったことを意味する」みたいな強引な論理展開をしたとしましょう。当然ながら命題の裏の真偽は未定なので、これは穴だらけの強弁です。この主張を正しいとするために、それ以降に様々な証拠を挙げ証明をしなくてはいけませんよね。
他人の発言を批判をするときに、「その発言の裏を返せば(を逆に言えば)、○○○ということを意味しており、それは良くないことだ」のような論法を使う人がいます。
これは全く論理的ではありませんし、言ってもいないことを勝手に捏造してまくし立ててくるのは、議論のやり方としてフェア(公平)ではありません。
そのような論法を使ってくる人がいたら厳重に注意しましょう。また自分でも「裏・逆の非論理性の罠」に引っかかって批判のロジックを組み立ててしまわないように注意しましょう。
今後、「裏を返せば」「逆に言えば」という論法で、言ってもいないことを言ったこととして一方的に批判をしてくる人が出てきたらこう返すと良いでしょう。
「私の主張を勝手に裏にしたり逆にしないでください。それは私の主張ではなくあなたの主張ですよね。もっと論理的な批判をお願いします」
「その文書の地域で何が起こっているのか?文書は人々からどのように受け止められているのか?文書の何が神経を逆なでするのか」について分析するという話を聞いたことがある。「文学的インフラ」とは、文学を資源として活用し、たとえば何らかの現象を予測するといった発想だ。物理現象を予測できないかもしれなが、社会現象ならどうか。
こういうものを評価してテキストのリスクを判別するというプロジェクトに聞き覚えがある。ユルゲン・ヴェルトハイマーという人は「作家は、読者が即座に世界を想像し、その中に自分自身を認識できるような方法で現実を表現する」と述べている。
例えば、以下のアルジェリアの例がある。
何が言いたいかというと、増田コーパスを使えば何かしらの社会現象の予兆を見つけることができるのではないか、ということ。
確かに「時間、場所、事象を非常に具体的なレベルで予測」となると不可能かもしれないが、「特定の政党の支持率」「どのような哲学主義が好まれているか」「どの国との関係性が良かったり悪かったりするのか」「自殺率が増加するのか減少するのか、凶悪犯罪はどうか」「博士課程に対する社会の許容度はどうか」といった大雑把なレベルなら予測できることがあるのではないか。
題名の通り、他人の解釈が怖くなった。漫画とかアニメとか映画とか小説とか、そういうのを読んだ後に他の人の感想とか反応を見たりするのが好きで、アニメなんかも2周目は感想付き(アニメをリアルタイムに実況するやつ)をよく見る。普通の感想だったらまだいいけど、表現とか、描写とかに筋道立てて作者の意思とか何を表現したかったのか、といった風な考察とか解釈が怖い。現代文の答え合わせをしているようで、とても怖い。文学的要素、というか行間を読むような作品とか。具体例を出すとシャニマスのような作品。趣味の範囲内なんだし個人で楽しめばいいというのはもちろん分かるけどそういう他人の解釈が自分が思った事と違うと、とても悲しい。間違いじゃないと分かっていても、そっちの方が確かに正しいなってなって。自分はなんて浅いんだろう。これで好き、なんて言えるのかとか。けれど見ずにはいられない。自分の「好き」が正しい好きかどうか確かめなくちゃいけないから。ここまで書いてみて自分の自己肯定感の無さを感じるなーとか、他人からどう見られてるか気にしすぎじゃない?とか思った。SNS、やめた方がいいのかも。分からないけど
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!
ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。
一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。
そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。
さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。
一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。
このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されている。
しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラさんはインタビューでこのように述べています。
アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。
最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。
現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。
ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います。
それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。
これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています。
足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。
この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。
ひとつはパートナー役の大人がいないことで、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。
前者に関しては原案のアサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。
しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。
もちろん、「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。
きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。
前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。
アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。
まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。
しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。
「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。
――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。
足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。
――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。
足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?
要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。
ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。
そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。
とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。
「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。
さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。
このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。
そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。
それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。
まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。
評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。
ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。
ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。
杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。
つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。
『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います。
その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。
たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています。
今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。
暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。
その一方で、自らの表現を模索しながら主体的にステージに立ち、ときに演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手な欲望や規範を押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。
アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。
そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。
もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます。
この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であることは論を待たないでしょう。
この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。
そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。
俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。
(中略)
まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!