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はてなキーワード: 文学的とは

2023-11-09

anond:20231109100709

(゚∠゚)「ニホンゴワカリマセン」

天皇のおじいちゃん「『そういう文学的アヤは解りません』てゆうんやで」

2023-11-04

天上のシミ数えてたら終わるよ

なんか文学的

2023-10-09

せせせっしゃがアニメ版16bitセンセーション感想を!!?

ほほほ本当でござるか~~~~~拙者のような底辺キモータでいいんでござるか~~~~。

冒頭 アス比4:3

拙はテレビアニメ歴史には全く詳しくないのでござるが、昔のアキハバラが映るとなんとなくデ・ジ・キャラットなんかを思い出しちゃったりするでござるよ。

さてさてこの懐かしいアスペクト比ぶっちゃけもう今の若い子は「懐かしい」とさえ思わないんでござるな。

「知らない」のでござるよ。

これがいつ頃から始まったのか、大雑把に言えば『デジタル放送に合わせて』でござる。

かい部分はアニメに詳しいオタクが教えてくれるでござろうからシロートである拙者に言えるのは「WIKI日本地上デジタルテレビ放送でググれ」ぐらいでござるな。

そこから簡単抜粋すると大事なのはこの辺りでござるな。

日本地上デジタルテレビ放送(にほんのちじょうデジタルテレビうそう)とは、日本における放送局により行われる地上(陸上)のデジタル方式テレビ放送である2003年平成15年12月1日の正午に導入が開始され、2011年平成23年7月24日の正午にアナログからの完全移行(アナログ放送の終了)[注 1]となった。略称は、「地デジ」。

2000年平成12年12月1日より、BSデジタル放送が開始され、2003年平成15年12月1日11時より、3大都市圏である東京大阪および名古屋のNHK3局、民放16社から地上デジタル放送が開始された。残る43道府県でも段階的に放送が開始され、2006年平成18年12月1日には全ての県庁所在地および近接する市町村放送が開始された。これらのことから12月1日デジタル放送の日とされた。

まり物心ついたのが2011年以降の子供は4:3の画面なんなんて知らないので御座るよ。

昔のアニメビデオなんかとして残ってるのかも知れないでござるが、それがテレビ放送されていた時代のほうは「物心つく前」なんでござるな少なくとも。

大雑把に言えば今の小中学生ぐらいでござるな。

いやーびっくりでござるよ。

しかしてこのアニメオタクテンプレオタクファッションは着るくせに「ござる」と言わないでござるな。

じゃあ俺もやめるか。

令和に適応していかないとな。

しかしあれだな、主人公が「タイムリープするのは選ばれし人間だけで凡人がするものではない」という感性をもっているのも令和風だな。

カマトトぶって「え?そもそも何が起きたの?」からスタートなんてしない。

ファストな時代クールヒロインだ。

ブルーベルがんばってんな

社長の声がテンプレキモータで「あっ、これぐらいのステレオタイプは令和でもゆるされるでござるか」となる。

ラノベやVに追われるエロゲ業界というイメージはまあ確かにって感じ。というより1人でつよつよ出来る人はエロゲ業界なんて岩の下日陰通りダンゴムシ横丁なんてスルーして表舞台で売ってるから才能が流出しとんのよな。

フルプラ避けて薄利多売はしょーじきこの時代では賢い。

パープル?って実在するの?あっググったら実在した。あれ?結構かいなこの会社。あれ?俺なにしに来たんだマジで

もう書くのやめるか。

ちな説明するが俺はエロゲ全盛期が終わった頃、大体シュタゲアニメ化されたぐらいでエロゲからは抜けたぜ。

最近ゲームランスXとぬきたしぐらいしか知らねえ。

逆にこのアニメにふさわし気がしてきた。

書くの続けるか。

うわぁ!急に作画カロリーを使うな!

大作のエロゲ否定される時代っていうのはマジで分かる。

俺がエロゲから離れたのも「え?大作が見たいなら全年齢の方が強いじゃん。じゃあもう抜きゲーでいいじゃん?でも抜きゲーもわざわざクリックカチカチするのだるいじゃん?」だしな。

正直、全部載せである必要性がないんだよなあ。

セックスシーンが物語の中で重要意味を持っている文学的作品なんて結局ほとんど生まれず、義務的セックスシーンを描くか、義務的物語を描くか、そうしてどっちつかずな何かだらけになっちまった

というには拙者エロゲ知らなすぎるでござるのに口が勝手に動いたでござるよ。

誰彼100円!

自分でも誰彼100円は聞いたことがあるでござる。

自分でも知ってるあの時代伝説ライター達が今やってるのがプリコネ、レドバンFGOソシャゲばかりなのはマジで時代なんでござるなあ。

フルプラの10倍の値段払ってガチャ回すんだからそりゃソシャゲが強いでござるな。

でもエロソシャゲの話は全然聞かないんだよな。

対魔忍のサ終とかちょっと話題になったしアイギスも10周年、そう考えるとエロソシャゲもまあまあ元気はあるっぽいが、表のソシャゲと比べると弱いんだよなあ。

やっぱ18禁世界って弱いんだなあ。

声が……使われている声優が古い……

いや古いってほどじゃね―んだけど、露骨に緩急つけてくるからすげー高低差見えるっつ―の?

「20年か25年かぐらいでもいざ意識しだすとスゲー昔に感じるよな」を演出してきてる?

いやそれならバチリコ刺さってるわ。

はぁ~~~声優の起用一つでもこういうこと狙えんのね。

1話目に20分かけて面白いもん仕込んでくるなあ。

総評

まあ、俺は続き見るけど見る気のない人に薦めようって気はしないな。

面白そうと思った人間以外が見て楽しめるものがある感じではないだろ。

気になった奴は見たほうが良いけど、気になってないなら見なくて良い。

絵は別に凄いってわけじゃないけどノイズにはならない。

演技や脚本問題はなし。

まあマジで「このコンセプトでアニメが見たい人が見る」のプラマイゼロなんよな。

俺は気になったから見るけどな。

しかしあれだな書くことがなんというか偏るな。

コノハ好感度をジワ上げしつつ物語の導入してるだけで終わってるから、あえて見てる側が語るほどのことがないというか。

コノハ可愛いよね」「そうだね」で終わるっつーか。

コノハ時代キャラ付けのコンセプトであるレトロ美少女ゲーヒロインっぽさ」+「今みてもうわッ!キッツ!にならない程度の大人しさ」+「物語を転がす時に適度に摩擦抵抗を持てそうな尖り具合」の掛け合わせが滅茶苦茶無難というかね。

やっぱ作者がエロゲ沢山やってるだけあって最大公約数がどの辺りなのかは外さねえなとは思うんだが、「最大公約数だね」で終わってしまうのはそれはそれで弱点じゃねえのかという気持ちもある。

でもキャラ単体として尖らせすぎると最も出したかったであろう「どことなテンプレ感」がそっちに飲まれリスクがあるから出来ないんだるな。

まあデザインってのは結局こういうものというか、デザインでやりたいことをまず優先して個性を出すのはそのあとに回すのが正解なんだろうと思うわけよ。

神のみエルシィは「ファンタジーだと一目で分かるキャラデザが世界の中で浮きやすく、他のヒロインとの集合でみたとき攻略対象とは別枠として映りやすい」を狙っていて、ある意味で逆なんだよな。

露骨テンプレヒロイン感を意図的に外せる人間は、逆にど真ん中に投げ込もうと思えば投げ込めるっていう。

野球でもなんかあるっぽいんだよな、ど真ん中すぎるとすっぽ抜け感があって逆に打てないみたいな現象

コノハはそれっていうか……こうヒロインとして扱いにくさがあるとういか……つまりヒロインでありながら主人公としてデザインできてるんだよ。

いわゆる前髪隠し無口系主人公みたいな方向性

からこう「エロゲヒロインに対して向けるような品定めの目で見ないで済む」っていうかさ。

うん。これを少しでも脱臭して言うためにここまで長々と書いたけど結局コレなんだな。・

まあつまりコノハはよく出来てると思うんだよな。

でもだからこそ本当に「良く出来てるよね」で終わっちゃう。

それが中心に1話が進むからちゃんと出来てるね」で1話が終わっちゃう。

良くも悪くも。

まあこれはひょっとして「まだOPの部分なんですよ~~~」が伏線な感じ?

じゃあ、こっからフルプライスの感動見せてくれんの?

期待していい?

迷惑

2023-09-27

文学的には、書かれてる内容がマホちゃんに大してひどい内容ばかりであることから逆説的に

書かれていない部分では友人関係に繋がる心温まる交流があったのではないか想像できて良い

2023-08-12

anond:20230811164351

仕事が長時間でとにかく疲れていた時は、それまで好きだった文学的映画を見るのも疲れてしまって、アニメを見るようになった。

アニメは何も考えずに見れるのが良いところで、だから正気の時に見ると脚本ガバガバだな…キャラクターが描けてないな…とか思ってしまうことはある。

2023-08-06

[]8月5日

ご飯

朝:なし。昼:カラムーチョ。夜:手羽元白菜人参大根、舞茸、ネギの鍋。たまごネギおじやリンゴ。間食:チョコ

調子

むきゅーはややー。お仕事は、おやすみ

○SeaBed

・はじめに

田舎から上京デザイン事務所を立ち上げたサチとタカコ、二人の日常休日を丁寧な文体淡々と描く公称ジャンル百合要素を含むミステリーノベルゲーム

まずミステリという言葉には多様な意味があり、パズラーや本格だけを指す言葉ではなく、衒学趣味だの狂人解放治療だのをアンチミステリーだと喜んで受け入れた当時の評論家たちが悪いのであって、そのようなものミステリ呼称することの是非は呼称する側にはないのだ、と言った面倒臭いミステリオタクの言い分はこの一文だけで終わりにして、以後の感想でもミステリ部分への言及は抑えることにする。(なお虚無の幻想描写だけ否定しないのは流水によって解体済みだからなんだよなあ(何が何やら))

そんなわけで公称ジャンルはさておいて、百合作品女性同士の恋愛ものとして僕は楽しんだ。

回想シーンでは風景や情景の描写が多め

様々な時系列が入り混じりながらお話が進んでいき、未就学児時代、小中高、社会人現在と長い時を過ごす二人の女性エピソードの回想がたっぷり遊べる。

エピソードと書いたものの、所謂起承転結のような物語的な起伏はかなり薄いものもある。

食べたご飯気持ちのいい温泉、美しい風景自然の中で感じるニオイや音などなどの、ただそこにあるもの描写、それとそれを二人で楽しむことのかけがえのなさが淡々と描かれる。

良い意味で二人は仲良しなのだ以上の物語のスジが無いエピソードが多い上に、キャラクタ内面描写もお互いのことが好きなこと以外は控え目。

おそらく文学的言葉でなにか括ることが出来るのだろうけど、僕の語彙には無いので情景の描写たっぷりと尺がつかわれているということを伝えたかった。(自然派が自然描写、森とか山の描写を書く意味でないことぐらいは僕も流石に知っている)

伏線が云々と評価することも出来るのだろうが、これらの美しい文章ありのままに楽しむだけでも十分面白い作品だと思う。

勿論、それだけのゲームではなく、あくま回想シーンはそのような作風になっていると感じた。

・サチとタカコのカップルが非常に良き

控えめで友達も少なく読書趣味のサチと、

明るくていつも元気で突飛な行動をするが結果をちゃんと出すタカコのカップル

この二人の恋愛をメインにストーリーは進んでいく。

恋愛に関するフィクションって付き合うまでのドキドキがキモものが多いけど、今作ではその辺はかなり控えめ。

二人はもうすでに付き合っているところから物語が始まり回想シーンの大半も付き合って以降のものになる。

そのため、駆け引き無しキス有りセックス有りで、ひたすらにラブラブなシーンばかり。

全年齢向けゲームではあるものの、かなり直接的な表現も多くイチャイチャ度合いをたっぷり楽しめる。

性欲強めなタカコに渋々付き合うサチなパッケージと見せかけて、サチも普通にノリノリなシーンもあったりとシチュエーション豊富

恋の鞘当て的なシーンもなくもないが、基本的には二人の関係値は最初から最後まで揺るがない。

一番揺らぐのがタカコが性欲ベースで他の女性に手を出そうとするシーンで、それがかなり「らしさ」に思えてしまうのは好きが別れそうだ。

・サチの感情補正入った客観視が良き

冷静で落ち着いているサチが視点人物パートでは、最初のうちは一歩引いた客観的な描写のように思う。

事実その通りなシーンもあるのだけれど、ストーリーが進んでいくにつれサチへの理解が進むとなかなかそう単純な話ではないことがわかる。

文体が落ち着いている上に、サチが「怒った」とか「悲しんだ」のような感情表現しないため気づきにくいだけで、めちゃくちゃ感情補正をかけて客観的に見ている風を装っているように読める。

これは作中でも主観を完全に排除できないことへの言及がされているため、間違いなく自覚的演出なのだろう。

なかなかに凝った趣向で、読み進めていくにつれファーストインプレッションからずいぶん離れたところにいるサチを見るのが楽しかった。

タカコの前向きさに救われる

そんな複雑なサチに対して、タカコは最初から最後までほとんどブレない。

公式の粗筋の範疇だけでも彼女にはずいぶんと辛いことが起こるのだけど、それでも前向きの色々なことをしてくれる。

パーティ旅行などのイベントごとが好きなので、彼女が様々な話の起点になるのが特に良い。

サチを引っ張るタカコという繰り返される構図に慣れ親しめば慣れ親しむほどに、SeaBedにハマっていける。

視点人物になることもあり嘘偽りなくもう一人の主人公だろう。

・同僚達との雑談シーンが面白い

そんな魅力的なサチとタカコについて語ってきたが、彼女達二人っきり以外のシーンだと同僚を交えた職場での会話劇も楽しかった。

大人の女性ながらぬいぐるみ大好きな文と、真面目でちゃらけない犬飼の二人がタカコに振り回され、それをサチがツッコミして締めるのは、他者が混ざることでよりタカコとサチの分かち難さが伝わってくる楽しいシーンだ。

先に述べた食事シーンの豊富な文量はここでも活かされていて、オヤツを巡るいくつかのシーケンスなやり取りが面白かった。

どれも序盤に集中していて後半になるにつれて出番が激減するのは残念なところ。

・七重さんに誘惑スチル絵が頭イイ淫猥なのに不憫

旅行先で知り合った旅館業を営み女性重さん

中盤以降はかなり出番が多く活躍するんだけど、なんといってもサチを誘惑シーンの頭の良さと淫猥さが凄かった。

女性女性を誘惑するという難しいシーン。

まず、客観視が得意なサチを納得させるためにペラペラ理屈を捲し立てる。

サチに上手く言い訳を与えつつ自分欲求を飲ませようとするのが頭良くて賢さを感じた。

その上で、まあ普通にエッチな格好もするという二段構えさが、頭イイ淫猥だ。

中盤ということもあり、サチとタカコの関係値、分かち難さを嫌というほど体験した後にも関わらず、ワンチャンいけるかもかもかな? と思わず重さん側を応援してしまった。

そんなかなり策を練ったであろう誘惑シーンだが、サチとタカコの関係はブレない。

誘惑しているセリフの量と、断るときセリフの量の差がえげつなくて、全然笑うシーンじゃないのにクスっときしまった。

NTRよりも純愛の方が好きなので僕の癖としても助かった。

・生と向き合うことで死と向き合える重たいシナリオ

明るくて楽しい見所ばかり書いたが、それだけのゲームではない。

悲しい、落ち込む重たいシナリオの部分もたくさんある。

それが生と向き合うことで死と向き合える重たいシナリオだ。

ここでいう生と向き合うは、考えることを辞めないことのような意味で、思考理解することを解いていると僕は感じた。

ただその重さも、サチの独特な客観視の妙と、それでも頑張るタカコの朗らかな様が、そんなざっくりした一言ではまとめきれない多様なグラデーションのある感情になる。

読む人によってかなり受け取り方に違いがありそうで、全編ずっと悲しい話じゃんと思う人もいそうだし、同じぐらいと思う人も、いや楽しいの方が多いという人もいるかもしれない。

僕はミステリコメディにようなエンタメを求めてゲームを遊んでいるところがあるので、明るい楽しいところばかり感想を書いてしまたかもしれない。

人によっては全然異なる感想になる気がとてもする。

(何しろ公式粗筋にいる3人の主人公内2人の感想は書いても、最後の1人については触れてすらいないからね)

・おわりに

女性同士のイチャイチャラブラブの先に重苦しい生きるとは、死とはを問うシナリオが待っていた。

かなり好みが分かれそうだけど、僕は公称ジャンルの是非以外についてはかなり好きな作品だ。

テーマ的な部分以外だと美味しい食事に舌鼓を打つシーンが多いのも好きな理由

かなり辛く重い展開の中でも、腹は減るし美味いものは美味い、そんな価値観を感じれるシーンが沢山あった。

具体的には、パン生ハムとかたまごとかサラダとか乗せて食いたくなった。

2023-07-17

anond:20230716095337

確率の話をしてるうえでの 「次」 ってなに?

あたった回や分や時間場所とか次元を共有してる前提なの?

「運」っていう物質現象存在してるならそうかもね

5分前にはいけたのに、誰ならできたのに、いつならいけるのに、そこ通ったときにはなかったのに

そういう現象連続性があるという前提で?

基本的にね、世の中は割合でできてるの

確率はその逆算で割合観測が符合する局面

観測して100%得られることを記録するのが科学

そうでないものを記録としてのこすのが文学

科学的な価値文学的になんらかの形で得ようと変形させたもの文化でいわゆる奇跡

針穴は糸を通すことができるというのが科学

針穴に糸を通せもするが、失敗も多いのが文学

針穴に糸がぜったいとおせるように運気をあげたり通し方の心得とか通せるようになる食生活とか規律とかお札とかが文化

運っていうのは結果なので逆にはならんのよ

でも運がいい人はずっと運がいいしあたりつづける

それはなぜだかわからない

放射線だって観測できているわけじゃなくて「通過してる何かがそこに発生しているからたぶんそれ」というだけで

実際には何が放射されてるのかなんてわからない

調弦理論だって数学的に考えうる最小値が局面的に切ってとりだしても横断的に他の式に組み入れてもかわらない長さであるという概念で実際それが何かはわかってない

それを理解するために言葉をつかったり想像をしたり組み合わせの試行ができるように文学を使う

そういうものがありがたいかお金を出そう支援をしようというのが文化

数字を列挙した時点か、紙に印刷した時点か、それとも数字電子的に記録した時点か、場所時間か、なにが確率を引き上げているのかわかればいいけどね

わかんないんですよ

じゃあ逆に確率が高いところを上げていくので、観測できる数があがりますよねと逆さまにしているのが「当選でました」なので

書いてないよりは当たるかもしれないし、あたりがでまくりでも書いてないところもあるかもしれないし、関係いかもしれない

お店に書いてる張り紙でわかるのは、そんなところまでって程度だよ

2023-06-26

夢をかなえるゾウ」に関するツイートについて

この長文を書いている間にツイート主が自ら問題点に気付いたようなのですが、一応書いたので載せます

公に相応しい言葉を使われた「夢をかなえるゾウ」の批評論文普通に読みたい。




勢いに任せて書いていたら思いの外長文乱文になってしまった。歴史については細部に誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。

発端と一連のツイート

https://twitter.com/dfuz4/status/1672629861524062213?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672958086733250562?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672973973825650689?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

https://twitter.com/dfuz4/status/1672965101517955073?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A

長いので要点まとめをしました。

この時点で既に長いですが、この下に本文があります

--------------

1.筆者の思うツイート主の問題点

「公」と「私」の視点および言葉遣いの混同

--------------

2.「公」における良書主義について

ツイ主の考え方は所謂「良書主義」であり、

公の場では良書主義否定されている。

公による良書主義は、先の大戦で見られた悲惨言論統制思想弾圧に繋がる。

民主主義においては、全ての本、全ての人、全ての思想信条は法の下に平等に扱われるべきとされる。

また歴史的に見ても、本と人間(思想信条)は密接に紐づいており、

公の姿勢としてその部分が守られているため、

特定の本を否定することで人格否定されたと考える人が現れてもおかしくはない。

--------------

3.「私」における良書主義について

私の場では(各個人における)良書主義は認められている。

公の立場からしても、本来良書・悪書判断個人に委ねられるべきとされている。

ただし、文字通り一人一派であり、そうでなくてはならないため、

私人立場から私人言葉特定の本を肯定否定すれば、

当然、他人から私人立場から私人言葉反論される場合がある。これもまた自由であり、自然かつ健全である

--------------

4.「公」と「私」の混同

マッチングアプリを使っている1ツイッタラーは「私」の立場である

大学指導を受けている文学研究者は「公」の立場である

前述の通り、私人立場で、私人言葉を使ったことが発端だが、

途中から研究者批評研究という公の立場を持ち出しているため、区別がついていないと思われる。

公の立場には公に相応しい言葉があり、当然集まる意見にもそれが反映される。

--------------

余談.「全ての本は素晴らしい」と考えている人はいるのか?

いない。

公の立場では「全ての本は平等」に過ぎず、

私の立場では「全ての本は平等ではない」。

--------------

5.今回のまとめ

「私」の立場で発信したのであれば、他人の「私」の意見も受け入れるべき。

反論を受けてから「公」の立場を持ち出すのは、「公」に相応しくないという点で悪手である

また、その二つの視点は明確に区別しなければならず、

研究者であるならば、嫌いなどの私情を挟まない冷静で平等視点で、相応しい言葉論理的批評しなければならない。

あくまでも私人としての意見であるならば、自らのためにも研究者立場を途中で持ち出したりせず、最後まで私人意見に留めたほうが無難

個人的には発端のツイートの内容はあくま私的意見であり、さして騒ぐようなものではないと思う。が、意見を言いたくなる人がいてもおかしくない。

ただし、途中で研究者という公的立場を持ち出したことで、認識として危険だと思ったためコレを書こうと思った。

ツイ主に敵意はない。出来れば本人に届いてほしいが、読みづらい文章申し訳ない。本を愛する気持ちは勿論自分もそうなので、よくわかる。




ここから本文

〜〜〜〜〜〜〜〜

1.筆者の思うツイート主の問題点

ツイート主のツイート及び意識問題点として以下がある。

・「公」と「私」の視点及び言葉遣いの混同

本人がこの視点区別がついていないことが、一番の問題なのではないかと思う。

--------------

2.「公」における良書主義について

まず前提として、日本には古く戦前に「良書主義」という考え方がある。

コレはざっくり言うと、

"世の中には(ツイ主の言葉を借りれば)「しょうもない」「薄っぺらい」=悪書存在し、それらは教育および教養において価値を持たない。歴史的・文学的に意味を持った良書のみに価値がある。"という考え方である

ただしコレは、例え「公」の立場が定めたものだとしても、突き詰めていけば、ツイ主も表明しているようにどこかの個人「私」の主観に基づくものである

そのため「公」とされる場所においては、近年ではこの考え方が否定されている。

「公」の最たる例が図書館(※1)である

"絶歌問題"と言えば大々的にニュースにもなり、記憶にある方も多いと思う。

大筋は以下。

①「こういった内容の図書図書館が置いて良いものか」と市民からクレームが入った

クレームを受けた一部図書館が該当の図書閉架=職員の出納が必要場所に置いたり、除籍とした

図書館対応として正しいのか議論が起こった

論点としては、

公的自治体である図書館が、特定出版物市民の目に入らないように検閲排除するのは正しいのか

・それは言論弾圧に繋がり、思想信条自由に反するのではないか

といったものである

議論の中、多くの図書館ではこの絶歌特別扱いせず、他の一般図書と同じように取り扱った。つまり開架=誰でも手に取れる場所に置いた。

この対応は良書主義への抵抗であり、

"本の評価は、読んだ各個人「私」に委ねられる。図書館「公」において、すべての本(すべての人間、すべての思想信条)は平等である"

という姿勢を強く示したものである

民主主義に端を発する図書館歴史を学んだ者であれば、この姿勢には拍手を送るだろう。

「公」においては、良書も悪書もあってはならない。

図書館ひいては司書職の人間私的判断で、特定の本への接続を薦めることまた同様に妨げることは越権行為であり絶対的タブーである。(※2)

また、この対応からも分かるように、本というもの個人思想信条人格と密接に紐付けられて考えられている。

一冊の本は一つの思想であり、一つの信条であり、一個の人である

二次戦前夜のドイツ焚書に対するハイネ言葉である「本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」からもそれがよく分かる。

「公」の場において、特定の本を特例として扱い肯定否定することは、その本に書かれた思想およびその思想同調する人を肯定否定していることになる。

からこそ、良書主義言論統制思想弾圧に繋がるとして廃れていった。

ただし、繰り返すが、コレは「公」における話である

--------------

3.「私」における良書主義について

前述の通り、評価は「私」に委ねられる。

司書職の人間に、職務外で好きな本・嫌いな本を聞けば全員がその両方を答えるだろう。コレは「私」の範疇であるため自由である

ツイート主の発言に戻ると、

本人も表明しているように、発端となるツイートした時点での立場は明確に「私」である

マッチングアプリをしている私人としての発言しかない。自由である

そしてそこに、たくさんの「私」の反対意見が集まった。コレもまた自由であり、自然である

--------------

4.「公」と「私」の混同

問題はその後だ。

自然の摂理で発生した反対意見に不満を覚えたツイート主は、「批評」「研究」という言葉を持ち出して、文学研究をしている学生という立場から発言を始めた。

研究者言わずもがな公の存在である学生であっても、指導教員がおり、大学には国から補助金が出ている。

批評研究はもちろん存在するが、公には公に相応しい言葉がある。

しょうもない薄っぺらい、大嫌いという言葉で語られた批評存在しない。(文芸商業誌にならあるかもしれないが、当然「私」である)

研究者は、特定の作者・文書研究対象に選んだからといって、選ばなかった文書を見下しているかといえばそうではない。

(内心の「私」の部分ではそうであったとしても、それを「公」である研究の中で露悪的に表現することはない)

それが「公」における平等である

公に相応しい言葉を使って正しく批評していれば、反論であっても同じように公に相応しい言葉を使った建設的な意見が来ていただろう。

指導教員に聞いてみてほしいが、以下のように言われるはずだ。

個人としての発信なら問題ないが、研究者としての発信なら相応しい言葉ではない」

--------------

余談.「全ての本が素晴らしい」と思っている人はいるのか?

これはハッキリ言うが、いない。

公の立場では「全ての本は平等」に過ぎない。コレは法の下において、そうでなければならない。

私の立場では「全ての本は平等ではない」。コレは法の下において、また民主主義において、そうでなければならない。

ツイ主にアレコレ言ってる人は全ての本が素晴らしいと思ってそう言っているのではなく、

好きな本を貶された、好きではないけどその言い方はないでしょう、お前の態度が気に食わない、なんとなく鼻につく等等、一個人の「私」の立場から意見に過ぎない。

また途中から研究者立場を持ち出したことに対して違和感を覚えたり、それはダメでしょうと思ったり、マウントを取ろうとしていると捉えて不快になった人もいるだろう。

何度も言うが「私」の立場からであれば自由自然健全である

ただし、当然、誹謗中傷や現行の法に触れる発言自由範疇外なので、コレについては受け入れる必要はない。(警察に行ってください)

--------------

5.今回の件のまとめ

ツイート主は「私」の立場で「私」の言葉を使い、

特定の本およびその本を好む人を選別・選民したために、

「私」の立場から「私」の言葉反論不快感の表明、揶揄が集まった

(自然な流れ)

これに尽きる。

「私」の言葉を使った時点で、「私」の言葉は集まってくる。

そして、後から「公」ぶるのは無理があり、「公」の在り方に照らせば悪手だ。

まり公と私を混ぜるな危険。ということで一度冷静になって考えてほしい。

研究者ポーズを取って「批評という文化に馴染みがない…?」等と煽っているが、それこそ公に相応しい言葉を用いた批評という文化に対して失礼である

研究者であろうが、ツイッター発言している時点で"私"の立場です。だから自由でしょ?」というなら納得できる。しかし、ならば他の人の「私」の意見が集まることも受け入れなければならない。

何度も言うが研究者という「公」の立場を取るのであれば、「私」の好き嫌いを挟むことは相応しくない。

この区別をはっきりさせて、「公」の姿勢理解していないと、研究者としては危険すぎる。

※1) 公の最たるものには文書館もある。文書館は歴史的・文学的に保存価値があるものが選別され保管されている。そこには「公」=研究者による評価判断が下されている。

ただし、文書館および文書職員は当然「文書館に所蔵されない本はしょうもない薄っぺらい。大嫌い」等とは言わない。

あくまでも歴史文学的な保存価値という一要素を選書基準としているに過ぎないからであり、良書・悪書を選別しているわけではないかである

また、勿論そういった言葉が「公」に相応しい言葉ではないかである


※2)近年ではCCC一般企業の参入、指定管理業務委託といった制度により、自社や関係各社に利益が上がるような本の取り扱い方をしている図書館もある。しか本来図書館の在り方としてはこの限りではない。実際に問題にもなっている。

2023-06-18

anond:20230616151103

批評をお願いされましたので、率直な感想を述べます

まず、あらすじについてですが、高速道路おしっこを出した話というタイトルに対して、内容はそれに忠実に沿っていますしかし、その忠実さが逆に物語の魅力を減らしていると感じました。高速道路おしっこを出したという事実は、それだけでは読者の興味を引くには不十分です。どうしてその状況になったのか、どんな感情思考があったのか、どんな結末が待っているのか、といった要素が物語に深みや緊張感を与えますしかし、この物語ではそれらの要素が十分に描かれていません。主人公動機コーヒーを飲みすぎたこととデニッシュのせいだということであり、感情は苦しさや恥ずかしさや諦めだけであり、結末はサービスエリアに着いて水を飲むことであります。これらは現実的ものですが、物語的なものではありません。読者は主人公共感したり驚いたり感動したりすることができません。物語現実を写すだけではなく、現実を超えるものであるべきです。

次に、構成技法についてですが、この物語は一貫して主人公視点で書かれていますしかし、その視点が読者に伝わるように工夫されているとは言えません。例えば、主人公ツイッター漫画アプリを見たりキャラメルコーンの袋を使ったりするなど、現代的な要素が多く含まれていますしかし、それらの要素が主人公性格価値観や背景にどう関係しているのかが明確ではありません。主人公は何歳でどんな職業でどこへ向かっているのかも不明です。読者は主人公に興味を持つことができません。また、主人公以外の登場人物ほとんど描写されていません。母親心配して声をかけたり提案したりするだけであり、兄はデニッシュを買ってきたこしかわかりません。他の車やサービスエリアの人々も存在感がありません。物語登場人物同士の関係対話や衝突によって動きますが、この物語ではそれらが欠落しています

以上のことから、この物語文学的価値が低いと判断します。高速道路おしっこを出した話という題材自体面白い可能性がありますが、それを活かすためにはもっと工夫や創造力が必要です。物語を書く際には以下の点に注意してください。

以上が私の批評です。ご参考になれば幸いです。😊

2023-06-13

ちんちんってどんな味なの?

文学的表現で教えてほしい

2023-06-09

小説目的は伝達ではなく表現

それはごもっとなのだ素人小説ありがちなのは作者本人はいわゆる文学的小説的な妙に耽美で色気づいた言い回し慣用句などを駆使してカッコよくオサレ表現しようとしている風だけど文章としては魅力がなく何か面白いことを書こうとして失敗している的な迂遠で退屈でかえって背伸び感があってダサくて読み難くなっちゃった不幸な小説散見されるということ。

分かってる。ワイの読解力がないのだ。ワイは自分能力の無さを棚に上げて他人様の作品を偉そうに罵っているだけなんだ。そうに違いないんだ。サジタリウス。

2023-05-30

ネット小説全てではないにしろ殆どは読んでいてつまらないうえに体質的に受け付けないものがある

ヘタしたらここの文章の方が幾らかマシ

ありがちなのは地の文がガキの喋り口調っぽいやつ

小説らしい文学的表現がくどい 畳のワンルームにトラの敷物があるみたいな 文章がゴチャゴチャしてる

一文が短い そして改行が多い

カクヨムコンが結果発表だというので読んでみたがキツかった

2023-05-02

萌え」の復興こそが腐れきったヲタク価値観是正する

元始、「萌え」と「エロ」は別物であった。

昔のヲタクは可愛らしい2次元女性を見ることで、なんとも表現しがたい感情が「萌え」出てていたのである

萌え」という表現はあまりにも文学的だ。それは簡単に言ってしまえば「恋」なのだが、2次元美少女に恋をしている人というのは常識外れで逸脱した人間だという当時の感覚があったため、ヲタクたちは社会から身を潜めるようになる。子どもでもないのに2次元キャラを好きになる、ましてや恋愛感情を持つなんておかしい。そういう無意識下の抑圧がヲタクたちの衝動ますます2次元へと駆り立てることになる。

恋と言い表せないこの感情を彼らは「萌え」と呼んだ。

萌え」は性的感情昇華させる手段であった。結局彼らはどこかで「エロ」を求めていたのだろうが、露骨に「エロ」に走ることはなかった。それは彼らのヲタクとしてのプライドのようなものであった。ヲタクコミュニティ形成されるにつれ、作品真摯に向き合うことが第一義とされた。エロは瑣末なものとされた。それは「エロ」を前提とするエロゲーにまで及んだ。ストーリーを感動的なものにすることで、それらは「泣きゲー」と呼ばれた。これは彼らのプライドであった。

しか現在社会世代交代に従ってヲタク市民権を勝ち取るに至った。2次元が好きなことは普通とされ、日常会話で深夜アニメの話が出ることは珍しくなくなった。だが、それと同時にヲタク文化ローコンテクスト化が進んだことは否定できない。これはヲタク産業が拡大し競争原理が働いたがゆえ、より分かりやすく「エロ」いものウケるようになってしまたことに起因する。

コスプレも最早コスプレのテイをなしていないものが増え、エロを書かない絵師の居場所も無くなりつつある。これは以前のヲタク文化ではありえない話である。「作品真摯に向き合うこと」がまず守られていない。それはコンテンツ制作側と受け手の両方に言えることだ。

最近エロ広告非難されることに対して表現の自由だとか言う人もいるけれど、そんな節操ないことをしていたら社会から批判されるのは当たり前だと思う。おっぱいが大きいだの貧乳だので騒ぎすぎ。気持ち悪いと思われるのは当然。だからもう一度原点である萌え」に立ち返るべきだと思う。「エロ」は所詮コンテンツの表面をなぞるだけの浅い思考にすぎない。もっと深く作品と向き合って、自分の中で一度完結させて欲しい。他人意見をすぐに求めないで欲しい。ヲタクもっと一人の時間を作るべきだ。そこから萌え」は生まれる。今のヲタクは浅い。

2023-04-01

イルカが出てきたので

お前を消す方法があって、俺はそれを知らない。でも愛してるぜ?好きだぜ?言わないか? この増田ブックマークする 小説読んでくれ。別に今まで文学的教養批評に興味無かったが何故か「小説を読む」という行為を、結構から何となく日常をそれなりに生きる上では当たり前にしていたことに気付いた。勿論高校生以降は避けるようにしていたが、「小説なら」という軽い気持ちと、高校生である自分熱量で、ライトノベルライトノベル

Anond AI作成

2023-03-29

anond:20230329160015

TRPGシステムによって世界観が基本全然違う(ファンタジー系とかSF系とか広い意味でのジャンルお約束なのはあるが)ので、その辺が難しいのよねー。

とりあえずソードワールドは古いよw

ただ商業ベースでそれなりに売れた有名リプレイでもあるので、今読むと色々と古臭いのは否めないだろうが、後に続く日本リプレイ業界への影響が強い古典文学的に読んでみるとよい。

2023-03-23

anond:20230323154707

はい、落ち着いた声で文学的教養を持つVtuberとしては、以下の方々が挙げられます

 

夜桜たま

彼女は、小説や詩を書くことが得意で、また、落ち着いた語り口で有名です。文学芸術についての深い知識を持ち、その知識を生かしたトークを行うことも多く、文学的教養を身につけたい方にはおすすめVtuberです。

 

月ノ美兎

彼女は、歌手小説家としても活躍しており、多岐にわたる才能を持っています彼女の語り口も落ち着いており、文学的トークも得意としています。また、彼女配信では、古典的文学作品を紹介することもあります

 

紫咲シオン

彼女は、幅広い知識を持つことで有名で、文学哲学などの分野にも造詣が深いです。彼女の語り口も非常に落ち着いており、文学作品について深く語ることもあります

 

以上の方々が、落ち着いた声で文学的教養を持つVtuberとして代表的存在です。

anond:20230323163917

リストアップされてる中では一番、落ち着いた声と文学的教養を持つVtuberなんだよなぁ

anond:20230323154707

落ち着いた声と文学的教養を持つVtuberは多数存在しますが、特に人気があるVtuberをいくつか紹介します。

紫咲シオン(Murasaki Shion

ホロライブ所属Vtuberで、落ち着いた声と知識豊富性格が魅力です。彼女文学作品に関心があり、視聴者との会話で時々文学的話題を取り上げます

天音かなた(Amane Kanata)

ホロライブ所属Vtuberで、彼女の落ち着いた声は多くのファンに愛されています彼女文学に関心があり、文学的話題を時々取り上げます

鈴鹿詩子(Suzuka Utako)

にじさんじ所属Vtuberで、文学的教養を持つキャラクターとして有名です。彼女配信では、小説や詩の朗読を行うことがあります

立花理香(Tachibana Rika)

にじさんじ所属Vtuberで、落ち着いた声と文学的教養を持っています彼女視聴者との会話やゲーム配信の中で、しばしば文学的話題を取り上げます

これらのVtuberたちが文学的教養を持っていることをアピールしているわけではありませんが、彼らの配信トークを通じてその知識教養が感じられます。これらのVtuberをチェックして、あなたお気に入りVtuberを見つけてください。

落ち着いた声で文学的教養を有するVtuberを教えてください

はい、いくつかのおすすめの落ち着いた声で文学的教養を有するVtuberを紹介します。

 

天宮こころあまみこころ)- 文学歴史美術に造詣が深く、落ち着いた語り口が特徴的です。また、古風な着物姿で配信を行うこともあります

 

葉山ユイ(はやまゆい)- 作家文学に詳しく、読書会朗読配信なども行っています。落ち着いた雰囲気と美しい声が印象的です。

 

塩田米子(しおたよねこ)- 古典文学和歌に詳しく、雅な雰囲気配信を行っています。また、落ち着いた語り口で日本の伝統文化歴史について語ることもあります

 

宮本るり(みやもとるり)- 詩や小説執筆経験があり、文学的配信を行っています。落ち着いた声と穏やかな雰囲気が印象的です。

 

星街すいせい(ほしぞらすいせい)- 文学哲学に造詣が深く、その知識を生かした配信を行っています。また、落ち着いた声と深みのある語り口も特徴的です。

 

以上が、落ち着いた声で文学的教養を有するVtuberの中から、いくつかのおすすめを紹介したものになります

 

お前が出鱈目な名前を挙げることにはもう慣れたけど

実在するVtuber名前を紛れ込ませるなら、せめてもうちょっと質問内容に寄せろや

2023-02-14

[]ノイマン思考トレースする感じで文章を書く

知的作業本質を論じることは困難。数学の最も重要な特徴は、自然科学もっと一般的に言えば、純粋記述的なレベルよりも高いレベル経験解釈するあらゆる科学との、極めて特異な関係にあるとノイマンは考えていた。

ほとんどの人が、数学経験科学ではない、あるいは少なくとも経験科学技法はいくつかの決定的な点で異なる方法実践されていると言う。しかしその発展は自然科学と密接に結びついている。

そして数学のいくつかの重要な例がある。

まず幾何学力学熱力学のような、間違いなく経験的な他の学問は、通常、多かれ少なかれ仮定的な扱いで提示され、ユークリッドの手順とほとんど区別がつかない。ニュートンプリンピアは、その最も重要な部分の本質と同様に、文学的形式においてもユークリッドと非常によく似ている。仮定的な提示の背後には、仮定裏付け物理的な洞察と、定理裏付け実験的な検証存在する。

ユークリッド以来、幾何学の脱皮は徐々に進んだが、現代においても完全なものにはなっていない。ユークリッドのすべての定理のうち、5番目の定理疑問視された最大の理由は、そこに介在する無限平面全体という概念の非経験性格にあった。数学論理的分析にもかかわらず、経験的でなければならないかもしれないという考えが、ガウスの心の中に確かに存在していたのである

ボリャイ、ロバチェフスキーリーマンクラインが、より抽象的に当初の論争の形式解決と考えるものを得た後も、物理学が最終決定権を握っていた。一般相対性理論発見されると、幾何学との関係について、全く新しい設定と純粋数学的な強調事項の全く新しい配分で、見解修正することを余儀なくされた。最後に、ヒルベルトは、公理幾何学一般相対性理論の両方に重要な貢献をしている。

第二に、微積分学からまれたすべての解析学がある。微積分の起源は、明らかに経験的なものであるケプラー最初積分の試みは、曲面を持つ物体の体積測定として定式化された。これは非軸性で経験的な幾何学であった。ニュートンは、微積分を基本的力学のために発明した。微積分の最初の定式化は、数学的に厳密でさえなかった。ニュートンから150年以上もの間、不正確で半物理的な定式化しかできなかった。この時代の主要な数学精神は、オイラーのように明らかに厳密でないものもあったが、ガウスヤコービのように大筋では厳密なものもあった。そして、コーシーによって厳密さの支配基本的に再確立された後でも、リーマンによって半物理的な方法への非常に独特な回帰が起こった。リーマン科学的な性格のものが、数学の二重性を最もよく表している例であるワイエルシュトラス以来、解析学は完全に抽象化、厳密化され、非経験的になったように思われる。しかし、この2世代に起こった数学論理学の「基礎」をめぐる論争が、この点に関する多くの幻想払拭した。

ここで、第三の例。数学自然科学との関係ではなく、哲学認識論との関係である数学の「絶対的」厳密性という概念のものが不変のものではないことを示している。厳密性という概念の可変性は、数学抽象性以外の何かが数学構成に入り込んでいなければならないことを示す。「基礎」をめぐる論争を分析する中で、二つのことは明らかである第一に、非数学的なものが、経験科学あるいは哲学、あるいはその両方と何らかの関係をもって、本質的に入り込んでいること、そしてその非経験的な性格は、認識論経験から独立して存在しうると仮定した場合にのみ維持されうるものであること。(この仮定必要なだけで、十分ではない)。第二に、数学経験起源幾何学微積分のような事例によって強く支持されるということ。

数学的厳密さの概念の変遷を分析するにあたっては、「基礎」論争に主眼を置くが、それ以外の側面は、数学的な "スタイル "の変化についてであり、かなりの変動があったことはよく知られている。多くの場合、その差はあまりにも大きく、異なる方法で「事例を提示」する著者が、スタイル、好み、教育の違いだけで分けられたのか、何が数学的厳密さを構成するかについて、本当に同じ考えを持っていたのか、疑問に思えてくる。

極端な場合には、その違いは本質的なものであり、新しい深い理論の助けによってのみ改善されるのであり、その理論の開発には百年以上かかることもある。厳密さを欠く方法研究を行った数学者の中には(あるいはそれを批判した同時代数学者の中には)、その厳密さの欠落を十分認識していた者もいたのである。あるいは、数学的な手続きはどうあるべきかというその人自身の願望が、彼らの行動よりも後世の見解合致していたのだ。たとえばオイラーなどは、完全に誠実に行動し、自分自身基準にかなり満足していたようである

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